夭折した君へ 第五章
父親が突然の死を遂げて以来、スザクはルルーシュのことを意識的にか無意識的にか、避けるようになっていた。スザクやルルーシュの周りで立て続けに起こる出来事が、あの神社に置かれていた遺書の日記と重なる。まるで、それが既に用意された人生の筋書きのようだと思わざるを得ず、恐ろしくなった。これ以上二人で行動するのは良くないんじゃないかと思えてきて、だからスザクはルルーシュを少しずつ避けるようになっていた。
ノアの方舟を予見したマヤ人の遺物を信じているわけでも、ノストラダムスの大予言や未来人の渡来、地球外生命体の侵略に怯えてもいない。スザクは基本的に自分の目で見たものしか信じようとしなかったし、初詣の神社参りだって形骸化された一種の様式のようなもので神様の存在を心から信じてもいない。信じる者は救われ、一方で信じない者の元へ人ならざるものは訪れないというなら、スザクから見える世界には神様も幽霊も地獄も天国も存在しないのだ。
だから一番信用できるこの目と体で、実際に見て体験してきたこれまでの出来事は、頑ななスザクを追い詰めるには易すぎた。あの遺書は自分たちの行動やこれから起こる不幸事を全て予言している、或いは、見方を変えればあの遺書の呪いがそれらの引き金を引いているとも言える。
既に起きたことに対してあの時こうしておけば、ああすれば、と後悔するのは人間の性であり業でもある。大事なのは過去を振り返り足踏みすることではなく、なったものは仕方ないからこれからどう対処していくかという考え方だ。だからそれに則り、スザクはルルーシュとほんの少し距離を置いた。
その"呪い"の作用はルルーシュかスザク、どちらか片方のせいと決めつける気はない。もし、自分たちが接触することでそれが作用するのであれば、敢えて試すように離れてみるのも方法のひとつだと言えなくはない。
スザクは父親が亡くなったにも関わらず翌日も普通に登校し、そのことが恐らくルルーシュには感づかれていた。だからルルーシュと顔を合わせることが気まずくて避けているとか、そういう意味ではない。多分、いや決してない。
梅雨が明ければ土から還った蝉たちが一斉に鳴き声を上げ始め、本格的な夏の始まりを知らせた。定期考査に追われている間に、気がつけばたっぷり課題を背負い込まされる夏休みが始まろうとしていた。
「えーっ、スザク夏休み遊べないのかよー」
「うん、今回は結構長期間で海外に行かなきゃいけないっぽくて」
「なんか旅行みたい」
一学期の終業式が終わり、ホームルームも終えた彼らとスザクは各々で生徒会室に集まっていた。課題の消化計画と夏休み期間に遊ぶ予定を組む彼らの傍らで、スザクは眉を下げながらそれらの誘いひとつひとつを断っていた。
「だってさ、ルルーシュ。俺たちだけで遊ぼっかあ」
「スザクは来れないのか」
リヴァルとスザクの遣り取りを聞いていなかったらしいルルーシュは、そんなふうにとぼけてみせた。最近ルルーシュを避けている自覚のあるスザクは、少し気まずい。
「仕事か?」
「うん、まあ…」
「ふうん」
ルルーシュはそれっきり、もう興味がなさそうに相槌を打って黙り込んでしまった。スザクの余所余所しい態度を詮索しない代わりに、ルルーシュのほうからも少し冷たい態度を取られている気がするのは、自業自得だろうか。
リヴァルがルルーシュを誘って、夏休みはどこに行こうかと話しているのをスザクは遠目で眺めていた。できることならスザクだってみんなと遊びたいのだ。
日本の夏祭りに、ルルーシュと一度でいいから行ってみたい。屋台が軒を連ねる人混みの中を、水を得た金魚のように彷徨い歩く。鉄板焼き屋から漂う香ばしい匂いと、射的の音やお化け屋敷から漏れる叫び声、あれが欲しいと親に強請る子供の声、そして祭りの最後はもちろん打ち上げ花火である。夜空に咲く満開の花たちは、来年も来れたらいいね、と名残惜しく囁くのだ。
「ねえ、あんたたちって喧嘩してるの?」
幼い頃、習い事で知り合った友人たちと行った夏祭りを回想していると、不意にカレンが話しかけてきた。
「別に喧嘩とかじゃないけど、ちょっと」
「ちょっと?」
「……何でもないから、気にしないで」
カレンが訝しげに顔を覗き込んでくるから、スザクは思わず苦笑いした。
それと同時に、リヴァルと話し込んでいたルルーシュがこちらを振り返ったが、何事もないようにすぐそっぽを向かれてしまった。
きっとルルーシュだって、スザクが冷たくしていることにはとっくに感づいているだろう。だがあの遺書のこともある。ルルーシュは気にしすぎだ、と言っていたがスザクにはどうも、そんなふうに切り捨てることができなかった。遺書に書いてあることと同じことが起こるだとか、そんな胡散臭いオカルト話、普段ならスザクだって真に受けない。だが実際に事故に巻き込まれたり、身内で死人も出た。そろそろ看過できないであろうこの問題を解決する糸口は、まだ見つかっていない。勝手に社の内部へ土足で踏み入り、祭壇を漁った罰なのだろうか。
学生の間は誰だって夏休みがあるが、軍人の身であるスザクにはないようなものだ。軍人といっても訓練や非常時の模擬戦闘、あとは海外に派遣されそれぞれの地でできる仕事、たとえば難民キャンプの設立や災害地の整備、人命救助といった類のことをこなすことが主だ。一昔前はこの日本もブリタニアとの戦いがあり、上空には戦闘機が飛び回り銃弾の雨が降り注ぎ、フレイヤと呼ばれる大量殺戮兵器爆弾により多大な死者を出したという。今ではすっかり日本を含めた世界各国が平和であるのだから、信じ難い話だ。飢饉や難民、テロや暴動、貧困と富裕層の格差、先進国も途上国も抱える問題に大小あれど山積みなのが現状ではあるが、それでも正義の元に人間同士が殺し合う戦争が起こっていないことだけが唯一の望みであり、救いだった。
夏休み期間は仕事とはいえ、すぐ隣の中華連邦やヨーロッパ諸国、そして今はブリタニアへ渡り訓練や救助活動を続けていた。ちょっとした世界一周旅行のようだった。学生気分が抜けていないと上司に怒られるだろうがそれでも、浮き立つ足は抑えようにもない。
せっかく初めて海外に来たのだから、少しの間だけ仕事のことは忘れて外の世界を見てきなさいと上司に言われたのが、今朝の出来事だった。
アッシュフォードのクラスメイトらやルルーシュは当然日本に居るのだから、スザクは一人で異国の地を歩くことになる。彼らは限られた夏の期間に思い出を作ろうと躍起になっているであろう傍らで、同じ学生であるスザクはこうして軍人として身を置き、ストイックに任務を遂行している。そんなスザクを憂いたのか慮ったのか、あるいは同情なのかは知れぬがそれでも、スザクは束の間の休日らしい休日を楽しむことにした。
都心の大通りに出ると、日本によくあるようなショッピングモールや高層ビルが連なっていた。これは恐らく日本がブリタニアの都心を真似ているのだろう、あまりその景観に差異はなく新鮮味に欠ける。
ショーウインドウに飾られたマネキンは若者風の服を着せられていたが、どこの国に行こうとその流行り廃りに、自分はやはり疎いんだろうなとスザクは再認識した。
予め休みを設定されていれば計画のひとつくらい立てられただろうが、休みを言い渡されたのはつい今朝の出来事だ。ブリタニアの観光地を巡ろうにも下調べもろくにしておらず、現地のガイドもない。とにかく道に迷うことだけはないように、スザクは交通の便が良い都心の繁華街を歩いた。
知らない音楽、知らない言葉、読めない文字の看板が溢れ返る街並みはまさに異国のど真ん中だ。夏休みの始めから海外の自衛隊拠点を転々としていたが、スザクがこうして一般人の生活を垣間見る機会はこれが初めてであった。だから感慨深さもひとしおである。
どうせならもっとお洒落な服を持って来れば良かったなと、スザクは行き交う人たちの姿を見ながら思った。都会はやっぱり着飾ったお洒落な人が多い。
とくに行く宛もなく、人の流れに従ってメインストリートを歩いていると、右肩に軽く、何かがぶつかるような衝撃があった。
「Would you like to come to our housewarming party?」
振り向きざま、見知らぬ女性に早口でそう尋ねられた。この国の言葉は、リスニングもスピーキングも自信がない。第一スザクは日本人である。言葉が通じないこと、現地人ではないことなどを慌てて弁明しようとしても、それを遮るように見知らぬ女性が早口で捲し立てる。
「Would you like to come with me?」
「の、ノーセンキュー……」
「Come with me!」
「いや、えっと僕は…」
相手が何を言っているのか理解できないが、イエスと答えたら良くないことはスザクでも何となく分かる。しきりにカモン、と繰り返していることから察するに、己をどこかに連れて行こうとしているらしい。どこに連れて行かれるのかは想像に難い。
「Excuse me?」
不意に、今度は背後から耳慣れない女性の声が聞こえて、スザクは慌てて振り返った。
今度は一体何が目的なんだろう、それともこの女性たちはグルなのか。
「僕は、アイム、ジャパニーズ…」
「あら?」
自分はブリタニア語はそこまで話せない日本人であることを主張しようとした折、その女性はスザクの顔を見遣った瞬間明るい声を上げた。
「いま助けてあげますから、私の話に合わせてくださいね」
桃色のロングヘアーを垂らしている同年代くらいの女性は、頼もしい口調でスザクに語りかけた。
「Where would you like to go after this?」
「ええっと、ヒアイズ…」
whereは場所を尋ねる際に使う疑問詞である。スザクは彼女に話を合わせるべく、適当な方向に指先を向けてそう答えた。
「Come with me!」
スザクの覚束ない返事を聞いた彼女は腕を引っ張って、最初に声を掛けてきた女性から逃げるようにしてその場を立ち去った。
人波に揉まれながら少し閑散とした路地に出ると、二人は同時にふうと息をついた。恐る恐る後ろを振り返るが、追ってくる人影は見当たらない。さきほどの何かの勧誘からはどうやら難を逃れたらしい。
あのまま立ち往生していたら今度こそ捕まって見知らぬ場所に連れて行かれていたかもしれない。スザクがこうして助かったのも、現地人と思われる女性のおかげだ。
スザクがその礼を言おうとしたら、真っ先に声を掛けてきた彼女の方が幾分も早かった。
「あなたってもしかして、日本人の」
「ええと、はい?」
「ああやっぱり、きっとそう! ねえ、貴方の名前は?」
彼女はスザクの肩を掴みかかる勢いでそう尋ねた。
名前を尋ねる前に自分から名乗るのが礼儀であろうと冷静に考えたが、助けてもらったのは自分の方だし、すっかり彼女に気圧されたスザクは素直に名乗った。
「枢木スザク、です」
「ああやっぱり、貴方がスザクなんですね!」
彼女はそう言うなりスザクの両手を握って、なおも興奮気味に言葉を続けた。
「一度でいいから会ってみたかったのだけど、まさか本当に会えるなんて」
恐らく人違いだろう。そう断りを入れようにも、彼女のはしゃぎっぷりを前にしたスザクは結局それを言い出せなかった。
スザクの記憶にないだけで本当はどこかで出会っていたのかもしれない。だがスザクが同年代の、ブリタニア人女性と会うとすればアッシュフォード学園くらいだ。自分の知る限り、彼女のような生徒が身の回りに在席していたような覚えもなく、やはり彼女とは初対面である。スザクはそう結論づけた。
初めて訪れた地で、異国の女性から有名人と勘違いされようものなら、大変対処に困る。パスポートなどの身分証を見せびらかすのも気が引けるし、説明しようにもどう言えばいいか分からない。ブリタニアで犯罪行為に手を染めた覚えもないから、少なくとも指名手配犯ではないはずだ。彼女とは日本語が通じることが不幸中の幸いである。
それとも先ほどの女性とグルか新手のナンパ、トラップだろうかとスザクが警戒し始めた折、彼女はようやく自らを名乗った。
「ええっと、私のことはユフィって呼んでくださいね!」
ユフィと名乗る女性は薄桃色の髪の毛を揺らしながら、そう微笑んだ。
ユフィはスザクの腕を掴んで、ショッピング街を練り歩き始めた。
スザクも考えるより先に行動する性質ではあるが、彼女のそれはスザクと同じでも少し種類が違っている。大人しそうな外見に反し、どこか威勢が良く無鉄砲な言動は見ていて危なっかしさもあるが、不思議とそんな彼女を放ってもおけず目が離せない。
「変な話、案内してほしかったのは私のほうなのだけど…。今回は特別に私が、スザクを案内しますから!」
彼女はそんな謂れのない強引さでスザクを引き連れ回した。つい先刻、道端での勧誘から助けてもらった恩もある。スザクは黙って、その細腕に身を任せることに決めた。
あそこへ行きましょう、とユフィが指差したのは日本でも有名なアイスクリームのチェーン店だ。スザクが日本でその店を見かける際は、大抵大きな駅中やショッピングモールの一角、フードコートに出店をしている。第一号店がブリタニアにあるらしいそのチェーン店はワゴンでアイスクリームを販売している。少し珍しい光景だが、ブリタニアではこういった販売形態が主流だそうだ。
早速彼女は流暢なブリタニア語で店員と会話し、アイスクリームをふたつ手にしてスザクの元へ歩み寄ってきた。
「これはキングサイズ?」
「いえ、スモールですよ」
スザクは驚きを隠せぬまま、彼女から手渡されたコーンアイスを受け取った。これが俗に言うブリタニアサイズかと目を見張ったが、そんな異国人のスザクの反応が珍しく面白いのか、隣の彼女は口元を抑えて笑っていた。
「次はあっちに行きましょう」
まだ一口しか齧っていないアイスを落とさぬよう、気を遣いながら再び彼女に腕を引かれれば、スザクは今更思い出したかのようにあっと声を上げた。
「アイスのお金…!」
「いいのいいの、貴方は私に付き合ってもらってるんです」
そういうことは本来、勧誘に絡まれて助け舟を出してもらった上に、ブリタニアの案内まで彼女にさせているスザクが言う台詞だろう。しかしスザクの主張は言葉になる前に、ほら早く! と急かす彼女の声に遮られて叶わなかった。
そのあとはユフィに連れられるまま女性物の服や鞄、アクセサリーを見て回った。あまりこういった店には縁がないから、少し緊張もした。
「どちらが似合いますか?」
ユフィは鍔の大きな帽子を目深に被り、スザクへそう尋ねた。いま彼女の頭にあるのは白、手に持っているのは黒だ。
「白いほうかなあ」
鏡を覗き込むユフィのもとへ、スザクも同じように覗き込んで見比べた。
肌も髪の毛も、色素の薄い彼女には色が白いほうがよく似合う。スザクが素直にそう所感を述べると、ユフィは少し照れくさそうに顔を俯けた。何事にも物怖じしない威風堂々とした態度とは裏腹に、こういった女性らしい面もあるらしい。
そうしているうち、スザクはあることにふと気がついた。内装も商品も若い女性をターゲットにしている店へ、男性であるスザクを案内するには相応しくないだろう。それどころか女性がひしめく店へ入店するのは、スザクでも少し気が引ける。
だが楽しそうにはしゃぐ彼女の横顔を見るからに、それはスザクを案内するというより、これはむしろ、
「君が行きたい場所に、僕を連れてってるだけですよね?」
「あっ、バレちゃいました?」
悪びれることなくそんなことを言う彼女は、まるで悪戯が見つかったような子供っぽい笑みを浮かべていた。
次はこちらへ行きましょうと彼女の腕に引かれると、今度訪れた、いや彼女が訪れたかったのはペットショップらしい。ファッションやアクセサリーといった、服飾関係の店が軒を連ねるビル街の一角に、その店はあった。外壁が一面ガラスで覆われ、その内側に何匹もの犬や猫が展示されている。服飾に関心のない人間だろうと可愛らしい生き物には心を惹かれるらしく、その店は一際人だかりが形成されていた。人だかりはまた新たに人を呼び、大通りを行き交う多くの人々が思わず足を止めているような状況だ。傍から見れば大繁盛である。
ウインドウのガラスにはその店で飼われている犬の顔写真から犬種、性別などが大まかに記載されている。おおよそ日本でも見かけるような犬種が多いが、時折馴染みのない種類もいるから、恐らくこれはブリタニア固有の犬なのだろう。日本で言うところの柴犬に当たるだろうか。
ガラスに鼻を寄せたり玩具で遊んだり寝そべったり、別の犬とじゃれ回ったり、水を飲んだり。その動きは多種多様で、行き交う人たちの目を飽きさせない。両手ぶんくらいの大きさしかない子犬たちは、大衆の人目も気づいていないのか、既に慣れっこなのか、とくに緊張したふうもなく元気に動き回っている。まだ成長途中の小さな耳と尻尾をぱたぱた振る姿は、実に愛らしい。
スザクもそうしてガラスケースの向こうに気を集中させていると、見てください! とユフィの声が聞こえた。スザクは思わず、反射的にそちらへ振り返った。
「その猫は一体……」
「店員さんに言ったら抱っこさせてもらえたんです。ねっ?」
彼女は胸に抱えた黒い子猫にそう語りかけた。
ユフィが店員と、いつの間にかそんな遣り取りをしていたらしい。全く気付かなかったスザクは素直に驚いたが成る程、展示してある動物を抱っこできるサービスもあるそうだ。
毛艶の良い猫は、それだけ店員の手入れがそれだけ行き届いていることを示している。長い睫毛に縁取られた双眸は、スザクのことを不思議そうに見上げていた。ユフィがそいつの小さな額を指で撫でると、気持ちが良さそうに目を細めてにゃうにゃうと鳴いた。
「スザクは猫が苦手ですか?」
「いや、僕は好きなんですけど」
猫を見つめたまま動かないスザクに、ユフィが恐る恐る尋ねた。動物が苦手で触れないのだと勘違いされているのだろう。
スザクは苦笑しながら、猫の小さな額に手を伸ばした。すると猫は穏やかな態度を一変させ、スザクの指先目掛けて噛みつかんばかりに暴れだしたのだ。一見大人しく、人懐っこそうな猫の変わり様にユフィもひどく驚いていたが、スザクにとっては慣れた話である。
「いっつもこうなんです。僕の片想いばかりで」
毛を逆立て警戒心を露わにする猫を見遣って、スザクはそう付け加えた。伸ばそうとしていた手を引っ込めれば途端に大人しくなるものだから、猫の機嫌を悪くさせた要因が自分にあることは明白だ。
ユフィは抱いていた猫を店員へ返し、二人はペットショップから歩き出した。次はあちらへ行きましょう、とユフィが腕を引くものだから、歩調を合わせるようにスザクも足を進めた。
その道中で彼女は振り返りざま、一言だけこう言い残した。
「スザク、知っていましたか? 片想いって、優しい人がするんですよ」
二人はそろそろ足休めにと、近くにあるテラスのカフェで休憩を取ることにした。
ウッドデッキの上にはパラソルとテーブルと椅子が一式並べられ、大通りの交差点で行き交う人々の群れを一望できる。有り体に言えばロケーションはあまり良くないが、大都会のど真ん中はどこも同じようなものだ。ハンカチで汗を拭うサラリーマン、白い日傘を差すOLや大学生、横並びで一列に歩く学生集団、これらはどの国でも見られる光景のようだ。生まれや育ち、話す言葉や目の色は違えど、そこに生きる人々の心や行動様式はいつだって変わらない。
ブリタニアも日本も、人種は違えど根本的な行動原理や心はさして変わりがない。それは、ブリタニアへ初めて訪れたスザクが抱いた率直な感想だ。美味しいと思うもの、可愛いと思うもの、小動物を愛でる心はいくら国境を越えようがみな平等にある。だからスザクは、つい数十、数百年前まで貴国と祖国が戦争をしていたというのが信じられなかった。こんなにも心を通わせられるのに、どうしてお互いを憎しみ殺し合わねばならないのだろう。
氷の浮いた冷たいグラスには、アイスコーヒーがなみなみ注がれていた。食べ物だけでなく飲み物までもブリタニアサイズが徹底されているんだな、とスザクは感嘆してしまった。
カラカラと涼しい音が鳴るそれに、ミルクとシロップを入れてストローでかき混ぜる。透き通った茶褐色が乳褐色に変わるのが合図で、スザクは待ってましたと言わんばかりにそれを飲んだ。ユフィと喋りながら歩いていたから意識しなかったが、歩いた距離はそれなりに多く、汗もかいている。体はとっくに水分と休息を欲していたらしく、久しぶりに体内へ入れられた水分は五臓六腑に染み渡り、ひどく心地よい。慣れない土地で初対面の女性と二人きりという、いつにない状況に緊張もあったのかもしれない。こんなにも喉が渇いていたのにも関わらず、スザクは体調に気が付かなかった。
「ユフィ、そういえば」
スザクは彼女と出会った瞬間から抱いていた疑問を、ここになってようやく口にした。
「君はすごく日本語がすごく上手だけど、勉強をしているの?」
「ああいえ、教わったんです。貴方もよく知っている人に」
「僕?」
彼女は初対面の際にもスザクへ、有名人を持て囃すような調子で話しかけてきた。てっきり人違いかナンパか、あるいは美人局といったトラップかとスザクは疑い、警戒をし続けていた。しかしこの数時間で彼女と接するうちに、そういった悪気がユフィにあるとは思えなくなっていた。それが罠だと指摘されればぐうの音も出ないが、少なくともスザクはユフィのことを信頼していた。
もし彼女が人違いをしていて、途中でそれに気がついたなら逃げるなり、断りを入れるなりするだろう。しかし彼女は依然として、スザクへの興味を持っている。
彼女が本当にスザクと面識があるなら、スザクの記憶違いかど忘れ、その中でも一番良くないのは、顔も名前も覚えていないというパターンだ。果たして一体どれに当てはまるのだろう。
「失礼だけど、……僕達って初対面だよね」
「ええ、そうですけど…。あっもしかしてあの子から話、聞いてないですか?」
あの子から、話。
抽象化されすぎた言葉はさらにスザクを悩ませる要因となっているのだが、彼女はそれにも気がついていないようで、捲し立てるように話を続けた。
「もうあの子ったら、せっかくこんなに優しいお友達がいるのに」
ブリタニアに仲の良い人が居る、スザクの友達。そこまで行き着けば、たった一人の男にしか心当たりはない。
「もしかしてルルーシュの、お知り合い…?」
「大正解! 知り合いというか、一応家族なんですけどね」
くるくると表情を変える快活な彼女を前にして、スザクは呆気に取られた。
ルルーシュはあまりナナリー以外の家族のことを話したがらず、その詳細はスザクでも知らないが、腹違いの兄弟が多く居るらしい、ということだけは知っていた。多くの兄弟の中でもルルーシュとナナリーは同じ母親から生まれたということで、ルルーシュはとくにナナリーを溺愛している。しかしその母親も、ルルーシュが日本への留学から帰ってきた直後に亡くなったというから、余計彼は妹を大事にしたいのだろう。
「日本へ留学したとき、お世話になったホストファミリーの子供と仲良くなったって話を、ルルーシュからよく聞いていたんです」
「僕の話を? ルルーシュが?」
あのルルーシュがスザクについての話をしていたのは初耳だ。しかし相手はあのルルーシュである。スザクのあずかり知らぬところで一体どんなことを、どんな噂を広められたのか気になる。
「ちょっと我が強いけど、根は良い奴だって。写真は持ってなかったみたいなんですけど、茶色の癖毛に緑目の日本人という容姿は聞いていたので」
たったそれだけの僅かな情報で、よく自分が枢木スザクだと直感で当てられたものだ。これが女の勘、というものだろうかとスザクは感嘆した。
彼女の口振りからして、ルルーシュはどうやらスザクのことを悪く言ってないようで安堵した。スザクは幼い頃少し、ほんの少し、やんちゃで活発過ぎる子供だった。自他共に認める荒っぽい性格のせいでルルーシュにひどいことを言ってしまって、喧嘩したりもした。今まで負い目を感じていたわけでもなく、小さい頃の話だから仕方がないとしても、スザクにとってはそれが少し恥ずかしい思い出だった。
「スザクはどうしてブリタニアへ? 夏休みの家族旅行、とか」
「ああいや、僕は…」
そこまで言いかけたところで、胸ポケットに入れていた通信機のアラーム音が響いた。いくら休みとは言え、あくまで任務中の身である。急な召集や有事の際はこの端末で連絡を取り合えるように、ということで上司から携帯するよう言いつけられているのだ。
「もしもし、枢木です」
『スザクくん? せっかくのところなのに、ごめんなさい』
「いえ、どうかしましたか」
その声はとくに急を要するわけでも、嫌な緊迫感や緊張感があるようにも思えない。ひとまず有事の連絡ではなさそうだと一安心したスザクは、言葉の先を待った。
『実は召集の時間が前倒しになったみたいで…。あと一時間後には始まるみたいなんだけど、作戦本部まで戻ってこられるかしら』
「一時間なら大丈夫ですよ。すぐ戻ります」
申し訳なさそうな声で、ごめんなさいねと付け加えられた言葉を最後に、通信は途切れた。
今から本部に戻って、軽く汗を流して制服に着替えればなんとか間に合うだろうか。
スザクが時間を逆算していると、ユフィが声を掛けてきた。先ほどの彼女の質問に答えそびれていたことを思い返し、スザクは再び向き直った。お仕事ですか? と自信なさげに問う彼女は不思議そうな目をしている。
「実は僕、軍人なんです。軍人と言っても、日本の自衛隊なんですけど」
日本の自衛隊は基本的に、文字通り、自国が攻撃に遭った際に自衛を行ったり、それ以外では災害時や緊急時の救助や支援を行うことが主な活動内容である。もちろんそれ以外でも日々訓練は欠かすことなく行われ続け、対人格闘や射撃、爆弾処理や座学だってある。
「それは初めて聞きました! 立派に頑張っているんですね、スザクは」
「そんな、大げさな」
スザクがそう謙遜しようとすると、そんなことありません! とユフィが大見得を切るように言葉をぶつけた。おとしよかな見た目に反して、譲れない部分に関してはずいぶん気の強い女性なんだなとスザクは感じた。
「誰かのために行動ができる、人を守る職業に就くことって凄いです。正義感があって優しい人じゃないと務まらない。スザクはもっと、誇っていいと思います!」
ユフィはスザクの両手を握って、そう断言した。すっかり気圧され黙り込んでしまったスザクはうんともすんとも言えず、有難うと素直に礼を述べた。
人に真っ向から自分を褒められた経験が思ってみれば少なく、言葉で直接そう言われるとどうしても照れが勝ってしまう。素直に言葉を受け取るのも気恥ずかしく、己はそんな言葉が似合うような立派な人間ではない、と後ろめたさも感じた。それでも真正面から自分に対する良い印象をぶつけてくれることは、それ以上に嬉しかった。地に足の着かない、宙ぶらりんで中途半端なな自分を認めてくれる人間が身近にいるという事実に、ひどく安堵もした。
「またブリタニアへ来てください。今度はルルーシュと、ナナリーも一緒に!」
「ユフィもいつか日本へおいでよ。その時は僕が日本を案内するからさ」
二人はいつか必ず訪れるであろう再会の時を夢見て、束の間の別れを告げた。
ひととおりの任務行程を終え祖国へ帰国した頃には、もう夏休みも片手で数えるほどしか残っておらず、新学期の始業式まで連日連夜、ろくに睡眠も取れない日々が続いた。何を隠そう、スザクは夏休みの課題に殆ど手をつけていなかったからである。己の計画性のなさ、先見性のなさを呪う他ないのだが、それでも新学期までにできる最善を尽くすことにスザクは尽力した。
新学期の朝に提出する課題、その日の放課後までに提出する課題、新学期始まってから最初の授業時に提出する課題。このみっつを優先度順に振り分け、あとに残った課題は学校が始まってから生徒会の皆に手伝ってもらうしか方法はない。スザクはそう開き直って、シャーペンの跡がひとつもない新品のワークに手を伸ばした。
だからってさすがに計画性がなさすぎでしょ、と全うで辛辣な所感を述べられたのはつい先刻のことである。
「読書感想文も終わってないの? さすがにこの量を一日でやるのは…」
「今から寝ずにやればきっと終わるよ」
「寝ずにってあんた、目の下に既に隈できてんのに大丈夫なの?」
病弱で大人しそうな女子生徒、の演技をとっくにやめていたカレンは、緋色の髪の毛を掻き上げて、呆れるようにそう言った。
新学期の始業式も終わり、教室へ戻ったあとの担任からの伝達事項や課題提出、帰りのホームルームを済ませたスザクは、一目散に生徒会室へ飛び込んだ。教室に居残っていては、久しぶりに会った級友たちと長話でもしそうだし、そうなると明日提出期限の読書感想文と人権啓発作文、数学のワークと演習プリントが終わりそうにない。事は一刻を争うのだ。
一ヶ月ぶりの生徒会室は最後に見たときと寸分変わらず、なんだか懐かしい気持ちにもなった。同じクラスの生徒会メンバーとはすでに顔を合わせてはいるが、学年の違うミレイ会長や学年の異なるナナリーとはもうずいぶん会っていない。秋に行われる文化祭の予算編成をしなければいけないのに、そんな面倒ごとは棚に上げてしまって、みんな夏休みの土産話に花を咲かせるのだろう。
どのメンバーよりもひと足早く着いていたスザクは、適当な席に座り、手のつけられていないプリントに取り掛かった。久しぶりに行う四則計算はこんなにも難解だっただろうかと頭を捻っていると、ややあって生徒の一人が部屋へ入室した。
「あれ? あんただけ?」
その男勝りな口調も板についてきた彼女、カレンは室内を見回してそう尋ねてきた。
彼女はスザクの真正面の机に鞄を置くと、そのまま席に着いてスザクの手元を見遣った。
「それ課題のプリント? 珍しいわね、まだ終わってなかったんだ」
「実は明日提出分が、まだひとつも終わってなくって…」
カレンが驚き呆れる声と、生徒会室に入ってくる賑やかな声は同時に発せられた。
「うおっ珍しい組み合わせじゃん」
「スザクくん、ちょっと日焼けした?」
「ミレイちゃんはまだ来てないの?」
各々が好き勝手に口にする言葉は敢えて拾わず、スザクは再び終わりの見えない課題の続きに取り掛かった。カレンには目の下の隈のことを指摘されたが、それはもしかすると彼女に心配されているのかもしれない。とてもじゃないが口には出せない、そんな下心を抱えながらシャーペンを走らせていると、先ほど訪れた一行はスザクとカレンを取り囲むようにして席に着いた。
「ねえルルーシュ聞いてよ」
「なんだ?」
結局この夏休みはルルーシュと一度も会うことがなかったから、その声を聞くのもひと月ぶりだ。夏休み前からなんとなく、スザクのほうから彼を避けていたせいで余計にその接触は少なくなっていた。ルルーシュの方から話しかけられることはあれど、スザクの方から積極的に近寄ることはめっきりなくなっていたせいで、少し気まずい。自分が一方的にそういう接し方をしていたため、自業自得ではある。
「スザクってば、まだ明日の課題終わってないんだって」
カレンのその口調はまるで告げ口をするようなもので、スザクは思わずあっと顔を上げた。彼女は悪さが成功したみたいな、小憎たらしい笑みを浮かべている。
彼女の告げ口を聞き入れたらしいルルーシュは、黙ってスザクの右隣の椅子を引いて座った。右側から感じる尋常ではない圧力に、スザクは嫌な予感がして背中に冷たい汗が伝った。
「スザク、こっち向け」
ルルーシュの有無を言わさぬその低い声に、スザクは躾けられた犬のように反射的に右側を振り向いた。
感情の読み取れないポーカーフェイスと、自分に向かってゆったり伸びる腕に気を取られていた刹那。額に走るような痛みが伴った。
「った、い…!」
「なんで俺を頼らなかったんだ、馬鹿」
それは無計画で馬鹿正直で身勝手過ぎる自分への、ルルーシュからの罰だった。
デコピンという名の熱い洗礼を受けたスザクは、消え入りそうな声で手伝ってください、と情けなく助けを乞うことしかできなかった。
軍の仕事を言い訳に使いたくはないが、確かに仕事の疲れが知らず知らずのうちに蓄積していたのだろう。机へ向かうとどうにも集中力が続かず、瞼が重くなる。作業効率を優先して仮眠を取ろうものなら、八時間しっかり眠っていた、なんて悲劇を繰り返してばかりだ。そんなこんなで七転八倒な夏休み終盤は課題の消化が思いの外進まず、今こうして生徒会室で皆に見守られながら取り掛かるという始末である。
夏休み前からなんとなく避けていた彼は相変わらず言葉こそ厳しいが、教え方は丁寧で優しい。自分一人で溜め込んでいたこともだが、一方的に冷たくしていたことも怒られるだろうかとスザクは思っていたから、そのわりにあっけらかんとしたルルーシュの対応には拍子抜けさせられたし、安心もした。
スザクがルルーシュへ関わることによって不幸事に巻き込まれるのなら、一緒に居ないほうがいいだろうと勝手に考えていた。でもルルーシュはそんなこと、歯牙にもかからないという調子で、相変わらず堂々としていた。昔はむしろ気が弱いのはルルーシュのほうだったのに、と取り留めのないことも思ってしまった。
誰かを彷彿とさせる異国の双眸をじっと見つめて、スザクはそういえばと話題を持ちかけた。
「仕事でブリタニアへ行ったんだけど、そこで会ったんだ。ルルーシュの家族に」
「ルルーシュの?」
「どんな人!?」
彼を除いた周囲は一気に沸き立つように、その話題に興味津々だ。一方で渦中に居るルルーシュは胃に穴でも空いたような、苦々しい表情を浮かべている。
「ユフィって子なんだけど、すごく優しくて良い人だったよ」
しかも女兄弟、と周囲は捲し立てるように騒ぎ合った。ルルーシュの妹に対する溺愛っぷりは公然の事実であるため、他に兄弟がいることが意外なのだろう。彼の口から家族について語られることはほぼ皆無に等しいため、その予想外な新情報は衝撃的だ。
「ユフィお姉様とお知り合いなのですか、スザクさん」
生徒会室の奥の部屋から、ミレイに車椅子を押されてやってきたナナリーが不意に会話に参戦してきた。ナイスタイミング、とリヴァルが囃し立てる一方で、ルルーシュは勘弁してくれという面持ちである。
スザクは途中から会話に混ざったナナリーにも分かるよう、こないだブリタニアに行ったときに偶然会ってね、と付け足した。
「お転婆っていうか、茶目っ気が強い感じの人だったよ」
「てことは、ルルーシュが女兄弟に振り回されてるってこと? 意外!」
ミレイも愉快そうに声を上げて笑うものだから、彼女の発言内容を想像したスザクも釣られて笑ってしまった。
「お兄様は昔から、お姉様方やお母様に、女の子のお洋服を着せられたりしていましたもんね。すっごく似合ってて、可愛らしかったです」
ナナリーの口から語られる衝撃の過去に、一同は大盛り上がりだ。当然ナナリーは昔話に花を咲かせるような口調であるから、悪気は一切ないのだろう。だからこそルルーシュは彼女を責められない。
ルルーシュの知られざる兄弟話に盛り上がる中、ミレイが唐突に決めた! と声を張り上げた。ルルーシュ曰く、会長がやけに機嫌の良いときや突飛なアイデアを思いつくときは嵐が起こる、と青い顔をして語っていたことをスザクは思い出した。彼の観察眼は鋭く、わりと当たるので侮れない。そうしてまさに彼の言うとおり、彼女の突拍子もない発言は嵐を呼び起こすには十分だったのだ。
「今度の文化祭は女装、男装祭りよ! とくに男子諸君は覚悟なさい!」
その瞬間の、男性陣の凍りついた顔は稀に見る傑作であった。のちにカレンがそう語っていたことを、スザクは忘れもしなかった。
葉の色も心なしか色褪せてくると、文化祭の準備も目に見えて忙しくなった。生徒会は各クラスや部活動の出し物の内容をチェックし、それに伴う予算を編成せねばならない。とくに会計を一任されていたルルーシュはもう勘弁してくれと、泣き言を漏らすほどであった。かくいうスザクは肉体労働担当で、展示用のパネルや調理用のコンロ、音楽機材などの運搬を任され学園内を東奔西走するはめになった。実質使い勝手の良い荷物持ちのようなもので、学年やクラブ関係なく仕事を依頼されていた。
そんな慌ただしい学園生活も一週間もすれば一段落するであろう秋口のある夜、スザクは不思議な夢をみた。
誰も居ない暗闇の中で、スザクは池の畔に立っていた。池の中には魚はおらず、波風はひとつも立たない。当然夢の中だから暑さや寒さ、匂いや音もない。池を覗き込むとそこは真っ暗で底も見えず、自分の顔が薄ぼんやりと反射するだけだ。
水面をじっと見つめていると、不意にちかちかと光るものが水に浮かんで、瞬いた。思わず見上げると、頭の上に無数の星が煌めいていた。空はどこまでも続いていて、果てが見えない。
頭上に広がる満天の星があまりにも眩しくて近いものだから、思わず腕を伸ばしてみると本当に空にまで手が届いてしまって、星を掴んだ。さすが夢ならなんでも有りなんだな、と掴んだ星を手のひらで転がして眺めた。きらきらとハレーションする星屑はいっとう美しく、何となく口元へそれを運んだ。
(スザク、だめだ)
そうしようとした腕を何者かに掴まれて見遣れば、そこにはなぜかルルーシュがいた。君は忙しいんだから僕の夢にまで出張らなくてもいいのに、と笑えば、彼は必死な面持ちで何度も同じ言葉を繰り返した。
(だめだ)
どうして、と唇を動かすと、彼は緩く首を横に振った。彼曰く、どうしても星を口に含んではいけないらしい。
やがて彼は、スザクの腕を掴んでいた手を離して、スザクの星を掴む手を握り込んだ。二人の指の隙間からは星の光が漏れていた。ルルーシュの顔を窺うと、仄かに頬を染めた彼と目が合った。
ふと目を覚ますと既に朝で、スザクは大きなため息と欠伸を漏らした。
不思議な暗闇の中で星を集めてルルーシュと会った。不気味というより不思議な絵本のような世界に、呆気なく夢が覚めてしまったことが惜しくなる。何者かに追い掛けられたり殺されかけたりする切迫した夢より、よっぽど穏やかで非現実的で、楽しいのだ。むしろもう少しだけああしていたかったな、と夢の続きがどうしても気になった。
残暑の尾を引く、長月の中旬の日曜日。スザクはここ最近、週末の休みになれば必ずと言っていいほど、例の神社を一人で訪れていた。
平日の放課後は軍の仕事を理由に生徒会を欠席することが多かったが、土日は大概仕事も休みであった。しかし周囲には気を遣われていたらしい。遊びに誘われる機会もいつの間にかめっきり減り、週末は退屈している日が案外多い。
だからちょっとした時間潰しか、軽い運動のつもりだった。昼間はまだまだ汗ばむ陽気が続いていたが、夕方になれば空気も少しはひんやりとしてくる。そういう時間帯を狙って、スザクは毎週末のように神社へ赴いていた。
涼しいこともあるが、頂上の参道から見える夕日がいっとう美しく、幼い頃から大好きな景色だったから、というのも理由のひとつだ。悔しいとき、悲しいとき、悩み事があるとき、いつもここへ訪れて夕日に慰めてもらっていた。その回数はもう両手じゃ到底足りないくらいだ。習い事の先生に怒られたとき、好きな子に振られたとき、友達と喧嘩したとき、いつもスザクを見守ってくれていた夕日は今日も変わらずそこにある。
石階段の頂上に座って、拝殿に眠っていた遺書の頁を捲る。
前述の、退屈な週末の時間潰しか軽い運動のつもりだというのは大嘘で、スザクの本当の狙いはこの遺書にあった。
仮名遣いや文体が読みづらい上に、言い回しが回りくどかったりして、なかなか読み進めることができない。昼から夕暮れまで半日かけて読んでも、せいぜい数ページくらいしか進まない。それでもはっきり伝わるのは、書き手である騎士を通して見える優しい世界と、王への揺るぎなき忠誠だ。
時折、人の死や争いごとに関する供述が見られることから、恐らくこれが書かれた頃は戦争の真っ只中だとスザクは感じていた。書き手である騎士もきっと、多くの兵を屠り多くの市民を巻き添えに殺してきただろう。だがそんな戦乱の世である気配は一切感じられず、毎日のちょっとした出来事だけが淡々と綴られていた。
好きな食べ物、好きなスポーツ、好みの女の子のタイプ、苦手な人間。そういった内面の特徴が書き手の騎士と全て当てはまることに、スザクはもう驚きもしなかった。恐らく自分は騎士と同一人物、いわば前世のようなものだと確信していたからだ。どういう縁があってか、前世の己が書いた遺書を現世で生きる枢木スザクが読んでいる。そして奇妙なことに、前世の己が仕えていた王が、現世では枢木スザクの友人となっている。
スザクには前世の記憶なんて持っていないし、前世では己の王であったらしいルルーシュも同様に、何も覚えていないだろう。
それだけなら、まだいい。前世が騎士だろうが犬だろうがミミズだろうが、今を生きるスザクには何も関係ない。人間に転生できてラッキーだと思うくらいだ。
一番恐ろしいのは、前世で辿った運命や境遇を、現世で生きる自分も同様に辿り、背負わされているという点だ。そこにスザクの意思は関係なく、なるべくして起こっているのなら、枢木スザクという人間の存在意義や生きる意味とは一体何なんだ、という話にもなる。
夕暮れ時の参道から見える空が好きだという感情も、前世の自分から植え付けられた感情だとしたら。父親へ対する後ろめたさも、自己肯定感の低い性格も、前世の自分がそうであったから枢木スザクもそうなったのだとしたら。ルルーシュと出会って仲良くなったことも、前世でそうだったから、今もそうなっただけなのかもしれない。そこにスザクやルルーシュの意思や尊厳はなく、たとえば元からプログラムされていて、出会うことも親しくなることも始めから、決められていたのかもしれない。
だとすれば、スザクの中にある理性や本能、感情は本当に"スザクのもの"なのだろうか。自分では到底及ばぬ領域で設計され、植え付けられた感情に果たして意味はあるのか。
自分の意思で自衛隊に所属すること、アッシュフォード学園への入学を望んだ。しかしその理由もスザクの本心に関係なく、"前世の自分がそうなることを望んでいたから"だとしたら、ひどく恐ろしい。それは枢木スザクの意思なんか、あってないようなものだ。
空っぽの器に注がれた仮初の心は初めからお前のものではないし、お前のものだった時は一度としてない。遺書は自分にそう語りかけてくるようで、気味が悪かった。