夭折した君へ 第三章
ピンクチューリップ、イエローフリージア、ピンクスイートピー、パープルスイートピー、オレンジガーベラ。
ルルーシュが以前、スザクに見せた写真にはアッシュカラーヘアーの美しい少女が写っていた。紫色の瞳は血の繋がる兄妹らしく、見事にお揃いである。
そんな儚さすら感じられる優しげな少女のイメージに合う、美しいフラワーアレンジメントを選んできたつもりだ。春色を基調とした花々は優しい印象で、飾る場所を選ばないだろう。
予めルルーシュから連絡されていた病室をノックすると、内側からどうぞ、と控えめな声が聞こえてきた。耳覚えのないソプラノは恐らく、件の少女のものであろう。
引き戸を開けると真っ白な室内にはスザクが思い描いていたとおり、ルルーシュとその妹が居た。
ルルーシュと揃いと思っていた紫は、兄よりも少し淡い色味である。成程、彼が以前言っていた弱視だとか色素が云々というのはこのことかと、スザクはようやく得心がいった。
「初めまして、ナナリー。僕はルルーシュの友達の、枢木スザクです」
「初めましてスザクさん。いつも兄がお世話になってます」
ベッドから半身だけ起き上がっていた少女は初対面である自分に微笑み、恭しく挨拶を寄越してきた。ルルーシュが絶賛するとおり可愛らしい声と柔らかい仕草がとくに印象的だ。スザクがそう感じたのは、あの兄――ルルーシュの妹がこんなにも謙虚で慎ましいことに、素直に驚いたからである。不遜な態度を隠そうともせず、時折憎まれ口を叩く彼とは対照的な性質に、内心おっかなびっくりした。
新品同然の清潔なベッドと無機質な病室が、彼女をさらに儚く刹那的な存在へと演出することを憚らない。僅かに香る包帯と消毒液のにおいがやけに現実味があって、とても恐ろしくなる。
スザクは抱えていた見舞いの花を、ナナリーに差し出した。芳しい花の香が彼女の心を少しでも癒せたら、色とりどりの花弁の色彩に少しでも目を楽しませることができたら、そう願って誂えたアレンジメントだ。
彼女はとびきり喜んでくれた。ベッドの一番近くにある棚の上にバスケットを、いつでも私の目に入るようにと付け加えて指定した。
「ああ、そうだ。せっかくスザクも来てくれたことだし、三人でお茶にしよう」
ルルーシュはそう言って立ち上がると、スザクは声を掛けられて一緒に病室を出た。突然のルルーシュからの申し出にスザクは目を瞬かせながら、半ば彼に引きずられるような形で病室の外の廊下を歩かされた。
「せっかくあの家から解放させてやれたのに、また閉じ込めてしまった」
病院のロビーは来院患者やリハビリ患者、看護師が行き交い、静かすぎる病棟とはかけ離れた印象だ。
ガラス張りの一角には大木が植えられ、鳥が羽休めに細枝に止まっていた。外出できない患者にせめて少しでも緑の自然を見せてやりたいという配慮か、建築設計士やデザイナーのセンスかは判断しかねるが、取るに足らない若々しい緑でさえ心苦しい。ガラスの向こうを見詰めるルルーシュの瞳は曇っていて、その胸中を反映しているようだった。
それからルルーシュは、なぜ己がブリタニア本国にある学校を選ばず、わざわざ日本国のアッシュフォードへ入学したのか、彼自身の出自と合わせ、それらを掻い摘んで説明してくれた。”外”への並大抵でない興味関心か自立のためかと、スザクはてっきり思っていた。だから予想以上に薄暗く複雑で、誰の力も及ばない理由に、スザクは己の浅はかな推測を恥じた。そうして同時に、到底口には出せないが彼にひどく同情した。
「きっと良くなるよ」
「……」
「君がそう信じなきゃ、誰が支えてあげられるんだ」
ルルーシュは目を瞬かせ、ようやくスザクの顔を見た。
彼は病室を出る前より僅かに憔悴し、青ざめた顔色をしている。そんな顔をしたルルーシュをナナリーの元へ帰すわけにはいかない。スザクはさらに言葉を重ねた。
「今、あの子を支えてやれるのは君しかいないんだろ」
「…ああ、そうだな」
ルルーシュは目を逸らしながら薄く笑って、頷いた。
もしかすると彼は、ナナリーだけでも実家に、ブリタニア本国に帰そうと悩んでいたのかもしれない。わざわざルルーシュが、スザクと二人きりの時間を作って話を始めたのは恐らく、スザクからの言葉で背中を押してほしかったのだろう。一旦国へ帰って療養したらどうだと、スザクの口から許しを得たかったのだ。
ルルーシュのそんな卑怯で狡い思惑を見越してもなお、スザクは敢えて彼に、お前が彼女を支え信じてやれと説いた。彼が何よりも切望したナナリーとの水入らずの生活なのだ。ルルーシュは予定外のことにひどく弱く臆する節があるが、所詮これはただのちょっとしたアクシデントで些細な計算違いである。そんなことくらいで意気消沈していてはこの先どうするんだと、そういったエールも込めてスザクはルルーシュを激励した。
ルルーシュにしてみれば、神様はナナリーから目の次は足を奪うのかとひどく恨むのだろう。だがスザクに言わせれば、これはルルーシュに課せられた試練であり乗り越えるべき壁なのかもしれない。
自由の新天地をようやく得た彼には酷であろうが、要は物の捉え方ひとつで人は前にも進めるし、足踏みしたまま動けなくなることもある。幼い頃、体力のないルルーシュを引き起こす役回りはいつだってスザクだったのだ。ならば今、立ち止まる彼の背中を押してやれるのもまた、自分しかいない。
病院内にある売店で二人は茶菓子を購入した。適当に見繕った焼き菓子では申し訳がないが、本番はナナリーの退院祝いに催そうとルルーシュは話した。二人の暮らす寮内の一角には小さなバルコニーがあり、そこでなら蝶や花を眺めながらお茶をすることが可能らしい。なんとも西洋風の優雅な光景であろうと、スザクは感嘆した。
そうして給湯室の薬缶で手際よくお湯を沸かす彼の手元を覗きながら、スザクは当然の疑問を口にした。
「茶葉やカップは用意してあるの?」
「ああ。寮から持ってきたものがある」
ルルーシュがそう言いながら準備したものは、控えめな模様や装飾が施されたティーカップであった。恐らくそれはナナリーのお気に入りらしいことは目に見えて分かる。煌びやかな装飾が施されたそれは、どうにも彼の趣味とは思い難いからだ。相変わらず用意周到な男であると、冷たいティーカップを温めるルルーシュを横目で見ながら、スザクはそう思った。
一旦沸かしたお湯を薬缶からカップに注ぎ、それをあらかじめ茶葉が入っているポットに注ぐ。そうすることでカップも温まり、湯の量を調節できるらしい。生まれのせいもあって茶道などで、目の前でそうしているのを見たことはあるものの、なぜそれをそうするのかといったことまではスザクの知識になかった。やっぱり君は物知りだね、とあっけらかんとした反応をするスザクに、ルルーシュは少し呆れた顔をしてみせた。
「マロウブルーって知ってるか」
「麻呂?」
「青色のハーブティーだ。ほら」
そう言いながらルルーシュがポットから湯を注ぐとなるほど、色鮮やかなブルーティーが白磁を満たしていった。あらかじめポットに入れていた茶葉が湯に色を染めていたらしい。
「元々味が薄いから、オレンジピールやハチミツを入れても美味しいんだ」
「へえ……」
手際よく盆にソーサーとカップ、ティースプーン、それとオレンジとハチミツ、輪切りのレモン数切れを乗せたルルーシュは、再び病室のドアを開けた。スザクの手には先ほど売店で購入した焼き菓子がある。
どこからか引っ張り出してきたテーブルにルルーシュとスザクの分を、寝台に備え付けられているテーブルにはナナリーの分を配膳した。
「スザクさんはこのハーブティーの魔法はご存知で?」
ナナリーはいたずらっ子のような顔を浮かべ、首を傾げてそう尋ねた。紅茶もハーブティーも、普段は縁もゆかりもないスザクにはその作法すら存じ上げていない。正直に首を横に振ると、ナナリーはくすりと微笑んだ。
「お兄様、レモンを頂けませんか」
「ああ」
兄からレモンの輪切りを受け取った彼女は、スザクによく見えるようにティーカップを向けた。見ていてくださいねと囁き、ナナリーはレモン汁を数滴、鮮やかな青に垂らした。
「色が、変わった……?」
「魔法ですよ、スザクさん」
「ああそうだぞスザク」
「ちょっと二人して、僕をからかわないでよ」
先ほどまで真っ青だったティーカップの中は、見事にピンク色へ変色していた。ナナリーはくすくすと笑いながらカップに口づけ、それを味わっている。未だ目を瞬かせるスザクに向かって、小悪魔のように彼女は微笑んだ。その仕草はどことなくルルーシュの影がちらついているようにも見え、やはり彼らは兄妹なんだとこんなところで再認識させられる。
「アントシアニンのせいだよ」
手元の青と彼女の茜色を見比べていたスザクに、ルルーシュが”魔法”の種明かしをした。
「マロウブルーに含まれるアントシアニンは、酸性の成分を加えると紫から赤に変化するんだ。だからレモン汁を加えると、お茶の色が変わる」
「へえ…」
ルルーシュはそう言いながら手元にあるレモンを絞って、一滴だけ茶に垂らしてみせた。そうすると僅かに青が赤みを帯びて、淡い紫に変化していった。アントシアニンが云々という理屈はスザクにはよく分からなかったが、ルルーシュの言う通りこの茶は色が変化する種類らしい。その様はまるで理科の実験のようだと、スザクは場違いな感想を抱いた。
「スザクさんの青も、お兄様の紫も、とてもきれい」
ナナリーは二人の手元を交互に見遣って、それからそんなことを述べた。レモンを絞っていないスザクのカップの中身は未だに青を帯びている。それがたまたま三人とも違う色をしていて、彼女はそれに気づいて微笑んだのだ。
「でもマロウブルーの澄んだ青は、淹れてから時間が経つにつれて紫に変わってしまうんです」
「そうなの?」
ナナリーにそう言われて、スザクはカップの中を確認した。言われてみれば確かに、それは先ほどよりも紫がかった青みをしていた。
「だからマロウブルーは”夜明けのハーブティー”と呼ばれているんですよ」
ルルーシュの紫と自身の手元の赤を見遣った彼女は、そう付け加えた。
淹れたての鮮やかなスカイブルーは時間が経つと淡く澄んだ紫に、そしてレモン汁を垂らせば夜明けを告げる彼誰時の茜色に染まる。ロマンチックな謂れに照れ臭い心地になりつつも、年頃の少女にはもってこいのハーブだろう。
そんな由来を聞くとなんだか色を変えるのが惜しくなったスザクは、刻々と闇色に染まる水面を眺めた。夜から朝へ移り変わる空の変化も好きだが、そこにいるのは誰なのかも分からなくなる黄昏時も、星が瞬く宵の空色も、いっとう好きだった。
それを彷彿とさせる藍色の水面に誰かの瞳を思い浮かべたが、スザクは首を振ってその幻影をなかったことにした。
皐月に入る頃には、葉桜だった樹木も若々しい緑の葉で包まれている。忙しなく過ぎ行く日々の中では季節を感じる暇もなく、あっという間に中間考査を迎えた。
新入生の歓迎会やらレクリエーションを挟みつつ、クラスメイトの顔と名前をようやく覚える頃には水無月に差し掛かっていた。
本格的に梅雨入りする前には無事、ナナリーは退院することができていた。数日前にはもう復学し、通常通り教室でクラスメイトと授業を受けているらしい。顔や手足に貼られた湿布や絆創膏も、擦り傷の跡もすっかりなくなっていた。
だが足の後遺症は依然として残ったままで、これからの学園生活でも彼女は車椅子で過ごすこととなった。不幸中の幸いかアッシュフォード家からのよしみで、寮の中でもとりわけ広めの一角を貸されていたらしく、車椅子での生活でもとくに支障はきたさなかった。四六時中ナナリーの面倒を見てやることはさすがのルルーシュも不可能であったが、彼らの宅に住み込みで働いていたメイドが居たことでその問題は解決された。
そして同時期に、車椅子生活では部活動選びも不自由であろうと気に掛けてくれたのが、アッシュフォード家の長女であり、この学園の生徒会長であるミレイ・アッシュフォードであった。
アッシュフォード家とルルーシュの実家の繋がりでそのような贔屓を、と当初ルルーシュはひどく警戒し、その誘いを断ったらしい。しかしミレイはそのような贔屓や他意はないと説得し、通常なら中等部の者は加入が認められない生徒会へ、ナナリーを招き入れた。そのついでとは言ってなんだが、兄のルルーシュも生徒会に属する運びとなった。
後に判明したことであったが、ミレイがひどくルルーシュとナナリーの二人を生徒会に招きたがったのは、ナナリーの身を案じただけではなかった。むしろ、これからルルーシュの口から語られる後者が本命であるらしい。
その内容はなんとも馬鹿げたもので、スザクの笑いを大いに誘った。
「それってつまり、ルルーシュ目当てってこと?」
ルルーシュは米神に指を当てて苦々しい表情を浮かべていたが、スザクには傑作過ぎる話であった。
――高等部に入学したある男が大層美形で頭が賢く、女生徒の人気を引き付けてやまない。
そういった浮ついた噂がどこからか流れ、生徒会長の耳に入ったことがきっかけらしい。楽しいことやお祭り騒ぎが好きであるミレイは、早速一年の高等部から”噂の男”を見つけ出しルルーシュをスカウトした、という流れだ。
自分の容姿を客寄せパンダにしたいんだろう、と悪態をつくルルーシュを、まあまあと宥めたのはスザクだった。
「悪い人じゃなさそうだしいいじゃないか。モラトリアム、だっけ」
「だからってなんで俺が、会計の役回りを一任されなきゃいけないんだ」
ミレイ会長はルルーシュの頭の良さを生かし、彼を会計係に任命したそうだ。いい加減に見えて案外ちゃっかりしている彼女のやり方に、スザクは苦笑いした。
ルルーシュのそんな些細な愚痴を右から左に流しながら、二人が辿り着いたのは件の生徒会室の扉の前である。
もう話は通してあるから、と言いながらルルーシュはその扉を開き、部屋の中へスザクを押しやった。
アッシュフォード学園では生徒全員が、何かしらの部活動へ加入することが義務付けられている。例に漏れずスザクもルルーシュもその規則に則り、部活動に参加せねばならない。
ただし、生徒会に属する生徒は部活動には加入しなくてもよい、という例外があった。そのルールがあるため、ミレイはナナリーを生徒会へ歓迎したのだ。
「ミレイ会長、昨日お話していた彼です、こいつです」
ルルーシュの口振りに異議を唱えざるを得ないが、敢えて押し黙っておいた。スザクは素直に彼の腕に引っ張られるまま、生徒会長の前へ差し出されてやった。
「初めまして、私がミレイ・アッシュフォードです! えっと……」
「枢木スザクです」
「あっそうそう、枢木スザクくん。ルルーシュから話は聞いてるわよ!」
「そうなんですか?」
「すっごく運動神経が良くて力持ちで、それから体力があるって! ちょうど男手が欲しかったから、重宝してあげる!」
ルルーシュは一体どういう話の通し方をしているんだ。
スザクは隣の男を睨んだが、彼は涼しい顔をして二人の様子を眺めていた。崩れることを知らないポーカーフェイスは、彼の特技のひとつである。
「僕なんかで良ければ、お力になりますよ」
「そうこなくっちゃ!」
スザクは諦めて、差し出された手を握った。これで生徒会に加入することが認められたらしい。あっさりとし過ぎたその関門にスザクは拍子抜けせざるを得ない。
しかしこれもルルーシュの道連れ作戦であることは、いくら天然だ馬鹿だと罵倒されるスザクとて明確に分かりきっていた。
散々ミレイのことを愚痴っていたルルーシュだって、大概力技でどうにかしようとする節がある。君だって人のことを言えないじゃないか、と言外に視線で罵れば、ルルーシュはふんと鼻で笑っていた。
そうしているうち、生徒会室の奥の部屋から、ひとりふたりと見覚えのない顔が数人現れた。ミレイたちの声を聞きつけてやってきたのだろう。
「よっ新入り!」
「あんたも新入生の新入りでしょうが」
「えっと……」
騒がしい面々を見遣り、ぽかんとするスザクにルルーシュが解説を入れた。
「あのうるさい男がリヴァルで、隣の女の子がシャーリー。で、後ろに居る子はニーナだ」
「説明雑すぎない?」
リヴァルと呼ばれた男がルルーシュに対して苦言を入れた。
新入生、と呼ばれていたからには同学年であろうが、スザクには見覚えがない。ということは別の学級であるらしい。
「僕は枢木スザク。たぶん、君たちと同学年だ」
「そうなんだ! よろしくねスザクくん、私のことは気軽にシャーリーって呼んで!」
彼女はそう言いながらスザクの片手を両手で握り、明朗快活に自己紹介した。
そんなシャーリーの後ろからひょっこり顔を出したのは、大きな丸眼鏡が印象的な少女である。シャーリーの積極的な振る舞いとは対照的に消極的で控えめな印象である彼女は、小さな声でよろしくお願いします、と述べた。
「俺はリヴァル! よろしくな、スザク!」
スザクの背中を叩きながら、リヴァルは最後にそう挨拶した。
随分と賑やかな面子に、正直なところスザクは面食らってしまっていた。しかし、つい先ほどまでは部外者であった自分に対して、親切に接してくれる面々に感謝する気持ちの方が、よほど上回る。明日はスザクの歓迎会をしないとな、と微笑むルルーシュの提案に、みなが一斉に賛同した。
「明日はカレンも学校来るみたいだし、一緒にお祝いしちゃおうよ」
「あれ? もう一人居るの?」
聞き覚えのないその名前に、スザクは首を傾げた。
「そうそう。病気がちでたまに休むことがあるんだけど、うちのメンバーよ」
ミレイが腰に手を当てながら、スザクの質問にそう答えてくれた。
名門私立校・アッシュフォード学園の生徒会ということで、どれだけ厳かで畏まった雰囲気なのかと、実のところスザクは些か緊張していたのだ。しかし蓋を開けてみればその予想はいい意味で裏切られた。むしろ生徒会と呼ぶには賑やか過ぎるほどで、同好会サークルか帰宅部と呼ぶ方が相応しいかもしれない。
発足したばかりの新年度メンバーに、前途多難ではあろうがそれ以上に期待感を抱いた。それはスザクだけでなく、ルルーシュとて同じであろう。だからルルーシュは、スザクをこの生徒会に招いたに違いないのだ。
それは歓迎パーティーという名の、ただのどんちゃん騒ぎであった。
部室棟の一角に存在する講堂は生徒会メンバーが管轄する場所で、普段は生徒会の者以外は立ち入り禁止となっている。つまりは催し事があればいつでも貸切状態で行える、という寸法だ。
そして、スザクとカレンの歓迎パーティーも例外なくこの場所で行われた。時間になるとありとあらゆる豪華な食事がテーブルに並べられ、生徒職員問わず多くの者がそこへ参加した。一体どうやってこれだけの食事を用意し、そもそもその資金はどこから捻出されているのか甚だ疑問ではあった。しかしスザクの込み入った疑問を悟ったらしいミレイが意味深にウインクしたことから、恐らく彼女の手引き、生徒会長という特権を行使したのだろうか。それ以上追及する勇気も根性もスザクにはなく、この話題はそれきりで終わった。
参加者の中には明らかに生徒会のメンバーに興味のないであろう者も多く見られ、そういった者たちは恐らく食事だけ目当てか、友達や恋人作りのためか、ただ騒ぎたいだけかのいずれかである。
そして主役とも言えるスザクはあちこちに引っ張り回され、大して飲み食いしていないはずなのに、既に満腹といった心地である。もう一人の主役であるカレンという生徒の姿は、まだ一度も見れていないままだ。
「スザクこっちだ、来てくれないか」
人垣の向こうからルルーシュの声がして、そちらへ振り向くと彼は自分の名前を呼んだ。
言われたとおり声のする方へ向かうと、やはりそこにはルルーシュが居た。そして隣には見知った生徒会の面々と、中央には見知らぬ女子生徒が一人。
「スザクくん、この子がカレンよ。あなたと、それから私たちと同じ一年生」
「そうなんだ。どうぞよろしく、カレン」
彼女は赤髪のストレートを靡かせて、小さな声でよろしく、と呟いた。ニーナも大人しい子だと思ったが、カレンは大人しいというよりもおっとりしている、と表現したほうが相応しいかもしれない。
微笑んだカレンはおずおずと、スザクへ向けて手のひらを差し伸ばしてきた。
日本人は初対面だとお辞儀をして挨拶を行うのが一般的だが、ブリタニア人は握手をするほうがベターであるらしい。貴国の慣例に従い、スザクも差し出された彼女の手に己の手のひらを重ねた。
「ッ、いった、痛い、いっ!」
「力比べでアタシに勝てる男は早々いないわよ?」
カレンはそう言い捨てながら、握り潰す勢いで掴んだスザクの手のひらをようやく解放した。
今しがたスザクが彼女へ抱いた”おっとりしている”という印象は撤回せねばならない。カレンはセンター分けにした前髪を乱雑に掻き上げ、スザクを睨んだのだ。そんな彼女の粗雑な振る舞いに唖然とする自分に、周囲のメンバーはとうとう腹を抱えて笑い出した。なんの前説もなく過ぎ去った嵐のような展開に、未だに置いていけぼりなのはスザクだけだ。
「カレンってばもう、おとしよかな振りするのが上手くってね、私たちも最初騙されちゃってさあ」
薄々そういう顛末なのであろうことは予想できたたが、だからって初対面にしては痛烈過ぎる洗礼ではないか。スザクはそう、声を大にして抗議したい気持ちである。
「同じ日本人だからってちょっと親近感沸いたけど、こんなへらへらしてる男だなんて思わなかった」
腕を組みながら彼女は、スザクのことをそう罵った。何かと思ったことをはっきり口に出す性分であるらしい。先ほどまで漂わせていた慎ましい雰囲気は、もう面影すら微塵も残っていない。スザクの目からはそうとしか見えなかった。
そしてスザクはたった今のカレンの発言に引っ掛かりを覚え、ついその疑問を投げかけた。
「というか君、日本人なの?」
「正確に言えばブリタニアとのハーフだけどね。でも日本国籍を選んだの。私は日本で生まれて日本で育ったから」
なるほどそれは確かに合理的だし、当然といえば当然だ。物言いからその考え方まで、竹を割ったようなそれは不思議とスザクに悪い印象を与えなかった。それは同じ日本人であるという点に親近感を感じたせいか、あるいは彼女がブリタニアを蔑ろにするという意味でなく、純粋に日本人であるということに誇りを持っていると感じられたせいか、スザクには図りかねた。
「それなら僕も同じだ。改めて、どうぞよろしく」
「ふん」
彼女は突っぱねるような振る舞いをして、踵を返してしまった。
茫然とするスザクに、ルルーシュが横から説明を入れた。
「お前を力仕事担当だと説明すると、カレンがそれは自分の仕事だって言い張ってしまって。なんだかお前に対しては当たりが強いらしい」
「ああ、そうなんだ……」
未だに微かに痺れが残る右手を労わりながら、スザクは落胆した。
単純明快な思考回路と物言いだと感じていたが、まさかそこまで短絡的であるとは思いも寄らなかった。彼女に対してかなり失礼であるが、案外単純な子なんだなという感想を抱いてしまうのも致し方ない。
「別に悪い奴じゃないんだけどな、少し猪突猛進が過ぎるだけで」
リヴァルがカレンを擁護するように口を挟んだ。確かに初対面の人間へ対する振る舞いとしては些か痛烈であろう。それは周囲も否めない点なようだ。
「あはは、大丈夫。カレンはいい子なんだろうなって十分伝わったから」
「腕相撲で解決しようとか、思ってるんじゃないだろうな」
「……やだなルルーシュ。女性に対してそんな野蛮なこと」
当たらずとも遠からずなルルーシュの発言に、スザクが内心冷や汗をかいたのは紛れもない事実である。腕相撲とは言わずとも50メートル走だとか荷物運び勝負だとか、そういったことで決着を着けてしまえば話が早いと考えていたのだ。相変わらず目敏い男だと、憎々しさも一周すれば賞賛や尊敬に変わる。さすがはルルーシュだ。他人事のように彼への賛辞を、その胸中で惜しげもなく送った。
本来であれば、放課後になると生徒はみな、部活や委員会活動に勤しむことが義務付けられている。ただしその日、スザクだけは生徒会室に立ち寄らなかった。どうしても外せない用事があると伝えると、ルルーシュを含めた生徒会の面子が、なら仕方ないから行ってこいと口を揃えて言ってくれたからだ。恐らく軍の仕事があるのだろうと皆に推測されているが、実はそうではない。しかしスザクは"用事"としか旨を伝えていないのだから、嘘はついていないはずだ。
空が赤々と燃え、西日が地平線へ落ちてゆく。そんな束の間の景色を、見慣れた石畳の上でスザクは一人、見届けていた。
春休みが明けてから、間もなく二ヶ月が経とうとしている。つまりスザクがここへやってきたのは、およそ二ヶ月ぶりということだ。
最後に見たときと変わらず、鳥居の塗装はすっかり剥げ落ち、賽銭箱も蜘蛛の巣が張られている。まるで疫病神でも祀っているのかと思われる風貌の社は、幼少期に見た陰鬱な雰囲気から相変わらずである。
スザクは再び、例の神社に赴いていた。
実家の裏手にある山の麓、もう何年も人の足が踏み入れられていない林の奥に、昔から神社があった。そこは大人ですらなかなか近寄らない曰く付きのようで、スザクだけが知っている秘密基地だった。社はどこもかしこもボロボロだったが、敷地内へ続く石階段の頂上から見える景色だけは、昔から色褪せない。
どうしても確かめたいことが、スザクにはあった。
ひと月ほど前、ルルーシュの妹であるナナリーが重い後遺症を患うこととなった事故に遭った。彼女は生まれつき弱視であったそうだが、さらにその人生に向かい風が浴びせられるかのように、歩行能力を奪われた。本人の絶望と苦悩は計り知れないが、その兄である彼の苦悩もまた、スザクの手には十分余る。
その時からスザクは、ある出来事のことを度々思い出しては、もしやと脳裏を嫌な予感が過ぎっていた。
ルルーシュと共にこの神社へ赴いたとき、スザクは正面にある祭壇の下、祭事に使用する道具などが入った棚に、あるものを見つけていた。大量の日誌、もしくは遺書と呼ばれるものだ。
傷んだ紙が破れぬよう、そっとそのページを捲った。
それは二ヶ月前に読んだ内容と寸分変わらない、作り物めいた日記だ。冒頭こそおどろおどろしい内容だが、読み進めてゆくにつれ、それは書き手の体験した日常が事細かに書き記されているものだった。その日常の内容も、どんな花が庭に咲いていただの、夜は涼しいのに昼間は暑くて仕方がないだの、そういった取り留めのない雑記だ。
時折戦争に関わる文章も見受けられた。理由は恐らく、この雑記の書き手が軍人だったため、若しくは軍に関わる仕事をしていたため、という二択だろう。
それはスザクの志す道と、同じだった。
そしてこの文章の書き手はただの兵士でなく、皇帝直属の、軍でもトップクラスの人物であるとスザクは予測した。
彼の記述には皇帝に関することが散見される。それもざっくばらんな内容でなく、王がいつどこで、誰と会い、何を話し、何を見て聞いて感じたか。そういった詳細が書かれてあるのだ。
おまけに、この書物と一緒に出てきた写真が、印刷は不鮮明だがルルーシュとスザクの顔にそっくりなのだ。ルルーシュはどこが似てるんだ、と吐き捨てていたが、気のせいではない気がする。これはもはやスザクの直感、勘である。
写真に写る二人の男の、座椅子に腰掛ける男がルルーシュに、隣で控える男がスザクによく似ていた。もしもそうと仮定したとき、スザクには一番気になる文章がある。
日誌の二日目、皇帝の妹に関する記述だ。皇帝の妹はナナリーと同じく、歩行能力がなく目も悪いらしい。状況や原因は異なれど、一応筋書きどおりに事が進んでいる、とも言える。
さらにページを捲り、些細な日常の出来事を読み続けること数十日分。スザクはあるページで目が止まった。
己が幼少期だった頃から今までろくに面倒も見ず、親として、また人となりや在り方として、ある意味反面教師であろう人物は、スザクにとってそれは父親だった。良い思い出がなければ、悪い思い出もない。何かをされた記憶もない。自分から歩み寄ろうと思ったこともない。
幼少期は仕事に明け暮れ忙しくしている背中を見て、仕事熱心で立派な人なんだと少し誇らしくすら思ったこともある。しかしスザク自身が心身ともに成長するにつれ周囲の家族関係を垣間見たとき、自分はただ父親に見捨てられていただけなんだと気が付いた。そういえば物心がついてから一度も、父親と出掛けたり入学祝いを買ってもらったりだとかは当然なく、それどころかまともに会話した覚えもなかった。
だから、スザクにとって些細で大きな心の影であった父親という人物の文字がそこにあったことが、何かの偶然であるとは思えなかった。
『ー月ー日
天気、雨
今朝から大雨だといふのに、相変わらず日本独立戦線部隊の人間たちは我が父親の墓前で手を合わせ、皮肉にも其処で世界平和を祈り、灰被りの血生臭い其の両の手で、花なんぞを手向ける。日本国を開戦へと導き、敗戦国へと陥れたとされる其の男の遺灰に、墓標に、何の価値があろう。日本国を辱めた戦犯者と揶揄される度、また、真実を知る己の心は土に眠る男以上に、辱められているのだ。ーーーーーーーー』
この書き手にとっての父親もまた自分と同じように、彼にとって大きなコンプレックスで、心の中に立ちはだかる巨大な壁だったのだろうか。
だが明確な相違があるとすれば、スザクの父であるゲンブは存命している、ということだ。もちろんその父は日本を開戦国にも敗戦国にも導いていないし、戦犯者でもない。
この書き手の遺す言葉が事実であるとするなら、彼の父親はたとえば、総理大臣か軍の最高権力者、いずれにせよ当時の日本において大きな権力を持っていたのだろう。でないと、国ひとつを仕切って開戦へと向かわせることなど不可能だからだ。
スザクの父もまた、政治に関わる仕事をしている。政治といっても、地方議員の端くれだ。やはり国ひとつを動かせたり脅かす権力などは、持っていないだろう。だろう、というのはスザク自身、父親の仕事をよく知らないからだ。
しかし、そんなことができたら枢木家はとっくに大富豪で、スザクの人生ももっと違うものだったはずだ。
大まかな境遇は似ている節もあれど、やはり相違点が多く、一致している点もただの偶然だと思うほうが自然と言える。スザクはそう結論づけて、書物を閉じた。
祭壇を構える社から出ると、東の空はすでに深い紫色へと移ろい始めていた。いくら春先に比べ日が長くなったと言っても、時間が遅くなれば闇夜へと変わるのはどの季節でも同じだ。それに加え、初夏の始めとも言えるこの時期は、暗くなるといっきに空気が涼しくなる。つまり、山の麓にあるここでの長居は禁物だ、ということだ。
長い石階段をゆったり下っていると、不意にどこからか、よく知っている声が聞こえた。
階段の終わりの先にある道に視線を向けると、スザクの実家の屋敷にたびたび訪れていた家政婦が立っていた。耳をすませばその声は、己の名を呼ぶものだとようやく気がついた。
「すみません、僕は、あの屋敷には、もう」
枢木家の長男であり一人息子であったスザクは、父の仕事や財産を引き継ぐことを放棄し、家を飛び出した。もしくは、軍人になると言い出したスザクを父親が追い出した、とも言える。
彼女はスザクが勘当されたことを、まだ知らないのだろう。口にするのもなかなかに憚られるその経緯を話そうとした途端、彼女が遮った。
「ご当主様の訃報を、まだご存知でないのですか…?」
「訃報?」
彼女は青褪めた顔で、スザクに告げた。
びゅうと吹き抜ける山風が木々を揺らしさざめいた。土煙と夜の匂いと微かに聞こえる虫の声が、五感をひどく刺激する。
カラスの群れは寝床を目指して一直線に、まだ燃え続ける西の彼方へと飛び立った。黒の大群は空を覆い、モザイクのように蠢いている。
これが日本の古き良き風景だと、誰かが言っていた気がする。あまりに些細なことだったから、誰が言ったのかはもう覚えていない。しかしスザクはそんな感性に、概ね同意しかねていた。それは、"その人の言うことは概ね間違いであろう"という幼稚な先入観が生み出した、幼稚な感性が由来なのかもしれない。
これはスザクが後に知ったことであるが、父親であるゲンブは一部で売国奴と謗られる人物であったらしい。
死因は自殺と断定されたらしいが、まことしやかに囁かれる噂はどれも他殺、暗殺の類であろうという、不謹慎なものばかりだった。
今更顔を出す資格もないと、通夜にも告別式にもスザクは欠席した。
あれがあの男の一人息子だぞ、と後ろ指を指されることも嫌だった。しかしそれ以上に、死してなお日本の裏切り者、売国奴、と辱められる父親の、威厳に満ちた遺影を前にすることが何よりも恐ろしく、許せなかったからだ。手を合わせることも、花を手向けることも、線香をやることも、父の死に立ち会うことも出来なかった。
だからせめて、骨が埋められた墓石の前に立って、スザクはようやく忌々しい父と面と向かい合った。こうして直に相対するのは、生まれて初めてかもしれない。骨になってようやく息子と向かい合えるなんて、父親にとってはなんとも皮肉な話である。
周囲の身内や仕事上の付き合いの人から、実の息子にまで愛想を尽かされ、実に惨めてみっともないお似合いの最期だ。仕事にばかりかまけて一度も向かい合ってくれたことのない父親には、これくらいが相応しい。
スザクはいっそ晴れ晴れしい気持ちになりながら、線香の煙を纏う墓石の前でほんの少しだけ泣いた。
いくら政治家といえど前述したとおり、彼は一介の地方議員に過ぎない。地元の新聞には載るだろうが、全国規模の記事やテレビ、インターネットでの報道も大々的に行われることはなかった。
だから学校へ行ってもクラスメイトからそういう話をされることや、陰口や噂話などもスザクの知る限りで身に覚えはない。むしろそのほうが有り難いくらいだ。
「おはようルルーシュ」
「ああ、おはよう…」
頬杖をついてぼんやりとスマートフォンを弄るルルーシュに、スザクは声をかけた。
彼はまだ眠いのか、何か考え事でもしているのか、どこか上の空であった。
「どうしたの?」
スザクが伏し目がちなルルーシュの顔を覗き込んだ。
いつもはすぐに顔が近いだの暑苦しいだの、謂れのない罵倒が飛んでくるはずなのに今朝はそれがない。らしくもなく、ルルーシュは長い睫毛を何度か瞬かせて、何かを言いかけた。
言い淀む素振りを見せたのも束の間、彼はスザクの顔を見つめ返した。
「いいや、何でもない」
ルルーシュは持っていた端末の電源を切って、ポケットに仕舞い込んだ。
後に思い直してみたがあれは恐らく、己の父の訃報を知ったルルーシュに気を遣わせてしまったのだろう。枢木家の屋敷に幼い頃のルルーシュを留学生として迎えたことがある。だからスザクの父親の名前を彼が覚えていても、何ら不思議ではない。
むしろ、ルルーシュを驚かせてしまったのかもしれない。実の父を失ったばかりのスザクが、顔色ひとつ変えず登校してきたからだ。
だがルルーシュもルルーシュで、あれ以来気になるような言動はしなくなったし、何事もなく普通に接してくれた。変に顔色を窺われるより、よっぽど気楽だ。
少なくともスザクはそう考えていた。