夭折した君へ 第二章

 時は少し遡り、アッシュフォード学園での新たな生活が始まる三日前のことである。

 この学園は寮制度のため、必要な家具や衣類は自宅から持ってくる必要があるものの、洗濯機やエアコンなどの白物家電は既にあらかた学園側が揃えてくれていた。そのため生徒は衣類や趣味の物、その他のこまごまとした生活必需品のみを持ち込むだけで良かった。
 新学期が始まるまで大半の生徒は部屋の掃除や家具の配置、荷物の整理、真面目な生徒は予習などを僅かな春休み期間に行う。ルルーシュも例に漏れず部屋の片付けや掃除などに追われていた。とはいっても衣類や食器などの毎日使うが消耗しないものは必要最低限だけ、毎日使っていくうちになくなっていく消耗品は春休み中に全て買い揃えるつもりでいたため、荷物の量はさほど多くはない。ソファやテーブル、収納棚といった大きな家具もいっそ通販か何かで買ってしまおうという腹積もりであった。
 持ち込んでいた衣類をクローゼットに仕舞い終えると、誰かを招いている覚えはないのに部屋のインターホンが鳴った。隣近所の生徒が律儀に挨拶回りでもしているのかと思い、何の気なしに扉を開いた。

「ルルーシュ! 遊びに来たよ!」
「……ばかか、お前」

 呆れ半分鬱陶しさ半分といった、あまりよくない表情を貼りつけたルルーシュは、ドアを半分だけ開けてスザクの明朗快活な言葉を聞き流した。アポイントメントのひとつも取らず押しかけてくるとは、相変わらず非常識な奴だと思った。

 ルルーシュによって少しだけ開けられたドアの向こう、自称両目2.0の御自慢の視力を行使して、スザクは廊下の奥を覗き見ようとしていた。
 まだどの生徒も、部屋に荷物を運んで三日も経っていない。彼の知っている限りどの生徒も片付けに追われているはずであろう。ルルーシュも例外なくそのはずだと、そう思って覗き込んだ先には予想外の光景が広がっていたらしい。
「もう片付け済んだの!?」
「声が大きい」
「重い荷物があれば、僕が手伝うって言ったのに」
「元から俺はそんなに、向こうから荷物を持ってきていない」
 ルルーシュの指す向こう、とは彼の住むブリタニア国にある実家のことだ。
「現地調達?」
「まあ、そんなところだ」
 兄弟たちに入学祝いだと言われて押し付けられた通帳には、おおよそ一般的な学生が所持することが許されないくらいの額面が印字されていた。これらの大金は必要な家具を買うための資金に充てた。だからルルーシュの部屋には当面最低限の生活ができればいい、という程度の物しかなく、殆どを日本に来てから揃えるつもりでいた。
「……今から日用品、買いに行こうと思ってた」
「それは、僕についてこいってこと?」
「好きにしろ」
 言葉こそ冷たいものの、表情や態度から滲み出る浮足立った雰囲気はどうにも取り繕えていないらしい。スザクがにやついた顔でこちらを窺うものだから、ルルーシュはその緩みきった間抜けな頬を抓ってやった。


 学園寮前から発車するバスに揺られること十分程度。
 駅前の繁華街で降りた二人は、ホームセンターやドラッグストア、日用品雑貨を取り扱う専門店を梯子した。
 この近辺は学園の送迎バスでのアクセスがしやすいため、アッシュフォード学園の生徒が生活必需品をよく調達しに来る。それゆえ学生たちのニーズに応えようと若者向けの雑貨店が軒を連ねており、ちょっとした学生街の様を呈している。
 雑貨店だけでなく飲食店も多く、恐らく休日となれば外で済まそうとする学生で多く賑わうのであろう。大盛りのご飯と山盛りの肉と野菜がセットで格安のワンコインで頼めたりする、いわゆる学生食堂であったり、女性が喜びそうないかにも洒落込んだテラスカフェであったり、外観や狙う層は様々ではあったがやはり若者が主なターゲットであるのは明白だ。

 とりあえず、このあたりでも一番規模が大きそうなホームセンターのチェーン店へ二人は足を運んだ。多くの店を梯子するより、一つの店であらかたの買い物を済ませてしまったほうが楽だろうという至極まともな理由からである。
 いかんせん最大規模のホームセンターとなると、そもそもどこに何があるのかすら分からないものだ。あまりに広すぎる店内は最果てが見えず、アパレル専門店や飲食店が立ち並ぶ商業施設のようである。店内の商品配置や陳列を記した簡易地図と、天井からぶら下がるコーナー名の看板を頼りに、二人は店内を彷徨い歩いた。この時期はルルーシュ以外にも生活用品を買い求めに来る学生が多く居るらしく、店内は大盛況であった。
 あのマグカップはどうだとか、このカーテンや照明器具はお洒落だとスザクが提案すれば、ルルーシュはどこがお洒落だ幼稚だと尽く却下し、かと思えばルルーシュがこの食器は使えそうだと気に入れば、スザクは悪趣味だと横槍を入れる始末であった。そのちぐはぐで噛み合わない趣味嗜好ですら、二人の会話を盛り上げる話題のタネとなる。
「買い物はこれで終わり?」
「あとはドラッグストアで衛生用品を買えば、大体はなんとかなる」
 スザクの持つ袋には部屋の照明用の電球や蛍光灯、カーテンレールとカーテン、フライパンや鍋、まな板包丁などのキッチン用品などが詰め込まれ、端から見れば引っ越し業者と見紛うほどである。しかし彼はそれを容易く持ち上げ、涼しい顔をしてルルーシュの隣に並び買い物を楽しんでいる。ルルーシュにしてみればこれ以上ないほど彼の力は頼りになるのだが、あまりに荷物運びを手伝わせ過ぎてむしろ申し訳なくなるほどだ。だが当のスザクはあっけらかんとして、むしろこれ以上にルルーシュの手から買い物袋を奪おうとするのだから、ルルーシュは考えるのをやめた。
 ドラッグストアでは歯ブラシや歯みがき粉、トイレットペーパーや箱ティッシュ、頭痛や腹痛といった使用頻度が高そうな常備薬、簡単な応急手当セット、石鹸やシャンプーに洗剤、思い付く限りの中で必要になりそうな物を片っ端からカゴに放り込んだ。ドラッグストアで購入した商品はルルーシュが持ち、ホームセンターで購入した商品はスザクが持つ流れとなったが、明らかに彼の負担のほうがルルーシュの何倍もあるように見えた。

 なんだかんだと忙しなく買い物をしていて気がつかなかったが、店から出るともうとっくに日は暮れ始めていた。いくら春先といえどまだ朝晩は冷え込み、寒の戻りだの小春日和だので日中の気温も日によってまちまちだ。あまり風に当たっていると体を冷やしかねないため、早々に引き上げてしまおうとルルーシュが提案しようとしたが、声を発したのはスザクのほうが先であった。
「ちょっと荷物置いておくから、そこのベンチで座って待っててよ」
「え、ちょっと、おい!」
 ルルーシュは静止の言葉をその背中に投げつけたが、スザクは振り返ることなくそれだけを早口で言い残し、どこかへ走り去ってしまった。

 木目調のタイルで舗装された駅前の道の両脇には植え込みや花壇が数多く設置され、行き交う人の目を楽しませる。その中でもとくに目を引くのが、駅前のシンボル的な存在の時計搭である。搭を囲むようにして花が植えられ、この時期のせいもあってか色とりどりの花びらが綻んでいる。そしてその時計搭と花壇を囲むようにしてベンチが設置されているため、待ち合わせ場所にはうってつけかもしれない。

 ルルーシュは無人のベンチに腰掛け、荷物でぱんぱんに膨らんだ買い物袋を雑に置いた。スザクがあんなにも何てことのないような顔をして持っていた袋は、ルルーシュには両手で持ち上げても充分重いほどであったから、彼の凄まじい筋力に感謝した。恐らくルルーシュひとりでは今日一日でこんなに買い物を済ませることは不可能であっただろう。
 一番星がちらつき始め、そろそろ風が肌寒く感じ始めた頃、ようやく待ち人は姿を現した。その両手には小さなコンビニ袋を携えている。
「飲まず食わずだったから、あったかいものと飲み物買ってきたよ」
「…! わざわざすまない、むしろ付き合ってくれた俺が行くべきだった」
 ルルーシュは自分の気の回らなさを責めた。自然とこういうことを出来る彼へは恩に着ると同時に、ルルーシュは自身の鈍さや気の利かなさに内心歯噛みした。スザクは気にしないでいいよと笑ってくれたが、それでもやはり自分ばかり施しを受けているようでルルーシュとしては不本意である。
「なんだこのピンクの肉まん」
「桜餅味の肉まんなんだって、期間限定の」
「桜餅味……」
「和菓子のやつ、食べたことない? それともあんこが苦手だった?」
「いや、食べれるから平気だ」
 スザクは決して味音痴というわけではないが、この手の期間限定の色物商品に挑戦することが好きなようであった。そのチャレンジャー精神は大いに結構なことではあるが、ルルーシュとしてはどちらかと言えば普通の肉まんを食べたい気分だったから少し肩を落とした。当然ながら買ってもらった分際でとやかく言うわけにもいかないので、その本音はそっと胸の奥底に仕舞っておくことにする。
 桜餅味の肉まんとやらを平らげ、口直しに飲み物をと思い袋から飲料を取り出すと、それはホットココアであった。これもまたスザクには申し訳ないが、ルルーシュとしては無難に水かお茶で喉を潤したい心境であったから、少々困惑した。桜餅味の肉まんとホットココアという食べ合わせに疑問を抱きながら、しかし彼がわざわざ買ってきてくれたものであったので有り難く頂いた。

 二人の間を吹き抜ける風は厳冬の名残がまだまだ強い。温かいココアが冷えた内臓を暖めてくれるようで、これはこれで悪くないと考えを改めた。人間というのは疲れていると、自然と甘いものを求めるものだ。脳を働かせることに必要なのは糖分であり、脳が糖分を切らすと肉体も自然と甘いものを欲するのだろう。そういうメカニズムを考慮すると、スザクが選んだこの組み合わせにも納得がいく。
「こんな甘々なやつよく食べれたね。僕もう無理だよ」

 必死に彼の行動を擁護していた己のバカ真面目さを認めるのが癪で、ルルーシュはスザクの脇腹を小突いた。

 帰りのバスの車内は人が疎らで助かった。こんな大荷物を抱えて大混雑するバスに乗り込めば、間違いなく迷惑なことこの上ない。
 窓ガラスに映る自分の顔と、その奥に見えるスザクの顔を盗み見た。初めて出会ったときは丸みを帯びていた柔らかな頬の曲線も今はすっかり削げて、精悍な顔つきになった。随分男前になった彼の顔からはあの可愛らしい坊やの面影はなくなり、それがルルーシュとしては少し勿体ない。勿論現在の、東洋人独特のオリエンタルでハンサムな造形も、口には出さないが密かに気に入っている。

 ルルーシュがそんな取り留めのない考え事をしていると、窓に映っていたスザクの視線が不意にこちらを向いて、同じく窓に映されていたルルーシュの視線と絡み合った。
 通路側に座るスザクはルルーシュの方へ少しにじり寄ったかと思うと、ルルーシュの肩に頭を預けた。ふわふわと跳ねる猫っ毛が首筋に当たってくすぐったい。ルルーシュがくすくす笑って身動ぐと、スザクも何の対抗心か頭頂部をぐりぐり押し当つけてくる。
「もう眠い。ルルーシュの家連れてって」
「ばか言え、俺はこの荷物を片付ける予定があるんだ」
「なら手伝うよ」
 顔を伏せているせいで声が聞き取りづらく、スザクが声を発するたびに肌に息がかかって、なんだかむず痒くなった。だが本日の功労者を無下に扱うことも出来ず、ルルーシュは甘えたな彼をしばらく好きにさせてやった。
「お前は部屋の片付け終わってるのか?」
 随分ルルーシュの手伝いばかりやりたがるようだが、かくいう本人の居住まいはどういう状況なのだろうか。もし何一つ手をつけていないとすれば、それは大問題だ。新学期まで残り三日である。学校生活が始まってしまえばろくに片付けも捗らないであろう。
「明日一日で全部、片付ける予定だから大丈夫。体力には自信があるから」
 確かに荷物運びなど肉体労働も多数伴うが、それより部屋の片付けに大事なのは作業効率であろう。どれだけ体力があろうと、思い出のアルバムを見返していたら夕方になっていた、となってしまえば元も子もない。どんな思い出の品や誘惑にも靡かない集中力と、どうすれば効率よく片付けを行えるかという計画性が重要なのだ。
「明後日は召集あるし、何としてでも明日で終わらせないとなあ」
「召集? 軍の? 卒業後に就職じゃなかったのか」
「うーん、そのつもりだったんだけどね」
 以前電話口でのやりとりで互いの進路の話をした際に、スザクが漏らした軍人になるという目標を、ルルーシュはふと思い出した。決して忘れていたわけではないが、良い意味で俗っぽく、ごく普通の男子高校生らしい彼がそのような目標を持っていることが、ルルーシュにとっていまだに現実味がないのだ。
「やっぱり、出来るだけ早く知識も力も身に付けたいからさ。学校通いながら軍の仕事も、まあそんな大したことじゃないんだけど…。しようと思ってて」
 その情報を初めて耳にしたルルーシュは言葉を失った。軍の仕事、と簡単に彼は口にするが学生のアルバイトとは勝手が違うであろう。忠誠を誓ったお国とそこに住まう一般市民のために、その身を挺することがあろうとも厭わず人々を助けるのが使命なのだ。

 ルルーシュも愛する妹のため、粉骨砕身し守ってやったこともある。少し複雑な家系図の事情で、ルルーシュには腹違いの異母兄弟が複数居るが、実際に会ったことがあるのは四人だけだ。ルルーシュとその妹であるナナリーを産んだ母は、幼い頃に既に他界している。ルルーシュの実母は、中央都市の政治権力を握る父方の家系へ嫁いできた余所者であった。つまり、ルルーシュ幼少期に母を亡くしてから親戚親類の中で後ろ楯をなくしたも同然であったのだ。かつてブリタニアは血統と権力こそが全てとする超排他的な実力主義国家であった。しかし、近年の個人主体に重きを置く風潮や世論の影響により、そんな封建的体制も大きく見直されてきた。しかしルルーシュの家系はまだまだ純血派を主張し、それら勢力の中でも依然として権威のあるお家柄であった。それが良いのか悪いのかは人それぞれであろうが、ルルーシュはそんな国家と家柄の元で必死に足掻き、抵抗し、降り注ぐ火の粉から身を挺してナナリーを守ってきた。
 しかしルルーシュがナナリーを守る動機はただひとつ、唯一血の繋がった愛する家族で、何よりも大切な彼女を守ってやれるのは自分しか居ないからである。何物にも代えがたい唯一無二の存在だからこそ、心から入れ込んで守ってやりたいと思えるのだ。

 だから、スザクが軍人を志望する理由が分からなかった。見ず知らずの人間のために時には汗と血を流し、手を差し伸べることは確かに大変高尚なことで、それゆえ己には真似できない。なんの大義名分があってスザクは国に仕えようとするのか、理解できなかった。
「そんな寂しそうな顔しないでよ」
「してない」
 スザクの誇り高いその夢は、世間から見れば大層立派で、どこに出しても恥ずかしくないであろう。だから彼が、自分の預かり知らぬどこか遠くへ行ってしまうようでそれがひどく恐ろしかった。否、もう既に彼はそのどこか遠い場所へ向かって足を一歩踏み出しているのだ。ルルーシュにはそれを止める義理も権利もない。こんなに近くにあるはずの体温が寂しくて、虚しかった。幼い頃に初めて彼と出会って、必ずいつか再会を果たそうと約束を交わし、今ようやく彼の隣で長い時間を共有できると思っていた。しかし時間というのはいつも刹那的だ。嫌なことを風化させ忘れさせてくれる側面もあれば、代えがたい大切なものをルルーシュから奪おうとする。
「新学期の前日、久しぶりに神社に行かない?」
「神社?」
「ほら僕と君で昔、行っただろう。僕の実家の裏手にある……」
 その説明でああ、とルルーシュは思い出した。
 日本に留学していたルルーシュがブリタニアへ帰る前日、スザクにどうしても見せたいものがあると言われて連れて行ってもらったのだ。茜色に染まる空と境内で、スザクとルルーシュは必ず再会を果たそうと誓い合ったことを今でも覚えている。
「なら、ご実家へ顔を出したほうがいいんじゃないか?」
「ああー……うん、そのことなんだけど、ね」
 スザクは言いづらそうにしながら口ごもった。それはいつもはっきりした物言いの彼にしては珍しい。己には相当言い出しづらいことでもあるのだろうか。ルルーシュとしてはホストファミリーとして迎えてくれたあの屋敷の者たちに、再会する機会があれば一言礼を言いたいところであった。
「父さんの仕事も家業も継がないって言ったら勘当されちゃって……」
「勘当……!?」
 てっきり喧嘩しているだとかお見合いの話があるだとかそういう話だと思っていたから、その斜め上過ぎる家庭事情にルルーシュは狼狽した。
「だからまあ、ある意味自由ではあるかな」
 苦笑いする彼のその声音に少し晴々とした色も混ざっていて、その言葉が決して建前や虚勢ではないことが窺えた。相変わらず負けん気の強い男である。
「それだとお前、ひとりじゃないか」
 ブリタニアほど日本国は個人の血統や出自に敏感ではないであろうが、それでもこの国には”世間体”という独特のコミュニティが存在する。この国の体質のひとつに、個々の個性を重んじるよりも横並びの集団であるほうが吉、という風潮がある。それが良いか悪いかはさておき、その点が恐らく影響しているであろう”世間体”と呼ばれる慣習は、今のスザクにとって足枷となる。世間体、社会のレールから一度外れた者は後ろ指を指され、肩身の狭い思いを強いられるのだ。
「君がここに居るから、いいよ」
 スザクは走行音にかき消されそうなほどか細い声でそう呟いて、ルルーシュの顔を見つめた。
「ルルーシュが居てくれることが、僕の夢を後押ししてくれるんだ」

 とろりと蕩けた緑は何も映さず、感情を読ませようとしない。だからルルーシュの瞳に向かって、何かを伝えようとするその視線の意図を、推し図ることができなかった。
 スザクのかさついた唇が己の顔に、そっと近づいてくるのが分かった。その先に起こるであろうことを予感したルルーシュは、この身全てを彼へ捧げたい心地になって、ゆっくりと目蓋を閉じた。
 彼のひと回り大きな手が、ルルーシュの線が細い輪郭を愛しげにするりと撫で下ろした。



 ――次はアッシュフォード学園前、次はアッシュフォード学園前……

 そのアナウンスが耳に入った瞬間だ。
 ルルーシュは咄嗟にスザクの体を突き飛ばして、停車ボタンを押した。
「……降りる準備、しよっか」
「…………ああ」
 自分達が今何をしようとしていたのかなんて、考えなくても分かることであった。
 スザクは少し染まった頬を隠そうともしないし、ルルーシュは耳まで熱くなった顔を俯けた。

 いそいそとバスから下車した二人を、まだ春の訪れを感じさせない冷え切った風が通り抜けた。さきほどの車内でのこっぱずかしい出来事のせいで火照った頬には、そのくらいの冷たさがちょうどいい。
 何とも形容しがたい雰囲気が彼と自分を包んではいたが、ルルーシュはそれに気づかぬふりをして無言で寮までの短い道のりを歩いた。
「明々後日、神社に行こう」
 スザクは先ほどのことは何も覚えてないような、白々しい素振りでそう言った。スザクが何もなかったことにするつもりなのであれば、自分も彼の意向に合わせようと思った。どうして彼がそれをなかったことにしたいのか、ルルーシュには分からない。だが彼がそうしたいのなら、自分もそうするべきであると直感した。だからルルーシュも気まずい雰囲気を振り払って、ああそうしようと二つ返事をするのであった。



 新学期の前日、二人は約束通りスザクの生家の裏手に構える寂れた神社へ赴いた。
 なぜこのタイミングでスザクが突然神社へ行こうと言い出したのかは、ルルーシュの想像に難かった。しかしあそこは必ず再会しようという、叶うかどうかも分からない約束を交わした二人にとって、唯一無二の思い出の地である。いくら日本には八百万の神様が居ると言ったって、あんな寂れた社にまで神が宿っているとは信じがたい。しかし万に一つでも、スザクとルルーシュの再会という夢を叶えてくれたのが神様の手引きであったのだとしたら、それはぜひ報告へ行かねばならない。人間とは都合の良い生き物で、普段は神様が幽霊が超常現象がなんだとふんぞり返るくせに、こういう時だけは神様仏様と胡麻をするのが達者になるものだ。そういう人間の弱さや醜さもどうか、件の神社の神様も大目に見てほしい。

 六年ぶりに訪れたそこは、鳥居の位置や何十にも続く石階段の数なんかは変わっていないものの、人の手が全く加えられず荒れ放題で廃墟同然であった。当時から鳥居や建物の劣化は随分酷かった記憶があるが、ルルーシュの目の前にあるのはその記憶の中にある神社と似ても似つかぬ有様である。台風や地震がくれば一瞬でぺしゃんこになりそうなほど脆くなった柱や石と、それらを覆い尽くすほど生い茂った雑草、虫に食われてひびや割れ目の入った鳥居が無常観を物語る。
 ルルーシュの中にある記憶と比較して、もう少し原型を留めていれば思い出にも浸れただろうに、これでは何をしに来たのか分かりやしない。おおよそ境内という様相を逸脱したそこは心霊スポットを彷彿とさせる。
 二人は鳥居をくぐり雑草の伸びきった石畳を歩いた。石階段を一生懸命上ってからここで見える夕日が、とびきり美しかったことも思い出す。
 そうして拝殿の前に辿り着いたものの、風が吹けば倒れるのではないかというほど社は老朽化が進んでいる。賽銭箱の中を覗くと埃とカビの臭いが大層ひどく、とてもじゃないが近寄れない。真上に視線を上げると、本来は拝殿の威厳や荘厳さを演出するためのしめ縄が随分痩せ細り、茶褐色に変色していた。威厳どころか頼りなさすら感じるそれに、ルルーシュは思わず苦笑いした。
「ね、入ってみようよ」
「は?」
 スザクはそう言うや否や、賽銭箱の向こうにある崩れかけた柵を乗り越えて拝殿の内部に侵入していた。高台に続く木の階段は彼が踏みしめるたびにミシミシと音が鳴り、慎重に体重をかけなければ足場が抜けそうだ。
 しかし彼はそんな段差もものともせず、そのまま土足で拝殿の内部へ踏み入った。てっきりルルーシュを神社へ連れて来させた理由を、思い出話か何かのためだと思っていた。先ほどからのスザクの突拍子のない行動はまるで宝探しにやってきた好奇心旺盛な少年そのもので、ルルーシュは呆気に取られながらその背中を見ていた。この年になって秘密基地探しのつもりかと呆れたし、妙にセンチメンタルになっていた自分が恥ずかしくなった。
 そもそもいくら人の手が及ばないからといって、ここは腐っても寂れても神を祀るれっきとした神社である。ゆえに拝殿と言えどそんな神聖な場所を土足で踏み入って、何か罰当たりなことが起こらないのかとはらはらするのだ。この拝殿の奥には、正真正銘神様を祀る本殿も存在する。ルルーシュはこれといって偶像崇拝もしないし宗教信者でもないが、神様というのは信じる者の元には確かに在るものだ。存在すると断言するには曖昧過ぎるがしかし、存在しないと言うには軽んじることのできないその概念を、ルルーシュは軽視していなかった。信じない者の元には訪れないし、信じる者は救われるのだ。
 たとえば、スザクとルルーシュの再会という夢を叶えてくれたように。

 スザクがどうしたの、というふうな顔をして手招きをした。ルルーシュは不承不承といった調子で、無礼を承知で拝殿へと踏み入った。
 高台に敷き詰められた薄い木の板は雨漏りのせいかところどころが腐食し、欠けて穴が開いたり変色が進んでいた。埃とカビの臭いのするその空間にルルーシュは顔を顰めたが、スザクは宝探しと言わんばかりにあたりを物色している。
 ところどころ雨漏りで腐食したり蜘蛛の巣が張られている天井は、格子状に木を組み合わせて建造されているようでなかなか立派である。その古来日本独特の木造建築のおかげで今日までこの社が現存しているのだと、ふと感慨深くもなった。建造物というのは、民族の英知を象徴するものだからだ。
「ルルーシュ見て、これ」
 拝殿の一番奥に位置する小作りな祭壇の前でしゃがみ込む彼が、明るい声でルルーシュを呼びつけた。一体今度はなんなんだと訝し気にスザクの手元を覗き込んだルルーシュは今度こそ、あっという声を出した。
「写真?」
「そうそう」
 彼の手には一枚、白黒のポラロイド写真が握られていた。
 椅子に座った男と、その右側に佇む男の二人、不鮮明なモノクロ印刷で写されている。ルルーシュの暮らす現代ではもうとっくに写真はデジタルのフルカラーが当たり前だし、そもそも”写真”という物を手元に残すよりも、”映像写真”として端末に保管する機会のほうが圧倒的に多い。昨今はとうに情報化社会が進歩しており、いちいち膨大な現物を管理するアナログな手法はもう時代遅れで、映像も文書もデジタルデータによる一括管理が主流である。そのほうが効率的で場所も取らず、情報の引き出しや参照が容易だからだ。
 しかもその白黒写真は、紙そのものの劣化というのもあるだろうが、顔の表情などが分かりにくいほど印刷が不鮮明であった。だからおそらくそれが撮られたのは何十、いや何百年単位で遡ることになろう。
 それはポロライドであったが、写真の余白に文字はない。だからそれがいつどこで、誰が写っているものなのか判断がつかない。
 身に着けている装束は最近の洋服とは随分異なる印象の、一昔前の宮廷貴族が纏うような煌びやかなデザインである。歴史の教科書でよく見かける、近世から戦前あたりに流行ったらしい衣装に酷似していたから多分、年代としてはそのあたりなのだろうか。

 左側の男は白っぽい重たげな装束を、右側に立つ男は黒っぽいマントのようなもので体を覆っていた。
「この人、なんかルルーシュに似てない?」
「どこがだ」
「偉そうなところ」
 無礼な口ぶりでからからと笑う友人の頭を遠慮なくはたいたルルーシュは、意趣返しと言わんばかりに口を開いた。
「この隣の人は、スザクっぽい」
「なんで?」
「薄情そうなところ」
 スザクは聞き捨てならないと猛抗議したが、ルルーシュは無視を決め込んだ。

 この間のバスの車内で、スザクはルルーシュの唇を奪おうという明らかな意思をむき出しにした。そのくせに彼はその思いも、ルルーシュがそれを受け入れようとした思いも、全部なかったことにしたのだ。人の気も知らない彼にお似合いの形容詞であろう。

 彼は未だに頬をむくれさせながら写真をまじまじと見つめていたがそれは気にも留めず、ルルーシュはスザクの足元にあった紙束に目を遣った。
「これ、何かの文献なのかな。すっごい量の文章書いてある」
 ルルーシュの視線を察したスザクはそう言いながら、その束を手に取った。紙の右側に穴を開け、紐を通した文集のような体裁であるそれの表紙を一枚捲る。縦に引かれた罫線に沿って、あまり達筆とは言えないが几帳面そうな文字が綴られており、それは何十、何百ページにも渡っている。その上、この束はひとつだけでなく同じような厚みのものが三つ四つと漫画雑誌のように重ねられており、確かに当時の文献か記録かと思われるほどの文章量である。
「なんて書いてあるんだ?」
「うーん……」
 ルルーシュはその文献のようなものに目を通して見たが成程、文章の書き方が今の自分たちとは大きく異なっており大変読みづらい。先ほどスザクが発掘したポロライドは何かのコスプレを昔風に加工したものだという可能性も否定はできなかった。しかしこの古めかしい文書と照らし合わせると本当に、その写真に写る人物がこの文書を遺したという手掛かりはないが、ルルーシュたちが生きる現代より数十、数百年前の人間が遺した物品だという確実性が高まってきた。
「これ読める?」
「なんとなく、意味は…。でも正確には読み取れない」
「うん、僕も」

 よく古典の口語訳や近代文学で見かける、それはいわゆる言文不一致体と呼ばれる文章であった。口で発音する音と文字で書く音が異なる文章のことを指し、戦前までこの国ではそのような文章の書き方が一般的になされていた。しかし戦後になり、国の方針のひとつである教育改革により喋り言葉と書き言葉の統一が行われ、学校教育でも言文一致が実施されるようになったのだ。それはたとえば、住む地域や年代によって、国家が国民に向かって公布する憲法や条例の文書を、正確に読めない者が存在することがあってはならないため行われた。国家を統治するにはまず国民に、国のルールや方針、政策や施策を周知させ従ってもらわねばならいのだ。その他にも児童を含めた全国民の識字率を上げる目的なども存在するが、やはり大前提として挙げるなら前述した一例である。

 言文一致体であるということは、この文書は少なくとも戦中か、それより前に書かれたということになる。
 埋蔵金だとか骨董品だとかのお宝ではないかもしれないが、重要な文献資料かもしれないことは確かである。スザクとルルーシュは思いがけない発掘物に、我知らず目を輝かせた。
「こんなもの、どこから見つけてきたんだ」
「この祭壇の引き出しの中」
 祭壇とは本来は鏡や供物、祈祷に使用される幣などを配置する場所であるが、今そこには何も入っておらず埃を被っていた。恐らく神事で使用される道具などを収納するためであろう祭壇の引き出しに、スザクはその写真と文集を見つけてきたのだ。

 スザクは表紙を捲った一枚目の頁をじっと凝視し、なんとか解読しようと苦心していた。それを何となしに隣から覗き込んでいたルルーシュは、ふとあることに気付いた。
「これ、もしかして日記じゃないか」
「日記?」
 ルルーシュは紙の右端、文章の始まりの部分を指で指示した。
「綴じてある周辺は紙の損傷が激しくて解読できないが、二行目は『天気、快晴』ってあるだろ。そのあとは多分、『今日からここに、その日一日の記録をつける』って書かれてある」
「言われてみれば、確かにそうかも」
 スザクのいい加減な口ぶりにむっとするルルーシュであったが、敢えてそれは指摘しなかった。今は己の感情より、目の前の発掘文書の解読作業で手一杯なのだ。
「じゃあその続きは『これは彼には他言無用の、恐らく正しい歴史には記録されない負の歴史の物語だ』かな?」
「なんだ、結構読めるんじゃないか」
「いや、あんまり合ってる気はしないけどね」
 適当なことを言ってはぐらかしているように思えたが、おそらくスザクの解読内容は概ね合ってると推測した。
 言葉の使い方や表記は今とは異なるものの、それでも現代の文体と通ずる部分もあり、文章の前後のニュアンスを加味すれば全文を読解するのも大した労力ではなかった。
 大して身についていないように思えた古典の知識が意外と役に立つ場面もあるんだなと、スザクとルルーシュは暢気なことを考えながらその膨大な資料を読み進めていった。


(紙は腐敗と虫食いが進み、ところどころ読解困難である。綴じ部分はとくに変色しており、付近に書かれてある日付は読めない。また、恐らく人名であろう部分は文字の上から墨のようなもので黒く消されている。今回は辛うじて読める箇所から一部抜粋する)

『―月―日
天気、快晴
今日から此処に、其の日一日の記録をつける。此れは彼には他言無用の、恐らく正しい歴史には記録されぬ負の歴史の物語だ。勝者は歴史に名を刻み、敗者は文学を遺すといふ。ともすれば正しい歴史から、世界から排除された彼は敗者なのかと問われれば、己はそうとも言い切れぬ。何を勝者とし、或いは何を敗者と名付けるのかを問われれば其れもまた己には分からぬが、少なくとも、事実上明確に世界を支配した彼は紛れもなく、歴史に其の名を刻ませる王であろうし、紛れもなく王たりえる器を持ち得ていた。だが彼は世界から、正しい歴史から弾劾され、弾かれる運命なのだ。醜いほどまでに己の初志を貫き通した、憎いほど憐れで同情もできぬ悪逆王の、此の世の誰の口からも語られることの無い正史を、己が此処で語り継いでみせようではないかと、そう思い筆を執った次第である。後世には一切合切伝わらぬであろう、地獄で彼と運命を共にすることとなった我にしかできぬ、此れは歪められておらぬ正しい歴史の記録であり、彼の軌跡であり、我が遺書である。―――――』

 遺書である、と書かれた一文まで目に通し、スザクとルルーシュは同時に大きなため息をついた。それもそのはずである。お宝の在り処が書かれてある地図だとか、誰かの恥ずかしい卒業文集やポエムや日記だとか、そういった類の物を期待していたのだ。文章は堅苦しく読みづらいことこの上なく、歴史だとか王とか運命とか、中学生が好きそうな”いかにも”な文章にルルーシュは苦笑いした。

 ページを繰ると、そういった文章が何十何百ページに及んでいた。これでは読破するのにかなり骨が折れそうだと、隣の男と顔を見合わせて困惑した。
 どうやら一ページにつき一日分の日記、もとい遺書が記されているらしい。一ページ目を捲り二ページ目を開くと、日付は文字が潰れてしまい読むことが困難だが、天気が”快晴”から”曇り”に変わり、どうやら先ほど読んだ日付から後日の出来事が記されているようだ。とは言っても内容はやはり、ルルーシュやスザクが普段目にする文書とは程遠い雰囲気だ。回りくどい文章表現のせいで読解するのにも一苦労である。
「魔法が使えるとか、軍艦が空を飛ぶとか、そういう内容だったらもっと面白かったかも」
 スザクがそう呟くと、ルルーシュは思わず吹き出した。そういったサイエンスフィクションやファンタジーがご所望なら、書店へ行けばいくらでもあるだろうにと、ルルーシュは呆れた目でスザクを見た。
 スザクはその視線を気付いているのかいないのかは定かでないが、何事もないように二ページ目へと目を通し始めた。その内容はどうやら本格的に日記らしく、その日一日に起こった出来事や近況などを書き連ねているようだった。いるようだ、と推測する体なのはルルーシュ自身、この文章の内容をきっちりと把握できないからである。恐らくそういう内容なのであろう、とざっくりした読解しかできないのだ。それほどまでにこの書物は難解でいて、それ以上にルルーシュやスザクにとって退屈であった。

『―月―日
天気、曇り
盲目の呪いが解け久方振りに光を享受できるようになつたのも束の間、不自由な下半身が足枷となり地下牢に閉じ込められる彼の愛妹の、なんと哀れなことをと悲嘆する我もまた、彼女の啜り泣く声を聞きながら聞かぬ振りをするので、彼と同罪なのだ。皮肉なことに彼女に飯を配してやるのが我の仕事のうちで、しかし顔を見られてはならぬ身であるため仮面で顔を覆い、そうして彼女の御前へ赴けば、何故このやうな卑劣な事をと糾弾される。そのたびに己の身も体も悲しみで引き裂かれ、また全ての発端となつたあの男への憎悪が日にゝ心の内で増してゆくのを感じ、心が死んでゆくのだ。寵愛する愛妹を地下へ繋ぐ彼の心もまた日にゝ壊れ、狂ってゆくのを見届けるのもまた、彼が我に課した処罰であると割り切り、そうして己が己でなくなつてゆくのを、卑劣な彼は嘲笑うのだろう。――――――』

 この遺書で多く登場する三人称”彼”というのは即ち、遺書一日目で記されていた王のことだろうか。そしてどうやらその”王”には溺愛する”妹”が存在するらしく、しかし何らかの理由で牢に入れられている。そして”妹”を牢に繋ぐことを命じたのは紛れもなく兄である”王”自身であるらしい。
「王様って、この写真の座ってる人のことかな」
 スザクはそう言いながら、遺書と共に出てきたポロライドを取り出し、ルルーシュに差し出した。
 スザクが指差す白装束に身を包んだその男は確かに、些か若く貫禄は感じないが、隣に立つ男が彼の従者であるならばその推測はあながち間違いでもないだろう。とするならこの遺書を執筆したのはこの従者、なのだろうか。
 だがこのポロライド一枚でそれを断定できるかと言われれば、証拠としては信憑性に欠ける。この遺書を記した男の、たとえばこれが思い出の写真だったとして、写真に写る人間はこの男には無関係な人物であるかもしれないのだ。そもそもこの”遺書”自体が本当に、戦中戦後に遺されたものであるかどうかも、それを裏付ける物的証拠はない。熱心な文字書きによる自伝風の創作小説の可能性もある。わざわざ古ぼけた神社にこれを置くというのも、相当筋金入りのSFマニアか、質の悪い愉快犯の仕業かもしれない。

 そうやってルルーシュが推測していると、スザクが不意に声を掛けた。その目は訝しげで、何かに怯えているようにも見える。
「ルルーシュにも妹、ナナリーがいるよね」
「それがどうした」
 スザクはかぶりを振って、恐る恐るその先の言葉を口にした。
「ナナリーもついこの間まで目が悪くて、最近良くなってきたところで…この遺書に出てくる”妹”も目が悪かったって」
「お前なあ……」
「君も、この”王”も、妹を溺愛している」
「家族愛と言え」
「それにこの写真に写ってる王様っぽい人、ルルーシュに似てる」
 先ほどの下らないやり取りを蒸し返すようにスザクがそう言う。
 てっきりあれは冗談だとルルーシュは思っていた。まさか本気で写真の男と自分を似ているなどと言及するスザクに、ルルーシュは今度こそ呆れて物も言えなかった。だからルルーシュは、スザクの下らない仮説を踏襲して、こう言い返してやったのだ。
「ならこの従者はスザクか? お前が俺に仕えると?」
「うーんそれはちょっと、ないけど」
 そこはしっかり否定するのかとスザクに物申したかったが、彼が依然として深刻そうな顔をするものだから、ルルーシュは言葉を飲み込んだ。
「すごい偶然だなあって、それだけだよ」
「ふうん」
 スザクはいつもみたいにぱっと笑って、快活な声を出した。
 結局ルルーシュにはスザクが何を言いたいのか、肝心な部分は聞けず仕舞いだった。家族構成やその境遇が少し似通っているから、だからどうという話なのだ。
 スザクはこの書物を半ば本気で遺書であると信じ込んでいる様子だ。しかしルルーシュにしてみればこんなもの、誰かの熱心な創作小説か恥ずかしいポエムみたいなものだ。隠し場所をこの年季の入った神社にしたのも罰当たりに程があるし、捨てたいなら燃やすか可燃ごみに出してしまえばいい。こんなところに野放しにするから自分たちのような不届き者に漁られ、見つかってしまうんだ。
 ルルーシュはそうやって、姿なき不法投棄者に届かぬ非難をした。
 ルルーシュやスザクとて古ぼけた神社に土足で踏み入り敷地内を荒らす無礼者であろう。そのことについて棚に上げてしまったのは、幼き頃の思い出の懐古に浸っていたせいか或いは、まるで冒険家のような根拠なき全能感に満ちていたせいかは、本人たちも自覚できずにいた。



 まるで駒鳥のような愛らしい声と花が綻ぶような笑みは、ルルーシュの胸の内を溶かす雪解けの太陽であり、夜明けを終わらせる一閃だ。
 アッシュグレーのロングヘアーを揺らす彼女の表情に夢中になっていると、不意に彼女はルルーシュの顔を覗き込み、不思議そうな素振りをした。
「何か、お考え事でもおありですか?」
「いいや。ナナリーが新しい生活を楽しめているみたいで、嬉しいなあって思っていたんだ」
「お兄様たら。わたくしも、お兄様が旧知のご友人さんと一緒の学校に通うことができて、まるで自分のことのように嬉しいです。いつかご紹介してくださいね」
「勿論だ。近いうちにでも、三人でゆっくりお茶でもしたい」
「それは素敵ですね」

 スザクと共に神社へ赴き、新たな学校生活が始まってから一週間ほどが経った日の、とある夜のことだ。
 ルルーシュとナナリーは夕飯を終えてから、最近の学校での出来事について、話に花を咲かせていた。たとえば仲良くなったクラスメイトの子や忘れ物をしてしまったこと、面白い先生がいること、兄の作った弁当が美味しいこと。ナナリーはそれらの出来事を宝石箱の宝物をルルーシュへ見せるように、大事に丁寧に、嬉しそうに語ってくれた。

 ルルーシュは本国にある実家からナナリーとメイドひとりを連れて、三人で寮生活をしている。寮と言っても広々としたリビングと個別の私室、バスルームやトイレも完備され、まるで一軒家のような居心地の良さである。
ブリタニア本国ではルルーシュの本家が一流の大貴族であること、古くからアッシュフォード家とルルーシュの家に交流があり親しいことから、このような待遇を受けているのだ。アッシュフォードへ入学できたのは紛れもないルルーシュの学力の成果である。しかしこのあからさまな優遇はルルーシュの力ではなく、ルルーシュの意図しない大きな後ろ盾のせいだ。自分の力でなく血筋や家柄で得たものに縋るようなことはしたくないと、ルルーシュは実家を出る前にそう訴えたが、過保護な兄弟たちはそれを聞き入れようとしなかったのだ。
 不本意ながらもこの忌々しい厚遇に甘やかされてはいるが、お金を貯めたらとっととナナリーと二人で一般寮に移動しようと、ルルーシュは計画立てていた。

「来週末でも如何でしょうか」
「ああ、分かった。早速明日、相談してみるよ」
「楽しみにしてますね」

 弓なりに細められたナナリーの瞳は、ルルーシュの瞳より少し虹彩の色合いが淡い。
 ルルーシュもナナリーも生まれつき紫色の目をしているが、ナナリーは兄よりも少し青みがかっている。青目は太陽の光にすこぶる弱く、生物学では劣性の遺伝であるとされている。太陽の紫外線から守るメラニン色素という成分が、青い目では分泌される量が少ないためだ。そのためナナリーは兄に比べ目が弱く、加えて生まれつき弱視であった。それゆえあまり直射日光の元、外に出て遊ぶこともできず幼い頃から不自由な生活を強いられていた。
長年の治療の末、コンタクトやサングラスといった補助器具は欠かせないが、なんとか日中でも外出できるほど彼女の目は良くなったところであった。

 まだルルーシュはスザクをナナリーと会わせたことがない。ちなみにスザクが、ナナリーはここ最近目が良くなったということを既知であるのは、ルルーシュがスザクに対してしきりに報告したからである。
 あまり日の下に出られなかった彼女に、ルルーシュは彼女の知らない世界をたくさん見せてやりたいと思っている。そのための、まずは第一歩としてナナリーと共にアッシュフォード学園入学、である。中高一貫で寮制度が取られており、名実ともに国内屈指の名門校であるこの学園はまさに、ルルーシュにとって打ってつけだった。
 とは言え、ブリタニア本国にも優秀な学校は数多くある。実家から通うことのできる場所を選べば、何不自由なく三年間通学ができるであろう。

 わざわざルルーシュがブリタニア本国から遠く離れた日本国の学園を選んだ一番の理由は、もうひとつある。それはブリタニア本国にあるルルーシュの生家で、ルルーシュとナナリーの立場が非常に危うく、このままでは先行きが芳しくないからだ。

 ルルーシュがスザクの実家へ留学した際、留学期間を急遽一週間縮めて帰国する出来事があった。当時、スザクから理由を尋ねられたルルーシュは咄嗟に”母親の体調が悪くなったから”と答えたが、あれは嘘である。本当のところは、あの時母親が何者かによって殺害されたとのことだったのだ。
 ブリタニア本国でも有数の貴族に加え、その貴族当主の妻であることから、命を狙われたのではないかと大人たちは口を揃えて噂話をしていた。
ルルーシュの実母であるマリアンヌは、元は貴族出身の人間ではなかった。農耕民族出身であった彼女は快活明朗な気質と麗しい容姿で、その地域では有名な女性であったらしい。その噂を聞きつけたルルーシュの実父であるシャルルはマリアンヌを見初め、結婚し、ルルーシュとナナリー二人の子を成した。
 シャルルと婚姻したことにより貴族一派の端くれではあるが仲間入りを果たした彼女に待ち受けていたのは、壮絶な嫉妬と妬み、陰険な嫌がらせと悪口の数々であったらしい。そんな立場の中で母親に守られ続けていたルルーシュとナナリーは、その矢先に後ろ盾である実母を失ったのだ。
 実父であるシャルルは子供の面倒も見ず、マリアンヌの死に関してもとくに悲嘆せず、何食わぬ顔をしていた。

 シャルルには力がある。一代で財を成し本国有数の貴族一家へとのし上がった権力がある。なら何故、その権力を行使しマリアンヌを逆風から庇うことも、彼女を殺害した犯人を捜そうともしないのか、ルルーシュには理解できなかった。もしかするとシャルルにはマリアンヌを守る力があったのかもしれない。なのに彼は彼女を見殺しに、あまつさえ実の子供であるルルーシュとナナリーでさえ、捨てようとするのだ。
 あまたの親戚一家から虐げられ、日に日に立場がなくなっていく現状に、ルルーシュは耐え難い苦しみと怒りを抱いた。その怨念に近いシャルルへの感情が、ルルーシュを日本国へと旅立たせる原動力となったのだろう。
 最早疎遠となった腹違いの兄弟たちとも別れを告げ、唯一血の繋がる妹と二人三脚で歩もうと決意したのだ。


 ああでも、とルルーシュは言葉を付け足した。
「スザクあいつ、確か軍の仕事がどうのって……」
「まあ、お仕事ですか。それなら仕方ありませんが…お忙しいんですか?」
「どうだろう。そもそもなんであいつが軍人になりたいのか、俺もよく分からない」
 ナナリーはルルーシュのそんな、どこか落ち込むような声を聞いてさらに問うた。
「理由をお伺いしたことは、ないのですか?」
「聞いたことはあるんだが、実は本人も、釈然としないような言い方で」
「それは……」
 眉を下げ、ナナリーも少し困惑したような表情を浮かべた。

「まるで、何か強い力に引っ張られているみたい」
「強い力?」
 予想とは異なるナナリーの言葉に、ルルーシュは思わず鸚鵡返しで聞き返した。変わった人、困った人、不思議な人、どうしてでしょうね。そういった返答をされると思っていたからだ。
「ええ。たとえば、そういう運命、だとか」
「……」
「お兄様、今わたくしのことを馬鹿にしましたね?」
「いや、そんなことは」
「運命は信じる人のもとへ訪れるんですから。野獣は美女の真実の愛で元の姿へ戻りますし、オーロラ姫は王子様の愛の口付けで、永い眠りから目を覚ますんです」
「そうか……」
 こういう年頃だから仕方ないかと、ルルーシュはナナリーの話を適当に聞き流した。彼女は兄の冷めた対応に何やら抗議しているが、怒っているナナリーの表情も大変愛らしい。ルルーシュはそんな場違いなことを考え始めていた。


 それからナナリーが交通事故に遭い、彼女が車椅子生活を余儀なくされるのは僅か一週間後のことであった。