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Previous Singularity 25話

 ビジネスホテルに連泊すること、七日目の朝。いよいよ宿泊費用の工面が心配になってきたが、ジュダルは相も変わらず大丈夫だから、の一点張りだった。
 一体どこから湧いてくる自信なのか。通帳の残高が何桁あるのかは知らないが、そこまで言うなら証拠を見せてくれと彼を問いただしたのは言うまでもない。今日は昼から羽田空港を発ち、飛行機で長崎県へ向かう予定だ。往路のチケットはアラジンから譲ってもらったが復路は無い。自分たちで用意する必要がある。
 それだけじゃなく、長崎に着いてからの工程も決めていない。アラジンいわく長崎に行けば自分のルーツが分かる、と意味深に告げられたが、一体どういうことなのか。大したヒントもくれなかった少年はやけに機嫌よく空港のロビーを後にしていた。自分の喋りたいことを喋れて満足したんだろう。
 とどのつまり、長崎に着いてからの出費がどの程度になるかも目算出来ていない。宿代、衣食、土産物、エトセトラ。人間は生きているだけで何かと金がかかるのだ。旅先であれば尚の事。今は住所不定だから、どこへ行っても旅人みたいなものだ。
「うっせーな。これ見て黙っとけ」
 これ、と言われて手渡されたのは銀行口座の通帳だった。普通預金の一番下の頁を捲る。そこに記載されてあった金額の桁数に、自分は思わず閉口する羽目になった。
「……いくら何でも、この金額は……」
 どれだけお金を貯めようったって高校生のアルバイト代から捻出される貯金だ。むしろジュダルくらいの年齢で自主的に貯金している割合のほうが低いかもしれないだろうに。
「お一人で貯めたんですか?」
「んー、まあ……」
「お、俺も今から実家に取りに戻ります、幾らなんでもジュダルの所持金だけで放浪するのは」
 ベッドから起き上がろうとした体は、肩から押さえつけられて起き上がれなかった。

「今更後戻りする気か?」
「違います、忘れ物を取りに」
「今から戻ってたら飛行機の時間に間に合わねえだろ」
 このホテルは空港からほど近い場所にあるが、実家は正反対の方向だ。在来線じゃあるまいし、発着一分前に飛び乗ればいい、という問題ではないと知っている。
「でも、そうしたら……どうすれば……」
「じゃあ戻って来てから金の徴収するわ。それで納得か?」
「わ、分かりました……」
 結局ジュダルに金銭の工面をしてもらう状況に変わりはないが、これは借りだ。きっと安くはないだろうが、ジュダルの懐に集りたくて生活を捨てたわけじゃない。そこもきちんと対等に、話し合って決めるべきだ。
「まずは服を着ねえとな」
「……」
 鼻歌でも歌いそうな彼は、ベッドの端で皺になっていたシャツなどを手に取り、自分に着せてくれた。前と後ろが逆だとか、ボタンが掛け違ってるとか、そんな文句を言いつつ普段以上に時間をかけて身支度を整えた。やけに甲斐甲斐しい彼が上機嫌なのを見ていると、鬱陶しいとは思えなかった。

 そのあとはホテルのルームサービスで朝食を頼んだ。施設の外に出ればコンビニはいくらでもあるから、買い出しに行ったほうが安上がりだとジュダルを何度も説得したのだが、一度食べてみたい、と好奇心に突き動かされていた彼を結局止めることは出来なかった。
 白い陶器の平皿にトーストとサラダ、目玉焼きとウインナーが乗っていた。香ばしい匂いは起き抜けの筈なのに胃袋を刺激して、自然と唾液が溢れた。それに加えて別皿ではケチャップのオムレツ、ハッシュポテト、キノコとほうれん草の和え物が運ばれてくる。朝食にしては些か量が多すぎる気がする。しかし向かいに座る男はそんなのお構いなしで、次々と運ばれてくる料理に目移りしては子供っぽく歓声を上げていた。
 そして飲み物のオレンジジュースとコーンポタージュ、デザートのフルーツヨーグルトが置かれて、これで全部だ。一人あたりいくらになるんだろう。金額表を見せてほしいとジュダルに頼んだが、紙を隠されてしまって見ることは叶わなかった。
 満腹になるまで朝食メニューを食べ切ったあと、ようやく宿を出た。宿泊費用はチェックインの際にジュダルが支払っているが、彼はカードで直接支払っていた。
 高校生のくせに個人名義でクレジットカードが持てる筈がないと問うたが、これはチャージ式の電子マネーだと言われた。そういうものなのかと思って、それ以上は何も聞かなかった。
 チャージ式の電子マネーとやらの残高がいくらなのかは知る由もない。聞いても教えてくれないのだ。
「ジュダル。俺に隠し事なんてしないでください」
「隠し事じゃねえよ。金のことなんかお前が気にすることじゃねーって」
「気にしますよ、無い袖は振れないって言うじゃないですか」
 飛行機の券面には往路の金額が記載されている。格安航空会社ではなく国内大手の航空会社だからか、少し割高に感じる。
「荷物はなるべく軽くして行こうぜ。それで土産物を沢山買おう」
「何泊くらいする予定なんですか?」
「さぁ。面白かったら安宿で長居してもいいかもな。どうせ俺たち行く当てもないし」
 アラジンからチケットを貰わなかったら。自分たちは一体今頃、どこで何をしていたんだろう。そんなことを考えてしまう程度には、二人には目的も目標もない。強いて言えば、二人一緒ならどこへでも行ける。

 なんなら飛行機のチケットを売って換金して、宿代や食費に宛がってもいいのだ。移動手段ならバイクがある。肝心の行先は分からないが、この国のどこかでひっそり暮らせばいい。幸いなことに日本は治安がいいし、必要最低限の常識とその日暮らしの小銭があれば野垂れ死ぬことはない。兄たちがそうしたように、誰かの目から逃れたいわけでもないが。
「長崎って何があるんだろうな」
「平和記念公園とか……」
「ふうん」
 興味なさそうに呟かれる声には敢えて触れず、スマートフォンでそれとなく長崎の観光地を調べてみる。中華街、軍艦島、五島列島クルーズ、猫島……
「島ばっかだな」
「他にもあるにはあるんですが」
 ジュダルが興味のありそうな場所は少ない。何となくだが、彼は遊園地とかランドマークとか、派手で人の多い場所のほうが好きそうだと思う。
 ここまで想像してふと、そういえば自分は彼と遠出した経験がないことに気が付いた。ずっと互いの家を行き来するくらいで、旅行どころか映画館も外食も行ったことがない。
「ジュダルは自然を眺めたりするのはお好きですか?」
「自然? 自然ってたとえば?」
「花とか、森とか、海とか……」
「そんなの眺めてどうすんだよ」
「あー。いや、もういいです……」
 やはり彼は明確な移動の目的、行先でやる事がないと退屈に思えてしまうんだろう。花や木々を眺めたり風光明媚な景色に心を癒されるのも旅行の立派な醍醐味だが、彼が情緒を解するのはまだ時期尚早だったのかもしれない。
 自分はこっそり溜息を吐きつつ、しかし浮き足立つ気持ちを誤魔化しつつ、飛行機の搭乗口へと向かった。





 正午に羽田空港を発った二人は十四時前に長崎空港へ着陸した。空港周辺には散策できそうな観光名所はなかったので、そこから長崎市内へ移動する運びとなった。
 長崎駅までの移動は空港からのリムジンバスで、乗車時間は四、五十分といったところか。公共交通機関より自家用車を用いた移動が多い県民たちで道は比較的混んでいたが、市内に入ると街の景観は一変する。
「へえ、今時路面電車だってよ」
 ジュダルはバスの外の景色を眺めながら物珍しそうなものを見るような目で呟いていた。確かに都内に住んでいれば路面電車を直接お目にかかれる機会は少ないか。地方都市ではまだまだ現役で活躍する立派な移動手段である。
 が、長崎市内では観光客向けに路線が整備され、便の本数が多いのも特徴だ。一日乗車券さえ購入していれば乗り放題で、かつ有名な観光名所を手軽に一巡できる。
「あとであれ乗ろうぜ」
 ジュダルは口角を緩めながら路面電車を指さしていた。やはり彼は案外子供っぽい。
 手元のスマートフォンを使い、路面電車で回れそうな観光地を調べてみた。これだけあれば一日だけじゃ回り切れないと思われる数の名所が、インターネット上では沢山ピックアップされている。
 出発前は正直乗り気しなかったが、いざ着いてみるとどこか異国情緒のある古めかしい景観だったり、近代的な建物だったり、中国風の建造物があったりと、独特で個性的な街並みは見ているだけで心がふわふわとしてくる。
 いつになく浮足立っていたわけだが、そんな情緒に水を差す、とある出来事があった。
 それは市内の観光バスの派手なラッピングに目移りしていた時の事。唐突にジュダルのスマートフォンに着信が入った。静かな車内に奇天烈な電子音が鳴り響く。端末の画面には発信相手の名前と番号が浮かび上がっていた。
(銀行屋?)
 090から始まる携帯番号は個人の物だろうが、登録名はその人のあだ名か、企業名か。
 ジュダルはその画面を見るや否やすぐさま受話ボタンに触れて、電話をし始めた。
「わりぃけど今バスん中だから、あとで折り返していい?」
 いちおう車内マナーは弁えているらしい。小声でそう告げた彼はすぐに電話を切り、鞄の奥に仕舞った。
「銀行屋って、金融機関とか……ですか?」
「あぁ?」
 それとなく尋ねてみると、彼は少し機嫌が悪そうに返事を寄越してきた。
「勝手に人のスマホ盗み見てんじゃねーよ」
「いや、その……それはすみません」
 砕けた口調で電話に応答していたので、企業ではなく個人的な友人なのかもしれない。だとしたら変わったあだ名だ。
 もう東京を離れて、これからは長い旅に出る。今更友達などに構っていても次に会えるのはいつになるか分からない。だから自分も家族には当分、あるいは一生会えないかもしれないことを覚悟して飛行機に乗ったのだ。
 地元に残した誼(よしみ)とつるむなんて、なんだかジュダルらしくない。彼はもっと刹那的な生き方を好む気がしていたのだ。その場凌ぎのアルバイトで日銭を稼ぎ、狭い安アパートに住み、殆ど乗りもしないバイクで貯金を崩し……
「もう着きそうだぜ」
「……あ、は、はい」
 ぼんやりしていたせいで降り過ごしそうになった。慌てて大荷物を背負い込み、あるいは両腕に抱えて、小銭を運賃箱に放りながら車外に降りた。

 観光地への出発地点、長崎県の玄関口ともいえる此処、長崎駅は多くの地元民や観光客でごった返していた。路面電車の駅が地上に敷設され、駅構内には九州電鉄、そしてつい最近開通したという九州新幹線の駅も併設されている。新幹線開通に合わせて駅全体がリニューアルし、長崎県に訪れたツーリストをもてなしてくれる。
 駅内にはショッピングセンターや土産物屋が設置され、多くの人が足を向かわせていた。それから、すぐ傍にある観光案内所にも。
 観光案内所では季節ごとのイベント、催しのパンフレットや解説は勿論、路面電車の一日乗車券も販売している。ここで乗車券を購入すれば乗り降りが楽になるのは勿論、手軽で簡単に市内観光を満喫できるのだ。
「まずはどこに行きましょう?」
「端っこからしらみつぶしに行くか。どうせ暇だし」
 乗車券を購入すると付属のパンフレットが貰えるのだが、そこには最寄り駅から行ける観光地が網羅されている。
「では大浦天主堂行ってから孔子廟、中国歴代博物館ですね」
「うわぁ、学校の行事みてーだな……」
「文句言うならジュダルが考えてくださいよ」
 案内所で手渡されたマップ付きのパンフレットから顔を上げると、苦虫を?み潰したような顔をする男が居た。
「まぁ、アラジンが俺たちを長崎に向かわせた理由が此処にあるんだろうなぁ……」
「理由?」
 大浦天主堂は当時キリスト教徒として身を隠していた現地民が足しげく礼拝に通っていたという世界遺産だ。殉教していった聖人たちに捧げるため、殉教地に向いて建てられたという。
「いやそっちじゃなくて、中国ナントカ博物館」

 中国北京の故宮にまつわる貴重な文化物を展示した施設だそうだ。古くから中国王朝政府(当時は清国)と長崎県は交流が深く、その親密さを物語っている。幾度かの改修を経て今もなお孔子廟を含めて現存しており、日本最古で唯一の中国様式霊廟である。
「俺たちの生きてた世界とは歴史が違うから、ルーツと言われると微妙な気もするけどな」
「確か、俺は皇帝だったんですよね」
「ああ。国の名前はちげーけど……当時のお前は正真正銘、煌帝国三代目皇帝を歴任したんだぜ」
「煌……」
 学校の授業では勿論習ったことがない名前だ。だから彼の証言にはなんの証拠もない。しかし彼と共通の記憶を持つ人間が複数人、この日本や世界に点在している。口裏を合わせようのない人たちばかりだ。だから彼の言うことは妄言ではなく、限りなく事実に近いんだろう。
 ……ということは数か月前から織り込み済みだ。別に今更疑ったりもしない。
 煌帝国とやらで平民として暮らしていた、と言われるならまだしもの話。自分が皇族、ましてや皇帝にまで上り詰めた、なんて物語を聞かされて鵜呑みに出来るほど自分は単純な性分じゃない。それは、まるで見ず知らずの人の伝記を読み聞かされているかのような気分にさせられるのだ。

 この奇妙な感覚は中国歴代博物館に降り立ったあと、より強く実感することとなる。

 博物館の壁面には当時の清朝王宮・紫禁城の内部構造を図面化したパネルが展示されてあった。等間隔に並んだ建物の屋根がいくつも連なっている。計算しつくされたそれは当時の中国文化の美学に基づいた代物だ。
「うお、懐かしい。確か煌帝国の白嶺宮もこんな感じでさぁ」
「……」
「ここらへんが俺の部屋でー、白龍はこのあたりだったかな。ちょっと離れてたけど、俺の魔法でひとっ飛びすれば問題ない距離だった」
 延べ敷地面積はいくらになるんだろう。宮に置かれてあるのは皇族と住み込みの従者、警備員、兵士たちの宿舎だけじゃない。生活に必要な建物のほかに政を行う執務部屋や兵士たちの訓練、鍛錬を行う道場、馬を飼うための厩舎、食事を作る厨房。他にも文献や宝物、武器、食糧を保管する倉庫が多数。
「これだけの建物があったら道に迷いませんでしたか?」
「ガキの頃はそりゃあ毎日迷子だったけど、俺は絨毯があれば空を飛べたし。家来たちにはしょっちゅう道を聞かれたな」
「……」
「あ、白龍。これ見てみろよ」
 ジュダルが指さした先にあるのはガラスケースの中に展示された当時の皇族の装束であった。
「こんなヒラヒラでギラギラしたモン着て、毎日廊下を走り回ってたな」
「……」
「皇帝は冕冠っつー冠を被るんだぜ。ほら、当時の実物が展示されてある。まさにこんな感じだった」
 丸い帽子のてっぺんに大きな天板が被さり、前後には数珠つなぎの簾が垂れ下がっている。自分はこれを被っていたんだろうか。一度皇帝に成り上がったということは、そういうことだ。
「壇上から兵士たちを見下ろして、実質的に国の長になった時の白龍を今でも覚えてる」
「……」
「お前はずっと浮かない顔をしてたな。俺の隣で。母親を誅殺したあと、目標を見失って」
「ジュダル」
 敢えて言葉を遮って名前を呼んだ。
「やはり今の俺より昔の俺のほうが好きですか」
「そういう話じゃねーだろ。あのチビが、お前のルーツがここにあるって言うから」
「俺のルーツは長崎や古代中国とは縁もゆかりもありません。俺、練白龍は東京都内で生まれた、四人兄弟の末っ子です」
「……」
 自分たちの他に見物客の居ない展示室はやけに静かだった。学芸員らしき見張りも居ない。これが常設展だからだろうか。
「アラジンも貴方も、俺をかつての俺と結びつけたがる。髪を伸ばしてほしいと以前仰ったのもそのせいですか?」
「白龍」
「もういいです。次の観光地に行きましょう」
 他にも陶磁器や文献、地図の展示もあったがすべて視界に入れず、一目散に博物館を飛び出していた。

 真っ赤な漆で彩られた色鮮やかな孔子廟も、今見れば忌々しくてしょうがない。目に鮮やかな色調は心の底を苛立たせるのに十分で、ますます気が滅入ってしまう。
「待てよ白龍」
「次のバスまで五分もありませんから」
「本数多いし別にいいだろ、それよりさぁ」
 田舎の私鉄バスなんかとは違う。観光業に力を入れている長崎では路線バス、路面電車ともに休日の本数は多い。市内観光に来たツーリストたちを円滑に輸送するため、その輸送量は常に膨大でなくてはならないのだ。
「何怒ってんの」
「怒ってなんか」
「怒ってんじゃん」
 往来のど真ん中で言い争いなんて、らしくない。通り過ぎてゆく現地住民たちが興味深そうにちらちらと見てくるのが居た堪れない。
「もう昔の白龍の話はしないから」
「子供みたいな言い訳はやめてください」
「じゃあどうすれば目ぇ合わせて喋ってくれんの」

 肩を真正面から掴まれて揺すられる。思わず顔を上げると、苦しそうな面持ちをしたジュダルがそこにあった。
 自分も自分だが、彼だってらしくない。前世のことを引き合いに出されて拗ねた子供なんか放っておけばいいのに、どうしてそこまで執心するのか。
「白龍だって、俺に構ってもらえなくて苛ついてんじゃん。それと一緒だって」
「……何の話ですか?」
「え? なんで俺がここまで付き纏うのかって考えてたろ?」
 顔に書いてあんぞ、と冗談ぽく言われた。
 何を考えているかなんておくびにも出さない性分だった。だから何を考えてるか分からない、感情の起伏が少ないと学校ではよく揶揄されていた。自分は誰にも気を許さなかったから、誰からも気を許してもらえなかったのである。
「白龍は分かり易くなったな。まー俺の目の黒いうちは隠し事なんかすんなってこった」
「……俺って分かり易いですか」
「おう。嘘も下手だし」
 嘘が下手なのは認める。でも分かり易い、とは心外だ。これでも一応、表情を取り繕うことや愛想笑い、お世辞は上手いほうだと思っていた。実際周囲の人間、つまりは学校のクラスメイトや担任の目は欺けていたのに。
「俺の前では取り繕う必要がなくなったんだろ。今の八つ当たりとか拗ねたりとかも、俺相手ならまあ、許すし」
 許す、なんて上から目線の言葉に一瞬だけ引っ掛かった。が、その直後すぐに腕を引かれて、考え事が霧散した。
「ど、どこへ行くんですか」
「え? バス乗りに行くんだろ。次どこ行く?」
 近くの停留所にはもう間もなく路線バスが停車しようとしていた。二人して停留所まで全速力で走って、なんとか滑り込みで乗車することが出来た。
 ぜえぜえと息をしながら空いてる席をそれとなく探している最中に、バスは発車し始めた。大きく揺れた車内でバランスを崩した自分を、ジュダルが慌てて受け止めてくれる。しっかりしろよ、なんてジュダルだけには言われたくない台詞を言われてしまった。
「なあ、腹減らね?」
「じゃあ次の停留所で降りますか」
「おう」
 食事処は探していないが、ここは観光地だ。多少高くつくかもしれないが、飲食店のひとつやふたつくらいは営業しているだろう。
 そんな楽観的な考えの下、ゆったりと動くバスから見える車窓の景色に次第と目移りしていった。

 ひとまずひとつ先の停留所で降りて、近くにあった文明堂のカステラを数箱買った。付近を散策し昼食にありつけそうな店を探したものの。いくら練り歩いてもどこも観光客が押し寄せ、長蛇の列を形成していた。待ち時間はどれくらいになるのか、想像もつかない。すぐには食べれそうになかったので、仕方なく土産用のカステラを開封し食べることにした。
 カステラを食べながら暫く移動し、辿り着いたのは平和記念公園だった。バスや路面電車といった公共交通機関が十二分に発達しているが、徒歩での移動も出来なくはない距離感である。異国情緒溢れる独特の街並みを思う存分堪能したい場合なんかは、敢えて自分の足で移動するのも悪くない選択肢だろう。
 平和記念公園にはいくつかの石碑が設置されている。それは戦争の悲惨さを後世に伝える文章だったり、恒久的平和を願う文章が石に彫られている。
 学校の課外授業で平和学習を何度かさせられていたから、これらの文章には何となく既視感を覚えざるを得ない。その感覚はジュダルも同様だったようで。
「あーここつまんねえな。次行こうぜ、次」
「まだ来たばかりじゃないですか。写真くらい撮りましょうよ」
「退屈だ。鳩と人間と広場しかねーし……」
 平和公園なんてどこもそんなものだろう。彼はうんざりだとでも言いたげに顔を歪ませている。
「あーヤダヤダ。気が滅入っちまうよ。こんなのは」
「まあ、そういうものでしょう」
「付き合ってらんねえよ、アホらし」
「……」
 ジュダルが指さしたのはひときわ大きな石碑だ。そこには戦火に巻き込まれ、皮膚を焼かれた非戦闘員の悲痛な叫びが詩となって記されてある。
 長崎といえば。第二次世界大戦で原子爆弾を投下されたふたつの都市うちのひとつだ。広島と長崎という地名は平和学習で必ず学ぶ第二次世界大戦にまつわる象徴的代名詞だ。
 ジュダルもそのことくらい分かっているだろうが、好きじゃないというより毛嫌いしている節がある。この石碑たちも戦争の悲惨さを後世に伝えるために設置されているんだろうが、そういう人々のささやかな努力を小馬鹿にするかのような言動が目立つ。
「なぁ、昼飯カステラだけじゃ腹減ったし、先にホテル行ってコンビニで弁当買って食わね?」
 もう飽きたと言わんばかりに話を逸らされた。ついでに彼の方向から腹の虫のような何かが聞こえる。ぎゅる、と音を鳴らされると無視もできまい。
「遠路はるばるここまで来てコンビニ弁当ですか?」
「じゃあなんだよ、空いてる飯屋探してくれんの」
「それは……」
 市街地散策がてら飲食店を探すのもいいが、その前にジュダルの体力が尽きてしまいそうだ。きゅうきゅうと隣で腹を鳴らされては、長距離を歩かせるのも気が引ける。
「さっさと行こうぜ。ビジネスホテルでいいよな?」
「は、はい」
 彼は早速スマートフォンを片手に、今晩泊まる宿を探し始めた。宿代も彼の懐から捻出されるので我儘は言ってられない。こちらの要望は口にせず、彼の好きにさせた。



 コンビニで買い込んだ弁当とジュースとスナック菓子を持ち込み、今晩の宿に一足早く辿り着いた。チェックインには早すぎる時間帯な気もするが、大荷物を背負ったまま市街地を移動するのも一苦労だと考えれば妥当なのかもしれない。
 全国にチェーン展開するビジネスホテルは駅前の一等地に建てられていた。駅前にはファーストフード店やファミレスもある。勿論バスや路面電車の駅もホテルのすぐ傍にあるから、利便性はこの上なく良い。
 宿泊費用が具体的にいくらになるのか、聞いてみてもやはり教えてくれなかった。ビジネスホテルだから安い、とは言われたが立地がこれだけ良いと相場的には高いほうかもしれない。
「あー、やっぱりコンビニ弁当が一番うめぇな」
 彼は金銭面の心配事などどこ吹く風と言わんばかりに、涼しい顔をして鮭弁当を頬張っていた。
「東京で食べたのと同じ味がしますね」
「んだよ。それの何が悪い」
 自分は弁当ではなく軽めのサンドイッチにしておいた。夕飯はどこかの店で食事をするかもしれない。せっかくなら中華街で本格的な中華料理を食すのも良いだろう。
 夕飯は外で、たとえば中華料理にしてみないか。ジュダルにそれとなく提案をしてみたのだが、返ってきた答えは素っ気ないものだった。
「中華料理のほうがよっぽどどこでも食えるだろ。センスねぇな」
「ジュダルに言われたくないですよ」
 白米の梅干しを齧る男がそう宣ったので、嫌味で返してやった。
「というか貴方って旅行向いてないですね。昼間からホテルでコンビニ弁当……」
「行きたいトコありゃ行ってこいよ」
「ジュダルと一緒じゃなきゃ意味ないです」
「んだよこのクソガキ」
 早くも空っぽになった弁当のトレーをレジ袋に放り込むと、ジュダルはおもむろに立ち上がった。
「そんなこと言って、俺の機嫌を取ってるつもりか?」

 サンドイッチを食べ終えた途端、頬を摘ままれた。上機嫌なのか不機嫌なのか分からない反応は、果たしてどちらなんだろう。ただの照れ隠しか。
「そんなつもりじゃないです。俺は、本当に……」
 頬を摘まむ指にさらに力が籠った。内頬までがひりひりと痛むのを訴えてみたものの。
「フン。二人きりで遠出できてはしゃいでんの?」
「う……」
「ああ、否定しねぇんだ?」
 頬を摘まんでいた指が外れて、今度は唇の上を滑った。頬はまだ痛いが、それよりひりひりする視線に当てられて思わず息を飲んだ。
「やっぱりガキだな、白龍」
 唇を滑る指が口に入り込んで、上顎を擦った。
「俺はどこ行こうが嬉しくもねぇし、今更目新しいモンもねぇからな。お前とは違うんだよ」
「んゅ、う」
「でもお前が居れば俺の退屈も少しは紛れる」
 口から指が引き抜かれると、唾液の糸がつる、と伸びた。彼は汚れた指のままで顎を掴んできて、そして愉しそうに嘲笑うのだ。
「どうする? このままやる?」
「あ……」
「どうするかって聞いてんだよ。さっさと答えろ」
 べたついた指がおとがいを撫でて、輪郭、耳とを順番に撫で上げた。耳たぶのあたりを執拗に弄られる。
「あ、や、やります」
「アハハ。そうこなくっちゃな」

 そう言いながら彼は既に服の裾へ手を差し込んでいた。まだ柔らかい胸の粒を指の腹で押したり、爪で引っ掻いたりするのだ。それをされるだけでむず痒いような、何とも言えない快楽の波が広がってくる。
「ほら、服くらい自分で脱げ」
「あゃ、は、はい」
 言われた通りシャツのボタンを外して、袖から腕を抜いた。露わになる肌に吸い寄せられるようにジュダルの顔が近づいて、身構えてしまう。期待するみたいに体が熱くなって、それから胸の頂きに唇が触れる。
「ッあ、あ!」
 ちゅうちゅうと赤子のように胸を吸ってくる、その仕草が少し可愛らしいと思ってしまった。内心を悟られぬよう頭を振って、じわじわと理性を蝕んでくる甘い快楽に身を任せてみる。彼の肩に置いている手は押し返すでもなく、ただ添えているだけだ。
「んゃ、あ、あう」
「白龍もこっち来い」
 腕を引かれて、今度はベッドに着の身着のまま飛び込んだ。下靴を脱いでからは服を一方的に脱がされて、あっという間に何も身に着けない姿にさせられる。
 窓の外はまだ昼間だ。明るい日差しがカーテンの隙間からこぼれるのを、気まずい面持ちで目を逸らす。その先にあるのは発情しきった男の顔だけで。
「何ぼさっとしてんだよ」
「えっと」
「たまにはお前も何かしてみたら」
「……何かって」
 なんだろう。そう呟くよりも先に、今度は肩を掴まれた。ジュダルの体に覆い被さる格好で距離が縮まって、珍しくジュダルに見上げられた。
「服、脱がせてくれる?」
「は、はい」
 なんとなく、彼の言いたいことを察した。

 ひとまず今はこちらが動く番らしい。今までずっと受け身だった分、どんな顔をしてどう動けばいいのかがさっぱり分からない。
「はは。ぎこちなさすぎ」
 服の裾を捲り、その下にある薄い皮膚に触れた。薄っすらとついた腹筋と臍、肉の少ない下腹のあたりを手のひらで撫でてみる。
「俺、いつもそんな触り方してたっけ」
 顔を上げると、うっすらと悪い笑みを浮かべるジュダルと目が合った。やってみろよ、と顎をしゃくりながら命じてくる。悪巧みをしている時の表情だ。喉の奥がぞくりと粟立って、口に溜まった唾を飲んだ。
「……ん、ん」
 臍のあたりの窪みに唇を寄せて、少しだけ出した舌で皮膚の表面をなぞってみる。皮膚の下がぞわ、と身じろいだ気がして、おそらくこれで合っているのだと確信する。
「はは、くすぐったいって」
 気持ちが良いんじゃなくて擽ったいだけだったようだ。それでも反応がないよりかは良い。たぶんやり方は間違っている気がするけれど、ジュダルは怒ったりしない。むしろ頭を撫でて褒めてくれる。
「ん、ぅ」
 前髪を掴まれて、目蓋だけ持ち上げた。捲った服の裾の下に手を伸ばし、色素の薄い乳輪まわりに舌を伸ばそうとしていた時の事だ。
「そんなことまでしてくれるんだ?」
「い、いつも俺が、貴方にされてること……」
 ジュダルが言ったからだ。自分は彼の言いつけどおり、いつもされている行為を踏襲し、恥を忍んで唇を押し付けたり、舌で吸ったり舐めたりしている。
「ああ、そういうこと」
「……ん」
 味のしないざらついた肌を舐めて、乳輪を舌で撫でた。当たり前かもしれないが、反応はない。男のくせに善がり狂ってしまう自分がおかしいだけなのだ。

「それで、次は?」
「次……」

 何も考えていない。無我夢中で普段の情事を思い起こし、されていることをなぞっているだけ。胸元を舐められたあとは、いつもどうされてたっけ。そこまで考えて、ふと視線を下半身に下ろした。
「こ、こっちも、舐めます」
「そう」
「……あ」
「いい眺めだな」
 前髪をくしゃくしゃとかき混ぜられて、聞こえてきた言葉に思わずそっぽを向いた。
 しかし布越しに伝わってくる硬いものからは目を逸らせない。ベルトのバックルを外し、ジッパーを下ろすと、真下から押し上げてくるものの輪郭がよりはっきりと分かる。少しだけ湿っていた下着の上から指で撫でてみた。
「あ、あとで挿れてくれますか」
「お前次第だな」
「俺、次第……」
 それはどういうことなんだろう。どうすればいいんだろう。答えになってない答えだけ受け取った自分は、それ以上何も聞き返すことが出来ず、行為を続けることにした。
 下着のゴムをずらすとまろび出る性器の、丸い先端に口づけた。少しだけ舌を出して、張り出した雁首も舐めてみる。汗っぽい、しょっぱい味がした。それと先走り特有の、独特のえぐみがある。
「これ、い、いれてください」
 前屈みになると垂れ落ちてくる髪の毛を耳にかけて、しょっぱい性器をわざとらしく頬張った。ジュダルと目線を合わせながら、口の中のものを出入りさせるのだ。すると分かり易い性器はたちまち質量が増して、先走りが増える。
「じゅ、じゅだう、じゅだ」
 名前を呼びながら頭を揺らしてみた。生え揃った茂みに鼻先を埋めて、喉の奥に先端が当たるようにして擦ってみる。全部ジュダルが教えてくれたことだ。こうすると男を喜ばせることが出来る。だから早く覚えてやってみろ、と何度も言われた。
 美味しくないし、苦しいし、顎は疲れるし、恥ずかしい。けれどジュダルなら、ジュダルにだけならそれをする覚悟と勇気、それから好奇心が湧いてくるのだ。口の中でむくむくと膨らむ欲望は己に対する劣情そのものだ。それが嬉しくて擽ったくて、胸の奥が満たされる。愛されているのだと、何故だか実感できるのだ。
「白龍、もういい」
「んー……」
 口からそれを外すと透明な液体が糸を引いて、つうと唇から伸びていた。はしたなくて下品で恥ずかしい。出来れば見てほしくない光景だ。
「頑張った白龍にご褒美をやろうかな」
「ごほうび……」
 しかしその甘美な響きに、直前まで感じていた理性の片鱗はすっかり立ち消えてしまって、醜い欲望に思考が支配されるのだ。まるで操り人形みたいに自分の体はいつの間にか割り開かれていて、貫かれる準備を着々と進められる。しかしその準備さえも心地よく、じれったく、幸せなひとときなのだ。
「白龍、口開けろ」
「あ、はぅ、う」
 寝そべった状態で、言われるがままにそうしていた。覆い被さってくる体を、もうこの両腕は突き放したり押し退けたりはしない。口を割って入ってくる舌にますます意識が混濁してくる。不快感はない。これは気持ちのいいことなのだと、頭はしっかりと理解していた。
 薄い肩に両腕を回して、もっと深くしてくれと訴えた。その欲は相手にしっかり伝わったようで、顔の角度を変えて何度も口腔を舐めしゃぶられた。
 熱い手が頬の両側を包んで、離すことも息継ぎも許してくれなかった。その強引な扱いがむしろ心地よい。強く求められていることを暗に示しているからだ。他人に自分をここまで欲せられ、求められるのはジュダルが初めてだ。そこに自分の存在意義を見出してしまうほどには、自分はジュダル自身と、彼との行為に依存しきっている。

 しかし自分はこの時まだ知らなかった。情熱的に愛を囁く手のひらの正体に。