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Previous Singularity 24話

 部屋の押入れの奥からジュダルが取り出したのは、二つのヘルメットだった。
「ヘルメット?」
「今からそれ被れ。そんで荷物持って、出るぞ」
「大家さんに話は」
「今朝、お前が寝てる間にしてきた」
「そんなすぐに退去できるんですか?」
 思ったことを聞いてみると、手にしていたヘルメットを無理やり頭に被せられた。埃を被っていたから表面を拭きたかったのだが、間に合わなかった。
「ちょっと口論になっただけだ。大丈夫」
「大丈夫じゃないですよ、それ」

 玄関で靴に履き替えて、部屋を出ようとした。後ろを振り返ると、家具や雑貨類が所狭しと並んでいる、昨日までと変わり映えしない光景があった。

「ジュダル。賃貸の退去って普通は部屋を綺麗にしないといけないんですよ」
「うっせーな。夜逃げにそんなルールは通用しねーよ」
「もう朝です」
「お前がグースカ寝てるからだろ」
 玄関の靴を踏まぬよう外へ出て、ジュダルが扉を鍵を閉めた。別に物を盗まれても不都合はないのだが、開けっ放しで出て行くのも気味が悪い。
「ヘルメットってことは、バイクとか……ですか?」
「おー。ちょっと離れた駐車場にバイク停めてあってよ」
「そんな話、俺聞いたことないですよ」
 質問攻めにすると話を聞かせてくれた。どうやら免許取得の年齢になった瞬間にバイク免許を取り、バイトの貯金で新品の二輪車を買ったようだ。それも二人乗りが容易に出来る、大きめのモデルだという。バイクの知識はあまりないので値段の相場感、高いとか安いとかは分からないが、高校生でそれを購入できるのは珍しいだろう。

「本当に後悔はないな?」
「ええ」
「最後にお別れはしなくていいのか」
 今から実家へ赴けば、まだ会える筈だ。白雄や白蓮、そして世話になった紅炎とアラジン。今日は学生寮から白瑛も来ている筈だから、久々に家族が一堂に会する日でもある。
「後ろ髪を引かれそうなので、遠くから見るだけで十分です」
「白雄が全力で引き止めにかかるだろうな。想像するだけでうぜー」
 ジュダルがバイクの運転席に跨りエンジンをかけた。自分も見様見真似で後部席に跨り、彼の腰のあたりを掴んでみた。
「これでいいですか?」
「足元気ぃつけろよ。火傷すっから」
 エンジンを吹かす音が何度も鳴り響いて、車体が動いた。
「バイク、二ケツしたことは」
「ないです。初めて乗ります」
「そう」
 バイクが速力を上げて車道を駆けだした。が、思ったより速さは出ていない気もする。自分がバイクの後部席に乗るのが初めてだと伝えたからだろう。いきなり全速力を出して、もし驚いてすっ転んだりでもしたら。夜逃げどころの話じゃ済まない。
「じゃあ実家の近くまで行って、遠目に見てから出るか」
「はい」
 見慣れた街並みを拝めるのも今日で最後かもしれないと思うと、妙な心地がしてくる。あの家もこの家も、行き慣れたコンビニやスーパー、散歩中の犬、ランニング中の近所の人。どれもこれもが今生の別れだ。
 少し寂しい気もするが、それ以上に晴れやかな心地だ。心の重荷が外れたような、清々しい気分。ゆるゆると穏やかな速さで駆けるバイクの向かい風を全身に浴びながら、なだらかな空の模様を視線で追いかけた。

 角の影に車体と身を潜めて、家に出入りする人影を遠巻きに観察した。車で送迎をされているらしき人物が見える。車体の形状から察するに運転席に居るのは長男の白雄で、助手席に乗っているのが次男の白蓮。後部座席の助手席側が紅炎で、その奥の上座側に座っているのがおそらく本日の主役だ。
「お、出てきたぞ」
「連絡されてた時間どおりですね」
 昨晩、事前に白瑛が何時ごろに到着するか、アラジンから知らせを貰っていた。逆算してその頃に実家へ着けば皆で顔を合わせることが出来ると、言外に言いたかったのかもしれない。家族水入らず、とはいかなくともだ。
「でもそれももう叶わなさそうです」
「本当にいいのか?」
「しつこいですね」
 ヘルメットを被っているから顔を少し見られてもばれないだろうが、不審には思われるだろう。住宅街の陰でコソコソしているバイク乗りの二人組、なんてワードで通報されたらひとたまりもない。
「けれどせめて、アラジンさんには一言お礼を言いたいかもしれません」
「アラジンにぃ?」
 ジュダルはアラジンのことが苦手なんだろうか。アラジンに対してだけやたらと当たりが強い気がする。二人のやり取りはあまり見たことがないから、きっと前世で嫌な思い出があるんだろう。
 しかしアラジンの様子は至って普通、のように見えた。誰にでも友好的だし、容易く心を開いて接してくれる。それでいて人当たりが良く、優しく、義理に厚い。ジュダルが居ることを伝えただけで、わざわざ海外から飛行機のチケットを取って、即日で来日してくれたほどだ。
「彼は俺たちの問題に関して言えば他人ですから」
「ああ、わだかまりもなくて話しやすいって?」
「そういうことです」
 こういう時に限って話が早い男は、それなら二人で会っとくか、と短い相槌を寄越してきた。

 ひとまず車内にアラジンが居ないことを確認し、電話だと声が響くのでメッセージを送ることにした。乗車中の四人が駐車場のある方面へ向かったことを目視で確認してから、メッセージを送った。
 アラジンは家で四人を待ち構えていたらしい。当然自分とジュダルが現れると思い込んでいる彼は、メッセージを送った直後に電話を鳴らしてきた。
『どうしたんだい急に。遠くへ行くって、具体的にどこへ?』
「とくには決めてませんが、兄たちにはもう会えないと思うので。先に別れを、貴方にだけお伝えしておきます。突然失踪して、警察沙汰になっても困りますし」
『君が居なくなるとなれば、どう伝えたって心配症のお兄ちゃんたちが騒ぐと思うけどなぁ』
「そこはアラジンさんが上手く取り持ってくださいよ」
 年下のくせに生意気だね、なんて軽口が聞こえてきた。もう二度とかけることがないであろう携帯番号の相手だから、恨みや怒りを買おうが栓なき事だ。
『具体的な行先は決めてないのかい』
「ええ、まあ」
 ジュダルとは遠出をしたことがなかったから、行きたい場所は、と問われてもぱっと思いつかない。お互いの家を行き来するか、アルバイト先でもあった塾で顔を合わせるかのいずれかだった。
 そういえばこの男、アルバイト先との契約はどうなったんだろう。まさか”ブッチ”したんだろうか。
「俺たちの行先を聞いて、ついて来るつもりですか」
『いいやその逆さ』
「逆?」
 言われても分からず、思わずジュダルの顔を見た。
『僕がいい場所を教えてあげようと思って』
「いい場所?」
 再びジュダルの顔を見た。そこに答えなど書いてある筈がないのだが、彼は勿論困惑した表情を浮かべている。
『あとで待ち合わせしようよ。あ、このことは他言しないからさ。白雄さんたちにはこう、うまいこと説明して……白龍くんたちが遠出することを僕の口から伝えておくから』
 行方不明届を出されても困るしね、と苦笑いする声が聞こえた。思うことは皆同じらしい。
「あの、怒らないんですか」
『何が?』
「俺が家族のもとへ戻らないこと……」
 ジュダルはヘルメットを外し、外の空気を吸っていた。思ったより電話が長引きそうで痺れを切らしているのかもしれない。
『だって二人で決めたことなんだろう? そりゃあ家族団らんも悪くないけど、今の白龍くんは前世の君とは別物だし』
「……前世の俺なら、家族と合流していたんでしょうか」
『家長を重んじる文化が根強いからね、君の国は。でも昔は昔、今は今だよ。白雄さんが、今の白龍くんが決めたことを頭ごなしに反対したって、最終的にどうするかは君が決めるんだし……』
「でもほら、俺は子供じゃないですか」
『何? 引き止めてほしかった?』
 クスクスと笑う声が聞こえて、顔が熱くなった。
 確かに言っていることは、そうかもしれない。まるで大人に心配されたくて、気を引こうとしている子供そのものだ。
『冗談だよ。まあ、後悔するようなことがあれば大人しく頭を下げて、白雄お兄さんにこっぴどく怒られたらいいさ』
「……」
『大丈夫だよ。何がいけないか、いいことなのかは手探りで見つけよう。とにかくいい場所へ行けるよう僕も手伝うから』
「いい場所って、何なんですか?」
『そこを先に教えたらつまんないだろう? 後でのお楽しみだよ!』
 そう言うなり電話が切れてしまった。ジュダルは大きな欠伸をしつつ、やっと終わったか、と言いたげだった。

 通話の内容を断片的に隣で聞いていたなら、薄々分かっちゃいるだろう。アラジンに会おうと言われたんですが、と話すと、彼はそうか、と短い返事だけを返してきた。
 昨日はアラジンをひどく嫌うような仕草が多く見受けられたが、彼だって分別はつく。大事な用件なんだろうと察しがついたようで、大人しくアラジンの提案に乗るつもりではあるらしい。首肯をひとつ返したのち、ヘルメットを被り直していた。その横顔はとても落ち着いていて、澄み渡っていた。

 周囲の人たちはジュダルを謗るが、皆が思うほどジュダルが悪い奴だとは、自分はどうにも思えないのだ。惚れた弱み、というのもあるだろう。恋は盲目という言葉もある。
 しかしジュダルがいくら幼稚で、意地悪で、口汚くてもだ。性根はどこか義理堅くて真面目で、人を正しく見る冷静さや賢さがある。狡賢い、とも形容できるかもしれない。
 が、いちど懐に入れた人間を、彼は易々と見捨てようとはしない。少なくとも自分はジュダルにいくら手酷くされたとて、愛情の裏返しであると理解はしているつもりだ。彼もそれをどこか自覚している節がある。
「ジュダル。そういえば、あれだけ掛け持ちしていたアルバイトはどうされたんですか」
「今朝電話しまくって、全部辞めた」
「……それは大丈夫なんですか?」
「あー……元々はユナンが斡旋してくれた先だし、怒られるのはアイツだ」
 ユナン? と首を傾げた。彼は、言ったことなかったっけ、と不思議そうに呟く。
「えっと……俺と同じ元マギだった奴だ。アイツだけは不思議な奴でさ、俺が変な記憶で混乱してる最中に突然俺の前に現れて、お前は元マギだって言ってきやがった」
「待ってください。何なんですか、その話。俺、聞いたことないですよ」
 ジュダルが早速エンジンをかけ直そうとするので、自分は慌ててヘルメットを被り直し、体勢を整えた。
「時間はこれから腐るほどあるんだし、追々話すってば」
「追々って……なんでそんな大事なこと、言ってくれなかったんですか!」
 大声を上げたが時すでに遅かった。エンジンを拭かせたバイクはUターンをし、実家に背を向けて走り出した。車外に降りて家へ入ろうとしていた家族たちはこちらを見ようともしない。まさかジュダルと自分がバイクに乗って実家近くを走っているなんて、思いもしないんだろう。
 彼らにろくな挨拶さえ出来ないまま、自分はこの地を去った。
 自分は他人に置いて行かれたくないと言いながら、平気で他人を置いて行ってしまう。都合のいい奴だ。狡い人間だ。これを人は二枚舌と呼ぶらしい。
 自分の中の大きな矛盾に気づきつつ、しかし歩みを止めることなど今更できやしないのだ。この感覚は昔の練白龍にもあったんだろうか。ジュダルという相棒の隣で国家転覆を目論見、いばらの道を歩もうとしたその足は、結局どこへ向かいたかったんだろう。
 今の自分もどこへ向かおうとしているのか、正直言って分からない。だが隣にジュダルが居るから、道しるべはあろうとなかろうと一緒だ。気の向くまま、思うままに遠い地へ行けたらいい。
 それに、どうやらアラジンがこの長くなりそうな旅路の手伝いとやらをしてくれるという。仔細は不明だが、アラジンは悪い奴ではない。少なくとも練白龍に危害を及ぼすとは考えにくいから、今はその提案に一か八か、乗ってみることにする。



 メッセージで届いたのは位置情報だった。昼の三時過ぎ、そこは羽田空港の第二ターミナルである。
 もしかして飛行機で海外への高飛びを勧められるんじゃないか。ジュダルと顔を見合わせ、スマートフォンの画面を見つめていた。
 バイクは割高な駐輪場に停めておいた。話がすぐに終わればいいが、しかしこのまま飛行機に押し込まれたらひとたまりもない。自分たちは今、住所不定の浮浪者なのである。
 ひとまず位置情報を念入りに確認すると、二階出発ロビーの端っこに位置マークが映っていた。そちらのほうに向かってみる。
「あ、アラジンさんだ」
 遠目に見ても分かるほど鮮やかな青色の三つ編みは目印になって丁度よかった。一目見て分かる。指をさして声を上げるとあちらも気づいたようで、振り返ってから手を振ってくれた。
 立ち話も何だから、と言われて向かったのは四階のレストランエリアだ。和洋折衷、様々な種類の料理屋が軒を連ねている。どの店に入ろうか、なんて目移りしている間に、一番後ろに居たジュダルが適当なベンチに腰かけてしまった。
「せっかくなんだから、食べたいお店を探そうよ。ジュダルくん」
「そういうのいいから、さっさと本題を話せよ」
 足を組んで項垂れる男は、視線だけを上げてアラジンに睨みを利かせた。
「玉艶さんの監視もないんだし、ゆっくりすればいいのに」
「……バイクの駐車場代」
「えっ?」
 アラジンが素っ頓狂な声を上げた。
「こんな場所を集合場所にしやがって。三十分でいくらすんだと思ってんだよ、てめえ」

 前言撤回である。やはりジュダルは破天荒で非常識で、人との接し方をまるで分かってない。
「バイクを買うなら同時に月極の駐車場を借りなよ」
「賃貸は退去しちまったから今は駐車場がねえんだよ。契約しようにも東京の立地の良いところじゃ毎月数万単位飛ぶし」
 何故ここまできて駐車場代の心配を、と突っ込みたい気持ちは山々だが、資金予算の勘定も旅には大事な要素である。ここを蔑ろにしては、ない袖は振れないのと同じだ。
「じゃあ僕の借りてる駐車場を間借りさせてあげるよ。期間限定でね」
「んだよ、気が利くじゃんチビのくせに!」
「最終的にはちゃんと自分で見つけるんだよ?」
 バイクの駐車場問題はこれで一応解決しそうだ。あとは本題となる、アラジンの提案について。

 彼は鞄からクリアファイルを取り出した。その中にはさらに、細長い短冊状のチケットホルダーが入っている。彼はチケットホルダーごとこちらに手渡してきて、あげるよ、とだけ告げた。
「きちんと準備が出来たら行っておいで。君たちのルーツが少しは分かるかも。とくに白龍くん」
「……?」
 チケットホルダーの中にはおおむね予想通り、飛行機のチケットが封入されていた。日付は一週間後の同じ時間。行先はなぜか、長崎であった。
「行きたいって言ったことねーけど」
「何回も同じ話をさせないでくれ。君たちのルーツがそこにはあるんだ」
「ルーツ?」
 アラジンに問うてみたが、彼は曖昧な笑顔を返すだけだった。つまり実際に見に行ってこい、というわけである。
「ちなみに行ったことは」
「……ないです」
「あるわけねーだろ」
 小学校なんかでよくある平和学習とやらを名目に修学旅行で行ったのは広島までだ。関東から九州地方ともなれば旅費はそれなりにかかるだろう。券面には金額もしっかりと印字されている。
「あの、お代は」
「いいよいいよ。それアリババくんの奢りだし」
「アリババ……?」
 また知らない人の名前だ。何度か会話中に聞いたことはあるから、親しい間柄なんだろう。
「アリババくんも今は中東のほうで仕事をしててさ。ほら、石油ってあるでしょ。すごく儲かるからってなかなか現場から離れられなくて」
「相変わらずだな」
「記憶はないけど、僕がよく話すから、白龍くんやジュダルくんのことは知ってるよ。一度会ってみてもいいよね」
「俺は会いたくねーよ」
「またまた、そんなこと言っちゃって」
 つっけんどんなジュダルと社交的なアラジンの会話はどこか噛み合ってないように見えて和気あいあいとしていた。やはりなんだかんだ言って仲が良いんだろう。阿吽の仲、というやつだろうか。
「アラジンさんとアリババさんはどういうご関係なんですか?」
「そうだな……いつも僕のことを助けてくれる人っていうか」
 彼は少し照れくさそうにしながら、言葉を続けた。
「今はいちおう、アリババくんの家に住まわせてもらってて。僕がこんなふうに、ほら……旅をしてばかりだから、定住先を見つけられなくてさ。だからアリババくんが気を利かせてくれたんだ。他にも食事や衣類を用意してくれて」
「アラジン。それってヒモって呼ぶらしいぜ」
「失礼だな! 僕だって稼いできたお金でお礼してるよ。アリババくんは僕のパトロンみたいな存在だ」
「アラジンさんは何か興行的なことを催されてるんですか?」
 今時パトロンなんて単語を聞く機会はそうそう無い。要するに金銭援助という意味だが、支援するに値する何かが彼にはあるんだろうか。
「興行ではないけど、考古学を専門にしててさ」
「考古学?」
「大昔の遺跡発掘、調査だよ!」
 彼は胸を張って楽しそうに言ってみせた。
「アフリカの砂漠地帯、中東や中央アジアは今アツくてさ。毎日何かしらの遺跡が出てきては歴史が覆されるんだよ」
「へぇ~……」
「とても楽しそうですね。だから世界中を飛び回っていると」
 ジュダルは至極つまらなさそうな顔をするが、大層興味深い話だ。彼は欠伸を漏らしながらアラジンの熱弁をあしらっているが。
「そうそう。だから飛行機で地球上を飛び回るくらい、僕にとっては日常茶飯事なのさ」
 ジュダルは飛行機のチケットを見つめたあと、おもむろに立ち上がって伸びをした。

 さすがに今から飛行機で長崎へ向かえ、なんて酷な命令は下りなくてよかった。荷物の準備も金銭面も不安だらけだ。そもそもジュダルがどの程度の所持金を持っているのかも不明である。
 アラジンにとってのアリババのように、自分はジュダルの金銭支援は出来ない。家の貯金は自分が好きに使えないし、さすがに大人の長男たちが管理するはずだ。
 クレジットカードも自分名義じゃ作れない年齢である。社会的信用は無に等しい。まさしく今の自分はジュダルのおんぶに抱っこ、という状態なのだ。なるべく負担はかけたくない。



 そう、金銭面でなるべく負担をかけたくないのだ。食費、宿泊費、駐車場代、ガソリン代、雑費。あとは他に何があるんだろう? 生きているだけでお金がかかるから、生きづらいったらありゃしない。
 やはり実家の貯金をいくらか拝借すべきだったのだろうか。とはいえ、兄に金を無心したところで貸してはくれなさそうだ。兄は基本的に優しいが、道理が通らない事柄にはめっぽう厳しい性分なのだ。
 じゃあ金融会社に駆け込んで高金利で金を借りる? ありえない話だ。この年齢で危険な橋は渡りたくない。それなら、中学生であることを隠してアルバイトをする? それもありえない。警察の世話になり、人様に迷惑をかけかねない。
 ジュダルに金銭面の相談をしたが、何故か心配無用だ、の一点張りだった。見栄を張って宣ってるんじゃないかと疑ったが、彼はどこ吹く風だと言わんばかりの涼しい顔をしてバイクに跨っていた。他に当てがあるんだろうか。あるいはアラジンにとってのアリババのように、金銭支援者が?
 結局疑問は晴れずじまいで、その日は日が暮れてしまった。



 小綺麗なビジネスホテルの一室はこのあたりでは一番安い宿だったが、それでも東京都内の名を冠するだけで万単位は優に超える。やっぱり彼が住んでいた安アパートを解約せず契約を続けたほうが、と思ったが、長期間留守にするのも不用心だ。人の住まない家は放置すると荒れるとも言う。だから手っ取り早く手放したほうが、合理的ではあるのだろう。
 さらさらした手触りのシーツは清潔で、匂いや汚れもなく、クリーニングされた形跡が残っている。体を横たえると汗を吸ってくれて心地よい。体温より低い布は昂り過ぎた体温を下げてくれて、気持ちが良かった。
「何休んでんだよ」
 腕を掴まれて体が持ち上がると、腰回りに這う手のひらが尻の窄まりに触れた。あ、と思うより先に入り込んでくる指が粘膜を押し上げて、内側の具合を探ってくる。それは慣らすというより、拡張させるための動きだった。
「あっひい、イ、あ」
「んだよ、トロトロじゃん」
「あぅ、あん、ア!」
 中指で内側をほじくられて、抉られる、ふつうなら痛いだけな筈の行為だが、今の自分にとってはこれ以上ないほど甘美な心地にさせてくれる。頭がぼうっとして意識が定まらなくなると、しっかりしろよ、と背後から声が聞こえた。
「ごめ、ごめんなさ」
 いいから腰立たせろ、と命令されて、言われるがままに膝立ちになった。
「前、自分で弄ってみろ」
「……あ……」
 濡れそぼった性器は力なくくったりと頭を垂らしていた。既に何度か射精していたので、再び勃たせるのは時間がかかりそうだ。
「み、見ないで」
「んだって?」
 指で輪を作って亀頭をくぐらせると、否が応でも甘い感触が広がる。びりびりと電流のように迸る快楽に体がわなつくと、彼の視線を感じて居た堪れなさが加速した。
 見ないで、と言いながら動き続ける右手は意識の外側にある。そうしたくてしてるわけじゃない。ひりつくような視線に晒されながら自慰を見せつけるなんて破廉恥行為は趣味じゃない。
 けれど彼の声と、その紅蓮の瞳に当てられるとだ。体はどうにも言うことがきかなくなる。制御できないのは体だけじゃなく心もだ。
「あっ、これ、やだぁ……」
 自然と揺れてしまう腰も、甘えたような声が出てしまうのも、自分のせいじゃない。ジュダルが見ているから、命令してくるから。いやらしいところは隠さず、余すことなく全て見せろと言外に告げてくる瞳が、自分を操っているのだ。
 そうとでも思わないと、この行為は正気じゃ進められない。湧いた思考回路の先で見える男の表情は何よりも優しく、温かく、慈愛に満ちていた。
「嫌? じゃあ何が良いんだ?」
「あ、さっきみたいに、挿れて、くださ……」
 ほんの少しだけ尻を突き出して、上目で甘えてみる。もう今さら恥じらいも体裁も関係ない。ここには彼と自分の二人きり、他に邪魔者は居ない。

 ここ最近は毎日のように、ジュダルに抱き潰されている気がする。以前までは学業や日常生活との兼ね合いで毎日顔を合わせることさえ無かったが、今はこの状況だ。学校には長期で休むと告げて以来、一度も連絡を入れていない。塾にも行ってない。
 優等生で真面目で品行方正だった、受験生のお手本みたいな自分はもう居ない。今はひたすら、恋人の前でみっともなく喘ぐだけの、年相応の中学生だ。同級生たちがいわゆる男女のお付き合いをするとき、こうなってしまうのかはよく知らないが。
「じゅだる、無視しないで」
「どこに挿れてほしいんだよ。こっちの口か?」
 こっちの、と言いながら唇を摘まれた。舐めるのも嫌いじゃない。むしろ好きだ。性器を舐めるのが好きというより、彼と誰にも言えないようないやらしいことをしている、倒錯的な状況が好きだ。
「そっちじゃ、な……」
「じゃあどこ」
「お、おしりの」
 それとなく尻を突き出して、相手の腰に押し付けた。そこには既に反り返った男性器があって、臀部にぶつかっただけでそれの熱さに頭がくらくらする。
「ちゃんと喋れよ。口ついてんのか?」
 唇を摘まんでいた指が口腔に入り込んで、舌の上をなぞった。背筋を駆け抜けるぞわりとした感触に声が出たが、彼はそれくらいじゃ相手にしてくれない。
 日に日に、ジュダルからの要求が多くなっている気がする。最初は何も言わずに抱いてくれたのに、今ではこちらから直接的な文句を口にしないと、挿入さえスムーズに行ってくれないのだ。体はこんなにも焦がれて疼いて乾いて仕方ないのに。焦らされる身にもなってほしい。
 自分は身を捩らせ、ジュダルの顔を見た。そして首元に腕を絡めて、至近距離でこう囁いた。
「おしりの奥、とんとんって……いつもみたいに、してください」
「……まあ、合格ってことにしといてやるよ」
 布団の上に仰向けに寝かされて、脚を開かされる。ここまで有無を言わさず進められた行為に己の言葉が乗ることで、これが合意の上であると再認識させられるような、そんな心地がするのだ。これは自分が望んだことで、どんな暴力も受け入れる他ないのだと、そういう認識のすり合わせをさせられている。

「アっ、あ、入って、入ってく、あ……!」

 ジュダルの頭を両手で掴んでいたが、彼は不思議と嫌がる素振りを見せなかった。しかし浮き上がってしまう腰は押さえつけられて、あとはされるがままだ。無茶苦茶に奥を揺すられて、そこが痛いのか気持ちいいのかも分からなくなる。
 そして痛覚と快楽の境界線があやふやになったとき。ある一線を超えると、何もかもがわやくちゃになって気持ちが良くなる。痛いのに気持ちいい。痛いのが気持ちいい。奥をばちんばちんと何度も突かれて捏ねられて、乱暴な律動に合わせて腰が揺れてしまう。恥ずかしい。みっともない。けれど止めたくない。まだ繋がっていたい。
 反り返った喉からは悲鳴のような嬌声が溢れて、止め方は分からなかった。こんな声をジュダルの耳に届けるのは申し訳ないし格好悪いし恥ずかしいが、恥じらえば恥じらうほど気持ちが良くなるということを、自分は最近知った。恥ずかしいことは気持ちが良いのだと、ジュダルに手ほどきを受けて教わった。だから今の自分は、世界で一番恥ずかしい姿を恋人に晒しているのだ。
 でも、嫌じゃない。ジュダルがそういう姿を、己の痴態を見たいと言うから惜しげもなく晒している。望まれるままに自分は、文字通り身も心も捧げた。ジュダルも同じく心の内側を自分に見せてくれた。だから不満はない。一種のコミュニケーションだ。二人が対等な立場であるからこそ、自分は彼に辱めを受けることを許したのである。