Previous Singularity 21話
白雄たちの呼び止めも聞かず実家を飛び出して、決定的に決裂してしまったその日。西日が街並みを照らす時分、ひどい夕立があたり一帯を襲った。
窓ガラスを叩きつける激しい雨粒の音と遠くに聞こえる雷鳴に耳を澄ませた。ざあざあと降りしきる雨は一向に弱まらず、それどころかますます酷くなっているようにも聞こえる。一体いつ止むのか。もしや、ずっとこうなんじゃないか。止まない雨はない、なんて言葉があるらしいが、今回は通用しないかもしれない。
なんて馬鹿げた妄想を繰り広げていたが、直後、意識が一気に現実に引き戻される。
「あッう!」
掴まれていた腰を思い切り引き寄せられ、同時に腰を強く打ち付けられた。ばちん、と奥を叩きつけられて頭が真っ白になり、喉が大きく反り返った。塞ぎ切れない口からは盛大に唾液が垂れたが、構っていられる余裕はない。
弓なりになった背中が元に戻らない。軋む骨と筋肉はとっくに悲鳴を上げているのだが、自分の体を労わる余力さえない。制御不能な筋肉の痙攣と弛緩の繰り返しは、じりじりと体力や気力を奪ってゆくのだ。
「考え事なんかしてっからだ」
「あひ、あ」
「おい。こっち見ろ」
天井を仰いでいた顔の向きを変えさせるべく、前髪を乱暴に掴まれた。反っていた首が元の位置に戻る。同時に、ぐつぐつと煮え滾った赤の瞳に睨まれて息が止まった。
「バカだなぁ白龍。俺のことなんかほっといて、あっち側に居れば良かったのに」
あっち側、とは紅炎たちのことを指すんだろう。実家に居れば紅炎や白雄たちの庇護を受けつつ、白瑛との連絡も取りやすいだろう。家族が一堂に会する家を何よりも望んでいた自分にとって、今回の行動は大きな矛盾だ。
「でもジュダルが、ジュダルばかり悪者にされてしまう……」
それだけ言うと再び体を揺すられて、あ、あ、と細切れな声が口から漏れ出る。抑えきれない嬌声は我慢すると怒られるから、ジュダルに聞かせる他ないのだが。
「ゃあ、あうっ、ひゃア!」
「んだよそのだらしねえ声は……」
ばつんばつんと奥を抉られると、叫び声に似た声が飛び出た。自分に覆い被さる男はその声を耳にし、労わるでも慰めるでもなく、さらに奥の奥を抉ろうとするのだ。その表情は下卑そのもので、人を不快にする類のものだった。
「ご、ごめんな、ひゃ、アや、あ」
何をされても何を言われても、嫌な気はしない。むしろ心地よい。その強烈な刺激も卑しい言葉も、喉元に当てられる冷たいナイフの切っ先を彷彿とさせる視線もだ。危うければ危ういほど自分はどうやら喜んでしまうらしい。
何度か奥を穿たれてる間に数回達してしまい、もはや前後不覚に陥っていた。とにかく何をされても気持ちが良いと錯覚してしまう域に達しており、男の性欲を煽る言動を無意識に取っていたとしても、不可抗力なのだ。
「何休憩してんだよ。俺がまだだっつうの」
いったん杭が抜けたかと思えば、体勢が反転した。今度はうつ伏せに寝かされて、腰だけを高く上げさせられる。目の前に広がる白い布――ではなく木目調のフローリングの上では掴む物がない。仕方なく脱ぎ散らかした服を手繰り寄せて、手慰みに握り込んだ。
「さっきから何してんの」
「あッ、あう、あひ」
ぽっかり空いた孔に乱暴な指が突っ込まれて、中をくちゃくちゃと掻き回していた。具合を確かめる為か、ただ単に辱めるのが目的か。
いや、もはや何であろうとどうでもいい。それよりも様子がおかしい彼に、その心境や事情を打ち明けてもらわねば。ずっとこのまま彼と乱暴な性行為に明け暮れる羽目になる。それは自分もだが、恐らく彼とて本意じゃない筈だ。
何かに苛立っているようにも見えるし、悲しんでいるようにも見える。何かの衝動に駆られているようにも見える。その原因が何なのか、聞いたとて素直に答えてくれる相手なら自分はここまで苦労していない。
「なあ、何か考えてんだろ。言えよ」
「ッち、ちがぁ、あ」
「また嘘吐いた」
ぐるん、と指が回転するたびに体が戦慄いて、唇から意味のない母音が漏れた。腰の震えが止まらない。性器は一度も触れられていなかったが、既に数度射精している。
「言えよ、ほら」
指が引き抜かれて、今度は別の物が宛がわれた。熱く猛ったそれは一体何なのか、振り返って確認せずとも分かる。彼はこちらの片腕を取り、後ろに持ってきたかと思うと、ぬかるんだ孔のあたりに指を触れさせた。
「今からこのちっせえ孔にぶち込んでやるけどよ」
「は、う……」
「優しくしてやんねーから、精々舌噛まねーように気ぃつけろや」
「じゅ、じゅだっ」
「うるせーな」
両手で腰を思いきり掴まれて、真上から杭が突き刺さってくる。熱い性器は最初勿体ぶりながら挿入されたが、途中からは一気に最奥を叩きつけて、衝撃で頭が真っ白になった。
「アハハ情けねえ声。もっと聞かせろよ、それ」
「うぐっ、ア、ひゃうっ」
そうそうその声、と耳元で明るい声が響いた。胸がとくとくと高鳴って、彼に聞かせるがごとく喉からは甲高い声が溢れ続ける。
それを暫くされると呆気なく吐精してしまい、体は力が抜けきってしまった。自力で腰を支えることが出来ず床に突っ伏していたが、おかげで頭がほんの僅かに冴えてきた。
「なんでぇ、あ、じゅだ、なんでっ」
「何が?」
「なんでっ、じゅだる、お、怒って……」
「……」
だから聞きたかったことを聞いてみた。答えてくれるかは分からない。嵐みたいな、暴力じみた性行為で全部有耶無耶にされるかもしれない。けれどどんな反応でもいい。返事次第では、彼の情緒が不安定な理由が見えてくるかもしれない。
「どうせ俺が全部やったって、吹き込まれてきたんだろ」
「……へ」
「お前こそどうなんだよ、白龍」
後頭部の毛を掴まれて、僅かに首が持ち上がった。そのまま抽挿が再開されそうになったので、慌てて静止を求めた。
「お前はいったいどの立場で俺と話したいんだ? 大好きなお兄ちゃんと一緒に居なくていいのかよ」
ぐちゃぐちゃと酷い水音が聞こえてくる。ゆったりとした動きだったが、張り出た雁首が性感帯を擦り上げて意識が飲まれそうだ。大事な話の途中なのに、全部放り出して没頭したくなるような。
「こんの淫乱。結局コッチのほうが良いんじゃねーの」
ガツガツと揺すられるといよいよ我慢ならなかった。平静を取り繕うにも全部遅い。床を引っ掻いて頭を振り乱して、いく、いく、と無意識のうちに連呼していた。
フローリングが汚れるのも気にせず、快楽を優先して射精していた。ここが人様の家で、白雄が丁寧に掃除していたこともすっかり忘れ、無我夢中だった。
「……んだよ、その目は」
「あ、じゅだ、じゅだるう」
肩越しに振り返って顔色を窺うと、怒気を孕んだ視線がこちらを見下ろしていた。腹の底が冷たくなるような目の色は、どこか彼の孤独感を纏っているような気もする。それは彼の露悪的態度に由来するものだ。
「ほ、本当はジュダルは何も関わっていないんでしょう。なら、彼らに説明を」
紅炎や白雄たちはジュダルが犯人だと目星をつけて、それどころか犯人だと断定し、あいつには関わるなと言外に告げてきた。証拠も出揃っていないのに、それはジュダルが前世で働いていた蛮行による先入観だ。ジュダルなら仕方ない、そういう過ちを犯しても憚らない男だろう、と。
「いい。興味ない」
「でも、でもっ」
「黙ってろ」
まだ達したばかりの体に再び挿入されていた。今度ばかりは気遣いの欠片どころか、相手を良くする動きも見当たらない、身勝手な抽挿が続いた。出入りする肉棒がぱんぱんに膨れ上がっている。粘膜越しに伝わるそれが小刻みに震えているのを感じ取って、不覚にも体の奥がじんわりと熱くなった。
一心不乱に体を揺すられるのも、無我夢中で貪られるのも、悪い気はしなくなっている。それは虐められるのが好き、という意味合いではない。相手にそれだけの余裕や理性が失われ夢中で己を求めてくれていることを実感できて、素直に嬉しいのだ。
だから求められた分だけ返したくなる。この体を使って、もっと欲望に正直に、素直に熱心になって、気持ち良くなってほしい。興奮しきった瞳に射貫かれて、針の筵になったっていい。
「ア、あ……」
「またいった?」
「う……」
もぞもぞと身じろぐと、股のあたりに手が回ってきた。遠慮なく性器を握り込まれて、突然のことに体が跳ね上がる。
「触ってもよく分かんねえな。いきっぱなしだったとか?」
「わ、かんな……」
優しくない性行為はジュダルからの激しい愛情表現の裏返しだ、とすら思えてくる。湧いた頭で浮かんだ思考はとても口に出せやしないが、体は素直に快楽を享受し、彼に反応を返そうとする。それが多分、今しがた指摘された”いきっぱなし”という現象なんだろう。
「お、おれ、じゅだるといっしょがいいです」
「どういう意味」
「えと、兄さんたちじゃなく、じゅだると」
「……」
次は体をひっくり返され、視界に天井が広がった。そしてジュダルの黒い頭だ。
「お前はあっち側だろ」
「……アラジンさんの連絡先を聞きました。だから合流して、ジュダルの潔白を証明してもらいましょう」
「いくらアラジンでもそんなこと……」
それはジュダルがアラジンという人物の人となりをよく知っている証拠の一言だった。ならば尚更、自分の事をよく知る人物なら頼ればいいんじゃないか。
ふと過った考えを口に出すと、彼は目を吊り上げてがつがつと腰を穿った。
「俺がイヤなんだよ、あのチビに貸しを作るのが!」
「アっう、あ! あひっ、あ、うぅ」
「お前は知らねえだろうがな、色々あったんだよ俺とチビの間には……だから」
「じゅだっ、ア! イっ、あ、う!」
この調子じゃとても対話は望めない。一方的な吐露に対して浮かぶ答えは数多あるのに何も言わせてくれない。喋らせてくれない。会話の主導権どころか、こちらの発言の権利すら男の手中にあるらしい。
「アイツにはぜってー頼らねえ! 連絡もすんなよ! 顔も見たくねー!」
「もっ、う遅い、ですっ!」
「……あぁ?」
腕を掴んで揺すりながら声を発すると、開ききった瞳孔がこちらを見据えていた。
「もう、連絡取りましたよ、蓮兄さんを通じて……今は東京に居ないけど、飛行機ですぐに、こちらに駆けつけると……」
ジュダルは目を見開いて、はぁ!? と大声を出した。耳の奥がキンキンと痛むが、構ってはいられない。
「俺の連絡先を伝えました、だからいずれは会える筈です。もう約束、しましたから」
「んなバカな話……」
「じゅ、ジュダルだって濡れ衣を着せられて良い気はしないでしょう。今一度潔白を示すのと、兄さんたちの異変についても相談を……」
あまりにも驚きすぎたせいか、ジュダルは腰の動きを落ち着けていた。いつの間にか収まっていた快楽の波は、目の前にある難題より優先順位は低い。体は繋がったままだが、今さら性行為の快楽に没入できる気はしない。
「あークソ……頭にアラジンの顔が浮かんだら萎えちまった……」
それはジュダルとて同じだったらしい。もうセックスどころじゃない、と言いたげにこちらの体から退いてゆくさまを、ぼんやりと見上げていた。
「でもアラジンは白雄たちに会いに来るんだろ?」
「いえ、ジュダルに会いに来てほしいと俺が言ったので」
「余計なことしやがって」
「アラジンさんも、ジュダルに会いたいと」
「嘘ばっかり」
「本当ですよ、多分。ジュダルとは違って、天邪鬼ではなさそうですし、」
そこまで言いかけて、再び奥をガツンと抉られた。入ってきてはいけない部分に切っ先が埋まっている気がする。息が出来なくなって、視界が明滅している。あまりの衝撃で舌を噛み千切りそうになった。
「さっきからお前、生意気すぎ」
「あひッ、イ、っくう、いく、イ」
「おー、なんべんでもいっとけよバーカ」
片足首を掴まれ、持ち上げられて、そのまま小刻みに奥をとんとんと揺すられた。たったそれだけなのに体は瞬時に熱くなって、心拍数も急激に上がる。
「まっ、たイ、っくう、あ! 今っ、いって、いってう、いってるう」
「こんのエロガキ。好き勝手いくなよ」
「むりっ、むりい、ア! おくっ、奥ダメ、とんとんって、あ! しちゃヤダ、やだぁ!」
粘膜の行き止まりを何度もノックするみたいに小突かれていた。突かれるたびに達する時と同じような快楽が全身を包んでしまうから、甘い波が終わらずずっと高まったまま、なかなか降りられない。終われ、終われ、と幾度も心の中で唱えたが、奥を小突くペースが速まるばかりで一向に終わらない。
なんたって竿役の彼はほんの僅かばかり腰を揺らすだけで、さして息も上がっていないのだ。対する自分は息も絶え絶えに加え、涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃになった顔面を晒し、喘ぎ狂っている。
どちらが優位かなんて考えなくとも分かる。自分はただこの責め苦に喘ぎながら、彼がこの”悪い遊び”に一秒でも早く飽きてほしいと祈ることしかできないのだ。
臀部に伝わる熱い液体が誰のものか考えるより先に、視界がブラックアウトした。
肌によく馴染むシーツの感触はまさに自分の部屋の物だったと思う。
昔から愛用している寝具類はすべて兄たちのおさがりだ。実家から出て行ってしまった兄たちの使わなくなった物を喜んで譲り受けたまではいいものの、それが余計に家族の不在を実感させて寂しさが募ってしまったのは言うまでもなかった。けれど、不要になったらからと処分するわけにもいかず、愛着と思い出の品は今も自分の体を包み込んでくれる。
と、ここまで回想し、自分はとあることに気が付いた。
記憶の最後はジュダルのアパートに居た。なのにどうして、今は私物の寝具に身を包ませているのか?
「ああ白龍くん、やっと起きた」
違和感の正体を探るべく目を開けた時だ。視界の全面に映り込んだのは、真っ青な髪色を持つ少年であった。
「……え?」
そして少年の背景にあるのはジュダルの部屋でなはく自分の部屋のそれだ。壁紙も天井の色もカーテンの柄も、嫌というほど見尽くしてきた。模様替えしたことがない部屋は幼い頃から姿をちっとも変えていない。
「えっと?」
少年は嬉しそうに口角を上げて、白龍くん、と名を呼んできた。
自分は彼を知らないが、彼は自分を知っている。どこかで会ったことがあるんだろうか。だとしたら、ちっとも覚えてないのは無礼な気もする。適当に取り繕って愛想笑いでもしてみようか。
「ああごめんごめん、気を遣わせてしまって。僕たちは初対面だったよね」
何が何やらさっぱりだ。やはり彼と自分は初対面であるという。しかし彼は自分のことをよくよく知っている口ぶりだ。
「僕はアラジン。君が電話をくれたんだろう? 宣言どおり会いに来たよ」
「どうして……」
そこまでしてくれるんだろう。どうしてこの場所が分かったんだろう。そもそも、自分はジュダルのアパートに居た筈では?
最後の記憶、その断片は悲惨なものだ。口にするのも憚られるような、強烈な性体験の数々。鮮烈な記憶の狭間で自分が覚えているのは苛烈な責め苦と己を辱める為の発言、そして甘すぎる感触と、とてつもない痛み、その奥にある愛情だ。
訳が分からずベッドから体を起こすと、同時に部屋の扉が開いた、扉を開けたのは、盆に何かを乗せてやって来たジュダルその人であった。
「ジュダル?」
「ああなんだ、もう起きてたか」
盆はベッド脇のテーブルに置かれた。スーパーでよく見かける寒天ゼリーが一人分と、緑茶が注がれたマグカップが三人分。マグカップには湯気が立ち上っており、目で追いかけるだけで心が安堵してしまう。
「ったくよ、ぶっ倒れたお前をここまで運んでやった俺に感謝しろよ」
「ジュダルが?」
「白龍くんを気絶させたのは君なんだから、君が白龍くんに謝るべきだよ」
「っせーな、部外者は黙ってろ」
尤もらしいことを言うアラジンに、ジュダルはあろうことか部外者扱いをする。しかし口を挟むなと言いつつお茶は用意してやるあたり、本気で嫌ってるわけではない……のかもしれない。
「それにもっと言えば僕が運転する車で運んだんだから。ジュダルくんは助手席で寝てただろ」
「後部座席までこのガキを運んだのは俺の功績だろ。それに二階の寝室まで。階段の上り下りは骨が折れるぜ」
どうやら本当にジュダルと見知らぬ少年、アラジンが二人で協力してここまで運んでくれたようだ。
なら最初の疑問は解決できたとして。浮かぶ質問事項はまだまだ山積みだ。
「あの。どうして俺、ここに」
「ここで待っていれば白雄さんたちに会えるんだろう? ジュダルくんから聞いたよ」
「いや、でも、俺は」
白雄たちが引き留めるのも無視して飛び出してしまった。今更どんな顔をして会えばいいのか、どんな話をすればいいのか、そもそも口を利いてくれるんだろうか。もうとっくに兄たちには幻滅された気がする。
「大丈夫さ。君たちは強固な絆で結ばれた家族だ。普段滅多に我儘を言わない白龍くんに、お兄さんたちは少し驚いただけ」
「……あの、アラジンさんは」
一体どういう立場の人なんだろう。兄の味方なんだろうか。それとも玉艶側に肩入れしてる人なんだろうか。それとも、ジュダルのように誰の味方もしない、中立のような立場を取るつもりなのか。
「僕? 僕はねえ、うーんと、そうだな……」
少年はどこか勿体ぶるような調子で、口元に手を当ててゆっくりと答えた。
「僕は玉艶さんの動きが気になっててね。まさか殺害されるとは思いもしなかったよ。君たち家族の間に犯人が居るとは考えたくないけど、動機を思い浮かべるとその線も捨て難いよねぇ。私怨ってやつ」
「つまり……?」
「そうだな……僕はどちらかと言えば白龍くんの味方かな。アリババくんもそう言ってたし」
「だ、誰……」
マグカップを片手に少年の背後に立つジュダルは、眉を顰めながら話を聞いているようだ。時折右手のそれの中身を揺らして、ずず、と音を立てて飲んでいる。
「まあ追々話すよ。一度にたくさん説明したらいくら白龍くんでも頭パンクするだろうからね」
「……俺たち初対面なんですよね。貴方は俺のこと、なんで知ったふうに……」
言いかけた言葉は途中で途切れて、宙ぶらりんになってしまった。アラジンと呼ばれる少年がほんの少し、寂しそうな顔をしたからだ。
きっと彼と自分には前世で強い絆が存在したんだろう。だがそれは今の話じゃない。自分には関係のない、見知らぬ世界の話だ。それが実在したか、実証するすべもない。単なる集団幻覚、洗脳という線も捨てきれない。
つまり何が良いたいかと言うと、だ。いつまでも前世だ何だに拘ってないで、今を生きている自分を見てほしいのだ。
「アラジンさん、貴方はジュダルと一緒ですね」
「……えっ、何が?」
その名が挙がるのが意外だというふうに、彼は顔を上げた。その奥に控えるジュダルは言わんとすることを薄っすら察していたようで、表情を変えず無言で緑茶を啜っている。
「前世に拘りを持つのは結構ですが、今の俺には関係のない話。今を生きている俺には知らない人たちのことを引き合いに出されても困ります」
「ああ、ううん。そういうつもりじゃないんだ。ただその、いや……」
「……」
アラジンは気まずそうに後頭部を掻いていた。
「いや、白龍くんの言うとおりかもしれない。あまりにも君が前世の生き写しみたいに変わらなかったから、重ねてしまっていた。失礼な物言いをしてしまってすまない」
「顔を上げてください、アラジンさん。ジュダルにも散々言われていたので慣れてます」
行儀よく首を垂れるアラジンに向けて、ジュダルに嫌味を言ってやった。この場に一切関わろうとしない彼への、ちょっとした抗議のつもりだ。
せっかくアラジンが遠路はるばる会いに来てくれたというのに、しかも同じ記憶を共有するのだから、もっと再会を喜べばいいのに。ジュダルは今も尚アラジンの後頭部ばかりを見つめている。その忌々しそうな視線ときたら!
「うっせーな。なんで俺がアラジンのご機嫌を伺わねーといけねえんだよ」
「そんな言い方」
「いいよ白龍くん。彼は昔からこうなんだ。本心じゃないのは分かってるよ」
「何だって?」
アラジンとジュダルの奇妙なやり取りに置いて行かれつつ、やり取りを聞いていると本当に仲が悪いわけではないのだと窺い知れる。本当に不仲ならこうやって顔を合わせることも、同じ空間で茶を啜ることもしないだろう。とくにジュダルなら、本気で嫌いな相手なら家に上げないか離席している筈だ。
アラジンはのほほんとマグカップの中身をくゆらせながら、そろそろ本題に入るね、と一言置いた。
「玉艶さんが亡くなって……何者かに殺害されたって話は本当?」
ほんの僅かに強張る表情を見るに、彼の耳にもこの情報が入っていなかったと分かる。顔が広そうに見える反面、世界を飛び回っているなら聞き及ぶ暇もなかったのかもしれない。
それとも敢えて誰も、アラジンにはこの話を聞かせなかったか。
「事実です。今から一週間ほど前、俺は紅炎さんからその話を聞かされました。再婚相手の紅徳と一緒に、焼死体となった二人が関東北部の山中で見つかったと」
「……」
「アラジンさん。犯人に心当たりが?」
「ああいや。それはさっぱりだけど、紅炎さんや白雄さんの動きが気になるなと思って。時系列で説明してもらうことって出来る?」
再婚した玉艶と紅徳の長男にあたる紅炎の耳に、此度の凶報が入ったのは今から三週間ほど前になるだろうか。他の兄弟である紅明や紅覇たちにも話は伝わり、警察からの事情聴取が始まった。いちおう自殺と他殺の両方の可能性を見つつ調査は始まったが、壮絶な死因を見るに他殺の線を有力視するのは普通の流れだろう。
唯一現場に立ち入ることが許された紅炎は、その場でとある物を目にしたという。それは一枚の紙片で、次の狙いは白雄だという旨が記されてあった。身を隠していた白雄にその件を密かに報告した紅炎は、誰にも見つからない場所に逃げたほうが良いと助言した。
その間に紅炎はこちらの実家に赴き、玉艶が何者かに殺害された話を知らせてくれた。事件発生から一、二週間が経過していたと推測される。紅炎は警察からの事情聴取に追われ、なかなか身動きが取れない日が続いてた為だ。
助言を受けた白雄は、玉艶殺害犯の目をくらませる為に敢えてジュダルのアパートを選んだ。これは白雄が自身の身内以外信用していないこと、不仲だと見られる二人が共同生活を送っているとは誰も想像しない為、身を隠すには丁度いいと踏んだことが理由だ。実際自分は大いに驚いた。白雄を受け入れたジュダルの心理にも、ジュダルと共に過ごす白雄の大胆不敵さにも驚かされてばかりだった。
しかしこれは白雄のブラフだった。身内以外信用しないと断言した白雄だったが、実際には紅炎とも密に連絡を交わしていたのだ。本当の狙いはジュダルに対する玉艶殺害の嫌疑を見定める為であった。
紅炎と白雄はジュダルを犯人だと断定し行動に移した。しかしジュダル本人は潔白だと言い張る。まだ玉艶の死亡推定時刻や具体的な殺害方法について明らかになっていない為、証拠も何もない筈だが、紅炎と白雄の二人は彼に対する疑いを日に日に強めている。
まだ証拠が出揃っていない状態で、初めから疑ってかかるのも間違っているだろう。ジュダル自身の主張を尊重したい自分は二人と、途中から合流した白蓮にそう伝えた。しかし三人はジュダルが犯人だという主張を翻しもせず、それどころか疑いの目を光らせるばかりで話が通じなかった。
普段ならもっと冷静に話ができる筈の、優秀な三人がだ。少し様子がおかしいと感じた自分は第三者に助言を乞うことにした。
「ああ、それで僕がここに呼ばれたってことか」
アラジンはジュダルと同様に前世ではマギと呼ばれた身、そして紅炎や白雄との接点も強く、信頼されている人物だ。紅炎に前世の記憶を与えたのは他の誰でもないアラジンであるという事実から鑑みても、彼が信用に足る人物であることは自明であろう。
「でも分からないね。玉艶さんを殺害した人。僕たちが知っている人なのかな」
「そもそも他殺という事実もまだ確定していません。本当に自殺だとすれば、この話し合いが不毛ですし」
「言っとくけど俺は本当に何もやってねーからな?」
そこまで言われなくたって分かってる。ジュダルが玉艶を良く思っていないことは知っているが、今生で殺害するほど憎んでいるのかと言われると微妙だ。前世ならまだしも、ジュダルは玉艶と未だに接点なく暮らしていた。
「白雄や紅炎はどうなんだ。アリバイはあんのかよ、あいつらに」
「まさかジュダル、兄達を疑うんですか?」
「こういうのは先入観なく平等に見るべきだろ? 散々人を犯人扱いしやがって」
「まあまあジュダルくん。白龍くんの言うとおり、本当に他殺かどうかも確証がないんだ。たらればで話を続けたって平行線を辿るだけだよ」
「……」
アラジンの言うとおりだ。それにこの国には推定無罪という言葉もある。確固たる証拠が出揃ってない今、特定の誰かを犯人扱いするのは御法度なのである。
「で、白龍くんの依頼は結局何だい? 玉艶さんの殺害については警察の仕事だから、僕に出来ることは……」
「兄達の間違った主張を正してほしいんです」
自分は膝の上で握り拳を作り、アラジンの丸い目を見た。
「ジュダルがいかに前世で数々の悪事を働いた人間であるとは言え、今を生きるジュダルにとっては他人です。そうやって昔の話に囚われて、今のジュダルを見ようとしない兄達に、アラジンさんからも何か……」
青い髪は短く切り揃えられていたが、襟足の間から小さな三つ編みが見えていた。ジュダルも昔は三つ編みを結っていたというから、マギはみな、こういう髪型をしていたのかもしれない。
「僕はあくまで白龍くんの主張に正当性を持たせる為の道具だと思ってもらっていい」
「……?」
「要は……所詮は子供の言うことだって、無碍にされてしまったんだろう?」
アラジンの予想は事実と少し異なるが、聞き入れてもらえなかったことには違いない。自分は小さく頷いてから、再びアラジンの顔を見た。彼は清々しい笑顔を浮かべている。まるでこちらの憂慮なんか些細なことだと言わんばかりに。
「なら僕が白龍くんの味方をするよ。そうしたら白龍くんの主張にも僅かばかり説得力が出るだろう? そうしたら紅炎さん、白雄さんたちも少しは聞いてくれるかもしれない」
「……」
「大丈夫だよ。ジュダルくんも昔みたいに悪さしないんだろう? それを紅炎さんたちも知ってるなら尚更」
アラジンはマグカップの中身を飲み干して、ベッド脇のテーブルに置いた。
「さっきの白龍くんの言葉、前世に固執し過ぎって主張はさもありなん……僕も、ジュダルくんも、紅炎さんも、そうかもしれない。君が前世の記憶を持たない人だからこそ、そう言えるんだろうね。ちょっと反省したよ」
気まずそうに目を逸らすアラジンの視線の先を、自分も釣られて見つめた。そこは何もない、掛け布団の皺などであった。
「僕も協力するよ、ジュダルくんの潔白を証明したい。是非とも手伝わせてくれ」
「俺は一言も頼んでねーけどな」
それまで一言も発していなかったジュダルが口を挟んできた。だがアラジンはにこやかな表情を崩さない。
「急に照れちゃってどうしたのさ。君ももちろん同席願うよ」
「うっぜえ。勝手にやってろよバーカ」
「はいはい。照れると急に悪口が増えるのは昔から変わってなくて安心したよ」
妙にジュダルの扱いを心得ているアラジンと、そんな彼にのらりくらりと躱されて掴みどころがないと苛立つジュダルの対比は見ていて新鮮だ。なんだってあのジュダルが、他人にペースを乱されていつもの歩調で言葉を繰り出せないのだ。専売特許の憎まれ口だって、今だけは今一つ振るわない。
こんなジュダルを間近で見るのは初めてかもしれない。いつもなら立ち回りの上手い彼が、すこぶる機嫌が悪く口数も減っている。
ある意味、ジュダルにとっての弱点がアラジンなのかもしれない。本人はきっと否定するんだろうが。
「白龍くんはどうする? いつがいい?」
「えっ?」
二人のやり取りに聞き入っていたせいで、話題が振られたことに頭が追い付かなかった。
「紅炎さんたちを説得しに行くのさ。いきなり訪問すると空振りになるだろうし、事前に僕から連絡入れてみようか。日本に緊急帰国したことは君たち以外に知らないだろうし」
そうやって話を進めるアラジンに、自分はふと、とある疑問を思い出した。
「そういえば、どうしてアラジンさんは真っ先にこの場所へ?」
「白雄さんたちからジュダルくんの目撃情報と居場所だけは連絡貰っててね。実際に会うまでは他人の空似の可能性も捨てきれなかったから、信じないようにしてたけど。でも会うと一瞬で分かったよ。君は正真正銘、僕がよく知ってる本物のジュダルくんだ」
「本物ってことは偽物が居んのかよ」
「容姿だけなら、似てる人なら世界中にごまんと居たさ」
アラジンは思い出し笑いでもするみたいに、可笑しそうに笑っていた。きっと世界各地でジュダルの空似に声を掛けてしまったことが何度もあったんだろう。それだけアラジンはジュダルに会いたかった、というわけだ。対するジュダルは心底嫌そうな顔を隠しもしないが。
「とにかく善は急げ、だよね。このアパートに警察が聴取しに来る可能性もなくはないし……明日にでも紅炎さんたちに会えないか申し入れしてみよう」
「あ、明日?」
「そうだよ。僕も日本に長居する理由はとくにないし。ほかに仕事もあるし、アリババくんを置いてきちゃったから」
「アリババの野郎も居んのかよ」
また知らない人の名前が出てきた。アリババとは何者なんだろう。アラジンたちの友人、だろうか。
「僕の大切な友人さ。そしてジュダルくんや白龍くんにとっても」
「白龍にとっちゃ複雑じゃねーの」
「アリババくんは前世の記憶を持ってないから、この二人にわだかまりはない筈さ。いつか会えるといいね」
それだけ仲が良いのに、敢えてアラジンはアリババに記憶を授けていないらしい。やろうと思えばできるだろうし、アリババからも欲しがられなかったんだろうか。
「アリババくんは前世の記憶なんか要らないってさ。今の人生が楽しいから、知っても知らなくてもいいって」
「フン」
「そんな人なんですね」
言うなれば竹を割ったような、だろうか。真っすぐな物言いをする人物なんだろうと、薄っすら想像できた。
「白龍くんだって記憶を持ってないのは要らないからだろう?」
「いや、それは……」
「俺が記憶を渡してないからだ。別に要らねーだろ、この調子じゃ」
「まあ確かに、そうかも」
前世の記憶を持つとどうしても先入観に囚われ過ぎてしまい、今の人生が見えなくなる人も居るんだろう。あるいは他人を前世と同一視して決めつけてしまうのかもしれない。だから敢えて真っ新な状態で、今の人生を楽しめばいい。他人の記憶の話なんか雑音だと思えばいい。
そういう内容の二人の会話を聞いて、妙に納得してしまった。逆にこの二人は否が応でも記憶を持って生まれてしまった身。むしろこんな記憶さえなければ、と思ってしまう場面もあったのかもしれない。事実、彼らはどこか前世の記憶に従って生きている節もある。
「じゃあ、ひとまず明日、みんなで話し合いをしに行こう」
「話し合い、ね……」
「何だい、気に入らないことでも?」
アラジンがそう締めくくろうとした手前、ジュダルが気だるげに呟いた。
「一昔前なら戦って決着着けれたのに、メンドくせー」
「何言ってるんだい。今の日本では永久に戦争を起こしてはならないと、憲法で定められていて」
「わーってるよ、かったりーな!」
ジュダルがそう喚いて、会話は一旦落ち着いた。
彼が何に拘りを見出しているのか自分にはよく分からない。だがひとつ気づくのは、記憶を持つ者と持たない者との見えない隔たりのようなものがある、ということだった。