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Previous Singularity 19話

 錆びた鉄製の階段、饐えたかび臭いにおい、歩くたびに軋む床、埃まみれの手摺。閑静な住宅街とは反対側に位置するこのアパートは目と鼻の先に二十四時間営業のコンビニエンスストアがあるだけで、他には近隣に何もない。似たような出で立ちのアパートや集合住宅が立ち並ぶ街並みは下町情緒溢れる、と言えば聞こえはいいが、要するに古めかしい印象を与える。
 自分はこの場所をよく知っていた。初めて訪れたときはまるで異世界にやって来てしまったような心地にすらなったのだ。それくらい自分には縁遠い場所で、日常で目にしても意識することなく、いつもなら記憶にすら残らない風景と言える。
 だが此処が彼の――ジュダルの住居だと言われて、自分は何度も此処へ通った。学校の帰り、塾の帰り、予定のない休日、とにかく強引な口実で家に誘われて、気がついたら明確な目的をもってして通う羽目になっていた。
 そう、此処はジュダルの家だ。

「どうしてジュダルの家に雄兄さんが」
「まさか練白雄がジュダルの家に住んでいるとは誰も予想しないだろう? あの玉艶でさえ知る由もない」
「まああの女が死んじまったことがきっかけで白雄が此処に住む羽目になってんだけどなー」

 アパートの隣にある空き地のような駐車場のような、とにかく所有者がよく分からない土地に、白雄は慣れた様子で車を停めていた。深く突っ込む気にもなれず車を降りると、やはりそこにそびえていたのは自分がよく知っているアパートであった。切れかけの電灯に照らされたアパートの外観はさながらホラーゲームのワンシーンにも見える。
「玉艶が死んだことがきっかけ?」
「ああ、実はなぁ」
「待て。外でする話じゃない。中に入ってからだ」
 軋音が響く階段を上りながら三人で話をして、白雄がおもむろに財布からひとつの鍵を取り出した。素朴な形をした銀色のディンプルキーは、自分も何故だか見覚えがあるかたちだ。
 白雄は鍵を鍵穴に差し込み開錠すると、これもまた慣れた様子で散らかった玄関に足を踏み入れていた。しかし扉の向こう側に広がっていた景色は、最後に見た記憶とはずいぶんと趣の異なる、まるで別物のような部屋だった。
「あれ、ジュダルの家が綺麗になってる」
「俺が掃除したんだ。一週間かけて」
「こんな家に住めるかって白雄が。でも命と引き換えにされちゃあ贅沢も言えねえし」
「す、すごい。あんなゴミ屋敷同然だった家がピカピカに……」
「ゴミ屋敷だぁ?」
 一番最後に玄関に上がったジュダルが玄関扉の鍵を閉めて、白雄が洗面台で手を洗っていた。他人の家だというのに兄は平然と、まるで自分の居住地かのように部屋の中を動き回っている。その様子に驚かされた自分は、ジュダルに対して反論することさえ忘れてしまった。
「あれ? でも玉艶が死んだのは一週間も前じゃなかったような」
「いや、実際に遺体が見つかったのは二週間前だ。白龍は紅炎を通じて知らされたと思うが、彼はご存じのとおり警察の取り調べで多忙の身でな」
「な、なるほど。連絡が遅れてしまったと」
「そういうことだ。話が早くて助かるよ」
「……」
 ジュダルは空いている寝台に腰かけてつまらなさそうな顔をしていた。いちおうは家主だから部屋の物くらい好きに使えばいいのだが。丁寧にしつらえられた寝台の掛け布団の上に背中から倒れ込んだ男は、色の薄い天井を見上げて囁いた。
「そもそも二人が連絡を取り合ったのはどういう経緯で……」
 自分は荷物をベッドの傍に置き、荷物を背もたれにして床にしゃがみ込んだ。
「玉艶が殺害された当時、真っ先に連絡が入ったのは紅炎だ。そして弟たち二人。なんせ彼らは紅徳とも繋がりがあるからな。とくに紅炎は警察の現場検証にも呼ばれるほどだったらしい」
「現場に? それって犯行を疑われてるってこと?」
「まあ警察は疑うのが仕事だからな、まず疑うべきは一番近しい関係者、つまり血の繋がりがある家族だ。犯行日時を推定してアリバイがないか、供述に矛盾やおかしな点はないか、念入りな調査が続いたらしい。これだけで一週間近く経っていた」
「……本当にお忙しかったんですね、紅炎さん」
 夜中に訪問してきたときは度肝を抜かれたが、そういう事情があるのならやむを得ない……のだろうか。
「そして俺は唯一現場検証に赴いた紅炎から、ある情報を得た」
「……ある情報?」
「犯人が残したとされるメッセージだ」
 背後でじっとしていたジュダルが俄かに体を起こした。その表情に力はない。恐らくここまでは彼も知り得ている情報なのだろう。
「焼死体が遺棄されていた場所のそばに、次は白雄だと記されたメモが落ちていたらしい」
「次って……え?」

 ひゅ、と息を飲んだ。自然と心拍数が上がって、嫌な汗が流れてゆく。悪寒、と言うんだろう。ぶるりと体が震えた瞬間、肩に手が乗った。白雄が柔らかい微笑みを向けてくれた。
「誰が犯人か不明な以上、とにかく俺は逃げる必要があった。そこで敢えて、これまで接点がなかったジュダルにコンタクトを取った」
「え、ええ……」
「ジュダルの連絡先は幸いにして紅炎が握っていた。スマートフォンに映っていた番号を盗み見して連絡を取っていたんだ」
「わりいな白龍。最近バイトで何かと日中不在にすることが多かったけどよ、殆どは白雄の面倒を見てたわけだ」
「ひとまず身を隠す為にこのゴミ屋敷で暮らせと言われて、俺がこいつに断捨離をさせたんだ」
「…………」
 何となく話の筋が見えてきた気がする。つまり二人は誰にも気づかれぬよう密に連絡を取り合い、顔を合わせていた。この作戦が当事者である彼ら以外の人間に知られたら、白雄が危険にさらされるリスクが増してしまう。だから誰にも言えなかったし、白雄は自身が身を隠す場所を他人に教えるわけにはいかなかったのだ。
「ちなみに、言い方は悪いけど……雄兄さんはジュダルを疑わなかったの? 二人はあまり、仲が良くないように思うけど……」
「当時警察と相談していた紅炎たちしか知り得ない犯行推定時刻について、ジュダルがその間何をしていたか直接尋ねたんだ。そうしたら彼は塾の講師アルバイトとして出勤していて、出勤先にもデータが残っていた。だからジュダルに犯行は不可能だと俺は結論づけた」
「な、なるほど」
「俺にカマかける奴はお前が初めてだぜ、白雄」
「それは光栄だ」
 どういうやり取りがあったかは知らないが、ジュダルは疑義をかけられたことを相当根に持っているらしい。
「それで、結局白雄はいつまでここに身を潜めるんだ?」
「あと一週間ほどだ。今は行方不明者として紅炎が警察に届けを出している。いずれ警察署に赴いて保護を求めるが、それまでは外の世界で少しでも多く情報を入手したい。白蓮や白瑛のこともあるし」
「てことは、紅炎さんは雄兄さんの状況を知ってるの?」
「いいや、奴にも知らせていない。俺が信用しているのはこの場に居る三人と、白蓮、白瑛だけだ」
「……」
 事も無げに発せられた言葉に、自分は何も返せなかった。状況が状況なだけに、白雄だって迂闊に誰も彼もを信用するわけにいかないんだろう。あれだけ信頼していると謳っていた紅炎相手でさえそんな態度なのがとても意外で、何となく悲しい心地がした。



 そしてこの時、既に深夜の一時を回っていたので、早々に休眠を取ることで三人は合意した。家主であるジュダルがベッドで、残る二人の客人が床に敷いた毛布の上で眠ることとなった。来客用布団の用意がある筈のない家だから、寝具が心もとないのは致し方ない。残りの一週間はベッドを使う人を順番交代にすることで、白雄が一方的にジュダルと取り決めた。
 翌朝起きてすぐ、自分は学校に電話して、一週間程度欠席すると担任に報告した。当然理由を聞かれたが、家族で旅行に出かけることになったと話せば渋々納得してくれた。普段皆勤で通学しているのが功を奏したのかもしれない。
 朝食は白雄が三人分用意してくれた。小さなちゃぶ台テーブルに白い紙皿に乗ったトーストが三つ並ぶ光景は、なんだか肩の力が抜けそうなくらい平和だ。コンビニで購入したというカット野菜やフルーツ、それから生ハムも添えられており、彩り豊かだ。この家に陶器の皿はないのかと聞くと、ふだんまともに料理をしないから買ってない、という至極彼らしい回答が返ってきた。
 疑似的な家族のようだと思ったが口には出さなかった。テレビを点けてニュースを見つめる白雄の横顔や、機嫌が悪いジュダルの摂食風景などを目の当たりにしていると、呑気な感想など言える筈もないのだ。どこまでも長閑な朝食に見えるが、気まずい雰囲気に飲まれてトーストを嚥下出来なかった。

 味のしない朝食を終えてすぐ、白雄は車で外出してしまった。白蓮、白瑛の元へ会いに行って、一旦三人で合流するんだという。顔を見られてはいけないからサングラスやマスク、帽子などを駆使して顔を隠し、なるべく公共交通機関を使わず生活しているらしい。この奇妙で息苦しい生活も残り一週間で解放される、と兄は呟いていたが、その表情はどこか曇っていた。
 兄は独自に事件の真相を探っているようだが、やはり手掛かりに乏しく収穫はとくにないらしい。警察と直接接触している紅炎とは連絡を途絶えさせているし、ジュダルは事件と直接関係はない。白雄の周辺に居る人物はみな犯人に繋がる手掛かりを握っている筈がないのだ。
 いっそのこと自身を囮にして犯人の顔を直接拝もうかと考えたようだが、その案は白蓮に即刻却下されたようだ。それもその筈である。しかし、そうは言ってもだ。結局のところ犯人の目星もつかぬまま、刻々と時間だけが過ぎてゆくのが兄の現状である。



 心身ともに疲労がたたっているであろう白雄には家事の負担をなるべく減らすべく、自分は昼から家中の寝具類一式を洗うことにした。この家の洗濯機ではとてもじゃないが一度で洗いきることはできず、何度も洗濯機を回すことになるのだが。これだけの重労働を兄にやらせるのは想像するだけで気が引ける。
 薄手のシーツやカバー類を洗濯機に入れている最中、テレビを見飽きたジュダルがこちらに近寄ってきた。何となく嫌な予感がしたので、歩み寄られた分だけ後ずさったが、抵抗にしてはあまり効果がなかった。
「今日だけじゃねぇ。日中白雄はあんな感じで殆ど家には不在だ。だから白龍がここまでついて来る必要性はねぇし、今からでも家に」
「いっ嫌です、戻りません!」
 玄関へ続く廊下を後ずさっていたが、それより先に背中が行き止まりに当たった。狭いキッチンの壁の部分だ。
「俺のこと信用してない?」
「そうじゃないです。俺だけみんなと離れ離れになるのが、ずっと嫌で……」
 兄二人はずっと前から実家を出て、姉は学生寮で暮らし、母親は愛人宅で過ごすことが増えた。散り散りになってゆく家族は団欒という言葉とかけ離れた、いびつな形をしていたように思う。
「広い家で誰かの帰りを待つばかりだったのが嫌なんです。だから……」
「あー、もう。泣くなって。俺が喋りづらいだろ」
「な、泣いてなんか、な」
 目元をなぞる指の先が湿ってゆく。目尻に浮かんだ涙のようなものが拭われてゆくのを、自分はただ呆然と受け入れるしか出来なかった。
「白雄が出てったら白龍の家に戻ろうぜ。ここは狭すぎる」
「……でも俺、この部屋嫌いじゃないです」
「綺麗になったからか?」
 床一面に散乱していた洗濯物や着替え、鞄などの布類は殆ど処分し、必要最低限だけクローゼットに仕舞ったらしい。常にゴミが溢れていたゴミ箱は大きいものに買い替えて、靴が散乱していた玄関は塵取りで掃除して、靴も殆どすべて処分したという。とにかく物が多かったこの部屋は断捨離するだけで見違えるほど綺麗になった。
「そ、それもそうですが、その。あの家はやっぱり兄や姉たちと暮らしたくて。二人きりで過ごすには広すぎるというか」
「贅沢な悩みだな。俺と過ごすのは狭いほうが好みってか?」
 目元を拭っていた手が輪郭を掴んで、上を向かされた。
「その。ジュダルの傍に居られると、実感できて……安心するから」
「……」
「でもジュダルは広い家のほうが」
「あーいや。別にいいよ、もう。白雄が出てったあとも俺の家で」
 親指の爪で下唇を撫でられた。こちらをじっと見下ろす赤い目が何か言いたげだ。おそるおそる口を開くと、指が唇を押し潰して口の中に入ってくる。
「白龍のそれってさ、天然?」
「ふぇ、あ、ふぁ」
「俺の機嫌取ってるつもりか?」
「んゅ、う」
 口から指が引き抜かれると、唇がひりひりと痛んだ。そしてまだ半開きのまま閉じ切れていない部分に、ジュダルがおもむろに口を重ねてくるのだ。まるで当たり前のことみたいに。
「んっう、う」
 唇が離れたあとも顔の周りや耳の裏、首のあたりを丹念に舌で愛撫された。頭がじんと熱くなって、足元がふわふわしてくる。地に足がつかない、現実味があやふやな、そういう感じだ。
 足元に力が入らず体が傾くより先にジュダルに肩を支えられ、流れるようにしてフローリングの床に押し倒されていた。綺麗に磨かれた床はきっと白雄の努力の賜物だ。せっかく磨いてくれた場所で不純なことを致すのは、罪悪感もひとしおである。

「やら、っあ、あう」
 シャツの裾から入り込んできた指が胸の頂きをきつく摘まんだ。じんわりと広がるさざ波のような快楽を、自分は頭を左右に振って散らそうとした。
 最初こそ痛みしか感じなかった部分だが、執拗にいじられるたびに感度が増している気がする。性感帯ですらなかったそこはいつの間にか明確に快感を感受するようになったし、彼の指で少し触れられるだけで体が熱くなってしまうのだ。
 しかしこれは不可抗力である。熱っぽい視線を至近距離で浴びて、不敵な微笑みを浮かべる口元に、この先の展開を期待してしまうのだ。自然と上がる息のせいで卑しい本性を隠せやしない。
 それは恥ずべき事だと理解してはいるが。ひとたび彼の手にかかれば、そんな些細な理性のストッパーは容易く壊れてしまうらしい。
「あうっ、あ! ひゃ、あ」
「服、自分でたくし上げられるか」
「あ、ん、は、はい」
 言われるがまま裾を胸元まで上げてみせた。ジュダルはどこか満足げに小さく頷くと、頭を撫でてくれた。それと同時に、突き出した舌先が柔らかい乳頭を容赦なく押し潰そうとする。
「あっう! あっ、やらぁ、あ」
 まだ幼かった筈の性感が、明確に発露している。首を反らして甲高い声で泣きじゃくると、自分に圧し掛かる男は喉奥で嘲笑うのだ。
「白龍、胸いじられるの好きか?」
「あっゃ、んっ、は、はい、すき……」
「ならもっといじってやるよ」
 と言われた同時に先端をきつく、じゅる、と吸われた。途端だ。
「あッ、あ! っあ、ア……!」
 全身が硬直し、息も出来なくなって、視界がぼんやりと白んだ。
「……何だよ今の。もしかして胸だけで?」
「……へ」
 地に足のつかないような、ふわふわした感覚が暫く続いた。押しては引いてゆく波のようになかなか収まらない余韻のせいで、ジュダルの言わんとすることの意味が理解できない。
「む、むねだけ」
「そ。今、胸だけでいっただろ? パンツの中見せてみ」
「あっう、や、やだ」
 下着ごとスラックスをずらそうとする手を拒んだが、相手に馬乗りで、しかも力づくでそうされては、抵抗の時間は大して持たない。相手は手足を使ってこちらの動きを封じたあと、躊躇なく下衣を剥ぎ取っていった。
 性器がまろび出て外気に触れた瞬間、全身が寒気でぶるりと戦慄いた。同時に激しい羞恥心に襲われて肩が震えた。下着の布の内側にこびりついた体液が糸を引いて、性器に纏わりついていたのだ。
「あはは、やっぱいってたのか。もうドロドロじゃん」
「あ……」
「胸だけでこうなるのか。白龍の体はすげーな」
 下着にへばりつく粘着質な白っぽい体液をまじまじと見つめる男は、ぎらぎらと目を輝かせていた。その爛々とした表情の奥に灯る欲望に気付いたとき、すべてが遅かった。
「なあ、今のもっかい見せろよ。今度はパンツ取ってやるから」
「やだ、や、できな」
 糸を引く性器は一度射精した直後で、当然萎えている。それを弄ったりせずに、再び射精してみせろと言うのか。
 これは生理現象だ。彼の好奇心を満たすための見世物ではない。
「じゃあちょっと手伝ってやるから」
「あ」
 ぬるついた性器を手筒で握り込まれた。彼は慣れた様子で上下にゆるく、それを扱いてみせる。くちゃくちゃと変な水音が響くのだが、彼は至極楽しそうに幼い性器の先端を見つめていた。
「この調子ならすぐいけそうだぜ」
「むっ、無理、むりですっ」
「まあまあそう言わずに」
 先端から微かに滲み始めた体液の滑りを借りて、ゆるい力で手淫された。いつもの激しい愛撫に慣れきった体にとってはもどかしいことこの上ないのだが、本音を口にするわけにもいかない。仕方なく生易しい愛撫に甘んじていたのだが、その最中、再び別の部分に刺激が迸った。
「はは。胸弱すぎ」
「あっや、ゃう、抓るの、や……」
「でもこれが良いんだろ?」
「よ、良くなんか、な……」
 言いかけた瞬間、乳首の先端を指でピンと弾かれた。体が小刻みに震えて、視界がぼんやりと朧気になる。性器に纏わりついていた手淫はもう止んでいて、今は胸元の刺激しか与えられていなかった。
 だがそれでも体は十二分に発情しきっていて、再び快楽の頂点にまで駆け上がろうとしていた。驚くことにそれは性器への愛撫がなくとも、胸だけで実現されようとしている。
「指で弄るより吸われるほうが好きそうだな」
「ちがっ、違うから、や、やだっ」
「るせーな」
「やだっ、や、やぁ、ア!」
 肩を押し返してみるがびくともしないし、足をばたつかせても意味がない。ちゅる、とわざとらしく音を鳴らされると胸がばくばくと高鳴った。
 己の意思に反し、体は坂道を転げ落ちるみたいに快楽を受け入れる。まったくもって忌々しい限りだ。こうやって反応を示すから、相手を調子に乗らせて、ますますこちらの分が悪くなる。
「でもきもちーだろ?」
「あっう、んぅ、あ、きもちぃ……」
 ジュダルの頭を掻き抱きながら、きもちい、とうわ言のように呟いていた。きもちい。そう口にするとますます全身の感度が上がって、体温も急上昇する。汗が吹き出す背中や湿り気を帯びた後頭部は、冷たいフローリングに押し付けた。ひんやりとして心地よい。けれどその束の間の心地よさを上書きするみたいに、気まぐれの嵐のような快楽にすぐさま見舞われるのだ。
「ッあ、い、イ、いく、イっ」
 臀部が自然と持ち上がって、びく、と震えた。
 しかし、その直後である。



 ピンポーン。

 熱に浮かされた頭では、それが何を示す音なのか。瞬時に理解できなかった。

 ピンポーン。ピンポーン。

「だ、誰か来た……?」
 馬乗りになっていたジュダルが俄かに顔を持ち上げて、玄関があるほうを振り向いていた。こめかみに薄っすらと浮かぶ汗になんとなしに触れようとした瞬間、再びインターホンの音色が響いた。
「インターホン……壊れてたんじゃ……」
「大家に相談して、少し前に修理してもらったんだよ。いや、今はそれどころじゃなくて」
 ピンポーン。
「しつけーな」
「居留守が、ば、ばれてるんじゃないでしょうか。俺たちがここに居ることも」
「だとしてもよ、いったい誰だよ」
 ピンポーン。
「あーあ、もう台無しじゃねーか。ったく……」
「……」
 上がった息はそのままで、ジュダルはいそいそとこちらの体から退こうとしていた。その緩慢な動作の間にも数回、インターホンのチャイム音が鳴り響いていた。
 不躾な奴である。数度鳴らせば聞こえるのに、ただでさえ壁の薄いこのアパートだと隣の部屋にまで聞こえているかもしれない。
「……」
「白龍?」
「いや、何となく、その」
 乱れた着衣を直しつつ、気まずい心地を持て余して床を見つめた。
「ああ、寸止めで悪かったな?」
「そっそうじゃないです! ただ、その」
 これだけインターホンを連打する失礼な奴に一人、心当たりがある。



 玄関扉に立っていた人物の顔は、やはり自分の予想通りだった。しかしジュダルにとっては寝耳に水な話で、素っ頓狂な声を発していた。いつかの自分と似ている。
「ハァ!? なんで紅炎がここに!」
「白龍と話がしたかったんだ。しかし家に行っても無人だったようで、ジュダルの家に」
「なんで俺の家の住所知ってんだよ!」
「以前お前の家の前まで行ったことがあると、白雄から聞いて」
「揃いも揃って俺のストーカーかよ、気色悪ぃーな!」

 玄関の前で立ったまま二人が何やら言い合っている。恐らく紅炎は家に入りたいんだろうが、ジュダルは彼を自宅に上げたくないんだろう。
 それはたぶん、白雄がこの家に間借りして暮らしていることを悟られてしまうのを危惧しているのだ。どこかしらに生活の痕跡、たとえば私物があればすぐに発覚してしまう。
「な、なら紅炎さん、俺の家に今から移動しますか」
 着衣の乱れを直しつつ、それとなく二人の会話に割って入ってみた。まるで火に飛んで入る夏の虫のような気分だ。
「まどろっこしい。ここで話をすればいい」
「俺はオメーを上げたくねえんだよ、察しが悪いな」
「……俺を上げたくない理由が、何かあるのか?」
「……」
 一瞬だけ空気がピリついた、ような。
 しかしジュダルはそんなのお構いなしといった調子で言葉を続けた。
「だって俺たち今、ヤラシーことしようとしてたんだぜ?」
「じゅ、ジュダルっ」
「……」
「それを紅炎が邪魔してきやがってよ。せめて来るなら事前に連絡くらい」
「俺が用があるのは白龍だ。お前に用はない」
「……」
 ふと、ジュダルの肩越しに紅炎と目が合った。彼は白龍、と小声で名前を呼ぶ。
「家主から許可を得られなかった。すまないが今から移動出来るか?」
「移動って、どこ連れて行く気だよ」
「白龍の家だ。そこなら誰の邪魔にもならないだろう」
「誰の邪魔にも、だぁ? 白龍の邪魔になんだろうが」
「こっ、紅炎さん。今からいらっしゃっても、俺は大丈夫ですよ」
「白龍」
 ジュダルが分かり易く機嫌を悪くして振り向いた。こんな奴の言うことは聞かなくてもいい。そう言いたげな面持ちがこちらを見下ろした。
 しかし、紅炎が再び自らの足でやって来るということは。のっぴきならない事情があるんだろう。前回も非常識な時間帯ではあったが、話を聞いたら彼の異常な行動に納得もできた。
「すまないなジュダル。白龍を借りるぞ」
「ああ? 貸したくねーよ」
「ジュダル。後で帰って来ますから」
「……」
 ジュダルが肩に腕を回してきて、どこにも行かせないと言わんばかりに引き留めてくる。つい数日前は理由も言わず黙って家から出て行こうとしたのに、都合のいい奴だ。
「晩飯用意しとくから、こっち帰ってこいよ」
「晩飯って、またコンビニ弁当かカップ麺でしょう? 分かりましたから、離してください」
 そこまで言うと、彼は渋々拘束を解いてくれた。その表情は不服そうで、癇癪を起こした子供みたいだ。

 玄関で靴に履き替えて、荷物を持って、出て行こうとした瞬間。真後ろから、帰ってこいよ、という小さな声が聞こえた。
 思わず振り向いて返事をしようとした瞬間。ジュダルの声が聞こえていない紅炎の手によって、扉はあっけなく閉じられてしまった。一枚の隔たりを交えた今、ジュダルと直接言葉を交わす手段はない。自分は渋々、そのままジュダルの家を後にすることとなった。