Previous Singularity 17話
身の内に蟠る欲望に苛まれながら夜を迎えるとはどういうことか、想像したこともなかった。まさか自分がこうなると、露にも思わなかったからである。
後頭部に敷いた枕を一旦退けて、シーツに直接寝そべった。照明を完全に消した寝室はすっかり暗く、カーテンを閉め切った窓からは月明かりすら届かない。自分の呼吸音だけが響く中で、時計の針を見た。
「もう一時……」
明日も通常通り授業がある。なのに寝付けない。イライラする。眠気は一向に来ず頭は冴え渡るばかりで、堂々巡りの考え事が脳内を埋め尽くした。
取り留めのない考え事だ。明日の時間割とか、苦手な科目の小テストとか、体育の球技のチーム分け、弁当に入れるおかずの種類、先日閉店した本屋の跡地、もう三日ほど回していない洗濯機。楽しい予定や出来事は思い浮かばない。日常生活のちょっとした憂鬱な事が反芻されるばかりだ。
胸に手を当ててみる。手のひらに伝わってくるのはいつも以上に高い体温と、いやに速すぎる鼓動だ。最初は熱でもあるんじゃないかと本気で考えたが、体の異変をよくよく観察してみると、その予想は的外れだと気づいた。
寝返りを打ち、仰向けからうつ伏せの体勢に変えた。体の違和感の正体はまだまだ主張を続けており、無視しようにも出来なくなっていた。
生理現象だと説明するのは易いだろうが、現実を受け入れることも、対処せねばならないことも、自分には難しい。ひどく抵抗感のある行為を自分自身に強いるのはやるせないし、理不尽だし、認めたくない。情けない気持ちも募ってくる。
「はぁ」
吐いた溜息は思いのほか熱く、艶めいた空気を含んでいた。
今度は体を横向きにし、寝間着の上から下半身に触れた。そこは既に硬く張り詰めており、十二分に熱を孕んでいた。
「あ、う……」
布の上から触れてもじれったさだけが募る。どうしようもないほど切なく、もどかしく、物足りない。まるで飢えた獣みたいに、口の中で唾液が溜まってゆくばかりだ。
「ッあ、あゃ、あ」
布の下に這わせた指を動かした。薄い茂みのその先、まだ使い込まれてもいない性器だ。触る前から既に湿っていた粘膜は温かく、手のひらに吸い付いてくる。
体が跳ね上がって、やけに大きな声が出た。暗い寝室に響き渡る自分の嬌声は受け入れがたく、これ以上聞きたくなかった。現に自分が今、自分を慰める行為にここまで没頭しているのだと突きつけられて嫌気が差すのだ。
「なんで、ッ、こんな……」
手筒を揺らすたびくちゃくちゃと音が鳴った。先端の鈴口に指を這わすと透明な糸が伸びて、自身の異常さを思い知らされる。
こんなこと、ふだんはないのに。
「アっ、あ、や……」
思い当たる節はひとつだけだ。それは夕暮れ時、密かに行われた秘め事。男の欲望の象徴を口を使って愛撫するという行為を通じて、自分はおかしくなってしまったようだ。
もう息苦しさだとか、眩暈だとか、顎の怠さは残っていない。しかし鮮明に刻まれた強烈な性体験が脳裏にこびりついたまま、なかなか離れようとしない。それどころか時間の経過とともに、胸の奥がじっとりと濡れてゆくような、奇妙な感覚に襲われるのだ。
べたべたに濡れた右手は動かせば動かすほど気持ちが良く、熱が高まってゆく。分泌された滑りを借りれば卑猥な音は鳴るが、何故だかそれが余計に胸を高鳴らせるのだ。
「じゅ、ジュダル……」
自分をここまで欲深く、下品に仕立てたのは他の誰でもない。紛れもなくあの男だ。まなうらに蘇るあの憎たらしい笑みが、今はもはや恋しいとすら思う。
こういう時、隣に居てくれないのが寂しくて心細い。まるで自分ばかりがジュダルのことを好きみたいじゃないか。そんな彼は自分によく似た、しかし自分とは似て非なる誰かのことばかり考えている。あの気分屋で誰にも縛られない男をそこまで夢中にさせる存在が疎ましくて、羨ましいとすら思う。自分がどうやったって、背伸びしたって、自慰をしながら泣いたって、絶対に手に入らないのだ。
彼の意中の人は近いようで、どうしようもないほど遠い場所に居る。夢の中で会えたって、しょせんは幻だ。触れることさえ叶わない。そのことを彼は、幾度の夜を越えながら実感していることだろう。そしてその寂しさ、やるせなさを穴埋めする為に、己を手酷く抱くのだ。
頭ではそう理解しているのだが、彼の言葉と声で紡がれる耳障りの良い台詞に一喜一憂させられてしまう。過去の白龍とは同一視しないと誓ったその口で、舌の根も乾かぬうちに、過去の白龍と比較するようなことを言う。その軽率さに、自分はいちいち傷ついたり心細くなるのだ。
「ばかみたいだ、おれ……」
擦っても擦っても、出したいものが出せなかった。男の手にもてあそばれたら堪えれないくせに、自分の手じゃちっとも達せられない。思い通りにいかない体はもはや欲求の吹き溜まりで、二進も三進もいかない。
やがて冷や水を浴びせられたかのように、ひとたび心が冷静になる。途端に熱が冷めてゆく体は萎えてしまって、これ以上何もする気になれなかった。残ったのは不完全燃焼の性欲と、汚れた右手だけである。
少し汗をかいたせいか、寝心地が悪い。今が何時なのかは分からないが、とにかく眠気を呼ぶためにも一旦温かいシャワーでも浴びてみようか。
そう思い立ち、ベッドから起き上がろうとした。次の瞬間だった。
ピンポーン。
家中に響き渡る呼び鈴に、全身が硬直した。
ピンポーン。ピンポーン。
立て続けに鳴らされた呼び鈴に、心臓がばくばくと音を立てた。
(今の時間は……)
時計の針は夜中の二時を指す。手足が震えて、ベッドから下りることも難しい。これが悪い夢だったら、まだ笑い話で済むだろうに。
ピンポーン。ピンポーン。
家の中に人が居ることを、分かっているんだろうか。中から誰かが出てくるまで延々と鳴らすつもりか。居留守を使えば諦めてくれないだろうか。
こんな夜中に呼び鈴を鳴らす不届き者に心当たりはない。玉艶? 自宅の鍵を所持しているのだから玄関から入ればいい。白雄? 事前に連絡のひとつくらいくれるに決まってる。ジュダル? 呼び鈴を鳴らすくらいなら自分の家に帰るだろう。
ピンポーン。ピンポーン。
そこに居るのは分かっていると言わんばかりに、何度も何度も鳴らされる。これはまるで脅しだ。隠れているのは分かっているんだぞ、という無言の脅しである。
震える足に力を込めて、ようやくベッドから下りた。玄関先に設置してあるインターホンのモニターを確認することが先決だ。知っている顔だったらモニター越しに事情を聞けばいいし、知らない顔だったら朝まで籠城するしかない。警察をいつでも呼べるよう、スマートフォンも携えた。
階下へ移動する最中も呼び鈴の電子音は幾度も聞こえた。背筋がぞっとするような不安感を煽る音色は、耳へ届くたび足を竦ませる。人間の根源的恐怖心に迫る音だ。
ピンポーン。ピンポーン。
インターホンモニタ画面を覗き込んだ。夜間で不鮮明な画像だが、顔はしっかり映り込んでいる。
「……知らない人だ」
体格はがっしりしていて上背もある。男だろう。目鼻立ちまでははっきりしないが、若そうに見える。
スマートフォンで通話ボタンを押し、すかさず一・一・零と入力した。あとは発信ボタンを押せば警察に繋がる。
と、ここまで準備した段階で、突如着信音が鳴りだした。
モニターは通話状態じゃないから、こちらの音は聞こえていない筈だ。
表示されている番号は十一桁の見知らぬ数列だ。この予期せぬタイミングでの来訪者に加えて見知らぬ携帯からの着信、不審な出来事が重なりすぎている。
これは偶然なんかじゃないんだろう。モニターに目を凝らすと、その人物は端末を耳元に当てていた。鳴らしているのは今、自分の手にある携帯だ。直観でそう感じた。
「……も、もしもし」
震える声で応答した。発信側の周囲はやけに静かそうだった。それもその筈だろう。
『ああ、やっと繋がった。白龍の携帯で合ってるか?』
モニター越しに相対する男の口元が動いている。まさしく電話の向こう側と繋がっているのだ。
「あの、誰ですか?」
時刻は深夜二時を回っている。どこからどう見ても不審者にしか思えない。
『練紅炎だ。覚えているか?』
「……あ」
『ちょっと訳があってな。夜分遅くに怖がらせてすまない』
呼び鈴の音は止まった。その代わり、スマートフォンから聞いた覚えのある声が聞こえた。
それは一度、ジュダルとともにスピーカーモードで通話したときに耳にした男と同じ声だった。名前を練紅炎という、白雄の事情を知る数少ない味方だ。匿ったり相談に乗ってくれるそうで、何かあればここへ連絡するといい、と番号が記されたメモ書きまで渡された。それだけ信頼の置ける男なのだろう。
『俺はお前が知っての通り、白雄のよしみだ。それに免じて、どうかこの無礼を許してくれないか』
「……俺に、何の用ですか」
おそるおそる尋ねた。用件によっちゃこの通話を続けるし、急を要さぬようであれば切るまでだ。
『まさか、ジュダルから何も聞いてないのか?』
「はい?」
『玉艶が死んだと……』
「死んだ?」
『あいつ、本当に言ってないのか。何も、お前に……』
「死んだって、どういうことですか」
『……』
モニターを見ると、男はかぶりを振っていた。声にはどこか溜息が混じるような、呆れが見え隠れしている。
『その件について説明と、俺が知っている範囲で情報を共有しておきたい。事は一刻を争う。悪いが今から上がらせてもらえないか?』
端末越しに聞こえる声色は低く唸る獣のような、底知れない威圧感を感じさせた。自分は彼の声が持つ雰囲気に当てられたせいか、二つ返事で了承していた。
その名と、声だけは知っていた。
玉艶が白徳以外の男との間に設けた子どもたち、その長男にあたる人物。彼が長男だからなのか、玉艶から最も贔屓にされているという噂話も聞いたことがある。そしてその立場を利用してか、はたまた長男という立ち位置による責任感からか、玉艶の存在にいち早く危機感を悟った男。
「貴方が練、紅炎さん……」
要は自分と同じ母親から生まれた義兄弟なわけだが、父親は白徳の弟である紅徳だ。この事実だけで母親に対する吐き気にも似た嫌悪感が増してゆく。
「今は家に一人なのか」
「あ、はい。兄たちは勿論、姉は学生寮で暮らしてて」
「……あいつは」
リビングを見回していた紅炎がふと言葉を切って、こちらを見つめた。
「あの男は今どこに」
「あの男」
「ジュダルだ。ここには居ないのか?」
奴ならどうせここに居ると思ったんだが、とでも言いたげな溜息が聞こえた。状況がさっぱり掴めていない自分は、ひたすら正直に問答を続けるしかない。
「はい。今晩はアルバイトで出掛けてて……」
「……こんな時にアルバイトだと?」
「あの」
「相変わらず危機感のない……」
男は脚を組み替えつつ、長い溜息を吐いていた。
彼の苛立ちの矛先が自分ではないと分かってはいつつ、やはり特有の威圧感を前にすると肩が竦んでしまう。まるで自分が怒られているみたいだ。
「ジュダルから本当に何も聞いていないのか? 玉艶のこと」
「……」
「彼女と俺の父親、お前から見たら叔父にあたる紅徳の焼死体がゆうべ見つかった。ここからは少し離れた北関東の山中で遺棄されていたんだと」
「……」
「昨晩電話でこの件について話をしたんだが、あいつ別件があるからと言って通話を切ったんだ。この異常事態より優先することが他にあるとは思えんのだが」
「……あ」
紅炎の今の発言で、何となく思い出した。
あれは昨晩、どういった経緯かはうろ覚えだが、このリビングでジュダルに口淫を施している最中に彼の電話が鳴って……不穏な響きの会話が、断片的にこちらの耳にも届いてきて……
「白龍? ジュダルの居場所に心当たりでも?」
「ああ、いや。そういえばジュダルが昨晩リビングで、誰かと電話してたような気がして」
「恐らくその相手が俺だ。ったく、こんな時にほっつき歩きやがって」
紅炎は時計を見遣った。針が指すのは午前の三時を回ったあたりか。釣られて自分も時計を見たが、紅炎はどこか苛立った様子を隠しもしない。
あてもなくほっつき歩いている、ではないような。しかし今ジュダルの行動を擁護したとて、却って彼の腹の虫の居所が悪くなるだけだ。
「まあいい。本来ならあいつも同席してほしかったが本題に戻ろう」
居直った様子の紅炎が、とつとつと口火を切った。
「玉艶と紅徳がおそらく何者かに殺害された。自殺の線も完全にないわけではないから、並行して捜査を進めると警察は言っていたが……あの二人が焼身自殺をするようなタマなわけがない」
「け、いさつ……」
「遺体が見つかったのはそもそも山の所有者からの通報でな。焼け跡から二人の遺留品、身元特定に繋がる私物とDNAの鑑定だかで特定できたらしい。今の世界は何かと便利で助かるな」
「……」
「まあおかげで俺は日中警察からの事情聴取で身動きが取れない。兄弟たちも同様だ。こんな夜半に訪問してしまって申し訳ないが、事情は察してくれ」
紅炎はそこまで言い終えて、こほんと咳払いをした。
何となしに目を遣ったテーブルの上、何も置かれていない卓上に、自分はようやくあることを思い出した。
「すみません、喉渇きましたよね。麦茶でもいいですか?」
「いや、気遣いは不要だ」
「いいんです。俺も喉、渇きましたから」
立ち上がろうとして制されたが、むしろ客人に気を遣わせるほうがおかしい話だ。真夜中に突然の来訪をする身勝手な客だが、事情を察すれば責める気も失せてしまった。
「一体だれが、二人を」
「死亡推定時刻は現在調査中でな。なんでも遺体の損傷が激しく特定に時間がかかるらしい。それさえ分かればアリバイのあるなしが分かるんだが……」
「……」
「ひとつ、気がかりなことがあって」
「気がかり?」
来客用の、誰の物でもないグラスに茶褐色の麦茶を注いだ。今朝沸かしたばかりだから、味も悪くない筈だ。
なみなみ液体が注がれたグラスを受け取った紅炎は、それに口をつけるより前に話を続けようとする。
「お前の兄たち、白雄と白蓮から数日連絡が途絶えている。事件のことを知らせようにも、まったく繋がらない」
「……紅炎さん」
「そんな怖い顔をするな。俺は二人を疑っているんじゃない。むしろ逆だ」
手渡したグラスを奪い返そうとしたが、そうする前に彼はグラスの縁に口を付けた。
「この状況で真っ先に疑われるのは白雄と白蓮だ。それが犯人の作戦なんだろう。二人を疑義にかけるのは犯人の思う壺だ」
「犯人は自身から目を逸らす為に、兄たちを陥れようと?」
「お前の言い方は極端だが、まあ……」
少し呆れた面持ちで告げた男は、グラスをテーブルに置き直した。率直に窘められた自分は落ち着く振りをして、静かに席に着く。
「紅炎さんは二人を殺した人物に心当たりが?」
「いいや全く。むしろ白龍、お前はどうなんだ」
「俺を疑ってるんですか?」
「そういう話じゃない。落ち着け」
紅炎はテーブルのグラスに視線を向けて黙り込んだ。茶でも飲んで頭を冷やせ、と言いたいんだろう。自分は大人しく従って、一息ですべて飲み干した。
「心当たりがありません。犯行がいつ行われたのかは知りませんが、数時間程度の空き時間じゃ足りないでしょう。二人の成人を丸焼きにするなんて、そんなこと出来る人が居るんですか?」
「……」
「一日、いや移動を加味すれば二日はかかりそうですね。俺は毎日学校に行ってますし、ジュダルとも頻繁に会いますから。どんな方法で殺害したかにも依るんでしょうが、難しいと思いますよ」
「……えらく冷静だな」
紅炎は目を細めて、そう呟いた。
「母親にもっと愛着があれば取り乱しもしたんでしょうが。今の俺には無理な話です」
「そうか」
「そう仰る紅炎さんだって、とても冷静に見えますよ」
「は。弟たちにも同じことを言われた」
母親に一番贔屓にされていたという長男でさえこの態度だ。きっとあの女を母親として慕い、心から感謝と恩義を感じている子供は居ないのかもしれない。少なくとも自分は。
「ジュダルはいつ帰ってくるか分かるか?」
「さぁ……」
「お前、俺のことが気に食わないからはぐらかそうとしてるか?」
「違いますよ」
一通も連絡が届いていないスマートフォンの画面を見つめた。ジュダルとスマートフォンで連絡を取ったのは数日前だ。なし崩し的にこの家に住み着くようになってから、わざわざ電話する頻度もおのずと減った気がする。
「朝方、早朝には戻ると思いますよ。待ちますか?」
「今の実家が、警察の出入りが多くて気が休まらなくてな。もう少し居させてもらっても構わないか」
「ええ。ジュダルが戻るまでですよ」
「そんな警戒するな。俺たちは義理とはいえ兄弟なんだ」
「……」
「事情聴取が落ち着いたら、この際だ。他の兄弟も紹介してやろう。お前の姉、白瑛にも会わせてくれ」
「……俺の姉に、ですか?」
テーブルに置いていただけの右手を拳に握り、体が自然と前のめりになる。紅炎は表情を変えない。むしろ、どこか呆れている様子だ。
「久々なんだから当然だろう。それに家族一堂が会するのは悪いことじゃない。俺はみなの元気な顔を見てみたいんだ」
紅炎は尤もらしいことを口にする。その口元には薄っすらと笑みすら浮かんでいた。仏頂面に似合わない、へたくそな微笑だ。
「義理のきょうだいとはいえ、初対面で赤の他人のようなものだ。変な下心を持ったらただじゃおきませんよ」
「……一体何の話をしている」
「姉に変な男が寄り付かないよう、兄たちに代わって俺が監視してるんです。今の学校は女子校だし学生寮なので心配してませんが……」
「相変わらずだな……」
紅炎は明後日の方向を向いて、ふうと息を吐いた。そして逡巡したのち、こちらに一瞥をくれる。
「下心がどうとか言うなら、お前こそ人のことが言えないだろう。白龍」
「……?」
何の話か分からず、赤い瞳に問いかけた。
すると彼は表情を崩さず、右の手のひらで自身の首元を撫で擦った。
「分かりやすい場所なのはわざとか。一体誰が相手かは詮索しないが」
「な……」
「白龍」
紅炎はおもむろに立ち上がるとこちらに歩み寄り、テーブルについたままの手を握ってきた。自分を見下ろす瞳は前髪のせいで影になってしまって色がよく見えない。能面のような仏頂面の下にある感情なんか、さっぱり読み取れそうにない。
「あいつもあいつだが、白龍。お前だってわかっているんだろう」
「な、何を……」
「お前は年の割に物の見立てがしっかりしているし、知恵があるし、冷静だ。だからこそ俺は信じがたい」
重なっていた手は離れて、次に首元へ触れてきた。人間の急所だ。そこを、初対面の相手に気安く触れさせる義理はない。
紅炎の手を撥ね退けようとしたが、反対側から伸びてきた手に制されてしまった。これは一体どういう状況なのだろう。
そう思うより先に。首筋に触れた冷たい手指の感触に、全身が粟立った。
「何故あいつを許してるんだ? 俺の想像が正しければ、お前たちは……」
「こ、紅炎さん」
「人に言えないような、疚しい関係か?」
「……」
遠回しな表現なんかじゃない、直接的な物言いに顔が熱くなった。
義理の兄弟とはいえ、紅炎とは赤の他人として育てられた。そんな男に突然ジュダルとの関係を揶揄されて、良い心地はしない。むしろ辱めを受けているような気分だ。
「お前がいくらしっかりしていようと、まだ子供だ。判断力に乏しく、その場の好奇心に流されてしまうこともあるだろう。だからこそジュダルは自身を律して、年相応の振る舞いをせねばならないというのに」
「……」
「お前は本当にこのままでいいと思っているのか?」
紅炎の声が静かに響いた。時刻は間もなく朝の五時を迎えようとしている。
静寂が続く室内に薄っすらと朝の訪れを彷彿とさせる、青みがかった紫色の光が差し込んだ。壁の上半分を覆う窓ガラスの、カーテンの隙間。もうじき朝がやってくると、言外に告げられている。
「本当は心のどこかでお前も戸惑っているんだろう? 本心から受け入れているのなら俺の問いかけにも即答で否定できた筈だ」
「さっきから何の話……」
「とぼける振りが下手だな」
首筋を這う手が、今度は顎先を捕らえた。上を向かされて、目を逸らせなくなる。明るくなり始めた室内で、紅色だけが煌々と輝いていた。
「本心では不安なんだろう。ジュダルを受け入れていいか。奴の心がどこにあるのか。なし崩し的に受け入れたとして、奴の心に嘘偽りがないのか」
立て板に水が流れるが如く、だ。つらつらと述べられる紅炎の一方的な憶測、ジュダルに対する悪感情が手に取るように分かる。
「そういうんじゃなくて、俺は、ただ……」
「まだ全面的にあいつのことを信頼することに躊躇しているようだな。しかし、そこまでして奴の肩を持つことに何の意味がある? お前にはかけがえのない兄や姉だって居る。今お前がやるべきことはひとつだろう」
「……でも……」
こんなところでジュダルの帰りを待ってなんかいないで、捜査に協力するなり兄たちの行方を探すなりすべきだ。家族の中で積極的に音頭を取って回れる紅炎も、現在は取り調べで拘束されることが多い。となれば残された家族たちで出来る限り協力をしてゆくべきだ。
という、至極真っ当で当たり前の主張を言外に受け取った。一から百まで言われなくたって分かる。
「どうしてあいつを待ち続ける? 何か弱みでも握られたか」
「別に、そんなんじゃ……俺たちは対等で……」
「対等であるなら尚更。その首の痕も、口にできない関係性も、お前は疑問に思わないのか」
「……」
「一体、ジュダルに何をされている?」
顎の下を撫で擦る手のひらに、微かに力が籠った。
その時だ。
視界の外側で物音が聞こえた。それから床に伸びる、一筋の光。
玄関側からだ。誰かが玄関の明かりを点けた。忍び寄る足音と息遣いに耳を澄ませているうちに、リビングに続く引き戸が動いた。
「……なんだ。誰を連れ込んでいるのかと思えば」
「ジュダル。俺の話を白龍に伝えなかっただろう」
扉の向こうに立っていた男に目を向けた紅炎は、彼を責めるような口調で声を紡いだ。しかし相手も一筋縄でいく人間じゃない。
それどころか事態は大きく急変した。
「ジュ、ジュダル?」
傍まで歩み寄ってきていたジュダルが、紅炎の右手を取り上げた。ちょうど顔の向きを固定していた手だ。その手は右手首を掴まれたまま宙に浮いている。
「勝手に家に上がり込んで、ベタベタ触ってんじゃねーよ」
「家主はお前じゃなく白龍だ。俺は白龍の許可を得て邪魔させてもらって、」
「うっせーな。上がるのは良くても触って良いとは言われてねーだろ」
ジュダルの手を撥ね退けた紅炎が眼光を強める。が、ジュダルだって怯むどころか睨みをきつくするばかりだ。
これはいつの日にか、同じような光景を見たことがある。あの時は自分の背後にジュダルが、こちらに向かって手を差し伸べていたのが白雄だった。
それっきり兄とは顔を合わせていない。あれが今生の別れだとは思わないが、当分会えないであろうことは薄々感づいていた。兄たちだってすべて分かっていて、意地でもジュダルから自分を引き剥がそうとしたのだ。
しかし自分はそこまで分かっていて、兄の手を取らなかった。取れなかった。本来ならどうすべきか、一番の最善手が何なのかは頭できちんと理解できていたくせに。
今も同じだ。各々思うことはあろうが、ここは家族として一致団結すべき時だろう。
わだかまりは払拭できないが、両親を一度に亡くした紅炎の心境は想像に難くない。そんな中でわざわざ、忙しい合間を縫って来てくれた。共に知恵を出し合って、真相を解き明かし、白雄と白蓮の二人を迎えに行こうと誘ってくれた。
自分だってそうしたい気持ちは山々だ。とくに白雄と白蓮に疑いの目を向けさせるような手口は非情で、卑怯で、あってはならないことだろう。いくら憎き親とはいえ、兄二人が殺人を犯す人だとは思えない。社会規範を破るくらいなら真っ当な方法で彼女と距離を置くだろう。
そんな兄二人の安否が心配じゃないわけじゃない。ただ今、自分の中にある燻ぶった感情がどうしても、ここに居続けろと囁くのだ。まるで悪魔のお告げみたいに。
「非常識な時間に押しかけておいて、何我が物顔してんだよテメーは。せめてまともな時間に出直して来やがれ。今度は俺が居る時にな」
「……時間についてはこちらに非があったと認めよう。だがジュダル、白龍にも意思というものが」
「うっせーな、残ってる茶飲み干したら出てけよ」
グラスにまだ半分ほど残っている茶褐色を見てから、紅炎はそれきり黙り込んでしまった。
これ以上ジュダルとのまともな対話は期待できないと悟ったんだろう。彼は幼稚な主張で矢継ぎ早に捲し立てて、相手に反論する気を失わせるのが得意なのかもしれない。
紅炎がまだリビングに残っているにも拘らず、ジュダルは無我夢中といった面持ちでこちらの腕を掴んでいた。腕を引かれて向かった先はリビングの外、その先にある上り階段だった。
階段を上れば寝室がいくつか並んでいる。自分や兄弟、母親、父親が生前使っていた部屋などだ。ジュダルが足を向けたのは言わずもがな、こちらの寝室である。
「ジュ、ジュダル」
部屋に入った直後、真っ先に床へ引き倒されていた。廊下へと続く扉は開けっ放しで、なのに彼は馬乗りになって手足を強い力で拘束してくる。
「ジュダル、何を」
「あんま喚くなよ。下に聞こえるだろ」
「ジュダル……!」
鋭い犬歯が覗く唇が、首元へ寄せられた。あとは何をされているのか、まったく見えなくなる。ざらざらと湿った感触が急所を撫で回り、居心地の悪い愛撫がしばらく続いた。
「そこは、あゃ、やめ」
「ならどこがいい」
「みっ、見えない、とこ……」
うわ言のようにそう呟くと、彼はいったん顔を起こした。不思議そうに丸まった瞳がこちらを凝視している。
「見えないとこ?」
「さっき……紅炎さんに、首のとこ、気を付けろって……」
丸い瞳が細められて、視線がざらついたものになった。その変化はあまりに一瞬のことで、何故彼がそんな表情をするのか、僅かばかり理解が追い付かなかった。
「あいつに見せびらかしたんじゃなく?」
「ちっちが」
「あっそう」
ジュダルは問答に興味を失くしたのか、今度は瞬時に笑顔を取り繕ってみせた。
「じゃあどこがいい?」
「へ」
「どこなら痕残しても平気?」
おもむろに上からシャツのボタンをゆっくり外してゆく、その勿体ぶるような手つきにじれったさが増す。こちらの顔色を窺うような視線はまるでご褒美を前にした、無邪気な子供みたいに見えた。
しかしジュダル自身は無邪気な子供じゃない。むしろ邪な気持ちであるからこそ、己を組み敷いて焦らそうとするのだ。そして自分はまんまと手玉に乗らされ、踊らされる。
「む、胸のあたり、とか……」
ぷちぷちとひとつずつ、丁寧にボタンを外されていた。しかし彼の手を止めさせて、途中からは自分で外してみせた。
「とか?」
「お腹のまわり、とか」
「うん。あとは?」
「あ、あとは……」
言われるがままに声を発していた。胸、腹、脇の下、腕、鎖骨、背中、腰。
「他にはもうねえの?」
はだけたシャツの下にある腰をなぞられて、ぞくぞくと甘い波に意識が攫われそうになった。言い知れない感触に襲われたが最後、まともな理性の言うことを本能が聞くはずもなくて。
「あ、あしの」
「うん」
「脚の、付け根のとこ……」
ジュダルが視線を下ろしたので自分も釣られて同じ場所を見た。ちょうどジュダルが腰を下ろしている部分、その真下だ。
「ここ? ここは恥ずかしいから嫌だって、前に言ってなかったっけ」
「い、いいんです、俺は、別に……」
脚の片方を抱えられた。そのせいで臀部の丸みから股関節まで見渡せる。いくら服を着ていようと、何度もこの格好をさせられようと、恥ずかしいことには変わりない。
「嘘ついてたのか?」
「そうじゃなくって……その……」
「んだよ。はっきり言えよ」
分かりやすくぶっきらぼうな返事を返された。自分は慌てて弁解するかのように、答えを切り返した。
「ジュダルなら、俺、あ、我慢……恥ずかしいのも、我慢します」
「……我慢、ね」
そう言い残した直後、ベルトのバックルを外しにかかる手に顔が熱くなった。ガチャガチャと金属が擦れる無骨な音と自分の早鐘みたいな心拍音が、まるでちぐはぐなのだ。この状況に、自分は歓喜している。
階下から物音はしない。ということは、紅炎はまだリビングに居るんだろうか。玄関扉を開け閉めするときの音はまだ耳に届いてきていない。
「付け根って、このあたり?」
「あ、は、はい」
下着はそのままでスラックスだけ脱がされた。脚から引き抜いたのち布は放物線を描き、彼はそれを見向きもせず股間の付近に顔を埋めてみせた。
「ここならいい?」
灰色のボクサーパンツのゴム部分を少しだけずらし上げて、硬く張った筋肉の内太ももの部分を、親指で何度も押された。感触を確かめるような触り方に、否応なく体が反応を示そうとする。
「あ、は、はい」
「じゃあ、もっと腰上げて」
「う、あ」
太ももを顔の横まで持ち上げて、途端に股間の真横に唇が押し付けられた。柔らかい猫毛が下着の上を何度も撫で擦ってゆく。言いようのない感触に肩を竦ませると、今度は鋭い痛みだ。
「あうっ、ぁ」
「……ん。悪ぃ、噛んじまった」
少しだけ顔を上げたジュダルに、自分はなるべく下心を悟られぬよう、平静を装ってみた。
「へ、平気です、おれ」
「……もっとしてほしいって顔してる」
「し、てな」
言い終わるより前に、ジュダルが再び顔を沈めていた。先ほどと同じ箇所に、今度は舌の表面を使って丹念に舐められた。ぴりぴりと染みるような痛みの先に、じんわりと生温かい心地よさがある。
「あっ、あ! っゃあ、あ」
股間の部分に頬擦りされて、柔らかい皮膚の上をちゅう、と吸い付かれた。
わななく唇から声が上がった。思わず階下の様子が脳裏を過り、口を両手で押さえた。
「今のエロい声、聞こえちまったかもなぁ?」
「扉、閉めてくださ」
「っせーな。大人しく喘いでろよ」
ちゅる、ちゅる、と同じ場所を啜る音が静かに聞こえてきた。頭がぼんやりして何も考えられない。とにかくこの状況がとても良くない、ということだけは分かる。
嫌でも階下の物音に耳そばを立ててしまうが、足音ひとつ聞こえやしなかった。もしやジュダルと悶着している間に帰ってしまっただろうか。だとしたら、そのほうが都合がいい。
赤の他人、ましてや客人に情事の物音を聞かせるわけにいかない。
「っ、やぁ、あ」
「何、考え事してんの?」
脚を抱え上げ、股座から視線を寄越してくる男が居た。真っ赤な舌がちろちろと、太腿の表面を這い回っている。
「こ、うえんさんがまだ、下に居るかも」
「だから何」
「だから何、って」
「ほっときゃいいだろ。部外者なんか」
次の瞬間、ぴりりとした痛みが迸った。あう、と大きな声が漏れて、慌てて自分の手で口を塞いでいた。
「こんのエロガキ。この状況に興奮してるくせに」
下着の上から性器を撫で擦られて、熱い吐息が漏れた。灰色の下着の生地を真下から押し上げる、自分自身の性器の感触にはとっくに気づいていたものの。改めて指摘されると居た堪れない。
「やら、あ、ッあ」
「なんだ、もう出そう?」
「ちが、ゃ、やめ」
円を描くようにして固くなった性器を何度も擦られた。下着の布に染み込んだ先走りには目もくれず、彼は躊躇なく愛撫を続けようとする。
灰色の下着はその部分だけ生地の色が変わってしまって、認めたくないが認めざるを得なくなった。
早く脱がしてほしい。もっときつく扱いてほしい。生易しい愛撫なんかじゃ満足できない。
「このままでもいけそうだな。溜まってる?」
「やだ、ッあ、よ、汚れちゃ」
「洗濯機に放り込めばいいだろ」
「あ、あう、あ……」
数時間前まで、一人で手淫に耽っていたことを思い出してしまう。あの時は一人じゃどうにも出来なくて、八方塞がりのまま、燻る性欲を持て余す他なかった。
しかし今はどうだ。ジュダルの手が、唇が、粘膜の周辺を這い回るだけで体が勝手に昂ってしまう。些細な接触に快楽を見出し、快感として享受してしまう。
「うん、このままいけよ」
「ひゃッ、あ、ゃあ、あ……」
布の下でにちにちと音を立てる性器が、ぴくんと弾けた。
それと同時に、階下から俄かに物音が響いたのだ。まさか、と思い口を手で覆おうとしたが、体が上手く動かせない。弛緩しきった手はいとも容易くジュダルに一纏めにされて、馬乗りのまま顔を覗き込まれる。
「チッ……あいつ、まだ居たのかよ」
「っ、あ、あ……」
「まあ、もう出て行くだろ。日も昇ってきたことだし」
ジュダルがカーテン越しの窓を見遣った。自分も釣られてそちらのほうを向いた。カーテンの裾から広がる朝日は目を細めたくなるほど目映く、清廉で、美しく、居心地が悪い。
「ほら、玄関が閉まる音がした」
「……」
耳元で囁かれる声に静かに頷いた。誰かに聞かれるわけでもないのに、まるで内緒話みたいに小声で発せられた声に、自然と喉がひりついた。
「これからどうする? 紅炎が言ってたように、警察の捜査とやらに協力する? それとも……」
「……」
警察に協力、と言ったところで自分は玉艶と殆ど顔を合わせておらず、最後に会話したのも数か月前だ。犯人に心当たりはないし、もし必要になれば警察のほうからこちらに出向いてくるに違いない。戸籍上は血縁関係にあたるし、遅かれ早かれ取り調べを受けることになるだろうか。
「このまま続きする?」
「……」
紅炎の前ではなるべく”真面目で利口な子供”を演じていたつもりだ。白雄の面子を潰したくないし、初対面でもあるし、玉艶の隠し子でもある。舐められたら癪だし、なんとなく対抗意識を持っていた。
「もう誰も居ないしさぁ。不用意に出歩くのも用心悪いだろ?」
「……」
ジュダルの口から不用心だ、という発言が飛び出すとは意外だ。そんなこと微塵も思っちゃいないくせに、欲望を満たす口実の為なら思ってもないことを平気で言葉にする。
軽薄な男だと思う。紅炎や白雄が警戒する理由も分かる。前世でのわだかまりがあろうとなかろうと、ジュダルという男が要注意人物であることに変わりはないだろう。そう手放しで確信できる程には、彼は少し、いやかなり、どうかしている。
「……白龍?」
自分はジュダルの首に縋りつくみたいに顔を持ち上げて、頬を擦り付けた。拘束されたままの両手では意思表示が出来ない。
「お、俺もちょうど、同じことを考えてました……」
「そっか。じゃあ、自分で脚抱えてみ」
「あ、は、はい……」
それは恭順と服従の意思表示だ。ジュダルに心身ともに明け渡し、またジュダルの心身も与えてもらう。口にしたことはないが、この行為にはそんな意味があるんじゃないかと思える。
「そうそう。それでこっち向いて、舌出して」
「あ……ひゃう……」
彼はどうかしているが、それ以上に自分もどうかしている。彼の横暴を受け入れ、悦びを見出している。自分は普通じゃない彼に歩幅を合わせた結果、気がついたら自然とこれらの異常さに慣れてしまった。
しかし今は、舌の表面に感じるざらつきだけを感じていたい。何も考えたくない。喉奥に流し込まれる他人の体液の熱さに眩暈を覚えて、そのあとは行為に没頭するだけだった。