Previous Singularity 16話
すごい、美味しそう、これ手作り?
こんな特技があったなんて知らなかった。
誰に教わったの? 自分で調べたの?
練くんって甘い物好きなんだ、意外だね。
「あ、いや、その……」
「ねえ私も一口貰っていい?」
「えーっ俺も食べたい。残しとけよ」
「ま、まだ残ってるから、よかったらこれ……」
いっぱい作ったんだ、すごい。
男の子でお菓子作り出来るってかっこいいね。
どれも美味しそう。絶対美味しいよ。
そんな言葉を四方八方から投げかけられ、自分はそれに返事するだけで精一杯だった。
先週の金曜日、クラスメイトの女子に手作りのケーキを学校で手渡すと約束し、月曜日という今日を迎えた。昨晩チャットアプリで、明日はケーキ楽しみにしてるね、というメッセージを受け取った。一瞬何のことか分からなかったが、それまでのやり取りを見返し、当時の会話を遡り、自分は軽い気持ちで交わした口約束を思い出したのである。
しかし約束を思い出したのは日曜の夜、夕飯を食べ終えてからのことだった。近所のスーパーは遅くても夜の九時までが営業時間で、入浴を後回しにすればギリギリ間に合う。慌てて皿を片づけて、明日の準備や寝支度を放り出し、自分は閉店時間間際のスーパーに駆け込んだ。
とはいえ、こんな夜遅くから出来る作業は限られている。明日朝早くに起きて仕上げや袋詰めすることを想定し、生地を焼くところまでは終えようと決意した。
正直言うと、朝から抱き潰されたせいで蓄積した疲労が、まだまだ解消されずに残っている。今日くらいは早く眠りたい。寝かせてほしい。横になりたい。一人で静かに夜を過ごしたい。
時間がなくて来週になる、と連絡してしまおうか。
だが、楽しみにしてる、とメッセージを貰ってしまった手前。そんな返信を入れてしまったら、今の今まで約束を忘れていたと白状するようなものではないか。それは何だか忍びない。
長考した末に自分が出した答えは、とにかくやれるところまでやってみる、だった。
ひとまずレシピが頭に入っているパウンドケーキを作ることにした。チョコレートや抹茶、クルミなどのアレンジも出来なくはないが、材料が増えるとそれだけ手間がかかる為、シンプルにベーシックなケーキを作る。
どこのスーパーでも基本的に売っている卵やバター、薄力粉などで作ることが出来るのも利点だ。焼き上げるのに一時間弱要するが、その間に調理器具の片づけと入浴を済ませて、寝ている間にケーキを冷ませば翌朝型抜きとラッピングまで完了できる。
段取りを頭の中で整理し、スーパーで買い物を済ませた後。唐突にスマートフォンに着信が入った。ジュダルからだ。
今夜は塾のバイトが入っているうえ、明日からの平日は暫く夜間学校の通学もあるらしい。珍しく予定がすし詰め状態の彼が、こんな夜更けに一体何の用で電話をかけてくるのか。想像もつかない。
「もしもし? 何の用ですか?」
『何の用って、冷てえな白龍よぉ。俺は昼から働きっぱなしだっつーのに』
昼過ぎから出かけた彼は、この時間までシフトが入っていたらしい。一体何コマ分のシフトなのかは知らないが、時間に換算すると十時間弱か。
『まだ教室の後片付けと引継ぎと、事務作業がある。今日は何時に帰れっかな……』
「たまには自分の家に帰ってくださいよ。入り浸られても困ります」
スーパーの買い物袋には材料がぎっしり詰まっていた。それをリビングテーブルに置き、中身を取り出して並べてゆく。バターは常温に戻し、卵はほぐして、オーブンを十二分に温め、計量した粉類はふるっておかねばならない。下準備の作業が山積みだ。
『終わったらそっち寄っても』
「良くないです。迷惑なのでご自宅にお戻りください」
『んだよその言い方! ムカつくな!』
「俺は今忙しいんです。用がないなら電話切りますね」
『ちょっ、おい! 白龍!』
最後に怒鳴り声が聞こえたような気もしたが、気のせいだろう。
パウンドケーキの型に出来上がった生地を敷き詰めてゆく。ゴムベラで隙間が生じないようきっちり埋めていくのがコツだ。ここで出来上がりの状態に差が出る。
表面をならし、中の空気を抜く。綺麗に膨らまないと見栄えも悪いし味も落ちる。ここまで仕上げたらようやく、予熱したオーブンに入れることが出来る。
あとは焼き上がるまで入れておけばいい。その間に洗い物と入浴を済ませるのだ。時刻は既に十一時を回っていた。自分にしたらかなりの夜更かしで、明日に響くのは確実だった。
寝ぼけ眼を擦りながら入浴と明日の支度を済ませ、焼き上がった生地の調子を見た。竹串を刺しても生地がついてこない。焼き上がりの合図だ。表面についた茶色の焼き目、芳香なバターの香りが食欲をそそる。甘く香ばしい匂いに眠気ごと飛んでしまいそうだ。
膨らんだケーキを一旦型から外して、敷紙が付いたままの状態で一晩かけて冷ます。よくよく見ると生地の割れ目が乾き、色づいていた。これは焼き加減が丁度よいときに表れるサインで、見た目も味も不足なしであろう。
自分はそこまで準備して眠りについた。日付を今にも跨ぎそうな頃合いで、翌朝の目覚ましは午前五時に設定しておいた。
起床後、顔を洗って着替えだけ済ませたのち、早速ケーキの仕上げに移った。仕上げとはいえ今回はプレーン味だから、長方形のケーキを等分に切るだけだ。ひとつはラッピングして女子生徒に渡す用として、余ったケーキはプラスチックの保存容器に詰めてバラ撒き用に準備した。バレンタイン期間の女子生徒がよくやっているのを真似たのだ。
ただ、自分には文字通り仲の良い級友は居ない。だから持って行ったとしても、誰に声を掛けたらいいか分からないし、声を掛けられることもない。
もし、誰にも受け取ってもらえなかったら? その時はその時だ。自分とジュダルで分けて食べればいい。
そういう気持ちで今朝しがた登校したのだが。
教室に着き、いつもの学生鞄から保存容器を取り出した途端。たまたま真横に居た男子生徒が、それ何? と声を掛けてきたのだ。それが事の発端で、すべてのきっかけである。
気が付いたら自分の周囲に人だかりが形成されていた。自分も欲しい、私も私も、と口々に発する集団に四方を囲まれて、傍から見れば何事かと思わずには居られないだろう。そういう好奇の目だとか野次馬が近づいてきて、喧騒は廊下の外にも及ぼうとしていた。
保存容器は三つ持ってきていた。ケーキは同時に三本焼いて、それぞれ数ミリの厚さに等分し、容器に入れた。綺麗にラッピングしたのは彼女宛ての一片だけで、あとは正直、厚さも断面もバラバラである。
「美味しいよこれ。ふわふわだし、甘くてしっとりしてて」
「ケーキっていつ作ったの」
「き、昨日の夜に……」
まだ作って日が浅いせいだろうか。生地はふんわりと柔らかく、しっとりとした水気を含み、香りも甘さも強い。口どけのいいバター風味の生地は万人受けするし、食べやすくて丁度いい。
「そこらへんのケーキ屋よりよっぽど美味いかも」
「まさか、そんな……」
「先生にも食べてもらおうよ。もうすぐホームルームだよね」
「ほんとだ。あの先生甘い物好きって言ってたし」
今ある保存容器に残っているケーキはほんの三切れ程しかなく、手元に戻ってきた他の容器は空っぽになっていた。もしかすると他のクラスの人も食べていたのかもしれない。回し食いの状態だ。
声を掛けてくるクラスメイトへの返事はそこそこにしておいて、だ。今の自分は群衆の中から一人の生徒を必死に探していた。
(あの子はどこだろう)
席に着いている様子はなかった。まだ登校していないのかもしれない。お手洗いか、他の教室に居るのかもしれない。
一人分にカットしたパウンドケーキは半透明の袋に入れ、サテンのリボンで口を巻き、袋の表面に花模様のシールを貼った。女子の趣味は自分にはよく分からないから、すべて姉の受け売りだ。よく姉の代わりにお菓子作りをしていた頃に教わったラッピングのやり方である。
我ながら、自分で言うのも何だが。ラッピングは上手くできたほうだと思う。ケーキの見た目も悪くないし、味だって褒められた。彼女はきっと喜んでくれるだろう。受け取った時の反応を想像する。自然と口元が綻んでしまうくらいには期待してしまう。自分は今、少し浮かれているのかもしれない。
そのあとすぐ、ホームルームの開始を告げるチャイムが鳴った。教室や廊下のあちこちに居た生徒が、所定の位置に座る。そして自分の前の席に座る生徒の後姿を見て、ああいつの間に居たのか、と心の声が漏れそうになった。
しかしそのあとも話しかけるきっかけがなかなか訪れず、気が付いたら放課後になっていた。
今にして思えば、大層なラッピングを施した手作りの菓子を男子が女子に贈るなんて、いかにも過ぎる。大勢の前でそんなことをしたら、どんな言い訳をしたって良からぬ噂が広まってしまうだろう。中学生なんかはとくに、色恋沙汰の話題には夢中だ。
「あ、あのさ……」
だからなるべく教室から人が少なくなる放課後のタイミングを狙った。部活や委員活動、補講などで生徒がまばらになり、散り散りになってゆく。教室に残る他の生徒は教室の隅でたむろしているだけだ。
「今朝、君に渡しておきたかったんだけど、これ」
「あ……」
それでも極力人目には付かぬよう、机の下を介して手渡した。何だか悪いことをしているような気分になる。
「ひ、人だかり、凄かったもんね」
「うん。俺もまさかああなるとは思わなくて」
「私も話しかけたかったけど、近寄っても気づいてもらえなさそうで、気が引けちゃって……ごめんね、却って気を遣わせちゃった」
「ううん。こんなので良ければって感じだし……」
リボンで巻かれた包みを受け取った彼女は予想どおり、いや想像以上に嬉しそうな笑顔を作ってくれた。
「可愛い、すごい! すっごいよ白龍くん。こんなに可愛くて、綺麗で、上手で……」
「そんな、褒められるようなことじゃ」
「褒められることだよ、これは! だってふつう、ここまでお菓子作り上手にできる男の子って居ないもん。それに一人ででしょ?」
「まあ……うん……」
大勢から寄って集って感想を告げられるのも気恥ずかしいが、一対一で真っすぐに言われるのも、恥ずかしいことに変わりない。真正面から褒められることに慣れていないぶん、どう反応してよいか分からないのだ。謙遜し過ぎるのも失礼な気がするし、有難く受け取ろうにも気が引ける。なんと返すのが最適解なんだろう。
「あれ? 白龍くん」
考え事をしているうちに、つい、首の後ろを掻いていた。気まずいときについついやってしまう癖みたいなものだ。
「その首、怪我してるの?」
「……あっ」
随分と長くなっていた襟足に覆われて、日中は上手く隠せていたその部分。
絆創膏では到底足りないからと、大きめにカットした不織布をサージカルテープで固定し、目隠し代わりに貼っていた。ちょうど鎖骨の上あたりから耳の裏にかけて数か所、虫刺されみたいな赤い部分と噛み痕が点在している。その一帯を纏めて覆うようにして貼っていた。
「うん、ちょっと……週末に焼けて、赤くなってしまって……」
肘とか膝ならいくらでも言い訳出来るが、首元の怪我は説明しづらい。なるべく詮索されず、心配もされない、使い勝手の良い嘘の言い訳を用意する必要があった。
「そうなんだ。家族とお出かけ?」
「家の庭の掃除と草むしり、あとは洗濯物干したり……」
「大変なんだね。まだ痛むのかな」
「シャワーの時に染みるくらい。腫れはだいぶ引いてきたし、数日すれば治ると思う」
「そっか。黒くなっちゃうと嫌だね」
「まあ、日焼け止めを塗り直さなかった俺も悪いし」
そそくさと襟足を手櫛で直し、ガーゼを隠した。制服のシャツを第一ボタンまで留めれば殆ど見えない筈だ。今朝、鏡の前に立って何度も何度もシミュレーションした。
「じゃあ俺は先に帰るよ」
「うん。ケーキ有難う、帰ったら感想送るね」
「ああ、また明日」
まるで見送りみたいに教室の出口まで駆け寄ってきて手を振られた。教室でたむろしている連中はこちらに見向きもしないから、別に大丈夫だろうか。
自分も何となく手を振り返して、長い廊下を歩いた。今朝の喧騒とは程遠い物静かな校舎は、心を落ち着かせるのに丁度いい。
今日は久々に何の予定もない放課後だ。帰ったら課題の続きをして、明日の授業の予習をしよう。頭の中でスケジュールを組み立てながら、自分はいつもどおり帰路に着いた。
玄関で靴を脱ぎ、リビングに足を踏み入れるや否や。
自分は目の前に広がる光景に、束の間目を疑っていた。
「そこに居るのは……」
ダイニングに人の気配がする。背筋に嫌な汗が流れた。
足音を消して歩み寄ってみる。フローリングの床が軋む音が俄に聞こえる。だが、近寄っても相手から反応はない。
「じゅ、ジュダル……?」
「んー……」
リビングダイニングのテーブルに突っ伏す一人の男が居た。近づいてよくよく見てみると、そいつの正体は言わずもがなだった。電気も点けず暗がりの部屋でたった一人。両腕ごとテーブルに投げ出して額をくっつけている。
「確か……今晩は夜間の登校予定じゃ」
「わーってるよ……」
随分とぶっきらぼうな返事だ。よほど疲れているんだろうか。
「そういやさ……冷蔵庫に入ってたアレ……」
「……ああ、ケーキのことですか」
通学鞄をダイニングチェアに置いてから部屋の電気を点けた。彼はそれでも微動だにしない。
「作ったんですよ、昨晩。それの余りです。食べてもいいですよ」
「作った……?」
「よければ食べてから行きますか?」
冷蔵庫から皿に乗ったケーキを取り出し、彼の頭の傍に置いた。陶器の皿はひんやりと冷えている。ケーキは乾燥しないよう予めラップをかけておいた。
「ああ、うん、食う……」
顔をようやく上げた彼は腕だけ伸ばし、皿を引き寄せた。剥がしたラップは丸めてテーブルの隅に放られる。そして四角いパウンドケーキを手掴みで持ち上げ、まずは大きな一口。
「うわ、うっま……」
「お口に合ったようで、何よりです」
「お前って昔から器用だもんなぁ……」
肘をついて食事をするのは行儀が悪いとか、咀嚼しながら喋るのは下品だとか、言いたいことは山ほど浮かぶ。だが今はそれよりも、気にかかることがひとつある。
「……また昔の俺を引き合いに出しましたね」
「……」
「昔の練白龍と今の俺は、関係ないんじゃなかったんですか」
肘を付きながら、緩慢な動作で起き上がる。気だるげな仕草の節々に面倒そうな気色が窺えた。
長い前髪の隙間から覗く赤い瞳が鋭い光を放ち、こちらを見据える。自然と速まる心臓の鼓動が、緊張感を高めた。
「……白龍。ちょっと、こっち来い」
皿のケーキを早々に平らげた男は不敵な笑みを浮かべてみせた。その表情に心臓を鷲掴まれ、足が竦む。
「さっさとしろ。時間がねぇんだよ」
腕を掴まれて男の真ん前に立つと、全身を舐め回すような視線に晒された。
別に自分だって、同じ話を何度もしたいわけじゃない。ジュダルは今の自分が一番気に入ってると明言してくれたし、本心は分かっているつもりだ。自分が抱くこのモヤモヤした釈然としない感情は、ただの嫉妬である。
もはや彼の口癖なのだろう。昔の白龍は、という枕詞は日常会話の随所に表れる。そのフレーズを聞くたびに憎いとか、劣等感を覚えるとか、大袈裟なことは言いたくない。ただ彼がそれを無意識に口にするうちは、まだ彼の中に昔の練白龍に対する未練がましい思いが残っているんじゃないかと、勘繰らずにはいられないのだ。
「練習、するか」
「練習?」
「こないだの話。もう忘れた?」
ジュダルは言うが早いがベルトのバックルに手をかけて、金具を外しにかかっていた。その緩慢な動作と意味深な口振りから何となく想像がついてしまう。
「そこしゃがんで」
「……は、はい……」
フローリングに膝をついて、顔をそっと上げた。布を寛げていた下半身のあたりから視線を逸らし、彼の顔色を窺う。
これが果たして正しい行動なのか分からない。結局のところ自分は彼の言いなりだ。傍から見れば従順なオモチャか、性欲処理の相手に思われるかもしれない。
だがジュダルの言動を見る限り、分かることといえば。好きな相手、気に入った人を服従させ、嗜虐心を満たすことに意義があるらしい。こんなことを強いるのはお前だけだと濡れた瞳で告げられてから、一連の行為も愛情表現なのだと自分の中で納得するようになった。
不健全で倫理観に欠け、道徳に反する考えかもしれない。だが両者の間で合意があるのなら、これも立派な愛のかたち、なのだろう。そういうことにしておく。難しいことはこれ以上考えたくない。少なくとも今は、自分を手招く淫猥な誘惑に身を投じたい。
顎を掬われ体が前のめりになると、まだ兆していない男性器が目前に翳される。目を固く瞑って、眩暈さえ覚える光景から反射的に逃げていた。
顔の輪郭、えら、耳の裏、こめかみ……と、次々辿ってゆく指の動きに意識が持っていかれる。薄っすらと目を開くと同時に口元に宛がわれる柔らかい感触に、心臓がどきりと音を立てた。
「口開けて」
「は、う……」
まだ柔らかい一物が舌の上を撫でて、上顎を擦った。少し、汗の饐えたような匂いがする。
「自分で好きなようにやってみ」
「んう、う」
顎を支えていた手が頭に乗って、つむじを優しく撫でられた。堪らない気持ちになって目を閉じ、口いっぱいに性器を頬張った。収まりきらない部分は手で擦って、茂みの濃い部分を愛撫した。
すぐに膨らんでゆく粘膜は口腔を圧迫した。零れ始める先走りを頬の内側になすりつけると、独特の味と匂いが口いっぱいに広がる。それを我慢して嚥下し、軽く頭を揺らした。
「上手」
「ふ、ん、んぅ」
頭に乗っていただけの手に力が籠り始めた。それを感じて、腰のあたりがざわざわと騒ぎ始める。一体これはどういう心理なのか、自分にはまだ分からない。
飲みきれない体液が唇の端から溢れて、顎を伝って滴る。頭の片隅でフローリングが汚れてしまう、とは思ったが、今更これを止めるきっかけにはなり得ない。
「一旦休憩するか?」
「ふう、う、あ……」
頭の横を掴まれて一気に男性器が引き抜かれた。唾液の糸が伸びるそこはすっかり膨らんで充血しきって、顔の前でそそり立っていた。
「挿れたいけど時間ねぇしな……このまま最後まで口でやってもらおーかな」
「は、はい……」
「じゃあ口。あーん」
子供っぽい合図とともに口を開いて、再びそれを招き入れた。額に張り付いた前髪は丁寧に取り払われて、顔を見やすいようにさせられる。熱心に頬張る表情を見ていたいんだろう。彼が満足するなら、それでいい。
一体いつまでこれをすれば口の中の物が達してくれるかは、全く想像がつかない。そもそも自分の拙い愛撫で最後まで出来るんだろうか。自分の手でやったほうが早いと、飽きられるほうが先かもしれない。
顎の疲れを如実に感じるようになってきた頃。静かな水音だけが響くリビングに、まったくの別方向から電子音が鳴り響いた。
「……なんだよ、こんな時に電話……」
「……っ」
後頭部を撫でる手の動きが止まった。もう片方の手はテーブルの上を彷徨っている。そして何かを掴み取った手が目前に迫る。
「……よりによって紅炎から俺宛てに電話だって。何なんだろうな?」
「んう、ふぁ」
「せっかくだしこのまま出てみよっかな。白龍は声出すなよ?」
「んうっ、う! う!」
頭を押さえつける手によって、それ以上動けないようにさせられた。口内に留まる性器は今にも射精しそうなほど熱を帯びていて、びくびくと痙攣している。先走りでしとどに濡れた先端が喉の奥を擽って、嗚咽が漏れそうだ。
「あーもしもし、その電話番号は紅炎だな?」
そしてジュダルはあろうことか、涼しい声で話をし始めたのだ。火照った顔色からは想像もつかないほど、冷静沈着な声色だった。
「お前に番号教えた覚えはねーけど、今は不問にしといてやるわ。何の用だ?」
ジュダルが紅炎と接触を図ったのは一度きり、それも自分の端末を介してだ。彼は電話番号を相手に晒していない。
「あ? 死んだ? 誰が?」
不穏な台詞に背筋が凍る。頭が一瞬フリーズした。
「お前らの両親? ……紅徳と玉艶のことか?」
携帯端末を耳に当て、彼は顔を顰める。
「……あーわりぃな。今ちょっと取り込み中でよ。白龍も席外してるから、またあとで」
素っ気ない返事のあと、彼は携帯をテーブルに置いた。ぞんざいな仕草から苛立ちを感じ取れる。
「ったくよお、紅炎の奴タイミングが悪いぜ。なんたってこんな時に……」
「んむ、ン、んっ」
「わりぃな白龍。もうちょっと付き合ってくれよ」
両手で頭部を鷲掴みにされたあと、そのまま喉の奥まで男性器が押し入ってきた。深く銜え込んだせいで吐き気が込み上げてくる。ただでさえ圧迫感と息苦しさを伴うこの行為に、拍車をかければどうなるかなど。火を見るよりも明らかだ。
「んぶ、う! ッう、ん、んーっ!」
「泣くなよ白龍。俺が悪いことしてるみてーじゃねぇか」
耳を手のひらで塞がれ、目尻を親指で拭われた。汗なのか涙なのかも区別がつかないそれを見て、彼は自分が泣いていると判断したらしい。
だがこの涙は、悲しい時に溢れる種類のものと違う。もっと別の、たとえば緊張とか混乱とか、興奮、高揚、陶酔、快楽……自分が愛した人の一部を受け入れ、欲望のままに叩きつけられるたび、脳裏によぎるのはいつも同じことだった。
「じゅ、じゅだう……」
「うん?」
「ひゃ、ひゃんと、きもひい、れひゅか?」
まるい亀頭に舌を這わせて、上目で問うてみる。
男は一瞬だけ目を瞠ったのち、表情を歪めた。
求められるままに差し出してしまうのは自分の悪い癖なんだろうか。それとも相手がジュダルだからなのか。
自分に触れてくるときの手つきは決して優しいだけじゃない。痛めつけられ、虐げられ、貶められ、凌辱の限りを尽くされた。彼の支配欲を満たすためだけにある行為は数知れない。しかしその並大抵でない執着心の先に、確固たる想いがあるのではないかと信じたくなるのだ。
たぶんこれは贔屓目だ。恋は盲目、なんて言葉もあるが、自分が陥ってる思考回路は言うなればまさに盲目、それ以上に目と耳を塞ぎ口を噤んだ聾唖のような状況に至っている。自らを虐げる男の言いなりになる、従順な犬である。
だが求められること自体に悪い気はしないし、むしろ嬉しいと思ってしまう。手荒く扱われても、その余裕のない表情を見せつけられるたび、狡猾なこの男を狂わせるのは自分であるという事実に、陶酔感すら得てしまうのだ。
もう、どうしようもないのだ。ジュダルのアパートの前で、白雄に戻って来いと叱られたあの日。信じられないものを見るような目で見つめられた瞬間から、こうなる運命だと決まっていたのかもしれない。
おそるおそる目を開くと、顔にかけられた体液を拭う手のひらを視界の端で捉えることができた。今の今まで口腔を蹂躙していた肉棒は既に萎み始めており、先端に滲んでいた体液も、いつの間にか綺麗に拭われていた。
「あーあ、タイミングしくっちまったな」
さすがに口内で出すのは悪いと思ったのか。彼は射精の寸前で口から離そうとしてくれたらしい。だが見計らった頃合いが悪かったようで、飛び散った体液が顔にかかってしまった。
「制服は?」
「たぶん、大丈夫……」
「そ。顔洗うか?」
「いえ……」
自分は床にへたり込んだまま、起き上がれずにいた。腰が抜けた、とも言う。頭の奥はジンジンと痺れたままだし、顎が疲れてうまく話せない。
「んだよ。どっか具合悪いのか?」
「なっ何でも。何でもないんです」
「ふうん、あっそう」
目線を合わせようと屈んでくる男に対して、自分は一方的に顔を背けた。彼はいまいち納得のいかない反応をしながらも立ち上がり、ちょっとシャワー浴びて行ってくる、とだけ言い残した。
遠ざかる足音に耳を澄ませつつ。自分は胸の内に湧き上がる、見知らぬ欲望をひたすら格闘していた。