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Previous Singularity 14話

 わぁ、美味しそう! 可愛い!

 目の前で上がった黄色い声に自分はぎょっと驚いたのち、運ばれてきた皿に気を取られていた。
「お待たせいたしました。チョコレートソースとベリーホイップ仕立てのスフレパンケーキで御座います」
「は、はぁ」
 積み上がったまん丸のきつね色が、皿を運んできた店員の手元でぷるぷると揺れていた。まるでスライムみたいだ。
「こちら後がけのチョコレートソースは温めておりますので、冷えて固まる前におかけになってお召し上がりください」
「はぁ……」
「わ、白龍くんのお皿も美味しそう!」
「これでご注文のお品物はお揃いでしょうか?」
「はい、有難う御座います!」
「それではごゆっくりお過ごしくださいませ」
 頭を下げた店員の背中を見届けつつ、テーブルに視線を戻した。
「冷めないうちにソースをかけてって言ってたね。白龍くん、早速やってみてよ。わたし動画撮りたいな」
「え、あ、うん」
 銀色の小型の容器になみなみと注がれていたソースは、少し揺らすだけでチョコレートの甘ったるい匂いが漂う。チョコレートは冷えると固まってしまうことは、何度か菓子作りに挑戦した経験もあって知っていた。温かいうちに、とは言うものの、既に粘性が高くどろりとしている。
 三段重ねの分厚いパンケーキには説明にもあったとおりベリーホイップが脇に添えられ、表面にはバニラアイスとミントが乗っかっている。皿の周りにはスライスアーモンドやイチゴ、クランベリーが贅沢に散らされていた。それらに万遍なくソースがかかるよう、パンケーキの真上から容器を傾けた。
「わー! すごい、上手だね!」
「そ、そう?」
「うん! それにすっごく綺麗だし美味しそう」
 てっぺんからかけられたソースは二段目、三段目のケーキの断面を伝って白い皿に流れてゆく。チョコレートの洪水を目の前で見つめていた彼女は、手にしていたスマートフォン越しに明るい声で感想を述べる。
「フルーツもいっぱいだし、私も同じのにすれば良かったかなぁ」
「そっちの皿も美味しそうだよ」
 向かいの皿には薄焼きのパンケーキが数枚積まれ、その真上に巨大なホイップクリームとジャムソースがかかり、そしてフルーツが皿の隙間を埋めつくしている。どちらのほうが凄い、というより、どちらも違った意味で凄い見た目だ。
「ここのお店、予約が毎回すぐ埋まっちゃうから今日初めて来たんだけど、人気なのも分かるね」
 はじけるような笑顔でそう呟いた彼女は、店内の明るい照明に照らされて、きらきらと輝いて見えた。



 ちょうど一週間前の同じ日、同じ時間に、クラスメイトの女子から勉強を教えてほしい、と頼まれた。
 その役なら教員免許を取得している本職に教えを乞うたほうがよっぽど話は早いのだろうが、彼女の言葉は額面通りに受け取っていいものじゃなかった。要するに勉強を教えてほしいというのは口実で、わざわざ放課後に時間を作って会いたいという、下心ありきの申し出だったのだ。
 そこまで気が回らなかった自分は率直に思ったことを言ってしまい、彼女に恥をかかせてしまった。だがそれでも彼女は顔を赤くしつつ、二人で会いたいと遠回しに告げてくれた。自分はその勇気だとか、可愛らしさだとか、率直な好意だとか、そうしたものに嫌悪感は抱かなかったので、この誘いを快諾したのである。
 ジュダルは下心ありきの誘いを揶揄し、下品な言葉で謗っていた。が、自分はそうは思わない。女は面倒とか、好きでもない奴に好かれても、なんて酷い言い草だ。
 他人からの好意に優先順位や貴賤をつけることに躊躇いがある。少しでも好意的に見てくれているのなら、同じ分だけ、こちらも好意的に返せたらいいと思う。自分が誰かに向けた好意を蔑ろにされたら悲しいからだ。
 しかしこう感じることさえ、彼は幼稚だとか、馬鹿馬鹿しいと一蹴するんだろうか。

 白龍くん、と名前を呼ばれて、はっと顔を上げた。
「ねえ白龍くん、私のと一口交換しない?」
「え? あ、うん」
 フォークとナイフでパンケーキを一口大に切り分けた彼女が、こちらのほうに移してくれた。表面には真っ白のクリームがたっぷり乗っている。
 代わりに自分も、チョコソースが染み込んでいる部分を切り分け、相手の皿に移した。淡いきつね色だった生地は茶色に染まっている。
「柔らかくて、甘くって美味しい」
「こっちの、生クリームのほうも美味しいよ」
 クリームは甘さが控えめで、舌触りも軽い。口どけが良く胃に溜まらないので、多少量が多くても案外食べられそうだ。
「白龍くんは甘いもの好き?」
「うん。最近はあまりしないけど、昔はよくケーキとか作ってた」
「手作り? 自分で? どんなのを作るの?」
 彼女は興味津々らしく、質問が矢継ぎ早に飛んでくる。それが可笑しくて笑ってしまった。
「パウンドケーキとか、ガトーショコラとか。時間も手間もかかるから頻繁には出来ないけど、姉に頼まれて練習してた」
「すごーい。お姉さんが居るんだ? 頼まれるってことは、白龍くんお菓子作りがとっても上手なんだね」
「今は全寮制の高校に通ってるんだけど……バレンタインデーで学校の友達に配る用に準備してほしいとかさ。たまに頼まれて作ったし、お礼も貰えたから。味は普通だと思うよ」
 姉は菓子作りにはとことん向かないようで、とにかく失敗作を家族に食べさせては遠回しに不評を買っていた。自分は口に出さなかったが、あれは人に渡すべき物じゃない。あれが他人の手に渡るくらいなら自分が作ったほうがマシだと、当時小学生ながら思っていた。
「そうなんだ、お姉さんのクラスメイトが羨ましい」
「なんで?」
「だって白龍くんの手作りのお菓子が食べられるんだよ? いいなぁ」
 切り分けたパンケーキを口に運びながら彼女が呟いた。柔らかいクリームが次々と吸い込まれてゆくさまを見て、あんな細い体のどこに、と思わずにはいられない。
「じゃあ今度作って持ってこようか」
「えっ」
 カットされたイチゴを口に放り込んだ。瑞々しい果肉から甘酸っぱい果汁と爽やかな香りが溢れ出す。甘いチョコソースとの相性は格別だ。口の中で溶け合う二つの異なる触感と味が癖になる。
「久々だから、上手くいくか分からないけど。苦手な食べ物とかある?」
「う、ううん! スイーツなら何でも好き。でっでも本当に良いの、白龍くん忙しそうだし、無理してない?」
「食べてくれる人が居たほうが楽しいし……料理と違って、ケーキは一人じゃ食べきれないから」
 気が付いたらパンケーキは残り一枚になっていた。あれだけ厚みがあった生地だが、口に入れた瞬間、噛む前に舌の上で溶けてしまうのだ。しゅわしゅわと泡のように蕩けてゆき、最後にバターの風味が鼻に抜ける。不思議な食感だ。家庭用のホットケーキミックスじゃ到底再現できない逸品である。
「勿論良ければの話だから、無理に食べなくても」
「ううん! すっごく食べてみたい!」
「なら今週末に作って、次の月曜に持ってくるよ」
「せっかくなら小分けにして、クラスの他の子にも食べてもらおうよ。私だけで独り占めしちゃうのは勿体ないから」
 確かに、彼女の言うとおりだ。カップケーキならまだしも、ホールやスティック状のケーキは一度にたくさん作れてしまう。それを一人だけに渡すのも変な話だ。
「じゃあそうしてみるよ。美味しく作れるかは分からないけど」
「絶対美味しいよ、私が保証する」
「はは、気が早いな」

 平皿に溜まっていたソースをケーキに染み込ませて、あるいはスプーンで掬って平らげた。ちょうど同じくらいのタイミングで彼女も平らげそうだ。
 満腹感はそれなりにある。いちおう店構えは喫茶店だが、出てくる料理は三時のおやつには不向きだろう。これは一食分に相当する。
 周囲の席の様子をちらりと窺った。制服はバラバラだが女子ばかりで、男子の姿は見かけない。みんな華奢で小柄だ。この量のパンケーキを完食するのは苦労しそうだが、どの子も軽々と皿を平らげているように見える。
「女の子はね、スイーツは別腹なんだよ」
「お昼ご飯の弁当はあんなに小さいのに、パンケーキはいくらでも食べれるんだ」
「そうそう。不思議だよね」
「君もだ。あんなに生クリームが乗っていたのに、全部食べ切るなんて。驚いたよ」
「……引いちゃった?」
 恥ずかしそうに上目遣いで尋ねてくる。その仕草は彼女に似合っていて、とても愛らしいと思った。
「ううん。残さず食べれるほうが偉いよ。食べ方も綺麗だし」
 皿の表面には殆どクリームやソースが残っておらず、見事に完食していた。好き嫌いせず食べきるのは食事のマナーだし当たり前のことだ。
「あ、有難う」
 彼女は照れくさそうな表情を浮かべた。
「ね、ねえ。このあとどこ行く?」
「このあと?」
「駅前のカフェで一緒に宿題する?」
 ちらりと時間を確認した。いつもならとっくに家に帰って、夕飯を食べている頃だろうか。
 時間はまだ遅くない。けれど今から寄り道するには少し遅い気がする。不用意に制服姿で駅前をうろついて、警察や学校に連絡が行ってしまったら面倒だ。
「今日は時間も夜だし、俺は帰るよ」
「そ、そっか。ごめんね、引き止めちゃって」
「ううん」
 立ち上がりながら会計の伝票を見つめた。値段は中学生の小遣いから捻出するには少々痛手と言える。たまの贅沢なら許される範囲だろうか。
「ねえ、また今日みたいに誘ってもいい?」
「うん。あまり日にちが近いと他の予定と重なるかもしれないから、予め言ってくれたら」
「もっ勿論! 今度は白龍くんが食べたいもの、リクエストしてよ」

 会計を済ませて店を出た。辺りはすっかり暗くなっていて、繁華街に繋がる道だけは明るかった。
 たぶんそこは、自分みたいな子供にはまだ早い。少なくとも制服姿で近づくだけでも変な人に絡まれそうだ。早々に帰るに限る。
「……俺の食べたいもの?」
「うん。男の子ってスイーツよりも、やっぱりお肉とかラーメンとかが好きでしょ? 今日は私の好きなものに付き合ってもらったから」
「そんな。俺は別に、何でも……」
 そこまで言いかけて、腕を引かれた。
「わっわたし、白龍くんの好きなものも知りたいの。だから教えてほしくって」
「あ……う、うん」
 掴まれた腕からじんわりと体温が伝わる。自分よりずっと細い、白い指がやけに目についた。
「あっ、ごめん! 急に触ったりして……」
「う、ううん……」
 彼女はすぐに体を離し、顔を逸らしてしまった。だが制服の襟から見えている首元は真っ赤に染まっている。悪いことをしてしまった。
「その、俺のほうこそ気づけなくてごめん。今度は俺が行きたい店、探しておくよ」
「え、えっと」
「……だめだった?」
 ちらりと顔を覗き込んだ。彼女はさらに顔を赤くして、とうとう目には涙が浮かんでしまっている。悪手だっただろうか。無神経で女心を解せない自分には、最適解がさっぱり分からないのだ。
「……ううん! 白龍くんからそう言ってもらえてすっごく嬉しいよ、有難う」
 同時に両手を握られた。感情が行動に出やすいタイプなんだろうか。だが今度は手が離れることはなく、ずっと握られていた。
 じわじわと伝わってくる体温が自分のものとひとつに溶けてゆくようだ。この感覚は何となく知っている。だが、自分が経験したことのあるそれとは趣が異なる。色気や厭らしさのない、これは純粋な好意によるふれあいだ。
「今日はすっごく楽しかった。月曜のケーキも楽しみにしてるね。白龍くん、有難う」
 手が離れると、そこにあった筈の優しい体温が失われてしまって、ひどく寂しく感じる。人肌のぬくもりを一度知ってしまったら、知らなかった頃には戻れないらしい。
「こちらこそ有難う。また来週」
「うん、またね」
 駅前のロータリーで手を振って別れた。雑踏に紛れてゆく彼女の背中を遠巻きに見つめながら、自分も踵を返した。
 夕食時を少し過ぎた時間帯だからか。ちょうどその場所では自分たちと同じような人が居て、別れを惜しんだり大きな声で挨拶を交わしている。またね、さようなら、楽しかったよ。明るい声が飛び交う風景は、街灯の灯火よりもずっと明るく見えた。



 自宅が見えてきた頃、鞄の底に入れていた携帯に通知が入った。画面が光って振動する。母親からのショートメッセージだろうか。
「……あ」
 送り主は先ほど、駅で別れた女子生徒からだった。そういえば連絡先を交換していたことを思い出す。
『今日は有難う、すごく楽しかったよ。ケーキの写真と動画、送っておくね』
 メッセージには可愛らしい動物の絵文字が散りばめられ、そのあとに加工された画像と動画が流れてくる。動画の内容はケーキにチョコレートのソースをかけていた瞬間の、数秒だけのものだ。
 こちらこそ有難う……とメッセージを入力しかけたところで、一旦画面を閉じた。せっかくならきちんと文章を考えて、ゆっくり返事をしたい。

 先週兄二人が自宅に顔を出してからというもの、入れ違いみたいに母親が姿を見せなくなった。それだけでなく連絡も途絶えており、音信不通の状態が一週間ほど続いている。
 嵐の前の静けさみたいだと、家族の誰かが言っていた。あっちの家族を構うことに夢中で、こっちは忘れられているだけだろうと高を括っているのだが、真相は分からない。しかしこちらから連絡を入れるのも藪蛇だ。
 今は白雄たちは姿をくらまし、白瑛は学生寮に戻った。暫くは自宅に寄らないだろうし、危険があったとしても紅炎という強力な助っ人もいる。家族は散り散りになってしまったが、絆は健在だ。遠くに居ようと心は繋がっていて、みな同じ夢を抱いている。
 いつか同じ家に住んで、昔みたいに暮らせたら。そんな淡い期待を未来に寄せて、今は我慢するしかない。

 ジュダルとは週初めのとある出来事以降、殆ど口を利いていない。彼のほうが週の半ばは学業だったりアルバイトが立て込んで忙しく、連絡を取れなかったというのもあるが。やはり自分はまだ、彼の軽率さを許せちゃいない。
 何故ならば。学校内で淫行を働く瞬間を、危うく先生に目撃されそうになったのだ。先生は暫く部屋に戻らないから、と嘘を吐き、覆い被さろうとしてきた不埒な男。あの男に灸を据えるには、数日無視するくらいじゃ足りないのだ。もっと手厳しく、厳格に、粛々と。心を鬼にして罰を与えねば。でないと彼は反省しないだろうし、こちらも同じ轍を二度と踏むわけにいかない。万が一次に同じことがあったら、そのときは社会的信用を失っているだろう。

 今日は塾のバイトが入っていて遅番だから、という伝言を先週耳にした。そこから予定に変わりがなければ今晩も連絡はないだろうし、うちに来い、という誘いもない。実に平和な週末だ。
 ジュダルと出会ってから、一人で金曜の夜を過ごすのは滅多になかった。それくらい頻繁に会っていたし、電話もして、塾に行けば顔を合わせて。既に自分の生活の一部に溶け込んでいる存在は、自分の中でそれなりに大きいものになっていた。

 別に、寂しいとかじゃない。自分は敢えて彼と距離を取っているわけで、それで彼が少しでも自身を省みてくれたらいいのだ。いくら大人びてるからって善悪の判断もつかず獣のように盛られたら、好き嫌い以前の問題だ。人として幻滅してしまう。これ以上嫌いにさせないでほしい。

 玄関の鍵は閉まっていた。部屋に明かりもない。きっと誰も居ないんだろう。予想通りだ。
 夕飯をパンケーキだけで済ませるのは不健康だろうが、満腹感はある。冷蔵庫に保存している副菜類は明日食べればいいとして、今日は入浴だけ済ませて寝てしまおうか。
「あ、その前に」
 彼女にメッセージの返事を入れておかねば。
 頭の中でぼんやり考えつつ、自室の扉を開けた。



 暗闇から伸びてきた腕に気づかなかったのは自分の落ち度なんだろうか。
 いいや、他人の部屋で待ち伏せしている奴の、人間性が悪い。

「よう白龍、デートは楽しかったか?」

 部屋の内側、扉の面に両肩を押し付けられる格好で、ジュダルと相対した。
 数日見ていなかっただけなのに、少し懐かしく感じるのは気のせいなんだろうか。
「女の子とどこまで進んだ? 手は繋いだ? さすがにチューはまだか?」
「な……」
「じゃあ俺とする?」
 一体どういうことなのかと、今更問い質す必要もないだろう。
 早々に伸びてきた他方の手は躱せたが、足元の注意は怠っていた。足を払われて転びかけたところで体を支えられ、軽薄な笑みが近づいてくる。
 襟首を掴まれて上を向かされると、それ以上の抵抗はろくに出来なかった。噛みつかれた唇から甘い痺れが走って、脳髄に広がってくる。急転直下の展開に心は置いてけぼりだが、心臓はけたたましく鳴り響いていた。
「んむ、う……!」
 入り込んでくる舌を往なす方法は分からない。今の今まで受け身でしか応えてこなかったからだ。反撃や抵抗の術を教わったことはない。元より、彼は自分にそれを教えるつもりはないんだろう。
 都合よく飼い慣らされているという自覚はあったが、まさかここまでとは。いざとなれば殴るなり蹴るなりすれば逃げ出せると思っていたが、想像以上に体は硬直したまま、思い通りに動いてくれなかった。
「……なんだろう、この甘い味」
「ふぇ、あ」
「もっかいな」
 束の間離れた顔が再び寄ってきて、肩を押し返したが体重の差は歴然だ。真上から覆い被さってくる男の体は、この細腕じゃびくともしない。
 歯列を割って侵入してくる肉厚な舌は、口の中をひたすらまさぐっていた。歯茎や舌の裏、頬の内側、上顎に至るまで、丹念に舐め回された。まるで味見でもするみたいに。
 考えることもままならなくなってきた。雁字搦めなのは体だけじゃなく心もだ。ここから逃げ出す方法を模索していたが、いよいよ諦めの二文字が脳裏を過る。
「……分かった。チョコレートだな?」
「あ……」
「合ってる?」
 口から出て行った舌と、こちらの唇とで、唾液の糸が伸びていた。それを呆然と見つめていると、また顔が寄ってくる。
「甘いモンでも食ってきたか。美味かったか?」
 次の接吻は唇を押し付けるだけに留まり、彼はなおもしつこく質問をしてくる。
「それで、どんな話した? 退屈じゃなかったか?」
「る、るさ……」
「あ?」
「うるさいんですよ、いちいち! もう放っといてくださいよ!」
 肩を押し返すと、今度こそ体が離れた。見開いた真紅の瞳には、泣き出しそうな自分の顔が映り込んでいる。
「貴方が何を考えているかは知りませんが……俺の交友関係に首を突っ込まないでください。ジュダルには関係ないでしょう。俺がどこで、誰と会おうと」
「……」
「それに待ち伏せして、こんなことして。貴方は最低だ……」
 体から力が抜けて、扉を背もたれにしたままずるずると床に崩れ落ちた。
 傍にあったスマートフォンも鞄も遠くにやって、その場に蹲った。膝を抱えて目を瞑ると、鼻の奥がつんと痛くなってくる。もう半分くらいは泣いているようなものだが、顔だけは見られたくない。震える涙声は誤魔化せないけれど、こんな情けない姿は見せられない。また馬鹿にされて、茶化されて、意地悪をされる。
「白龍」
 腕を取られそうになったが、力づくで跳ね除けた。
「キスやセックスで誤魔化そうとするのは止めてください」
 そっぽを向いて告げた。反応はない。
「貴方にとって俺は都合のいい……性欲処理なんでしょう」
「……そんなわけ」
「じゃあ証明してくださいよ。言葉や態度で……俺のこと、ちゃんと、す、好きだって……」
「……白龍、お前な」
「こいびとになろうって言ったのは、ジュダルなのに。そう言えば俺が言うことを聞くから、都合よく使っただけですか」
「……」

 しばしの沈黙が流れる。
 自分もむしゃくしゃしていた。どうして自分だけ嫌がらせみたいに、好き勝手されるんだろう。それを受け入れる義理や道理はないし、自分にそういう趣味はない。これが愛情の裏返しだと説明されても納得がいかない。だって彼の行為はまるで、上級生から下級生に対するイジメと変わらないように思えたからだ。
 先ほど会ってくれた女子生徒は、言葉では好きだと明確に告げてこなかった。まだ知り合って浅いし、お互いの事をよく知らないし、友達未満だ。その線引きをきっちりして、理解したうえで、彼女は表面上、好意をひた隠して会ってくれた。一方的に感情を押し付けたりしない。けれど表情や所作、一挙一動から溢れんばかりの好意を感じ取ることが出来た。それは見ていて不快感など一切なく、健気で幼気な恋心だと思った。
 まだ自分は彼女に対し友情以上の感情は抱いてないしそういう目でも見ていないが、好意的に受け取れた。そういう感情はゆくゆく異性に対する愛しさや恋心に発展するんだろう。自分にはまだ経験がないから憶測でしかないが、そういう予感ははっきりと感じた。
「……あ、着信が」
 足元に放っておいた携帯端末の画面が点灯した。一通のメッセージを受信したと記されてある。発信主は件の女子生徒だった。
「……さっき会ってた子?」
「……はい」
 彼の言葉はすべて無視するつもりだったが、無意識で返事をしていた。
 手にした端末の画面には、受信した短いメッセージが表示されていた。
『もうお家に帰れたかな? 門限大丈夫? 遅い時間まで有難う』
 先ほどのメッセージに既読はつけたが返事をしていなかったので、彼女が気を遣って送ってくれたんだろう。何だか悪いことをしてしまった。慌てて返信の文章を考える。
 返事が遅くなってごめん。こちらこそ楽しかったよ、有難う。
 そういうニュアンスの文章を、少し長めにして送っておいた。可愛い絵文字もスタンプもない簡素な文章だ。幻滅されたり、残念に思われたりしないだろうか。
 メッセージを送ると、数秒後には既読マークが表示されていた。ということは、返事がまた返ってくるんだろうか。スマートフォンの画面を見つめる。
『お返事有難う。無事に帰れたみたいで安心した。遅い時間にごめんね、おやすみ』
 やはり気を遣わせていたらしい。しかも、曲がりなりにも男である自分が女子に心配されるなんて。夜道の一人歩きが危ないのはあちらだって同じだろうに。

「……そんなおままごと、何が楽しいんだよ」
「ジュダル」
「何だっけ。言葉や態度で示せ、だっけ……」
 こちらを見下ろす男が、ようやく目線を合わせるようにしてしゃがみこんだ。
「いいぜ、望むところだ。要は我慢比べだろ?」
「え?」
「キスやセックスは無しな。お前がしたいって言っても、絶対やんねえから」

 それは一体どういう意味だ。話が見えなくなってくる。本来の趣旨から脱線しているような気もする。
 男の腕が伸びてきて、身構えた直後。視界が暗くなり、全身が柔らかいものに包まれた。
「……?」
 ごくごく普通に、抱きしめられていた。背中に回った腕が背筋を撫でる。が、厭らしさなどは全くなく、幼子をあやす親みたいだ。
「白龍は昔っから泣き虫ですぐ拗ねるから、白雄たちはよく困ってたなぁ」
「な、何の話ですか」
「俺が見てきた夢の話だけど、現代にも通じると思って」
 抱きしめられたまま、体が一緒に横たえられた。床の上にカーペットは敷いてあるが寝心地は悪い。どうせ横になるならベッドがいい。
「それじゃあいつもと変わんねえだろ。たまにはこうやってゆっくりしたい……ってことだよな?」
「そ、そんなの、俺に聞かないでくださいよ」
 勢い任せに言ってしまったが、自分でもどうされるのが正解なのかは釈然としない。とにかく彼が自分を納得させるまでがゴールなのだが、目標設定も曖昧だ。果たしてこの問答に終わりが来るのかさえ分からない。
「……白龍は夢の中で、白雄たちと大火事の事件に巻き込まれてな。命からがら逃げて来られたけど、体の半分以上は火傷を負っていて、皮膚は爛れて元に戻らない有様だった」
「俺が?」
「ああ。ちょうど顔の左半分、目のあたりかな。ここにでっけえ火傷の痕があってさ」
 今は痕も形もない顔のとある部分に指が触れて、左目の周囲を図形を描くようになぞってゆく。
「それと、体も。左半身には火傷の痕はびっしり残ってて……」
 首のあたりから鎖骨、肩、胸元にかけて手のひらが辿ってゆく。その仕草はどこか艶っぽく見えて、思わず身じろぎした。
「ジュダル」
「何? 俺は何もしてねーよ」
 とばっちりだと言わんばかりに顰め面をされた。
「とにかく、このあたりに火傷痕が残ってたんだよ。大人になってもずっと消えない傷跡だ」
「痛くはなかったんでしょうか」
「そりゃあ治療中は地獄だったろうが、手術が終わって回復したら何とも無さそうだったな。あるいはお前が我慢強くて、そう見えてただけかも」
 腰のあたりまで下りてきた手が、ぴたりと動きを止めた。
「頭のてっぺんから爪先まで、お前は全身水膨れで、皮膚は剥がれて、血まみれの状態だった」
 腰からさらに下降をし始めた手が、太腿の表面をなぞる。
「あの、さっきから」
「俺は全部覚えてるぜ、火傷痕の形。もう何回も見てたから覚えちまったよ」
「それは……」
「散々お前のこと抱いてきたから」
 不意に体を引き寄せられた。目を固く瞑ったが、何かが起きる気配はなかった。先ほどより至近距離にあるジュダルの顔を真下から覗き込む。
「い、嫌じゃなかったんですか」
「何が?」
「その……」
 全身に火傷で爛れた痕が残っている。きっと痛々しく生々しい傷跡だろう。白磁の絹肌、柔肌とは程遠い。抱き心地も触り心地も悪そうだし、見た目も良くない。彼の趣味には到底そぐわないと思える。しかも同性の男。
「綺麗な見た目じゃないのに、どうして」
「だってそれが白龍だったから」
「……」
「それにな、案外悪くないぜ? 本人はさすがに全身隈なく観察されるのは躊躇してたけど、俺は全然気にしない。むしろそそられる」
「そ、そそられ……」
 顎を掬われて上を向くと、燃えるような赤に睨まれた。声が出ず、目が逸らせなくなる。
「今の白龍も勿論悪くない。どこ触ってもつるつるですべすべだし、あそこの毛もまだ薄い」
「なっ」
「事実だろ?」
 にやりと持ち上がる唇から覗く犬歯に視線が釘付けになっていた。言い返す言葉も見つからない。ただひたすらに心拍数が上がる。
「なあ白龍。俺にしとけよ」
「へ……」
「俺は他の女なんかにお前を渡したくない。力づくで自分の物にしてぇし、実際そうすることもできる。けどさ」
 顎に触れていた手が首元に下りた。息を飲んで上下する喉仏をなぞられて、肌が粟立つ。
「やっぱお前が選ばねえと意味ないなって思った。だからさ、俺にしてくんね?」
「……」
「そりゃあクラスメイトの女子との放課後デートも、思春期男子の憧れだろうけどな。そういう淡い夢とか憧れは叶えてやれねぇ」
「……」
「でもさ。女子とじゃ出来ねえこと、俺はいっぱい白龍にしてあげれる。どうだ? 悪くねーだろ?」
 肩を撫でられて、微笑みを向けられた。長い睫毛がひらひらと舞う。形の綺麗な唇がはくりゅう、と音を紡ぐ。
 ジュダルの言わんとすることは、何となく分かる。他の女に取られたくない。自分の物にしたい。有り体に言えば束縛したい。猛烈な執着心だ。そういう類の激しい感情を向けられている。
「ジュダルはどうして、そこまで俺に」
「ん?」
「そんなに俺の事を、その……」
 だが肝心の部分は聞きそびれたままだ。その激情の源泉は一体どこにあるのか。
 昔好きだった人に似ているから? 見た目? 年齢? 性格? 恋愛感情のきっかけがどこにあるのか見えてこない。そもそもの話、果たしてそれが恋愛感情という枠に収めていい代物なのか、判断はつかないが。
「……今更好きとか嫌いっつー尺度で語れるモンじゃねーよ、これは。俺は白龍じゃなきゃ駄目なんだ。それだけ」
「わ、分かりません」
「……」
「だって俺は貴方が好きだった練白龍とは違うんですよ。見た目も性格も」
「昔の俺は昔の白龍が好きだったけど、今の俺は目の前に居る白龍が好きだぜ?」
「……」
「だって今の俺は昔の白龍と話したことも、会ったこともねーもん。俺が知ってるのは今のお前だけ」
 額をこつん、と合わせられた。顔がぐっと近づいて、吐息が頬にかかる。
 今の説明で分かったか? と小声で尋ねられた。息が唇にかかる。それが何となく恥ずかしくて、自分は首を縦に振るしかなかった。
「ならいい。それに、その様子なら俺の勝ちだな」
 自分の体温より少し冷たい指先が首元や耳に触れた。真っ赤になっていると揶揄しているんだろう。
「じゃあこのまま寝るかぁ」
「へ?」
「おやすみ白龍」
「ちょ、ちょっと……!」
 床に寝そべって、着の身着のまま、両腕はきっちりと胴体に巻き付いている。これじゃあまるで抱き枕だ。身じろぎも寝返りも満足にできないこの体勢で、朝まで耐えろというのか。
 ジュダル、ジュダル、と耳元で名前を呼んでみた。だが彼は下手くそな狸寝入りを披露するだけで、始終口元に笑みを浮かべたままだった。