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Previous Singularity 13話

 やけに煩いテレビの音で目を覚ましたのは、月曜の朝のことだ。
 母親が帰ってきていたんだろうか。昨晩以降連絡は届いていなかったが、たまたま気が向いたのか。リビングのほうから人の気配がする。
 いつものことだ。帰りたくなったら帰ってくるし、あっちの家庭が良いなら帰ってこない。おざなりにされたほうの家族は既に空中分解しかけており、全員が顔を合わせる機会はめっきりなくなった。不幸を呼び寄せたのは無論、あの女である。
 今更悲しいとか寂しいとか、負の感情すら湧いてこなくなった。もはや何とも思わないのだ。一人で寝起きすることも、朝起きて一人で支度することも、帰宅してから誰も出迎えてくれない状況も。あまりに一人で居ることに慣れ過ぎて、何も感じなくなっていた。

 階下に下りて、自然とおはよう、と声を発していた。そこに誰が居るかは直接確認していない。何となく母がそこに居て、ダイニングテーブルの周りで朝食の準備をしているんだろうと思い込んでいた。
「おう白龍、おはよう」
「……えっ?」

 オーブントースターの前で七面相を浮かべていた男は、こちらに見向きもしない。
 彼はその奇妙な横顔を晒しつつ、なかなか電源が入らないトースターにやきもきしているらしい。何度も蓋を閉じては開けてを繰り返し、焦げ目のつかない薄切りの食パンと睨めっこしている。
「……なんでここに居るんですか?」
「なんでって」
 よく見ると、その出で立ちもおかしい。彼が今着てる服は兄の部屋着と思われる、上下揃いのグレー色のスウェットだ。裸足のままでフローリングの上を歩き回り、余った袖や裾は捲っている。
「玉艶が戻ってくる様子もないし、それに昨晩はほら。俺らアレだったじゃん」
 トースターの操作方法は簡単だ。蓋を開けて中に食パンなどをセットし、ダイヤル式のハンドルで焼き時間を設定する。
 だが男はトースターで食パンを焼く、という経験がなかったらしい。今生だけでなく前世でも知り得なかったんだろうか。
「お仕事とか学校は」
「昼間のバイトは辞めるつもり」
「えっ」
 ようやくトースターの使い方を心得たらしい。男はダイヤルを回して焼き時間を設定したあと、食器棚から白い丸皿を取り出した。それから冷蔵庫に保管しているマーガリンもテーブルに並べておく。
 彼をこの家に招いた覚えはないが、本人はやけに手慣れた様子で朝食を準備していた。
「白雄と白蓮が目立った動きをするとコッチもとばっちり受けるかもしんねーだろ。昼間は不用意に出歩くのは止めておこうかと」
「塾の講師はどうされるんですか」
「出来れば辞めたいけど引き留められそうだな」
 彼は喋りながら、卵焼き機を棚から取り出してコンロに置いた。シンク横には鶏卵が二個と薄切りベーコンが二枚、既に用意されてある。
 油を敷いた鉄板にベーコンを二枚並べて、すぐに裏返したのち、卵を割り落とす。さして時間も置かず火を止めて、フライ返しを使って皿に移してくれた。仕上げに卓上塩と胡椒を適量振れば、ベーコンエッグの完成だ。
「料理はあまりされないイメージでしたが、慣れてるんですね」
 男の家にまともな台所はなかった。IH式の一口コンロと、真横に小さい正方形のシンクがあるだけ。食器の水切り籠やまな板を並べるスペースもない極小キッチンは、おおよそ自炊をする人向けに設計されたとは思えない。彼のように普段料理をしない、あるいはカップラーメンで事足りる人向けの台所だ。勿論、彼がそこに立って何かを作る風景など、一度も目にしたことはなく。
「一時期、喫茶店の厨房でバイトしててさ。モーニングっぽい料理なら作れるぜ。シフトが朝早すぎてすぐに辞めちまったけど」
「なんだか勿体ないですね」
 フォークを二本、透明のグラスに水を注いで、向かい合うかたちで席に着いた。先ほどから妙に音量が大きいテレビは音を小さくして、閉め切ったままだったカーテンは開けておく。朝の光がリビングに差し込んで気持ちが良かった。
「……講師も辞めてしまうんですか」
「飲食店とは違って、塾は不特定多数がホイホイ入れる場所じゃねーからなぁ。人目につきにくいわりに給料は弾むから、ちょっと迷ってるトコ」
 彼は事も無げにそう返してきた。こちらの気も知らないで、焼きたての食パンに噛り付いている。

 昨晩は寝る間も惜しむ勢いで抱き合っていたせいで、ひどい寝不足だ。これから週の始まりだというのに、これじゃあとても一週間を乗り切れる気がしない。放課後は塾もあるし、体力が持つかどうか。
「行きたくねえなら休めば?」
「そんなわけにいきません。今日は数学の小テストと、体力測定もあるし」
「あっそう。つまんなそ~」
「自由気ままな貴方と一緒にしないでください」
 平らげた皿を積み重ねてシンクに運び、すぐさま食器類を洗った。いちおう食事を用意してくれたのはあちらだから、後片付けをするのは礼儀だろう。コンロに置いたままの卵焼き機やフライ返しもついでに洗っておいた。
「時間は大丈夫なのか?」
「はい。もう出ますが」
 時計をちらりと確認してから、体操服袋と学生鞄を両肩に背負った。
「そう。気を付けて行ってこいよ」
「……あ」
 近づいてきた唇は避ける前にくっついて、すぐに離れた。思わず肩を押し返して身を離すと、耳元で揶揄うような笑い声が響いていた。
 頬に集まる熱を誤魔化す為に足早に家を出た。暫くして振り向いたが、勿論彼の姿は外からは見えない。
 照れ隠しとはいえ、少し素っ気ない態度を取ってしまったかもしれない。後ろ髪を引かれるような思いが募るが、自分はそれきり振り返らず通学路を突き進んだ。



 毎週月曜日の朝は、各教室で実施されるホームルームの代わりに全校集会が開かれる決まりになっている。いつからそうなったのか、どうして月曜日の朝なのか、理由は誰も知らない。せめて水曜とか木曜にしてくれたらいいのに、と誰かが愚痴を零していたが、その意見には誰もが全面同意していた。
 体育館に並ばされた生徒が強いられることといえば。校長や教頭、生徒指導や風紀担当の教師らが続々と披露する、冗長としか思えない話を黙って聞くこと。この一点だ。もはや学校生活の様式美、学生なら誰しもが経験する最も無駄な時間である。
 同じ教師の話を五分、立ったままで聞かされるのも相当な苦痛だ。今の季節は梅雨明け後の夏本番、夏休みも間近。高い位置で輝く太陽のせいで、今朝からジリジリと茹だつような蒸し暑さに見舞われている。
 いくら体育館という屋内施設とはいえだ。その場に居るだけで自然と額から汗が伝い落ちてくるような環境で、何十分にも渡って有難くもない他人の話を聞かされるというのは、もはや拷問に近い。
 空調の行き届いた涼しい教室で、校内放送で集会を済ませてはならない理由があるんだろうか。この理不尽で不合理極まりない状況に、自分はいい加減苛立ちがピークに達していた。

 そのうち視界が全体的に狭まってきて、異様に汗が吹き出た。目を擦るが白んだ視界は何故か元に戻らず、汗は止まらないし、妙に心臓の音が煩いような……
 動悸、というやつだろうか。喉の奥からせり上がってくる奇妙な不快感もあるし、意識していなかっただけで、体のあちこちの調子がすこぶる悪いことに気づいた。
「あれ……?」
 ただ立っていた筈なのだが、脚に力が入らない。先ほどから耳に流れ込んでいた先生の声はもう聞こえなくなっていて、しかし話はまだ続いているようだった。
「……これは、何……」
 手を握ったり開いたりするのも覚束ない。次第に脚の感覚も薄くなって、視野が狭まって白く霞んでゆくのだ。
 明確に異変を感じ取った時には、既に自分は誰かに助けを呼ぶことも出来なくなっていた。遠退く意識の中で、最後に見たのは体育館の天井だった。



 人の話し声で目が覚めた。次に目に入ったのは体育館の天井などではなく、白いモルタル塗りの天井だった。
「練くん、目が覚めたかしら。平気?」
「……おれは……」
 全身を包んでいたのは真っ白の布団だった。脇に座るのは白衣を着た女性で、顔に見覚えはなかった。鼻につく消毒液の匂いで、もしかしてここは保健室ではないかと想像がついた。
「顔色もずいぶんマシになったわね。ここに水分と塩タブレットを置いておくから、あとで飲んでちょうだい」
「あの、俺って……」
 最後の記憶と今見えている景色がどうしても結びつかない。朧気に覚えているのは体育館の天井だけで、あとはさっぱりだ。教師の話がやけに長かったことも、何となく覚えている。
「朝の集会中に軽い熱中症になったのよ。ぐっすり眠ってたから寝不足も原因かもしれないわね。心当たりはある?」
「……」
「ならいいのよ。念の為に保護者の方へ連絡を入れたのだけど、お仕事中なのかしら。携帯電話が繋がらなくって。練くんのお家の電話にかけてみたら、お兄さんに繋がったわ」
「お、おに……?」
 学校に提出済みであろう家族構成で言えば、確かに兄は居る。戸籍上、二人居る。だがおそらく、電話で応対をしたのは本来の兄じゃない人だ。
「もうすぐ迎えに来てくれると思うけど、どうする? 今日は一旦お家に帰る? それとも午後から授業を受ける?」
「え、えっと」
 自分はここで初めて時計の針を見た。ちょうど二限目が終わる手前、あと五分ほどで休憩時間に入る。
 ということは、自分は保健室で二時間以上眠っていたわけだ。夢も見ず、魘されもせず、ぐっすり快眠だった。
 授業は残り四回ある。午前中に二時間、午後に二時間分。その中には体育の授業もあるし、小テストが実施される科目もある。
「今からすぐ教室に戻ります。すみません」
「こらこら。そんなに慌てたら立ち眩みしてしまうわ。寝起きなんだから焦らずゆっくり休んでからにしなさい」
 授業は一時間でも抜けたら後で追いつくのが大変だ。たかが一時間、されど一時間である。自分は友達が居ないぶん、板書のノートを人に見せてもらうことですら、とてつもなくハードルが高いのだ。他にも配布された資料や参照した教科書のページなど、分からないことが多すぎる。
「もうすぐお兄さんも到着するだろうから、せめてそれまでは待っておきなさい。いいわね」
「は、はあ……」
 保険の先生は強めの語気でそう告げたあと、部屋から出て行った。別の用事でもあるんだろう。いつ帰ってくるかは分からない。
 そのあとすぐに二限目の授業が終わるチャイムが流れた。今日一日の時間割が何だったか思い出そうとしたが、頭がぼんやりしていてよく思い出せない。まだ寝起きだからか。

「よー白龍。お前倒れたんだって?」

 場にそぐわない快活な声には敢えて振り向かず、布団に包まれたままの下半身をじっと見つめていた。
 やがて何も言わず歩み寄ってくる人影が、ベッドの脇に置かれたパイプ椅子に黙って腰を下ろす。金属の軋む音に顔を上げると、ようやく彼と目が合った。
「先生にはなんと説明したんですか?」
「何が」
「その、俺との間柄について」
「別に。フツーに家族ですって言ったけど」
 いけしゃあしゃあと宣う男は、長い脚を持て余すみたいに椅子でふんぞり返っている。
「さすがに先生だって白雄や白蓮の顔まで知らねえだろ。んなことよりさぁ」
 脇机に置かれてあった新品のミネラルウォーターを握りながら、男がこちらを覗き込んできた。そして小声で囁いてくる。
「……白龍が倒れたのって、俺が昨日がっつき過ぎたせい?」
「……保険の先生は寝不足が原因じゃないかと仰ってました」
「じゃあ俺のせいじゃん」
 キャップを開栓して手渡してくれた。中身は程よく冷たくて、喉を滑ってゆく感触が心地いい。
「で、でも、はっきりと断らなかった俺も、同罪だと思ってますし」
「ああ、満更でもなかったと?」
「う、うるさいですね」
 自然と顔に熱が上ってきたので、誤魔化すために布団を被り直してベッドに寝転んだ。また体調が悪くなったらどうしてくれる。
「だってさあ、白龍すっげえ可愛かったもん。めちゃくちゃエロいし、ずっといきっぱなしで、なかなか終わんなかったよな」
「…………」
「次は週末にしようぜ。休みのほうが心置きなく夜更かしできるだろ?」
「週末……あっ」

 自分はこの時まで、すっかり忘れていた。
 カレンダーアプリにリマンダー登録はしてある。けれどここ数日、アプリを見返すこともなく過ごしていたからか、記憶から消し飛んでいたのだ。
「なんだよ?」
「週末はその、予定が」
 文化祭の実行委員で同じ当番に当たった、クラスメイトの女子。彼女から次の週末の放課後、よければ勉強を教えてほしいと頼まれていた。同級生の自分なんかより教科担当の先生から教わったほうが身になると助言したが、本来の目的は別のところにあったようだ。奥手で引っ込み思案で、何より他人の機微に疎い自分は、そのことにまったく気が回らなかったのである。
「予定? 塾あったっけ?」
「いや、その……」
 友達が居ないことはとっくにバレているし、兄姉は暫く帰ってこない。これといった趣味もなく、熱中していることもない今。他に予定が入るとすれば、思いつく言い訳はこれしかない。
「文化祭の委員会で呼ばれてて」
「そんな長引くモンでもねーだろ。本番はまだ先だし」
「えっと……」
 本番が一週間先ならまだしもだ。まだ何か月も猶予があって、しょせんは中学校の学校行事だ。生徒主導で出来る範囲など限られている。
 彼はそう言いたげに目尻を吊り上げてみせた。何かを疑うような、胡乱な顔つきである。
「何か隠し事?」
 威圧感のある声が鼓膜を劈いた。顔を見るのも怖くて、目を逸らしてしまった。
「俺にも言えねえことか」
「ちっ違うんです、違くて、これは」
 制服の襟を後ろから引っ張られて、頭が揺れた。首の軋む音がしたが、彼は容赦を知らない。
「クラスメイトの子が……放課後、勉強会をしようって」
「男? 女?」
「お、女の子……」
「へえ~!」
 唐突にパイプ椅子から立ち上がった男が、ベッドの縁に腰かけた。ぎしりと鳴り響く軋音に混ざって、不吉な笑い声が部屋に響き渡る。
「いいじゃん、面白そう。行ってきたら?」
「お、怒ったり、しないんですか」
「何、止めてほしかった?」
 妙に威圧感のある顔と声に後ずさると、同じだけ彼も距離を詰めてくる。やっぱり心のどこかで怒ってるんじゃないか。隠し事をしていたのが気に食わないんじゃないか。
 だが目の前の瞳にそれを問うても満足な答えは得られない。むしろ揶揄うみたいに躱され、はぐらかされてしまう。
「大丈夫だって。女なんかつまんねーし、すぐ飽きるしよ。白龍はその女子と仲良くなりてーの?」
「……せっかく誘ってくれたから、断るのも悪いと思って」
 男はこちらの肩を組んで、盛大に笑い声を上げた。廊下まで聞こえているかもしれない。が、こちらの心配事などお構いなしだ。
「白龍って優しいんだな! そんなメンドくせー誘い、断っちまえばいいのに。まあでも、女子の顔が可愛かったらアリかなぁ」
「……」
「なあ、どんな子? 顔は可愛い? 胸は大きかった?」
「しっ知らないですよそんなの……!」
 絡まってくる腕を払いのけるが、今度は体ごと覆い被さってくる。脚で腹のあたりを蹴ってみても、すぐに足首を掴まれてしまって抵抗にならない。
「だって白龍に気があるんだろ? 要するに下心ってことじゃん。白龍的には好みなのか? その女子」
「誰も彼もが貴方みたいな、感情だけで動くわけじゃないんですよ! 俺はそんな疚しい気持ちで誘いに乗ったんじゃなく……!」
「はぁ? 何かわい子ぶってんだよ。今更お前が言えた立場か?」
 反論しようと口を開いた矢先だ。突然男の指が二本、喉の奥まで突っ込まれる。舌先の上を這いまわる指が、慣れた手つきで上顎を擦った。
「昨晩俺と何してたか、もう忘れたか?」
「んうっ、う!」
「一晩中セックスしてたよなぁ。白龍ってば、ずうっとキモチイしか言わねえし」
「そんなのっ、あう、う」
「もし女子から告白されたらどうすんの? 付き合う? それとも振っちゃう?」
 女の子泣いちゃうかもなぁ、なんて軽口が聞こえてきた。
「好きでもねえ女から告られても鬱陶しいけど、泣かれたらもっとメンドくせーからな。白龍ならどうする? テキトーに付き合っとく?」
「お、おれ、おれは」
 薄手の黒いトレーナーを軽く引っ張って、首を振った。するとあれだけ暴れていた指が自然と抜けて行って、代わりに唾液の糸がつう、と伸びる。
「ジュダルの、こ、恋人で」
「……ああ、うん。そうだったな、そういや」
「だから……断ります、そういうのは。ジュダルと、約束したから」
 前髪を梳かれて、露わになった額に唇が押し付けられた。
「良い子だな」
 低い声に頭がくらりとした。俄かに動悸と、発熱と、眩暈を覚える。体育館で倒れた時と同じようで、でも少し違う体の変化だ。

 社会通念上、道徳観念上、どんな観点や視座から見ても、ジュダルを選ぶことは間違っていると思う。
 彼は自分よりずっと大人びて見える。それは見た目とか立ち振る舞いだけじゃなく、内面や価値観、考え方が、本来の年齢よりずっと大人に見えるのだ。すべてを分かり切っているような、あるいは諦観を滲ませる言動であったり、ものの見方考え方が、現役高校生のそれとは到底思えないのだ。
 しかしそれには実は理由があって、彼は肉体年齢こそ十代半ばであるが、人生経験という意味では常人の二倍近くあったのだ。前世の記憶とやらを有している彼は、見方によっては大きなアドバンテージを得てこの世に生を受けた、とも言える。二度目の人生において経験に勝るものはないだろうし、それに付随する考え方だって一枚も二枚も上手だ。

 法の名の下であろうと何だろと、彼は清く正しく高校一年生と名乗れるし、その資格がある。この国で生まれてこの国で育ち、戸籍を有している以上、当然与えられる権利だ。
 だが精神年齢という意味で正しく表現すると、たぶん並の大人か、それ以上に成熟している筈だ。
 どうすれば人を騙し、陥れ、自由に操れるか、その作法を彼は熟知している。鮮やかな手練手管はそれだけ培ってきた経験があるからで、じゃあ彼は一体いつどこでその技法を身に着けたのかというと、答えはひとつしかない。玉艶に組していたという時代に、彼女の庇護下で学んだのだろう。
 白雄がジュダルをひどく警戒し、距離を置こうとしていた最大の理由だ。既に袂を分かったとはいえかつては同郷、しかも何時寝返るか分からない。もしかしたらスパイの可能性だってあるし、全面的に信用するにはそれなりのリスクがある。

 そんな男を懐に招き、すべてを明け渡すというのは愚かな行為だろう。向こう見ずで常識知らず、世間知らずの高枕、温室育ちの箱入り息子……
 先を見ない軽率な行為を犯す愚か者を、罵倒する慣用句は古今東西数多存在する。そのどれもが、自分に向けられている言葉だと思って止まないのだ。しかし自分は彼を信用することは間違っていると頭で理解したうえで、なおもその手を振り解けずにいる。

「白龍、口開けて」
「あぅ、あ」

 視界の端で最後に映ったのは、ジュダルの長い睫毛だ。切れ長の吊り上がった目尻がこの時だけは弱々しく垂れ下がっているように見えた。まるで泣くのを堪える子供みたいな表情だと思った。



 四限目の開始を知らせるチャイムが鳴る直前、自分はようやく教室に戻っていた。本当はもっと早くから授業に出席したかったのだが、思わぬかたちでジュダルと遭遇してしまい、保健室に閉じ込められていたのだ。

 話の前提として、学校の保健室で体をまさぐるだとか、肌を触れ合わすような行為はご法度だ。ああいうのはフィクションの世界だから成り立つもので、現実世界じゃ非常識的な行為として処罰を受けておしまいだ。校内を巡回する教諭や保健室へ偶々訪れる生徒だって居るだろう。
 だが彼はあろうことか、それらしい嘘をわざわざ用意して行為に及ぼうとしたのである。

 ――ここ来る途中にすれ違った保健室の先生が、昼までは戻らないって言ってたぜ。

 あんまりにも自然に告げられたから、その場で信じてしまった。一片たりとも疑わず。言葉の裏にある本心に気づきもせず。
 自分の詰めの甘さにこの時は無自覚だったから、ベッドの傍に立てられていた衝立のカーテンで出入口から見えないようにし、ジュダルがこちらへ覆い被さってくるのを、ただただ黙って受け入れてしまっていた。ここは学校だから良くないとか、昨晩も散々抱き潰されたのにとか、浮かんでくる文句は幾つもあれど。
 あの赤い瞳に語りかけられると、どうにも自分は抵抗出来なくなるらしい。お前を今すぐここで抱きたいと言わんばかりの、熱烈な視線だった。直球で分かり易い欲情を向けられて、こう言うのも何だが、嫌な気はしない。いつもは大人びて見える彼の、ほんの少し格好悪くて余裕がない表情はとても貴重で特別だ。だからそんな顔を自分にだけは見せてくれることが、満更じゃなく嬉しいと思う。
 ――白龍、服脱いで。
 言われるがまま、自分は黙ってシャツのボタンを外していた。
 明るくて清潔な部屋で自分は何をやってるんだろう、と冷静になれば思うものの。今はそれより、高まって期待してしまう体をどうにかしたい。
 ――そのまま膝立ちになって、こっち座って。
 上半身だけ裸になったまま、男が指をさす場所に腰を下ろした。それは彼の膝の上だった。
 ――昨日はここ、あんま触ってやれなかったから。
 胸元に唇をすり寄せて、頂に犬歯が触れた。あ、とか細い声が漏れる。
 汗臭かったりしないだろうか。汚くないだろうか。せめてタオルかシートで体を拭けば良かった。
 そんな心配事は、すぐに全部吹き飛んでしまう。
 ――もう硬くなってきた。
 ちゅ、と先端を吸われて膝が震えた。自重を支えるのも辛くなって、彼の頭を抱き寄せながら縋りついていた。するとますます距離が縮まって、両方の胸を口や指で愛撫される。ますます考える余裕がなくなって、代わりにもっと欲しくなってしまう。無意識のうちに胸を突き出す体勢になって、背中が弓なりに軋んだ。喉から甘ったるい声が漏れて、静かな部屋に響くのが恥ずかしい。



「練白龍くん起きてる? 念の為にお薬を持って来たのだけど」

 唐突に響いた他人の声に、全身が大袈裟に跳ねた。

 考えるよりも先に体が動いていた。まず目の前のジュダルをベッドから突き飛ばし、服を急いで着て、寝具の乱れを直し、衝立のカーテンを開く。ここまで僅か十秒足らずの出来事だった。
「アッは、はい先生。俺はこのとおりで……」
「良かった。顔色も悪くないし、授業には戻れそう?」
「はい。四限目から出席することにします」
「そう。ならいいわ。……ところで、」
 保健の先生は不意に言葉を切り、隣を見つめた。そこには、パイプ椅子に奇妙な体勢で座る男が居た。
「練くんのお兄さん、どうかなさいました?」
「ああいや、その。ちょっとコイツを揶揄ってたら、こうなりました」
「ふふ。仲が良いんですね」
 先生はそれだけ言って、持参してきた薬を棚に仕舞った。それから、あまり量が減っていないペットボトルの水を見て目を吊り上げる。
「練くん、ちゃんとお水は飲みなさい。それと塩分も。暫くは安静にして、今日一日は屋外での活動は控えるようにね」
「は、はい……」
 最後の最後で軽いお説教を受けて、自分は保健室を後にした。ふてくされた顔をするジュダルも、少し遅れてから保健室を出る。自分は彼の顔を一度も見ることなく早足で教室へ向かった。



 四限目が終わったあとの昼休み、多数のクラスメイトから声を掛けられてしまった。大半の内容は大丈夫だったか、という心配の一言に尽きる。
 そりゃあ朝の集会中に突然倒れて、しかもその現場を多数の生徒に目撃されていたら、否が応でも注目の的になってしまう。ある意味で朝から悪目立ちをしてしまったのだが、声を掛けてくれる生徒は面白半分じゃなく、わりと本気で気遣ってくれていた。
「急にすっげー音が聞こえてさ、何事かと思ったわ。先生も周りの子もかなり慌ててたし」
「そうそう。まあおかげで教頭の長話は強制終了したけどな」
「あれは話が長すぎるのが悪いって。せめて床に座らせてほしいわー」
「これで来週から座りで話聞けたらいいのにな」
「まあでも、頭とかぶつけてなくて良かったね。みんなすっごい心配してたし」
 各々は好き勝手に感想を口にしているが、おおむね文句の矛先は教師陣に向いている。
「一限目からのノート、あとで見せてやるよ。ずっと保健室で寝てたんだろ? しゃーないって」
「三限目のプリントもコピーしてあげるよ。練くん超かわいそうだもん」
「あ、有難う……」
「気にすんなって! あ、俺が倒れた時はノート写させてくれな?」
「お前が倒れるとか無いだろ。風邪すらひかねえ癖に!」
 あまり会話したことがないクラスメイトも気にかけてくれた。普段はおおよそ接点のない生徒も、こんな時になれば心強い味方に思える。
 そんなこんなで親切なクラスメイト達のおかげで、心配していた授業の遅れ分は巻き返すことができて、すぐに追いつけた。テストの出題範囲を網羅したプリントや教科書本文の解説、板書の内容も抜け漏れなくばっちりだ。

 三限目が終わるまでベッドから起き上がれず教室に戻れなかった、という事情ではないけれど。本当のことをここで口にするわけにもいかない。本気で心配してくれた彼らに一抹の罪悪感を感じつつ、諸悪の根源である男の顔を思い浮かべて微かな苛立ちを抱いた。