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Previous Singularity 12話

 白龍、ほんとに良いのか?

 暗がりの中で響いた声に、自分は首肯を返すことしか出来なかった。有無を言わさぬ低い声が頭の奥にじんわりと届いて、切なくなる。

 黒い頭が近づいてきて薄く唇を開くと、ぬくいものが表面に触れた。ぬるついた粘膜同士が擦れ合うとくちゅ、と音が鳴る。その水音だけで体が熱くなり、鼓動が速まるのだ。心臓が既に騒がしく、相手に聞こえてしまいそうなくらいには。
「……」
 彼は頭を上げたのち、暫く押し黙っていた。何か、気になるんだろうか。微動だにしない上半身に軽く触れてみる。
「白龍。この部屋……」
 枕に乗せていた頭を軽く動かして、彼が見ている方向と同じ向きに視線を向けた。
「俺、すげえやりづらいんだけど」
「……あ」
 ベッドサイドのテーブルに置いてある写真立てには、昔に撮影した家族写真を飾っていた。自分が小学校低学年くらいの頃、小学校の運動会で見に来てくれた兄二人と姉と、赤白帽子を被り砂埃にまみれた体操服を身に着けている自分と、四人の写真だ。恐らく端には母親が映っていたが、切り取ったか破ったかして、残っていない。
「なんかさ、見られてる気がして」
「そ、そんなに気になりますか?」
「俺があの写真持ちながら白龍に覆い被さったら、お前もたぶん落ち着かねえと思う」
「ふふ。それはそれで貴方もやりづらいでしょう」
 シュール過ぎる光景を想像して思わず笑った。
 なんだか空気が一変した気がして、寝転んでいた体を起こした。彼も何となく察したようで、ベッドの端に腰を移動させていた。
「白龍の部屋、やっぱ落ち着かねえ。なんか良くないことしてる気になる」
「場所に関係なく、最初から良くないことだと思いますが……」
「いや、だってよお」
 リモコンで天井の照明を点けた。暗がりの部屋はひとたび真昼間と変わらない明るさになる。
「こーんな綺麗で広い部屋、俺住んだことねーもん!」
「……」
「綺麗過ぎて落ち着かねえ! なんかいい匂いもするし……」
 掛け布団の上に寝そべる男は、そんなことを喚きながら部屋中を見渡していた。



 今、家に家族は居ない。母親からも連絡は来ないし、今晩は久々に一人で過ごすことになる。帰りの道すがら、そのことがとてつもなく寂しいと、思うようになっていた。
 結局どこに行こうと、自分は世界で独りぼっちなのだと改めて思い知らされた。広すぎる家は孤独感を加速させるのに十分で、世間ずれした自分の感覚が間違っているのだと、自覚させられる。
 いや、兄の呼びかけに応じられなかった自分が悪いのだ。目の前に伸ばされた甘美な罠に靡いてしまった自分が悪い。あの時、ジュダルを突っぱねて兄の手を取っていたら。どうなっていただろう。白雄は自分を連れ去って、どこか遠い場所に身を隠すことになったのだろうか。どうせなら一緒に連れ去られたかった。いつ帰るか分からない人を待ち続けるというのは、想像以上に寂しくて忍耐力が必要なのだ。

「でもジュダルは生まれた時から今の家に住んでいたわけじゃないでしょう」
「……」
「前は、どこに住んでいたんですか? いつから今の家に?」
「……」
 彼は押し黙ったまま、答えようとしない。
 答えたくないんだろうか。過去を詮索されて、嫌な気になる人も一定数は居るだろう。だが彼の場合は、少し違う気がした。
「……覚えてない」
「そんなわけ」
「思い出せない。どこで生まれて、どんなふうに育てられて、親がどんな人か、家族が何だったのか」
「ジュダル」
 掛け布団の上で寝返りを打っていた。仰向けからうつ伏せになって、布の肌触りを頬で感じているらしい。
「もう一人、会いたい奴が居る」
「もう一人?」
 それは彼の言う、夢の中の登場人物なのだろう。耳を澄まして、囁くような小さい声を聞き取った。
「アラジンっつう、俺と同じような魔法が使えたガキだ」
「……どこの国の人でしょう」
「今でいうところの中東アジアだろうな……」
 男は目を細めて、遠いところを見る。
「俺や白龍は元々のルーツが似てるから、こうして偶然出会えたんだ。でもアラジンたちはたぶん、生まれがもっと遠いところだと思う」
「たちってことは、他にも居るんですか?」
「アリババやモルジアナが居たなぁ……」
「……この国では聞き馴染みがないお名前ですね」
 それはたぶん世界地図で言うところの、ユーラシア大陸の真ん中あたり、砂漠地帯にほど近い中東アジア地区に由来がありそうな人名だ。そこから東側に遠く離れたこの島国では、おおよそ耳にしない。
「その中でもジュダルは、アラジンという人に会いたいんですか?」
 ジュダルが誰かに会いたがるなんて珍しい。どんな理由があるのか、それとなく聞いてみた。
「俺と同じ魔法使いだったし……ほら、あれだ。俺の幼少期の記憶がすっぽり抜けてる理由が分かるかもしれねえ」
「雄兄さんなら、何か知ってるかも」
「誰が助けを借りるかよ、あんなヤツ」
 男はそう告げるや否や、寝返りを打って壁を向いてしまった。襟足の長い猫毛が布団の上に散らばっている。

 自分は不意に、白雄に言われていたとあることを思い出した。それは学習机の隅に置かれたままの、小さい紙片が視界に入ったからである。
「ジュダル。この人の名前に聞き覚えはありませんか?」

 白雄から、何か困ったことがあれば助けを乞うてみればいい、と言われて手渡された。小さな手書きのメモには自分と同じ姓を持つ”練紅炎”という氏名と、携帯番号と思わしき数列が記されてある。
 彼は自分の手からそれをひったくり、目を瞠ったまま硬直していた。
「んだよ、これは。白雄と紅炎は手を組んでんのか!?」
「兄はその、紅炎という人は信用できる人間で……一時期は匿ってもらったり、玉艶に見つからぬよう逃走を助けてもらったと」
「そうか……そういうことか。だから白雄たちは、まだ生きていたのか」
 ジュダルはベッドから起き上がると、おもむろに携帯端末を手にした。片手には勿論、例のメモが握られている。
「何をする気ですか?」
「紅炎に連絡を取るんだよ。きっとあいつらも、俺のことは血眼になって探してる筈だ」
「いっ、いいんですか、そんなことをして」
 彼は気安く紅炎、と呼び捨てにしている。親しい間柄だったんだろうか。
 だが紅炎のほうはジュダルをどう思っているか不明だ。そもそもジュダルとは面識がない、赤の他人だと思われてしまうかもしれない。
「白雄がわざわざ紅炎の連絡先を渡すっつーことは、そういうことだろ。紅炎は白龍のことをキッチリ覚えてる筈だぜ。お前が何も知らないだけで」
「……なんで、俺だけ……」
「白瑛だって知らねえだろ。話を聞いてる限り、白蓮もな」
「……」
 男は慣れた手つきで端末を操作し、ダイヤルボタンを押していた。耳元に宛がわれた端末からはダイヤル音が数回聞こえた。そしてすぐ、別の音が聞こえ始める。

「……も、もしもし?」
 彼は強張った表情で、電話口の相手に声を掛けていた。
「あの。この番号って練紅炎って人の携帯で合ってるか?」
 不遜な言い回しに、電話口の相手が激昂しないか心配だ。
「ああ、ちょっと待ってくれ。ちょっと通話の内容を聞かせてえ奴がもう一人、隣に居てよ」

 ジュダルはそう断ってから、通話をスピーカーモードに変えた。すると端末のスピーカーから、一人の男の声が流れ始める。
「よう紅炎。久々だな。俺が誰だか分かるか?」
『……』
「あの。初対面相手に、それは失礼じゃ」
『その声は誰だ?』
 返ってきた声に、思わず肩が震えた。
「は、初めまして練紅炎さん。俺は練白龍……白雄の一番下の弟に当たります」
『……白龍だと……?』
「アハハ、驚いただろ紅炎!」
 向かいに座る男は大袈裟に大声を上げて、そう煽った。
「実は俺、先に白龍と仲良くなってよー。いやまさか、こんな形で三人が揃うとはなぁ!」
『……ジュダル。白龍とまた良からぬことを画策して』
「まさか、してないしてない。俺はもうこの通り凡人だし、白龍も平凡な学生だぜ? ちょっと平凡過ぎてナヨっちいけどな」
「……」
『白龍。今のこいつの発言は誠か?』
 低く、威圧感のある声だった。白雄も声は低いほうだが、また種類の異なる声色だ。端的に言えば少々柄が悪く、怖い雰囲気がする。
「は、はい。俺とジュダルは、と、ともだちで」
「そそ。俺たちはただの友達。近くの塾で会ったんだぜ」
『……そうか。なら良いが……』
 練紅炎と呼ばれる人は一呼吸開けたあと、さらにこう続けた。
『この番号から掛かってくる電話はかつての知人からだと決まっている。お前たちに番号を教えたのは白雄か?』
「はい。雄兄さ……兄が、困ったことがあればこの番号に連絡すれば、助けてくれるって」
『……助けられるかどうかは状況に依るが、努力はしよう。俺の兄弟も手伝ってくれる』
「紅炎さんの兄弟……」
「紅明と紅覇だろ? 二人は揃って元気にしてんのか?」
 ジュダルが話に割って入った。どうしてもその二人の事も気になるらしい。
『ああ。別々に暮らしているが連絡は取り合っている。ただ、一連の記憶は二人にはない』
「なら事情は分からねえってこと?」
『いや、ある程度は話をしている。ここ最近の母と父……玉艶と紅徳の動向も妙だから気掛かりだ』
「気掛かり?」
 顔を顰めたジュダルが、紅炎に聞き返した。
「なんだよあのババア、もう練家を乗っ取る気か? まだ白雄も白蓮も存命なのに」
『外部から人を寄越すんだろう。ここ最近は玉艶が仕事先の人間とやらをよくウチに呼ぶもんでな。あからさまだから、紅明と紅覇には暫くウチに帰るなと言いつけてある』
「へえ。俺の話はしてる?」
 ジュダルはその場で胡坐をかいて、楽しそうに電話相手に話しかけていた。
『どうやら外部の人間にお前の所在を探させているらしいぞ。近々尻尾を掴まれるだろう。そうやって余裕で居られるのも今のうちだ』
「じゅ、ジュダルが?」
「まぁそうビビんなよ。俺はもうこれ以上お前らに接触する気はねーから、精々ババアといがみ合ってろよ」
『……ジュダル』
 電話主の男は声をより一層低くして、彼の名を呼んだ。空気が一瞬だけぴりりと凍てつく。
『なら電話をかけてきた用件はなんだ? わざわざ俺に連絡を寄越すなど、危険を冒してまで雑談をしたかったのか?』
「今の話しぶりから察するに、たぶん可能性はないなって……俺が確信しただけ」
『何の可能性だ』
 ジュダルはかぶりを振って、ゆっくりと口を開いた。
「アラジンの所在は分かるか? 今の世界に生きている元マギとして、確かめてえことが山ほどあってな」
「……元マギ?」
「……」
『アラジンか。実は数年前、来日していたことがあってな。アリババと共に羽田で待ち合わせて、少し話をしたことがある』
「はぁ!? マジかよ!?」
 布団に置いていた端末を握った彼は、殆ど叫ぶような勢いで捲し立てた。
「数年前っていつ! ていうかなんで、どうやってオメーらがコンタクトを取れたんだよ! しかもアリババ付き!?」
『落ち着けジュダル。当時の俺はまだかつての記憶を有しておらず、話には殆どついて行けなかったんだ』
 え、と言葉を失くすジュダルに対し、自分は思わず話に割って入っていた。
「かつての記憶って、要するにジュダルと同じ、夢のことですよね?」
『夢……まあ、そうとも形容できるかもしれんが、正しくはないな』
「……?」
『俺たち一部の人間に見られる記憶は、かつてこの世界のどこかで生きていた人の記憶だ。限りなく自分に似通っている、別人の記憶……前世とも呼ぶかもしれない』
「ぜ、前世の記憶?」
『端的に言えばそうだ』
 隣の顔を窺う。彼は赤い目を見開いたまま、紅炎の発する一言一句を聞き逃すまいと真剣に聞き入っていた。
『それらの記憶は日中の活動中には現れないが、夜眠っている間に夢として現れてくるんだ。まるで当時を追体験するみたいに、記憶が鮮明に蘇ってくる。朧げな光景だけじゃなく五感にそのまま伝わってくる、不思議な感覚なんだ』
「……」
『そしてその夢は、すべての人間が見れるわけじゃない。俺には見れるが、弟の紅明や紅覇が見えないようにな』
「何か法則があるんですか? 長男だから……?」
『いや……』
 暫くの間を置いてから、再び紅炎の声が響き始めた。
『これらの記憶を授けられるのは創世の魔法使いたる賢者……要するにマギによって分け与えられた者だけだ』
「マギ?」
「……」
 ジュダルは何も言葉を発さない。
『俺はアラジンと接触した後、前世の記憶を与えられた。それが目的というわけではなかったが、結果的にそうなってしまった』
「そ、そんなことが……」
『まあ、でもこれは俺が興味本位で欲したわけじゃない。あくまで自衛の為、後学の為だ』
 自分は首を傾げた。
『知ってのとおり俺の母親である玉艶は妙な女だった。当時から奇妙に思っていたんだが、ある時アラジンと名乗る少年からメッセージが届いたんだ。貴方の母親にはある秘密があって、それをこっそり教えてあげるから会ってほしい、と』
「いくらなんでも怪しすぎるんじゃ」
『ああ。でも俺の父は叔父である白徳が亡くなってから様子がおかしくなった。知らないうちに血の繋がらない兄弟が増えていて、玉艶と紅徳の人間性を疑うことが多くなった。そんなタイミングの連絡だったから、俺は半信半疑でアラジンと会うことにした』
「……血の繋がらない兄弟?」
『義理の妹が居る。産んだのは玉艶ではない。名前を紅玉という、お前よりも年上だから義理の姉に当たる人だな』
「えっ!?」
『まあ話を元に戻すが……俺はアラジンと出会い、玉艶がどんな人間か、その恐ろしい本性を教わった。そして今後生き延びる為に、兄弟たちを助ける為にも、と頼んで、アラジンから記憶を与えてもらった。本人は大層嫌がったが、無理を押し通した』
「アラジンさんは、記憶を与えることを嫌がったんですか? それはどうして……」

 その記憶とやらに玉艶の正体を知るすべが、あるいは答えが隠されているんだろう。なら関係者全員に知らせて、玉艶を追い詰めるべきだ。そのほうが話も早いし、全員で結束できる。玉艶という人間の危険性について、すぐにでも情報共有されるべきだ。
『何故記憶を与えたくないのか……それはお前の隣に居る男が、心底分かっているんじゃないか? なあ、ジュダルよ』
「……」
『……お前はもっと考えなしだと思っていたが、そのようなことはないらしい。お前には考えがあって、敢えて白龍に記憶を分け与えていないんだろう?』
「うるせーな。電話切るぞ」
『そういうことだ。白龍、くれぐれもあの女には用心しておけ。そしてジュダルは見つからぬよう気をつけろ。お前の動向次第で白雄と白蓮の処遇が変わってくる』
「わーってるよ。俺はこのとおり、大人しく日陰で暮らすから。ああ、それと。紅明や紅覇たちにも宜しく伝えといてくれよ」
『分かった』
「じゃーな! もう二度と電話しねーから!」

 こちらも最後に何か、挨拶を言わねば。
 そう思って口を開くより早く、彼が通話を切ってしまったのだ。一方的に終わってしまった電話は再び繋がることはなく、携帯端末は沈黙してしまった。

「あの、ジュダル。今の話は」
「どの話だよ」
「マギなら記憶を与えられるという……」
 おそるおそる口にしたが、彼は表情ひとつ変えない。
「ああ、そうらしいな。それがどうかしたか?」
「どうかしたか、って!」
 自分は前のめりになって、彼の両肩を掴んでいた。
「ならどうして俺にくれなかったんですか、その記憶を!」
「んだよ。欲しいのか?」
「そりゃあ勿論!」
 勢いに任せて彼の体を揺すった。
 彼はされるがまま、言われるがままといった有様だ。こちらを見つめる目は冷ややかだった。
「一応聞いておくけど、どうしてだ?」
「兄の力になれるかもしれない。母親を遠ざけて、また昔みたく家族で暮らせるかもしれない」
「……そう、上手くいくかな……」
「やってみないと分からないでしょう。ですからジュダル、俺に記憶とやらを」
「先に言っておくがな、いくら金積まれてもコレは渡さねーよ」
 腕を払いのけられた。冷たい横顔が、もうこの話はしたくない、とでも言いたげだ。
「白龍が想像するほど簡単なモンじゃねえ。他人の半生が頭に流れ込んでくる、この感覚は正直言って半端じゃないぜ?」
「本来知るはずも無い前世の記憶を植え付けられる……その負荷は想像を絶すると思います。しかし」
「駄目だ。お前には渡さねえ」
「ジュダル!」
 名前を呼ぶとぎろりと睨まれた。だが自分は怯まない。今更そんなもの、怖くも何ともないのだ。
「白龍、お前こそ俺の何が分かるんだよ。前世の記憶があるかないかで、世界がどう変わって見えるか……お前は想像したことはあんのか?」

 体を押し倒されて、背中から布団に叩きつけられた。背筋と首の後ろ、それから後頭部が痛む。視界が白んで、目を擦った。
「自分が今何のために、どうして生かされているのか……二度目の人生を自覚するようになってから、そのことばかりを考えるようになった」
 不意に被さってくる唇を受け入れた。呼吸を奪うようなものではなく、浅いものだ。くっついて離れてゆくだけの接吻に目を瞬かせた。
「何が起きるか分からないからこそ、人っつーのは今この瞬間に一生懸命になれるだろ? でもよ、前世の記憶を自覚してからは……今の人生は前世を踏襲してるみたいだなって、思うようになった」
「た、たまたま、偶然が重なっただけでは」
「じゃあどうして今になって、俺は白龍と出会っちまったんだよ!」
 制服の肩口に額を当てて、彼はそう叫んだ。布越しに湿った感触を感じる。
「まるで一度目の人生の巻き戻しみたいだ……俺は何者でもない只の人間じゃなく、何者かであろうとさせる、大きい力が働いているみたいで……」
「……ジュダルが小さい頃のことを、何も覚えてないのも……そのせいですか」
 縋りついてくる大きい体は肩を竦ませて、小さく頷いていた。長い前髪が首筋に当たって擽ったい。どんな顔をしているのか見せてほしいのだが、彼はそこから動こうとしなかった。
 図体と態度だけは大きいくせに、これじゃまるで幼子のようだ。人の甘え方や泣き方、懐き方を知らないまま大きくなってしまった子供。
「前世の父親と母親は、俺が生まれてすぐ玉艶の手先に殺されたらしい。それで玉艶に拾われて育てられた。俺にとってあの女は母親だったと、そう思わされていた」
「そんな……」
「それはいい。もういいんだ。復讐はきっちり果たして、悔いも残ってない。最後はそれなりに楽しかったし……」
 縋りついていただけの両手が背筋を撫で上げて、服の裾に入ってきた。まるで幼子のようだ、と今しがた形容したが、これは。
「けど今の世界でもあの女が生きていて、俺の人生に茶々を入れてこようとする。あれだけ運命を恨んでもまた同じことの繰り返しだ。もう、今の俺は魔法も使えねえしルフも見えねえのに」
 冷たい手のひらが素肌を辿る。体温差があり過ぎて鳥肌が立った。話が頭に入ってこなくなる。彼は大事な話をしてくれているというのに。
「今の運命を、恨んで、いるのですか?」
「半分くらい恨んでて、もう半分は感謝してる」
「半分……?」
 脇腹をなぞられて、背筋が浮いた。あっ、と場違いな高い声が漏れてしまう。思考に靄がかかり始めて、もう駄目だ、と思った。
「白龍を見つけて、友達になれた。……いや、もう友達どころじゃねーな、これは」
 口の中を吸われて、胸元をまさぐられた。体の底から熱いものが込み上げてくる。思わず目の前の肩にしがみつくと、彼は吐息だけで笑っていた。



 ジュダルが何者であろうとなかろうと、自分は初めからどうでもよかったのだ。
 勉強の教え方は優しいけれど、いけ好かない男。目つきが悪く、態度は横柄で、不真面目で、不良っぽい言動で一部の生徒からは嫌われている。容姿はそこそこ整っているほうだから、これまた一部の生徒からは人気がある。
 気に食わない。関わりたくない。近づいてほしくない。視界に入れたくない。認知されたくない。名前を呼ばないでほしい。
 自分のような根暗で冴えない学生とは生きる世界が違うのだ。あるいは人種が違う。だから初めからお互いに存在を認識せぬよう、関わりを持たぬよう暮らすべきなのだ。目立ちたがり屋は似た者同士でつるめばいいし、日陰者は同じ人種で集えばいい。類は友を呼ぶから、ふつうに暮らしていればああいう人種との接点はほぼない筈だ。
 その為に中学受験をして、都内有数の進学校に進学する為に毎日勉強している。学区ごとに通わされる公立中学校は魑魅魍魎だと噂で聞く。頭の不出来や家庭の経済状況、養育環境に拘わらずすべての生徒が平等に中等教育を受けられる。その信念は素晴らしいだろうが、自分には到底順応出来ないと初めから想像がつく。今でさえ周囲に馴染めず浮いてしまってる始末。これがもし公立中だったら、きっとイジメや嫌がらせの標的にされている。
 ジュダルの人となりは、自分が最も苦手とする人種、その極北にある。まるでお手本みたいに苦手なタイプだ。予想を裏切らず、彼は意地悪だし執拗な嫌がらせを嬉々としてしてくるし、時折暴言を吐くし口も悪い。一挙一動の所作が悪い。家は汚いし、食生活は荒れていて、あれではいずれ病気になってしまう。向こう見ずな生き方は真似したいと思わないし、いちおう年上だが尊敬できる面は一切ない。

 だが、彼がそういう人格を形成せざるを得なかった、そうならざるを得なかったのではないかと、思うことがたまにある。
 自己を確立しようにも頼れる相手、本来あるべき家族の姿かたち、記憶は初めからなくて。代わりに、生まれつき授けられた他人の生涯――前世の記憶に苛まれて、導かれるようにして今この瞬間まで生きてきたのではないか。日々、都会の喧騒に紛れて独りきりで過ごしてきた彼の、空っぽの半生は想像もつかない。



 空調を効かせてみたが、それでも部屋は熱が籠りきって暑かった。
 階段を突然駆け上がった時みたいに心臓が早鐘を打つ。四肢は馬鹿になったみたいに震えが止まらないし、口からは意味のない母音が溢れるし、制御のしようがなかった。
 腰に回された腕が俄かに離れて、体勢が崩れかけた。なんとか足で踏ん張ってみるが、打ち付けられる杭の熱さに眩暈がして力が抜けて、あとはもう、わやくちゃだ。
 四つん這いになって布団を握り締めると、自分の細い腕に彼の腕が絡まってくる。手を繋ぎたいんだろうと想像して、その腕に手を絡ませた。
「そろそろいきたい?」
「あッ、や、やだ、触んないで、そこは……!」
 ぶら下がって股で揺れていた性器に指が絡みつく。先端を搾り取るように擦られて、全体を手のひらで揉みこまれた。
「嫌? でも、良さそうだな」
「ひゃ、ッあ、はう、あ」
 今の今までおざなりにされていたぶん、ご褒美だと言わんばかりに愛撫された。
 それをされると、全部滅茶苦茶になってしまう。言いたいことも、言いかけていたことも、全部快楽で押し流されてしまうのだ。だから止めてほしい。

 ふつう誰もが持ちようのない前世の記憶をたった一人、自分だけが有しているとして。
 誰にも理解してもらえない、共有も相談も出来ない。しようがない。それでいて毎晩夢で見ては苛まれるという。繰り返し繰り返し、ビデオテープが擦り切れるまで嫌な記憶を見せられる。知らない人の記憶が、感情が、経験が、頭の隅にずっとこびりついているという感覚は、どんなものなのか。
 言葉や感情を理解するより先に流れ込んでくる他人の記憶というのは、彼にとって、きっと忌々しいものだっただろう。医者だって匙を投げたかもしれない。誰にも理解されない苦しみを抱えつつ、今生が二度目の人生だと頭で理解しながら惰性で生きるという、途方もない虚脱感を幾度も味わってきたに違いない。
 だから彼はなかなか自分のことを話したがらないし、必要以上に踏み込まれることを極度に嫌うのだ。前世の記憶ありきで生きてきたせいで、今の自分が本当にやりたいこと、好きなこと、嫌いなこと、興味のあること、夢や目標さえ見えなくなっているのではないか。

「きもちい、あ、いっちゃ、いく」
「うん」
 無意識に反ってしまう腰を上から押さえつけられて、腰を打ち付けられる。荒っぽい律動のたびに上ずった声が部屋に響いて、頭がくらくらした。
「い、いっちゃうから、だめ、だめっ」
 言いたいことはそんなことじゃない。胸に込み上げてくる切なさとは別に、先走ってしまう体が、この熱を早く放出してしまおうと躍起になっている。
「触らねえと出せねーだろ」
「いッ、いい、いいから、このまま、おれ」
「……こないだみたいに、尻だけで?」
 腕を掴まれて上体を起こされた。視界が開けて、部屋中を見渡すことができる。
 剛直がさらに深い部分まで突き刺さった。ひっ、と悲鳴を上げるが、背後の男は薄ら笑いを滲ませるだけだ。
「そっか。白龍はもう尻だけで気持ちよくなれるもんな。じゃあもう、気にせず続けていいってコト?」
「そ、そゆ意味じゃ、なくてっ」
「そうやって照れ隠しされると、ますます意地悪したくなるから」
 腰を両手で掴まれて、ガツガツと奥を突き上げられた。
 相手の体を慮ったり気遣う仕草のない、一方的な性行為だ。もう痛みと快楽の境界線はあやふやで、ただひたすらに、自分の部屋でジュダルに体を犯されているという事実だけが、頭を支配していた。
 家族が居ないから何をしてもいい、というのか。だからってこれはあんまりだろう。
「アッ、あう! だめっ、ひゃあ、うっ、ア! なんかっ、へん、これぇ、おかし」
「ハハ。すっげーエロい声……」
 シーツに飛び散っていた体液はもう、これで何度目になるんだろう。触れられもしていない陰茎から不透明の白濁液が溢れていた。ぴゅく、ぴゅく、と数回に分けて飛沫が上がる。
「ッあ、ア! ひゃッ、あう、あッん、あん! んっ、ん!」
 腰にめり込んでくる指が痛い。逃げも隠れもできない。達している最中の体は容赦なく肉棒で貫かれっぱなしだ。嵌められた奥が痛いくらい気持ちいい。
 ジュダルは背後からこちらの様子を見下ろして、感嘆したような声を漏らす。
「へぇ、何だよ今の! 初めて見たぜ。もっぺんやってみろよ」
「む、むりです、あッも、もう、おれ……!」
「泣くなってば。なあ白龍」
 汗と涙に濡れた頬を、汗だくの手のひらで撫でられた。
「やっぱいつもより締まってる。自分の部屋だと、悪いことしてるっていう罪悪感があるから? 興奮してる?」
「なッ、なわけ……!」
「ふうん、まあ否定してくれてもいいけどよ」
 彼はまだ萎えてない性器で体の内側を擦り上げた。
 今しがた達したばかりの粘膜は敏感で、少しの刺激でも猛毒になり得る。思わず引き攣った声が出ると、彼は心底愉快そうに笑い声を上げた。
「白龍、そんな調子じゃ体が持たねえぞ。俺はまだまだ足んねーのに」

 ジュダルと話したいことは山ほどある。確かめたいこと、知りたいこと、聞いておかないといけないこと。どれもこれも大事なことだ。こうやって乳繰り合っている場合じゃない。家族が誰も居ない今こそがチャンスなのだ。なのに自分は今、何をやっているんだろうか。
 だが目前で爛々と輝く瞳に射貫かれると、自分は首を縦に振ってしまう。甘やかしてしまう。この体はとことん正直で素直で満更でもないらしく、彼の言葉ひとつで容易く熱を持ってしまうのだ。
 なんだか全て有耶無耶に、問題を先延ばしにされているような……。目先の性欲発散の為に彼をこの家に呼んだつもりはないというのに。
 それでもなおジュダルは声にならない言葉で、全身全霊でこう伝えてくるのだ。
 この忌々しい記憶に唯一感謝することがあるとしたら。この広すぎる世界でお前を見つけ、再会を果たすきっかけとなった。この事実だけは覆しようもない奇跡で僥倖である、と。
 いつもは毒々しく見える赤の瞳は歓喜に濡れていた。