Previous Singularity 9話
湿っぽい空気に自分の吐息が溶けて、他人の吐息が口から注ぎ込まれる。至近距離に迫る紅色に胸がざわつくと、それを悟られたのか。腹周りに這い回っていた手のひらが胸の頂を掠めて、肩が震えた。
座卓に置いたままの夕飯のごみが気掛かりだ。放っておくと衛生的に良くないし、においが部屋に残ってしまうし、なにより理性がある程度残っている今のうちに片付けておいたほうがいい。
彼が気に入っているカップ麺は、やはり自分の口には合わなかった。食べるのはこれが二回目だったが、あまり箸は進まなかった。最後まで食べきれなかったので途中から食べてもらったが、彼は残り汁まで平らげてしまった。よほどこれが好きなんだろう。自分には結局分からなかった。
「何か考え事?」
「……先にごみを、捨てませんか」
「後回しでいいだろ、そんなの」
「でも……」
制服のシャツを剥ぎ取られて性急な手つきで触られた。体じゅうをまさぐる手のひらに自然と息が上がる。自分もきっとまんざらではないんだろう。それが少し悔しくて、認めたくない。
「久々だからか? いつもより反応良いじゃん」
「い、言わないで、くださ」
スラックスの中に入り込んで来た指が性器を握って、まるで慣れた様子で高めようとしてくる。単調な動きだったがそれだけでもう、いっぱいいっぱいだ。
おおよそ一週間ぶりに触れられて、この体は喜んでいる。自分で慰めようにも上手くできないくせに、男の手に触れられたらすぐこれだ。じっとり滲む汗が鬱陶しく、逆にこちらから早く脱ぎたい、と急かしてしまった。
「白龍、こっち座って」
「あ、は、はい」
胡坐をかいて座っている膝の上に跨るようにして、言われたとおり腰を下ろした。
とはいえ自分は既に何も身に纏っていないのに、彼は一糸乱れぬ姿のままだ。そんなのは不公平だ。明るい室内照明の真下で、日焼けの少ない肌を自分だけが晒している。
今週は学校行事の打ち合わせだとか課外授業だとか、あとは塾と課題と自習勉強諸々に忙殺されてしまい、丸々一週間彼に会えなかった。塾に行ってもシフトの都合で顔を見ることもなく、せっかく連絡先を交換したが数回のメッセージを交わすだけに終始していた。
彼は相も変わらず悪い夢を見続けているんだろうか。先週以降その話題が出ていない。こちらから話を振ろうにも、あちらのお喋りに付き合っていたら機を逸してしまった。夕飯を食べ終わったらゆっくり落ち着いて話が出来ると思っていたが、自分の予想は甘かった。
「あッ、あう!」
「なあ、今日も挿れていい?」
腰回りに巻き付いていた腕が、それよりも下に伸びていた。臀部を持ち上げて割り開く手と、もう片方の手が孔を抉ってくる。
「あ、っあ、あ」
「白龍、質問に答えろよ」
「う、じゅ、じゅだ」
腹の内側を捏ねられると腰砕けになる。震える両膝は彼の目にも見えているだろうに、それでもお構いなしだ。首に腕を絡めてしがみつき、必死に息をした。言われている内容を頭の中で整理する。
「あ、い、痛いのは、やです」
「うん。今度はゆっくりするから」
「はう、あ、う、はい、ゆっくりが、いいです」
くちゃくちゃと鳴り響く音に混じって、自分の途切れ途切れな声が重なる。とても聞くに堪えない。
「指は痛いか?」
「あ、っあ、いえ、痛くない、です」
「じゃあ気持ちい?」
「は、はい……」
返事をすると指の本数が増えた。捻じ込まれた中指が弱い部分を引っ掻いて、狭い部分を拡げてゆく。
肩口に顔を当てて、流れる汗や涙を服に吸わせた。嫌がられることはなかった。服に残った他人の汗のにおいを吸い込むと頭がくらくらして、いよいよ馬鹿になりそうだ。
きもちい、きもちい、とうわ言のように呟くと、指の数が増えた。出たり入ったりする速度も増して、ひどい水音が鳴る。腰が揺れてしまうのだが、手で押さえられて逃げ場がなくなると快感が強すぎて苦しくなるのだ。
「あ、っじゅだ、じゅだるう」
「うん」
「ゆびっ、やだぁ、やだっ」
「指が嫌?」
孔の中で拡げられた三本の指が、ぐいぐいと壁を押し上げてくる。嗚咽を漏らして首を振ると、男が耳元で囁いた。
「でも、ここ弄られるの好きだろ?」
ざらついた内壁を思い切り押し込まれた。
「ッあ、すき、すきです、そこっ、あ」
「じゃあ何が嫌なんだよ」
苛ついた声音に肩が震えた。何もまとまらない頭で、必死に言葉を考えた。
「ずっと、き、きもちくて、おっおかしくな……!」
「……じゃあ別のことして遊ぶ?」
「へ……」
指が一気に引き抜かれて体から力が抜けた。支えきれなくなった体重を彼の上体にかけつつ、顔色を窺う。
嫌だ嫌だと喚いたから、機嫌を悪くさせてしまったかもしれない。ほんの少しの恐怖心を抱きつつ目を合わせたが、彼は微塵も怒っている様子はなかった。
「俺の顔に何か?」
「な、なんでもないです、なんでも」
恥ずかしくなって顔を逸らした。笑い声が聞こえる。
「白龍、フェラって分かる?」
「え?」
「俺、何回か白龍にやったことあるけどよ」
彼はベルトのバックルを緩めながら声を低くした。
自分はたぶん、他の同年代に比べて疎いほうだ。教室に居ると時折耳に入ってくる猥談は殆どが意味が分からないし、推測は出来ても合っているか確かめようがない。そういう話題に入っていく勇気も、話題を振られる性格でもなく。
ただ知識がなくとも生活に支障はないし、困る場面も今のところなかった。保険の教科書に書いてある内容が頭に入っていれば、この先も不都合はないと思っていた。
「白龍、口開けてみ」
その場で立ち上がった男がこちらを見下ろし、口元に親指を当てた。唇を開くと、その奥で縮こまっている舌を摘まれ引きずり出される。
「舐めんの。分かる?」
「じゅ、じゅだ」
空いたほうの手で下半身を寛げている。目の前に広がるその光景で、何となく彼の要求を察した。
察したと同時に、顔に血が上って頭が沸騰した。何をしろというのか、想像はつく。自分も彼にされたことがある。
「白龍」
「……俺、初めてで、こういうのは、よ、よく分かんな」
「カマトトぶんな。エロいこと好きなくせに」
「ちが、違うんです、俺は」
摘まれた舌に宛がわれたのは、膨らみ切った男性器だった。
「泣くなよ白龍。ますます苛めたくなる」
涙は出ていない。ただ視界が滲んだだけだ。それと、鼻の奥がつんと痛んだだけ。けれど彼の目には、今にも泣きだしそうな顔でじっと堪えている自分の顔が、泣いているように見えたんだろう。
舌先に宛がわれていた性器が口の中へ入ってこようとする。両手で相手の腕を押さえて抵抗を試みるものの。
「んむっ、ン、んっ!」
「歯は立てんなよ」
前髪を掴まれて頭の位置が固定されると、腰が突き進んでくる。形容しがたい味やにおいに、感覚神経が麻痺しそうだ。
直視するのも憚られるものを口に入れるという行為は、圧倒的に不快感が勝る。それと屈辱感と羞恥心にも苛まれ、眩暈を覚えるほどだ。
頭が混乱している。息もできない。額を撫でる指の動きに反応する余裕もない。
「白龍」
名前を呼ばれて顔を上げると、うっそりと微笑む男と目が合った。
頭を掴まれて口の中の物を引きずり出された。嚥下しきれなかったどちらかの体液が唇を伝って床に落ちる。目の前にはぬるついた男の性器があるが、思わず目を背けた。
僅かな吐き気と大きな不快感、そして彼に対する不信感が俄かに芽生えた。どうしてこんなことをさせるんだろう。苦しくて気持ち悪くて辛いだけだ。
「白龍。挿れてやるからそこ寝転べ」
彼は服を脱ぎ捨てながらそう命じてくる。指で示された先にはベッドがあった。
自分は肩を竦ませて、床でじっとしゃがみ込んでしまった。膨らんでいた性器はすっかり萎えていたし、先刻まで感じていたふわふわする快感や胸が熱くなる高揚感も消え失せた。今はただ、自分の目の前に立ち塞がる男の影に背を向けて、息を殺している。
「何やってんだよ」
「……」
男がその場にしゃがみ込んで、視線を合わせようとしてくる。
「今の、嫌だったか?」
「……こ、怖かったです」
自分が何をされているのか、どうしてこんなことをしてくるのか、何も分からなかった。男の真意が読めない。怒ったような顔をして見下ろしてくる、その獰猛な目つきや荒々しい手、腰の動きに、自分はすっかり恐れ戦いてしまったのだ。
たぶん初めて、彼のことを本気で恐ろしいと思った。
「じゃあ仲直りしよう」
「……仲直り?」
目を上げると、優しく微笑む人が居た。柔らかい声ではくりゅう、と呼ばれる。
額同士をくっつけて、唇をすり合わせた。今まで彼の性器を銜えていたのに、気にはならないんだろうか。ふとそんな疑問が脳裏を過ったが、何も言わず受け入れた。
唇同士を合わせるだけの接吻だった。顔を離すと優しく微笑む男が、ベッド行くか、と囁いてくる。
「は、はい」
差し伸べられた手を取って、自分は立ち上がっていた。立って並ぶと自分よりずっと高い位置にある彼の顔を見上げた。目が合って、どうかしたか、と尋ねられる。なんだか気恥ずかしくなって顔を逸らした。
「明日は平日だし、やることさっさと済ませるか」
「え、えっと」
「お前は寝てたらいい」
「はい……」
言われたとおりベッドに裸で寝そべって、首の下に枕を置いた。部屋の照明は十分過ぎるほど明るくて、遮るものがないのに股を開かされる。もっと脚を持ち上げて、と言われたので、仕方なくそうした。
覆い被さってくる体を今更突っぱねることは出来なかった。長い前髪の隙間から見える赤い瞳が三日月のかたちをして、こちらに微笑みかけてくるのだ。怖くない。大丈夫。優しくするから。という、声にならない声が聞こえた気がした。
しかし、これが正しいか間違ってるかなんて考えなくとも分かる。いくら子供同士だからって、自分と彼は同じ男で、人目を盗んで性交渉に耽るのは褒められた行為じゃない。自分の年頃の子供なら同級生と外へ遊びに出掛けたり、一緒に勉強をしたり、そういう付き合いをすべきなのだろう。
頭ではそこまで理解できているのだ。痛いほど分かる。
これは気持ちのいいことばかりじゃなかった。痛かったり怖かったり気分が悪くなったり、知らないことも多い。
「ジュダル」
けれど、相手が彼だから。ジュダルだから。ジュダルは時々怖くて、酷いことをするし、いい加減で、面倒くさがりで、ものぐさな性格をしているけれど、自分にはとびきり優しくしてくれる。甘やかしてくれる。年相応に他人に甘えたり頼ったりすることが下手な自分に、手を差し伸べてくれた。
「どうした?」
「呼んでみた、だけです」
「そう」
彼がよく見る夢の登場人物に似ているとか、だから話しかけたくなって近づいたとか、そういうきっかけなど、今はどうでもいいのだ。今この瞬間、こうして彼が自分を求めてくれることが何よりも嬉しく、充足感を与えてくれる。
「もう挿れるけど、いい?」
「は、はい」
返事の声は強張ってしまった。それもそのはずだろう。幾分緩くなったとはいえ、狭い臓器の一部に異物を捻じ込もうとしているのだ。気が動転して、叫び出したくなる。あまりの羞恥と受け入れがたい非現実感に、体がばらばらになってしまいそうだ。
「あッ、あう」
「舌噛むなよ」
「あ、じゅだっ、あ、あ」
腰を掴まれて引き寄せられると同時に、孔に杭を突き刺された。
あれだけ解したのに、孔の周りが熱くてびりびりする。まるで熱した鉄棒を突っ込まれているみたいだ。引き裂かれるような痛みと灼熱に、首が千切れそうになるまで喉を反らした。
「……もう止めとくか」
「えッ、あ、あ」
「また無理させたら、今度こそ俺の事嫌いになるだろ?」
「じゅだ、じゅだる?」
大粒の汗が見え隠れするこめかみに手を伸ばして、朱色の目元に触れた。
いつもなら吊り上がっている目尻が、今は弱々しく垂れ下がっている。
「嫌いになんか、ならないですから」
「本当か? さっきはあんだけ怖がってたじゃん」
「び、びっくりした、だけ」
「へえ」
頭皮はすでに汗みずくで、髪に触れるだけで指が湿った。
表情こそ涼しげだが、こんなに汗をかいていたなんて思いもよらない。孔を引き裂かんばかりに挿入を試みる彼の性器はこれ以上ないくらい膨張していて、熱くてしょうがなかった。
「ほんとに、ほんとうですから。嫌いになんか、ならないです」
「……白龍がそんなこと言うの、意外だな」
「へ……?」
顔に触れていた手を握られ、シーツに押し付けられた。
「俺の事、あんだけ嫌ってたのに」
「第一印象は、その、苦手でしたけど」
「それだけじゃねえよ」
「……?」
彼は汗が滴る前髪を掻き上げて、不敵な笑みを浮かべた。
「夢に出てくる白龍は、俺の事をとにかく嫌っててよ。口も利いてくれなかったんだぜ。幼馴染だっつーのに、冷たい奴だよな。まあ、それなりの理由はあんだけどよ」
「……でも俺はその白龍とは違いますから」
「そうだな。そうだった」
握られた手に力が籠った。同時に腰が揺れて、静止していた性器が再び奥へ進んでくる。
「しんどいだろ? 止めとくか?」
「いッ、いいです、おねが、止めないで」
「……白龍」
「いつもの、いつものとこ、擦ってほしい、です」
先ほども散々指で弄られた、腹の内側だ。他は何とも感じないか痛いだけなのに、そこだけは触れられると体がおかしくなる。ひっきりなしに声が出て、甘い刺激が止まらなくなって、射精感が込み上げてくる部分。
「……ここ?」
男が腰を使って、内壁を擦ってくれた。その瞬間、視界が白んだ。
「ああ、そういうことか……」
「ッひゃ、アう! あっ、あ! アッ、や、あ!」
「ここ好きだもんな、白龍」
「あッあ、すっ、好きです、あう、すき」
臀部のあたりに他人の体温を感じて、視線を下げた。脚を大きく開いて性器が剥き出しになった自身の下半身と、それからグロテスクな結合部とが、同時に視界に入った。
「は、はいって、ジュダルの、はいってる……?」
「うん、入ってる。白龍の中に全部」
「ぜ、ぜんぶ」
腹が苦しくて、どこもかしこも痛い。恥ずかしい格好をさせられて、恥ずかしいことをしている。ジュダルとセックスをしてしまっている。
色んな情報が一度に押し寄せてきて、頭はずっと混乱している。何をどうすればよいか、何と答えたらよいか分からない。繋がってしまった部分をじっと見つめていると、男が苦笑いを浮かべた。
「これからどうする? 続ける?」
「あ、はい、はいっ、さっきのもっかい、擦ってほし」
「あー、ここね」
腰を掴まれて、中を揺すられた。引き攣るような痛みが生じたが、それは一瞬だけだ。痛みを容易く塗り替え上書きしてゆく未知の感覚が、すぐさま迸るのだ。
「アッ、あ、ひゃうっ! ア、っあ、じゅだ、じゅだるっ」
「あはは。すごいな。すごい乱れっぷり」
「なかっ、そこ、そこっ! アっん、あ、止まんな、これっ」
くちゃくちゃと鳴り響く水音が耳障りだとか、腰を掴む握力が強すぎて痛いだとか。喘ぎ過ぎて喉が枯れてしまうとか、そんなのは二の次だ。今はひたすら注がれる刺激に反応を示し、全身に広がる快楽に耽溺することしかしたくない。あとは何もいらない。
全身の神経が馬鹿になっても中を揺すられ続けた。気がついたら夜はとうに更けていて、二人して時間感覚がなくなるまで性行為に夢中になっていた。
これが自分とあの男――ジュダルが明確に一線を超えて、後戻りできない場所まで行き着いた瞬間だ。この日を境に自分たちは頻繁に会うようになり、誰にも知られてはならない関係を築いていった。
行為を終えて、シャワーを借り、身支度を済ませ、ジュダルの家を出たのは夜の十時を過ぎていた。
翌日は学校だからさっさと済まそう、なんて言っていたのはどこの誰だったか。当の本人はばつが悪そうな顔をして、家の前まで送らせてほしいと頼み込んできた。一瞬断ろうかと考えたが、制服姿で夜道をうろついていたら補導対象になる。だからこの日は言葉に甘えて、家の前まで送ってもらうことにした。
人気のない夜道は等間隔に設置された街灯と自販機の明かりだけが頼りだ。日中とは違って人の往来が一切なくなる夜の住宅街はしんと静かで、どの家からも話し声すら聞こえない。
二人分の足音だけが響く空間で、ジュダルがふと思い出したかのように声を発した。
「なあ。白瑛はともかくとしてよ。お前の兄ちゃん達、元気にしてるか?」
「え?」
「白雄と白蓮。顔は似てるけど性格は正反対だったよな、あの二人。しっかり者で真面目な長男と大らかで明るい次男……」
「一体何の話を」
まるで古くからの馴染みみたいに、ジュダルがぽつりと零した。しかし彼は自分の兄弟に会ったことなど一度もない。写真も見せた覚えはない。
「白龍。お前、火にまつわる事故に巻き込まれたことはあるか?」
「何なんですか、さっきから急に。変ですよ」
「いいから答えろよ」
「……小さい頃に、少し……」
ジュダルは立ち止まって、両肩を掴んで来た。
「いつ、どこで!」
「こっ声が大きいですよ」
腕を振り解こうとしたが、赤々とした瞳に睨みつけられると抵抗も出来なかった。
「昔、家族でキャンプに出掛けたときに、火の不始末か操作を誤ってしまって。近くに居た俺が少し、火傷を」
「でも、痕は残ってないな」
「家族がすぐ助けてくれて、病院で治療したので。今は後遺症もありませんし」
「それって顔の左半分か?」
男の顔を思わず見つめてしまった。
見上げた先、彼の背後にあった夜空は真っ黒で厚い雲に覆われていた。だが、その雲間から月の明かりが見え隠れするようになる。星も見えない宵闇で煌々とした月光が妖しく映った。
「なんで、分かるんですか?」
「俺が知ってる白龍は火傷痕を隠しもしてなかった。大火事に巻き込まれて瀕死の重傷を負ったからな。当時の治療法じゃ完治は無理だろうし。時代が違うからか」
「俺は……」
貴方が夢に見る白龍とは違う人間ですよ。そう言いかけたが、先に声が被さってきた。
「白雄と白蓮は今どこで何をしてる?」
「わ、分からなくて」
「分からない?」
肩を掴んでいた両手に力が籠った。きりきりと痛む。
「連絡を取ろうにも繋がらなくて。メッセージを送れば既読はつくんですが」
「玉艶……お前の母親はなんか言ってる?」
「元気だけど仕事で忙しいからと……というより、なんで俺の母親の名前まで」
「……あの女、ここでも生きてんのか……」
彼はやれやれと首を振って、細く長く息を吐いた。
「白龍。気ぃつけろよ。あの女、俺が知ってる中でも一番おっかない人間だ」
「ジュダルの夢でも出てくるんですか?」
「ああ。全部アイツのせいみたいなもんだ」
恨み言を吐く男は、そう告げて体を離した。掴まれていた部分は未だに痛むが、どこか殺気立つ隣の存在が気掛かりで何も言えない。
「夢の内容と現実が微妙にリンクしてて気味が悪い」
「ジュダルの夢の話は他にももっとあるんですか?」
「ああ。お前が豆粒みたいな頃から戦争を起こすまでの記録、全部話せるぜ」
大股で歩き出した男の背を追いかけた。
夢の内容は膨大らしい。自分の肉親の名や幼少期の出来事等を次々と言い当てられて、少し興味も沸いてきた。掻い摘んで話を聞けたりしないだろうか。なんたって夢の内容とこの現実世界が、全くの無関係とは言い難いからだ。
「その話、もっと聞いてみたいです。俺の兄たちにも関係ありそうですし」
「白雄と白蓮は、なぁ……」
彼がそこまで言いかけて、立ち止まった。
「あれ? お前の家、明かり点いてる」
指さした先には、予め伝えていた自宅の二階部分だけが見えていた。そこには明かりが漏れる窓があって、場所から察するに空き部屋だ。今は使われなくなった姉の部屋である。
「今日は母さん帰ってくるって、言ってなかったような」
「時間やべえぞ。どう言い訳する?」
「いや、姉さんかもしれない。とにかくここからは俺ひとりで行けます」
自宅がもう見えてきた。あとは知っている道を少し進めば帰れる。
時刻は十一時前だ。中学生の子供が一人でこんな時間まで遊び呆けていたら、どんな親でも心配するし怒るだろう。いちおうスマートフォンの通知を確認してみたが、メッセージは受信していなかった。なら、ただの電気の消し忘れだろうか。
「ジュダルこそ平気ですか。こんな真っ暗な道を一人で……」
「ああ? 俺は夜間学校とか、夜勤バイトで慣れてっから。つか他人の心配してる場合かよ」
背中を叩かれて、早く行け、と促される。自分はそれ以上どうすることも出来なくて、ただ頷いて帰路を辿るしかなかった。
一本道で別れたあと、振り向きざまに彼の背中を見た。月の明かりに照らされた後ろ姿は初めて見るはずの光景なのに、どこか既視感を感じずにはいられなかった。
おそるおそる玄関扉の鍵を開けて、扉を引いた。家の内側から夜間のセキュリティロックが掛かっていたら動かない筈だが、扉はすんなりと開いてくれた。
「た、ただいま」
廊下の向こう側に誰が居るか分からないが、声を掛けてみた。しんと静まったままの空間は人の気配を感じさせない。
じゃああの明かりは、ただの消し忘れということか?
いっそ消し忘れであってくれと祈る気持ちで靴を脱ぎ、廊下を突き進む。リビングダイニングを隔てるすりガラスから光が漏れていた。物音はしないが、リビングに誰か居る。
「ただいま……」
小さく声を発しながら扉を開けた。
その直後、視界に入ってきたのは思いもよらぬ光景であった。
「おかえり白龍!」
「遅いじゃない、もう。こんな時間までどこ行ってたの」
「噂の新しいお友達とつるんでたのかぁ?」
最後に彼らの姿を見たのは何年、何か月も前だった。記憶にある容姿とはずいぶんと印象が異なっていたので、瞬時に誰なのか、頭が理解するのに数秒要した。
「おい白龍、もしかして俺の顔忘れた!?」
「そっそんなことないよ、蓮兄さん」
「ならどうして怖がってるんだ。信用ならないか?」
「雄兄さんまで。少し驚いただけだから、その……」
肩を組まれてたたらを踏むと、反対側から体を支えられた。自分より上背のある彼らを見上げるとほんの少し、輪郭や表情に昔の面影を感じた。
「白龍が驚くかなって思って、敢えて黙ってたのよ」
「でも反応薄くね?」
「ちょっと現実味が、無さすぎて……」
その場でもう一度見上げた。顔だけはそっくりだと揶揄されてばかりいた兄二人が、今この瞬間、一堂に会している。
自分が小学校に上がったばかりの頃に長男が、数年後には次男が実家から離れて暮らすようになった。離れて暮らすとはいえ同じ国内、距離的にも会おうと思えば電車や車で会える距離だ。長期休暇の際には度々家族で集まっていたが、その機会は徐々に減っていってしまった。
気がついたら顔どころか声も聞けていなかった。今までどこで何をしていたのか。どうして連絡が途絶えていたのか。会えなかった間、変わったことはなかったか。同じ家族なのに他人以上に疎遠になっていた。そこまで遠ざかっていたことに、理由はあるのか。
「あれ? まさか白龍泣いてる?」
「なっ泣いてなんか……」
「白雄、可愛い弟を泣かすなよ」
「そっくりそのまま返すぞ白蓮」
二人の下らない掛け合いに白瑛が笑っていた。
傍から見ればなんてことない、内輪ノリのやり取りに聞こえるだろう。だが自分にとっては何よりも掛け替えのない、唯一の居場所なのだ。この家で生まれて育ったことがこんなにも幸福だったかと、忘れていた感覚が呼び覚まされる。こんな自分にも帰る場所があって、家族が居て、大切に思ってくれる人が居るのだ。そのことをすっかり忘れていたらしい。
「ひとまず今日は時間も遅いし寝るか」
「なあ、俺たちの部屋ってまだ使える?」
「布団の残りがまだあったかしら」
「もし無かったら白蓮が床で寝たらいい」
「白龍! 白雄がひでーこと言うから俺と一緒に寝ような?」
目の前で繰り広げられる下らない悶着に自分は微笑みだけを零して、思わず聞き入っていた。
ふだんは一人きりで過ごす家の中が一気に明るく賑やかになって、まるで自分の家じゃないみたいだ。そのことが堪らなく嬉しくて、自分はまた泣きそうになった。