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Previous Singularity 8話

 肌寒さに体が震えて、手近にある布団を引っ掴んだ。
 足元に絡まっていた夏用の掛け布団を持ち上げて被り直そうとしたとき。腰のあたりに何かが巻き付いてきた。
「ジュダル」
「……どこ行くんだよ」
「さ、寒いから、布団を」
 一人用の布団じゃ二人分の体を覆うには心許ない。他に毛布はないのだろうかと周囲や足元を見遣ったが、薄暗い部屋じゃ判別がつかない。
「ジュダル、離れてください。動けないです」
「……嫌だ」
「ジュダル?」
 背中にすり寄ってくる男は自分より一回り以上大きい。腕はやや細いが、上背があるぶん脚は長いし、背中も広い。まるで抱き枕にでもされている気分だ。腰のあたりに巻き付かれた両腕に力が籠り、息が苦しい。
「……変な夢を……」
「夢?」
「たまに見るんだ」

 男の口から発せられる告白は、聞いたことがない話だった。夢見が悪いなんて初耳だし、ここまでしおらしい彼は見たことがない。
「昔からたまに……最近は落ち着いてたけど、また酷くなってきた」
「それは、どんな」
「白龍に似てる人がよく出てくる」
「……」
 まったく分からない。男はぽつりと呟いたあと、黙り込んでしまった。
 空は既に白み始めていたようで、レースのカーテンから俄かに朝日が差し込んでくる。その眩しさに顔を顰めながら、この状況からどうやって脱出しようかと悩んだ。



 昨晩は酷い目に遭った。記憶の断片を遡るが、痛くて辛くて苦しくて、快楽など二の次の自分勝手な性行為を強いられた気がする。
 まだ指しか挿れたことがない肛門に膨張した性器を捻じ込まれて、気持ちがいいとか良くないとか、それ以前の問題だ。自分は泣きじゃくって悲鳴を上げて、嫌だ止めてくれと再三懇願していた。だが男は聞く耳を持たず、というよりこちらを気遣う余裕もなかったのだろう、真っ赤な顔をして腰を打ち付けてきたのだ。まるで獣のようだと、その時初めて彼に恐怖心を抱いた。
 捕食者の如く眼光を光らせていた彼に、自分は為す術もなかった。これほどまでに執着心を抱かれていたことにも驚いたし、どうして彼がそこまで必死になるのか、理解し難かった。訳が分からないまま揺すられて、時折悪戯するみたいにこちらの性器を擦られるなどして、強烈な痛みと微かな性感のさなかで自分は気を失っていた。
 そして朝方の冷たい空気に寒気を感じて目を覚ましたのが、つい十分ほど前の出来事だ。

 腰に巻かれた腕の力は一向に弱まってくれない。そういえば風呂に入っていないし、夕飯も食べ損ねたので腹が減っている。母親は家に帰っていない筈だから外泊はバレていないだろうが、消化する予定だった家事が溜まっている。ずっと彼の部屋でじっとしているわけにもいかない。

 徐々に回り始めた思考回路の片隅で、男の言葉を思い出す。
「俺に似ている人って、それは俺じゃないんですか?」
「俺が知ってる白龍はお前だけだ。あの白龍はお前に似てるだけの奴」
「……?」
「顔の半分に大きな火傷痕があって、もっと威圧的で、目の下に隈がある」
「それは、俺とは別人ですね」
「でも……何でだろうな。すごく懐かしい感じがあって、すげー会いたくなる」
 何も身に纏っていない体同士をくっつけて、脚が絡まった。冷たい爪先が脹脛のあたりにくっついて冷たい。逃げようとするとさらに追いかけられるので、もう諦めた。
「それで、嫌な夢ってどんな内容なんですか」
「……俺と白龍が、悪いことしてる」
「悪いこと?」
 子供っぽい口調に笑ってしまいそうになった。いつにない気弱な声色は彼が本調子じゃないことを如実に知らせる。
「大勢の人を殺して、従わせて、戦争をしてる」
「……」
「俺も白龍もボロボロなのになんであんな、戦ったりしてんだろ」
「……昔に観た映画とか漫画の影響じゃないですか」
 そうこぼすと、そんなわけあるか! と大声で遮られた。
「ガキの頃からだぜ。何回も同じ夢を見続けてる」
「よほど猟奇的でグロテスクな映画だったんでしょうね」
「だから映画じゃねーっつの!」

 彼の証言は信憑性に欠ける。だって夢の内容なんて、当事者にしか分からないからだ。
「そんなに悩まれてるなら睡眠外来を受診したほうがいいんじゃないですか。俺に愚痴るよりもよっぽど建設的な解決法ですよ」
「……誰にも話したくない」
「俺に今話したじゃないですか」
「白龍が初めてだ」
 自分は思わず閉口してしまった。

 どうして彼は自分にだけ、これほど心を許すのだろう。彼の気質を考えれば誰とでも気安く打ち解けて、交流関係も広く見えるのだが。親友や相談相手と呼べる者など他にも居そうなのに、彼は年下の子供にこうも縋ってくる。
「初めてお前の顔を見たとき、俺分かったもん」
「何が?」
「夢に毎回出てくる俺の相棒だって。一目見て分かった。背格好は違うけど、でもお前が俺の白龍だって」
「名前がたまたま一緒なだけじゃ」
「違う。お前は本当に、あの白龍なんだ。俺の、俺だけが知ってる……」
 先細る声が布団に吸い込まれて消えてゆく。だがこの至近距離だと確かに分かるのだ。男がいつになく取り乱し、すすり泣いていることが。
「白龍」
 か弱い声で名前を呼ばれた。自分はこんな彼を知らない。知らない人と話している気分だ。
「本当はお前と接点を持つ気なんてさらさら無かったんだ。本当に。実際、塾で関わる機会もなかったしな。お前も俺のことは苦手だったろ?」
「……」
「でもよ。担当替えがあったとき、お前と初めて話して確信した。お前はあの白龍だって、やっと見つけれたって……」
「じゃあ俺にこういうことをするのは、貴方の夢の登場人物に俺が似ているからですか」

 寝返りを打って顔を見合わせた。
 男は今にも泣きだしそうな顔から一変し、目を見開いたまま硬直していた。

「俺は目の前に居る今のジュダルしか知らないのに」
 体を押し退けようと軽く肩を押したが、びくともしなかった。それどころか腕が絡みついてきて、抱きすくめられる。
「それはただのきっかけ。今の白龍は俺の夢に出てくる奴と、そっくりだけど違う人だ。それはちゃんと理解してる」
「ならどうして髪を伸ばしてほしいと言ったんですか」
 軽く身を離すと、項垂れた表情があった。
「どうして俺に、こいびとになろうと言ったんですか」
「……」
「俺は貴方が探してる白龍じゃない。代わりが欲しいなら他所を当たって、」
「お前を身代わりにするつもりなんかない! 最初は声だけでも聞けたらいいと思ってた。でも今のお前が、……」
 彼はそこで言葉を切った。何かを言い惑う仕草が目立つ。
「一人ぼっちで、行く当てもなくて、寂しそうだったから。昔の俺に似てて」
「昔の?」
「変な夢のせいでガキの頃の記憶が殆どない。たぶんアレを現実だと思い込んでたせいだな」
「……変わった子供、だったんですね」
 なんとか返答を絞り出したが、変に取られてないだろうか。別に、彼の幼少期を馬鹿にする意図は全くないのだが。
「ずっと、夢に出てくる人に会ってみたかったんだよな。まあ探したところで夢の話だし、誰も取り合ってくれなくて、一人じゃ遠いところにも行けないしで、早々に諦めたんだけどよ。居るかどうか、生きているかも分かんねーし」
 実在するかも分からない人物を探すのは途方もない労力を要するだろう。周囲の大人たちが、しょせんは子供の言うことだから、と聞き流すのも無理はない。
「……それで念願叶って、ついに俺を見つけたと」
「やっぱり実在したんだって、俺は俺を慰めたかったぜ。まあさっきも言ったとおり、夢のお前と現実のお前とじゃ別人みたいなモンだけどな」
「……」

 軽い口調だった。
 彼は先ほど申し訳なさそうに弁明していたが、あれはただの言い訳なんかじゃなく純粋な本心だったんだろう。自分は頭ごなしに、咄嗟にそれを否定してしまった。
「夢で何度も会ったから、既視感があった白龍に近づいたのは事実だ。でもそんなのはただのきっかけで、今は目の前のお前が……」
「……?」
 男は気まずそうに視線を外して、口を噤んでしまった。
「今の俺が、どうかしたんですか」
「いっいいんだよ、それは別に! それよりもさぁ」
「……」
「白龍こそ、よく俺をすんなり受け入れたな? 最初はあれだけ嫌がってたのによ。どういう気の変わり様?」
 わざとらしく話題を逸らしてきた。言葉にすると都合が悪いんだろうか。男の顔色を窺うが、相手は仰向けに寝返りを打ってしまった。

 朝焼け色を帯びた空が徐々に日中の色へ移り変わってゆく。カーテンの隙間から差し込む朝日に目を顰めていると、彼は小さく笑った。
「まあお互い、口にしたくないことを無理に言う必要はねぇだろ。お互い様ってことで」
「俺は言ってもいいですよ」
「ちょっとは空気読めよ、お前」
「ジュダルが言いたくなければ別に、今はそれでもいいです」
「……」
「他人に気にかけてもらえたのが久々で、ちょっと安心したというか、嬉しかったんです。親も兄弟も今はすぐに会えないし、俺はこのとおり、一人ぼっちだったから」
「……」
「一人で何でも出来るようになって、一人でも生きていけると自分に言い聞かせていたんです。でもやっぱり寂しくて、他の同年代が羨ましかった」
 いつの間にか首だけをこちらを向けていた男が、ゆっくりと瞬きを繰り返していた。肩からずり落ちた布団をかけ直して暖を取ると、彼もそれに釣られて布団を被り直した。
「隣の芝生は青く見えるってヤツ?」
「そうかもしれない。……でも今はジュダルが居るから平気です」
「そんな簡単に人を信用して大丈夫か?」
 ごろりと寝返りを打って、悪い笑みを浮かべてみせる。
「お前、俺に何されたかもう忘れたか? 次は無事じゃ済まねえかもな」
「……」
 どうして彼が自身をそこまで悪く見せようとするのか、自分には分からなかった。露悪的な振る舞いは今に始まったことじゃない。わざと人の気を悪くさせたり、嫌味っぽいことを言って嫌われようとしている節すら感じる。
「でも夢の話を教えてくれたじゃないですか。誰にも言ったことがないんでしょう」
「作り話だって言ったら?」
「今更信じませんよ。下手な嘘は止めてください」
 他人に必要以上に踏み込まれるのが嫌なんだろうか。だから常に嘘くさい笑みを浮かべ、広くて浅い交友関係を築こうとするんだろうか。いくら体裁を取り繕えても、中身は空っぽなのかもしれない。
 そして今の自分が、かつての彼によく似ているらしい。しかしそれが何を意味するのかは、まだ釈然としない。

「ジュダルの見る夢に、俺以外の人は出てくるんですか?」
「ああ。たまにな」
「その人たちを探そうとは思わなかったんですか?」
「顔がおぼろげなのと、ちょっと……」
「ちょっと?」
 彼は暫し言葉を選んでいた。
「なんつーか、変わった格好をしてて。白龍もだけどよ、他の連中はもっと変!」
「変……?」
 自分が首を傾げている間に、男はその場から起き上がって何かを探していた。すぐ後にあったあった、と声が聞こえる。どうやら枕の下敷きになっていた携帯端末を探していたらしく、彼はそれを慣れた手つきで操作していた。
 その動きを遠目に眺めていると、これだよこれ、と言いながら端末の画面を見せてきた。
 画面に表示されていたのは一枚の画像だ。
「これは、中国の衣装ですか?」
「シンかミンか知らねーけど、たぶんな。こういうヒラヒラした格好をしてて、全員髪が長え。そんで、でっかい城に住んでる。みんな剣とか槍とか持ってて、いかにも戦国時代て感じ」
「小さい頃に時代劇を見たことは」
「ねーよ、興味もねえわ。俺は理系だからな」

 歴史科目は昔からからっきし苦手だそうで、大嫌いだと豪語してみせる。古代の中国王朝の国名すらあやふやな男に、時代劇でよくありがちな服飾の知識など皆無に決まっているだろう。
「大きい城というのは、どんな」
「こう、瓦が乗ってて、横に広くて、入り口にでっかい階段があって、中は入り組んでて迷路みたいな……」
「……それは、こういう建物ですか?」
「あっ、それそれ!」
 自分は彼の端末を借り、とあるワードで画像検索した結果を見せてみた。
「なんて調べたんだ?」
「故宮ですよ。中国王朝時代、皇帝が住んでいた要塞で国家の中枢です」
「皇帝」
 検索結果の画面を指で触れて、スクロールしたり拡大したりしている。初めて文明の利器に触れた子供みたいな仕草だ。その横顔を眺めていると、彼は小声で知ってる、と呟いた。
「正門から入ってまず見える建物が本殿、白嶺宮だ。式典とか宮中行事を開いたり、家臣や文官を集めて会議をする。皇帝はこの奥に座って、隣には常に側近や護衛が立っていて」
「じゅ、ジュダル?」
「この中庭で槍術や剣術の稽古がある。宮廷専属の師範が雇われてて、代々流派を守りつつ伝えているんだと。この傍にある書物庫は医学書や歴史書、あとは地図とか文献ばっかでつまんなかったな。倉庫の裏にはでっけー桃の木が植えられてあってさ、俺はよくここで昼寝を」
「ジュダル。さっきから何の話を」

 男の肩を揺すって、虚ろになっていた目を見つめた。

「何って、夢で見たことがあるから」
「ふつう、そこまで鮮明に覚えられるものじゃないですよ」
「まあ……それもそうか……」
 彼は視線を元に戻し、故宮の内装などの画像をぼんやりと眺め始めた。
「出されるメシはどれも美味かったな。夢に出てくる白龍は料理が抜群に上手くて、点心も麺類も杏仁も、何でも作ってくれた。でもこいつの姉ちゃんがさ、壊滅的に料理が下手でよ。確か名前が、白瑛……」
 そこまで言いかけた男が口を閉ざした。
「なあ。今の白龍にも姉ちゃん居るんだっけ……」
「……」
 自分たちは目を見合わせて、暫く言葉を失っていた。



 洗濯機が動く音を聞きながら、足元で僅かに見えるフローリングにしゃがみ込んでいた。
 今日は朝から快晴だ。洗濯日和で、布団を干しても一日ですっかり乾く天気だという。何気なく点けたテレビで誰かがそう話していた。
 背後でガタガタと揺れる洗濯機から意識を逸らし、ベッドに凭れたまま動かない男を見た。部屋の電気も点けず、窓から入ってくる自然光を背中に浴び、ただひたすら天井を仰ぎ見る。まるで抜け殻みたいだと思った。
「お前の兄ちゃん二人の名前も当ててやろうか」
「結構です」
「じゃああいつらは」
 洗濯機の振動音がうるさくて、声が聞き取れなかった。え? と尋ねると、男は神妙な面持ちで答える。
「第一皇子の紅炎、そのあとに紅明、紅覇と続いていて」
「誰の名前ですか?」
「白龍から見て義理の兄ちゃんだな」
「義理、の……」
 コウエン、コウメイ、コウハ。知らない、聞き馴染みのない名前だ。
 だが義理の兄弟と聞いて、心当たりが全くないとは言い切れなくなった。母親には再婚相手の夫が居て、その間に子供を設けている。名前や性別、年齢も知らない。だが三人ほど産んでいるとは、姉から話で聞いたことがある。
「心当たりがあるみてーだな」
「……」
 自分の家族構成まで彼には話していない。ましてや実父は既に逝去しており、母親は再婚相手の家族との時間を優先し、今の自宅を留守にしがちだ、なんて込み入った事情も。楽しくない話題だし、誰かに打ち明けたところで現状は変わらないのだ。
「ジュダル自身の話はないんですか?」
「俺? 俺かぁ」
 そこまで刻銘に夢の内容を覚えているなら、自分自身のことも分かるはずだ。しかし彼はどこか歯切れの悪い口調で、こう打ち明けてくれた。
「なんつーか、こう……不思議な力を……使えたらしい」
「不思議な力?」
「何だったんだろうな、あれ」
「……」
 きっと本人にしか分からない現象だ。彼もそれが何なのか釈然としていないようで、首を傾げながら自身の手のひらをじっと見つめていた。
「東洋魔術とか、怪異とか……中国なら占いや風水も信じられていますよね」
「魔術……そうだ、魔術だ」
「え?」

 彼は唐突に立ち上がると、こちらまで歩み寄って威勢よくこう宣った。
「俺、魔術を扱えたんだよ。それもすっげー強くてさ、なんでも破壊できるし空も飛べるし、みーんな強すぎる俺のことを怖がってて」
「……」
「雷落としたり、氷の柱を降らせたりさぁ。火も水も地面の草木だって、俺は何でも自由自在に操れたんだぜ」
「…………」
「だから俺はこう呼ばれてたんだ、黒い太陽ってな!」
「あの、少し休んだほうが」
「俺は疲れてなんかねーよ。むしろ絶好調だぜ」
「そうですか。なら、何よりです」
 背後の洗濯機が静止し、電子音が鳴り響いた。様子を見てみると、脱水まで完了したらしい。あとは洗濯槽の中身を取り出して、狭苦しいベランダに洗濯物を干すだけだ。
 薄っぺらい夏用の掛布団とマットレスのカバー、あとは枕カバーの一人分一式。これらを取り出して両手で抱えて、ベッド横の窓を開け放った。何も掛かっていない薄汚れた物干し竿は日の光を浴びている。
「俺の話信用してねーだろ」
「魔法を使って空を飛んで、とても楽しそうですね」
「本当だって! 本当に魔法みたいな、不思議な力を使えたんだって。今の俺はただのニンゲンだから、もう使えねーけど」
「そりゃあ使える筈がないでしょう」
 ベッドによじ登り、物干し竿に布団を掛けた。風に吹かれたせいか、微かに洗剤の匂いが漂う。
「夢の俺は姿かたちこそニンゲンだったけど、中身は全く違う。俺はちょっと特別な能力を持って生まれて、だから不思議な力が使えたんだ」
「へえ……」
「世界で俺含めて三……いや四人だったか? とにかくすげー強かったんだって」
 湿った布団とカバーを干してようやく窓を閉めた。男は相変わらず夢の話を掘り下げて力説してくる。

 一気に現実味のなくなった夢物語に、自分は内心呆れ始めていた。なんたって魔法が使えるだの、俺は強かっただのと、下らない空想話に付き合わされている気分だ。幼少期から悩まされていたという悪夢(?)に同情はするが、それとこれとは話が違う。まるで見知らぬ誰かの武勇伝を聞かされている気分だ。
「布団も干し終わりましたし、そろそろ帰りますね」
「もうちょい居ろよ。遅くなったけど朝飯食おうぜ」
「いや、俺は家に帰ってやることが……」
 身の回りに忘れ物がないかを確認して立ち上がると、男が引き留めてくる。しかも客人に布団を干させておいて、礼も詫びも寄越してこない。
「釣れねえな。俺の話、もっと聞いてみたくねーの」
「……兄の」
「うん?」
「さっき、俺の兄の名前が分かると言ってましたよね。当ててみてくださいよ」
 玄関口へ移動しながら尋ねてみた。日は十二分に高くて、窓から入ってくる自然光だけで部屋は明るかった。

「白雄と白蓮だろ?」

 振り向くとうっそりと微笑む顔があって、いっとう不気味に見えた。



 近くまで送っていくから、という強引な誘いを断って一人で帰宅した。彼の下らない自慢話に付き合っていると、馬鹿馬鹿しくなってくる。心配して損をした気分だ。
「白雄と白蓮……」
 告げられたふたつの名前には大いに心当たりがある。実兄二人の名前と音がまったく同じなのだ。
 戸籍謄本を取り寄せれば家族の氏名くらい割り出せるだろうが、赤の他人が役所でそう簡単に発行出来るはずも無い。この突拍子もない夢の話に信憑性を持たせる為、あの男がわざわざ? いや、現行の行政上の仕組みでは不可能だ。委任状の準備や捺印が必要になる。



「あれ? 部屋に明かりが」

 家の前まで着くと、カーテンを締めていた筈の部屋が明るく見えた。室内の照明が漏れているらしい。
「もしかして」
 玄関口に繋がるドアのノブを回した。鍵は内側からかけられておらず、すんなりと開いてしまった。
 時刻は昼の手前だ。太陽が頭上の高い位置にあり、すっかり夏の手前を感じさせる気候である。
 だが冷や汗が止まらなかった。なんてったって、週末の夜は誰も帰宅していないと想定していたのだ。だから大胆に無断外泊をしてしまったわけだが、今は誰かが帰ってきている。携帯端末に着信は一通もない。メッセージも届いていない。
 母親ならたぶん、心配して着歴のひとつくらい残すだろうか。中学生の子供が連絡もなしに朝から帰ってこなかったら、何事かと思うだろう。それとも朝早くから塾か学校に向かっていると仮定して、帰りを待っているのだろうか。

「……ただいま……」
 おそるおそる扉を開けて靴を脱いだ。玄関に並んでいた靴は母親の物ではなかった。
 廊下を進んで奥にある扉を開けるとリビングダイニングに繋がっている。すりガラス越しに人影が見えたので、中の様子を窺うようにそっと開けてみた。



「……姉さん?」

 台所に立つ後ろ姿は少し懐かしい雰囲気がした。
 自分の呼びかけに彼女はすぐさま反応し、振り返って笑顔を見せた。後頭部でひとつに束ねられた長い髪の毛がさらさらと揺れる。
「白龍、おかえりなさい。お昼ご飯を作ってるんだけど、食べる?」
「え? あ、うん」
 コンロに鍋を置いて何かを煮ているらしい。匂いはするが、なんの料理かは想像がつかない。
「どこかに遊びに行ってたの?」
「え、っと」
 肩に掛けていた鞄を椅子に置いて、シンクで手を洗っている最中だ。隣に立っていた姉は鍋の中身を杓子でかき混ぜて様子を見ながら、なんとなしに尋ねてくる。
「今朝帰ってきたんだけどね、母さんはともかく、白龍も居なかったから」
「……」
「別に怒らないわよ。母さんにも言わないし」
 鍋の中身を横目で覗き見した。茶褐色の液体状のスープに野菜と見られる固形物が浮かんでいる。
「……うん。ちょっとだけ、遊びに行ってて」
「ふふ。そうだったのね。白龍が珍しいわね」
「最近、友達ができて……」
「そうなの! 同じ学校の子?」
「いや、塾の人……」
 もう使わないまな板や包丁を洗剤で洗って、食器棚から新しい食器を取り出した。こうして二人分の皿を用意するのはとても久々な気がする。箸とスプーンとコップも食卓に並べた。
「へえ。どんな子?」
「どんな……」
 母親ならまだしも、姉になら少しくらい話してもいいような気がした。勿論本当のことは言わない。友達という枠をとっくに超えてしまっていること、年上で、あまり学校にも行かずアルバイトに明け暮れて、不規則で乱れた生活をしていること。そんな人とつるむのは止めなさいと言われたら、自分は立つ瀬がなくなる。
「お喋りで友達が多くて、理系で、頭がいい人だよ」
「ふふ。その人とはどんな話をするの?」
「学校の話とか、勉強のこととか」
 嘘は吐いていない筈だ。肝心な部分を言ってないだけで。
「そう。引っ込み思案な白龍がお喋りなお友達と仲良くなるなんて、なんだか意外ね」
「まあ……俺とはタイプが少し違うかも」
 姉はコンロの火を止めて、杓子で中身を掬った。予め用意していた大きめの深皿に出来立ての料理を移してゆく。が、パッと見ただけではそれが何の料理なのか分からない。
「姉さん、それは」
「肉じゃがを作ってみたの。ちょっと水の量が多かったかも」
「はあ……」
 最悪、野菜や肉類に火さえ通っていればたいてい何でも食べられる。味付けや見た目は二の次だ。

 冷蔵庫に保存していた常備菜を小皿に移し、炊きたての白米を茶碗によそった。これで一見、きちんとした食卓には見えるだろう。姉は上機嫌で椅子に座ったので、自分も向かい合わせで座った。姉弟揃って食事をするのは久々だから、それだけで満足な気もする。
「うん、美味しい。じゃがいもも芯まで味が染みてるわ」
「そ、そう」
 白龍も食べてみて、と熱烈な視線を受けてしまった。大ぶりなじゃがいもを箸で切り分けて、緊張しながら口に運んだ。
 はっきり言うと、姉の料理の腕前は壊滅的だった。レシピどおりに作ればいいものを、謎のアレンジを加えたりするし、分量や調理時間を誤るし、何かとそそっかしいのである。しかし本人にその自覚はあまりないようで、自分で作った料理には基本的に自画自賛をする。
「うん。きちんと煮えてるよ」
「よかった」
 かなり遠回しな表現で褒めておいた。味付けに関しては言及できない。久々の家族団らんに水を差す気にはなれなかった。

「ねえ、さっきのお友達の話。写真とかないの?」
「写真?」
「ええ。一緒に遊びに行ったりしてるんでしょう」

 小鉢に盛ったほうれん草の煮びたしを口に運び、ゆっくり咀嚼していた。自分とまったく同じ、口元にあるほくろに何となく視線が吸い寄せられる。
「写真は撮ってないよ。女子同士でもないし」
「そうなの。どんな顔の子か見てみたかったわ」
「姉さん……」
 自分は少し呆れたような口調でそう呼んだ。
「あははごめんなさい。だって久々に弟の顔を見れて、友達が出来たって報告も聞けたんだもの。私だって嬉しいわ。兄さんたちも同じ反応をすると思うわよ」
「兄さんたち……」
 よく分からない味の肉じゃがを口に放り込んで、姉の顔を見た。
「仕事、相変わらず忙しいのかな。姉さんは連絡来てる?」
「いいえ。便りがないのは良い便りって言うけど、ちょっと心配よね」
「姉さんのところにも連絡ないんだ……」
「たまにメッセージ送るんだけどね。返事もないし既読もつかない、電話も出てくれないし。母さんはやり取りしてるのかしら」
「さあ……」
「さあ、って。白龍はしょっちゅう母さんと顔を合わすでしょう」
 透明なグラスに入った麦茶を一息で呷って、姉が目を釣り上げた。
「しょっちゅうって言っても、毎日は帰ってこないし。先週は二回くらいしか顔見てない」
「じゃあ殆ど一人ってこと?」
「まあ、うん。でも家事はひととおり覚えてるし」
「そういう問題じゃないわよ」
 姉はいったん箸を置いてから、こちらに向き直った。
「毎日一人でご飯食べて、家に帰っても一人で、って寂しいでしょう。姉さん、もっとこっちに帰って来ましょうか。たまにならご飯も作ってあげられるし、たとえば週末とか」
「お金も時間もかかるし平気だって。俺も塾がある日は帰りが遅くなるし、夏休みは殆ど夏期講習で家空けるから」
 食器棚の隅にある卓上カレンダーをちらりと見た。あと二か月もしないうちに学校は夏季休暇に入り、休暇中は希望者のみ対象の補講があったり、塾は夏期講習も実施される。なんだかんだと慌ただしくなる夏休み期間、姉がせっかく戻ってきても家は無人だろう。
「でもお盆中はどこも休みになるでしょ? 近場で出かけてみたりしたくない? 兄さんたちもお盆なら戻ってくるかも。会社だって休みになるだろうし……」
「に、兄さんたちも?」
「まあ、もしかしたらだけど。私は夏休みだから調整できるわ。何なら母さんも誘って」
「……母さんは来ないと思うよ」
 茶碗に残った最後の米粒を平らげて、自分は思わずそう返してしまった。

 あの母親ならきっと、自分たち家族より”あちらの家族”を優先するに決まってる。だから週末の土日に限らず盆休みだろうとこの家には戻ってこない。忙しい風を装っているが、電話口の向こう側では自分の見知らぬ家族と団欒を過ごしているに違いないのだ。
 何度か、カマをかけてみたことがある。電話口の彼女に対し、今どこに居るの、とか。声が聞こえた気がするけど、傍に誰か居るの、とか。今は何の仕事をしているの、とか。
 いずれの質問にも母親は明確に返答できず、しどろもどろになりながら誤魔化された。きっと息子の自分にすら本当のことを言えない、深い深い事情があるんだろう。それを察することが出来ないほど、自分はもう幼くない。
 自分たちは見捨てられたんだと、いつからか明瞭に感じるようになった。帰宅する頻度が減り、食事が用意されなくなり、一日一本あるかないかの電話だけでやり取りを済まされて。姉は母の帰りを待っているようだが、自分はもう疲れてしまった。
「そんなこと……きっと忙しいのよ。今の会社も長く勤めているようだし、頼りにされ過ぎているのかも。私たちももう手がかからなくなってきたし、働くのが好きなのでしょう」
「俺は別に、どっちでも。それよりも友達と遊ぶほうが楽しい。約束も反故にされないし」
「……」
 姉もそれ以上何も言えないようで、口を閉ざしてしまった。
「兄さんたちが戻ってくるなら俺も予定を合わせるようにするよ。それで兄弟みんなで集まれたら、どこかに行こう。海でも、山でも、遊園地でも、どこでもいいよ」
「そうね。私も久々にみんなで集まりたいわ。兄さんたちに連絡入れてみるから、白龍もやってみて」
「ああ、うん……」
 そこで会話がちょうど終わって、食器を片づけた。何でもない、のどかな日曜の午後だった。



 自室に戻って端末を開いた。
 兄二人には何度かメッセージを送っているが、ここ数ヶ月は返事が滞っている。既読は数日、数週間経てばいつの間にかついているので、事件とか事故には巻き込まれていないんだろう。なら尚更、せめて絵文字やスタンプのひとつくらい返してくれたらいいのに。
「夏休み……」
 八月のカレンダーを眺めていたら自然と独り言が漏れていた。兄弟で集まって過ごすのは一体いつぶりになるんだろう。
 一番上の兄と自分は十歳以上離れている。自分が小学校に上がった頃には、下の兄は大学卒業手前で就活も終わっている状態で、一番上の兄はとうに就職し実家を出ていた。小学生の頃、とくに低学年の時なんかは学校行事があれば見に来てくれたり、長期休暇の際も度々帰省はしてくれた。しかしいつの頃からか帰省の頻度は減り、連絡もなく、顔を見せてくれなくなった。
 自分も進学し環境が変わり家に居る時間が格段に減った。姉もとうとう実家を出てしまったし、以前のように家族が一同に集結することは難しいんだろう。自分には計り知れない各々の事情、とやらがあるのかもしれない。

 端末を操作して、人気の観光地やレジャー施設なんかを調べてみた。あまり遠出をしない性分だから、そもそもどこに何があるかもよく知らないのだ。
 海が見える浜辺でバーベキューやマリンスポーツに興じたり、山登りをしてキャンプやアスレチックを楽しんだり、遊園地や水族館に行くという手もあるらしい。どれも自分はやったことがないか、幼少期にしか経験がないので記憶がない。
 なんとなく興味があるサイトのリンクをコピーして、兄にメッセージで送ってみた。そして、もし夏休みにこっちに戻ってこれるならここに行ってみたい、と言葉を添えた。
 届くかどうかも分からない返事が待ち遠しい。何度も何度も画面を開いては、なかなかつかない既読にもどかしい気持ちになる。追加で送りたくなるメッセージを我慢して、いつからか途絶えてしまった兄との会話履歴を眺めていた。自分はただひたすらに、兄弟でまた集まれる日が訪れることを祈るしかなかったのだ。