Previous Singularity 5話
それは、文化祭の担当割り振りの名簿が回された瞬間であった。
自分は地獄のどん底に突き落とされたような心地になった。
クラスの中で数人が選ばれる実行役員に、大変不本意ながら自分が選出されてしまったのである。
(あれだけやりたくないと担任にも伝えていたのに!)
放課後だったり昼休みに呼び出され拘束されがちな実行役員という肩書きだが、毎年誰に託されるかは担任の匙加減による。たとえば運動部に所属していて朝から放課後まで練習に明け暮れている生徒だとか、前年に役員を経験していた生徒なんかは除外されがちだ。
逆を言えば、大きな仕事を任されたことがなかったり、放課後時間が空いてそうな生徒には白羽の矢が立つ。自分がまさにそうだ。
この手の学校行事にどれだけ積極的に参加していたかは内申点にも響くから、熱心な生徒は立候補するだろう。しかし自分のような日陰タイプの、消極的な生徒は進んでやりたがろうとしない。この法則は世の常である。
他に選出された生徒の名前を眺めたが、どいつもこいつも目立ちたがり屋ばかりだ。いっそのことやりたい奴らだけで勝手にやればいいのにと思う。こちらを巻き込まないでほしい。あるいは名簿に名前を貸すだけで、会議の集まりや意見交換に一切干渉しない立場でありたい。
学校行事はおおむね、目立ちたがりで声が大きい生徒たちにスポットライトが当たりがちだ。楽しんだ者勝ち、とはまさにそのとおりで、最初から最後まで浮足立つ雰囲気にも馴染めない自分にとっては他人事なのだ。頼むから巻き込まないでほしい。言いたいことはその一点のみである。
「白龍くん、私も実行委員になっちゃった。よろしくね」
声が聞こえて顔を上げた。自分の前の座席に座る女子生徒が振り向きながら、そう言って笑いかけてきたのだ。
「ああ、うん」
「めんどくさいよね。早速今日の放課後集まらなきゃいけないんだって」
「……」
配布された用紙の裏側に、文化祭当日までのスケジュールがざっくりと記されてあった。
当日までに入念な打ち合わせが必要になるようで、先のことを考えるだけで肩が重くなる。せめて合唱コンクールとか、日帰り遠足くらいの、短期間で終わる行事に携わっておきたかった。
今はまだ一学期の折り返しだ。文化祭は夏休み明けの二学期になってから開催される。それまでの数か月間、自分には実行委員の肩書きが付き纏うのだ。
もう一度、配られた実行委員の名簿を見つめた。自分をより億劫な気持ちにさせたのは、主体的に動いてくれそうな生徒の名前がなかったことだ。
リーダーシップを取れる生徒が居れば物事は進みやすいが、受け身で消極的だったり、あるいは面倒くさがって逃げ癖がある生徒ばかりが集まると、話は一向に進まない。誰かが主導しないとクラスの出し物や役割分担、予算の策定など出来ないだろう。
ひとまず今日の放課後で、誰が全体の指揮を執るかを決めるだろう。
自分は絶対に御免だ。
放課後の教室に残っていたのは自分と、前の席の女子、この二名だけだった。ちなみに委員に選出されたのは自分たち含めて計五名である。
「他のみんな、サボって帰っちゃったみたいだね」
「な、なんで……」
「ひとまず今日は私たちだけでどうにかするしかないのかな」
「明日担任に相談しよう。でないとたぶん、俺たちに全部押し付けられる……」
別紙に記載された実行委員のやることリストを眺めて、自分は絶句した。これを全部二人でやり遂げろというのはあまりに酷だ。今日の打ち合わせをサボった罰として、他の三人には多めに仕事を割り振りたい。
「白龍くんはどういう出し物がいいと思う?」
「……ベタだけど飲食系とか。家庭科室の調理器具やホットプレートを借りれたらさほど難しくない気がする」
「いいねそれ。ホットドッグとかクレープとか、作るの楽しそう」
「何を作るかはクラスでアンケートを取ってみてもいいかもしれない」
「そうだね。そうしてみよう」
「……」
彼女は頷いて、ノートにメモを取っていた。
「明日さっそくホームルーム中にアンケート取ってみようよ」
「あ、ああ」
「白龍くんは前に立って喋るの苦手?」
「まあ……必要となれば引き受けるけど、……」
彼女は時折こちらの顔をちらりと見ては、視線を下げて目を逸らす。その仕草がどうにも気になった。
つい我慢ならず、自分は素直に尋ねてしまった。
「あの。さっきから俺の顔に何かついてるか?」
「え?」
「いや、見られてる気がして。俺の気のせいならいいんだ」
彼女は少し困ったような顔をして、小声で打ち明けてくれた。
「白龍くんとは席が近いのにあまり喋ったことがなかったから、ちょっと緊張してるのかも」
「緊張?」
「うん。だって白龍くんカッコいいし……」
「……」
どう返せばよいか分からず閉口すると、彼女はたちまち顔を赤くしてノートを閉じてしまった。机に広げていた他の筆記用具も筆箱に仕舞いこんで、次々と鞄に放り込んでゆく。その慌ただしい様子に、自分は面食らってしまった。
「わ、わたし、今日はもう帰るね。他の三人も居ないし、続きは明日のホームルームにしよう」
「ああ、うん」
「じゃあね白龍くん、また明日」
また明日。こちらがそう言い切る前に、彼女は座席から立ち上がり、教室を飛び出してしまった。
なにか良くないことを言ってしまっただろうか。やはり尋ねるべきではなかったのだろうか。女子はおろか同級生たちと密接になれた試しがなかったので、距離感や話し方がいまいち分からない。
モヤモヤした疑問を抱えつつ、自分も程なくして誰も居なくなった教室を出た。
この日は塾の予定を入れてなかったので、そのまま自宅に直帰しても良かったのだが。
自分の足は無意識のうちに、男の家に向かっていた。
昨日の続きだと言わんばかりに執拗に求められる接吻に、自分はひとつひとつ応えるので精一杯だった。静かな室内に響くのは自分の息遣いだけで、彼は顔色も変えず涼しげな面持ちでそれをしてくる。余裕がないのはいつだってこちらばかりだ。
「きょ、今日学校で」
「うん」
「文化祭のクラス委員に選ばれてしまって」
「へえ」
「俺のほかに四人居るんですけど、放課後の打ち合わせに来たのは俺ともう一人だけで」
「はは」
「こんな調子で、う、うまくいく気がしないです」
「……」
昨日も寝転んでいたベッドで彼と並んで寝そべりながら、今日の出来事を愚痴った。どうせ家に帰っても誰も居ない。話し相手になってくれるのは奇しくもこの男だけだ。
窓も締め切られたワンルームで、男の影がゆっくりと伸びた。目前に覆い被さってくる体からそれとなく視線を逸らすと、顎を取られる。こっちを向け、目を逸らすな、というメッセージだろう。
「舌出してみ」
「え?」
「いいから」
言われたとおり控えめに舌を突き出すと、すぐさま相手の舌先とぶつかった。くちゃ、と唾液が混ざる音が鳴って、そのあとは舌を思いきり吸われた。
「んうっ、ふ、ん」
口の中をかき混ぜられて、頭がぼうっとした。熱くて動悸がして、落ち着かない。首の裏がむずむずして、全身が痺れる。
「はは。やらしい顔」
「ちが……」
舌先から伸びる唾液の糸を指で切ってから、男が微笑んだ。
「白龍が学校の話してくれるの珍しいな」
「……」
「もっと話してくれよ、白龍のこと」
いつもみたいにシャツのボタンを上からいくつか外して、首元から、あるいは裾の下から、手が入り込んでくる。自分の体温よりいくらか冷たい手のひらは心地よくて、少し擽ったい気もする。
「せん、……ジュダルのことも、もっと聞きたいです」
「俺?」
「ふだん何してるとか」
入り込んだ手のひらが乳首の先端を掠めた。ぞわりと奇妙な感覚が喉元からせり上がってきて、吐息が漏れる。
「趣味とか、好きなものとか、あと……」
「……」
「どこで生まれて、どこで育って、どんなご両親だったか、ご兄弟はいるのか……」
「他には?」
乳首を摘まれた。会話の最中なのに、あっと声が出る。
「こ、こういうことは、他の人ともするんですか……」
「こういうことって?」
彼が身を屈めた。もしやと思い、反射的に身構えた。しかし唇が素肌に吸いつくほうが早く、痺れるような甘い波が全身に広がる。
「あうっ、あ」
「白龍、答えろよ」
「やっ、あ!」
縺れる舌を動かそうとするが言葉にはならない。意味のない母音が続く中で、彼がようやく胸から顔を離した。
「白龍」
「だっだから、その」
胸元にあった手のひらが下へ下へとずれてゆく。臍のあたりまで下降したところで、男がこちらを見上げた。続きはまだかと、赤い視線が訴えてくる。
「……触ったり、キスを……」
そこまで言いかけて、男の両手がベルトを緩ませようと動くのを見た。自分は咄嗟に、何をするんだと声を上げていた。
「何って。ここ触ってやろうと」
「な、なんで。俺は男ですよ。何か勘違いしてるんじゃ」
「……」
男が目を細めて、ゆっくり顔を近づけてきた。起き上がっていた上半身は再びベッドシーツに寝かされて、襟足の生え際を撫でられる。
「お前だけだよ」
「え?」
「さっきの質問の答え」
頭の中で整理するより先に、唇を噛まれた。視界が覆われて何も見えなくなる。歯列を割って入ってきた肉厚な舌が口腔を踏み荒らし、無遠慮に唾液を注ぎ込んでくる。無茶苦茶な接吻に意識が混濁してゆく。
這わされていた下半身の手のひらが再び動き始めた。身じろいだが覆い被さる体が邪魔で、うまく手足が動かない。それどころか男の手がスラックスの中、さらに下着の内側へと伸びてくる。
俄かに兆していた性器を取り出されて、緩く扱かれた。
「んうっ、う! うう!」
肩を押し返し、背中を蹴るが微動だにしない。それどころかすり合わせた舌がさらに激しく動いて、くちゃくちゃと卑猥な音を鳴らす。外気に触れた性器は男の右手に包まれて、律義に反応を示していた。
「ぁや、あっ、あ!」
「普段は自分でしてんの?」
「あうっ、ひゃ、ア」
「俺の話無視すんなって」
離れて行った顔は苛立ちを滲ませて、こちらを見下ろしてくる。荒々しく手筒で扱かれて、ちっとも優しくなんかない。けれど明確に本能が脳裏で告げてくる。これは気持ちのいいことだ、と。
「しな、しないですっ、しない」
「へえ。なんで?」
「は、恥ずかしい、から……」
「……」
先端を親指で捏ねられて、腰が浮き上がった。指で作った輪が幹を擦り上げるたび、腰のあたりにぞわぞわとした感触が走る。明け透けな表現をすると、どれもこれも気持ちが良くてしょうがない。それは決して口にしたくない本音だ。
脚に引っ掛かっていたスラックスと下着が取り払われて、いよいよ下半身は剥き出しの状態にさせられた。シャツの裾を引っ張って隠そうにも、すぐに制されてしまう。
「もういきそう?」
「やだっ、み、見ないで」
「俺に指図すんじゃねーよ」
「あっ、ごめ、ごめんなさ、あ」
反射的に口から出た言葉だったが、彼は許してくれそうにない。しかし人の目の前でこれ以上みっともない姿を晒すのは御免だ。いくら同性だからって、膨らんだ性器を触られる今の状況も受け入れ難いというのに。
先端から滲んだ体液が彼の指を汚していた。ぬちゃぬちゃと響く水音が耳にこびりついて離れない。自分の上がった息も、変な声も全部、全部なかったことにして聞かないでほしい。
「見ないで、ジュダルっ、あ、おねがい、み、見ないで」
「白龍」
「じゅだ、あっ、やだ、やだぁ」
「……」
「じゅだる、アっ、あ、やだっ、や」
再び下りてきた唇に吸い付かれたあと、すぐに離れた。間近に見えた彼の顔には薄っすらと汗が滲んでいて、珍しいと思った。
「我慢せずさっさと出しちまえば?」
「でも、でもっ」
「いいから。ちゃんと見といてやるよ」
「やだっ、いやだ……!」
あまりの恥ずかしさで顔を両腕で覆っていた。同時に全身が熱くなって、頭の奥が真っ白になる。体が思うように動かず、意識するよりも先に、肩や背中が数回びくびくと跳ね上がっていた。
耳元に注がれる低い笑い声に、羞恥心がますます膨らんだ。全身の倦怠感や虚脱感、後を引く快感の余韻に意識がぼうっと遠退く。
この感覚はおそらくだが、射精後の倦怠感だろう。
「すげえ量。ほんとに普段から抜いてないんだな」
「みっ見ないで、くださ」
「なんで? 今の白龍、すげーエロくて可愛かった」
「……」
自分と同じように、彼も隣に寝そべってきた。シングルベッドに男二人が並ぶのはひたすらに窮屈だが、今一番言いたい文句はそこじゃない。
「……俺は男ですよ。可愛くなんか……」
肩を引き寄せられると、脱力しきった上半身が自然と男の胸元に凭れかかる。自分は疲労感で指一本も動かせず、されるがままで彼の体に身を預けた。
シャツ越しに聞こえてくる鼓動は彼の心臓の音だ。とくんとくん、と少し速い気もする拍動がある。見上げると機嫌の良さそうな彼の表情があって、鼻歌を歌いながらティッシュで手を拭いていた。なんだか居たたまれず、咄嗟に顔を背けた。
下半身は何も身に着けておらず、上半身は肩に羽織っただけのカッターシャツ一枚のみ。おおよそ人様の家でしていい格好じゃない。気恥ずかしさは拭えないし、早く服を着たい。
「まあ確かに、腑抜けたツラにはなったよなぁ」
「え?」
「文化祭の実行委員だっけ? んなことで悩めるくらい、今は苦労もなくて平和なんだな」
「……?」
なんだか納得いってないような、不満げな表情を見せてくる。頬に触れてきた手が輪郭を掴み上げ、目線が合うようにされた。
「今の白龍は腑抜けだな」
「今の俺?」
意味が分からず首を傾げていたが、彼は結局答えをくれなかった。目を背けてそっぽを向いたあと、黙り込んでしまう。細められた赤い目が何を映しているのか、自分にはさっぱり分からない。心ここにあらず、という面持ちだ。
「どういう意味ですか?」
「内緒」
何も教えてくれない静かな横顔を、ただ黙って見つめることしかできなかった。こんなに近くに居るのに、想いはずっと遠くにあるらしい。
悔しいような、寂しいような、微妙な気持ちになった。そんな本心は悟られまいと、自分は必死に平静を取り繕っていた。
家に帰ると、今日も不在の予定だった母親が夕飯を作って待っていてくれた。急遽家に寄れることになったので、たまにはと思って料理をしていたらしい。こちらの帰りが遅くなることはとくに伝えていなかったが、塾で自習していたと嘘を吐いた。着衣に乱れもなかったので、バレることはなかった。
勉強と学校と塾の話をした。文化祭の実行委員に選ばれてしまったこと、学校で習う勉強は難しくないが時折計算ミスをしてしまうこと、塾の担当が少しの間だけ変わっていたこと。取り留めのない話題ばかりだが、母親は楽しそうに相槌を打ってくれた。
男の家に行っていることは伏せた。名前の一文字も話題に出さなかった。その存在すら知られてはならないと思って、何も触れないようにした。
講師と生徒という間柄だけじゃ説明のつかないことをしている。素肌に触れて、キスをして、性器に触れられた。友達同士でもしないようなことを、彼とは何度も経験している。日に日にエスカレートする行為の内容に戸惑うことはあれど、不思議と嫌悪感はなかった。彼は自分の知らないことをたくさん知っている。行為を通じて彼のことももっと知れたら、悪いことばかりじゃないと思う。
友達をやめて、恋人になろうと言われた。それはふつう、好き合う者同士が自然とそういう関係になるものだろう。今日からなろう、と言われて果たして恋人になれるのか、自分はよく分からない。
彼は自分のことが好きなのだろうか。だからそんな世迷い事を口にしたんだろうか。確かめるすべもなく、ずるずると今の関係を継続している。これが正しいことなのかも分からぬままだ。
彼のことが好きなのかと問われたら、実感はない。好意の種類も曖昧なままだから、好きや嫌いを語れる資格はないと思う。だから彼に気持ちを聞く勇気はないし、聞かれても上手く答えられる自信はない。
ただ、自分の中にあった男への圧倒的嫌悪感や苦手意識はいつの間にかなくなっていた。当初は目を合わせるのも躊躇ったのに、今では男の自宅に入り浸ってばかりいる。甘えてばかりいる。
鬱陶しくなったり、面倒に思われたりしないだろうか。ふとそんな不安が過って、胸が痛くなった。
「白龍、なにか考え事?」
箸を持つ手が止まっていた。取り繕うみたいに慌てて茶碗を手に取って、白米を頬張った。
「課題、あとでやらないとと思って」
「そう? 何か悩みとかあれば相談して頂戴ね?」
「……」
「あまり帰ってこれないけど、母さんだってたまには母親面したいのよ」
彼女はそう言いながら、皿に盛られたサラダに箸を伸ばしていた。
母親のこういうところが苦手だ。母親らしく、と口にするものの。実際やっていることは元浮気相手の男、その間にできた子供たちとの団欒を優先しようとする。自分のような冴えない子供は所詮お払い箱なのだ。優秀な兄たちと比較すれば当然見劣りする末っ子に、誰が愛着を抱くだろう。
まるで居場所のない家で、肩身が狭い思いをするのはいつものことだ。だが今晩は格別に堪える。母親とこうして時間を共にするのが久々だからか。自覚はなかったが、いつの間にか反抗期が訪れているんだろうか。
逡巡し、手が止まると訝しく思われる。自分は必死に箸を動かしていた。おかげで食べ物の味はほとんど分からず、作業的に食事を終えていた。
ようやく一人になれた自分の部屋で、明日提出の課題を終わらせるべく学習机に向かっていた。
机は兄達のおさがりだが長年使用しているので愛着もあるし、使い勝手も文句なしだ。この学習机を譲ってくれた兄達は就職を機に実家を出て、今は離れて暮らしている。
兄達と一緒に暮らせなくなると知ったとき、自分は猛反発して兄たちを大層困らせてしまった。もう何年も前の話だが、未だに兄達の居ないこの家が寂しく、彼らの存在が恋しいと思う。
兄達も自分と同じく母親のことを良く思っていない。自分は会ったことがないが、再婚相手の男とも何度か顔を合わせたことはあったらしい。しかしその時も男にはあまりいい印象は持たなかったようで、母親との溝は深まるばかりだ。
亡くなった実父と暮らしてた頃は良かったと、兄弟みなが口を揃えて言う。父は家族思いでよく遊びにも連れて行ってくれたし、母親とも仲が良く、時には厳しい一面もあったが頼りになる人だったという。
家族に異変が起きたとすれば、母親が姉を産んだあたりらしい。その頃から母親は仕事が忙しくなり家を空けることが多くなったという。父親も働いていたから両親ともに家に居ない平日もあったが、兄達は大きくなっていたので、度々生まれたばかりの姉の面倒をみつつ家事を手伝うことが多くなった。
思えばあの頃の母親はやけに女性らしく着飾ったり、休日に出掛けることが増えていたと、いつかの日に兄が話していた。恐らく外出先で、今の再婚相手の男と会っていたのだろう。
が、兄達や父親はそんなこと露も知らない。父に関しては、普段は仕事に振り回されて自分の時間もろくに作れていない人だから、たまの休日くらい大目に見てやればいい、と捉えていたらしい。
程なくして末っ子の自分が生まれた。これを機に、ばらばらになりかけていた家族の結びつきが深まればいいと兄達は想像した。だがこれは吉兆などではなく、不幸の序章に繋がる契機だった。
自分が小学校に上がるより前に、実父が亡くなった。
一家の大黒柱でいつも家族の中心になっていた人だから、家族の悲しみは底知れない。が、長年連れ添ったパートナーを喪った母親だけは、その訃報を聞きつけてすぐ立ち直っていたのだという。
立ち直る、というよりも、気にしていない、と表現したほうが正しいのかもしれない。彼女は家族の前でも葬式の場でも涙の一滴も見せず、淡々と喪主を務め、四十九日の法事も済ませていた。末っ子の自分が生まれたばかりで、忙しさのせいで感情の整理やコントロールがうまくいってなかったのかもしれない。兄達はそう考えて、母親のことはそっとしていたらしい。
それから母親の口から再婚の話が飛び出したのは、実父の一回忌を待たないうちの出来事だった。
ノートに走らせていたシャーペンの動きを止めて、時計を見た。夜の十時をゆうに過ぎている。今から入浴を済ませて就寝の準備をしたら一時間はかかるだろうか。明日の朝も通常通りの登校だから、早めに寝てしまいたい。
下の階から聞こえていた物音はすっかり止んでいた。風呂場から流れるシャワーの流水音も、テレビの音も聞こえない。既に母親も寝支度を始めているんだろうか。
彼女が明日この家に帰って来るかは知らないが、自分には関係ないことだ。乳幼児じゃあるまいし、自分のことくらい自分で出来る。
すっかり形骸化してしまった家族という枠組みに大した愛着も感じず、自分は明日の時間割に考えを巡らせていた。