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Previous Singularity 4話

 赤褐色に錆びた階段を上ると、ずらりと横並びになった玄関扉が見える。郵便受けに大量のチラシやハガキが入ったままの家、ドアノブに埃が被ってある家、錆びた自転車や煤まみれの植木鉢が雑然と置かれてある家。ぱっと見じゃ住人が居るのか居ないのかも分からない、荒んだ有様のアパートの玄関口は立ち入るのも躊躇われるほどだ。
 きっと普段なら視界にすら入らないか、見かけたとしても通り過ぎるだけだろう。そこに住んでいる人の生活を想像したこともないし、したいとも思わない。まるで生きる世界が違い過ぎるのだ。

 アパートの管理人は居るんだろうが、清掃員は雇っていないのかもしれない。でないとこうして荒廃するまで放置される筈がない。大きな自然災害でも起きたら倒壊するんじゃないかと、歩くたびに軋む床を見つめて思う。
 築年数は想像すると五十年は優に超えているだろうか。建築法に詳しくはないが、現在の基準に当て嵌まるわけがないだろう。赤錆まみれの手摺は掴んだらすぐに折れてしまいそうだし、ひび割れた軒先の天井は雨漏りしている。すぐに建て替えの工事をするべきじゃないか。予算が足りないのだろうか。ここに住み着いている住人たちがどんな人種なのかは、自分はよく知らないが。

 アパートの二階の一番奥まで辿り着いて、自分は立ち尽くしていた。埃を被ったインターホンを押してみるが、反応はない。ボタンを何度か押してみるが、チャイム音はきちんと鳴っているだろうか。もしや壊れているんじゃないか。
 家の住人が留守かどうかも分からない。ドアノブを回すのも躊躇われる。ならシンプルに扉を叩いて声を掛ければいいんだろうか。物言わぬ扉に向かって、自分はおもむろに手の甲で叩こうとした。



「あ、白龍じゃん」

 トン、トン、と階段を上ってくる誰かの足音が聞こえる。同時に、聞き覚えのある声も耳にした。階段から上がってきたのは、この部屋の主だった。
「わりーな、待たせちまって」
「い、いえ。俺は別に……」
 彼は慣れた動作で郵便ポストの中身を確認してから、部屋の鍵を開けた。銀色のディンプルキーにはストラップも何もなく、代わりに銀色の輪が通され、そこに合鍵と思われる同じ形状の鍵がくっついていた。
「お前に鍵渡しとくから、今日みたいな時は先に中入っとけよ」
「えっ」
「ほら、合鍵」
 男は何の気なしに合鍵を輪から外して、それを手渡してきた。
「俺の家は盗るモン何もねーしな」
 先に玄関に上がってしまった男は、呆然とする自分の腕を引いて、早く上がれよと急かしてきた。古いアパートとはいえ共有部分の廊下で悶着していたら人目につくからだろうか。自分は言われたとおり手早く靴を脱いで、通された部屋に上がった。

 部屋とはいえ、ここはワンルームだ。靴を脱ぐ玄関スペースから一歩上がるとすぐに台所と居間と寝室が一緒くたになった空間があって、彼は一日の生活すべてをこの一室で済ませてしまう。
「そうそう。久々にベッドシーツと枕カバー洗濯してよぉ」
「……」
「ほら、こないだは床だったろ。やっぱやることやるときはベッドが一番だと思って」
 ベッドの真横にある大窓を彼が開けると、そこはベランダになっていた。下りることは出来ないようだが、物干し竿と洗濯ばさみとハンガーが見えて、彼の言うとおりベッドシーツが干されてあった。
 彼は洗濯したばかりだという寝具類を部屋に取り込んで、ベッドマットレスに装着させた。自分は居間から一歩も動けずその動作を遠目に眺めていた。
「何ぼさっとしてんだよ。鞄はそこらへんに置いといて、こっち来いよ」
「え、えっと」
「白龍」
 シーツを整えた男が振り返って、こちらに歩み寄ってくる。電気すら点いていない部屋は西日が零れる窓からの光だけが唯一の光源で、薄暗かった。
「お前の意思で俺の家に来たんだろ。まさか何も分からずに来たワケねーよな」
「それは……でも……」

 皺になるのも厭わず、制服のスラックスを握り締めた。目前に迫ってくる手のひらに顎を取られて、顔が上を向く。西日を反射した赤い瞳が感情を映さず、じっと見下ろしてきた。
「じゃあなんで来た?」
「せ、先生は俺が家でずっと一人なのを、その、心配してくださってるんだと」
「……」
「食事を御馳走してくださったり、雨宿りさせてくれて、そのことには感謝してるんです。たくさん気に掛けてくださって、ご心配おかけして、すみません。それだけは言いたくて、その、俺はここに来ました」

 体を擽られる行為はどういう意図があるのか知らない。が、それ以外の、彼から貰った恩には純粋に感謝している。
 カップ麺もコンビニ弁当も口に合わなかったが、そこに悪意はないだろう。支払いはすべて相手の財布だったし、自分は食べさせてもらった立場だ。家では殆どの時間を一人で過ごしていること、学校でも塾でも上手く交友関係を築けず孤立していること等、心配もされてしまった。だから自分の口からは、これ以上の我儘は言えない。

 自分がそこまで言い終えると、男はゆったりと瞬きを繰り返した。
「心配、ね……」
「ち、違いましたか?」
「半分当たってるけど、半分は間違い」
 手指がずれて、首筋に当たった。冷たい指先がぬくい血潮が通る首に触れて、脈を確かめるみたいに皮膚を包んでくる。
「お前が一人ぼっちなのを良いことにつけ込んでるだけ」
「へ、えっ?」
「警戒心無さすぎ」
 もう片方の手がいつの間にかシャツの裾から入り込んで、背筋を撫で上げた。薄っすら汗ばんでいた自分の肌に、冷たい手がじんわりと馴染んで張り付く。
「先生あの、俺、汗かいてて」
「うん」
「六限目体育だったんです。だからあまり、触らないほうが」
「うん」
「先生?」

 背筋から胸元に回った手が、乳首をきゅっと摘まんだ。
「着替えは大丈夫だったか?」
「アっう、ひゃ、あ」
「返事しろ」
 胸の先端をきつく抓られたり、押し潰された。くりくりと執拗にそこを弄られて、呂律が回らなくなる。
「あっん、は、はい、だいじょぶ、でした」
「ふうん。ならいいか」
 シャツの裾を大きく捲り上げて、男が顔を埋めた。筋肉が薄くついた胸板を手のひらでなぞったあと、尖り始めていた乳首を口に含もうとする。
「あ! だめっ、だ、だめ、あ」
「こんなやらしー体で、よく着替えれるな」
「ちがっ、ちが! くちっ、だめです、だめっ」
 髪を引っ張って、肩を押し返して、足を蹴った。けれど彼はそこから顔を離そうとせず、口に含んだままの乳首をちゅる、と啜った。
「あっあ! あ、やだっ」
 自然に反ってしまう腰を支えてもらいつつ、しかし圧し掛かってくる体重を支える力は自分に残っていなかった。息が上がって心臓の動悸が収まらず、呼吸が苦しい。部屋に響くやかましい自分の声はどうでもよくって、今はただ与えられる刺激に対抗する方法を探すばかりだ。
「……なんか考え事?」
「うう、う」
「無駄だと思うけど」
 ようやくそこから顔を上げた男は、ゆったりと唇を持ち上げて微笑んでいた。その勝ち誇ったような憎たらしい笑みは、相手に屈辱を味わわせるのに十分だ。
「白龍、ベッドいこうぜ」
「え、あ……」
 シャツで押さえていた胸元は未だにじんじんと熱を持っていて痒い。同じ場所ばかり触られるのは嫌だったので、自分は首を横に振った。

「じゃあ別の場所触るわ。それならいいだろ?」
「で、でも!」
「シーツも全部洗ったし大丈夫だって。痛いことはしないから」
「そうじゃなくって」
 男が言いながらベッドに腰かけた。彼がこちらを見上げる格好になって、自分はおろおろと言い惑った。
「先生はその、俺に、何をしようと」
「……」
「だって先生は塾の講師をされてて、大人で、俺は中学生の子供で……」
「……」



 ここまでされて、ベッドに連れて来られて、何をされるか全く見当もつかないほど、自分は子供じゃない。否が応でも察してしまうのだ。この先の展開と彼の思惑について。

 その行為は靄がかかったみたいに薄ぼんやりとしていて、はっきり明確には分からない。だが、これが良くないことで、周囲の人に知られたら怒られるどころじゃ済まないことだけは、何となく分かる。

「俺は成人してねーよ」
「えっと、じゃあ大学生……?」
 塾の講師アルバイトは確か、高校を卒業していることが採用の条件だった気がする。ということは、高校を卒業したばかりの大学生なんだろうか。
 自分は彼について何も知らない。知っているのは名前と、理数系の科目が得意ということ。あとは何も知らない。どこの学生だとか、出身地とか、年齢も、実はよく知らない。
「ううん、俺はまだ高校生」
「……高校生?」

 彼は座ったまま手を伸ばした。傍のテーブルから財布を拾い上げて、その中に入っている身分証を取り出してくれた。
 小さなカードは顔写真つきの学生証だった。書かれてあるのは聞いたことのない学校名で、そこには彼の名前と生年月日などが記されてあった。
「ああ、全日制じゃなくて夜間学校でよ。あんま行ってねーけど」
 生年月日の項目をよく見ると、生まれ年が自分と二年しか変わらなかった。
 二年、ということは。彼は現在高校一年生だ。
「こ、高一?」
「そ」
「しかも名前……」
「ああ、塾で使ってる名前は偽名」
 偽名!? と叫ぶと、男は可笑しそうにけらけらと笑った。
「で、でも。塾のアルバイトは高卒以上が条件じゃ」
「高校の担任が塾長と仲良くてよ、二歳サバ読んで働かせてもらってて。そういうのもあって偽名使ってる」
「先生も塾長もどうかしてるんじゃないですか……」
 まあそこには深い理由があってさあ、と男が間延びした声で話した。

 どおりで他の講師と雰囲気が異なるわけだ。年の近い友人同士みたいな馴れ馴れしい振る舞いが目立っていたが、本当に年が近いとは露にも思わない。自分とは二つ違いなら、同じ学校の先輩後輩みたいなものだ。
 しかも、よくそんな若い年齢で他人に勉強を教えられる。いくら年下とはいえ高校受験を間近に控えた生徒が大半だ。彼が通っている高校は名前も聞いたことがない、進学校とも言えない学校だった。学歴にはあまり拘りがないんだろうか。
「最初は全日制通ってたけど朝起きれなくて、通えなくなって。そんで夜間か通信制にしようかなって感じで、とりあえず夜間を選んだって流れだな」
「はあ」
「まーバイトも掛け持ちできるし、こっちのが楽だな」
「先生は自由ですね」
 彼には上昇志向などなく、これといった目標もないらしい。日がな一日をのらりくらりと過ごし、のんびりマイペースに暮らしている。しがらみのない生活は少し羨ましいと思った。

「白龍、こっち来い」
「ええと」
 その場から動けずに居た自分は腕を引かれて、空いていた隣に座らされた。上背はあちらのほうが高いので、自然と見上げるかたちになる。肩に回された腕のせいで距離が縮まって、吐息が額に当たった。
「別に俺のこと先生扱いしなくてもいいぜ? だって俺たち友達だし」
「あ、で、でも」
「……それとも友達じゃ物足りない?」
 肩にあった手のひらが、シャツの上から体の輪郭をなぞった。
「ど、どういう意味ですか」
「……ふつうそれ聞く?」
 近づいた顔から目を逸らすと、耳のあたりにぬくいものが触れた。同時に、いつの間にか襟ぐりから指が入り込んでいて、胸の頂を摘まれる。
「あ、わっ分かんなっ」
「とぼけんなよ」
「分かんな、せ、せんせ」
 乳首の先端を指で摘まんでくりくりと回されると、それだけで頭がぼうっとしてしまうのだ。甘い痺れのような波が胸元から全身に広がって、やがて腰が重くなる。熱が体の中に滞留して、吐き出したい欲求に駆られる。
「白龍、俺のこと名前で呼んでみろよ」
「なまえ……」
「お前が知ってるほうで呼んでくれていいから」
 耳たぶを齧られて、首筋を舌でなぞられた。思考がぼんやりとあやふやになってゆく。何も判断がつかず、自分は元から知っている彼の名前を口にした。
「じゅ、ジュダル」
「ん。よくできました」
 じゅだる、と再度名前を呼んだ。彼は少し肌を上気させて、顔を寄せてくる。
 次は何をされるんだ、と身構えるよりも先に唇を塞がれて、息が止まった。
「い、今のって」
「……やっぱ俺たち友達やめてさ、別のにしねえ?」
「え?」
 言葉の意味を理解する前に再び唇を取られて、今度は生ぬるい息を吹き込まれた。
「恋人になろう。そしたらもっと、色んな事ができるし」
「ジュダル、いっいま、俺の口」
「ああ、うん。先にチューしてゴメンな?」

 今度は唇を噛まれて、表面を舌で撫でられた。驚いて体を引き離そうとしたが、時すでに遅しだった。上半身に這わされた腕のせいでろくな抵抗もできず、訳の分からぬまま口のあたりを舐めしゃぶられた。まるで犬に懐かれてしまったかのようだ。
 興奮しきった大きな犬のような男は、こちらを見つめてにやりと微笑む。
「白龍はこういうコトすんの、嫌?」
 尋ねられた言葉と同時に優しく押し倒された。ぼすん、と音が鳴ってベッドが軋む。顔を上げると、木目調の天井と埃が被った蛍光灯が視界に入る。薄暗い静かな部屋で、自分の浅い呼吸音だけが響いていた。
「こういう、こと……」
「たまには勉強の息抜きにさ」
「……」
 近づいてくる唇がどういう意思を持って、意図があって、そうしてくるのかはだいたい想像がつく。
「じゅ、じゅだ、ん!」
 名前を呼ぼうとした寸前で口が塞がれた。音は声にならず、くぐもった自分の声だけが耳に届いた。
「んむ、ん、んっ」
 舌先や上顎に触れたものが何なのか、考えるよりも先に口が離れた。やけに血色の良い頬の色が間近に見えて、思わず息を飲んだ。

「い、嫌じゃないです」
「うん?」
「こういうことするの、嫌じゃない、です……」
「……」

 はくりゅう、と囁かれた声に頷いて唇を薄く開いた。再びもたらされる甘い刺激に期待して、体の奥がぞくりと疼いた。



 自宅に帰ってからというもの。その日は何も手につかず、気が付いたら自分のベッドに横たわっていた。どくどくと脈打つ自分の鼓動がずっと響いたまま、なかなか落ち着かない。自然と火照ってしまう体は熱を持て余したままで、それどころかますます膨張してゆくかのようだ。

 彼の家ではずうっと、二人して飽きもせず唇を寄せあって、たまに口の中や舌を舐め合うということをした。他人と口づけをするのも、他人のぬくい粘膜に触れるのも、生まれて初めてだった。
 未だに夢の中にでも居るかのようだ。ふわふわとして落ち着かない。自分の部屋なのに居心地が悪い。あの瞬間だけは自分が自分じゃなくなったみたいで、何が起きたのか、自分が何をしていたかも、よく思い出せない。というより、深く考え込もうとすると恥じらいが芽生えてしまって、それ以上先は思い出したくもない。

「ジュダル……」

 最初はどうすればよいか分からず戸惑ったし、何故彼がそういうことをしてくるのか、理解できなかった。どうして彼は体を触ったり、口を寄せてくるんだろう。
 自分は彼と同じ男で、体のつくりも子供っぽくて、可愛くもない。誰も上げたことのない部屋に自分だけを上げた理由も、適当にはぐらかされてしまった。彼の言動は度々、よく分からない。
「あ、鍵」
 手渡されたディンプルキーは制服のポケットに入れたままだった。おもむろに取り出して目の前に掲げてみる。
 これを手渡された意図が何なのか、未だに釈然としない。いつでも来ていい、という意味なんだろうか。易々と他人に家の鍵を託すなんて非常識な奴だ。盗まれるものはないから、と口にしてたがそういう問題じゃないだろう。赤の他人に生活圏の一番内側へ踏み込ませることの迂闊さを、彼はちっとも理解しちゃいない。
「……」
 恋人になろう、という甘い響きが頭の中を支配していた。発せられた低い声が鼓膜にこびりついてなかなか離れない。ふだんはきつく吊り上がった眦がゆるく垂れて細まる瞬間の、あの笑顔が忘れられない。名前を呼ぶたびにどこか切なげに口を結ぶ、らしくない表情もだ。

「どうして……」

 どうして彼は名前を呼ぶと、あんな顔をするんだろう。自分にはちっとも想像がつかない。聞いたら教えてくれるんだろうか。自身のことをなかなか話したがらない、嘘を吐いてばかりのあの男が。

 このとき自分は初めて、彼のことをもっと知りたいと思った。