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Previous Singularity 3話

 ゆうべの雷すごかったよね、雨ひどかったよね、なんて会話がそこかしこから聞こえてくる。放課後が始まる合図のチャイム音が鳴り響く長い長い廊下で、立ち止まってお喋りをする同級生たちをかき分けつつ、自分は一直線にある方向へ歩いていた。



 昨日は結局大雨の中、ほとんど断りも入れず、勝手に人の傘を借りて帰宅した。俗っぽく言うと借りパク、と呼ばれるやつだ。背中に何度も引き留めるような言葉をぶつけられた気がしたが、あまり記憶に残っていない。
 あの家に上がってからのことがすべて、夢の中の出来事のように思えるのだ。現実味のないふわふわとした体験だった。吹けば飛ぶようなボロボロのアパート、狭苦しいワンルーム、散らかり放題の部屋と、苦手な部類の人間。ふだんの日常生活では絶対触れることがない、別の世界を垣間見た気がする。もう一度経験したいかと聞かれたら、二度と御免だと答える。

 自分が一目散に目指していたのは、いつも下校時に利用している校門だ。内申点の為だけに週に一回しか活動がないパソコン研究部に所属しているが、放課後に顔を出したことはない。
 他の部活や同好会、委員会活動に勤しむ予定もない自分は、友人と遊んだり寄り道もせず、真っすぐ自宅に帰る日々を送っている。ちなみに前述のとおり、帰宅後は家事をするか塾に行くかの二択である。



「よお白龍。学校終わったとこ?」

 校門を出ようとしたところで、ひどく聞き覚えのある声が聞こえた。呼び止められた、気がする。振り向いたら付き纏われると思って聞こえない振りをしたが、今度は腕を掴まれた。

「なんで無視すんの」
「止めてください」
「返せよ。昨日の傘」
 他にも下校をしている最中の生徒が居て、通りすがりに訝し気な視線をぶつけられる。極力目立ちたくない自分は、何てことない風を装って、歩きながら話をした。
「貸してやった傘返せよ」
「それが口実ですか?」
「泥棒のくせに強気だな。カップ麺の礼も貰ってねーし」
「俺は一言も御馳走してほしいとは言ってません」
「そういやそうだな。じゃあせめて傘返せよ」
 住宅街に続く曲がり角の道に入ってから、自分は立ち止まった。生徒の多くは大通りを通るから、ここなら人目に晒されない。
「塾で会う機会がありますし、学校で待ち伏せしないでください」
「シフト表見たら白龍と塾で会えるの来週なんだよ。そん頃には忘れてるだろ?」
「そうやってこじつけて人を追い回すのを止めてください」
「こじつけじゃねーよ。俺は当たり前のことをだな」
「俺はこのへんで失礼します」
「……あっ、おい白龍! どこ行くんだよ!」

 会話の途中だが、道のど真ん中で言い争いを続けるのも気が引ける。自分は話を無理やり打ち切って、彼を置き去りにして歩き出した。自宅までは少し遠回りになるが、細い路地裏などを使って帰路に着くしかない。

「……このままついて行ったら白龍の家行ける?」
「ついて来ないでください」
「今日は帰ったら何すんの?」
「貴方には関係ないでしょう」
「また自習?」
「答えたくありません」
「たまには外で遊んだほうがいいぜ」
「だから、しつこいんですよ……!」

 咄嗟に大きな声を上げそうになったが、何とか堪えることが出来た。静かな住宅街で大声を出したら、誰に聞かれるか分からない。
 どこかの家から下手くそなピアノの音が聞こえてくると、感情的になっていた頭が冷静になった。
「さっきから何なんですか、貴方は……」
「……白龍、スマホ鳴ってる」
「え?」
 スラックスのサイドポケットに入れていた端末が振動していた。小さなバイブ音が二人の間で響いている。念の為端末の画面を確認すると、そこには母親の名前が表示されていた。
「出れば?」
「……」
 本当にたまたまの偶然だ。それに今日は母親が家に帰ってくる日。こうやってだらだらと、彼と下らない口論をしている時間はないのだ。
「……もしもし、母さん?」



 電話を終えると、男が顰め面を浮かべていた。
「家族だろ?」
「……はい」
 電話の内容は、こうだ。今晩帰る予定だったが仕事が長引きそうで帰れそうにない。週末までには戻る、とのことだった。
「ウチ来るか?」
「なんでそうなるんですか。俺は自分の家に帰ります」
「でもまた一人なんだろ」
 踏み出しかけた足が、前に出なかった。
「カップ麺が嫌ならコンビニ弁当にしようぜ。それかピザでも頼むか?」
「お、俺は別に」
「ピザは高いし、コンビニな。俺ん家の近くにちょうどあるから」
「そっそうじゃなくて……! ちょっと腕、離してくださいよ!」
 強い力で腕を引かれて、ずんずんと前に進み始めた。引き離そうとしてもちっとも離れてくれない。どうして、と言いかけたが、結局声にはならなかった。これ以上大声で騒ぐと通報されてしまいそうだ。
 前を向くと男の背中があって、自分は納得がいかないまま彼に連れられた。



 一見、昨日と変わり映えのしない薄暗い部屋は、座布団の位置はそのままで、ごみの量が少しばかり減っていた。今朝が可燃ごみの回収日だったのかもしれない。ただし部屋全体の私物の量はちっとも減っておらず、狭い空間をより狭く感じさせた。ただでさえ広くない部屋なのだから、もっと物を減らすべきだ。
 テーブルに広げられたふたつの弁当は湯気が立っていた。コンビニの店内の電子レンジで温めてもらったのだ。
 そもそもコンビニで弁当を買ったことがない自分はその仕組みすらよく知らなかった。隣の彼にはひどく驚かれ、からかわれた。店員の居る前だというのに恥をかかされた。
「冷める前に食べちまおうぜ」
「……」
 男は一番安い幕の内弁当を選んでいた。薄っぺらい鮭と少ないおかず、油でコーティングされた白飯を口いっぱいにかき込んでいる。こんな粗末な出来栄えなら、自分で作ったほうが見栄えも味も栄養もバランス良く作れるだろう。
「人生初のコンビニ弁当はどうだ?」
「よく、分かりません」
 自分は幕の内弁当よりもおかずの量が多い弁当を選んだ。野菜と肉のバランスが良く、白米ではなく炊き込みご飯が入っている。
「でも美味そうな弁当じゃん」
「……」
 割り箸はうまく割れず歪んでしまった。安い割り箸ならよくあることらしい。
「おかず交換しようぜ。俺のからあげやるから、そっちの卵焼きくれよ」
「はあ。どうぞ」
 直箸でからあげを入れられたので、こちらも使っていた箸で卵焼きをくれてやった。
 貰ったからあげは貧相な見た目どおり、味はよく分からない。ほのかに醤油の味はするが、衣が薄くて肉が硬い。
「先生はいつもこんな食生活なんですか?」
「まあ、そうだなぁ」
「体に悪いですよ。あまり美味しくないですし」
「心配してくれんの?」
「呆れてるんです」

 正直箸は進まなかったが、会計の時に彼がまとめて払ってくれた物だ。代金を請求する言葉は一度も発せられなかった。これは残さず食べるのが礼儀だろう。
「自炊はまったくしないんですか?」
「台所狭いし、まな板も包丁もないし」
「よく生きてられますね」
「案外どうにかなるんだって」
 男は早々に平らげた弁当のトレーを洗いもせずごみ袋に放ったあと、こちらの手にあった弁当にも箸を伸ばしてきた。
「もう腹いっぱいなんだろ?」
「いや……まあ……」
 味が美味しくなくて箸が進んでいないだけなのだが、正直に言うのも何となく憚られた。米粒が硬く、既に冷めていた炊き込みご飯を口に運んだ男は、ふつうに美味いじゃん、と呟いた。
「先生は塾のバイト以外に働いているんですか?」
「まあ、たまに日雇いとか短期バイトとか。でも俺、働くの嫌いだから」
「……」
「俺の事、気になる?」
 いつの間にか空になっていた二つ目のトレーもごみ袋に放って、ついでに二膳の割り箸も捨てられた。新しく購入したペットボトルの水で喉を潤しつつ、彼は意味深な笑みを浮かべる。
「別に、そういうわけじゃ」
「聞いてみろよ何でも。そしたら俺の事、何でも教えてやるから」
「……何でも……」
 やけに凪いだ瞳に射貫かれて、自分は答えを探しあぐねた。



 塾で講師のアルバイトをしていて、理数系に強く、適当に見えて案外生徒のことを見ている。誰にでも気安く話しかけて、馴れ馴れしく、距離感がやけに近くて、他人の懐に入り込もうとしてくる。
 自分が知っている彼に関する情報はそれくらいしかない。が、とことん掴みどころがない人間だと思う。これだけ気安くて軟派なくせに、案外と彼は自身のことをひけらかそうとしないのだ。
 自身のこととは要するに、身の上話だ。家族構成とか、交友関係とか、趣味特技、苦手な物、学生時代の話、どういう生活を送っているか、等。こちらから聞けば引き出してくれるが、基本的に本人から打ち明けようとはしない。
 やはり男は薄気味悪く、危険な人間だ。何を考えているか分からない。その口から発せられる言葉のうち、どれが真実でどれが嘘なのか判別できない。常に軽薄な笑みを浮かべていて、何を考えているか想像もつかないのだ。

「自宅に招いたのは俺が初めてという話は本当ですか」
「うん、本当」
「じゃあどうしてですか」
 彼は表情を変えずに、しかし一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「……お前は他の生徒の中でもとりわけ浮いてたし……友達も居なさそうだし……それに…」
「……」
「俺の事、すっげー嫌いみたいだったから。あそこまで人に嫌われることって、俺初めてだし」
「嫌われてるって分かってて、どうして近づくんですか」
 ペットボトルに再び手を伸ばした男が、中身を一口嚥下した。その動作を何となく目で追いかける。視線に気づいた男は、わざとらしく笑いかけてきた。
「だっておもしれえじゃん。そういう困った反応とか、嫌そうな顔が見れたらよ」
「どういう意味ですか」
「白龍ってさ、クラスに好きな女子とかいねーの?」
 唐突に変わった話題に頭がついていかなかった。
「周りはもう付き合ってる奴とか居るだろ?」
「し、知らないです。興味もありません」
「じゃあ白龍は居ねえの、付き合ってみたい女子」
「べっ別に、俺はそんなの……」
「ふうん、居るんだ? 気になる子」
 テーブルに頬杖をついてニヤニヤと笑う。人を馬鹿にするような表情に、つい頭に血が上った。
「だっ大体、付き合うって何をするんですか。教室でも毎日会うのに……!」
「……」
「同級生に自慢して、ちやほやされたいだけでしょう。下らないですよ」
「まあ、それもあるかもしれねーけどよ」
 男はふと表情を消して、こちらをじっと見つめた。
「付き合ったら何するかって、白龍は知らねーの?」
「え?」
 問われた意味を聞き返すと、細い腕が肩に伸びてきた。
「それとも何。そういう誘い方してくれてる?」
「誘い方……?」

 伸びた腕に肩を押されて、背中が床に着いていた。視界には埃の被った蛍光灯と、木目の鮮やかな天井。そして次の瞬間、男の顔が入り込んでくる。

「ちょっと触っていい?」
「触る……?」
「こことかさ」
 顔の横で動いた指先が、耳たぶを摘まんだ。
「えっと」
「何ともない?」
「あ、あの」
 耳たぶを摘まんでいただけの指が、耳の穴や軟骨、耳の裏をなぞり始める。
「くすぐったいです」
「ここは」
 耳を撫でていた指が、今度は輪郭を這い、顎の下をなぞった。それから首筋、喉仏、首の裏、襟足。順番に辿ってゆく指先の動きに、意識が持っていかれる。
「あの……」
 人差し指がつつ、と首筋をなぞった。
「あっ、うぁ、くすぐったい、です」
「うん。じゃあ、こっち」
 空いていたほうの手がシャツの裾を捲って、脇腹から侵入した。腹の横に冷たい手のひらが押し当てられて、思わず声がひっくり返った。
「先生の手、つ、冷た……」
「白龍はあったかいな」
「えっと……」
 首筋を撫でる手はそのままで、脇腹も擽られる。すると体が堪え切れず勝手に震え始めるので、なんだか恥ずかしくなった。漏れそうになる声は下唇を噛むことで堪えたが、背筋がのたうって思わず身じろいでしまう。
「あっ、あう、あ、くすぐった、い」
「ああ。ここは?」
 脇腹を執拗に撫でていた手のひらが、今度は胸のあたりをまさぐった。大きく捲れ上がったシャツにはきっと皺がついているだろう。白くて薄っぺらい腹が、触れられる手の動きに合わせてびくびくと痙攣していた。
「な、何して」
 ばらばらに動いていた指先がぴたりと動きを止めた。
 次の瞬間、びりびりと鋭い電流が走った。

「ッ、い、いた……!」
「痛い?」

 目を開けて視線を下げると、男の指が乳首を抓り上げていたのだ。痛いかと問われたので、素直に首を縦に何度も振った。それから痛いです、と何度も口にした。
「痛いだけか?」
「ッい、いた、いたいっ」
「本当に?」
 抓っていただけの指先が、今度は先端を抉るようにして沈んだ。爪の先で乳頭を押し潰されて、今度こそ口から大きな声が出た。
「ほっ、ほんとです、ほんとにっ」
「嘘吐くんじゃねーよ白龍」
「あっ、なんで、なんでぇ」
 いつの間にか両方の手で胸を弄られていた。じくじくと広がる痛みは、やがて全身の末端にまで波及する。いたい、いたい、と何度か叫んでいた気がするが、彼はそれを止めてくれなかった。

 どうして急に、こんな酷いことをするのだろう。僅かに目を開くと、そこにはぐつぐつと濁った色の瞳を浮かべる男が居た。抜け落ちた表情のまま、白龍、と低い声で名を呼ばれる。
「正直に言えよ」
「イっ、あ、いたッいぃ!」
 目に浮かんでいた涙のせいで視界が滲む。なんと答えれば解放してくれるのかも分からず、自分は頭を振り乱すばかりだ。
 やがて近づいてくる男の頭に、反射的に顔ごと背けていた。
「白龍」
 耳に直接吹き込まれる声に、背筋がびくんと跳ねた。湿っぽい男の声に心臓がひっきりなしに音を立て、全身の血が一気に沸騰する。

「どうなんだよ。正直に言え」

 そう言うや否や、彼はこめかみのあたりに唇を押し付けてきたのだ。驚いた自分は大声を上げたが、それでも止めてはくれない。
 こめかみに触れた唇が耳を撫でて、舌先のようなぬめった物が耳の穴を弄った。くちゃくちゃと奇妙な水の音が直接頭に響いてきて、気がおかしくなりそうだ。
「へん、へんになるっ、これ、やだっ」
「変?」
 耳元を離れた唇はさらに下降し、曝け出していた首筋を伝った。肉厚な舌が皮膚をなぞり上げて、軽く歯を立てられる。恐怖心からかひゅ、と息を吸うと、その場で笑い声が響いた。
「さすがに跡はつけねーよ」
「あ、あと?」
「キスマークって分かる?」
 薄い皮膚の上をちゅる、と吸われた。あっと声を上げると、男が低い声で話を続けた。
「耳も首も弱いなぁ」
「なっ、何、なんで」
「白龍、じっとしてろ」
 男が今まで以上にぐっと体を屈めてくる。これは何か良くないことが起こると本能で悟った。覆い被さってきた肩を両腕で押し返してみたが、うまく力が入らないのかびくともしなかった。薄手のシャツを掴んで、必死に持ち上げようとしてみるものの。布地が伸びるだけで、体はどうにも動かない。
「なにっ、な、なにす」
「暴れんな」
 胸元に顔を近づけた男は、あろうことか乳首を口に含んでしまった。

 その直後だ。脳天にまで突き抜ける刺激に、自分は為す術もなく叫び声を上げた。



「メチャクチャよえーじゃん、乳首」

 時折乳首の先端に歯を立てながら、もう片方は相変わらず指で押し潰したり抓ったりを繰り返している。自分はひたすら泣きじゃくりながら、男の前髪を掴んで抵抗を続けた。
「やだっ、これ、あ! あうっ、あ!」
「ヤダじゃねーよ。良いって言え」
「やだぁ、やっ、ッあ! ひっい、いッ」
 部屋中に自分の叫び声がこだましていた。隣の部屋にまで聞こえているかもしれない。が、今はそれを心配するよりも先に、この異常事態を切り抜けねばならない。
「くちでっ、あ! それっ、それだめ、吸っちゃ、あ!」
「吸うのが良いんだろ?」
「吸うの、あっ! やらっ、やぁ、あ!」
 じゅる、と水を啜るような音が鳴って、声がひっくり返った。
 昨晩轟いていた雷鳴なんかよりよっぽど酷い。これが自分の口から発せられる声なのかと疑いたくなるほどに。

 ようやく胸から口を離した男が、少し赤らんだ顔でこちらを見つめてきた。
「気持ち良かったろ?」
「こ、こんなののっ、どこが!」
「えー、でもよぉ」
 赤くぽってりと腫れてしまった胸はなかなか熱が引かない。明日には元の色と形に戻っているだろうか。体育の着替えで人に見られたら心配だ。
「白龍、ちょっと勃ってるだろ」
「……へ?」
「ほら、ここ」
 ほら、と言いながら彼は膝頭を使って股間を押し潰してきた。ぐり、と抉るような動きに、反応した体が大きく跳ねた。
「やっぱきもちーんじゃん」
「そんなわけ、なっ」
「じゃあなんででかくなってんの?」

 僅かばかり体重をかけながらそこを押されると、否が応でも体が震えてしまう。喉から出そうになる声を堪えて、両手で口を覆った。
 それが一体どういう意味で、どんな役割があって、どうして男の体がそうなるのか、全く知らないことはない。教科書をなぞる程度の知識だが、さすがに身に覚えはある。子供から大人に成長してゆく過程で、体も心も大きく変化するのだ。その一環で、自分の年頃になれば誰もが性機能の発達、成熟を経験する。
「一丁前に感じてんじゃねーよ」
「ちがっ、違くて」
「嘘ばっかり」
「ほんとにっ、ほんとに、違うんです、だからっ」
 前方に伸びてきた腕が再び乳首を抓り上げた。同時に股間を押されて、ひゃう、と声が飛び出た。
「ハハ。すげえ、なんだ今の声」
「アっ、あ! あうっ、や、やだっ」
「もっぺん聞かせろや今の声」
「やらっ、や、ア! あんっあ、あ」
 舌がのたうって上手く話せない。それどころか声を抑えきれなくなって、ますます彼が調子付いてくる。ぴん、と指先で胸を弾かれて、頭が一瞬だけ白んだ。
「アっ、あう! ひゃァ、あ……!」
「はは。ちょっとイった?」
「んう、うう……!」

 僅かばかり残っていたはずの理性も吹き飛びそうだった。どこもかしこも熱くてじんじんして堪らない。これ以上刺激を続けられると、とんでもないことになってしまいそうだ。具体的に何がどうなってしまうのか、自分でもよく分からなかったけれど。
 徐々に顔を近づけてくる男の動きをただ視線でじっと追っていたが、彼はふと口元の笑みを無くして、顔つきを変えた。まるで一瞬のうちに正気に戻ったかのようだ。
 硬いフローリングに後頭部を擦り付けてのたうち回っていた自分の体を片腕で支えつつ、男が平坦な声で話しかけてきた。
「もう止めにしとくか」
「え?」
「何、マジで期待してたとか?」
 股間を押さえつけていた膝が離れて、捲れていたシャツを元に戻し、いつの間にか外れていたボタンを留め直された。そしてシャツの裾はスラックスに入れて、皺になっていないかを入念に確認される。
 そうやって手ずから身なりを整えられていると、沸騰していた意識は少しずつ冷えてゆき、やがて正常な思考回路が蘇ってくるのだ。

「やっぱり期待してたんだ?」
 揶揄う調子で問われた内容に、自分は大声で否定した。
「そんなわけないでしょう! この変態! 俺が何回も嫌だって言ったのに!」
「あーはいはい。でも白龍だって気持ち良さそうにしてくれてたし」
「俺はそんなつもりじゃ」
「……白龍」

 男は唐突に声のトーンを落として、ゆったりと瞬きを繰り返した。自然と吸い寄せられた視線の先にある瞳に、赤らんだ顔をした自分がはっきりと映っている。
「またいつでも来いよ。美味い飯はねーけど、さっきみたいなことなら……いや、もっと凄いことだって教えてやるよ、お前に」
「凄い、こと」
 持ち上がった手のひらが輪郭を捉えて、親指が目尻に触れた。さっきまで薄っすら浮かんでいた涙はとっくに乾いていたが、子供をあやすような手つきで何度もそこを撫でられる。
「気になる?」
「……」
 親指がじわじわと動いて耳たぶに触れた。先ほどまで散々、舌先で舐めしゃぶられた場所だ。
「白龍も知らないこと、俺なら教えてやれるぜ。もちろん教科書には載ってないし、同級生だって知らないかも」
「……」
「気になるって顔してるぜ」
「そ、そんな顔」
 耳たぶを弄っていた指が耳の穴を抉った。途端に跳ねる体はやはり、どこかおかしいのかもしれない。だが彼は表情を変えず、淡々と言葉を連ねる。
「また来いよ。どうせ放課後は一人なんだろ?」
「……」
「俺の家を知ってる奴はお前しか居ない。バレやしねーよ」
 輪郭をなぞっていた指が顎の下を掴んで持ち上げた。至近距離に映る赤い瞳が揺れていた。自分は息をするのも忘れて、吸い込まれるかのように、ただただ紅蓮の虹彩に目を奪われていた。
「三日後、今の時間に来い。インターホン鳴らしてくれたら出るから。それでいいな?」
「……は、はい」

 一瞬、唇がぶつかるかと思った。

 だがそれは自分の杞憂だったらしい。返事を聞いた男はそれ以上何もせず、何も言わず、体を離した。
 ばくばくと鳴り響く心臓の音は聞こえていないだろうか。それだけがずっと気掛かりで、最後に見せた表情が脳裏に焼き付いて離れなかった。自分は自宅に帰ってからも、翌日も、そのまた翌日も、ずっとずっと男のことで頭がいっぱいだった。