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Previous Singularity 2話

 自分と男の関係に転機が訪れた日、都内は予報になかった悪天候に見舞われていた。豪雨と強風、それから局所的に雷鳴が轟く始末だった。

 塾の教室の窓際に集まる生徒らは外の酷い景色を眺めて、口々にどうやって帰ろう、親に電話しないと、と囁き合っていた。準備のいい生徒は鞄に折り畳み傘のひとつくらい忍ばせているだろうが、この雨風の中を傘一本で帰る勇気はないだろう。しかも酷い雷ときた。天気が落ち着いてから外に出るほうが懸命だと、ふつうなら考える。
 自分は他の生徒らの話し声を遮断し、席に座ったまま問題集と向き合っていた。外の景色は見なくとも何となく分かる。窓に叩きつける雨粒のけたたましい響き、轟く雷鳴と鋭い光が、外の酷い有様を物語っている。
 わざわざ窓際に集まるのは学習意欲の低い、集中力のない生徒ばかりだ。その顔ぶれを遠巻きに見つめて、自分は溜息を吐いた。
 やる気がないならさっさと帰ればいいし、勉強が嫌なら塾を退会すればいい。親に行かされてるというなら尚更金の無駄だ。いっそ通わずサボってくれたほうが他の生徒に迷惑もかからないだろう。
 しかし、そういう奴に限って親の迎えが手厚かったりする。車で来てくれるんだって、傘を持ってきてくれるんだって、と救済があることを口々に告げる彼らは、どこかほっとした面持ちで自身の席に戻っていった。



 授業のコマが終わったあと、外の様子を窺ってみたが相変わらずの大雨だった。帰れなくもないが、あまり外に出たくない。あいにく今日は折り畳み傘も持参しておらず、所持金も少ない。コンビニでビニール傘を買えるかどうかも微妙で、塾を出てから最寄りのコンビニまでは歩いて数分かかる。しかし傘なしで自宅まで行くとなるとびしょ濡れどころじゃ済まない。
 なかなか雨脚の弱まらない様子を窓から眺めつつ帰りの支度をした。自分の席には次の授業を受ける別の生徒が居るし、自習室は満席だった。みな、考えることは同じなのだろう。行き場を失った自分は仕方なく塾の外、雨には濡れない軒先で立ちすくむしかなかった。
 携帯で最新の天気予報を確認すると、夜遅くまで雨は降り続くんだという。ただの夕立じゃなく、予想以上に長引く大雨なら八方塞がりだ。
 いちおう母親に電話してみたが繋がらない。今日はもともと出張の予定で、自宅の冷蔵庫には作り置きのおかずが用意されている。帰らないと夕飯にすらありつけない。
 同じ塾に通う友達、なんて存在は最も縁が遠い。他の生徒たちは友達同士で傘を貸し借りしあって、なんとか帰路に着く努力をしている。自分はそうした策が用意できないから、本当にどうしようもなかった。

 塾の出入口の扉を開けて、短い軒先の下で体を竦めた。そして灰色の重たい曇天を見上げ、何度目になるか分からない溜息を吐いた。
 いっそこのまま走って家まで帰ろうか。走れば、自分の脚なら十分そこそこで着けるだろう。風邪をひくかもしれない。体調面だけは運に任せるしかないか。
 降り注ぐ雨嵐の中に飛び込む勇気を今から出そう。そうして右足を前に踏み込もうとした、同時だった。

「あれ、白龍?」

 背後から扉が開く音が聞こえて、聞いた覚えのある声が重なった。
 振り返るとこちらをじっと見つめる男が立っていて、ちょうど鞄から折り畳み傘を取り出そうとしている最中だった。

「傘は?」
「……持ってなくて」
「親とか友達は」
「……連絡、つかなくて」
「……」
「俺、帰ります。失礼します」

 閉口した男に背を向けて走り出そうとした時だ。肩を掴まれて、危うく転びそうになった。
「な、何するんですか……」
「いや、この雨で帰るのは危ねえだろ」
「でも予報だと夜までずっと止まないようですし」
 肩を掴んでいた手を振り払い、顰め面する男に向き直った。
「別に、少し濡れたってどうってことは」
「ならウチ寄る?」
 言われた意味が理解できず、今なんて? と聞き返していた。
「傘入れよ。どうせその様子だとビニ傘買う金もねーんだろ」
「……」
 さらに追い打ちをかけるように、ぐう、と腹が鳴った。自分は何も言えず、ただ俯くしかできなかった。
「飯も適当に食わしてやるから。早く来いよ」
 男は既に折り畳み傘を広げて、軒先から出ようとしていた。
「い、いいです俺は。家にお邪魔するなんて」
「俺がいいって言ってんだよ。聞き分けの悪いガキだな」
「な……」
「さっさとしろよ」
 腕を引かれてたたらを踏むと、今度は肩を掴まれた。引き寄せられる腕の力が思いのほか強く目を瞬かせると、真横よりも上にあった顔がニッと笑う。
「何?」
「だ、誰かに見られたりしたら」
「家まで送り届けてましたって言えばいいだろ。何ヤラシーこと考えてんだよ」
「だっ誰がそんなこと……!」
 雨の降りしきる荒天のさなか、男の朗らかな笑い声が空高く響いていた。



 この時自分は、はっきり言って混乱していた。困っていたところに突然男が話しかけてきて、家に来いと誘われた。所持金は心もとなく、雨はすぐに止まないし、腹が減っていた。彼の提案は一見理にかなっていると思えたが、しかしもっと簡単な方法だってある。単純に生徒の自宅まで送り届けてくれたら夜は遅くならないし、親に迷惑もかけずに済む。
 じゃあどうして彼はわざわざ家に来いと誘ってきたんだろう? 自分はそんな疑問を一切抱きもせず、大人を疑おうともせず、易々と付いていってしまった。



 案内されたのは正真正銘、男の自宅だった。彼は鞄から取り出した鍵で扉を開けて、散らかった玄関に足を踏み入れていた。それは慣れた様子で、何なら玄関に散乱する靴などを踏みつけながら、早く上がれよと告げてきた。
 しかし自分は玄関扉の奥に見えた光景に、思わず足を踏み出すのを躊躇してしまった。
「や、やっぱり俺」
「ん?」
 傘を借りて帰ります、と言おうとした。
 だが、その言葉は結局声にならなかった。

「うわっ、スゲー音!」

 ドカン、と地響きのような雷鳴が辺り一帯に響き渡った。
 迫ってきていた雷雲が真上を通過しているらしい。どこかに落ちたのかもしれないが、とにかく凄まじい轟音と雷光に照らされて、一瞬眩暈を覚えたほどだ。
「危ねえし早く入れよ。ついでに飯も用意するから」
「……」
 ついに断る口実がなくなり、むしろ外へ出歩くほうがよっぽど危険だった。早く家に入れという男の指示は真っ当で、従う以外の選択肢はないだろう。
 自分は渋々、衛生観念と生活意識が崩壊した彼の家に上がることにした。



 少々……いや、かなり散らかっていた男の家は、正直言って足を踏み入れたくなかった。

 変な虫が住んでいそうだし、悪い菌を持ち帰りそうだし、湿っぽいにおいもする。ごみは分別して捨てているのか、掃除の頻度はどの程度なのか、洗濯はしているんだろうか、と気になることが多すぎる。とにかく生活力が微塵もなさそうな有様の部屋だったので、遠慮とかじゃなく、純粋に不快だったのだ。
 よくもまあこんな部屋に人を呼ぶ気になれるものだ。一体どんな親に育てられたんだと思うと同時に、この男に深入りするのは止そうとも思った。

「適当に座っといて」
「えっと、どこに」
「だからそこの、ちゃぶ台の前に空いてるスペース」
「そんなスペース、どこにもないですよ」
 濡れた上着の水滴を玄関で払っていた男は振り向きざま、口を閉ざしていた。ようやくこの部屋が人を招くのに相応しくないと理解したんだろうか。
「……じゃあ適当に物を退かすから」
 男は床に落ちていた衣類や鞄、雑誌、リモコン、その他雑貨類を纏めてベッドの上に放り投げ、ようやく見えたフローリングの床に座布団を敷いた。どこからともなく現れた座布団にも驚くが、私物の扱いの乱暴さにも目を剥いた。
 ひとまず家主の言うことに従って座ってみた。綿がすっかりくたびれた座布団は少し汚れていて、埃がついている。
「何か食べたい物ある?」
「いや……」
「じゃあカップ麺でいいか」
「カップ麺」
 彼は台所と思わしき場所の、足元に置かれたビニール袋から何かを取り出し、居間のちゃぶ台に並べてみせた。
「どれがいい? 俺のおすすめはコレ」
「はあ……」
 ずらりと横一列に並んだパッケージに目を泳がせて、自分はため息を吐いていた。
 なんたって自分は生まれてこの方、一度もカップ麺を口にしたことがなかったのだ。そのことを告げると、彼はわざとらしく驚き、雷鳴に負けないくらいの大声で叫んだ。
「うっそだろお前、そんな漫画のキャラクターじゃあるまいし」
「悪かったですね、世間ずれしてて」
「誰もそんなこと言ってないだろ」
 彼は、テーブルに置いたカップ麺を見つめながら困った顔をしている。即席?が人生初の相手に何を出せばよいか、迷ってるんだろうか。
「じゃあこれにしようぜ。一番美味いから」
「俺は別に、なんでも……」
 男は豚骨醤油と書かれたパッケージの物を持ち上げて、台所に戻っていった。静まり返った室内にへたくそな鼻歌が聞こえてくる。自分はカーテンで閉め切られたままの窓に目を遣って、カップ麺が仕上がる前に天気が回復しないかと、祈るような気持ちでしゃがみ込んでいた。

 結論を言うと、カップ麺は口に合わなかった。彼はコレが一番美味しいと太鼓判を押していたが、塩っ辛くて脂っぽくて、腹持ちも悪く、食事には適さないと思えた。あまり正直に言い過ぎると失礼だから感想は言わず、無言で食事をした。
 そのあとはぼんやりと、家の外から聞こえてくる雨音に耳を澄ませて過ごした。雨はなかなか止みそうにない。天気予報を再度確認すると、未明までは降り続くと告知されていた。
「親に連絡は」
「今日は帰らないみたいで、俺一人です」
「毎日そんな感じ?」
「まあ、週の半分くらいは……」
 座布団の上で膝を抱えながら、素直に答えた。
「兄弟は」
「一人立ちして、実家に残っているのは俺だけです」
「みんな年上か」
「はい。俺だけ年が少し離れていて、末っ子です」
 雨音が鳴り響き続けている。けたたましい雷鳴はいつの間にかどこかへ行ってしまったようで、先ほどよりも幾分静かだ。
「学校の友達は」
「……あまり、作れたことがなくて」
「じゃあ普段は」
「家に帰って宿題とか、予習とか、あとは家事の手伝いと……」

 そこまで言いかけて、自分はとあることに気づいた。

「なんで俺ばかり質問攻めにするんですか?」
「じゃあお前も聞けばいいじゃん。俺の事」
 ペットボトルに入った冷水を飲み干した男は、気怠そうに言った。
「先生に聞きたいことなんて、別に……」
「ふうん。俺は気になるけどな、白龍のこと」
「……」
 自分も釣られてペットボトルの水を飲み干して、テーブルに置き直した。
「友達でもないのに」
「じゃあなろうぜ、友達に」
「え?」

 思わず顔を上げると、そこには微笑む男の顔があった。
「……からかってるんですか? 俺が友達、居ないからって」
「別に? 友達は多いほうがいいだろ」
 男は立ち上がってベッドのほうに向かった。今しがた放り投げていた荷物の中からテレビのリモコンだけを探し当てて、真っ暗だったテレビ画面に電源を入れた。
 静かだった室内に、見知らぬ人の喋り声が大音量で響き渡った。その直後に複数人の笑い声が。さほど大きくない液晶画面に映っている人たちは、どれも見たことがない顔ばかりだった。有名な人なのだろうか。
「そういやこのモデル、最近結婚したんだって」
「……」
「あんま興味ない?」
 男は喋りながらリモコンを操作して、次々とチャンネルを変えていった。報道番組とか、食べ物の話とか、観光名所の案内とか、スポーツ中継とか、そういう内容が放送されていた。自分はどれも興味がなかったから、テレビから聞こえてくる音声がまったく頭に入らなかった。

 家に帰って誰も居ない日でも、夕飯を食べながらテレビを見る習慣はない。一人で黙々と食事をし、手早く片づけを終えて、風呂に入り、自室に籠って翌日の授業の予習をする。平日一日のうち、与えられた自由時間はたいてい勉強か家事で消費されるからだ。
 家の手伝いは不思議と苦痛にも思わなかった。一人分の料理を作って、洗い物をして、掃除をして、洗濯をして、買い物をする。どれも自然と身に着いたから、身の回りのことはひととおりこなせる自信がある。
「先生は家のこと、何もされてないんですね」
「ああ? 俺だって洗濯とかごみ出しくらいはやるって」
「当たり前ですよ、そんなの。先生がおかしいんです」
「……白龍って俺の名前知ってるっけ」
 飲み干したペットボトルを手で潰して、可燃の普通ごみの袋に捨てていた。ごみ出しが出来ても分別は一切やらないらしい。あるいは、そもそも知らないだけか。
「存じ上げてはいますが」
「なら俺のこと名前で呼べよ。ここは教室じゃないし、それに……」
 騒がしいだけのテレビを消した彼は、リモコンを再びベッドに放り投げた。放物線を描くリモコンの行方を目で追っていると、今度は真横から声が聞こえた。
「この部屋呼んだの、お前が初めてだから」
 座布団に座り直して、こちらの顔をじっと覗き込む。彼は長い睫毛を瞬かせて、静かにそう告げた。
「初めて?」
「生徒は勿論、ダチも、女も、呼んだことない」
「どうして」
「自分の私生活を他人に踏み込まれるのが嫌だから」
「……なら、俺は」
 至極真っ当な意見だ。他人を自分の部屋に上げたくない。その感情は理解できるし、何となく共感できる気もする。だが、その心理とこの状況は矛盾している。

「白龍は……何でだろうな」
「?」
「思ってることが分かり易いから?」

 直後、視界が激しく揺れた。
 肩に回された腕が体に巻き付いて、強い力で引っ張られたのだ。引き寄せられた上半身は自力で支えられず、バランスを崩して男の胸になだれ込むような格好になった。黒っぽいシャツの胸のあたりに額がぶつかって、おそらく彼が使用しているであろう柔軟剤の匂いがほのかに香る。
「だから俺と仲良くしような、練白龍くん」
「あっ貴方なんかと、親しくしたいと思いません」
「酷いな。俺はこんなにも白龍のことが好きなのに」
「う、嘘ばかり」
 身じろいで腕を振り解こうとするが、なかなか抜け出せなかった。衣服越しに聞こえてくる他人の心臓の音が気まずい。腕から抜け出そうにも、ますます力を籠められて逃げられなかった。
「嘘じゃねーよ。本当だって」
「うそ、嘘ばっかり……!」

 無遠慮に愛想を振りまいて、好意を告げてくる人間にろくな奴は居ない。耳障りの良い優しいだけの言葉を差し出すような奴は、たいてい腹の底に一物を抱えていたり、ろくでもない思惑があったりするのだ。



 自分の母親は一人で何人もの子供を産んだが、父親役は二人居た。母親には最初に結婚した相手と、同時にもう一人愛人がおり、自分は母親の最初の結婚相手と血が繋がっている。他に年の近い姉と兄が二人おり、この三人は正真正銘の兄弟だ。
 だが母親は他に作っていた愛人との間にも子供を産んでおり、その兄弟たちとは離れて暮らしている。彼らの顔と名前はよく知らないし、実際に会ったことはない。同じ母親ではあるが、その愛人とやらを自分はよく知らなかった。会ったこともないし、声を聞いたこともない。人となりも知らない。それゆえか、自分にとって父親と呼べる人は世界に一人だけだし、母親の愛人は赤の他人だ、という意識がずっとある。

 自分が小学校に上がる前、物心が付き始めたころに、実の父は他界した。当時単身赴任していた海外の仕事現場で不慮の事故に遭ったらしい。父が勤めていた会社は度々不祥事や事故を起こしており、父の死亡事故をきっかけに倒産か吸収合併をし、会社は消滅したのだという。大人の難しい話を聞きかじった程度の知識しかないが、姉が似たようなことを話していた。
 夫を喪った母であるが、彼女は当時から関係を続けていた愛人と再婚を果たし、今も籍を入れている。だから自分の今の父親は、かつての愛人だった男なのだ。戸籍上はそうなっている筈だ。
 しかし自分は未だにその事実を受け入れられず、向こうの兄弟たちとも顔を合わせていない。母親からは再婚の相談など一切なかったし、顔合わせの機会もろくに設けられず、ある日突然口頭で事後報告を受けたのだ。その時見せられた再婚相手の顔写真は、今は思い出せない。どんな人相だったかも忘れた。

 母親は再婚相手、加えてあちらの兄弟と一緒に暮らすことを提案してきたが、自分が断固拒否したので今の生活に落ち着いている。母親と自分、それから時折帰ってくる姉との静かな三人暮らしだ。
 母親は出張だったり仕事の用事だったりと、何かと理由をつけては家に戻らない。母親は仕事が忙しいとか、会議が多いとか、よく言い訳を口にしている。だが自分はもう、何も分からない子供じゃない。その真相は別のところにあるのだ。
 実家を不在にする間、母親は再婚相手の男の家に赴き、その二人との間に作った子供らと会っている。頻度は週の半分以上だろう。明確な証拠を掴んだわけじゃないが、何となくそう察している。
 日ごと増えてゆく母親の不在は、思春期の子供なら寂しさを募らせる材料になるかと思えたが、案外自分は平気だった。平気どころか、それ以上に気楽で心地よく、のびのびと一人暮らしを許されているようで、このままでもいいとすら思えた。

 親に構ってもらえず一緒に遊んでくれる友達も居ない。それは不幸なことなのだろうか。自分は寂しい人間なのだろうか。可哀想な子供なのか。
 幸か不幸かは他人が決めることじゃないし、自分の感じ方に依るんだろう。家の事情を打ち明けると外野は好き勝手言ってくるが、聞くに値しないと割り切って、耳を塞いで目と口を閉じる。それが自分に出来る唯一の、心を守る方法だった。

 母親は美人で愛想がよく、異性からも同性からも好かれるような人だった。よく笑い、よく喋り、よく泣く。くるくる移り変わる表情と持ち前の明るさでいつも話題の中心に立っていたし、誰とでも打ち解けるし、自然と周囲の注目を集めて、人が近寄ってくる。
 それはある種の、天性の才能なのだろう。自分のような人間とは違う人種だ。自分が本当にあの女性から生まれた子供なのかと疑いたくなるほどに、彼女は常に日の当たる場所に居た。
 だからか、母親は移り気も激しく、傍若無人で、人を振り回してばかりの、少々扱いにくい気質をしていた。
 赤の他人には信じられない話かもしれないが、同じ家族という目線から見れば彼女の天衣無縫ぷりには疲弊してしまうし、子供の人生すらいとも簡単に壊してしまう。こちらに一切の相談なしで再婚することだってそうだ。彼女は自分さえ良ければいいのだ。我儘で自分勝手で横暴で、それでも人気者な母親は自身の欠点に気づかない。あるいは直そうともしない。

 好きだ、愛してる、大切にしたい、大事にしてあげる。そういう甘いだけの台詞には散々騙されていたし、辟易しているのだ、自分は。だから同じ台詞をみだりに振り翳そうとする、その男の言動に嫌な思い出が蘇ってしまった。



 自分は降りしきる雨の音を耳にしながらも、逃げるようにして男の部屋を出た。せめて自宅まで送り届けてやる、という誘いも無視して、ボロボロのアパートの階段を駆け下りていた。
 雷雲はどこか遠くに去ってはいたが、まだまだ分厚い雨雲が頭上を覆っている。まるで自分の心を映す曇天だ。



 以上が、とある夜の出来事である。