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Previous Singularity 1話

 そこは白龍が住み慣れている閑静な住宅街とは少し異なる、薄暗くて陰気な雰囲気の、下町情緒あふれる街並みだった。
 彼の家は駅から歩いて三十分。スーパーからは歩いて二十分。郵便局や病院も歩いて三十分ほどかかる。ただ、最寄りのコンビニからは徒歩三十秒だった。
 一人暮らしの社会人や主婦にとっては些か生活しづらいであろう環境は、しかしその男にとっては不便にも思わないらしい。ましてやこれ以上ないほど住みやすく、便利過ぎて引っ越しの予定は当分ないのだという。
 男は寂れた下町風景によく似合う、築年数が五十年以上経過するアパートに住んでいた。オートロックやエレベーターエントランスは存在しない。錆びた階段が地上と二階を繋ぐだけで、夜になればライトが点くことはないし、管理人が趣味で植えている観葉植物、清掃員が丁寧に掃除してくれるゴミ捨て場も、そこにはないのだ。何もない。あるのは、人間が最低限生活できる程度の、犬小屋みたいなワンルームだけだった。



 初めて部屋に上がったのは今から二ヶ月ほど前だ。梅雨の季節が始まりそうな蒸し暑い夕暮れ時。狭くて埃っぽい廊下を突き進んだ先の角部屋は、よりにもよって北向きに位置していた。
 玄関に続く扉を開けるとビニール傘が足元に倒れてきて、まったく片付いていない靴箱がお目見えした。彼は人を招くというのに部屋をまったく片付ける気がなかったようで、笑いながらごめんごめん、と口にするだけだった。
 信じられない奴だと思った。どこからかかび臭い、饐えたにおいまでする。靴を最後に洗ったのはいつだと問うと、知らない、と一蹴された。

 ひとまず玄関のような場所で靴を脱ぎ、居間に上がると、一歩先にあるのは彼の食卓兼台所兼寝室だ。ひとつの部屋に衣食住すべての機能を詰め込んだ六畳一間のワンルーム。実際目の当たりにするまで下らない冗談だと思っていたが、なんとこの世の真実らしい。まず目を疑ったあと、こんな環境で人間が暮らせることに驚いた。

 自分だったらこの居住空間で一週間も我慢できないだろう。すし詰めのワンルームという設計もだが、彼の衛生観念、健康管理、人間らしい生活に対する意識の低さが、まるで自分とは異なるのだ。生まれも育ちも違うならある程度は仕方ないのだろうか。
 そう自分に言い聞かせながら案内された部屋の奥、薄汚れたクッションの上に座ってくれと言われた瞬間。自分と彼は同じように見えて、実は違う星に生まれた異なる人種なのではないかと、思わずにはいられなかった。



 今日は、初めて家に上がったときからふた月ほどが経っていた。最初は電気のスイッチの位置も分からなかったが、今じゃたいていの物の位置も把握している。
 玄関で靴を脱いで、扉の鍵を閉めて、リビングの灯りを点ける。製造年月から数年は経っているエアコンを稼働させたのち、鞄を部屋の隅に置いて、台所で手を洗う。以前は石鹸すら設置されていなかったが、この家に通うようになってからは自分で買って設置してやった。外から帰ってきたらまずは手洗いをする。幼い頃から親に教わってきたことだ。
「じゅ、ジュダル」
 脇腹のあたりに冷たい手のひらの感触を感じ取って、思わず振り向いた。こんな蒸し暑い日だというのに、彼は自分よりずっと体温が低い。
 振り向きざまに目が合って、頭が肩に乗せられた。汗のにじんだ肌同士がぶつかる。冷房がまだ行き渡っていない室内はひどく蒸し暑く、湿気のせいか、外気温よりずっと高く感じた。除湿器などを買ったほうがいいんじゃないかと思ったが、その考えが声に出ることはなかった。
「汗、かいてるから」
「いいって」
「よくないで、あ」
 服の裾から侵入した手が脇腹のあたりをなぞっては擽ってくるので、思考がすぐさま霧散する。ついでに湿った吐息が首筋に当たって、妙な気分にもなる。
 蛇口から流れっぱなしの冷たい水が心地いいのだが、いつまでも手洗いをしている場合じゃない。すぐさま水を止めて、清潔な布巾で手を拭いてから、真後ろを陣取る男に向き直ろうとした。
「白龍、口開けて」
「へ、あ、あう」
「上手」
 言われるがまま口を開くと、分厚い舌が口腔を割り開いてくる。肩が跳ねたがすぐに抱きすくめられて、そのままずるずると体重を相手に預けるかたちになった。
 エアコンの吹き出し口から流れてくる、冷たいようなぬるいような風が頬を舐めた。しかしそれより今は、口の中で暴れる舌先で意識がいっぱいだ。頭がぐつぐつと煮え滾る。冷房の弱い風じゃ体温は下がらない。
「ふぁ、う、ふ」
 裾から入り込んでいた大きな手のひらが胸元を撫で上げて、そのあたりに浮かんでいるであろう小さな突起が指に掠った。時折悪戯のようにもたらされる微弱な刺激に、小さい声と息が漏れる。
「コレ好き?」
「ん、は、はい」
「じゃあこれは」
 じゃあ、という言葉と同時に胸を思いきり抓られた。きゅう、と指で突起を捻り潰されて、喉が反り返った。
「あッアう!」
「しーっ。ここ壁薄いから」
「でっでも、あっ、あ、うう」
 捲られた服の下から見えた自分の腰がびくびくと震えているのがよく分かる。強弱をかけながら胸を押し潰されると、目に涙が溜まって頭がくらくらした。室内は徐々に冷気で満たされつつあるのに、熱くてしょうがない。
「隣に聞こえちまうだろ、白龍のエロい声」
「んふ、う、うう…」
「そ。我慢しとけよ」
 男の肩に伸ばしていた手を外して、口元に当てた。くぐもった自分の声が静かに響く部屋で、男は妖しげに嗤っていた。
 造りが頑丈とは言えず、古い建築様式であるこのアパートは、廊下や階段の足音すら耳に届くらしい。勿論大きな話し声なら隣にも筒抜けで、テレビの音量や電話の声にも気を遣って生活する必要があるという。何とも息苦しい暮らしだ。
「ん、う、う」
「ちょっと舐めていい?」
「へ、あ、何」
 服の裾を大きく捲り上げたあと、布を持つように指示された。薄明るい部屋の照明に照らされた自分の上半身はすっかり汗ばんでいて、見られるのも触られるのも、なんだか抵抗がある。
 台所のシンクを背もたれにして立つと、男は何も纏っていない胸元に手を這わせた。薄っすらと筋肉がついているだけの、貧相な体だ。だが彼は満足げに微笑んでいる。
「あ、な、何して」
 彼は背を屈めて、胸元に頭を埋めた。まさか、と思うより先に、わざとらしく突き出していた舌先が突起の先端を抉った。
「あっひィ、いっ、あ!」
「……声、でかいって」
「あっ、でも、あ」
「これ噛んどけ」
 捲っていた服の裾を噛むように言われて、言われた通りにすると、男は吐息だけで笑っていた。
 じゅる、じゅる、と唾液で啜るような音が容赦なく聞こえてくる。きつくそこを吸われるたびに甲高い声が漏れてしまいそうになるが、服の色が変わってしまうのも厭わずに布を噛み続けた。
 自然と身を捩って逃げてしまう上半身は、彼の自由な両腕によって動けなくされている。後ろに下がろうにもシンクに押さえつけられているので、逃げ場がどこにもない。
「ンっ、ん! んう、ん!」
「そんなに気持ちい?」
「んう、う……」
 上半身から真下に下った手が、服越しではあるが股間に触れた。
 既に兆しているそこを感じ取った男は、至極嬉しそうに唇を歪める。
「今日は晩飯どこで食う?」
 服を噛んでいた口を離して、問われた内容に素直に答えた。
「じ、自宅で……」
「じゃあ指だけにしとく?」
「……」
 その問いが何を指しているのか、言われなくとも分かってしまう。僅かに生じた沈黙が自分の卑しい本心を暗に告げているようで気まずくなった。
 厭らしい視線に晒されて、じわじわと羞恥心が込み上げてくる。本当は指だけじゃ満足いかない。最後までしてほしい。挿れてほしい。そういう類の、声にはできない本音が頭を埋め尽くすのだ。
「……あ、携帯鳴ってる」
「で、出てみます」
 薄型の端末が光って、スラックスのポケットで振動していた。取り出して液晶を眺めると、そこには家族の名前が表示されていた。
「……も、しもし」
 自分が今どこで何をしようとしているかなんて、露も知らない。明るい家族の声に罪悪感を抱きながら、その用件を聞き取った。



 都内の住宅地にある実家は母親と自分とたまに帰ってくる姉とで、主に二人か三人で暮らしている。他に年の離れた兄が二人居るが、両方とも就職を機に実家を出て一人暮らしを始めたので、結果的に散り散りになってしまった。一番年の近い高校生の姉は実家からだと通学先が遠く、学生寮で暮らしている。週末などは帰ってくることも多いが、平日に実家に戻るのは中学生の自分だけだ。母親は仕事が忙しいようで、平日顔を合わせることは殆どない。父親は次男が就職した時期に、仕事中の事故で他界している。
 歳の離れた兄弟が多いせいで、家に帰っても基本的に自分ひとりだ。母親が作り置きしてくれた夕飯に加えて、自分も台所に立って簡単な自炊をすることが多い。
 元より、幼少期の頃から共働きの両親に構ってもらえたことが少なかった。比較的歳の近い姉に幼い頃から家事のひととおりを教わったおかげで、今は然程不便は感じない。

 しかし、昔は賑やかだった実家から兄弟が出て行き、自分ひとりだけになった広い家でぽつんと暮らすのは寂しい。
 一年後の高校受験を見据えて勉強は続けているが、帰ってやることといえばそれくらいだ。都内の中学校に通わせてもらえているが、学校の生徒らとは性格のそりが合わなかったりで友達は出来なかった。放課後に勉強会をするとか、寄り道して遊びに出掛けるとか、いかにも学生らしい生活にちょっとした憧れはある。あるものの。



「……今の電話相手、ねーちゃん?」
「あ、はい。今日は母親と夕飯を食べに行くらしくて、俺も誘われたんですが」
「……断ったのか?」
「……は、はい……」

 家族水入らずで過ごせる機会は早々ない。生活リズムが異なる者同士、せっかく時間が合いそうなら誘いに乗ればいいだろう。次、一堂に会するタイミングがいつになるかは分からない。
「だ、だから、夜は」
「白龍」
 名前を呼ばれて顔を上げると、優しく微笑む男が居た。
「お前って本当に悪い子だな」
 抱きすくめられて顔を下げるが、顎を掴まれた。そのまま唇を覆われて、何も考えられなくなる。

 男は、お前は悪い子だと評した。
 確かに家族からすれば薄情で親不孝な息子かもしれない。けれど目の前に差し出された甘美なご褒美が、彼の熱い手のひらや舌先が、否が応でも自分に選ばせるのだ。
「今日は床でいいか? シーツまだ洗ってなくてよ」
「は、はい。俺は、どこでも」
 制服のシャツのボタンを首元からひとつずつ外された。はだけた前身頃から手のひらが差し込まれて、乳首をきゅっと摘まれる。
「自分で脱げよ」
「あ、は、はい」
 震える指先でベルトの金具を外し、スラックスをゆっくり下ろした。靴下も脱いで、あとは下着とシャツだけの格好になる。男はこちらをじっと見つめたまま、早くしろよ、という目つきで睨んでくる。
「……」
 仕方なく下着も下ろして、スラックスの傍に置いた。下半身の大事な部分は辛うじてシャツの裾に隠れている。
「全部だ、全部」
「は、い」

 言われたとおりにシャツを腕から抜いて、適当に畳んでから他の制服に重ねて置いた。自分はそれからどうすればよいか分からず、薄明るい部屋の真ん中で、全裸のまま立ち尽くす羽目になった。エアコンから吹き付ける冷気が素肌を撫でて、少し寒い。
「じゃあそこにうつ伏せで、腰だけ上げとけ」
「……はい」
 部屋の隅に追いやられていた座布団を二枚並べた男は、そこにうつ伏せで、と要求してきた。
 自分が身じろいでいる間、彼は背後の棚で何かを探していた。何かが倒れる音やぶつかる物音がいくつか聞こえたあと、こちらを振り返った相手に早くしろ、と急かされた。
「こ、うですか」
「そうそう。もっと脚開いて」
「……う」
 少し埃っぽいにおいのする座布団に額を置いて、腰だけ突き上げる格好になった。同じように座布団に座った男が太腿を掴んで脚を無理くり開かせると、いよいよ居た堪れなくなってくる。
 これ以上ないほど情けない、屈辱的な状況だ。まだ理性が十二分に残った頭ではこの体勢を保つことさえ憚られる。
 早く孔に異物を抜き差しされて、全部ばかになって、気持ちよくなりたい。
 脳裏に過った卑しい本音はぐっと堪えて、やがて訪れる感触に耐える準備をした。



 男は意地が悪く、人を誑し込むことが得意で、口が上手くて、はっきり言えば性格が悪かった。最初は人好きのする笑みを浮かべて言葉巧みに相手の警戒心を解き、人の心にするりと入り込んでくる。どんな相手とでも仲良くなって、相手の波長に合わせることができるのだ。
 そうやって人を油断させて、良い人だと思わせて、あとでとんでもない仕打ちを仕掛けてくる。少なくとも自分は被害者のひとりだから断言できる。まんまと騙されて絆されて、もう後戻りできない場所まで来てしまった。
 最初はこんなつもりじゃなかった。彼がどこまで画策していたかは知らない。ただの暇つぶしに付き合わされたのかもしれない。
 だが既に、ただの暇つぶしという枠を超えて、自分たちは深い部分まで繋がってしまったように思う。

 一年後の高校受験を控えて、自分はこの半年ほど前から、学校帰りに寄れる学習塾に通わせてもらうことになった。どうしても学校の勉強だけでは受験範囲をカバーすることが難しく、個別指導で比較的自由にカリキュラムを組める塾を選んだ。学校帰りに寄れるということもあり、同じ学校の生徒もちらほら居た。
 だがここは学校の教室とは違う。自習室には他の学校の生徒も居るし、超難関校への受験を目指す生徒も居る。毎日通う教室とは雰囲気の異なる、勉強熱心な子供が集う学習塾は学校に比べて居心地が良かった。
 塾にも不真面目な生徒は居たが、講師にすぐ注意され追い出される。安くはない受講料を払っているのだ。他の生徒の学習機会を奪うのは言語道断だし、やる気がないなら出て行けばいい。そういう方針の下で運営されていた空間は、自分の肌にとても合っていた。

 しかしひとつだけ、不満があった。何人も居た講師の中でたった一人、どうしても合わない講師が居た。

 彼は数学や物理、化学など、数理系科目の幅広い分野を教えるアルバイトの講師だった。他の講師は寡黙で生真面目だったり、人当たりが良く優しかったりするのだが、彼だけは毛色が違った。
 軟派で気取った言動をし、講師にしては砕けた立ち振る舞いで、生徒らに対して同学年の友人のように接していた。塾の生徒同士の私語を注意するどころか混ざってみたり、一緒に悪ふざけをしたり、雑談を振ってみたりと、その言動は講師然としていない。本人はあくまで正社員じゃなくバイトの身だから、とヘラヘラしていた。
 真面目な生徒の目には、その男がどう映っているかは言わずもがなだ。不真面目で適当でだらしない、集中している生徒の学習意欲を削ぎ、妨害している。さほど熱心でない生徒にはよく好かれていたが、自分のような性格の生徒には忌避されていただろう。なんたって自分もそのうちの一人だ。あまり話したことはなかったが、遠目に見ていても何となく苦手な部類の人間だと直観で分かった。



 転機が訪れたのは塾に入会して二か月ほど経った頃のことだ。これまでの担当講師が急遽シフト変更となり、暫定的にあの男が自分の担当となったのだ。唐突に手渡された担当交代の書類を見て、自分は愕然としてしまった。あまりにショックで、塾を変えようか本気で迷ったほどだ。
 とはいえだ。担当変更は暫定的なもので、数週間もすればまた元の講師に戻るとのことだった。この塾に入ってから担当してくれていた講師だから、親しみやすく自分の悪い癖もよく理解してくれている。
 片やあの男は自分が最も苦手とする部類の人間だ。なるべく会話もしたくないし、教えを乞いたくもない。極力話をせず、採点だけ依頼して、顔を合わせず時間を終えたい。
 しかし自分の子供っぽい浅はかな考えなど、あちらにとっては透けて見えるらしい。

『お前、俺のこと嫌いだろ?』

 パーテーションで仕切られた一人用の席に着いて、開口一番言われた台詞がこれだ。ニタニタと卑しい笑みを浮かべて見下ろしてくる男は、どこか勝ち誇ったかのような面持ちで言葉を続けた。

『俺分かんだよそういうの。隠したってバレバレだぜ?』
『……』
『まあ何はともあれ宜しくな、練白龍くん』
 肩を叩かれたあと、問題集のコピーを机に置かれた。

 こんなもの、破り捨てて出て行ってやろうかと思った。しかし自分にもいちおう世間体を考える理性はある。机にシャーペンの先端が擦れる音、講師と生徒の小さな話し声、周囲の様子は完全に勉強モードだ。ここで癇癪を起すわけにもいかない。
 気に食わないが、おとなしく真面目に過ごすしかないだろう。
 たかが数週間の辛抱だ。同じクラスメイトでもあるまいし、相手は大人。塾講師と生徒という関係性で、何も起こる筈がない。

 この時はそう自分に言い聞かせ、ひたすら目の前の問題集に取り組むことに専念した。分からないことがあれば授業後、別の講師にそれとなく声をかければいい。あの男に任せるのは採点だけで、教えを乞う気などさらさらなかった。そもそもあんな不真面目そうな奴が、人に勉強を教えられるわけがない。

『白龍ここ、計算間違ってる』
『……あ』

 まだ問題を解いている途中だった。通りがかりに解答用紙を真上から覗き見されていたようで、彼はこちらの手元を見つめながら何の気なしにそう指摘した。
『お前は物覚えは早いけど、こういう凡ミスが多いな。前任の講師からも引き継いでるけど、もっと計算の正確性を上げたほうがいい』
『……』
『四則計算の特訓用にプリント渡しとくから、それ終わったら解いとけ』
 机の隅に置かれた紙を見て、自分は首を傾げた。
『これ、中一用じゃ』
『来年の今頃は基礎問解いてる暇ないから、今のうちに強化しといたほうがいい』
『……』
『別に白龍のこと馬鹿にして選んだわけじゃねーよ』
 学習机の隣に設置されている講師用の折り畳み椅子に腰かけた男は、自分と目線を合わせながら話しかけてくる。
『どんだけ難しい問題の解法が理解できても回答の数字が違ってたら点数貰えねえぜ?』
『……分かってますよ、そんなことくらい……』
『じゃあ俺、ここで見といてやるから。一番上から解いてみろ』
 赤い目がじろりと睨んでくる。自分は仕方なく頷いて、彼の言うことを聞くしかなかった。

 別に、言われたことの意味が理解できないわけじゃない。むしろ心当たりは大いにあったし、前任の講師にも似たようなことを言われた。
 その際はもっと基礎を固めたほうがいい、というアドバイスに留まっただけで、具体的にどうしろとは言われなかった気がする。まさか一学年下の問題集を解けと言われるとは思わなかったが、男の助言は的外れではない。
『ほら、言ってるそばから間違えてる』
『しゅ、集中させてください。そうやってジロジロ見られるとやりづらい……』
『俺の事なんか気にすんなよ』
『ちっ近いんですよ。意識しないようにしても、気になってしまう』
『あはは。なら全部解けたら呼べよ』

 男は軽薄な笑みを浮かべて立ち上がり、別の生徒の元へ向かっていった。
 自分が覚えている限り、この時がおそらく、初めてまともに会話した瞬間だった。それまでは必要最低限の挨拶や礼を述べるだけで、勉強に関する話題など寸分も出なかった。それは自分が、彼が人に勉強を教える資格などないと、頭ごなしに決めつけていたからだ。
 その小さなやり取りをきっかけに、男とは少しずつ会話をする機会が増えていった。

 だがしょせん、塾講師と生徒という間柄。限られた時間しか顔を合わせない。しかも彼が自分を担当するのも僅かな期間限定で、ほんの少し円滑な会話が出来るようになった頃には前任の講師に戻るという案内書類を渡された。
 書類はその男から直接手渡された。短い間でしたが有難う御座いました、と社交辞令の礼を述べると、彼は頑張れよ、と笑顔で答えてくれた。そういう優しい笑い方も出来る人なんだと、この時初めて知った。

 それ以降はとくに関わりもなく、シフトの関係で顔を見ない日も度々あるくらいだった。自分の中にあった男への印象は少し変わっていたが、その程度の変化だ。すれ違っても目は合わないし、たいてい彼は常に他の生徒と雑談に興じている。自分のような生真面目でつまらない、面白い冗談も言えないような生徒と話しても楽しくないだろう。他の同年代のような快活さが自分にもあれば、少し違っていたかもしれないが。
 そうやって数週間が過ぎ、男と交わした数少ない会話の内容も忘れそうになっていた。そんな折に、とある出来事が起きた。
 些細な出来事であったが、その日を境にして自分と彼との関係は大きく変化した。