ニライカナイをゆめみるひとたち 7

 川のせせらぎが聞こえる方に足を向ける。木漏れ日に彩られた地面に道と呼べる道はなく、ただ思うまま、縦横無尽に、第六感だけを頼りに歩き続けていた。
 後方部隊からはそろそろ休憩を、なんて泣き言が聞こえてくる。しかし甘い。まだ正午も迎えていない時分、道草を食っていては日没までに目的達成など到底不可能。夢のまた夢。なんの成果も上げられず易々と帰還できるわけがない。そんな失態、断じて許されない。
 丸一日、公務に穴を開けてまで訪れた。この日のためだけに集められた面子は、普段であれば一堂に会することも無かっただろう。綿密なスケジュール調整と交渉と談義を繰り返して、ようやく叶ったのだ。一国を担う者、世界の第一線で活躍する者、強力な魔導士たちと、その協力者ら。信頼の置ける面々に囲まれて、ついに実現した今日という日に、白龍はどこか誇らしい気持ちを抱いていた。

「白龍。この川は飲み水かしら」
「どうでしょう。一度サンプルを採取して、検査したほうが」
 白瑛が指差す先にあったのはせせらぎの音源、細長い水脈である。どこから流れているのか、視線だけで辿ろうとも先が見えない。深く生い茂った木々とどこからか流れ着いた岩場の合間を縫う透明な液体は、下方へと流れてゆく。
「お、水じゃねえか。喉乾いてたからちょうどいい」
「……あっ」
 背後から聞こえた話し声に思わず振り返ったが、時既に遅し。男は岩場に屈んで、お椀の形を作った両手を液体に浸していた。
 そして喉仏がこく、こく、と上下する。白瑛と二人で息を呑みながら、経過を見守った。
「……なんかしょっぱい」
「……」
「……」
 彼はそれきり水を口にすることはなく、どこからか流れてくる水を眺めていた。無味無臭なら思いっきり飲めたのにな、とでも言いたげに。
「ジュダル。調べもしてない液体を口にするな。どんな成分が混じっているかも分からないんだぞ」
「ヘーキヘーキ。俺はこのとおり健康だって」
「とか言って、下山する頃にはお腹を下しても知らないわよ?」
 白瑛は唇を尖らせながら、透明な川に指先を浸した。見た目は飲み水と遜色ない。けれどそれが人体にどう作用するか、有害な物質は含まれていないか、目視だけでは予想もつかない。
 彼女は懐から取り出した検査キットで液体を採取し、その中に薬品を数滴垂らした。薬品が加わった液体は見た目に変化は訪れない。
「たぶんこれは中性。ただちに人体への影響はなさそうだけど……」
「細菌が含まれる可能性もあります。念の為持ち帰って調査に回しましょう」
「気にし過ぎだっつーの」
「お前がズボラ過ぎなんだ」
 木の幹に体を預けて、川の流れる先を視線でなぞった。うねうねと蛇行しながら岩場の合間を掻い潜り、やがて下流へと繋がるのだろうか。そして、その先にあるのは恐らく、先日見た大きな湖や池だろう。
 僅かに思案している間に、下方から弱々しい声が聞こえた。複数人の賑やかな雑談に混じっているのは、啜り泣くようなか弱い声だった。

「白龍ちゃん、歩くの速すぎるわよお。もうちょっとレディに気を遣ったら良くて?」
「……すみません、貴女以外の女性陣はみな、心做しか…強かなようで」
 涼しい顔で先陣を切る白瑛と、一行の最後尾で重い荷物を背負っているであろうとある人物の顔を思い浮かべた。両者ともに基礎体力も筋力も胆力も、平均女性に比べてかなりの高水準だ。この二人の体力を基準に行程を組んでしまった以上、無理が出るのは仕方がない。
「山道を歩くのだから、もっと動きやすい格好にしなさいと言ったでしょう。いくら皇帝陛下といえど、自業自得だわ」
「白瑛お姉様……」
 紅玉は普段とさして変わらない大振りの振り袖に、裾の長い着物を身に纏っていた。高価であろう布は土に汚れ、枝葉で傷み、ほつれてしまっている。彼女の隣で肩を支えつつ歩を進めていた夏黄文も、何か言いたげな様子で横顔を盗み見ていた。
「夏黄文。山頂まではあとどのくらい?」
「このペースですと、四半刻ほどはかかるでしょうか……」
「もおクタクタ。歩けないわあ」
「無理すんなよ紅玉。俺がおぶってやろうか」
「あら、ジュダルちゃんだって汗だくのくせによく言えるわね!」
 前方部隊の一行は道中でそんなやり取りをしつつ、歩むペースを僅かに落とした。紅玉だけなら担いで登ることもできただろうが、大の男にまでギブアップ宣言されると目的達成の夢は遠退く。日頃から鍛錬を積んでいる白瑛と、存外体力のある夏黄文が二人の背中を押してやりながら、道なき道を進んでいった。



 皇帝陛下・練紅玉が打ち出した次なる政策は、未開拓領地の探索――とくに北東部の旧山村地域の調査である。中心地帝都の開発を推し進め、先日までは南部へ調査団を派遣していた。国境付近まであらかた調査をし終えたところで、今度はほぼ対角線上に位置する北東部に白羽の矢を立てた。
 かつては農業が盛んだった田舎町にはこれといった歴史資料や遺跡、観光業に貢献できそうなシンボルマークも存在しない。唯一の長所は自給率が百パーセント近くあったこと、くらいだろうか。とはいえ少子高齢化が進み都市部の発展に取り残された旧態依然の地域は、若者は元より老人も家業を畳み、都市部への人口流出が相次いでいた。
 そんな場所だから開拓事業はどうしても後回しにされていたが、現皇帝の思いつきと気まぐれにより、此度の計画が始動した。しかも今日此処に集った面々は政府が招集した専門家や調査団ではない。国の要人らが自らの足で未開拓地に踏み込んでいるわけだ。

 先日、紅玉の口から直接、未来の展望を聞かされた。
 長きに渡る民族間闘争と、人類はようやく決別した。破壊のあとに創造は付きものだ。変革がもたらされた地上で、人類は互いに手を取り合える生き物なのだと、歴史に刻みたい。その証拠として、まずは更地の上に新しい楽園を作ってみたいと、彼女は熱弁していた。
 此度の調査もその前段階として必要な仕事なのだろう。が、本気で"自分たちの手だけで"夢を叶えるつもりなのだろうか。地理を把握し、地図を書き直して、木材を調達し、河川を整備し、家を建て……。想像するだけで腹の底がひんやりする。立派な大志を抱くのは結構だが、もう少し現実味のある計画で頼みたい。夏黄文がうまくハンドルを握ってくれたら、それで良いのだが。
 そもそも。調査くらい、専門のチームに任せればいいのだ。なのにどうして皇帝自らが出てくる必要がある?



「あっつ?い……」
「御上着をお預りしましょうか」
「肌を露出すると虫刺されや怪我の元になるわ」
「な、成程……」
 紅玉は少し前までは皇女でありながら武人としても第一線で活躍し、金属器による魔装で戦場を駆けていた。しかし今現在は玉座に腰を据え、内政に直接携わるようになった。昔のように積極的な鍛錬や稽古を積む時間もないだろうし、そもそもする必要性がない。平均的な女性と同じ筋力体力しかないのは自明である。
 皇帝陛下が自ら出てくる必要はないのでは、と前夜まで説得は試みていた。いくら若いからとはいえ。もう少し落ち着いた行動を心掛け、帝都の城に根を下ろしてくれたっていいじゃないか、と。
 だが一度腹を括ると梃子でも動かない性格なのだろうか。彼女は最後まで首を横に振り、私も同行させてくれと、真紅の瞳で訴えかけられてしまった。そうまで言われると頭ごなしに反対するのも、なんだか気が引けてしまって。

「白龍、おめーほんとにこの方向で合ってんだろうな」
「川の上流に向かっている。いずれ頂上に辿り着くだろう」
 足元でさらさらと流れる水の音に耳を澄ませ、草木をかき分け、太い木の根を跨ぎ、上へ上へと登ってゆく。縮尺率が明確な地図があればここまで苦労することもないが、なんせ地図そのものが無意味な世界になってしまったのだ。磁場も狂ったのか方位磁針も万能ではなくなった。変わらないのは天体の動きと重力の向きくらいだろうか。
 太陽はかなり真上に近い位置まで昇っている。山道は登りより下りのほうが慎重になるべき、というセオリーを遵守するなら、正午には登頂しておきたい。


「あれ? なんだか、景色が……」
「少し明るくなってきましたね」
「おっ、いよいよ登頂か!?」
 生い茂る木々と変わらない緑色の景色にいい加減飽きていた頃。
 視界が少しずつ開けてくる。よもや山頂に到着かと、一行は顔を見合わせて歓喜を滲ませた。



「……あれ?」
 切り開かれた景色、一面に広がる平らな草原と、障害物がない広々とした天空、川の源泉と思しき岩場の湧き水。

 そして、その奥に見えるのは。高く高く聳え立つ、木々の群れだった。

「……ここって山頂じゃないの?」
「でも私達、早朝からずっと山登りを続けてて」
「もしやここは山頂ではなく、まだ麓なのでは」
「なんの冗談だよ」
 喜びもつかの間、一堂は冷や水を浴びせられたみたいに顔を青くした。しょせんはぬか喜びだった、ということだろうか。
「おい白龍!」
「なんで俺に怒るんだ」
 汗だくのジュダルに襟首を掴まれ、白龍は冷静に突き返した。
「山頂で食う飯と空気は美味いって言ったのはおめーだろうが! 俺を騙しやがったな!?」
「そんなこと言ってたか?」
「しらばっくれんな!」
 肉体労働は御免だと逃げる男に説得を試み、魅力的な条件や登山の楽しさを長時間力説したのは紛れもなく己である。魔法で飛べば済むだろうとあしらう彼に、苦労して登るからこそ見えるものがあるんだと、新たな発見や達成感との邂逅は早々経験できないと、必死に口説き落とした。
 だが実際着いてみれば、そこは平原が広がるだけの、少し大きい広場だった。本物の山はこの先に見える、針葉樹が生い茂る森林の奥だったらしい。鬱蒼と生い茂る木々は木漏れ日すら遮って、なんだか不気味な雰囲気を漂わせていた。
 とてもじゃないが、素人が近づける気がしない――。

 自分たちが今朝から必死こいて登っていたのは、地球からしてみれば、まあ、小高い丘くらいの感覚なのだろう。

「……大自然の偉大さ、荘厳さを噛み締めることができただろう」
「いや、やるせなさのほうが圧倒的なんだけど」
「次の目標が見つかったと思えばいい。冒険に次ぐ冒険、夢が広がるな」
「煙に巻こうとすんな!」

 盛大に噛み付いてくる男を往なしつつ、意気消沈してしまった面々の顔色を窺いつつ。
 さてどうしたものかと、白龍は頭を悩ませた。そもそもの計画の立案者である紅玉が本来ならこの場を仕切るべきだが、だからこそ罪悪感や責任を感じているのだろう。
 そもそもの話。なぜよりによって山登りを決行したのかというと。一番標高の高い、見晴らしの良い場所から土地を見渡せば、未開拓地の全貌がひと目で明らかになるのではという、紅玉の思いつきだった。そう簡単にいくものかと自分は意見したが、南部攻略時も同じ手法を取り、地形の把握や地図作成が捗ったという話があったらしい。だから今回も同様に、ひとまず一番背の高そうな山を登ってみればいいんじゃないかと、彼女は立案してみせたのだ。
 だが今回ばかりは仮説どおりに行かなかった。人間の想像力を容易く超える大自然を前に、手も足も出ない状況だ。既存の記録にはこれほどの標高を誇る山脈は存在しなかった筈だから、致し方ない部分もあるが。
「仕方ありませんよ。大陸調査では不測の事態なんて付き物ですし。これ以上はプロの登山家を呼んだほうが懸命でしょう」
「素人の私達じゃ確かに危険かもしれないわね。後続部隊の到着を待ってから一旦お昼にしましょうか」
 幸いにして広い草原が足元に広がっている。ピクニックにお誂え向きの環境は、鬱蒼とした雰囲気の森林さえ視界に入れなければ、景観もまあ悪くない。木々の合間から見える山下の景色には湖や河川がいくつも点在し、複雑な地形の一部始終を窺うことも可能だ。



「紅玉お姉さんたち、お待たせー!」
「おっ、これが山のてっぺんか!」
「……頂、上……?」

 さして間も置かず到着した後方部隊の面々が大手を振ってやって来た。やはり彼らもこの地点を山頂だと思い込んでいるらしい。無理もない。空の色が大きくなり、光が頭上から差し込み、視界を遮る大木などの遮蔽物が少なくなってゆくと、誰だってゴールを確信する。

「……ん?」
 晴れやかな笑顔がたちまち曇ってゆく。そんな顔をさせるのは心苦しい限りだが。
「あれ? まさか、てっぺんじゃねえのか?」
「残念ですが、そのまさかです。ここは山脈の中継地点だったようです」
「ええ!? じゃあもしかして、向こうに見えるヤバげな……怪しげな森が……」
「本来私たちが攻略すべき目標だったみたいよお」
「えーっ!?」
 少年の叫び声に驚いたのか、件の森林から巨大な鳥が一羽、二羽、と立て続けに飛び立っていった。聞いたことのない鳴き声を大空に轟かせながら旋回する様子は、まさしく怪鳥と呼ぶに相応しい。
「アリババくん、あの鳥って肉食なのかな」
「さ、さあ。たぶん目を合わせないほうがいいだろうな……」
 肩を縮める二人と、表情を曇らせる女性一人と。三色の髪の毛を揺らしながら、彼らは大自然の洗礼を一身に受けていた。



 煌帝国からは紅玉と夏黄文、白瑛、ジュダル、そして自分が。バルバッドからの使節団という名目でアリババ、アラジン、モルジアナの三人が招待され、山登りに参戦していた。時に仲を違えつつ、最終的には共に戦った仲間たちだ。呉越同舟のような不思議な縁により今現在も親交を重ねている。
 面子に異論はない。むしろ頼もしいくらいだ。人数は多いに越したことはない。しかし疑問を抱いてしまう。
 今回の調査は観光でも遠足でもない。ピクニックじゃない。れっきとした仕事だ。しかも煌帝国の内政に直接関わる、重要な任務である。
 だから何故、わざわざこの三人を呼びつけたのかと紅玉に尋ねたことがある。立派な大義名分を背負っているのにどうして、無関係な人間たちを国外から呼びつけるのだ、と。すると彼女の口からは、大勢で行ったほうが楽しいに決まってるから、などと的を射ない答えが返ってきた。

(しかし面白半分で計画を立てたにしては、妙に真剣というか、別の思惑がありそうな……)

 紅玉の様子を窺ってみるが、見る限りいつもと様子は変わりない。豪奢な装束のせいで山登りに苦戦していたくらいか。あとはいつもどおりの彼女で、傍に仕える従者の態度も変わりない。
「……」
「あの、白龍さん?」
「……あっ、はい」
 意識の外側から聞こえた声に振り返った。視界の端でそよぐ赤髪に目を瞬かせて、改めて体ごと向き直る。
「……どうかされましたか、モルジアナ殿」
「そろそろお昼にしようと、皆さん仰られてて。敷布を広げるのを手伝って頂けませんか?」
「もちろん。それより、重い荷物をお一人でこんなに……」
「そうですか? このリュックはそれほど重くはないですよ」
 成人男性が両手でやっと抱えられるくらいの、それなりの重量はある筈だ。布が引き千切れそうなくらい荷物が詰め込まれた登山用リュックを、彼女は易々と三つか四つくらい背中に背負い込んで、首を傾げていた。
「じゃあ布の端を持って、広げていきますね」
 リュックからはみ出ていた敷布を手渡され、モルジアナは草原の真ん中にそれを広げてみせた。その様子を見た他の面々も察したようで、昼食の準備を続々と始めてゆく。
 アリババが抱えていた風呂敷にはバルバッドからの手土産代わりに弁当が、白瑛が携えていた手提げには彼女お手製の軽食が、そしてモルジアナの背負っていたリュックからは己が今朝から作っていた重ね弁当などが、次々と出てくる。保温効果のある水筒には温かい汁物と、それから割り箸、紙皿が人数分。
「相変わらずえげつねー量だぜ。よくここまで作れるな」
「家事は姉上に仕込まれてますから」
「白瑛さんのそれは何ですか?」
「食後のデザートにフルーツ大福を作ってみたの」
「止めとけモルジアナ、地獄を見るぜ」
「あら失礼ね。青舜のお墨付きよ?」
「うわっカワイソ……」
 取皿と箸、それから紙コップを一組ずつ、全員に行き渡ったことを確認してから紅玉の顔をちらりと見た。彼女はひとつ首肯してから、おもむろに立ち上がる。くっちゃべっていた連中も一旦話を中断し、それとなく視線を向けた。
「今日は忙しい中みんなにせっかく集まってもらって、山頂で雄大な景色を眺めつつ食事を……と思っていたんだけどお……」
「怪鳥が棲む怪しげな森しかねーぞ?」
「こら黙れ」
「……でもいい経験になったわ。失敗もしながら、いっぱい迷惑もかけちゃって、こんな頼りない私だけど、みんな集まってくれてどうも有難う」
「そんなことねーよ、気にすんな!」
「……だから今日は、みんなの頑張りと失敗を記念して、乾杯ということで」
「んだよそりゃ」
「まあいいじゃないか。僕は紅玉お姉さんの頑張りに乾杯」
「かんぱーい!」

 紙製の杯を掲げて、声を合わせた。
 無論、これも仕事の一環だ。業務中の飲酒は禁物で、中身はただの煎茶である。
 だが長時間に及ぶ険しい登山の後、乾ききった喉を潤す冷たい飲み物はなんだって格別に感じられる。聳え立つ森林だってこうして見れば雄大な自然の一部だし、天気は文句なしの快晴で、空気も澄んでいる。草原を撫でるそよ風の音色に耳を傾けてみればなかなか、悪い気はしない。
「なあ白龍、この肉料理はなんて言うんだ?」
「それは鶏の南蛮です」
「ナンバン? よく分かんねーけどめちゃくちゃうめーな」
「光栄です」
 取皿の食材を山盛りにして箸を止めない隣の男を見遣り、白龍は苦笑いを見せた。そんなに急がずとも、鶏は逃げやしないのに。
 大陸が繋がり、人種や文化の流入が盛んになった昨今。食文化の融合や新たな食習慣の誕生が日々めまぐるしく起こっており、煌帝国も例外ではない。天華地方で古来より伝わる伝統料理に西部諸国の食文化が加わり、新様式が広まりつつある。横文字のナントカとか、カントカとか。
 新たな食文化に迎合しつつ、自国の文化も織り交ぜつつ。歩き疲れた体には何が最も求められるかと思案した結果、味付けの濃い、とくに塩気の多い肉料理が一番だと結論づけた。いつの時代でも誰の口にも、喜ばれるのはやっぱり肉だ。
「白龍ちゃん、この真っ黒の牛のスープは何かしら」
「それはビーフストロガノフです」
「びーふ、す……?」
「殿下、また料理の腕前に磨きがかかりましたね」
「ふふ。それはどうも」
「甘酢の肉団子も美味しいよ」
「炒飯のおかわりは残ってます?」
「俺が全部食った」
「ジュダルひでーぞ!」



 何段も重ねて持ってきた弁当箱は次々と空っぽになってゆく。もうこれ以上食べらんない、なんて声がどこからか聞こえて。やがて、腹安め程度の雑談が行われようとする。
 白龍はそれとなく立ち上がり、無言で輪から抜けた。他の面々は残った料理を平らげたりお喋りに夢中で、離席する人間のひとりやふたりに、いちいち気はつかない。

 下山の支障にならないよう腹八分目で抑えて、あとは膨らんだ胃を消化に集中させればいい。程なくして訪れる気怠さや眠気を誤魔化すため風に当たれば、血の巡りが悪くなる頭も少しは冴える。
 平原を少し外れた場所。木々を掻き分けて崖の下を見遣る。足元に広がる絶壁に息を呑んで、空を見上げた。
 上空をゆるやかに滑空するのは鳶か、鷹か、雁か。僅かに傾きを見せ始める太陽は遥か彼方で薄ぼんやりと輝いている。
 隆起と陥没が散見される景色を見つめた。やはり面影はない。極東平原といえば地平線の向こう側まで大草原が広がり、長閑でなだらかで、起伏のない平野が大陸の果てまで続いていた。続いていた、筈だった。それが今やこの有様だ。すっかり様変わりした眺望に思わず目を細めて、誰かの顔を思い浮かべていた。

「……ん?」
 カラカラ、と乾いた音が聞こえた。足元の小石が欠けて、崖の下に落ちていった。
 亀裂の入る地面に、露出した岩肌と、傾く視界に。

 スローモーションみたいだった。やたらとゆっくり、ゆっくり、景色が移ろう。



「あ……っぶねーな、オイ!」
「……ジュダル?」
「足元見ろバーカ! 死に急ぎ野郎!」

 背後から襟を掴まれてようやく、崩れかけていた足場に気がついた。ひゅるる、と冷たい風が頬を撫でる。
 生唾を飲み込んだ。暫くの間、心臓が騒がしかった。背筋が少しずつ冷たくなって、思わず目を逸らしてしまった。
 もう少しジュダルの声が遅かったら、断崖から投身していた。

「滑落寸前じゃねーか。ぼさっとすんなよ」
「ああ……少し浮かれていたのかも」
「ふん、らしくもねーことを」
 彼は傍にあった低木によじ登り、太い幹に凭れながら呟いた。赤い目はもうこちらを見向きもしない。その視線は目前のパノラマへ、惜しみなく注がれていた。
「なんもねーのな、ここ」
「昔はあったのに、って?」
「……覚えてねーよ」
 立膝の上で頬杖をつき、そんなことをぼやく。表情は見えない。北風に掻き消されそうな、か細い声だった。



 途方も無い、寄る辺もない。失われた故郷の有り様は、彼の目にどう映るのか。想像もつかない。地に足が着かない感覚がずうっと続いて、それでも世界は相変わらず回り続けていて。自分にない拠り所を、みなは持っている。自分だけが持たない拠り所を、みなは当たり前のように持っている。その悔しさや惨めたらしさは、皮膚を炎に舐られるよりも痛烈で、だから一生癒えない傷になるのだろう。
 なんら変わらない振りをして、素知らぬふりをして、誰とも共有できない孤独感に苛まれる経験は、自分にも大いにある。たとえば、宮廷の本殿が全焼したとき。たとえば、目の前で肉親が焼け焦げてゆくのを見届けたとき。炎に焼かれた体の治療やら看病を受けていた間なんかは、先が見えない地獄の底に立っていた気がする。
 生家は灰燼に帰した。兄は亡くなり、父親も既に他界しており、後ろ盾がなくなった。暗がりの中でひとり、灯りも持たず、細い畦道を歩いているような心地になる。孤独と劣等に長い時間苛まれた。しかし傍で支えてくれる人が、幸運なことにひとりだけ居た。唯一大火から逃れていた姉が拠り所になってくれたのだ。

 国そのものが家だった白龍にとって、生まれ故郷という概念に対する理解度はあまり高くない。モルジアナにとってはかつて暗黒大陸とも呼ばれた未開拓地が郷愁を掻き立て、アリババにとってはバルバッドが自身を育ててくれた思い出深い地だ。アラジンはアルマトランと呼ばれた、歴史の遺物が故郷に当たるのだろう。みな揃って、平等に、自分のルーツを持っている。
 自分がどこの誰かなんて疑問は思春期の到来と同時に抱かれ、親なり周囲の大人らから教わって、自己形成に役立てていくものだ。それを怠ると大人になってから苦労する。獲得できなかった自尊心や親からの愛情は年を取ってから取り戻そうとしても、自分のものにならないからだ。

 だからこいつに今更新しい家を与えたり、見知らぬ夫婦の養子として迎えようとて、埋め合わせには足りなさ過ぎる。ありのままの現実を受け入れて、乾いた涙の跡をなかったことにして、進むしかないのだろう。たぶん。
 夜の海みたいに真っ黒な髪が風で揺れていた。行く当てもなく、その場しのぎで向こう見ずな男によく似合う。もう動かない、座礁してしまった船をいつまでも見下ろして、名残惜しそうに俯いている。
 地名なんて元からなかった。地図にも載ってない。誰も知らない。けれど確かにそこで彼は生まれたし、その瞬間、彼は世界で一番祝福されていた。自分たちとよく似た人たちが生活を営んでいた。今はもう痕跡どころか、それを証明する方法さえないけれど。



「そこのふたり! そろそろ下山準備するから手伝って!」

 背後からの大声に振り向くと、紅玉が大荷物を抱えて仁王立ちしていた。

「……陛下。お手荷物は俺が持ちます」
「お気遣い有難う。それよりも白龍ちゃんにはひとつ、案内してほしい場所があるの」
「俺に?」
 周囲を見渡すが広がるのは平原だけ。小高い山の切り開けた部分で昼餉を済ませた一行は敷物や使用済みの紙皿類を袋に纏めて、下山準備を進めていた。ジュダルは木登りを止めて、白瑛に連れられて食器類の水洗いに付き合わされている。
「俺はこのあたりのことは、全く知らないんですが」
「でも知ってることはひとつあるでしょう? ほらあ、あの子の」
「あの子」
「ジュダルちゃんが生まれたお家よ!」

「……ジュダルくんの?」

 傍でゴミ拾いをしていたアラジンが驚いたように顔を上げて、オウム返ししてきた。

「白龍お兄さん、そんなことまで知ってるの」
「一度、あいつの生まれ故郷で話をして、案内までしてもらったことがありまして。……姉上、もしかして」
「あら、何の事かしら?」
「ジュダルくんの生まれ故郷?」
「ああ、はい。ちょうど俺たちが居るこの周辺ですよ。寒村としか呼び方がない、無名の地域ですが」
「えっここがジュダルくんの!」

 アラジンが一際大きな声を上げた。そのせいで周囲の者も、一体何事だと顔を見合わせる。
「ジュダルくん、ここで生まれたんだって!」
「へえそうだったのか。ちなみにどのへんなんだ?」
「あ? うっせーなアリババ」
「いいじゃねーか、教えてくれたってよお。俺とお前の仲じゃねーか」
「気安く触んな」
 水が滴る空の弁当箱を抱えていたジュダルが質問攻めに遭っていた。その表情はどこか険しい。あまり人から、とやかく言われたくない話題なのかもしれない。
「姉上、あまり」
「まあまあ見てなさいよ」
「……?」
 水気を切った弁当箱を鞄に入れ直して、出したごみは袋に纏めた。平原は来たときのまま、元に戻っている。まだ人の手が介入するとは決まっていない自然界を、いくら調査目的とはいえ荒らすのは良くないことだとされている。自生する動植物らの暮らしを守る為にも必要な心がけだ。
 アリババはあいも変わらずジュダルの肩に腕を回して、早く答えを言えとせっついていた。アラジンも気になるらしい。ここぞとばかりに二人の掛け合いに乗じて、教えてほしいと声を合わせた。
「白龍お兄さんは知ってるんだろう? ずるいよ、僕たちにも教えてくれよ」
「ウゼェ。なんなんだおめーらは」
「隠し事なんかするタマじゃねーくせに、急によそよそしくすんなよ」
 二人からどやされる男は、しかめ面のまま答えた。
「……来る途中に川があっただろ」
「川? ああ、あの細い水脈か」
「たぶん、あのあたり……」
「そうだったのか!」

 俄かに騒がしくなる彼らの様子を遠巻きに見守りつつ、白龍はそれとなく紅玉の顔色を窺った。少し持ち上がった唇に、血色が良い頬、爛々と輝く紅色の瞳。
「何、陛下をじろじろと盗み見ているんです、皇子」
「……人聞きが悪いな」
 夏黄文が視界の端から割って入ってきた。まるで不審者を蔑むみたいな、露骨な目つきだ。
「陛下。最初からこれを見越して、わざわざジュダルを呼びつけたんです?」
「……私は別に、ジュダルちゃんの為だけじゃないわ」
「?」
「私の為でもあるし、白龍ちゃんの為でもあるわよ」
「それは、どういう?」
 聞き覚えのある台詞に首を傾げた。
 しかし返ってきた答えは、白龍の期待する内容ではなくて。
「さあ腹休めはこのへんにしておいて、そろそろ行きましょうか。ほら先頭、頼んだわよ!」
 役に立たない地図と方位磁針を手渡され背中を押された。代わりに荷物は持ってあげるから、なんて気丈に言ってみせるが、彼女にそれほどの筋力はない筈だ。どうせ下山の途中でへばって夏黄文の肩を借りるのがオチである。なのに有無を言わせない表情と鋭い眼光に射貫かれてしまって、声が出なかった。
「アラジン。ちょっと頼み事があるんだけど、いいかしら?」
「うん? なになに?」
 紅玉はすかさずアラジンを呼びつけて、耳元で何かを話し始めた。どうしても気になって二人の様子を観察すると、すぐさま紅玉と目が合う。手の甲でしっしと払われてしまって、取り付く島もない。
 しかしその傍に立つ従者は涼しい顔を浮かべている。きっと、彼女の思惑も真意もすべて承知済みなのだろう。自分には教えてくれなかったが。



 登山の基本としてよく言われるのは、登りより下りのほうが危険だということだ。登頂後の達成感、虚脱感、疲労感、諸々により油断しきっている。体力不足により足腰の踏ん張りが利かなくなっている。集中力が切れて道標を見失い、遭難に遭いやすい。転倒した際は手を前に出せる登りより、前のめりに落ちやすい下りのほうが大怪我に繋がる。
 こうした事由により、小さな気の緩みが結果、重大な事故に発展しかねないのだ。だから時間に余裕を持って行きよりも緊張感を持ち、周囲に気を配る必要がある……わけだが。
「なあジュダル、お前んちどこだよ」
「さっき向こうに見えた沢じゃないの?」
「ジュダルさんの家があるんですか」
「家なんか残ってるわけねーだろバカ」
「モルさん。ジュダルくんはこのへんで生まれたんだって」
「おいチビ、俺の話聞いてたか?」
 隊列を組んだはいいものの。後方ではずいぶんと賑やかな声が響いている始末だ。
 体力に自信があるモルジアナが最後尾で殿として控えている。脱落者が居ないか監視をしたり、進む速さについて行けない者が居たら助ける役割をする。その前方にはアラジンとアリババが、モルジアナにせっつかれながら歩を進めてゆく。
 少し間を開けて紅玉と付き添いの夏黄文、それからジュダルがよっこらよっこらと不慣れな有酸素運動に励んでいる。下りはとくに、滑りやすい湿った土や浮き石に気をつけて進まねばならない。整備された山道ならまだしも、目印もロープもない獣道だ。本来であればこんな素人集団が踏み入って良い場所ではない、筈だが。紅玉の発案にノーを突き付けられる人間は結局現れなかったわけだ。

「ねえ、どこからか水の音がしてこない?」
「あー、言われてみれば確かに」
「どこだろう」
 計画の立案者である紅玉がふと声を上げれば、周囲の者も真似するように耳を澄ませた。さらさらと、静かな水の音が聞こえてくる。
「……ああ、ここじゃないかしら」
 半歩前を歩いていた白瑛が後方に向けて、振り向きざまに声を発した。彼女は木の枝を指に見立てて、足元より少し先にある小川を指してみせる。
 木の根や岩の合間を潜りながら流れる水は清澄な音を立てながら、どこに繋がるかも知れない下流へと下ってゆく。魚の姿は見えない。まだ水中生物の生態系が形成されていないのだろう。でもこれだけ澄んだ水なら、どんな淡水魚だって住処になりそうだ。
「来る途中にこんな場所通ったっけ」
「私達はこの沢の向かい岸を歩いていたのよ。あちらの道は少し勾配が急で、下山には不向きだったから」
「成程。ではジュダル殿の生家というのは」
「白瑛の地図が正しいなら、まあ、あのへん……だったような……?」
 彼は自信なさげに腕を持ち上げて、遠くの場所を示した。人差し指が向かう先は沢の合流地点、そのど真ん中だ。
「川の中で生まれたのか?」
「馬鹿言うんじゃねえぞアリババ。なわけねーだろ。そもそもこんな川も森も山もなかったっつーの」
「ジュダルさんの生まれ故郷も地形変動の影響で、環境が大きく変わられたんですね」
 白瑛が持つ紙の地図では、旧世界の地形、とくに煌帝国がクローズアップされていた。そこでは極東平原の水流系、勾配を数値化したもの、海岸線、国境線から領海まで記録として残っている。
 彼女と自分はその地図と方位磁針、太陽の位置を計算して方角を割り出し、自分が歩いた場所をペンでなぞりながら距離なんかを測定しているわけだ。古典的な方法だがこれが最も簡単で、文明の利器も必要としない。人間の足が一番の道具なのだ。

「ふっふっふ。そんなジュダルくんにとっておきの朗報だよ!」
「……あ?」
「うわっ、なんだよそれ」
「じゃーん。急ごしらえだけど立て看板。登頂記念にしたかったけど叶わなったので、代わりに……」

 アラジンは裾を捲り上げて、浅い沢に足を浸した。一番深い部分まで踏み込んでも水面は足首にすら届かない、浅くて狭い川だ。彼は沢のほとりの石を退けて窪みを作ったあと、"立て看板"とやらの木の板を穴に突き刺して、みなにそれを見せびらかした。
 登る最中で拾ってきたらしい材木を組み合わせて作られた、小さな看板だった。丸太と四角形のベニヤ板を、木の根の縄で括り付けたのだろう。木板の表面には石灰のチョークで、何やら文字が書かれてある。
「つまんねーことすんなよ、アラジン! きしょいモン立てんな!」
「山頂は拝めなかったけど、記念にはなるだろ? ねえ紅玉お姉さん、これ残しておいていいよね」
「この山の物ならいいんじゃない?」
「おめーらグルか? さっさと取り外せよそれ!」
「せっかくだし写真撮りましょうよ。ジュダルちゃんがこんなに喜んでくれてるみたいだし」
「喜んでねーよ!」
 くすくすと笑う紅玉に掴み掛かろうとするジュダルと、それを止める白瑛が、岩場の傍で輪を作っていた。



 天高く聳え、根を張り、葉をつけた木々が風に揺れている。さざめきに耳を澄ませて空を仰げば、ちょうど真上に太陽が見えた。陽の光を浴びた水面が煌めき、穏やかな川の流れに合わせて星のように瞬いている。川のほとりではアラジンとジュダルが小競り合いをしていて、大層賑やかだ。その足元ではささやかな水飛沫が飛び散って、ちらちらと水滴が舞っている。濡れた足を拭く物は持って来ていただろうかと、ふと気になった。
 自分は賑やかな輪から敢えて少し離れていた。遊びよりも他にやることがあるからだ。岩場の影に背中を預けて、紙面と筆記用具を膝の上に置く。太陽の位置から計算し、方角と、傾斜を計算する為だ。足元の影の長さと風向きを調べて、紙に書き加えてゆく。

「なあ白龍」
「……な、なんだ?」

 紙の上に落ちた丸い影に気づくより先に、頭上から声がかけられた。逆光の中に浮かぶ真紅に、自分の間抜けな顔が映り込む。
「あのさあ。お前からも言ってやってくれよ」
「何を」
「何って。お前も見ただろ? あのキモい看板さあ、アラジンのヤツって俺のことからかってると思わね?」
「ん?」
「なんだ、まだ見てねーの。来いよこっち」
 赤鉛筆を握っていたほうの腕を引っ張られた。膝の上に置いていた帳面と紙束が、ばさばさと派手な音を立てて地面に散らばってゆく。そのあと鉛筆も石の上に落ちて、芯が砕ける音も聞こえた。拾おうとしたが、体を引っ張られて間に合わない。
 ジュダルに掴まれた腕のせいで、たたらを踏みながら歩かされる。乱暴な奴だ。転びそうになるのを必死で堪えながら、全く合わない歩調に合わせようとした。

「ほら見ろよ、これ!」
「……は?」

 川のほとりに突き刺さった看板に、白の石灰岩で記された文字列。みみずがのたうったみたいな、下手くそな文字だった。
「ふふ、は、はは……」
「おいっ笑うな! 笑ってんじゃねーぞ!!」
「はは、だってこれ、ふふ、犬小屋じゃあるまいし、はは、あはは!」

 『じゅだるくんのおうち』なんていう幼稚な文字が書かれてあった。これは想定外だ。もっとひどい悪口か、便所の落書きかと思っていたから。
「いいじゃないか。うん。ぴったりだ」
「何がぴったりだよ」
 大層不服そうな顔をしている。それもそうだろう。彼はこういう茶化しとか、おふざけが一番嫌いな筈だ。
 喜んでいいのか蔑んでいいのか分からない、苦手な感覚なんだろう。人に認められたり、肯定感を高められることが。どうしていいか分からなくて、混乱していて、照れ隠しみたいに大声を出している。分かりやすい奴だ。遅れて発現した思春期みたいに、自分の心に素直になれないだけなのだ。きっとそう。

「写真の準備が出来ましたよ」
「じゃあみんな、一列に並んで」
「真ん中はジュダルくんね」
「んだよお前ら! おい! モルジアナも笑うなー!」

 腕を振り回したり大声を上げてみたりして、必死の抗議をしている。だが多勢に無勢。彼が心底不快に思っている訳じゃないことを、周囲も何となく察している。彼はちょっとしたパニックに陥っているだけだ。
「じゃあタイマー設定しますね。十秒で」
 切り株の上にカメラ端末を立て掛けたモルジアナが、一向に呼びかけた。ジュダルを除く全員が頷くと、彼女も列に混ざろうと駆け寄ってくる。背後では穏やかな川のせせらぎが、鼓膜を優しく撫でてゆく。
「おい、オメーらマジかよ。正気か?」
「マジですよ」
「マジだね」
「マジマジだぜ」

 ――じゅう、きゅう、はち……

 カウントダウンのコールが森林に響き渡る。騒がしいたらありゃしない。山紫水明には似つかわしい。森の住人たちはきっと大迷惑しているだろう。
「なあ! 白龍!」
「ふ。諦めろ、ジュダル」
 この期に及んで助けを求めるみたいに、赤い目がこちらを見てきた。その表面には薄っすらと水の膜が張られているような、いないような。
 でももう遅い。恐らく紅玉はこうなることを最初から見越して、この面子を選び、登山ルートを設定したのだ。名目は調査任務としてだが、この地にまんまと連れてこられた時点で、ジュダルは"負け"が確定していたのだろう。
「別に減るもんじゃない」
「つったってよお、こんな……」
 唇を尖らせる男が、身を捩って逃げ出そうとする。

 ――ご、よん、さん……

「こら、どこに行く」
 肩を掴んで看板の真横に立たせてやった。自然と自分も彼の横に立つことになるわけだが、立ち位置はどうだっていい。彼がこの写真に写ることが、恐らく、今回の目的達成の条件だ。
「ひでーぜ」
「そんな顔するな。これはお前にとっての……転機になるだろうよ」

 ――に、いち……

「……転機?」
「新たな船出の時だよ。ほら、笑え」

 シャッターの閃光が網膜に飛び込んだ。



 最後、彼がどんな顔をしていたかは分からない。笑ってくれただろうか? 不機嫌な顰め面か? 照れ隠しの怒り顔か?
 何にしたって、たぶん。彼の立つ場所がこの瞬間、この世界の中で最も祝福されていたであろうことは明白だった。