ニライカナイをゆめみるひとたち 6

 触れた場所、触れられた場所、触れさせた場所。指先で辿られて、唇で象られた部分がじくじくと、熱を帯びていた。
 何も考えたくなくて、枕に顔を埋めた。ぐちゃぐちゃに絡まる髪の毛も息苦しい体勢も、今はそれがちょうどいい。思考の余地を奪ってくれるなら呼吸さえ止めたいと思える。
「……あのクソバカ、バカ白龍、バーカ」
 あの状況で相手を部屋に帰す、腑抜け野郎は世界中探してもあいつくらいだ。どうして思いが通じて、唇を重ねて、目の前にある肌色に手を伸ばさない。青の奥にちらついた欲ははっきりと、この目で確認した。なのに彼は見て見ぬ振りをして、本能に蓋をしたのだ。
 半端に触られて期待してしまった手前、寝つける気がしない。耳元にまで届く心臓の拍動がけたたましい。全身に巡る血液は沸騰したまま下がらない。一体どうしてくれるんだと、脳裏に浮かぶ男の顔に唾を吐いた。



 髪をろくに乾かさず、着物をだらしなく着て行ったのは、あいつをからかう為だけだった。ちょっとした出来心だ。どうせ襲われるかもしれないくらいなら、徹底的におちょくって、死ぬまで馬鹿にしてやろう。百面相を浮かべながらも満更じゃない、間抜け面をこの目で拝んでやる。
 そんな心意気であいつの部屋の扉を開けた。が、返ってきた反応は予想とは正反対だった。表情筋の変化は乏しいし、取り乱す素振りもない。寝台の傍まで呼びつけたかと思いきや、恭しい手つきで髪に触れ始める。
 お前は俺の召使いじゃないんだぞと、何度も声を荒げそうになった。けれど、肩越しに覗く優しい表情に毒気を抜かれた。悪態のひとつやふたつ、口にできたら良かったけれど。普段ならよく回る舌が、この時ばかりは縮こまってばかりだった。
 せっかく色仕掛けしてやったのに、これでは甲斐がない。まるで自分ばっかり、から回ってるみたいだ。
 奴は、自分の誘いを意に介してないのではなく、最初からそうだと気づいてなかったらしい。褥に引き倒される気配もなく、何時もと変わらない口喧嘩をした。

 目を合わせて、色気のない言葉を交わし、いつもと同じ空気感に我慢ならなかったのは、やはり自分だった。あまり辛抱強い質でないからか。平行線を辿るもどかしい関係があんまりにも退屈でむず痒かった。
 好きだと言うつもりはなかったけれど、言ったらどうなるんだろうという好奇心でつい、口にしてしまった。理性の牙城を切り崩し、シーツの海に飛び込む羽目になるのも。真っ赤な顔で詰め寄られる羽目になるのも。どんな結果になろうと純粋な興味があった。この男がどんなふうに人肌に触れて、人を抱くのだろう、と。

 でも期待した結末とは程遠い、チープな口づけだけを与えられ、逢瀬のひとときは幕を閉じたのである。
 ちゃんちゃん。



「んだよ……クソ??」

 己を抱けるかと問うたとき、できると答えていた。そういう意味で好きだと言われた。自分もあいつももう立派な大人で、あいつはどうか知らないが、自分は酸いも甘いも噛み分けてきたつもりだ。だから今更段階を踏んで、清く正しく美しく交遊しましょうね、なんてことをする気はさらさらない。
 とっとと既成事実を作ってしまえばいいのに。そうすれば名実ともに晴れてオツキアイ、ができる。どうせ理性の箍が外れたらあとはなし崩しになるんだから、初めてだろうと不慣れだろうと気負う必要はない。
「……最悪……」
 ぬるい手のひらに胸を撫でられて、自分からそうしたにせよ、その気があるんじゃないかと期待させられた。辿々しい口づけだって、別に不快じゃない。擽ったいくらいもどかしい触れ方が、なんだか勿体ぶってるみたいで可笑しい気分になる。
「……はあ」
 じりじりと燻る熱のせいで、とても寝付ける気がしなかった。おやすみという言葉とともに施された接吻すら、今は恋しくて仕方ない。触れられた箇所から甘い毒が回って、酩酊したみたいに頭がくらくらする。
 とはいえ、今から娼婦を部屋に呼びつける気にもなれなかった。女を抱く気分じゃない。むしろ今の今まで抱かれるつもりだった。女役を買って出るのは不本意ではあるが。しかしあいつを押し倒す自分も想像がつかない。同じように相手をするなら、柔らかくて良い匂いがする女体のほうが断然好みだからだ。
 目先の欲のせいで思考が鈍っているのもあろうが、もう、解決作はひとつしかないと思われる。実に不服だが。



 誰かさんにきつく縛り直された帯を解いて、緩んだ羽織の合わせに手を差し入れた。微かに兆した熱を指で包んでみると、体は歓喜したみたいに震えた。胸の奥がどくどくと濡れて、絡みつくような快楽に視界が霞む。ぼやけた視界の先には薄暗い天井だけがあった。吐いた息の熱さに嫌気が差す。とことん自分は一人なんだという実感が湧いて、嫌なことから目を逸らすみたいに、瞼を閉じた。

 彼は色恋沙汰について、大層な理想を抱いている。初めはこうするべきとか、がっつくのは良くないとか、次まで我慢せねばならないとか。そうやって、自身に制約をかけているフシがある。
 でもそれは青臭い幻想に過ぎないと、ジュダルは内心吐き捨てていた。
 彼は知らないのだろう。案外、世の恋仲たちは倫理観や秩序に縛られない付き合いをしている。自由恋愛という大義名分の下、移り気激しい若い男女はその場の勢いとか、気分とか、ノリとか、性欲にかまけて組んず解れつ、よろしくやってるわけだ。

 王家に生まれた以上、跡継ぎを残すのは男子の役目である。継承権が下位だった彼にその役目はさほど回ってこなかったであろうが、政治的判断で選定された女と子を作り、なんなりをせねばならない。女に困ることはないだろうが、誰を妃に選ぶかはわりとシビアな問題だ。相手の身分とか家柄とか、生まれ持った肩書きに左右される。そしてそれは、生まれながらにして周囲に決められていたり、強制されることもある。古今東西、偉いやつほど自由意思は持つべきでないと、制限される宿命にあるらしい。

 とどのつまり。白龍はそうした大人の事情とやらを間近で見てきたから、夢を見てしまうのだろう。手を伸ばしても届かないと思われた遠い理想は、さぞ美しかった筈だ。
 白龍の理想に付き合ってやる義理はない。けれど情はある。
「……は」
 好意を伝えたときの、驚きに満ちた表情はなかなか忘れられそうにない。その直後の嬉しそうな声色とか。柔らかそうな睫毛のかたち、まぶたの丸みに、下がった目尻。
「ん、っ」
 いらいらしてしょうがない。自分ばっかり好きみたいで、嫌になる。
 いつからこんなに、あの男に抱かれたいと思ったのだろう。体と心の最奥を踏み荒らされてもいいと思えたのはこれが初めてだ。マギとしての能力だけでなく体の隅々まで差し出してもいいと思えたのは、後にも先にもあの男以外存在しない。不思議とそう確信する。

「あ……」
 少し擦れば容易く高まる体の、なんと浅ましいことか。いつだって気高く、高潔であろうとする男にはとても、とても、似つかわしい。深窓の令嬢にでも宛てがってやったほうが、彼の為にも練家の威厳の為にも、良いに決まってる。
 その気になれば育ちの良い貞淑な娘の一人や二人、脇に抱えることだって出来ただろう。選り取り見取りな立場に居るくせに、なんでこんな厄介な、確執と因縁しかない奴を好きになったりしたのだろう。面倒事しか起こさない、国に不利益ばかりもたらす奴の御守りなんて、誰もしたがらない。にも拘らずあの男は、しなくていい苦労ばかり率先して買って出て、あまつさえそれが好きだというのだから、よっぽど趣味が悪い。

 ……そうやって、脳内で思いつく限りの悪態を吐いてみたが、どうだろう。

「……なんで」
 ぬるつく右手を性器に絡ませるだけで、どうしてこんなに気持ちが良い。湿っぽい布団に四肢を包んで息を吐くだけで、どうして胸が苦しくなる。孤独をより一層感じるほど涙が滲んで、そんな心情を嘲笑うみたいに体が昂ぶってゆく。
 罪悪感と背徳感のせめぎあいの最中。まぶたの裏に蘇るのは、たなびく藍色の影ばかりで。



「……あ、っ、!」

 汗でじっとり濡れた肌を寝間着に押し付けて、ジュダルは息を吐いた。全力疾走したあとみたいな疲労感が押し寄せて、鼓動が落ち着かない。シーツをきつく握った指は痛いくらい爪が食い込んでいたが、そんなことはどうでも良かった。

 汚れを拭った懐紙を屑籠に放って、うつ伏せに寝転んだ。素肌が直接冷たい布や外気に触れると、ひどく心地がいい。妙に冴えてくる思考や漂う精の匂いに気づかぬ振りをすべく、このまま寝てしまおうと思った。
 喉の奥からじっとりせり上がってくる罪悪感は唾ごと飲み下す。頭を埋め尽くす後悔の念を振り切って目を閉じる。唇に残る柔らかい感触は気の所為ということにする。
 一人寝の夜がこれほど虚しく、苦しいだけの時間になったのは初めてだ。虚脱感に苛まれる。遠ざかる意識の中で最後に思うのは、明日、どんな顔をして奴に会えばいいのかという、些細な悩み事だった。



 翌、明朝。

 どこかよそよそしくなってしまう自分と白龍は、アリババとの約束通りバルバッドの地に赴いていた。
 今回の件に関してとくに、法廷で争おうとか、賠償金を支払えだとか、そんなことを言う気は毛頭ないらしい。移動の最中に白龍から一部始終を聞かされ、ジュダルは話半分にそれを聞き流した。

 かつては同じ目的の為に、共に戦ったこともある。しかしそれ以前には幾度も衝突して、小競り合って、傷つけ合う時もあった。大きな局面を迎えて和解に漕ぎ着けたが、流された血が無かったことにはならない。お互い様だと言って禍根を残さぬよう努めてはいるが、彼の仲間や国民を傷つけた事実は一生残るし、人々の記憶の中で付き纏う。散々後ろ指を指されてきたジュダルにとって、復讐心とはもはや人間の本能なのだと理解していた。
 だからアリババが今回のことをあっさりと無罪放免にするわけがない。と、ジュダルは考えていた。
 目には目を、歯には歯を、とまではいかないにせよ、何かしらの罰は与えられる筈だ。そして白龍もそれを承知で、自分をバルバッドに連れて行こうとする。二人並んで地べたに土下座でもさせられるのか。見せしめに市街地で縛られて晒し者にさせられるか。奴隷のように劣悪な環境で労働に従事させられるか。
 どんな刑罰に処されるにしろ、ジュダルは甘んじて受け入れるつもりでいた。それは反省の姿勢というより、開き直りと呼ぶほうが正しい。最初からその覚悟でアラジンに喧嘩を吹っ掛け、市街地で暴れ回り、森林を破壊した。他人への迷惑より自分の都合を優先したかった。妙に冷静な判断力を以てして実行した。だから相応の罰があろうと異論はなかった。



「よお白龍……と、ジュダルも」
「ご無沙汰しております、アリババ殿」

 待ち合わせに指定されたのはバルバッド南東部の未開拓森林地帯だ。目前には裂けた大地と空の切れ間が広がっている。つまり先日、ジュダルが破壊し尽くした光景がそのまま証拠として残されていたわけだ。修復作業が施された形跡はなく、痛々しい爪痕が横たわっている。
 遠くに見える、巨大なクレーターの中央にアラジンが立っていた。表情はよく見えないが、こちらに向かって愛想良く手を降っている。アリババはその様子を遠目に見つめながら、歯を見せて笑った。
「段取りはこっちで進めてあるぜ。アラジンが徹夜で仕上げてくれた」
「左様ですか。ご迷惑をおかけしたのはこちらだというのに」
「気にすんな。アラジンはわりと乗り気で準備してくれてたからよ。あれは根っからの魔法オタクだぜ」
「何から何まで申し訳ない。……ほら、ぼさっと突っ立ってないで行くぞ、ジュダル」
「……は?」
 アリババと白龍は既に示し合わせたように話を進めていたが、こちらは何も聞かされていない。バルバッドに来いと言われて、着の身着のまま、白龍に首根っこを掴まれて訪れただけで。開口一番謝罪を要求されると思いきや、予想と正反対の反応だ。
「……怒らねえの?」
「俺はこう見えて腸煮えくり返ってるぜ?」
「おいジュダル」
 無神経な発言を咎めた白龍が、ジュダルの後頭部を叩いた。
「本来であればお前のしでかしたことは国際憲章に違反する重罪で、外交問題に発展してもおかしくないんだぞ。それをアリババ殿のご厚意でだな……」
「何? 許してもらえるワケ?」
「なわけねーだろ!」
 今度はアリババがジュダルの頭を叩いた。
 二人とも口ぶりは怒っているふうを装っているが、横顔はどこか晴れやかだ。理由は分からない。それとなく尋ねてみても、はぐらかされる。たぶん自分は二人にからかわれている。



「あっジュダルくん! こっちこっち!」
 大きな地面の窪みでしゃがみこんでいたアラジンが、立ち上がって手をこまねいた。青い瞳に怒りの色は見当たらない。
「んだよ……」
「アラジンが一晩かけて作ってくれたんだ。この魔法陣を」

 窪みに沿って描かれる巨大な円と、折り重なる紋様、大量の文字式。古代文字トラン語による膨大な術式で構成された図形は荘厳で、目を剥くほど複雑怪奇な様相を呈している。ひと目ではそれが何を意味するのか、どういった作用がある術式なのか、解読不能だ。
 アラジンは片手に持っていたオンボロの杖を地面に置いた。その指は土汚れがびっしりこびりついている。杖の先端や指で直接、地面に描いていたらしい。彼はそれらを踏まぬよう注意を払いながら、こちらに歩み寄ってくる。
「君の目から見てさ、僕の魔法陣にアドバイスが欲しくて」
「ハア~!?」
「分からないとは言わせないよ。君ほどの魔導士なら当然、解読できるだろう?」
 己を罰するため、悪魔を錬成するのか、大剣の雨を降らすか、大雷に体を打たせるか。一体どんな思惑があってこんな術を地面に描く必要があるのかと、ジュダルは魔法陣を見遣った。

「……」



「ふふ。驚いた?」
「ジュダルにはアラジンと力を合わせて、この森林を完全に復元してもらおうと思ってな」
「君一人じゃ力不足だろう? だから僕が手伝ってあげる」
「んだとこのチビ」
「まあまあ二人とも」
 ジュダルは一歩身を乗り出して、アラジンが一晩かけて考案したという自作の魔法陣をまじまじと見つめた。
「……あそこの式おかしくね? 順番が間違ってる」
「わっ本当だ! 他には? 他にも変なとこない?」
「んーと……」
 書き記された円環と指示系統、術式にくまなく目を配った。ジュダルは手にしていた大杖の先端でそこと、そこと、あそこと、と指し示す。アラジンはジュダルの指摘に首肯しつつ足裏を使って文字を消して、指で書き直すという作業を繰り返した。
 そうやっているうちに、やがて完成した図形を前にした魔導士の二人は、肩を並べて眺めていた。式がひとつでも狂ったらうまく発動しなかったり、思わぬ働きを見せたりする御し難い代物だ。強大で複雑であればあるほど、その取り扱いには細心の注意が必要となる。知恵も魔力も体力も、どれかひとつでも欠けたら魔法陣は機能しない。

「上手くいくかなあ」
「さあ。やってみねーと、何とも」

 複合魔法を他人と行うのは生まれてはじめてだ。誰かと息を合わせて魔法を使うなんて、誰かに習ったことも専門書に書いてあったこともない。それは恐らく彼とて同じで、だからやってみるまでは何が起きるか、正直言って分からない。
 森林を蘇らせるには生命を司る八型魔法が必要不可欠だが、それはジュダルがとくに不得手とする分野だ。窪んだ地形を元に戻すための力学魔法も、少々こつが要る。広大な面積に魔法を施すとなれば難易度は段違いで、とどのつまり、自信はあまりない。
「……」
 少し離れた平地で様子を窺っている白龍に、視線を向けた。彼は風に靡く冠飾りを盛大に揺らしながら、のんきな面持ちで突っ立っている。その隣に立つアリババも同様だ。
 彼らは金属器がない以上、自分たちの身を守るすべも持たない。体内に流れる魔力を多少操作するくらいは出来るらしいが、そんなもの、この状況では役に立つ筈ない。むしろ足手まといになるので、何があっても被害が及ばない場所で待ってもらうことにしている。

「どうしたジュダル! 自信がないのか!」
「っせーな! 余計な口挟むな!」
 僅かに滲んだ不安や懸念を悟られた。遠くから叫ばれて、図星を突かれて、否定も肯定もできるわけが無い。安全圏で悠長に佇む男を睨み返して、暴言を吐いた。するとそれを受けた白龍も、唇を開く。
「お前は煌帝国が誇る一流の魔導士だ! 俺が保障してやる!」
「うるせー! いらねーよンなもん!」
「ならその実力を見せてみろ! 隠したりせず、正々堂々と! 俺に認められたいと思うなら尚更!」
 向かい風に打たれて後れ毛が靡いていた。

 目下にあるのは自分のせいで酷い有様になった大地と、切り抜かれた森林と。空の向こうでは並んで飛び立つ渡り鳥の群れが、雲間を縫って横断している。抉れた地面に日が差して、土埃に塗れた影がゆら、ゆら、と動く。
「……仰せのままに」
 大杖を振り翳すと空気がひび割れて、地面が揺れる。粉塵が舞う大地に足を置いた。

「ジュダルくん。手」
「手?」
「呼吸と、気の流れを合わせよう」
 差し出された丸い手指はすっかり土で汚れていた。汚い手のひらだ。よく見ると痣と血豆も浮かんでいた。ささくれとひび割れが目立つ指先には血も滲む。
 ジュダルは傷だらけの手をきつく叩いた。ぱしん、と乾いた音が鳴る。
「……えっと」
 たちまち目を丸くするアラジンの顔を見つめる。行き場を失った手がひらひらと宙を舞っていた。
「……フン。あほらし」

 縮こまる汚い指を引っ掴んで、思いきり握り込んでやる。
 アラジンは一瞬目に涙を浮かべたあと、ジュダルの顔をまじまじと見つめた。
「い、痛いよ」
「あとで握り潰してやるよ、こんなきたねー手」
 掴んだ手のひらを掲げて、唇を釣り上げてみせる。彼はどこか擽ったそうに微笑んだあと、それは勘弁してほしいな、とわざとらしく呟いた。



 風が一瞬止んだタイミングで、二人は目を閉じた。

 触れた手のひらから伝わる脈と、血潮の温度と、魔力の流れ。やがては心音さえも同調させてゆく。
 複合魔法のやり方は知ってる。頭に浮かぶ術式と、力の加減と、魔法の発動イメージを計算して、力を解き放つだけだ。マギでなくなった今の体でも、無尽蔵とは言わずとも、並の人間より圧倒的に膨大な魔力量が内蔵されてある。肉体が耐えられる限り、強力な魔法だって発動できる。天地創造なんて易いものだ。
 何度も自分の心にそう、言い聞かせた。不安はある。失敗したらどうなるか、想像もつかない。成功したとて、景観を元通りに修復できる確証はない。
 しかし漠然と、何とかなるんじゃないかという妙な自信と全能感が頭の片隅で漂っていた。現実は案外残酷で、理不尽な結果ばかりを突き付けてくるけれど。この時だけは自分にとって都合のいい夢を、夢の続きを見せてくれるのではないか? そんな説明しようのない自負心だけに、背中を押されていた。

 地面に着けた二本の杖から光の帯が迸り、雲を裂いて天空へと伸びる。空気の流れが変わった。これは機運だ。地脈が足裏から伝わる。気流が手に取るように分かる。
「「せーの!」」
 示し合わせたわけでもないのに、声がぴったり重なった。



 岩場に腰かけて、アリババはふと隣の男を見上げた。目下では二人の大魔法使いの手により、荒れた大地が復興を遂げようとしている真っ最中だ。光りに包まれてゆく視界からわざと目を逸らして、なんの気無しに声をかけた。
「これもお前の見込みどおり?」
「……」
 白龍はゆっくり瞬いてから、僅かに目を細めた。
「あまりに弱気な顔をしていたので、ちょっと発破をかけてやっただけです。……まさかここまでされるとは、思いも寄らない」
「だよなあ。あいつらほんとにマギじゃなくなったのか?」
「ふ。貴方がそれを言いますか」
「だってよお、これは……」

 空を仰げばたなびく白い雲と柔らかい日差しが、視線を下ろせば緑豊かな森林が、地平線の彼方にまで続いている。
 でも目を凝らせば、見えてくる景色はそれだけじゃない。

「俺は元通りにしろとしか言ってねーぞ。なんで元より派手になってんだ?」

 平地には草木のほかに色とりどりの花が咲き乱れ、穏やかな風に揺れていた。白、桃、赤、橙、黄、緑、青、紫……と色相を順番に並べたグラデーションが目に飛び込むと、とうとう抑えきれない。アリババの隣で立っていた白龍は、明るい声であっはっはと盛大な笑い声を上げ始めてしまった。
「他人事だからって笑いやがって! なんだこの花畑は!? 誰も頼んでねーよ!」
「粋な演出じゃないですか。ぷぷ。ああ、ふふ。おかしい、おかしい……」
 くつくつと喉の奥で笑いを堪える白龍が一歩、前へ踏み出した。割れた地表が剥き出しになっていたそこは草が生い茂り、花の蕾をつけて、足元でゆらゆらと若葉を覗かせていた。

 すっかり様変わりした景観を見上げて、息を吐いた。
 一時はどうなることかと思った。一個人が他国に宣戦布告なんて、現代じゃ許される筈が無い。ちょうどいい折衷話を用意しないと示しがつかない。市街地で交戦し、森林を破壊し、国土を蹂躙された――こうなっては国民や新政府が納得するシナリオを披露せねば、国際問題に発展しかねない。
 ジュダルの力を借りて国土と自然を完全に復元すれば、そして二度と武力行使を断行しないと誓うのであれば、今回は目を瞑ってくれるんじゃないか。アラジンのひょんな思いつきにより決行された計画は白龍の理解も得られ、無事に功を奏した。少しやり過ぎかもしれないが、それはジュダルが秘める能力を我々が見誤っていた証拠だ。
「おい白龍見てたか、俺の魔法!」
「アリババくん、僕の魔法陣はちゃんと成功してたよ!」
「俺のアレンジも加わってんだから手柄は半分だろ!」
「でも術式の基礎は僕が……」

「あーもう二人とも、分かったから」
 先に近づいていた白龍が二人の肩を叩き、ほら足元を見て、と声をかけた。
「うわっスゲー花! これは確実にアラジンの趣味だぜ」
「僕は植樹に集中してたから花は知らないよ、ジュダルくんがやったんだろ!」
「どっちでもいいっつーの。それより、おいジュダル」
「ん?」
 アリババが会話に割って入った。名前を呼ばれた男が黒い頭を傾ける。
「もう二度と他所で八つ当たりすんなよ。これに懲りたなら」
「へ?い」
「……この馬鹿」
 そっぽを向こうとするジュダルの頭を掴んで、白龍が真上から押さえつけた。力任せに頭を下げさせて、ちゃんと謝れ、と大きな声で命令を繰り返している。教育的指導と呼べば耳障りはいいが。それはあくまで形だけで、強制的だ。
 白龍はジュダルの隣で深々と頭を下げ、その表情は窺い知れない。
「アリババ殿、見苦しい姿をお見せして申し訳ない。こいつは俺が厳しく躾けてやります」
「……だそうだぜ、ジュダル?」
「うぜえ?」
「ふふ、暫くはまた賑やかになりそうだねえ」

 アラジンが最終的にそう締め括り、四人のひと悶着は一件落着したのである。