ニライカナイをゆめみるひとたち 5
帰国後、皇帝陛下にこっぴどく叱られたのは言うまでもなかったが、自分と並んで説教を受けていたくせに、アイツは反省の色を微塵も見せなかった。
やっと風呂に入れる、美味い飯にありつける、ぬくいベッドと枕に体を埋めて思う存分眠れる。そんな子供っぽい願望を口にしながら、一日ぶりの宮廷で羽根を伸ばしていた。
周囲は散々心配して迷惑も被ったであろうが、本人は意にも解さない。それどころか当てつけのように、飯はまだかとか着替えを早く持ってこいだとか、横柄な態度で宮仕えを呼びつける始末。あまりにも目に余る言動だったので一言注意してやると、俺は大魔導士様だからとか何とか言って、話に耳を貸さない。
一晩経ったところで、彼の中では心境の変化など無かったのだろうか。
昨晩はやけにしおらしく、大人しく、甘え方を知らない捨て猫みたいに、よそよそしかった。素直に心境を吐露してくれた。その内容はあまりにも子供っぽくて、直球で飾り気のない、好意のしるしだった。降り積もった新雪を踏みしめるように、心の内側へ触れることを、つかの間ではあったが許してくれた。
あんな言葉と態度を向けられて勘違いするな、と言うほうが酷だ。でもあの男は平気で、そういう人の善意や好意を踏み躙る人間だった。だから期待するのも良くないと自分に言い聞かせて、高慢ちきな彼との距離の取り方を、考えあぐねていたわけである。
なんせ自分も彼に、好きだの何だのと恥ずかしい告白をさせられた。言わなきゃよかったのに、言わなくてもよかったのに、言わされた。それでいて彼からの明確な返事は貰えず、己ばかりが損をさせられた。
口にしなければ自覚することもなかっただろうに。抉り取られた感情を見せつけられると、意識せざるを得なくなる。無かったことにもできようが、一度発露した恋愛感情に無自覚でいられるほど、自分はまだ大人じゃない。図体ばかり大きくなってゆくが、色恋沙汰に関してはまだまだ発展途上のど真ん中だ。駆け引きなんて知らない。そういう意味では、自分より彼のほうが何枚も上手だと思う。
宮仕えのひとりがジュダルの元へ歩み寄り、湯浴みの準備が整ったことを伝えた。広間の長椅子で寝転んでいた男はそこから飛び起きて、早く案内しろと声高にせっつく。そんなに急がなくとも湯は逃げるわけないのに、早くしろと詰め寄るのだ。周囲も呆れ顔を堪えながら、そいつを連れて広間から出て行った。
「ジュダルちゃん、すっごくご機嫌ね。何か良いことでもあったのかしら?」
「え?」
「え、って。分かりやすく上機嫌じゃない。白龍ちゃんも見てて分かるでしょう」
「えっと……」
あれが上機嫌の態度なのか。だとしたら厄介なことこの上ない。もっと大人として、身の振り方を弁えるべきだ。
「白龍ちゃんがあの子とお話してくれて、ほんと良かったわあ。ずっと元気なかったもの。何か悩み事があるのかなって、それとなく話を聞いてみてもはぐらかされちゃうし」
「……」
「だから有難う。ジュダルちゃんを連れて帰ってきてくれて」
「あいつの面倒は俺の仕事みたいなものでしょう」
「あら? 仕事じゃなくて好きでやってると思ってたわ」
「だ、誰があんな奴……」
「ふふ、冗談よ」
義姉はいつものように朗らかな笑みを張り付けて、おどけてみせた。
「そういえば姉上。件の、開発事業についてですが」
「ああ、平原北東部の件ね。どうだった?」
「あいつを探す最中に見てきました。今やあのあたりは山を切り裂いて出来た川や湖が多く、それぞれの水脈が海岸線に繋がっているとみられます。いわゆるフィヨルドと呼ばれる地形に近いかもしれません。内陸部は湿地や盆地が広がっているようでした」
「そうなのね。ならせっかくの景観を生かして整備を進めるのも良さそう。北大陸の雪原地帯を参考にしたいわあ。白龍ちゃんはどう思う?」
「……姉上、お言葉ですが」
ジュダルを探しに出かけることと、仕事に丸一日穴を空けることを彼女に報告した際、言われたことがある。奴の故郷とやらは今どんな風景になっていて、何が見えて、何が無くなっているのか。今後の調査開発の参考にしたいから詳細に教えてくれと頼まれた。
それは一体、どういう風の吹き回しなのか? 電話口では聞けなかったけれど、今なら真意を確かめられる。
「あいつに気を遣われているんですか? だとしたらあまりに分かりやすいと言いますか。あれの性格を考えると、情け無用だと切り捨てられてもおかしくないです」
「あら、私はそんなつもり毛頭なくってよ? お言葉だけど、白龍ちゃん」
彼女は胸を張りながら一呼吸置いた。
「これは白龍ちゃんのためでもあるし、私のためでもあるの! 確かに考えるきっかけをくれたのはジュダルちゃんだったけど?」
「は、はあ」
「みんなで力を合わせてひとつのものを創ってみたいのよお。素敵じゃない? 煌帝国の人も、そうじゃない国の人も関係なく、出来ればみんなで」
「なんだか似たような例が一つ、思い浮かびますね」
多種多様な種族が一人の人間のもとに集まり、建国まで成し遂げた。歴史上類を見ない偉業は当時としても注目を集めていたが、今もなお人々の記憶に新しい。
「ええ。シンドリアがそうだったわね。シンドバッドという男が中心になって成功させた。あの国は彼の正しさを証明する物だった」
「……」
運命の寵愛を一身に受けた男は、誰もなし得なかった奇跡を実現させた。選び取った行動すべてが正しい結末に収束されてゆく、稀有な人間だったことも大きく影響しているだろう。自然と集った同志らも彼の取捨する正しさの結末、高過ぎる展望に惹かれた筈だ。
この世界すら自身の布石にしてみせた豪胆さには確かに、強く魅入られてしまうのも致し方ない。彼が紡ぐ完全無欠な未来予想図を、一緒に見届けたいと誰もが思わせられる。強烈な引力に、凡人は為す術もないのだ。
しかし、そんな男の唯一の誤算といえば。自身もその他有象無象と何ら変わらないただの人間だった、ということだ。特別過ぎたゆえに、そんな簡単なことにすら気づけなかった。
力を得過ぎた人間が、いかに傲慢で横柄で増長してしまうかなんて、とっくに知っていた筈なのに。自分がただの人間であるという認識が希薄で、自己を顧みる意識が無さ過ぎた。正解を選び取れる力に頼りすぎて、他の可能性に見向きもしない。自分の居る場所だけが正義だと信じて疑わなかった。なんと愚かで、破滅的な末路だろう。
たしかにあの国は平和で、平等で、豊かで、幸せで。教科書のお手本をなぞったみたいに、国として正しい在り方をしていた。群雄割拠の混沌とした世の中で唯一、常に光の当たる道を歩んでいた。
そうやって正しいことだけを選び取れる能力なんて、権力者にとっては喉から手が出るほど欲しいに決まってる。あの男はその能力を生まれながらにして身の内に宿し、思うままに行使していた。贅沢な話だ。
「私達には何が正しいか、間違ってるかなんて分からないわ。毎日手探りで行き当たりばったり。喧嘩はするし家出もするし、突然連絡を寄越したと思えば仕事をさぼるし」
「…………」
「でも、そんな私達でもこんなことが出来たんだよって、形に残しておきたいの。そうしたらみんな、喧嘩したって仲直りできるでしょう。見えない心の繋がりを形にできたら、わだかまりなんて小さく見えるものね」
「……そう、ですね」
「だから白龍ちゃん、手を貸してくれる?」
「……ふ。勿論とも」
高い理想の果てには何が待っているか、誰も知らない。逆に言えば、知らないからこそ人は夢を持つし、理想を掲げられる。彼女の夢は彼女らしい、等身大の展望だ。小さな丘から見える景色はまだ雑然としているだろうが、いずれは地平線を見渡せるくらい偉大な志となっている、かもしれない。
湯浴みと食事と着替えを済ませて、一日ぶりの私室で休息を取った。帰国直後は怒涛に溜まった仕事を押し付けられるかと思いきや、そんなこともなく。それどころか、明日の午前中くらいまでがぽっかり空いたスケジュールを言い渡された。そしてそれは、ジュダルも同様だった。
白龍は、紅玉が言わんとする”やるべきこと”が何なのかを思案していた。自分と同じ予定表を持つ男は久々の休暇だなんだと言ってぬか喜びしているが、たぶん、そうじゃない。何かしらの意図があって、スケジュールを組まされた筈だ。
理由を問うてもはぐらかされるばかりで。でもそれは逆に、彼女による何某かの意図を持った采配だと確信させられるわけで。
わざわざ言わなくても何をすべきか分かるわよね? とでも言いたげな、鋭い眼光に晒された。白龍はそれ以上紅玉に何も言えず、黙って頷くことに徹したのだ。
ノックもなしに部屋の扉が開けられて、視線を向けた。廊下の外に見えたのは湿った髪を肩から揺らす、だらしない男の姿だった。
「……ジュダル」
「んだよ改まって話って」
寝間着のような羽織りを一枚を身に纏い、布を引きずりながら歩み寄ってきた。相変わらず素足だし、前髪から水滴が垂れているし、一体彼の世話役は何をしているのかと問い質したくなる。
「服ぅ? だってめんどくせーもん。ひらひらした布は動きにくいし」
「もういい。ここ座れ」
「ん」
寝台の端に座らせて、空いている隣に自分も腰掛ける。敷布の上に流れる曲線状の毛束を手に取って、大きめの手拭きと、解き櫛を用意した。
「お前の世話役はじつに災難だろうな」
「白龍はその災難を引き受けてくれんの」
「仕方ないからな」
見かけは立派な大人のくせに、中身はいつまで経っても落ち着きがない聞かん坊だ。これで年上とは思えない。
御髪の長さは、その人がどれだけ大事にされてきたかという裏付けでもある。自分よりずいぶんと長い、猫のような柔らかい癖毛は扱いも難しいだろう。ここまで伸ばすのにどれだけ時間がかかったか。そしてどれだけの人の手に、この黒髪は大切にされてきたか。彼はそれを知ろうとしないし、予想もしない。
「にしても明日は昼まで寝れてラッキーだぜ」
「……ああ。その話だが、」
――今晩、少しだけ時間をくれないか。
数時間前に白龍がジュダルにそう告げた。彼は不思議そうに目を瞬かせながらも二つ返事で了承していた。美味い飯とぬくい風呂と柔らかい枕のことで頭がいっぱいだからか。返答を考える素振りもなかった。
「明日は朝からバルバッドに発つ。俺とお前で」
「おー、明日の朝…………明日ぁ!?」
「わざわざ平日のど真ん中に宛行われた休暇を、ただの休みだと思うか。分かりやすい罠だろうが」
「知らねーよ、んなもん。腹の探り合いは他所でやってくれ。俺はパス」
彼はひらひらと、手の甲で宙を仰ぐ。その仕草が妙にむかついて手首を握った。
「アラジンとアリババに謝罪しに行くんだ。菓子折りを携えてな。今のうちにお前用の謝罪原稿も作っておくか?」
「はあ!? ヤダ! めんどくせーよ! 俺の休みは俺が決める!」
「うるさい! 我儘言うな!」
「うぜえ! てかお前の声のほうがうるせーよ!」
「なんだと!?」
「絶対明日は寝る、昼まで寝てやっからな!」
「怠け者! 俺の言うことなら聞くんじゃないのか!?」
ぎゃんぎゃん騒ぐ男に、それ以上の声量で応戦した。短絡的な言葉の応酬が暫く続いて、それから少しの沈黙が流れる。
「……ずりー言い方! そんなん、断れねーじゃん……」
「なんだよお前……」
存外、御しやすい奴だった。
「あーあ。話ってそういうことかよ。期待して損した!」
「期待?」
「うん」
湿った毛先を揺らして、ジュダルが微笑みかけてくる。ゆったり持ち上がる唇の色に、つかの間目を奪われた。
「なんだあ、分かんねーの? これだから第四皇子サマはいけねーなあ」
「え?」
「はは……」
足を組み替えて、ぐっと距離を詰めてきた。敷布に皺が広がるのも厭わない。彼は背中を屈めて、遠慮がちに顔を覗き込もうとする。赤い目がちらちらと、篝火みたいに光を灯す。
「閨の誘いかと思ってたのによ」
「な……」
なわけあるか! と叫びそうになった。
が、視線の先に広がる光景を前に、喉がつっかえた。
「まさかお前」
「察しが悪いぜ、白龍。いくら俺でも髪くらい自分でどうにかするわ」
「おい……」
「律儀に手入れされるなんてな。あー面白い! このあと服も着せてくれんの?」
色仕掛けにしては下品で卑しくて、お粗末が過ぎる。本人の素行が普段から悪いせいもあるし、そんなの、察せるわけが無い。
「言っただろう。俺はそもそも、今のお前にそんな気は毛頭ない」
「へー」
「一方的に好いた相手を組み敷くことはしない。俺の言葉に流されやすいお前なら尚更だ」
「ふーん」
胡座をかいた膝の上で頬杖をつく。男はからかうような相槌を打ち始めた。
不遜な顔はやけに血色が良かった。
好きだと告げたとき、同じ台詞を同じ熱量で返してくれる人が居るというのは、とても幸福なことで。言葉だけじゃない、何物にも代え難い居場所を与えてくれるのだろう。誰かの特別であるということは、踏み入ることを許されている根拠にもなる。それを確かめ合うために、人は肌を触れ合わせたり、互いの口で愛を語り合うのかも、しれない。
だからその順序を飛ばして形だけの、つがいの真似事をしても、得られない愛情の不在を余計に感じて虚しくなるだけだろう。
人間という生き物は、自分を好いてくれる相手を好きになりやすいと思っていたが。案外、現実は手厳しい。勇気を振り絞って感情を示したとて、反応が芳しくないことはザラにある。
差し出した手を握り返されなかったとき、いつ引っ込めたらいいか分からなくなる。
いつか振り向いてくれるだろうかと淡い期待を抱きながら、遠ざかる背中を見上げるたび、いつもそう思う。人の心とは流動的で留まることを知らないから、努力や忍耐が必ずしも結実するとは限らない。初恋は報われない、なんて非情な言葉もあるらしいが、だからって諦めるにはあまりに惜しい。自分ではなく別の人を映してばかりの瞳を前にしても、悔しさばかり募って、諦めきれなかった。
それももう、随分前の出来事だが。
幸せを願うことを許されるだけ、まだマシなのかもしれない。
新たな門出を祝う一員にしかなれない自分の不甲斐なさは、幾度の夜を乗り越えるたびに薄らいでいった。なんせ、人の感情とはたいてい、時間が解決してくれたりするから。
だが目前の問題は、時間だけじゃ解決もできなさそうだ。
「同じことを何度も言わせるなよ。俺はそんな、不誠実なことはしない」
「……そんなこと、ないだろ。別に」
「俺の話、聞いてたか」
「うん」
ジュダルは居直るみたいに首肯していた。
「答え合わせする?」
「何の?」
にい、と唇がつり上がった。また、ろくでもないことを考えている。
白龍はそれとなく視線を逸らして、この話はこれで終いだ、と言外に告げた。
「手ぇ、貸して」
「?」
言うや否や左手を取られて、体に直接、宛行われた。はだけた布の隙間から差し入れるようにして、ジュダルの胸元に自分の手のひらが当たる。
「……おい」
「別に減るもんじゃねーだろ、こんくらい」
左胸の真ん中あたり、おそらく心臓の真上だろうか。ぬくい体温が手のひら越しに伝わった。薄い皮膚の真下を通る血潮が、程よく生温かい。
じっくりと当てた手に汗が滲み始めた。いつまでそうさせられるのだろう。これは何かの儀式か、触診をさせられているのか。
「……わかるか?」
「ん?」
「あはは、鈍感! これ以上って言われても、俺は身一つしか用意できねえぞ。いい加減分かれよバカ!」
悪戯っぽい笑みを浮かべて、舌を突き出してくる。演技じみた振る舞いは、少しよそよそしい。
「……あ」
ほのかに赤らむ頬に、目が釘付けになった。
「……わかった?」
「心臓がやけに、騒がしいな」
「うん」
「顔も赤いし」
「うん」
「それに、体温も高い」
三回目の相槌はなかった。
唇の中に紛れてしまった声は耳に届かなかったけれど、でも、聞こえる気がする。
腕の中で凭れかかってくる体の熱さ、脈の速さが、頭に響く幻聴に説得力を与えてくれる。うんそうだ、お前の言うとおりだ、全部合ってるよ――と、頭の奥で誰かが囁く。
「……これから、どうする?」
「どうって」
かまととぶんなよ、と蔑む声のあと、また唇が触れた。粘膜どうしが擦れ合うのがいやに心地いい。それしか知らない子供みたいに、暫くのあいだ、唇を触れ合わせた。
「……明朝は早い。もう寝たほうが」
「この流れで!?」
はだけた布が肩からずり落ちて、胸元が顕になる。俄に色づく肌の、わざとらしい艶めかしさに目を逸らして。長襦袢の襟元を正してやった。鎖骨まで覆い隠すように持ち上げて、帯をきつく締め上げる。ぐえ、と潰れた蛙みたいな声が聞こえた気がしたが、今は無視だ。
「なんでだよ」
「なんでもだ」
濡れた唇を指で拭ってやると、ちろ、と赤い舌が覗く。
「なんで?」
「なんでって」
蠱惑的な赤目がしきりに訴えていた。さっさと抱けばいいのに、と手をこまねいてくる。もっと触れてほしいと、分かりやすい劣情を滲ませる。男を惑わす色気で、どうにか口説こうと躍起になっている。
どれもこれもが魅力的な誘い文句だ。
が、今は。
「お、俺にも心の準備とか、その」
「はあ?」
「実感がないんだ、まだ。だから」
「……力づくで実感させてやろうか?」
「そ、そういうのは、良くないだろ」
ジュダルは心底つまらなさそうに、唇を尖らせている。
「じゃあ何、俺はどーすりゃいいワケ」
「自分の部屋で寝ればいいだろ」
「ハア? ここまで来て追い出されんのかよ。そんなんじゃモテねーぞ?」
「そんなの、別に…」
「この弱虫! へっぴり腰! 根性なし!」
「……」
「あーあー、もう知らねーっ! 百年の恋も冷めちまうぜ、ったくよぉ」
「……」
幻滅した、と言わんばかりに文句の嵐をぶつけられた。寝台から降りて、こちらを睨んでくる。正しく着付け直された長襦袢のおかげで、もう、不埒な雰囲気とは程遠い出で立ちだった。
「……待ってくれ、最後に」
「んだよ」
「……おやすみ、ジュダル」
そっと唇を押し付けて離した。まんまるの大きい真紅が数度瞬いて、じっと固まっていた。
「ふん。あほらし!!」
居心地悪そうに頭を掻いてから、すぐ背中を向けられた。その足取りはなんだか覚束なくて、ゆらゆらと、浮かれているみたいにも見える。
目は口ほどに物を言う。彼の眼差しはいつだって正直で素直だから、手に取るように分かってしまう。それが嬉しくもあるが、少し狡いことをしている気にもなる。いつか本人に指摘してやるべきかと悩むがやはり、暫くは黙っておこう。と、この時改めて思った。