ニライカナイをゆめみるひとたち 4

 時の皇帝陛下、紅玉は執務室の椅子に腰掛けて、ずいぶん静かになってしまった室内を見回していた。ぎしりと軋む背もたれに遠慮なく体を預けて、格子状の模様が張り巡らされた天井に目を遣る。薄暗い影の中に伸びるアールデコ調の意匠が、今は静かに自身を見下ろしていた。
 ゆらめく蝋燭の灯りを頼りに、机上に向き直った。まだ仕事は残っている。夜はとっくに更けており、夕食もろくに口にしていない。入浴も当然まだ先だし、いつになれば床に就けるのやら。時計が刻む秒針の音を意識から逸して、燭台を手繰り寄せた。ここからが正念場だと言わんばかりに、姿勢を正す。夜更しは女の大敵だが、今回ばかりはそうも言ってられない。

 昼間、姿をくらましたジュダルを探しに行った白龍から、今日は戻れそうにないと連絡が届いたのはもう数時間も前のこと。あの真面目で正直で熱心な義弟が日中の仕事をほっぽり出してまで、優先しないといけないことがあったらしい。天変地異の前触れか、なんて誰かは言っていたけれど、あながち間違いでもないのかもしれない。
 白龍からの連絡のあと、現在バルバッドに拠点を置くアリババからも連絡があった。何やら騒がしい一日になりそうだと直感した。
 その場で仔細は聞けなかったが、どうやらジュダルがバルバッド本国の領内で小競り合いを起こしたらしい。相手はアラジンで、一体何がどうしてかは分からないが、市街地や森林地帯で暴れられて、相応の被害を被ったとのこと。
 これに関して、国際的な問題にするつもりとか、法廷できちんと裁いてほしいとか、そんな思いは毛頭ない。ただ皇帝の名の下に預かっている以上、管理はきちんとしておけと、アリババからきつく言われてしまった。
 それもその筈だ。むしろ彼の提示した条件はかなりの温情措置である。本来なら外交問題に発展しそうなものを、旧知の仲だからという理由で表向きは不問にしてくれた。だからこそあの問題児の手綱はきちんと握っておけと、釘を刺された。返す言葉もない。電話口では素直に謝り、今度直接会って話をしたいと、それだけ伝えた。



 皇子殿下が急遽不在となり、その埋め合わせに奔走させられた。直属の部下である夏黄文には代理で会議への出席から会食に至るまで任せたし、自分といえば彼宛に舞い込む案件や電話、書類の確認作業などをこなさねばならなかった。日中はきりきり舞いの連続で、深夜に至った今も仕事はまだ終わらない。散々な一日である。
 彼は賢くて利口だから、宮中に残された皇帝陛下が穴埋めをやらされることは容易に想像がついていただろう。それによる罪悪感や責任感もひとしおで、真面目な性格もあって、苦渋の決断だったかもしれない。それでも、目先の仕事を差し置いてでも、為せばならないことがあったのだ。
 白龍の気持ちを汲み取って、紅玉はそれについて文句は言わず、帰ったらお説教ね、とだけ返した。その代わりきちんと彼と向き合って、仲直りして、真意を聞いてこいと、言外に伝えた。

 現在、煌帝国の公共事業でもっぱら候補に挙げられているのは、やはり土地の整備と開発だ。世界中どこを見渡しても国土はひっちゃかめっちゃかで、人の住みやすい土地にすることが早急の課題なのは人類の共通認識だった。
 煌帝国は大陸東部の大部分を領土としており、整備にかかる費用や時間、必要な人員数は莫大だ。一朝一夕では到底解決できない。長期的な計画と財務のやりくりが成功の鍵だろうか。
「……陛下。夜分遅くに失礼致します」
「あら、夏黄文」
 部屋が薄暗いせいか、はたまた疲労が原因か。やけにやつれた表情の男がわざわざ顔を出しに来た。
「もう。遅いんだから早く寝なさい」
「それはわたくしの台詞ですよ」
「それもそうね。で、その紙束と用件は?」
「はい。昼間、調査のご依頼を頂いてました極東平原全体の地形図について、ざっくりとした噂話程度ですが、ご参考にと思いまして」
 大きな方眼用紙を巻物のように丸めていた。それを散らかった机上に広げてみる。それは東大陸に広がる中原、通称天華とも呼ばれた地域の、現代版に書き直された地図だった。
 夏黄文は赤いペンを持って、平原の北東部を丸印で囲む。
「恐らくジュダル殿の出生地はこのあたりと思われます。まだ我が国の調査団も手が回っておらず、ほぼ未開の地……」
「先日ようやく南部の調査を終えたところだから、これからよね。噂話っていうのは、どんな?」
「はい。調査団の一部や、空路を利用した観光客らの話によりますと、大きな水脈が連なったことで巨大な運河や湖、池が見受けられるようです。それによる新たな生態系も構築されているかもしれません」
「あのあたりは平原で小さな山村ばかりだった筈よね。それが今や、水の都ということ?」
「言い換えればさながら、そうなるのかもしれません」
 二人は腕を組みながら、うんうんと唸った。
「農地として利用はできなさそうね。漁業に特化にして運用するとか」
「あるいは水の都市として、観光にも一役買ってくれそうです」
「成程。それも面白そうね」
 紅玉は夏黄文の話に頷きながら、手元の紙にペンを走らせた。
「して、陛下。何故わざわざジュダル殿の出生地をお探しに」
「うーん、これは私のお節介かもしれないんだけどお……」

 昼間に届いた白龍の連絡と、そのときの会話を思い起こした。
 ジュダルを探しに行くと言われた手前、一体あなたは今どこに居るのと開口一番に尋ねていた。そこで返ってきたのは極東平原に位置する、とある寒村の、ジュダルの故郷だという。
 なぜ白龍が彼の故郷を知っているのかはさておいて。どうしてそんなところにジュダルが居るのかと尋ねると、これは勘である、と男は言ってのけていた。その豪胆さには呆れて物も言えない。反論しようにも、自分よりよっぽどジュダルのことを知っている男が相手だ。自分なんか取るに足らない。彼らの築いた、言葉にし難い関係性に踏み込める余地はなかった。

 思わぬ形でジュダルの出生地を知った自分はまず、広大な天華の現状について調べた。帝都洛昌と付近の市街地の整備はおおかた済んである。政府から送り出した調査団は現在国土の南部で活動に当たっており、そのほかの地域はいまだ手付かずだ。
 だからジュダル自身でさえ、生まれ故郷の現状を見たことも聞いたこともない筈だ。そこにどんな景色が広がっているかなんて、誰にも想像がつかない。が、いつかは彼も、見違えってしまった故郷の有様を目の当たりにする日が訪れる。
 あるいは既に、見ているだろう。凄惨な光景を、その目に焼き付けているだろう。

 ジュダルという人が、生まれ故郷にどの程度の愛着を持っているかは知らない。もう未練はないと切り捨てるかもしれない。生まれてすぐ組織に連れ去られたという彼は、その地に思い出ひとつ残っていないだろう。だから今更、感傷に浸れるわけがない。
 でも、自分が何者で、どこからやって来て、誰に生んでもらって、自分がどうしてここに立っているのか、気にならない人間は居ないはずだ。その手掛かりは残された出生記録だったり肉親がよく知っているはずだが、彼にはそれがない。座礁した船みたいに、寄る辺もなく頼りもなく、暗い海の真ん中でひとりきり。立往生したって誰も行き先を教えてくれない、そんな孤独感に、彼がこの先少しでも晒されることがあるとするなら?

 今や世界は国家という枠組みを超えて、ひとつに結託している。人種も性別も宗教も関係ない。戦争を乗り越え苦楽をともにした仲間だからだ。それはジュダルも同様で、なんなら彼は多勢に無勢の最前線で戦っていた英雄のひとりだ。
 ジュダルの抱える孤独に、どうして見て見ぬ振りができようか。それは皇帝という役職がそうさせているのではなく。"練紅玉"という人格が、家族や仲間、国民をひとりでも多く救いたいとするのだ。
 心の声に従って行動を起こして、恨み言を言われるくらい我慢できる。それよりも、後でこうしておけば良かったと後悔することのほうが、もっと嫌だ。

「自分のことを知ってる人は居なくて、故郷はぐちゃぐちゃ。あの子を堕転させた組織も、前皇妃の玉艶陛下も表舞台から姿を消した。誰もあの子のかつてを知らないのよ」
「それはまあ、そうとも言えますが」
「だからね、だからせめて、私達は忘れてないわよって教えてあげたいの。故郷の思い出がないなら作ればいいのよ」
「作る、とは……?」
「あの一帯を整備して綺麗な街にして、人をたくさん呼びましょう。賑やかで楽しくて、みんなが笑顔になる街にするのよ。悲しくて寂しいだけの思い出を、上書きできるくらいに、ね」
「……」
「そうしたらジュダルちゃんも、故郷で新しい思い出を作れるでしょう? 自分のルーツが空っぽのままじゃ、ずっと寂しいままよ」
「……陛下」
「まあこんなの、あの子にとったら毒にも薬にもならないかもしれないけどね、……夏黄文?」

 長い独り言のような台詞のあと、顔を上げた紅玉の前には心做しか涙ぐむ夏黄文が居た。
「日々目覚ましい成長を遂げられていると感じておりましたが、不覚にも……思わず感動してしまいました」
「感動?」
「ええ、はい。ご立派になられましたね、貴女という人は本当に。陛下のお傍に立つことを許される小生は果報者です」
「あらあ、大袈裟ねえもう。私はそんな立派な人じゃないわよ? 世界にはもっと凄い人がたくさん居るんだから、見習わなくちゃ」
 茶目っ気たっぷりに笑う紅玉の表情は幼い頃の面影を色濃く残していた。人の根幹はずっと変わらずここにあり続けるのだと、証明するかのように。



 まず必要なのは天華北東部の早急な調査だ。そのために必要な人員と予算、期間を大まかに算出し、夏黄文の協力もあって、それらは一晩のうちに纏めることができた。南部の調査事業の立案を一度経験しているため、段取りの策定は手慣れたものだ。
 現実問題として叶うかどうかは、会議に通したり民意を聴取してからになるだろう。しかし思い立ったが吉日という言葉もある。未開の地に夢と希望を抱く者は多い。民衆の注目を一心に集める未開拓地研究という分野なら、まずもって反対する人間は少数派だろう。だから世情が追い風となるのを期待することにした。

 ふたりの帰国後、話を聞かねばならない。白龍からは地域の現在の様子を。ジュダルには、この案についての賛否を。できることなら全会一致の賛成を集めたうえで進めたい一大プロジェクトだからだ。でないとやる意味がない。とくに渦中の人であるジュダルには。

 他人から望まれる振る舞いに徹する人も、そうでない人も、一度輪の中から離れてしまった人も、ひとつの目標のためなら力を合わせられることを、先の大戦で経験した。そこでは共通敵の殲滅という目標によって統率を発揮したが、今回は一味違う。
 破壊のあとには創造が必要不可欠だ。広大な更地に設計図を敷いて、物を作って、運んで、箱を組み立ててゆく。知識や知恵を寄せ集めて、頭を悩ませて、議論を交わして、より良い完成品を目指す。
 創造の大きな特徴は、みなが力を合わせたことの結果が形に残ることだ。壊したあとはその事実や爪痕が横たわるだけだが、創り上げることの一番の利点は、その時の人の思いが物に宿り、後世にも語り継げることだ。生きた証を刻むことができる。それは古ぼけた柱傷より些細な痕跡かもしれない。けれど、どんな下らない物にだって人は意味を見出し、依代とし、大切にできる。何故なら人は弱いからだ。

 頭上で髪を束ねていた簪を手に取り、その豪奢な飾りを見つめた。少し前まで自身の金属器として扱っていた簪だ。かつてヴィネアが宿っていたそれは、今や物言わぬ服飾品として、今日も自身を着飾る道具として扱われている。
 絶大な力を貸してくれた彼女は大いなる運命の円環の一部に組み込まれ、もう話すことも叶わなくなった。今もどこかで、たとえば夜空を彩る星々のように、遠くから見守ってくれているだろうか。神々に愛された王の器たちは、その期待に見合うだけの結果を、道筋を辿れているだろうか。

 ここはまだ夢の道半ばだ。満足するにも諦めるにも早すぎる。
 ゆらめく蝋燭の炎に人類への期待と切望を重ねながら、紅玉はゆっくりと、明日への扉を夢想した。