ニライカナイをゆめみるひとたち 3

 水面に映った自分の顔を見て、思わず立ち止まっていた。
 鼻の穴からとろ、と垂れる赤い液体に目を剥いて、暫く固まった。おもむろに自分の手で自分の顔に触れる。ぬるついた感触が指先から伝わって、おそるおそる人差し指を見た。爪の隙間に染み込んだ血液がつる、と関節を下ってゆく。見間違いではなかったらしい。
 足元――湖畔にしゃがみこんで、水に手を入れた。少量の血はすぐ水に溶けて見えなくなる。水温は肌より少し冷たいくらい。空を見上げると、それがたまたま西側だったらしい。炎が燃え上がるみたいに鮮やかな夕焼け空が視界いっぱいに広がって、眩しかった。
 息を吸うと鉄の匂いが粘膜にこびりつく。水を両手で掬って顔にかけた。水飛沫が上がって、なだらかな水面に波紋が広がる。冷たい温度が心地よくて、顔全体を濯いでいた。

 前髪から滴る水滴を眺めたとき。そういえば、とジュダルは思い出した。拭くものがない。辺りを見渡したら茶色い野原と石と砂利しかなかった。まあるい湖のほとりで肩を竦ませて途方に暮れた。
 ならばと、肩に掛けていた白い布をむんずと掴んだ。額と手と頬と鼻の周りを適当に拭う。すると、白かった布地にうっすらと赤い斑点が滲んで、水と一緒に染み込んでゆくのだ。止血できていなかったらしい。
 汚れてしまったトーブの布ごと水に浸けて、再び顔を洗った。先ほどよりも念入りに、髪の生え際に浮いた汗もついでに洗い流した。
 そうしたら、今度こそ拭くものがない。水を含んでぶよぶよになった布を固く絞って、頬に押し当ててみる。冷たくて、ごわごわして、いい心地はしない。出来れば太陽の光で温められた清潔な柔らかい布に頬を当てて、手触りに癒やされたい気分だった。



「拭くものもないのに……」
「……お」



 言葉とともに、差し向けられたのは真っ白の手拭いだった。そこにある丸い爪と太い指を見つめて、手首と、着流しに包まれた腕を、順番に視線だけで辿る。改めて顔を上げてみると、立っていたのは白龍だった。

 何故、彼がここに居るんだろう。そんな疑問は不思議と湧かなかった。当たり前みたいな顔をして突っ立っていたから、何とも思わなかったのだ。
「……ちょうど良かった。さんきゅ」
 ジュダルは当然、好意に甘えて手を伸ばした。



 柔らかい布を受け取ろうとする、その時。

 手拭いを宙に放り捨てた白龍がジュダルの手首を掴んで、握り締めた。薄ぺらい布は風に舞い上がって、湖の表面に着水する。あれ? とジュダルが疑問を呈するより先に、視界の端で何かが動いた。



 気がついたら何も見えなくなっていた。
 目が開けられない。息が詰まる。苦しい。

「……ッ、は……!」
 顔を上げたら少し離れた場所に白龍が立っていた。

「……ああ」
 やや遅れてやってくる、側頭部に受けた衝撃を完全に理解し、びしょ濡れになった頭を振った。口の中に広がる鉄の味に懐かしさを覚える。湖の底で擦りむいた手のひらに水が染み込んで痛い。

 たぶん今、自分は、白龍にぶん殴られた。

「もう一発殴ってやろうか」
 殴られて、受け身も取れないまま体ごと吹っ飛ばされて、水面に投げ出されたらしい。あまりに一瞬の出来事で、不意打ちで、ボルグの発動も間に合わなかった。手のひらの軌道を捉えるより、奴の拳がこめかみにめり込むほうが速かった。それだけの話。
「俺をぶん殴る為に、わざわざここまで?」
「……違う」
 白龍は顔色を変えて、右手の拳を握り締めていた。今しがた自分を殴ったほうの手だ。



 自分をわざわざ迎えに来ることくらい、予想はついていた。
 アラジンと森林地帯で交戦した際、奴の背後で守られていたアリババが余計な小細工を仕込んでいた。こそこそとこちらに背を向けていたが、上空から俯瞰すれば男が何をやっているかなんて一目瞭然だ。白龍を呼びつけて、こいつをどうにかしろ、と言っているんだろう。短絡的な愚策だ。人間の考えることなんか手に取るように分かる。

 自分が二十年あまりしてきたことといえば。人を欺き、人の懐に入り込み、甘い言葉で唆し、恭順の姿勢を見せ、手玉に取ることばかりだ。人心掌握の術は生まれた時から叩き込まれていたし、おかげで人付き合いや世渡りに困窮したことはない。人の心とはかくも扱い易く、壊れやすく、滑稽だ。マギとして王の器を有する主を次々と乗り換え、自分が歩いたあとの道には屍が転がっていた。でも振り返ったことは一度もない。脇目も振らない。過去に興味はなかったからだ。
 人からの恨みつらみは、いくら吐かれても平気だった。自分にとっちゃ負け犬の遠吠えみたいなもんで、これがなかなかどうして面白い。戦争は娯楽で、殺戮は暇潰し、裏切りは憂さ晴らしと同義だ。自分の余興に付き合ってくれたあまたの土地と国と人類の怨嗟が心地よかった。神の依代探しという目的はそうとして、単純に、破壊活動が好きなだけだ。王の器だった彼らは堕転を遂げ、地獄のサイクルが始まる。その行く末を見届けることや、仕掛けた舞台装置にまんまと運命を狂わされる人々の怨嗟に耳を傾けることが、何よりも心地いいのだ。
 人でなしと糾弾されても、死ねと罵られても、やはり自分の心には響かなかった。仰るとおり自分は初めから、人の心を持ち合わせていなかったらしい。あるいは、感傷に浸る余地なんてなかったから、自然とそういう心になっていた。雑音に耳を傾けていたら羽をもがれた天使みたいに、いずれ歩けなくなってしまうから。



 もう濡れてしまったものはしょうがない。
 ジュダルは諦めて湖から上がってくると、髪を縛っていた紐を解いた。水を多分に含んで重くなってしまった毛束は、三つ編みにしてぶら下げると首が疲れてくるのだ。半透明な水面に目を遣って、念のため臭いを嗅いで、それで決心した。量の多い毛を水に浸して、波を立てながら洗ってゆく。どうせ後で乾かすなら、洗ってしまおうという魂胆だ。
 宮廷の風呂場にある洗髪剤が恋しい。泡立てると良い匂いがする。あれを使って髪を濯ぐと毛束がやけに艶やかになり、纏まってくれる。きっと上等な代物なのだろう。
 冷たい水だけじゃ心許ない。けれど、肌にじっとり纏わりつく汗や砂埃などの不快感を我慢するくらいなら、洗い流してしまいたかった。
 水を両手で掬って口を漱いだ。頬の内側がツキツキと痛む。殴打された際に切った箇所があったから、たぶんそのせいだ。水を口から吐き出すと、少し赤く濁っていた。

「なんで黙ってた」
 少し間を開けて水辺に腰を下ろした男が、西の空を仰いでいた。
「何を」
「くどい。とぼけるな」
 乾いた地面に放っていた大杖を掴み、握った男は、その細い柄を土に突き立てた。
「なんでその力を隠していた。なんで弱いふりをする。本当は誰よりも強い、優れた魔導士なんだろう、お前は」
「買い被りすぎ……」
「茶化すなよ」
 地面に突き刺さった杖が西日を浴びて赤黒く燃えていた。地表に伸びた細長い影がゆらゆらと、ろうそくの炎みたいに揺れている。

 そのさまがなんだか墓標みたいだと、他人事みたいに思えた。



 かつて極東平原と呼ばれた地方に位置した、とある山村にジュダルは生を受けた。ご存じのとおり、地球の地殻変動や気候変化により世界中は地図の書き換え作業に追われており、件の地域も例に漏れず景色がずいぶんと変わった。
 山村と呼ばれるのだから山と畑と田んぼと小さい家屋が点在する、文字通りのどかな田舎だった。舗装された道は見当たらず、住民らが何度も往来した結果できた土道が村の端々にまで広がる。途中にちらほら見受けられるのは小さい家屋や食糧倉庫、家畜小屋くらいだ。娯楽はない。店もない。見どころはない。地図に地名は載っていない。川のせせらぎと虫の声、鳥のさえずりしか聞こえてこない。夜は蛙の大合唱がやかましく、夏の朝は蝉の声で起こされる。不便で暮らしづらいことこの上ない。
 かくいうジュダルも、実はその村で暮らしたことはない。暮らす間もなかったからだ。生家は残っていない。田舎の暮らしがどれほど退屈で我慢を強いられるのかは、風評でしか知らない。その暮らしを経験していたら、今の贅沢な宮廷生活も少しは有難かったかもしれない。今となっては憶測でしかないが。

 名前すら付けられなかった寒村は地形変動の煽りを受けて、今や巨大な湖と盆地を有する湿地帯へ変貌していた。風で吹っ飛びそうなあばら家の群れは姿を消しており、人の気配や営みの痕跡すら残っちゃいない。最初からそうでした、と言わんばかりに、平然と、何も無くなっていた。
 ここに住んでいた住民は元より年老いた農民階級ばかりだった。若くてまともな思考をしていればわざわざ残ろうと思わない。なんせもっと便利で快適な暮らしができる都市はごまんとある。だから居を構えるとしたら、よほど郷土愛が強い人間か、足腰が弱って歩けない老人かのどちらかだ。
 そんな数少ない搾りかすのような住民たちが、今やもう、人っ子一人居なかった。どこかへ避難したのか、帝国から退去命令でも出たか、出稼ぎに行ったまま戻らなくなったか。足取りを追う方法はなくはないが、そこまでの労力を割くほど興味もない。全員死んでしまったとしたら、それもそうかと思う。老いぼればかりの寒村じゃ逃げるすべもなかっただろう。

 ただでさえ寂れた山村だったのに、本当になにも、なにもかも無くなってしまった。生家の跡地には川が流れていて、親の墓石があった場所はひどい地割れを起こしていた。周囲を観察したが遺骨らしきものは見当たらなかった。最初から用意されていなかったのだろう。骨まで焼けてしまって、しょせん、急場しのぎに作られた形式だけの墓だったのだ。
 だから自分がこの村で出生を受けたという証拠も、それを知る人も、自分以外に居ないのだ。証明することができない。自分のルーツを辿るすべがない。なくなってしまった。
 その寄る辺なさはジュダルの経験したことがない感覚だった。自分を知る人がひとりふたり居なくなったって構いやしない。が、自分がどこの誰だったのかも分からなくなることへの、言い知れない不安と恐怖が、頬を伝うぬるい水みたいに皮膚にへばりついて離れなかった。名前を知るより先に覚えた感情に対処する方法は、誰も教えてくれなかったように思う。



「怒らないんだな」
「説教しに来たわけじゃない」
「じゃあ何しに?」

 開口一番ぶん殴られた箇所がじくじくと熱を持ち始めていた。これはたぶん、腫れ上がっているに違いない。手で触って確かめようとしたら、また手首を掴まれていた。思わず身構えたが、今度は何事もなかった。
「すまなかったな」
「なんで謝るわけ」
「暴力で解決しようとしたら、お前とやっていることが同じになってしまう」
「相変わらず真面目なこって」
「俺だけじゃない。みなもそう思ってる」
 ”みな”というのは、アラジンやアリババたちのことを指すのだろう。彼らも確かに、理不尽な暴力を振り翳す己へ、目にもの見せてやろうという気概は感じられなかった。アリババは俄かに怒りを顕わにしていたが、アラジンに諭されて居直っていた。
 今の世の摂理として、武力による支配や争いは一切禁じられている。生命を脅かされる世界へ再び戻らないよう、揃いも揃って尽力し、牽制し合っている。自分はそれを破って、人々のたゆまぬ努力を踏みにじろうとした。だから怒られて当然だし、罰せられるのもやむなしだ。
 なのに彼らは自分を叱らない。報復しようとしない。怒りを発露させない。厳しい罰則を与えようとせず、やはり講話での解決を望む。全く以て生ぬるい、呆れた連中だ。能天気もここまできたら天晴れである。
「あれか。痛いほうが好みか」
「そういう話じゃねえ」
 旧世界での彼らは無論、揃いも揃って、己に恨み言をぶつけていた。妬まれて疎まれて、嫌われて、卑怯者の烙印を押されて。それが当たり前だった。投げつけられた石の数だけ、何事もなかったみたいに振る舞ってきた。被害者ぶる奴らはみんな、悪いことをした奴になら何をしてもいいと、因果応報なのだから受け入れろという尤もらしい正論を振り翳していた。
 なのに、どうして。

「なんで誰も俺を怒らねーんだよ。仲良しごっこがそんなに楽しいかよ」
「……」
「せめてお前くらい、怒鳴ってくれたっていいのに。ふつうはそういうモンじゃねーの」
「ふつう?」
 白龍はわざとらしくかぶりを振って、微笑みながら答えた。
「これだけ地形が変わって、国境も国家も作り直しになった時代に、お前が信じる”ふつう”とは一体なんだ?」
「……」
「案外ステレオタイプなんだな、お前。これだけ自由が認められる世の中で、何を拘る」
「自由、ね」

 視線を上げると、遠い空の向こうで沈みかける太陽があった。地表から僅かばかり顔を覗かせて、こちらの機嫌を窺うみたいにじりじりと、そこに留まり続けている。さっさと消え失せてくれて構わないのに。でないと今、自分のこの顔を彼に見られたら、屈辱だ。
 赤く色づいた天空はまだら模様の雲が伸び、空の彼方に向かって鳥の群れが飛び立っていた。つがいが数組と、その子供だろうか。彼らには帰る場所がもうあるらしい。地上の人間たちは居場所も飯も家族もなかったりするのに。

 自分は寝る場所も食い物も、今のところは窮することがない。煌帝国の世話を受けている以上、おそらく。
 でも本物の家族だけはこの先、もう二度と、手に入らない。それが苦しいとか、羨ましいとか、実のところ何も感じない。家族が居ないのは当たり前で、それが一般的に”悲しいこと”だと人に指摘されるまでは、露にも思わなかったからだ。その指摘も的を射ているのかいないのか、自分には分からない。持っていたものを失う悲しみは理解できようが、最初からなかったものに対しては喪失感もへったくれもないのだ。
 ただあるのは好奇心だ。家族を持つとは、無償の愛を貰えるとは、どんな感覚なのだろう?
 人はときに家族を守るためなら修羅にもなれるし、すべてをなげうつ覚悟を持てる。そこまでの愛着を抱ける対象を自分は持ったことがない。いつだって自分本位で生きてきた人間にとって、我が身より大切にできる対象物はこの世にないとさえ思う。それは不幸なことなのだろうか。



「……選択肢が増えて無限に自由になれることが、必ずしも幸せだとは限らないと、思えるようになった」
「ジュダル?」
「俺は結局、指針がないと駄目なのかもしれない」
「玉艶を殺して、組織から解放されたとき、あんなに喜んでたじゃないか」
「あんときの比じゃねーだろ、今は。何でもありの、無秩序の、アナーキー状態」
「物は言いようだな。各国の王は狂瀾怒濤の幕開けを阻止しようと、日々身を粉にしている筈だ。それでもまあ、市井の不安は拭えないだろうが」
「そんな憶測だけの、ふわっとした問題じゃねーんだよこっちは」
「じゃあなんだ」



 西日の輪郭が地表から消えた。浅い藍色で空が濡れて、散り散りになった星がささやき始める。夜が始まる。記憶に比べて驚くほど静かで、生命の気配が失われた不気味な夜が、もうすぐ始まる。
 足元に落ちた影はとっくに濃い色になっていた。
 なら言えるだろうか。今なら、小さな声で言っても、彼は耳を澄まして聞き取ってくれるだろうか。これは僅かな期待だ。心臓の音が少しうるさくなる。

「アラジンに喧嘩売ったのも、煌帝国に留まったのも、マギじゃなくなった俺が強くなろうとしたのも、全部、自分のためなんかじゃない。見ず知らずの誰かでもない」
「……」
 隣から聞こえてくる呼吸音は穏やかだった。だから勇気を振り絞って、打ち明けてみた。
「全部、全部、お前のためだった」
「俺の」
「俺がそうありたかっただけだ。不自由で不幸な生き方だと思うか?」
「……思わない」
 影がゆら、と動く。暗がりの中で表情の変化は読み取れない。けれど夜の風にもかき消されない、芯のある声が耳に届く。
 白龍はじっと黙って、ジュダルの言葉の続きを待った。
「……最初に唆したのは俺のほうだったのにな。おかしな話だろう。結局俺は、誰かの持ち物で居たいらしい。世界も、国も、お前も、変わっていけるのに、俺だけはずっと取り残されて」
「……」
「だせーだろ? なあ白龍、笑ってくれよ。この焦燥感をどうにもできずに、他人に八つ当たることしかできない、情けねー男だって。なあ、笑えよ!」
「……笑えるかよ、馬鹿」
 肩を掴まれて振り向いた。月明かりに照らされた輪郭が光を帯びて、まるい瞳がゆらゆらと、湖の水面を切り取ったみたいに揺蕩っている。
「なんでお前が泣きそうな顔してんの」
「ジュダル。もうそういうのは止めよう。自分の言葉で自分を傷つけて、いつまでも平気なふりをするのは」
「るせーな。離せよ。もうどっか行け。帰れ。そういう同情が一番嫌いなんだ……」

 掴まれた腕を振り払って、膝を抱えた。湖面に浮かぶ模様は夜空を映し出し、淡い月光を反射している。それを見つめて、膝頭に額を乗せた。俯いて沈黙を守る。隣の気配はそれでもまだ、諦めようとしない。
 諦めの悪い男。白龍がそういう奴だってことは、自分が一番よく知っていたけれど。今はその無遠慮な優しさが恨めしい。
「同情なんかじゃない。俺は嬉しいんだ」
「……」
「煌帝国でお前の面倒をみてやれることが、お前の為になると思っていた。でもそれは同時に、役割や仕事や地位を押し付けることでもあって……俺が独善的なばかりに、お前を縛り付けてしまっているんじゃないかと、たまに悩んでいた」
「なんだそれ」
「でもジュダルが俺のために……強くなろうとしていたと聞いて、気づかされた。お前のためなんかじゃない。ジュダルを傍に置いておきたいという、俺の我儘だったんだ」

 湿った前髪からぽつ、と水滴がこぼれた。たぶんこれが、最後の一滴だろう。髪の毛はいつの間にか夜風に当てられたせいか、ほとんど乾いていた。
 表情が見えないからこそ、唯一の手がかりである声音にすべてを委ねて、勘繰ってしまう。こいつは今どんな気持ちでこんな恥ずかしい、馬鹿みたいな与太話を口にしているんだろう、と。
「なあ。お前のその力は、たとえば国や社会や市民、公共の利益のために使ってはくれないのか? 煌帝国で預かる以上、そうあってくれないと、困るんだが」
「白龍がどうしてもって言うなら……不本意だけど。俺はやっぱりお前のために使われたいし」
「……」
「あーあ。納得いかねえよ。馬鹿みてーにどいつもこいつも、魔導士サマ魔導士サマって。別に俺はお前らに感謝されたい訳じゃないのに、勘違いしやがって。むかつく。俺は白龍じゃなきゃイヤなのによ」
「……」
「出来ることなら魔法だって、お前を王に祀り上げるためだけに使いたかった。そのために俺っていうマギがあって、お前っていう王が居た筈だろ。なのに……」
「……ジュダル、分かったから。お前の言いたいことはよく分かった」
 わざわざ言葉を遮った白龍が、居心地悪そうに呟いた。

 少しばかり波打つ湖面を眺めて、生ぬるい夜風に身をゆだねる。肌を撫でる空気に意識を逸らして、考えることは一旦やめた。
「……一雨きそうだな。このあたりで雨宿りできそうな場所はあるか」
「こんなに晴れてるぜ?」
「雲の流れが速い。風の動きも変わった。そう時間も経たずに降ってくるだろう」
 白龍は空の様子を訝しく見つめ、立ち上がった。
「ならお前は帰ればよくね。雨宿りなんて、」
 言ってるそばから腕を引かれてたたらを踏んだ。地面に突き刺したままだった杖を引き抜いて、ほら、と手渡される。いや、ほらじゃねーだろ。お前は帰れよ国に。そう視線だけで詰ると、男は顔を逸らした。
「たまにはいいだろ、こういうのも。なんだか昔を思い出す」
「昔?」
「軍を率いて血気盛んに戦争を企てていた、あの頃だよ」
 大切な宝物を少しだけ見せてくれるみたいな、優しい声が鼓膜を撫でた。



 反乱軍の兵士をかき集めて、小さい拠点で武器と食糧確保に躍起になり、何度も地形を調査して、作戦を練って。二人で力を合わせれば国家転覆を実現できると、愚かな子供は本気で信じていた。そのつもりで東奔西走して、やりたくもない努力をし、粉骨砕身の日々に喜んで身を投じていた。
 もし、革命が不発あるいは失敗に終わったとしてもだ。東部大陸で栄華を誇る煌帝国で造反の狼煙を上げた奴らが居たらしい、などとのちの世代に語られるならそれでいい。玉砕覚悟の戦争ごっこに夢を見て、戦うことにしか目がなかった。盲目的な野心を燃やしていた自分や彼を、止められる者など居なかった。
 いや、止めようとして敵陣のど真ん中に降り立った、バカ共なら居た。またアラジンとアリババだ。彼らはたった二人で、これといった策もなく、誰かに頼まれたわけでもなく、説得をしに来たのだ。軍備を着々と進め、首都を接収し、白龍の立ち位置が盤石になりつつあったタイミングで。
 あの介入さえなければ戦争はもっと上手く進んで、思うままに暴れられていただろう。アラジンやアリババの前ではとてもじゃないが、口にできない本音だ。そして白龍にも言えない。彼は暫く会わない間にずいぶんと、心変わりしていたようだから。かつて同じ谷底に落ちてくれた人は、自分で生き方を見つけて、陽のあたる場所へと再出発できたらしい。めでたい話だ。

「寝る場所を探した日もあっただろう。野営は嫌だと、お前は我儘を言って聞かなかったが」
「天下のマギ様に寝床も用意できない王なんて、お前が初めてだったからな」
「ザガンで作ったハンモックで快眠してたくせに、よく言う」

 魔法で生成した篝火の灯篭を頼りに、雨宿りできそうな場所を探していた。此処は見知らぬ土地になってしまったから土地勘は当てにならず、茂みや大木のあたりを入念に見て回った。が、大の男二人が肩を寄せ合っても到底、場所が足りないと思われた。野生の小動物ならじゅうぶんだろうが。
「洞窟とかあればいいのにな」
「そんな都合よく見つかるわけが……あっ」
「ラッキー。これも運命のお導きか?」

 崖の真下あたりを散策していると、運良く洞窟を見つけられた。岩肌が剥き出しになったそこは夜闇に紛れているのもあって、なんだか不気味だ。でも背に腹は代えられない。雨風を凌げさえすればいい。
 この様子じゃここで一晩明かすことになるだろう。諦めたように岩の地面に腰を下ろして、二人揃って空を見上げた。満天の星空にまんまるのお月様……とは正反対の、悪雲たちこめる不気味な夜空だった。
 遠くで川のせせらぎが聞こえるから、水には困らないだろう。食糧が極端に不足しているが、そこらの木の実でも食えば腹の足しにはなるか。暖は魔法を使って火を起こせばいい。あとは寝るとき、ごつごつした地面に横たわるのを耐えられるかどうか。
「なんで帰んねーの」
「またその話か」
「仕事とかあんじゃねーの。また紅玉に怒られるぜ」
「まあ、それは尤もだ」
 本国に連れ戻すどころか、此処に留まろうとする心理ができない。首根っこを掴んででも自分を連れ戻そうとしないのも不思議だ。こちらの無断外泊に率先して付き合うなんて、コイツらしくない。
「こうやって話をすることも、最近は減っていたな。とくにお前は元気がなくても、元気があるように振る舞うのが上手いから。それは少し、寂しい」
「余計な世話だ」
「でも嫌じゃないだろう。こうやって俺の隣で大人しく、腰を下ろしてくれてるのが何よりの証拠だ」
 本当に嫌なら、お前なら別の洞穴を探す筈だろう。そう言われて、黙り込んでしまった。言い返す言葉が見つからない。沈黙は肯定の合図だと知っていたけれど、なんだか癪だ。

 少しの静寂のあと、空から雨粒が落ちてきた。岩肌や地表を叩く静かな雨音に耳を傾けて、息を吐いた。嵐や暴風を伴わないおとなしい五月雨のような、豊かな雨音に心が穏やかになる。
 風は先ほどよりも幾分か冷たくて、思わず両手で膝を抱いた。腫れた頬にはちょうどよい温度だったが、ほとんどは体温を奪う冷たさだ。
 魔法で灯した炎の温度を調整して、暖を取る。揺れる炎の動きに合わせて影が伸びたり縮んだりするのを、ぼうっと眺めた。
「明朝には本国へ戻ろう。それでいいな?」
「俺は別に、どこでも……」
 お前がいる場所ならどこでも、と付け足した。
「……ジュダル」
「何?」
「その……」
 白龍は目を逸らして、足元をしきりに覗き込んでいた。そこは何もないただの、灰褐色の岩が張られた地面だ。白龍はそこに、何を見ているのだろう。
 俯きがちの顔に陰影が差し込み、なだらかな輪郭を光が覆う。白い肌と、丸いまぶたと、黒い睫毛に、正中線を貫く高い鼻梁のかたちと。散々見てきた筈の顔だけど、見慣れた筈の顔だけど、やはり慣れない。やけに大人びたかんばせは、記憶の中でも新しくて浅い部分にある。だからだろうか、何度見てもむず痒い心地になる。



 親への復讐心を滾らせ、反骨心だけで生きていた少年の面影はもう、どこにもない。知っていたことだが、あまりに唐突な白龍の変化に、暫く付いて行けないこともあった。本当にこいつは変わってしまったんだと実感する機会が増えるたび、そんな違和感は薄らいでいったけれど。でもまだ、喉の奥に刺さった魚の小骨のような不快感が拭えずに、今日までここに居る。
 今の白龍にとってあの日々はどう捉えられているのだろう。完全に清算できたと清々しているか、もう戦うのは懲り懲りだと言うか。後悔していることはあるか。反省はしたのか。対外的な言葉を用いれば、あの頃の自分はまだ子供だったから、人様に散々迷惑をかけて恥ずかしい、と言う。それはきっと半分本当で、しかし半分は嘘だ。
 きちんと向き合って、時間をかけて話し合ったことはない。ただ何となく共通認識として、お互いに楽しかったという気持ちだけは感じ取れる。満身創痍になって暴れ尽くして、自分の立つ場所が世界の中心だと思わせてくれた。儚かったけど夢を見させてくれた。それだけでもう十分だと、本懐は成し得たと、笑って済ませている。

 他人の感情をイチから百まですべて知り得るのは不可能だ。いくら人をだまくらかすことに長けていた己でも、心の深い部分すべてを読み解くことはできない。証拠をかき集めることはできるが、立証するすべはない。本人さえ知らぬ本性や深層心理なら尚更だ。
 だから自分が白龍の考えていることを網羅できるわけないのだ。他人が推測はできても、本人はいくらでも自分に嘘を吐けるし、無かったことにもできる。ゆえに自分ごときが白龍の思惑を、胸中を預かり知ろうなんて、傲慢も良いところなのだ。知る由もない感情の余白を無理に埋める必要はない。
「お前は俺のことが好きなのか」
「……ん?」
「いや、俺に対する拘りが、なんだか」
「……」
「その、ひどく好かれているような気がして。見当外れなら否定してくれていい」
「……あのさあ……」

 ――たった今しがた、人が気を遣って、詮索はしまいと決めたのに!
 この男は馬鹿だ。人の心にずけずけと土足で踏み込もうとするその魂胆が、無神経極まりない。

 だいたい、そういう役割はこちらの専売特許だ。デリカシーの欠片もなくて可愛げがない、我儘で高慢で自信家。平気で他人の地雷を踏み抜くし、心の柔らかい部分を抉り取る。そうした所業はかつて何度もしてきたし、枚挙に暇がない。だから、むしろ自分が、その台詞を吹っかけてやりたかったのに! 先に取られてしまった!

「何? んなこと聞くってことは、お前は好きなの。俺のこと」
「……」
 人の心を引っ掻き回すのはいつだって自分がいい。主導権を有するのはあくまでこちらだ。お前には譲らない。そのつもりで、質問に質問で返してやった。
「お前のその、いびつな執着心を、俺は、本来なら矯正してやらないといけないかもしれない。他人に傾倒し過ぎて主体性がないまま大人になった今、苦労するのはお前だから」
「……」
「でも俺は正してやれるどころか、そうであってくれと思ってしまう。素直に嬉しかった。これが好意によるものなら俺は、お前が好きなんだろうな」
「……するってーと、何。白龍は俺のことそういう目で見れるワケ? キスもセックスもできる?」
「……で、できる」
「いや、無理して答えんなよ」
 告げられた内容があまりに夢見がちで、純粋で、綺麗すぎたから。ちょっとばかしからかってやっただけだ。なのに彼はそれを真に受けて、顔を赤くしている。もう夜の帳が下りるような真夜中の、冷たい空気に晒されてるくせに。
 膝を突き合わせて喋りたいと言い出したからには、何かあるのかと思いきや。惚れた腫れたの話題を持ち込まれるとは、想像もしない。
 しかも彼と、自分の。

「む、無理なんか……」
「じゃあ試す?」
「しない。そんなこと」
「へえ残念。据え膳なのに。イモってんじゃねえぞ」
「そんなんじゃ」
「じゃあなんで?」
 遠慮がちに逸らされる視線を追って体を揺らし、無理やり目を合わせた。炎の切っ先がゆらゆら揺れて、影が伸びる。思いの外長い睫毛が、恥ずかしそうに瞳の色を隠すから、声を上げて笑いそうになった。
「片想いじゃ意味がない。俺はそういう不誠実なことはしない。好きな相手にはとくに」
 苦虫を噛み潰したような表情だ。その目はこちらに向かず、どこか遠くの過去を見据えている。大方、それが何なのかは予想はつく。
「ふうん。好きになってくれ、とは言わないんだ?」
「俺が言ってどうこうできる問題じゃない」
「どうこうできるとしたら?」
「え」

 呆けた顔をした男が、自分を見つめていた。
 言葉の真意を探ろうと躍起な目に晒されて、全身が擽ったい。厭らしくて熱っぽい視線だ。よくそんな本心を持て余しておいて、殊勝な態度が取れたものである。
「す、好きになってくれとは言わない。けど、少しでも俺のことを意識してくれたら、それでいい」
「それって同じ意味じゃね?」
「そうなのか? 俺にはよく、分からないが……」

 今度こそ二人で顔を見合わせて、暫く目を瞬かせていた。



 まだ雨は当分止みそうにない。外は寒い。手狭な洞窟の中は快適とは程遠い。手足を伸ばせる十分なスペースも、柔らかい布の感触も、高さがある低反発の枕も、リラックスできる御香も焚かれてないし、髪の毛は触ったら生乾きだし、腹は空っぽだ。不満は挙げればきりがない。
 しかしそれらの不満を押し退けてでもここに留まりたいと思える理由が、ひとつだけある。明確に言葉にすると負けた気がするから、この感情の正体については後日、考えるつもりだ。
 今はただ、そこにある温もりを確かめて、安堵して、身を委ねてしまおうと思えた。