ニライカナイをゆめみるひとたち 2

 ぷかぷかと漂う白い雲と、薄い水色のなだらかな空模様。愛らしい小鳥のさえずりと、新緑豊かな木々が奏でるさざめきと。吹き抜ける潮風の匂いはどこか懐かしくも、新しい予感を運んでくる。
 生命の息吹と人々の息遣い、活気あふれる市街地を見渡した。街並みはこれまでのバルバッドとさほど変わらない、一見古めかしさすら感じる景観だ。けれど、そこに住まう人々の顔ぶれは新しい住人や移民も数多く、多種多様な文化や価値観が共存している。バルバッドは今までにない、まったく新しい都市に変貌していた。



 ルフの大規模な書き換えとそれに抵抗せんとする人類たちとの防衛戦争ののち、世界は生まれ変わった。人も物も土地も、常識や法律や慣習だって、ぜんぶ。数千年に渡り築いてきた人類史とその文明は一日で無に帰し、自分たちは更地の上に立たされた。
 方位磁針も既存の地図は役に立たない。多くの人が、明日からどうやって生きてゆけば良いのかと嘆いていた。
 ――家も職も財産もない。残された家族を守る手立てがない。法が無くては安心して眠れない。食べる物が無ければ死んでしまう。
 そんな市民らの声に耳を傾けようとした王の器を有する者たちは、かつてあった都市に仮国家を樹立させ、法を敷き、居住地と職と食糧の配給を行った。簡易的な福祉システムを運用し、路頭に迷う人を一人でも救うべく、他国との競争を一切捨て、助け合いの精神で協力し合ったのだ。
 やがて福祉システムの運用が安定しだすと、各国の代表らは意見交換のため、一箇所に集められた。そこでは真っ新になった世界地図を前に、憎み合いっこなしで平等に、領土の取り分や規範、今後の方針を話し合った。武力行使や奴隷制度の永久停止、和平条約の締結に加え、これを破った者や組織に対する処罰。
 群雄割拠が苛烈だった時代とは決別し、貿易や商業による経済的な成長で切磋琢磨し合うことも、正式に取り決められた。不平不満は侵略、奪略行為に訴えるのではなく、正式な話し合いの場で取り交わされるべきだ、ともされた。一切の暴力と差別を許さない社会を作り、これを守る為の努力を各国が行うことを、みなが誓った。



 これまでも海洋貿易都市として賑わいを見せていたバルバッドは、以前にも増して活気づいている。世界中の人、物、金の流入が活発になり、庶民でも手軽に商売を始められるようになった。目まぐるしく変化する世界情勢に置いていかれないように、みんな必死だ。
 商売は楽しい事ばかりじゃない。目新しい物は魅力的だが、時宜を得ないと大損することだってある。それは先見の明と呼ばれたり、審美眼と称されたり、センスと言われるものだ。熾烈な市場競争の中で生き残るには知恵と知識と、少しの閃きがいつだって必要になる。
 でもそれは、今までの戦争とも同じことが言えるだろう。たとえば戦局を見据えた判断力や統率力、カリスマ性だとか。どれかひとつでも欠けていたら国は大きくならない。商売だって、口が達者なだけでは成り立たないのだ。



 かつての建築様式の住居が根強く残る市街地とは打って変わり。
 都市部には高層ビルの群れが乱立し、大規模な商業都市へと姿を変えていた。これはバルバッドの経済活動が大きく発展を遂げ、成功を収めている何よりもの証左だ。他国の建築技術を取り入れた建物は国の近代化を象徴し、ここで働くことが多くの若者の憧れでもある。

 ビルの出入り口部分に当たるエントランスから姿を見せたのは、二人の男たちであった。
「アリババさん。新しい商船会社との契約取れました。条件もこの通り、悪くはないです」
「お、見せてみ?」
 クリアファイルに入った用紙を見つめて、アリババと呼ばれた男はにやりと笑ってみせた。
「この取引条件ならうちの資金繰りも問題なさそうだな。お前がこんなビッグ案件取ってきたなんて、今日は祝い酒をご馳走してやらねーと!」
「本当ですか! じゃあ今晩はアリババさんの奢りですね!」
 部下の髪の毛を手のひらでかき混ぜて、彼は快活な笑い声を上げた。それは堪ったモンじゃねえなあ、と呟かれた声は明朗快活だ。

「アリババくん、僕も新しい案件取り付けてきたから見て!」
「お? なんだよアラジンも。今日は景気が良いな!」
 二人の後ろから走って追いついた青年が、いくらかの紙束を押し付けた。
「新大陸から採掘された燃料資源が、やっと採用決定したんだって!」
「おおマジか! やるじゃねーかアラジン!」
「えへへ。君の営業トークに助けられちゃったよ」

 かつては未開の地とあだ名された暗黒大陸に人々が足を踏み入れたのも、此度の戦争を経てから初めてのことだ。これまでの生存域では確認されなかった動植物が独自の生態系を築き上げており、採掘される資源はどれもこれもが新発見の代物だった。既存の化学方程式さえ通用しない、未開の新大陸。人々は知的好奇心や学術的な目的、あるいはビジネスチャンスを求めて、こぞって探検へ向かった。
「まだ安定的な採掘方法を模索中だけど、僕の魔法があれば取り出せるし、もしこれが量産可能になったら!」
「その前にまずは特許の出願が先ですよ。アリババさん、アラジンさん、早く事務所に戻って資料の準備をしましょう」
「そうだな。それに、いつまでもアラジンの魔法に頼りきりじゃいずれライバルに負けちまう。量産についても化学品工場のツテを当たって考えよう」

 新天地にて、アラジンが第一発見者として見つけてきたのは天然資源の燃料だった。
 不可解な液状のそれは地層の奥深くから見つかり、その際、光源を得るために擦ったマッチ棒を経由して、大きな炎が広がったのだという。小さな火花で莫大なエネルギーを生み出す燃料は学術論文でも大きく取り沙汰され、一躍話題となった。
 それを燃料製品として運用すべく、あらゆる企業の開発者、研究者が資源の解析に勤しんだ。無論アリババもその燃料には注目しており、第一発見者であるアラジンが先頭に立って採掘を進めた。
 人力や機械ではどうにも採集が困難であるらしく、複雑な水魔法を駆使できる魔導士が現地に送られた。中でも水魔法を専門にする上級魔導士のヤムライハと、彼女から師事を受けた経験もあるアラジンが指揮を取り、機運はアリババの商会にもなだれ込んでいた。
 難題の採掘方法に当たって、どこの企業にもない強みをいち早く確保できたアリババは当然動いた。自動機械運転の工場に訪問して回ったり、造船所や鉄道会社に飛び込みで営業を続けた。そんな泥臭い営業活動が漸く功を奏したようで、一企業から快諾の返事を貰えたのだ。

「これからはますます忙しくなるぜ」
「バルバッド政府からは会議出席の案内が届いてましたよ。今度こそ遅刻は許されませんからね」
「でもよお、俺はこのとおり一般人を謳歌してんだぜ? 今更国政について口出しできる身分でもねえよ」
 バルバッドはかつて王政を廃止し、民主主義の共和国として生まれ変わった経緯がある。その後は煌帝国の内政干渉問題があったりで二転三転したものの、現在樹立されているのは民間政府だ。国民の投票により選出された議員らがおもに国政に当たっており、定期的な世論調査や討論会が行われている。
 先王の血を引き継いだ皇位継承者のアリババは、現在のバルバッド政府の立役者でもある。腐敗した傀儡政権に対し革命を起こそうと、反旗を翻したのだ。以降も金属器による武力闘争のたびに仲裁役として場を諌めたり、世界会議で大国相手に発破をかけたり、……何かと目立つ立場にあった。
 そうした経緯もあって、国政に直接関わらずとも意見や助言だけでもと、政府からは会議への出席依頼が届く。大した発言権はないが、様々な観点からの意見が欲しいと言う政府の言い分は真っ当だった。お上にはとくに逆らう理由もない為、アリババはたびたび会議の末席に座らせてもらっている。

「まあコネや人脈作りには丁度いいしな」
「あはは、アリババさんらしいですね! 攻めの姿勢はいつだって崩さない!」
「アラジンの魔法に依存したままじゃ先は長くないからな。俺は俺でできることを探さねーと」
「うん。僕も新しい複合魔法の研究と開発を頑張るよ」
「おー、頼り甲斐があるなあ! 俺の新規案件とアラジンの新魔法、どっちが先に成功するか、」

 ――勝負しようぜ!

 と言いかけたところで、音が止んだ。
 否、アリババは声が出なかった。



 青天の霹靂は突如雲間から姿を現し、人々の視界に飛び込んでくる。



 空を切り裂く金切り音は音速をゆうに超えている証だ。何が降ってきたのか、目視で捉えることなど肉眼では不可能。それでもアリババがあと一歩踏み出さず、その場で立ち止まれたのは幸運だった。あるいはかつて、戦場に身を置いた経験が一時的に呼び覚まされたか。
 どちらにせよ残り数センチほど体が傾いていたら。頭部が木っ端微塵になっていたに違いない。

「おっ、おま、おまえ!」
「どうして、君が……」
「……」

 つう、と頬を流れる生ぬるい鮮血が全てを物語っていた。紙一重だ。あと少しで、二度目の死を迎えるところだった。しかも今度こそ、取り返しがつかない大惨事となって。

「ジュダルくん……?」
「あっ……ぶねーだろうが! オイ、いま本気で殺す気だっただろ!?」
「……るせーなァ」

 右手に携えた杖を振りかぶって、あたりに立ち込める粉塵を追い払ってみせた。奴は剣呑な目つきでこちらを見据える。当然自分も怯まず、赤く煮え滾った瞳孔を睨みつけた。
「フン。おめーらの腑抜けヅラ、傑作だぜ。えらく平和ボケしてるみてーで、何よりだな」
「んだと!?」
「あ、アリババくん……」
 挑発に乗ったら駄目だよ、と隣から小声が聞こえた。
 アラジンはどんな局面でも冷静に場の空気を読み、器用に立ち回ることができる。その天性の鋭さは今もなお健在だったようで、アリババは深呼吸を数度繰り返し平静を取り戻した。
「ここは都市部の大通りだぞ。このとおり一般市民も怯えてるし、道路だって損傷した。用があるならきちんと社会のルールに則ってだな、」
「うっせーなあ、腑抜けのアリババは黙ってろ。俺が用あんのはアラジンだよ」
「ぼ、僕?」
 大杖の先端が指したのはアラジンの顔だった。
「俺はお前にひとつ、貸しがあってな。それを返してもらおーと思って、来てやったワケ」
「貸し……?」
「前におめーらが煌帝国に乗り込んで戦ったときのこと、覚えてるよなあ?」
「……ま、まさか」
 アラジンはさっと顔を青くし、アリババの様子をちらりと覗き見た。同時に両者の目が合う。
「宇宙の彼方までぶっ飛ばしてもらったお礼に、今度は俺がお前をぶっ飛ばす!」
「ま、待て待て! どういうことだよ、話が違うじゃねーか!」

 杖を再び振りかぶった男は周囲に竜巻を呼び起こし、塵や埃を大きく舞い上げさせた。アリババは思わず顔を両腕で覆ったが、その一挙一動がジュダルに次の攻撃の隙を与えた。

「あ? 話? なんのことだか……」
「ジュダルくん駄目だよ、ここで魔法を使ったら大勢の人が巻き込まれる!」
 街路樹が揺れ、建物は暴風に晒され、人々の悲鳴があちこちから聞こえる。巻き上げられた落ち葉が男の頭上にかき集められ、それらが一気に降り注ごうとした。いつか、どこかで見たことのある、それは彼の得意な大魔法によく似ていた。
 体が真っ先に動く。反射的だった。自分の斜め後ろでしゃがみ込む部下の、せめて肉の盾になろうと庇っていた。若葉の切っ先が顔面目掛けて突き刺さろうとする。両目をきつく閉じ、歯を食いしばった。



「……んだよ、つまんねーことしやがって」
「どうして、こんなこと……」

 与えられるであろう攻撃は伝わらなかった。
 アラジンが発動させた防御魔法、ボルグが間一髪、一般人の二人を守っていた。

「なあアラジン。つまんねーと思わねえか? 人間にこき使われて、良いように利用されて、商売道具にさせられて」
「……ジュダルくん?」
「俺は常々思ってたよ。なんでこんなつまんねー世の中になっちまったんだって。ずっと考えててさ、でも、今やっと分かった」
「……?」
「思う存分、力を振るえる機会がなかったから! 命のやり取り、本気の鬩ぎ合い、血で血を洗う戦争が、俺はやっぱり好きなんだ!」
「君って奴は……!」
 ジュダルの足元に大きな魔法陣が浮かび上がる。俄に光を帯びるそれは見たことのない暗号のようなものが刻印され、一体どんな能力を発揮するのか想像もつかない。ひとつ分かるのは、その魔法は彼の編み出した自作の新魔法である、ということだけだ。
「アラジン、俺と決闘しようぜ! 今度こそぶちのめしてやっから、覚悟しとけ!」



「それは駄目だ、ジュダル!」

 アラジンによって張られた防御結界の内側から、思わず身を乗り出して声を張り上げていた。
 アリババはジュダルの言葉の意味を何度も噛み砕き、理解しようとした。理解を試みた。けれど分からない。どうして彼が現代において、未だに戦うことに拘るのか。

「世界憲章第一条、一切の武力行使を禁ずる! これを違反した者は連邦法廷で裁きを受ける! お前も知ってるだろ!?」
「ハア?」
「そっそうだよ! 今の君は煌帝国が預かる身分だ。紅玉お姉さんや白龍くんに迷惑をかけてしまう。そんなの、みんな悲しむよ……!」
「……」
「だから一旦その杖を下ろして、ちゃんと話し合おう! ここじゃ目立つから、人の居ないところでさ。南東方面に綺麗で静かな森があるんだ、案内するよ」
「……」
「お願いだ。みんな怖がってる。少し時間をおくれよ」
「……ふ」

 男は微かに声を漏らす。すると足元に描かれていた魔法陣はかき消され、空気を揺らす殺気も途切れた。周囲に流れるのはつかの間の静寂と、緊張感と、男の呼吸音だけだ。

「……そうだな。ここだと障害物も多いし、視線も鬱陶しい……」
「じゃあ……!」
「さっさと案内しろよアラジン。壊れた道は……ほら、これで直してやるから」
 地割れを起こしていた地面に目を向けて、ジュダルが小さく息を吐いた。瓦礫が散らばる足元と、建造物の割れガラス、背後に並ぶ折れ曲がった街路樹たち。それらが俄に光の粒を纏い始め、空気が振動し始める。
 それは先ほど、痛いくらい感じた殺気とは程遠い感触だった。柔らかくて優しい、温かい色を帯びた光が、損傷した箇所に集ってゆく。かつてソロモンが編み出した、真っ白のルフを彷彿とさせる美しい輝きたち。どこか幻想的で眩い光景に、思わず声が漏れていた。
「……きれいだ」

 次の瞬間、損傷箇所は跡形もなく元に戻っていた。自然物も人工物も関係なく、分け隔てなく、すべてが完璧に。彼がここへ舞い降りる直前の、平和な日常風景の続きが目前に広がった。
「……まだ不満か?」
 にい、と唇を釣り上げるジュダルが、わざとらしく問うてくる。壊したものを元通りにして、それで何が悪いと言いたいらしい。

 不満など、ありまくりだ。奇跡的に怪我を負った市民は居なかったようだが、少し間違えたら大惨事になっていた。自分は頬のかすり傷程度で済んで良かったものの。間一髪避けられなかったら、今頃どうなっていたことやら。
 アラジンの言うとおり、ジュダルは現在煌帝国の世話になっている。煌に在籍する魔導士として仕事を任されたり、任務を請け負っている筈だ。だから彼が他国で問題を起こして、大事になったとしたら、まず煌が責任を追及されてしまうのだ。これは個人間の話し合いレベルでなく、もはや外交問題と言える。

「ぼ、僕が南東の森へ案内するよ。先導するから後についてきて。アリババくんも一緒に、連れてっていい?」
「おう。好きにしろよ」
 赤い瞳が愉快そうに細まった。恐らく、己を挑発するつもりで言葉を選んだのだ、彼は。そしてそれを見越したアラジンが間に割って会話を繋いでくれた。
 アラジンはひとつ頷き返すと、長らく愛用している杖を宙に翳した。途端に浮かび上がる彼と、そして自分の体は杖に引かれるように体が宙に浮く。一緒に掴まってて、と目配せしてきた彼の言うとおりに、杖の先端を握った。



「……ねえアリババくん。僕、さっきからずっと気になることがあってさ」
「奇遇だな、俺もだ。なんせジュダルの野郎……」

 かつては黒い太陽とも渾名された男は、マギシステムの崩壊後、他の面々同様いち魔導士として第二の人生を歩むことになった。無条件無制限のルフ供給というマギ最大の強みを失った彼は悲しい哉、過去の栄光とは真逆の、最弱の魔導士としてあくせくと労働に従ずる日々を余儀なくされていたらしい。
 その要因は複数あるようだが、まず第一に、彼の肉体が大量の魔力放出に耐えきれない強度である、ということだ。アラジンがエリート魔導士養成学校・マグノシュタット学園に入学した直後、初めにやらされたのが肉体強化と基礎体力づくりだった。分刻みで定められた有酸素運動と無酸素運動のトレーニングを毎日こなし、魔法についての学習は一切なされなかったという。
 血反吐を吐くほどの地獄は暫く続き、退学者は後を絶たない。アラジン自身、幾度となく挫けかけたらしい。しかし彼は最後までトレーニングメニューをこなし、やり遂げ、数少ない生き残りメンバーの中に食い込むことができた。
 なんでも、魔法というのは肉体の強度によって扱える量に制限があるらしく、限度を超えようとすると自動的にセーブされてしまうのだと。脆弱な肉体に強い力は宿らず、力を得たければ肉の器を強化せねばならないのだ。だからせっかく生まれつき魔力の保有量が多くても、宝の持ち腐れ状態になってしまう。
 ジュダルもその理由が当て嵌まるらしく、以前まで使用できた巨大魔法は一切繰り出せなくなった。並かそれ以下程度の魔導士が扱うような、簡単な魔法しか発動できなくなった彼は、ごく普通の雑用か肉体労働か、時たま転送魔法による荷物運びばかり任されるようになった。

 とはいえあくまでこれは、その当時のジュダルなら、という話で。以降、彼が血の滲むような鍛錬を重ねていれば、名のある有力な魔導士のひとりとして数えられるに違いないだろう。
 しかしジュダルはそれらの努力を一切放棄し、助言に耳を貸さず、現状に甘んじてしまったのだ。つくづく怠惰な男である。勿体がない。魔導士としての才覚は間違いなく眠っている筈なのに。周囲は呆れ半分で、彼の様子を静観していた。



「僕らはそう思ってた。けど……」
「ああ。俺たちはすっかり騙されてたぜ。ジュダルの奴は」
「……とっても強くなってる! 複雑な魔法式だって、自分で編み出してたみたいだ。彼は僕らが知らないだけで、すごく、すごく、努力してたんだよ」
 アラジンが表情を歪めて、そう感情を顕にした。
「だから僕はまず、ジュダルくんに謝りたい。君のことを何にも知らないで、憶測だけで悪いことを言ってごめんねって」
「……」
「でも、それとさっきのことは違う……僕はジュダルくんと戦わない。彼を悪者にしたくない。だからアリババくん、お願い」
「……なんだ」
「一緒に説得してくれないか。彼に、このまま煌帝国へ帰ってもらえるように」



 目的の森林地帯へたどり着き、足を地面へ着けた。真後ろからやってきたジュダルもその後を追って、難なく着地してみせる。彼は薄ら笑いを口元に浮かべたまま、その思惑を読ませぬよう気を配っていた。
「……俺は最初からそのつもりで着いてきたぜ、アラジン」
「うん。有難う」

 相対した二人は一定の距離を保ったまま、互いの顔を見つめ合った。不穏な雰囲気がどことなく流れる。木々のざわめきも、揺れる足元の影も、なんだか心許ない。嫌な予感がして仕方ない。
「……ジュダルくん。今までごめん」
「ん?」
 口火を切ったのはアラジンだった。彼は頭を下げて、素直に謝罪の言葉を口にした。対する男は、不思議そうに首を傾げる。
「今まで君が、努力してきたことを知らずに……怠け者とか、サボり魔とか、悪いことを言ってしまった。君は魔導士としてイチから強くなろうと、頑張ってたのに」
「……」
「ごめんね」
「……」
 青い前髪が垂れ下がって、風に揺れていた。寂しい背中が丸くなって、縮こまって、暫くそのまま動かない。彼自身が一番、肉体強化訓練の過酷さを理解しているからだ。
 アラジンも当初、学園内で最弱ランクに位置していたらしい。最底辺から学園きっての優秀な魔導士として成り上がったのだが、そこに至るまでの経緯は言わずもがなだ。想像を絶する過酷な生活があっただろう。
「でも、僕はそれでも君と戦わないよ」
「……」
「今の平和と均衡を破ったら、また昔に戻ってしまう。せっかく手に入れた、かけがえのない財産を……僕はもう失いたくない」
「……」
 男は何も言わない。薄い唇を片方釣り上げて、アラジンを品定めするみたいに見つめていた。控えめに光る赤い目がじっと、三編みの毛先を追う。沈黙を保ったまま、意味深な笑みを張り付けて。
 だから今度はアリババが、唇を開いた。
「……白龍は」
「あぁ?」
「あいつは、知らねえのか。お前の力のこと」
「……」
 黒い睫毛に縁取られた瞳が、僅かに色を変えた。



 アリババが白龍の名前を出したのは、単に質問を投げかける為じゃない。ジュダルに揺さぶりをかける為のブラフだ。
 この時点でアリババの中にあったいくつかの憶測のうち、――ジュダルは白龍と何かあったのではないか? という疑問が既にあった。
 先ほどの市中では、アラジンがジュダルにかけた言葉のうち、煌帝国や白龍、紅玉の名前を出された途端。奴は黙り込んだ。人を嘲り、誑かし、罵倒する為に開かれる達者な口が、何故か閉ざされた。まるで何かをひた隠すみたいに。
 負けず嫌いで無鉄砲なこいつに限って、まさか心理戦を仕掛けてくるとは思えない。白昼堂々と往来のど真ん中に襲来するような人間に、腹の読み合いといった器用な芸当ができる筈ないのだ。でないとあんな奇襲は悪手でしかない。

「白龍はどうした。本国に置いてきたのか」
「……それを聞いてどうする?」
「質問に質問で返すなよ、ジュダル。やっぱりあいつと何かあったんだな?」
「ふ……だから? おめーらには関係ねえだろ」
 足元で揺れていた影が不意に、ぴたりと動きを止めた。雲の流れが鈍く、遅くなる。風の音が止んでゆく。空気の匂いが薄くなって、代わりに黒い靄のような気配があたりを包む。
「つくづく"お前ら"とは正反対にあるらしい。相容れねーぜ。まあでも、相手に不足なしだ……」
 ジュダルが大杖を、天に向かって振り翳した。
 頭上の雲が千切れ、霧散し、空が開ける。太陽の光が降り注ぎ、男の顔を真っ直ぐ照らした。舞台の演出みたいに、スポットライトがそこだけに当てられる。
「アラジン! 今度もまた俺の攻撃を受け流せるか、試してみるか?」
「ジュダルくん!?」
 宙に浮かぶ男の顔を見上げて、アラジンが叫んだ。
 空がぐにゃりと歪んだ。太陽の光を全身に浴びて、彼は邪悪な笑みを作る。赤い目が閃光のように光った。天空から降り注ぐ笑い声が耳を劈く。

 災厄をもたらす悪魔が人の形を取ったとしたら、たぶん、彼のような姿をしているんだろう。

 自然と頭に浮かんだ感想が、現実味を帯び始める。猛烈な暴風と竜巻が周囲に発生し、地面が揺れた。森林を住処にしていた鳥や虫や小動物が、一斉にざわめいて逃げ出した。大空に飛んでゆく鳥の群れがまるで、堕転した黒いルフのように見えた。男はその影を背負いながら、歯を見せて嗤った。



「……おう、白龍! 俺だ!」
『……アリババ殿?』

 その場で身を屈めつつ端末機器を取り出したアリババは、今は遠い地に居る白龍に連絡を試みた。電話がすぐに通じたのは運命が味方してくれたからだろう。目の前に広がる現実はとことん絶望的だが、まだまだ今の世界も見捨てたもんじゃない。
 端末越しに聞こえる声の主はいつもと変わらない、呑気な様子だった。ということは白龍は知らないのだ! ジュダルが単身バルバッドへ奇襲を仕掛け、アラジンに決闘を申し込み、破壊の限りを尽くさんとしていることを!

「受け流せるもんならやってみろ! これが俺の……!」
「……!」

 上空に稲光が走り、凄まじい轟音が響いた。衝撃で体が一瞬宙に浮いて、息が詰まる。生きた心地がしない。
 せめて金属器があれば、自分の身くらい守れたかもしれない。でも大いなる力はこの世から永遠に葬られ、人々は自分たちの力だけを信じて前へ進もうとしている。人智を超えた能力も武器も必要ない。そんなものがなくたって、運命の導きがなくたって、地に足を着けてゆける筈だろう、と。
 幾度の過ちを繰り返した人類が、ようやく手にした答えだ。それが間違いであったと、アリババは思いたくなかった。間違いにしたくない。遅咲きの花に見切りをつけるのはまだ、あまりに早いだろうに!



「アラジン!」
「……アリババくん」



 降り注ごうとした稲妻の切っ先が目前に迫っていた。
 にも関わらず。肌が痺れるほどの衝撃を覚えたはずなのに、体には掠り傷ひとつついちゃいない。
 顔を上げると目前に広がる景色に、アリババは絶句した。

「彼の攻撃の方向を、僕の魔法で捻じ曲げたんだ。……なんとか成功して良かった、けど」

 運河が干上がったのか。隕石でも落っこちてきたか。地球の地殻が歪んだか。
 そう思えるくらいの、深くて長大な溝が出来上がっていた。山脈の谷間、あるいは氷河地帯のクレバスとでも呼ぼうか。その陥没の果ては肉眼では追えない。地平線の彼方まで真っ直ぐ、鋭く、どこまでも伸びている。

「大気圏に弾き返したかったけど、調整がうまく、いかなく、て」
「アラジン!?」

 崩れかける背中に駆け寄って、地面に着いた膝を見下ろした。
 ふうふうと肩で息をする青年はすっかり顔色を悪くして、目をきつく閉じていた。顔の真ん中から垂れ始める鮮血が視界に入って、思わず大声で名前を呼んだ。
「だいじょうぶ……体が魔法の負荷に、反動で、少し」
「どこか大丈夫だ、こんな……」
 ぽたぽたと伝い落ちる鼻血を服の裾で拭ってやった。汚れるとか微塵も思わない。
 前景にあった森の半分くらいが一瞬にして消し飛ばされていた。抉れた地面と空が繋がり、異様な光景が広がっている。舞い上がる粉塵が肺に入って噎せた。煙のせいで目も痛い。
 けれどアリババは目を凝らして、黒い影を探した。青い空と白い雲と灰色の地面と緑の森林と。しかし、いくら視線を巡らせようとヤツの姿はなかった。
「彼はたぶん、転送魔法でどこかに行っちゃったよ」
「……は」
「勝ちを確信したんじゃないかな。……今度は僕の負けだ」
「んなもん……!」
 こんなものに勝ちとか、負けとか、関係ない。不戦の誓いを世界中が立てたのに、その均衡と掟を破るヤツが全面的に悪いに決まってる。奇襲を仕掛けて、一方的に宣戦布告を言い渡し、暴力を振り翳すことに、勝敗をつけることはおかしい。
「彼はこれだけの大魔法を放っておいて、退却できる余力があったってことだ。対する僕は、自力で立つことさえままならない。それは覆りようのない事実だ」
「だからってお前が負けだとか、俺は思わねえよ」
「……優しいね」
 血の滲んだ肌を引き攣らせて、下手くそに笑う。冷や汗が浮かぶ額を撫でて、髪の毛をかき混ぜてやると、彼はようやく安心したように息を吐いた。



 ざり、ざり、と引きずるような足音が聞こえたのはちょうどその時だ。巻き上げられた砂利を踏みつけて、土埃を被った雑草を押し潰すみたいな。振り返って確認しようとも思わない。相手がどんな顔をしているかなんて、どうでもよかった。

「……おせーじゃねえか」

 乾いた喉からひり出した声は思ったより低くて掠れていた。彼に怒りや恨み言をぶつけたところで仕方ないのに、でも、責任の一端に彼も加わっているなら。どうしてくれようか。仲間を、国民を、危険に晒した責任をどう取らせてやろうか。国土を蹂躙された屈辱を、どう分からせてやろうか。

「こ、れは」
「……その声は、白龍くん?」
 膝に抱えていたアラジンが身じろぐ。首を動かして、その姿を目に入れようとしている。その健気な姿を、アリババはぼんやりと見つめていた。
「アラジン、アリババ殿……!」
「……白龍テメー、あいつがこうなること分かってたんじゃねえだろうな」
「お、俺は」
「一体誰のせいでこんな……アラジンまで巻き込まれて……!」
「待ってよ、落ち着いてアリババくん」
 ぐったりした様子だった彼は、なんとか自力で姿勢を正そうした。しかし、それでもやはり、目に見えない損傷は体の奥深くにまで到達していたらしい。かくりと膝が折れて地面に両手を着いた段階で、自分は彼の肩に手を差し伸べた。
 その時点でようやく、アリババは白龍の顔を見た。藍色の瞳に映るのは抉れた地面と、遠い地平線だけだ。色を無くした肌は青白く染まり、乾いた唇が僅かに震えている。

 今の白龍にこっぴどく罵声を浴びせたとして、彼は甘んじてそれを受け入れるだろう。彼の真面目で義理堅い性格を考えれば尚更。すべては自分の不徳の致すところだと、情け容赦は不要だと、理不尽な罰すら引き受けるのだ。きっとこの男は。
「白龍くん。ジュダルくんがどこかへ行っちゃったんだ。心当たりはないかい?」
「……どこか……」
「説得したかったけど、僕たちじゃ力不足だった。だから君には怒るより先に、話をしてあげてほしい」
「アラジン?」
「だってジュダルくん、なんだか寂しそうだったから」
「……」
「ああ、僕らに謝るのは君ら二人揃ってからだよ?」
 ふにゃりと緩んだ横顔はやっぱりぎこちない笑みのままだった。こめかみに張り付く髪の毛の束が目について、視線を逸した。気丈に振る舞う彼に今、とやかく言ったところで、意味はない。
 一番ダメージを受けているアラジンが白龍を責めない以上、ここで自分が出しゃばってもそれは、アラジンの本意じゃない。ただの八つ当たりだ。傷つけられた彼の代弁でもなんでもない、子供の地団駄と同じだ。だから彼の意に沿って、自分も白龍を見届ける他ないのである。不本意ではあるが。大人のフリに徹するしかない。

「心当たりはあんのかよ?」
「……一箇所、だけ……」
「ならさっさと行ってこいバーカ! ぐずぐずすんじゃねえ! また泣いてたら許さねえからな! この貸しは高くつくぞ!」
「いっ言われなくたって! わ、かってますよ……!」

 震える語尾を誤魔化すように、白龍が背を向けた。泣くなと言ったそばからべそをかいてどうする。泣きたいのはこっちだというのに。
 無言で遠ざかる背中を睨みつけた。やがて目視でも追えなくなった頃、アリババはアラジンと視線を合わす。
「……お話、ちゃんとできるかな」
「できるか、じゃない。するしかねーんだよ」

 そうでなくては困る。
 地平線の向こうに消えていった影をまなうらに浮かべて、アリババは歯噛みした。