ニライカナイをゆめみるひとたち 1
きっかけは自分のちょっとした一言だったかもしれない。
だが今となればそんなことはどうでもよかった。
あいつが底抜けの馬鹿で、正直で、純粋で――あまりに子供のまま、大人になってしまったのがよくないのだ。きっと。
陛下の執務室に足を踏み入れた瞬間。
鼻腔をくすぐった強烈な臭いに、耐えきれず咳が出た。
「げほっ、げほ……」
「白龍ちゃん、どうかした?」
「ああいえ、お気になさらず……」
部屋の一番奥に座していた皇帝陛下は瞬きを数回したあと、そう、と気にも留めず視線を逸らした。白龍は内心胸を撫で下ろし、何事もなかったかのように仕事の話を切り出した。
甘ったるい御香はこの宮殿の、ひいては国の長である彼女の趣味だ。
御香だけじゃない。室内の内装、家具や調度品、絨毯に窓枠の飾り彫りに壁紙、照明器具に至るまで、彼女の趣向が凝らされていた。なんでも、日中の大半は過ごすことになるこの部屋くらいはせめて、好きなものに囲まれていたい、という願望によるものらしい。
ささやかな彼女の願いを、建築家や施工業者らは快く受け入れ叶えてくれた。が、肝心の本人の美的感覚が洗練されているかどうかは、誰も確かめようがなかった。
とにかく自分の琴線に触れた、好きな物を国内外から取り寄せ、買い取り、これまでの常識を覆す内観に塗り替えてしまったわけだ。西洋と東洋文化が入り混じった幾何学模様の赤絨毯、七色に偏光するランプと、花柄の刺繍が全面に施された猫足の長椅子に、硝子張りの長机――。
統一性のない家具や調度品の数々は、単体で見ればどれも値打ちのある物だが、組み合わせると見事な不協和音を生み出していた。ああ姫よ、と彼女の側近は嘆き悲しみ、宮中の他の者もが眉間に皺を寄せる悪趣味ぷり。しかし本人は周囲の声にさして耳も貸さず、私はこれが気に入ったからいいのよ! と言ってのけたようだ。
それは、少し前の彼女からは想像もつかない振る舞いだった。あまり前へ出たがらず、周囲の目や顔色を窺いながら下手くそな愛想笑いを浮かべる。正当な皇位継承権は持ちこそすれ、位は低く、妾腹の子供であるがゆえに宮中でも煙たがられる。金属器を得てからは活躍する機会も増えただろうが、他の兄弟らと比べれば見劣りする。
どっちかずで、何にもなれなかった彼女だからこそ、その位に相応しいのだろう。
白龍は思うのだ。優秀な兄たちのように強く、賢くなりたいと思う向上心と、誰より平和を願う慈愛、弱い立場だったから培われた優しさ。戦では最前線に立ち、肌身で感じた命の尊さ、争い合うことの虚しさは、彼女にとって生涯の財産となっただろう。あのとき味わった冷たい感触を、悲劇を、二度と起こしてはならない。そんな強い意志が正義感へと繋がり、彼女を皇帝たる器へ昇華させたのだ。
だからこの国を治めるための資質は自分より紅玉にある。皇位を移譲した当時も、今だって、その気持ちは変わらない。隣で横顔を見るたび思う。戦争のやり方が分からなくたって、計算が苦手だっていい。政局の岐路に立たされたとき、よりよい道を選び取れる人が皇位を賜るに相応しい。求められる判断力がより優れている者が、上に立つべきなのだ。
「水道に鉄道、電気設備のインフラ工事……こんなに立て続けだと財政はまた不安定になるのでは。陛下はどうお考えで」
「それもそうだけど……市中から届く意見書や嘆願書がパンク状態で。一日も早く整備したいのよ」
「なら優先順位をつけて計画を立てては如何でしょう。意見書の中でもとくに声が大きい分野で整備を進めてみませんか」
「そうね、確かに……! 市民調査の書類は確か、あの棚に」
皇帝は席から立ち上がり、棚へ駆け寄ろうとする。しかし白龍がすかさず声をかけた。
「陛下、お座りください。御手を煩わせるわけにはいきませんから」
「……白龍ちゃん」
彼女はやや上目遣いに相手を見つめたあと、頬を染め、口元を緩ませた。
「あは、ふふふ。あなたにそう、仰々しい扱いをされるとおかしくなっちゃう! もう。普通に接してくれていいのに!」
「い、いけませんよ。御自分の立場をお考えに、」
「いいじゃない、こんな時くらい。白龍ちゃんを怒る人なんか居ないわよ」
「ですがこれは」
「私がいいって言うんだからいいの! それにほら、急に態度を改められても寂しいっていうか……私は何者だろうとこのとおり私のままだし、血は繋がってないけど白龍ちゃんのお姉さんで居たいの。だから白龍ちゃんも、白龍ちゃんのままでお話して頂戴?」
棚の取っ手にかけた指を上から握られて、ゆっくり解かれた。
呆気にとられる白龍を尻目に、紅玉は引き出しから書類の束を取り出し、その紙面を眺める。――少しでも住みやすい国にしたい気持ちが行き過ぎて、先走っちゃったみたい。あなたに相談して良かった。――そんな優しい言葉が聞こえて、白龍は息をひとつ吐いた。
「あなたという人はほんとうに……」
赤い勾玉のような瞳が、不安げにこちらを見つめてくる。
「……”姉上”、今からこの書類を仕分けしていきましょうか」
花が綻ぶように笑んでいた。
この人を支えたい、付き従いと思わせるのもまた、王の資質のうちだろう。裏表を見せない表情と言葉の節々に、力添えしたいと思える要素がある。それは歴代の王には見られなかった、彼女だけの、天性の才能だ。
「なにイチャついてんだよ、おめーら」
「……ジュダルちゃん」
「いちゃついてなどない。そういうお前のほうこそ……」
今の今まで存在感を消していたジュダルが、呑気に間延びした声を発した。
白龍は長椅子で寝そべる男の頭上まで歩み寄って、言葉を投げかけた。
「身の振り方を少しは考えたらどうだ? ぐうたらしてないで仕事を手伝え。話は聞こえていただろう」
「ヤダ」
「何?」
「そんなの、つまんねーもん」
金糸が編み込まれた布地に寝そべって、盛大な欠伸を漏らしてみせた。お気楽で自由気儘で緊張感の欠片もない。呆れを通り越してかける言葉も出ないほどの怠慢っぷりだ。
しかも、人が真面目に仕事をしてる真横で。馬鹿にしているつもりかと、その据わってない首根っこを掴んで揺すりたくなる。
「姉上、なぜこいつをここに呼んだのです?」
「簡単な書類整理ならお手伝いしてほしくて……それに、こうやってお話を聞くだけでも勉強になるでしょう。ね、ジュダルちゃん?」
「いや、半分寝てた」
「貴様、姉上のお気遣いをなんだと思って」
「まあまあ白龍ちゃん……」
ぼふん、と寝返りを打ち、ついに男はうつ伏せて惰眠を貪ろうとし始める。そうやってごろごろ動き回ると高価な布が垢まみれになるから止めろと、何度も言っているのに。
長い毛が床に着くのも厭わず、頬に布の跡が残るのも気にしない。彼は自分にも他人にも無頓着で無責任なのだ。だから相変わらずこちらの話に聞く耳を持たない。
いつもそうだ。己が真剣であればあるほど、神経を逆撫でるような振る舞いを見せつけては、人をおちょくるばかりで。
「これなら庭の草むしりでもしてたほうがよっぽど時間が潰れるぜ」
「お前は魔導士としての自覚を持て」
「ヤダね。人間の使い走りなんて」
「そんなだからいつまでも力がつかないんだ」
「……」
その直後。伏せていた顔を上げたジュダルが、ようやく体を起こした。じと、と据わった目つきを見れば、彼が言いたいことはよく分かる。
俄に苛立ちを滲ませていた男に、白龍は怯まず言葉を続けた。
「同じマギだったアラジンはどうだと思う。今や彼は大陸調査団を率いて数々の成果を残し、バルバッド政府内で意見役を務めるアリババ殿の補佐も務めているんだぞ。マグノシュタットでの経験で実力も身に着け、アリババ殿との友好関係も健在。形は違えど、王を支えるマギの在り方として理想的だろう。なのにお前ときたら……」
「……」
「ここで安逸を貪り、現状に満足しきって何の危機感も抱かない。何故この空間で自分だけが働きもせず、野放図を暗黙されているか、考えたことがあるか?」
彼の気に障る言葉を選んだのはわざとだ。アラジンの名を挙げ、比較し、マギという単語に結びつける。それだけでこの男はいとも容易く逆鱗に触れられ、怒りを顕にするのだ。
酷い物言いだろう。だが、そうじゃないと梃でも動こうとしない。怠けて呆けて暇を持て余す男は、周囲の言葉に興味を示さない。当事者意識が薄いからだ。心配事も緊張感もないから、ぜんぶ聞き流してしまう。批判も否定も文句も、どこ吹く風だと言うように。
それでは困るのだ。彼自身は自覚がないが、いつまでもこの生活が続くという保証はどこにもない。食糧の安定供給に財政の見直し、難民の生活保障、エトセトラ。国憂は山積みだった。だから皆で一致団結し、未だ混乱に満ちたこの国で一刻も早い治世を行いたいのだ。そして、その動きを先導することが我々の役割なのである。
「姉上の温情でここに置かせてやっているが、いつまでも今の環境が続くと思ったら大間違いだ。現状に甘えていては、何も持たないお前はいずれ爪弾きに遭うぞ」
「は、白龍ちゃん」
「……」
いくら人の身といえど、マギの力を有していた者。根本的に魔力の保有量が一般人とは異なり、内蔵量は桁違いの筈だ。現にアラジンは肉体を鍛錬で強化し、知識も蓄えたことで、ルフの加護を受けない生身のままでも大魔法を繰り出すことが出来るようになっていた。
ならばこの男にも、それだけの潜在能力が秘められているかもしれない。そんな期待もできよう。
なのに勿体ない。まるで宝の持ち腐れだ。力を持て余し、才能を無駄にし、国の隅っこで燻っている男が。お前はやればできる筈なんだから、もっと頑張ってみろと訴えたい。
現に何度も声をかけている。他国の魔導士に助力を乞うて指南してもらおうと、根回しもした。けれど彼はどうしてなかなか、向上心の欠片さえないらしい。
温室育ちのこいつは他人からろくに叱られたことも、殴られたこともなかった。努力せずとも手に入った力や地位や名声に凭れて、甘んじてきたから、現状維持に徹しようともしない。ぜんぶどうにかなると、いつまでも楽観視してる。もう彼を庇うアル・サーメンという後ろ盾も、御自慢のルフの加護も、味方なんてしてくれないのに。
かつて神官を務めた彼には一時的な措置として、白嶺宮への出入りを許可している。煌帝国への利をもたらす魔導士の存在は居てくれるだけ有り難いから、そういう名目で、皇帝の名の下、堂々と謁見さえ許されているのだ。
しかし国の体制が今より整ってきて、多くの文官や士官による組織再編がなされたとき。
彼の立場が危うくなるかもしれない。帝政を敷く以上は皇帝の権威を国民へ示さねばならず、そして宮廷は政治を行う為の神聖な場所だ。各地から召集された有能な政治家や専門家だけを招き入れ、一般市民には限られた日程でのみ公開される。そういう立場による明確な区別が、一般市民に権威の象徴たる宮廷の有り様を意識付けるのだ。
だから宮廷に住まうジュダルの存在は正直言って、矛盾を起こしてしまう。ろくすっぽ仕事もせず成果も残さないのに、何故あいつが易々と出入りできるのか。どんな口実で。あいつの言い分は。政府の裁量、皇帝の思し召しは僻見に塗れている。この国では実力者より私的な贔屓者が得をするのか。そんな噂話や陰口を立てられては、彼にとっても損しかない。なので、名実ともに優れた魔導士になってもらわねば困るのだ。
「働かないと出て行ってもらうぞ、と俺に言われて、お前は何ができる。寝床と食事だってタダじゃない。少なくとも国民の血税が宛行われているんだ。その自覚はあるのか」
「……」
「ねえ白龍ちゃん……」
「この怠け者にはこれくらい厳しくしないと、人の話なんか聞きやしませんよ。なあそうだろジュダル。今だって俺の声なんか、聞くに値しないと……そうやって耳の痛い話や現実から目を背けて、平気な顔してふんぞり返っているんだろう?」
「フン」
切れ長の目を細めて、奴は不敵に笑った。笑ってみせた。
「いいじゃねえか。お前がそこまで言うなら出てってやるよ。後悔したっておせーからな」
「何処へでも行け、この馬鹿」
「ちょ、ちょっとお……!」
男は座卓に立て掛けていた大杖を握り、おもむろに立ち上がると、そのまま部屋の出口へと向かおうとする。白龍の隣では紅玉が、二人の顔を案じるように見比べていた。
「け、喧嘩は良くないわよ。白龍ちゃんも、思ってもないことを」
「常々思っていたことを口にしたまでです」
「ジュダルちゃんだって、なにもほんとに出て行かなくたって」
「あ? 気分わりーよ、んなとこ居たら」
「も、もう! ふたりとも!」
彼は一度も振り返らず部屋から出て行った。遠ざかる背中が見えなくなる前に、白龍はその姿を視界から外す。
「駄目じゃない。あの子強がってるけど、きっと傷ついてるわ」
「むしろそうであってほしいですよ。でないと奴は危機感を持たない」
この役立たずの木偶坊、とでも言ってやろうかと思った。しかし皇帝陛下の目がある手前、感情的に詰るのも良くはない。煌帝国の皇子としての立場から、物を言ったつもりだ。
「ほんとは心配してくれてるんでしょう? なら素直に言ってあげたらいいのに」
「素直に言っても聞かないからです。自業自得ですよまったく。さあ厄介者は居なくなったことですし、作業の続きを」
白龍は毅然とした態度のまま紅玉へ向き直り、何事もなかったように笑顔を張り付けた。扉の向こうを気にする素振りを見せる紅玉の、曇った表情には気づかぬ振りをして。
耳障りのいい、綺麗事ですべてが丸く収まれば、それに越したことはない。全人類と仲良く手を取り合って万人と意思疎通ができれば、これほど苦労はせずに済んだだろう。これまでの歴史や経験が物語る不条理やままならなさは、別に今に始まったことじゃない。
最近、ジュダルに対する当たりが強いとよく言われる。それは白龍とて自覚していたことである。何故なら白龍自身が意識して、そう振る舞っているからだ。
日々変容してゆく環境に適応しようと、誰もが藻掻いて足掻いて、正解を見つけようとしている。各国の生き残りをかけた戦いは水面下ですでに始まっており、煌帝国だって例外ではなく、その戦火に晒されている。それは武力のぶつかり合いでなく。人や物の流れだったり経済の豊かさであったり発言力だったり……と、国力をはかる尺度は様々だ。まだ明確に定まっていないと言っていい。
だからといって、無策のままで良いわけがない。今この瞬間にも乱立する小国家たちは、いずれ淘汰・併合・吸収される時が訪れる。その生存競争に無関係と呼べる国は存在せず、だから国の長たちは来たるべきに備えて国力を養い、整備し、経済を発展させ、人を呼んでいる。
優れた人材、優れた発明品、優れた企業は早い者勝ちの争奪戦だ。多額の報酬で引き寄せて自国の発展に繋げようとどこも躍起になっている。武力に頼らなくなっただけで、基本的にやっていることは昔と変わらないだろう。経済戦争とも呼ばれる鬩ぎ合いは日夜激しさを増し、予断を許さない状況なのだ。
そんな中でもっぱら、特殊な位置づけにあるのが魔導士という存在だ。彼らは全世界の総人口の中でも極めて少数派でありながら、多くの可能性を秘めている。
魔法道具の製作、新大陸調査での輸送任務などの業務は彼らの役割の表層に過ぎない。あらゆる産業や医療現場での活躍を期待され、魔導士をいかに多く擁するかが国家の命運を左右する、なんて言われる始末だ。
ゆえにジュダルは煌帝国から追放されようと、見知らぬ土地のどこかの国に拾われるだろう。食い扶持が無くなる心配は少なくともないだろう。
だから、それは良い。働き口に困らないなら、越したことはない。飢え死ぬ心配が不要なのは良いことだが、彼は自身を拾ってくれた恩を返すため、対価を支払うことになるのだ。その国の発展に助力する、という形で。
それがどんな内容かは知る由もない。丁稚奉公や慈善活動ならまだ良い。しかし世界を見渡せば、過酷な環境であぶく銭を稼ぐ他ない労働者も存在するという。かつての奴隷制を彷彿とさせる仕組みは、近年急成長を遂げる資本主義経済の弊害だ。新たな経済体制の悪い面に、彼が運悪く足をすくわれたら。
白龍としては、ジュダルを煌帝国に繋ぎ止めておきたかった。外の世界は法も秩序もない、これまでの常識が根底から覆された渾沌の大地が広がる。危険だらけだ。しかし少なくとも、煌帝国で皇帝陛下の庇護を受けているうちなら、身の安全は保障される。
とはいえ、ジュダルが現状のまま怠慢に暮らす場合、国として具合が悪いのだ。何故なら彼にも役職なり何なりを与えてやらねば、いずれは居場所を守れなくなるだろうから。
しかし今の彼を重役に任命することは現実的に不可能だ。名実ともに周囲が納得する理由が無くては、推挙も擁立もできまい。煌帝国が帝政を維持し続けるなら尚更。権威を示す為の正当性と、その姿勢を崩すわけにいかないのだ。
「……そうは言っても、白龍ちゃんだってほんとは後悔してるんじゃなくて?」
「え?」
不意にかけられた声に顔を上げた。紅玉は机に広げた巻物から顔を上げている。
「だってずっと上の空。今だって私の話、聞いてなかったでしょ」
「そ、そんなことは」
「あら。いま手に持ってる資料の向きが逆さまになってるわよ」
「えっ」
白龍は慌てて手元の紙面を見遣った。が、文字は真っ直ぐ正面を向いて並んでいる。
「ふふ。私のこんな嘘に引っかかるなんて……」
「あ、姉上」
「気になるなら探しに行って、呼んできたら? あの子だって本気で怒ってたわけじゃなくて、ちょっと拗ねただけよ」
「すっ、拗ねるって……あいつはいい年した大人ですよ? どうせ放っておけば、そのうち飽きて帰ってくるに決まって、」
「そんな白龍ちゃんもいい年した大人よねえ?」
「えっと」
「ほら、早く仲直りしてきなさい!」
とすんと背中を叩かれて、振り向けば有無を言わせない微笑みがあった。陛下、と語りかけても彼女は返事をしない。
和平を何よりも尊重する皇帝の前では、わだかまりを抱える白龍に発言権も立場も無に等しいのだ。
なにもない日のジュダルの行動経路は限られている。庭の桃の木か、自室か。
このふたつを当たればどちらかに必ず、奴の姿はある。白龍の経験則上、その予測が外れたことは一度もなかった。
あくまで今日、この時までは。
「ジュダル殿ですか? いえ、私はお見かけしてませんが」
「私も見ていませんね」
「自分もです。え、心当たりですか? はて……?」
「それなら白龍殿下が一番ご存知なのでは。お二人はご一緒に居ることが多いですし」
「殿下も知らないとなれば、私たちでは見当もつきませんよ」
「左様ですとも。殿下のお力になれず心苦しいですが……」
心当たりのある場所を探しても居ない。通りすがりの人間に声をかけたとて、返ってくる文句は揃ってこのとおり。三者一様、口々に同じことを言う。
そこまでみなが言うほど、自分はあいつと連れ添っていただろうか。
かつての反乱の際ならいざ知らず。暗黒大陸が日の目を見て以降、お互い顔を合わせる機会が減った。仕事が立て込み、生活習慣も変わり、話す時間もそうそうなくなったからだ。最近では一度も声を聞かない日だってあるくらいなのに。
「お庭で休息されてるジュダル殿に、殿下はよく話しかけていらっしゃいますよね」
「まるで春眠暁を覚えずの句ではないかと、殿下が檄を飛ばされていた時には周囲の者も和んでいましたよ。お二人は気心が知れた仲のようで」
「はは。度々言い争いをされておりますが、宮仕えにとっては見慣れた光景ですから」
「お言葉は厳しくともジュダル殿を気にかけてなさるのでしょう。我々もそれは心得ております」
「……そうか……」
白龍はこのとき、宮仕え達に指摘されるまで自覚すらしていなかったが、二人の交友関係は宮中に知れ渡っているも同然だった。人目を憚らずどこでも居眠りを決め込もうとするジュダルに、白龍が叱責を飛ばす。もはや日常茶飯事となっていた一幕を、当の本人は"日常会話"に含めていなかったわけだ。
あんな取るに足らないやりとりは、いちいち意識していなかったのだが。
「ふふ。今更恥じることはありませんよ。周知の上で職務に当たってますゆえ」
「それにしても殿下でさえ心当たりがないとは、ジュダル殿は一体どちらへ」
「転送装置を使用すると足取りさえ掴めませんし、困ったものですね」
本題はそこだ。彼との関係性を他人から揶揄され、羞恥を覚えている場合じゃない。
「……殿下、着信が」
「ん? ああ、すまない」
唐突に、懐に仕舞っていた端末が光り、震え出した。
つい最近に製品化された新型の端末機器は、従来の通話装置よりも音質が向上し、タイムラグが減ったのが売りらしい。見た目も大きく変化し、手のひらに収まる薄型の板状になっている。
取り出した機械の表面に浮かぶのは発信者の名前だ。そこには白龍もよく知る、しかし、今の状況に無関係と思える人物の名が記されてあった。
「……もしもし?」
『よお白龍! 俺だよ俺』
「かけ間違いではないんですね、アリババ殿」
詐欺手口の口上みたいな台詞を聞き流して、白龍は眉を釣り上げた。
どうせ飲みに行こうだとか、週末の予定は何だとか。彼からの連絡といえば相場は決まっている。遊びの約束を取り付けに、わざわざ連絡を寄越してくるのは何も今が初めてじゃない。
でも今晩はあいにく、到底そんな気分にはなれそうにない。目下のやる事が立て込んでいるし、探し物が見つからないし、義姉には見限られ、腹の虫がおさまらない。全く以て災難続きだ。愚痴の聞き役になってくれるのであれば、出向いてやろうと思うが。
「……今は少し別件がありまして時間が取れず……用件だけ先に、」
『んなことよりどうにかしろよ、お前! どーせまたお前ら二人のことだろ!?』
「え?」
直後、端末の向こうから轟音が鳴り響いた。雷が落ちたかのような鈍い衝撃音と、粉塵が舞う気配と。それから、アリババの咳き込むような声。
『ったくよお、うちは託児所じゃねーんだぞ!』
「い、一体」
『ジュダルがアラジンに決闘だ、つって喧嘩売ってきやがったんだよ!』
「……はあ? ジュダルが?」
『そうだよ! アラジンがアイツを宥めようと説得してやったら、舐めプすんなって切れ散らかすし!』
何が何やら。訳がわからない。
アリババの声色と先程の衝撃音からして、只事ではないらしい。あいつが彼らの元で何をしでかしているのか。定かでないが、碌でもないことに違いない。
何故アラジンに突っかかるのか? 赴いた先で口論にでもなったのか?
『おめーんとこで何かあったんだろ、心当たりはねーのか白龍!』
「俺の……」
『おうそうだ。でなきゃこんな、……うおっ危ねえ!』
通話の声に混じって鋭い風切り音が響き、耳を劈く。一瞬遅れて届いたアリババの声は緊張のせいか、やや震えていた。
『とにかく説明は後だ、早く回収しに来い!』
「バルバッドで、合ってますか」
『おう。南東の山奥に引き留めておく! だからさっさと来い!』
「す、すみません」
釈然としない白龍を置き去りにして通話は途切れた。念の為再度かけ直してみたが繋がらなかった。無視をされているか、電話に出られる状況じゃないか。何にせよ急を要する話だ。災害現場のような物音が、これが只事ではないと知らせていた。
とにかく現地に赴いて、直接この目で確かめねばなるまい。
始終を見守っていた使いの者たちは不安そうに顔を見合わせていた。だから白龍はなるべく、何事もないように笑顔を張り付けて、適当に取り繕った。
自国の人間が他国に喧嘩を売り、迷惑をかけているなんて醜聞が国中に広がったら。その人間はあまつさえ宮中で贅を尽くし、皇帝の庇護を受け、特別扱いされている者だと知られたら。
否が応でも国民は政府への不信感を抱き、また戦争を始めるつもりかと勘繰りかねない。しかもそいつはかつて、国の中枢に巣食っていた得体の知れない組織の一味で。絶大な魔力を司るマギで。素行も良いとは言えない、不真面目怠慢不良児で。
「少し、急用が入ったから外へ出向く。今のことは他言無用にしてくれないか」
「か、畏まりました……」
「何、そう案ずるな。相手は俺の友人で……いつも面倒事に巻き込んでくるような奴なんだ。こんな訳の分からない連絡はいつものことで、もう慣れている」
「殿下がそう、仰るのであれば……」
「お気をつけて、行ってらっしゃいませ」
白龍は嘘を吐いた。
アリババが友人なのも、面倒事に巻き込んでくるのも、訳の分からない連絡をしてくるのも、概ね事実だ。
しかしひとつ言い忘れたことがある。今回ばかりは恐らく、自分が彼を面倒事に巻き込んでしまった。そして、こんな連絡を寄越されて、慣れていられるわけがない。
ジュダルと数人の魔導士らが共同で設置してくれた転送装置を用いれば、国内外どこへだってひとっ飛びで移動ができる。重量制限はあるものの、その移動距離に関して言えば世界随一の利便性を誇る。
そんなジュダル御自慢の、煌帝国専用の装置に足を置いた。
一度に運べる量は少ないものの、飛距離だけは誰にも負けない。それが彼の専売特許で売り文句だった。思えばかつてクーデターを企てた際に、彼が真っ先に新しく覚えてきた魔法のひとつだ。
あいも変わらずその欠点は改善されないものの、おかげで助かっている国民は大勢居る。彼の魔法は本人の預かり知らぬところで人々の役に立ち、どこかの産業を支え、あまたの生活を豊かにしている。彼自身はそれが不本意だと口にするが、嫌な気は無い筈だ。他人に感謝される機会など生まれてこの方、殆どなかっただろうから。どう反応すればいいか分からないだけなのだ。
「ああもう、仕方ないな……!」
本当に不必要な人間なんて居る訳ない。あの言葉は根っからの怠慢気質に発破をかけるつもりで、彼の為に言ってやっただけなのに。
心当たりはあるかとアリババに問われた。
答えは、大ありだ。
「あんの馬鹿……」
数分前の些細な口論がきっかけとしか思えない。アラジンの名を出し、かつてマギだった彼の能力を卑下し、いかに彼がアラジンに見劣りするかを論じ、出て行けと暴言を吐いた。
額面通りに受け取られてしまった言葉に、今ならなんと付け足そう。そんなつもりで言ったんじゃないと、弁解すべきか。すべてはお前の為を思ってと、言い訳すべきか。だからって人様に迷惑をかけるなと、説教してやるべきか。体裁だけでも謝罪の文句を口にして、丸く収めるべきか。
言いたいことを山ほど胸に抱えた白龍は、遠い西方の地――バルバッドに座標軸を定めて、転送装置を発動させた。