千年騎士 十章
――シンジュク行き特急列車、まもなく扉が閉まります
けたたましい環状線のアナウンスが鳴り響くプラットホームには、秋の訪れを感じさせるひんやりとした風が吹き抜ける。随分落ちるのが早くなった太陽は既にビルの間に隠れてしまって、その姿ももう見えなくなろうとしている。青と紫と橙のグラデーションはまるで絵の具の筆洗のように、鮮やかに空を彩っていた。
扉が閉まる直前で特急列車に飛び乗り、ようやく一息ついたスザクは過ぎ去る駅の風景を、窓越しに見つめる。
自らを八年前にスザクと出会った憲兵だと名乗る男と対面し、その足でスザクは学園を飛び出していた。まだ午後の授業は残っている。放課後の約束だって交わした。それでもスザクは、居ても立っても居られなかった。
八年前は全速力で走っても間に合わなかった。遠ざかってゆく電車の後ろ姿を、改札の外から泣きじゃくって見つめることしかできなかった。それに乗れば鍵の君の足跡を辿れる保証もないのに、まるでもう二度と会えないみたいな絶望感が幼いスザクを襲っていた。
今は違う。鍵の君の足取り、正体を突き止めるための明確な証言を得た。まだ俄かに信じ難い証言だったが、試す価値はある。それを裏付けるため、スザクはひとつの賭けに出ようとしていた。それは半ば衝動的な行動だった。
「ユーフェミア皇女殿下への面会許可を頂きたいのですが」
「……何者だ、貴様」
その日スザクが行き着いたのはトウキョウ租界の中央部にあるブリタニア帝国の心臓部、中央宮殿である。ブリタニア家皇族たちの住居であり、皇帝が執務を行う官邸の役割も果たしている。大きな会議場や議事堂も隣接しており、国の政治の中心とも呼べる。
そんな国の機能を一任する場所であるから、当然警備やセキュリティも国内で一番厳しい。一般人が周辺をうろつくことさえ許されない、いわば聖域とも言える。
「ブリタニア国軍に在籍しております、枢木スザクと申します。身分証明書はこちらです」
たかが准尉クラスがどこまで通用するか分からない。だがスザクには、ユーフェミアと面識がある、という大きな切り札があった。名前を伝えてもらえさえすれば、第一関門を突破する勝算はある。
「准尉殿が皇女殿下に、如何様なご用件で」
「どうしても今すぐお話したいことがあるんです。……実は皇女殿下とは知己の関係で、恐らく私の名前を伝えれば分かるかと」
スザクが護衛に詰め寄ると、彼は観念したように、無線を使って内部の人間に交渉をし始めた。
「枢木准尉、皇女殿下から面会の許可が下りた。案内の者に従って、この先へお進みください」
「……有難う御座います」
彼女はどうやらスザクのことを認識していたようだ。
ユーフェミアがどこまでこのことに関与していて、知っているのかはまだ憶測の域でしか分からない。しかしスザクの予想が正しければ彼女は、鍵の君の正体も、そしてスザクが失くした鍵の在処も知っているはずなのだ。
案内役に通された部屋は部屋というより、大広間という印象だった。重厚な絨毯が敷かれた大理石の床はひんやりとしていたが、部屋の中央で煌々と燃える暖炉の火はとても暖かみがある。壁には大きな絵画がいくつも飾られていた。その良し悪しはスザクには分からないが、それらの絵はこの宮廷での生活が描かれていたのだ。薔薇の庭園で佇むシュナイゼル殿下、噴水の公園で茶を嗜むユーフェミア、まるで背比べのようにして真横に立ち並ぶ、幼い兄と妹の絵。誰もが一度は憧れるであろう、宮殿での優雅で豊かな暮らしぶりが一目で分かる。
「ようこそお越しくださいました。お久しぶりですね、スザク」
暖炉の前に置かれたソファに佇むユーフェミアは、スザクにそう言って微笑みかけた。
「……今日は君に話があって来たんだ」
「ええ、伺っております。どういったご用件でしょう」
スザクはソファに腰掛けるユーフェミアの真正面に立ち、そして恭しく跪いた。背筋を伸ばし頭を垂れる姿はまさしく、皇女に忠義を誓う騎士そのものだ。
「無礼を承知で言わせてもらう。……僕の鍵を返してほしい」
「……鍵?」
スザクは俯けていた頭を上げ、彼女を見上げた。その表情は困ったような残念なような、あるいはどこか悲しげでもあった。
ユーフェミアは思ったとおり、嘘が下手だ。その面持ちだけで彼女が何かを隠していることが、スザクでも容易に、手に取るように分かる。だからこそ知らぬふりなどやめてほしい。スザクにとってユーフェミアは高潔で誠実な女性を体現した人物であったからだ。
「一年前、君は収容所に閉じ込められていた僕を救ってくれた。その恩は今でも忘れない。でも」
「スザク……」
「そのとき、僕の持っていた鍵を奪ったのは君だろう、ユフィ」
スザクの翡翠が、ユーフェミアの藤紫を射抜いた。彼女の瞳にはじわりと涙の膜が張られる。無実であるにも関わらず疑われたことへのショックか、それとも。真実を隠し通す彼女へ、スザクは糾弾した。
「僕は知ったんだ。鍵の持ち主がルルーシュであることも、彼とその妹が人質だったことも」
「……」
「ユフィ、教えてくれないか。八年前、何が起こったんだ」
スザクは、今まで隠し通されていたことに対して怒り狂うことも、悲しみで泣き叫ぶこともしなかった。八年間ずっと追い求めていた正体にやっと辿り着ける。もう追い続けなくていいんだという開放感と、遠い場所にあったものが手に入ってしまうことへの落胆と喪失感で胸がいっぱいだった。
人の心とは不思議だ。喉から手が出るほど欲しいもの、願って止まなかったもの、再会を夢見て探し回っていた人物、対象が自分の手が届かなければ届かない場所にあるほど、魅力的に見える。欲しかった玩具は買ってもらうまでは欲しくて堪らないのに、いざ買ってもらえたらすぐに飽きてしまう。
早く正体を突き止めて鍵を返したいという切なる思いと、もう少しこのまま鍵の君を追い続けたいという身勝手な感情が、スザクの胸の中で交錯した。
「スザクはルルーシュのお友達なのですか?」
「……ああ」
本当は友達の枠も超えてしまっているが、そのことは敢えて口を噤んでおく。
「良かった。あのルルーシュにも、スザクのような優しい方が傍に居てくれてて」
ユーフェミアはどこか安心したような、しかし寂し気な表情を作った。それはどこか微かな諦めと覚悟、そして何かを悟ったような面持ちにも見えた。
「いつかはスザクに告げなければならない日がくると思っていたんです。あなたはどんどん軍の中で力をつけて、真実に近づいてくるから」
ユーフェミアはスザクが失くしていたはずの鍵を、さも当然のことかのように懐から取り出した。スザクがこの部屋に案内されていた時点で、彼女は鍵の話を持ち掛けられることを予測していたのだろう。
「……いいでしょう。すべて、お話致します」
いつになく真剣な瞳と表情で、ユーフェミアはスザクに向き合った。いつものにこやかで天真爛漫を体現したかのような愛らしい印象は、すっかり鳴りを潜めている。
彼女の手に握られた鍵は、深い影を落としていた。
八年前の冬のある日、ルルーシュとナナリーはブリタニア本国から日本国へ人質として送られた。当時ブリタニアと日本は開戦まで秒読み、一触即発という情勢であった。その抑止力として、ブリタニアから秘密裏に日本国へ人質として、二人は強制送還されたのだ。
このときなぜこの二人が選ばれたかというと、ブリタニア本国での二人の立ち位置が大きく影響している。母親であった故マリアンヌ妃が急逝し、宮廷において彼らの後ろ盾となる者が居なくなったためだ。まだ年も幼かった兄妹は激しい後継者争いの宮廷で完全に孤立してしまい、果てには実父のシャルルから皇位継承権を剥奪され、宮廷には居られなくなった。最後の利用用途として彼らに待ち受けていたのは、戦争抑止としての材料になることだった。それと同時に、皇族の名から兄妹の名は抹消された。
皇帝陛下の実の子であり皇族出身の幼い子供が二人、日本国に捕らわれている。これでは迂闊にブリタニアも日本国に手が出せまい。それが両国の描いていた、戦争休止協定へのシナリオのはずだった。しかしブリタニアはそれら抑止力を無視し、最大勢力で日本国本土を襲撃したのだ。幼い兄妹は祖国に裏切られたも同然だった。
「もはや人質としての意味がなくなった二人は憲兵の元で、厳しい監視下に置かれていたといいます」
「それでルルーシュは、監視から逃れようと……?」
いくらブリタニアから送られたとはいえ、日本が相手国の皇族、それも幼い子供二人を人質にしていたと公になれば、世間どころか世界中から日本政府へ対する猛烈な批判は避けられないだろう。だから日本政府は二人の身柄を厳重に、細心の注意を払って拘束した。
せめて幼いナナリーだけでも自由にさせてやりたい。その一心でルルーシュは僅か十歳ばかりのとき、憲兵の監視の目を掻い潜って監房から逃げ出したという。ブリタニア家と古くから付き合いのあったアッシュフォード家へナナリーは無事引き取られた。だが、ルルーシュだけは追手の銃弾で軽傷を負い、逃げ遅れてしまい、日本のまちを彷徨う羽目となった。
ルルーシュがブリタニアから送られた人質で、皇族出身の子供だということは混乱を避けるためにも、公には伏せられていた。そのため、彼の身柄を追う憲兵たちにだけ真実が知らされ、捜索の際は”思想主義者が逃走したため”という名目で行われた。
そんな状況下にあったルルーシュが、逃走している最中に出会ったのがスザクだった。スザクがルルーシュの逃走を手助けしたその後、彼は再び憲兵に身柄を拘束されるものの、すぐ解放された。戦争が悪化し、ルルーシュを監視する憲兵ですら、兵士として駆り出されることを余儀なくされたためである。対ブリタニアとの戦争末期頃、彼は無事にアッシュフォード家へ引き取られ、ナナリーと再会を果たした。
終戦後、秘密裏に日本国と取引を行っていた証拠を消すため、幼い兄妹は本国から戦死扱いにされた。戦争裁判で少しでも、ブリタニア国側に不利になる条件を政府ひいては皇帝が残しておきたくなかったのであろう。それゆえ、ルルーシュとナナリーは本国の戸籍上は死亡とされている。
しかし実際、二人はエリア11で生き延びていた。アッシュフォード家で匿われることになったルルーシュとナナリーは、生存している事実を本国から知られないようにするため、ブリタニア姓を捨て、ランペルージ姓を名乗って生きてゆくことを強いられたのだ。
「ルルーシュとナナリーが生きていることは、私たちブリタニア家の中でもごくわずかの者しか知り得ないことです。ルルーシュも自分の正体が知られることを、ひどく恐れています」
本国に身元が知られれば、生きていることが発覚すれば、また八年前のように政治利用されてしまうかもしれない。あるいは神隠しのように、どこかへ幽閉されて”元から居ないもの”にされてしまうかもしれない。
そんな恐怖と、圧倒的な力の前で何もできない悔しさ、歯がゆさ、たった一人の妹さえ守れない己の無力さと、ルルーシュはずっと一人で闘ってきた。いつ今の平穏な日々が脅かされるか分からない。いつまで今のような生活が送れるかも分からない。後ろ盾になってくれているアッシュフォード家も、いつまで自分たちのような身寄りのない子供の味方になってくれるか、それも分からない。漠然とした将来に対する不安は、想像を絶するほど重く、スザクひとりではとてもじゃないが堪え切れないほどだ。
スザクが少年を追う手掛かりにしていた鍵には、そんな恐怖と重圧と不安、心細さ、そして助けてほしいというメッセージが込められていたのだろう。鍵を託したスザクがいつか騎士として助けに来ると、当時のルルーシュが監房で憲兵に対し威勢よく言い放っていたという話が脳裏を過った。
「じゃあ君が鍵を奪ったのは……」
「ルルーシュの正体が知られる手掛かりを、残しておくのは良くないと……私が勝手に判断したせいです。まさかスザクが今でも鍵を持ち続けていたなんて、思いも寄らなかったから。スザク、ごめんなさい」
ユーフェミアはそう謝罪すると、スザクに対し深々と頭を下げた。
かつてスザクに鍵を託した少年の正体は、ブリタニア国から送られてきた人質であった。世界が震撼するような大スキャンダルを、ましてや元イレブンである名誉ブリタニア人に握られてしまうというのは、あまりにブリタニアにとって分が悪い。スザクがそのようなことをする人間でないとしても、理性的に考えれば手掛かりとなる鍵が他人の手に渡っている時点で、危険極まりない。
「ルルーシュのことを想っての行動だろう。僕は責めないよ。話してくれて有難う、ユフィ」
彼女の薄藤色の瞳にはうっすらと涙の膜が張られていた。ルルーシュの壮絶な半生は聞く側も辛いものがあるが、同じ家族として彼を見てきた彼女はそれ以上に辛かっただろう。話すことだって勇気が必要だ。
国民を意をままにできる権力があろうと、結局は彼女も一人の人間なのだ。国も民も、全ての事象を統べる故シャルル皇帝陛下の下では、ユーフェミア皇女殿下であろうと一人の子供に過ぎない。
「……もうひとつ、聞きたいことがあるんだ」
「私にお答えできることであれば、何でも」
胸を張ってそう答えたユーフェミアの表情はどこか晴れやかだった。
ルルーシュがこれまで一人で背負い続けていたものを、彼の身近に居られる人間が理解してくれたことに、安堵感を覚えたのだろうか。
「ルルーシュが生きていることを知っている人は、ユフィ以外に誰が居る?」
「シュナイゼル兄さまとコーネリアお姉さま、くらいでしょうか」
「……そうか。なら、ちょうどいい」
十年前のルルーシュがスザクに託した鍵には、騎士になって再び己を迎えに来いという、皇子であった彼からのメッセージが込められている。事実スザクはルルーシュの騎士になることを寂れた蔵の中で誓った。
このまま彼の元へ会いに行って鍵を返しに来たよ、なんて言うのは、まるでルルーシュの半生を暴きに来たみたいで、スザクは釈然としなかった。それに八年もかけて行方を探していたわりに、なんだか呆気ない終わり方だ。彼の騎士になるという約束も果たせていないのに、のこのこ出て行くのはスザクの沽券にも大いに関わってくる。
それに、このままだとルルーシュやナナリーがあまりにも救われない。大人たちの身勝手さと陰謀によって家族と引き離され、生きていることも許されないなんて不憫にも程がある。ルルーシュは今でもきっと、ナナリーと共に自由に暮らせる生活を渇望しているはずだ。どこか人を寄せ付けることを躊躇って、斜に構えるような態度を取るのもきっと、そんな心情の表れなのだろう。アッシュフォード家がいつまで二人に寝床を与え、面倒を見てくれるかも分からない。漠然とした不安と焦燥感に、今だって兄妹は苛まれ続けている。
「僕に少し考えがあるんだ」
「……考え?」
「どうか協力してほしい」
薄明るい部屋の中で、スザクは何かを目論むように笑みを浮かべた。
学園前へ向かう車窓の外は、もう夜がすぐそこに来ようとしていた。青紫のヴェールを纏った西の空が東の空を覆い始めると、赤々と光る夕陽の出番ももう間もなく終わる。空の果てにはまあるい月が、灯篭のように柔らかく瞬きながらぼんやりと浮かぶ。誰かの一番星だ、と外を指差す声が聞こえたのと同時に、スザクを乗せた列車は目的地へと帰ってきた。
秋が深まり始めるこの時期は、とくに朝晩が冷えるのだ。まだ涼しすぎる環境に慣れていない体は早くも寒さを訴え始める。
『……もしもし』
「もしもし、僕だよ」
微かに冷たい指先で携帯端末を掴みながら、スザクは渦中の人に電話をかけた。
今日は帰りにゲームセンターへ寄ろうとリヴァルに誘われて、シャーリーとルルーシュも一緒に行こうと話し合っていたところだ。見事にすっぽかしてしまったから、きっとそのことについてひどく叱られるだろう。
スザクはこの先に鼓膜を叩くであろう罵声に身を固くしていたが、しかしその予想は裏切られる。
『……心配した。何も言わずに、またどっか行こうとする』
「ごめん、ごめんね」
君だって八年前、僕を置いていったくせに。喉から出かかった本音は、寸でぐっと堪えることができた。
「それについてなんだけど、今からちょっと話したいことがあるんだ。僕の部屋の前に来てほしい」
『はあ? なんで今から、』
「……ごめん、ルルーシュ」
彼からの抗議をシャットアウトするように、スザクは通話を終了させたのち、ついでに端末の電源も切った。理由を話せと言われても、とてもじゃないがここでは声にできない。
彼の部屋でも良かったが万一、ナナリーや咲夜子の耳に入ってしまったらややこしいことになりそうだし、この時間に突然人の家に上がり込むのも気が引ける。スザクの勝手な事情で彼を呼びつけることにも同じことが言えるが、確実に二人きりになれることを優先すれば必然的に、彼を自分の部屋へ呼び出すほうが得策だろう。
部屋の前に着くと既にルルーシュが、寮のドアを背凭れにするようにして突っ立っていた。来てくれない可能性も考えていたから、スザクにとってはいい意味で予想を裏切られた。
まだ制服姿だった彼は少し肌寒そうにして、ポケットに両手を入れていた。その出で立ちはどこからどう見てもごく普通の高校生だ。貴族出身の、かつては皇族として皇位継承権まで握っていた人間とは思えないほど、彼は俗に染まり切っている。
ドアの鍵を開けてスザクが入ると、ルルーシュも無言でついてきた。散らかってるけどごめんね、と小声で付け足すと、別に構わない、とぶっきらぼうな返事が返ってきた。怒っているのか機嫌がすこぶる悪いのかと思ったが、別にそうでもないらしい。
「放課後、みんなと行けなくてごめん」
「……話って何なんだ」
スザクの前置き兼謝罪を呆気なく無視した男は、躊躇うことなくそんなことを口にした。やっぱり君、怒ってるんじゃないか。スザクは数刻前の楽観的予測を恨んだ。
だからそっちがその気ならこっちこそ、と前置きもなしに、スザクは本題に入った。
「鍵が見つかったんだ」
「鍵?」
制服の胸ポケットから取り出したそれをルルーシュの目前に翳す。彼は目の色ひとつ、表情筋ひとつも変えず、黙ってそれを見つめた。微かに靡いた睫毛は動揺かただの瞬きなのか、判別がつかない。ルルーシュのポーカーフェイスは特殊訓練でも受けたんじゃないかってくらい、ぞっとするほど完璧なものだった。
「八年前、僕に託したのは他でもない君だろう。ルルーシュ」
「……何の話だ」
「ユフィ……ユーフェミア皇女殿下から話を伺ってきた。当時憲兵に追われていた君を助けたのは紛れもなく僕だ」
「人違いじゃないか?」
スザクの追及に対して、ルルーシュははてさて何のことやら、と両手を仰いで知らん振りしてみせた。演技も随分と達者らしい。ルルーシュの嘘が上手くなったのも、彼を取り巻く環境と半生がそうさせた、あるいはそうならざるを得なくなったのだろう。彼はナナリーを庇って一人で生きるために、嘘をつき続けることを身に着けた。ルルーシュは自分のついた嘘で自分の身を守り続けてきたのだ。
しかしスザクだってここまできておちおち折れるわけにはいかないのだ。ならばこっちだって最後の切り札を出すしかない。
「……この手紙に見覚えは?」
それは一見、皺の寄ったぼろぼろの紙切れのようだった。しかしよく見れば封筒の形だと分かる紙は、表の宛名に拙い日本語の文字で”スザクへ”と記されてある。スザクが先ほど面会した憲兵から手渡された、八年越しの郵便物であった。
「……っ!」
「まだ読んでないんだよね、これ」
ルルーシュが息を呑んだ音が聞こえた。スザクのどんな言葉にも靡かなかった切れ長の瞳は、大きく見開かれている。
「いや、それは」
「どんなことが書かれてあるんだろうな」
「待ってくれ、早まるなスザク!」
どこか鬼気迫る表情はそのままに、スザクの手から手紙を奪おうとまでするルルーシュの慌てっぷりである。もう彼はとっくに取り繕うことを忘れてしまったのか、大声を上げて猛抵抗するのだ。つい先ほどまでピリピリとしていた雰囲気は何処へやら。彼は年相応の、スザクのよく知る青年の顔をしていた。やはり素のルルーシュは”こっち”なのだ。
「僕、逆に気になってしょうがないよ」
「没収だ、早くそれを寄越せ」
「嫌だね」
彼が強情で相変わらず鉄面皮を張り付けるものなら、この手紙の内容を朗読してやろうかと思ったが、今回は観念してやろう。ルルーシュがここまで取り乱す姿はむしろなかなか拝めないから、お釣りが来るくらいだ。もちろんこの手紙の内容は後日、彼の居ない間にこっそり読ませてもらうつもりである。
「じゃあお返しに、僕もとっておきの秘密、ルルーシュに教えてあげる」
「秘密?」
ちらつかせていた手紙を胸ポケットに仕舞って、スザクは誰にも言ってこなかった己の現状を伝えた。つまり軍での配属は技術部でなく、実はスザクが何年間も前線で戦ってきたエースパイロットであること。そしてその功績を認められ、シュナイゼル陛下からナイトオブラウンズへの任命を受けていることを、ルルーシュに初めて打ち明けた。
「ラウンズ? お前が?」
何かの冗談だろう、と笑い飛ばす勢いで、ルルーシュが宣った。
「なら確かめてみる?」
「確かめる?」
さすがのルルーシュもスザクの唐突で突拍子のない提案に、意図が掴めないようだ。彼はこてんと首を傾げて、疑問符を浮かべた。
「今から宮殿へ行って、シュナイゼル陛下に会って聞いてみよう」
「……はあ?」
「実はもうアポイントは取ってあるんだ。行こう、ルルーシュ」
スザクの言っている意味も状況もまるで理解できない、いや理解が追いつかないルルーシュの腕を引いた。が、当然ながら彼は納得できないと言わんばかりにスザクの手を振りほどこうとする。
「なんで俺を連れて行こうとするんだ?」
「なんでって、ルルーシュも一緒に行かなきゃ、僕がラウンズだって話信用してもらえないし」
「いや、違う。そうじゃなくて」
ルルーシュは顔を強張らせたかと思えば泣きそうな顔をしたり、かといえばスザクの言動に怒ったり、文字通り百面相だ。どこか情緒不安定なルルーシュに、スザクは分かりやすく言葉を付け足した。
「ルルーシュを今から連れて行きますって、シュナイゼル陛下に伝えてあるから大丈夫だよ」
「……はあ!? それのどこが大丈夫なんだ!?」
少し言葉が単刀直入過ぎたようだ。彼は今日一番、否、出会ってから聞いた中で一番大きな声を出してスザクを激しく責め立てた。
事の発端は今から二時間ほど前に遡る。
鍵の君の正体、幼い兄妹の幼少時代とその背景、ルルーシュの逃避行に、今現在彼らを取り巻く環境。顛末を聞いたスザクの頭の中で、ひとつの案が浮かんだのはこの時だった。
「僕に少し考えがあるんだ」
「……考え?」
「どうか協力してほしい。……ルルーシュとナナリーに再び、ブリタニア姓を与えることはできるかな」
一瞬、ユーフェミアはスザクの言葉は理解できなかったらしい。え? と短い言葉を零したのち、しきりに瞬きを繰り返した。お前は何を言っている、正気か、とその視線はしきりにスザクへ詰め寄った。
それもそうだろう。ブリタニア姓を名乗るということはブリタニア家一族の人間にしか許されない。つまり神聖ブリタニア帝国国籍の皇族、皇位継承権を持つ者ということだ。ルルーシュとナナリーは八年前、当時の皇帝であったシャルルから皇位継承権を剥奪され、国外追放された。つまり二人にブリタニア姓を名乗る資格も権利もない。挙句、戦後処理として二人は死亡扱いにまでされているのだ。つまり彼らはこの宮殿に、ひいては世において”存在すらしていない”ことになっている。
「今の皇帝陛下はシュナイゼル殿下だろう。あの人に直接会って、僕から話してみる。シュナイゼル殿下はルルーシュとナナリーが租界へ亡命していることはご存知なんだろう?」
「ま、待ってくださいスザク!」
淡々と話を進めようとするスザクへ、やはりユーフェミアは声を上げた。はいそうですか、と簡単に首を縦に振ってくれるわけがないことは、スザクだって当然予想していた。
「あまりに二人が危険過ぎます。当時のことを知る人間に彼らが生きていることが知れたら、ルルーシュとナナリーの身が……」
「僕が守るよ」
あまりにも短絡的で簡素で無責任で、安っぽい言葉だった。笑ってしまいそうになるほど、それは口先だけの発言だ。
「シュナイゼル殿下からナイトオブラウンズにならないかと、話を持ち掛けられているんだ。だから僕はこれを交渉材料にする」
「交渉? スザク、何を言っているんですか」
「ラウンズになってもいいけど、その代わり、僕をルルーシュの専属騎士にしてくださいってお願いするんだ」
「なっ……!」
ユーフェミアは言葉を失くしてただただ信じられない、と絶句している。スザクも自分で言いながら、さすがに自分を買い被り過ぎたな、と少し反省した。
ナイトオブラウンズとは数多あるブリタニア軍人の中から選りすぐりの、最も優れている人間十三人で結成された最強の皇帝専属護衛隊だ。しかし十三人の枠がありつつ、実は全ての枠が埋まっていないのが実情だ。
ナイトオブラウンズの仕組みとして、基本的に皇帝陛下の護衛は皇帝自身が、とくに武功を上げ優秀だと思える軍人を指名できる。それは実戦成績の上位順から選ばれるわけでも、自己推薦や選挙でもなく、欲しい人材を引き抜いて選抜されるのだ。つまり皇帝自らの中にある基準を満たす軍人が居なければ、それだけラウンズの枠に空きが生じる。逆に言えば常に十三人の枠を埋める必要は皇帝自身の判断によるのだ。優秀な軍人が欲しくても現実居ないのなら、無理に選ぶ必要もない。
つまりスザクがラウンズの任命を受けるということは、シュナイゼルが直々に枢木スザクという人材がどうしても欲しいと言っているのと同義だ。この人になら命を預けられる、この軍人になら警護を任せても良い。そう思える人間にしか皇帝は声を掛けない。
だからスザクはその心情を逆手に取って、交渉を仕掛けようと言うのだ。
「あまりにも皇帝陛下を、ラウンズという職位を軽視しているかと思います! 交渉の材料だなんて、そんな……」
「……うん、そうかもしれない」
ユーフェミアの言うことは正しい。ナイトオブラウンズはブリタニア軍人の中で最も権威ある階級だ。ブリタニア軍人になる者のうち、誰もが一度は夢見るそれを、しかしスザクは首を横に振って否定した。
「でも僕は出世したくて、有名になりたくて軍人になったわけじゃない。元はと言えば鍵の君を見つけるために、この仕事を始めたんだ」
八年前に少年兵を志した理由は、鍵の君を探すため、それ一択だった。あの頃は世界の広さも理不尽さも知らなかったから、恐れるものはなかったし何にだって成れた。
「誰かにとってラウンズは願っても足りないくらい、なりたい職業なのかもしれない。でも僕にとってのそれは違う。僕にとっては、ルルーシュの騎士になることだ」
彼女は何も言わず、スザクの話に耳を傾けていた。何かを悟ったかのような、諦めたかのような、どこか安らかな表情すら浮かべている。
「今も昔も変わらず僕の中にあった夢だ」
ユーフェミアの瞳に、スザクはどのような人間に映っているのだろう。
たった一人の人間のために地位や名声を投げ捨てるような真似をする、愚かで馬鹿な男と思われているだろうか。でも、今はそれでも構わないと思えた。八年前の雪の日の朝、改札の外からプラットホームを発車する列車を、ただ泣きながら見送った無力な子供とは違う。それを八年後の今、過去の自分に証明したかった。
「……今から面会可能かどうか、陛下にご相談してみようかと思います」
「ユフィ……」
「スザク。シュナイゼルお兄さまは一筋縄ではいかない方です。冷徹なほど合理的で、理性的なのです。感情論は通用しません」
「……知ってるよ。一度だけ、会ったことがあるし」
スザクの記憶にあるシュナイゼルは、優しい仮面の下には何を考えているか分からない、未知の恐ろしさを秘めた男という印象だった。ルルーシュも大概合理的な考え方をしているが、シュナイゼルのそれは情状酌量の余地もなく、ただ数字と能率だけが全ての、完全無敗を目指すやり方だ。シャルルも手段を選ばない豪快さ、凄惨さがあったが、シュナイゼルも同様の性質で、どちらかといえばスケールよりも最短距離を目指すために手段を選ばない、というイメージだ。
面会したところで、話もろくに取り合ってくれないかもしれない。帰れと追い払われるかもしれない。それでも一度、当たって砕けてみるのがスザクのやり方である。暗中模索の先にはやがて光が待っているはずなのだ。
「ははは、面白い案だね。ああ、別に構わないよ」
「はい。…………はい?」
執務室に通されたスザクはあっさりと謁見を許され、事の経緯と事情を説明した。忙しなく資料のチェックをしていた彼に、己の話を聞いてもらえているかすら怪しかった。
しかしシュナイゼルの耳にスザクの話はきちんと届いていたようだ。動かしていた手元をぴたりと止めた彼は肘掛けで頬杖をつき、余裕綽々といった表情を浮かべながら、優雅にそう答えてみせた。
「別にこれといって私にはデメリットはないし、いいんじゃないかな」
「いいんじゃないかなって、お兄様、どういう……」
「おや、意外だね。ユフィは彼の提案に反対なのかい」
そういうわけじゃ、と口ごもる彼女はそれだけ呟いたあと、そっと俯いた。スザクとしてはむしろユーフェミアの心情の方がよっぽど理解できるし同感だ。彼女だって別に、スザクの案に反対ではないはずだ。むしろスザクを含めて、ルルーシュとナナリーと再び同じ屋根の下で暮らせることは喜ばしい。自らそう願い下げたいほど渇望していた彼女の夢でもあるだろう。
渇望していたほどの夢だからこそ、そう簡単に受け止めることができないのだ。彼らの身辺の保証も、このことが公に発覚してブリタニアが悪く言われるのではないかという懸念、そう簡単に皇帝ひとりの判断で国のルールを変えてもよいのか。そして第一に、そんな度重なる障害や条件を引き換えにしてまで、スザクをラウンズに加えたいのかという疑問。口に出して列挙しようものなら夜が明けてしまうであろう疑問や不安の数々に、スザクもユーフェミアも質問が追いつかない。
「いや、私も君たち二人の言いたいことはよく分かるんだ。でもね、私としては、この条件を飲まなかった場合に起こりうる可能性のほうが、よっぽど恐ろしい」
「……可能性?」
苦笑いをするシュナイゼルに、スザクは鸚鵡返しをするように尋ねた。
「ああ。不当な扱いを受けて亡命を余儀なくされたルルーシュとナナリー、そしてスザクくん。君たちが結束して、たとえばブリタニアに反旗を翻すなどされたほうが、こっちとしては堪ったものじゃないから」
「う、疑ってるんですか」
「たとえばの話だよ」
シュナイゼルは想定内のスザクの反応に笑みを零しつつ、どこか冷静に粛々と自らの持論を述べた。
「でもブリタニアの内部からこの国を良く思わない人が出てくるのは、私としては出来れば避けたい。しかも君のような腕の立つ軍人となれば尚更だ」
ブリタニアに対して疑念を抱く者がかつてブリタニアに忠義を誓っていた者、しかも軍部内でも上層部の人間であれば、その影響力や衝撃はより強くなるだろう。ただでさえブリタニアは反平等、不平等こそが平和への近道とする政策を植民地に対して行い、大きな火種を生んできた。スザクもそれの被害者だ。ブリタニアの外部の人間どころか内部からも不満が噴出するとなれば、国としての信用が地に落ちる。これまでの過激過ぎるほどの排他的な政治が水泡に帰す。シュナイゼルとしてはそれだけは避けたかったのだろう。国民の支持なくして帝国主義は存続できない。
シュナイゼルはそう言ったあと、それにね、と言葉を続けた。
「ルルーシュとナナリーが追放されたのはもう前の時代、前皇帝のときの話だ。日本との戦争もとっくに決着が着いた今、彼らが亡命し続ける必要はもうないんだよ」
「……陛下、それはつまり」
「あのルルーシュのことだから、私に貸しを作るのは不本意だろうけどね。ラウンズ候補である君がどうしてもと言うなら、出来得るだけのサポートはするつもりだよ」
「シュナイゼルお兄様……」
ユーフェミアは心の底から歓喜するように、涙声を発した。てっきり門前払いされるかと思われたスザクの突拍子のない案は、あっさりと受け入れられてしまったのである。
スザクはますますシュナイゼルの性質が分からなくなった。だが、唯一感じたことは、シュナイゼルの判断基準とはこの国にとって有害か無害か、ということだ。スザクの提案は国にとって益をもたらすことはないこそすれ、有害かと問われればそうではない。むしろその条件をシュナイゼルが飲めばスザクはラウンズに加わるのだというから、悪い話ではないのだ。
「だが、これは君と私だけでなくルルーシュ本人の意思確認も必要だ。それは準備できているのかい」
「……今すぐ連れて来ます」
「ははは。これは楽しみだ。八年ぶりとなる、兄弟との邂逅かな」
シュナイゼルはあっけらかんとしているのに対し、ユーフェミアはやはり信じられないという顔をしている。離れ離れになった兄弟との八年ぶりの再会は、思わぬ形で果たされようとしていたのである。
一連の経緯を話し終える頃には、スザクとルルーシュを乗せた電車はもう目的地へ辿り着こうとしていた。着の身着のまま、半ば力技で連れて来られたルルーシュはしかし、未だに聖なる宮殿へ足を踏み入れることを渋っていた。
強すぎる警戒心は、それだけの恐怖や不安を抱いているということの証明だ。あるいは自分たちを見捨てた祖国に対する憎しみ、恨みもあるだろう。八年前己を捨て、死んでなかったことにされたのに、今さら手のひらを返すなんて都合が良いにも程がある。ルルーシュの瞳には八年間分の怨念が宿っていた。
新皇帝となり政治の舵取りが代わったものの、ブリタニアの基本原理は変わらない。そんな腐った国に、そう易々と迎合されて堪るかというのが、彼の正直な気持ちだろう。
「俺は確かに、ナナリーと共にああしてアッシュフォード家に匿われる生活は、そう長く続けられないと思ってる」
ルルーシュは表情を曇らせて頭を振った。その内容はスザクも薄々感じていたいたことだったが、彼の口から改めて語られるとなると胸が痛い。
「でも、かといってブリタニアの仕組みに取り込まれて平穏な生活を送れと今さら言われても、受け入れられない」
「じゃあルルーシュはどうしたいの? クーデターでも起こしたいの?」
ルルーシュは黙り込んで、静かに俯いた。
彼の気持ちは分からないこともない。生みの親に捨てられた悲しみと憎しみを背負い、偽りの名前で生きてきた。どれだけ仲の良い友達ができても本当のことを話せず、踏み込んだ自分のことを語れない。それはひどく寂しいことだと思う。彼はずっと一人で、援軍のない暗闇の中を耐えてきた。
しかしルルーシュがブリタニアへ反旗を翻すとき、スザクは確実にルルーシュの前へ立ち塞がるだろう。そんな未来は永劫訪れてほしくない。
「お前の理想を押し付けないでくれ」
「じゃあなんで僕に皇子であることを打ち明けて、騎士になれって言ったの」
「……」
彼はどこか利己的な面があるが、それらの行動原理はどれも他人のためであったりする。自分だけが幸福になろうとするのを敢えて避けるような、平穏や幸せを真正面から受け取れない、厄介な性質だ。
そんな彼が唯一スザクに零した我儘であり、託した願いでもある。八年前に蒔かれた種が今、芽吹こうとしているのだ。
「もし君が僕の将来を憂いているなら、気にしなくていい」
もう日没からはとうに時間が過ぎた。暗闇の宵空には星が瞬き、欠けた月がぼんやり光を放つ。
暗闇の中でうっすらと存在感を示す紫は、数度瞬きを繰り返して、スザクを見据えた。寂しい孤独の色だった。
「僕を道連れにしてよルルーシュ」
もうこの鍵を託された時点で、とっくに僕は君に囚われていたというのに。
心の中でそう呟くと何かが伝わったのか、彼は諦めたように薄く微笑んだ。
「陛下。枢木スザク、今戻りました」
「ほう。ルルーシュは?」
再び執務室を訪れたスザクはシュナイゼルの元へ参上したが、シュナイゼルの興味はやはりルルーシュに向けられていたらしい。先ほどは彼の元へ控えていなかった、シュナイゼル直属騎士であるカノンも傍に居た。一連の経緯をよく知っているユーフェミアも、事の顛末を見届けるためか、同じように控えていた。
「……ルルーシュ、入っておいで」
スザクは振り返って扉の向こう、廊下に向かって声を掛けた。未だに警戒心の強い彼は真正面から向き合うのはやはり抵抗があるらしく、一度シュナイゼルの出方を窺ってみると言って聞かなかったのだ。
万一ルルーシュがこの部屋に足を踏み入れた瞬間捕らえられるとしても、シュナイゼル側についている軍人はカノン一人だ。ルルーシュを守れるのもスザク一人だが、戦力差はイーブンである。
スザクの声が聞こえたらしく、閉じられていた扉がゆっくりと開かれる。俯けていた顔を持ち上げながら、彼はそろそろと執務室に足を踏み入れた。
「ルルーシュ、元気にしていたかい」
「……兄さんこそ、お元気そうで」
普段は淡々とした調子のシュナイゼルの声も、ほんの僅か上擦っているように聞こえる。およそ八年ぶりの、兄弟との再会だ。どのような背景があるにしろ、離れ離れになった者たちが再び巡り合えることは喜ばしく、祝福されるべきだ。しかし一方のルルーシュはどこか浮かない顔をしている。同じ家に生まれて、しかし天と地ほどの差がある生活をこれまで強いられてきた。そんな兄弟に対する恨みや怒り、悲しみ、様々な感情がが綯い交ぜになっているのだろう。
「ルルーシュ、ナナリーもお元気ですか?」
ユーフェミアが感極まった表情で、そう尋ねた。皇女の身の上である彼女も、やはりルルーシュとナナリーのことをずっと案じていたらしい。
「ああ。目と足は悪いけど、毎日学校に通っているよ」
「そうかい。それが聞けて良かった」
しみじみと所感を述べるシュナイゼルの表情は、どこか優しげだ。皇帝といえども腹違いの兄弟といえども、やはり家族に対する感情は特別なのだろう。
しかしルルーシュの表情はどこか曇ったまま、疑念を払拭できないらしい。暗く濁った紫がシュナイゼルを見据えた。
「……その様子だと、俺たちが生きていたことを知っていたようですね」
「ああ。まあ、何となくだけどね」
ルルーシュは口にはしなかったが、”ならどうして今まで助けてくれなかったんだ”という恨み言が、言葉の端々から感じられた。緩く開かれていた手のひらが、シュナイゼルの返事を聞いた途端にきつく握り締められたことが、何よりもの証拠だ。
しかしシュナイゼルの発したある一言が、ルルーシュやひいてはスザク、ユーフェミアを驚愕させた。
「父上もお前が見知らぬ土地で死ぬことなんて、不本意だっただろうし」
ルルーシュの息を呑む音が静かに聞こえる。
「……それは、どういう」
「シャルル前皇帝はルルーシュとナナリーを逃がすために、敢えてブリタニアから追放したんだ。……誤解を解いておかなくては、父上があまりにも不憫だ。この場を借りて私が説明するとしよう」
足を組み直し、机上にあったコーヒーカップを口元に運ぶ彼は、どこか悠然と、威風堂々とした雰囲気で語り始めた。それは同じ宮殿で暮らしていたユーフェミアでさえ知り得なかった真実であった。
「……あの男は、母上を暗殺した犯人の目を背けさせるために、俺たちを?」
「私はそう聞いているよ」
ルルーシュとナナリーを産んだ故マリアンヌ妃はルルーシュが十歳を迎える前、幼い子供二人を残し急死を遂げた。その死因については公にされておらず、一般論としての風潮は病死とされているが、一部では暗殺であったり皇族の同士討ち、陰謀に巻き込まれただの、当時は様々な憶測が飛び交った。だがマリアンヌ妃の死により、ナイトメアフレーム・ガニメデの開発中止、および栄華を極めたアッシュフォード家の没落などの出来事が連鎖し、彼女の死因について語る者はたちまち消えたという。
しかし長きに渡り政府が隠し通してきた彼女の死因は、一部で噂された暗殺による殺害であった。元々貴族の生まれでなかったマリアンヌはシャルルに見初められ皇族となったが、それを良く思わなかった一定層の派閥も当時から存在したらしい。
母親を喪い、皇族の中でも継承権の低かったルルーシュとナナリーは、貴族たちからは表向き同情の念を寄せられつつも、見えないところで後ろ指を指されるようになった。あの女の子供だから、可哀想だけど仕方ないよね、といった調子だ。そのことは父親であるシャルルも薄々感じ取っていたらしい。同じ宮殿に住まう兄弟たちとも疎遠になってゆくルルーシュとナナリーは、次第に孤立していった。
そこでシャルルは敢えて、ブリタニアから幼い二人を追放という形で逃したのだ。皇族、貴族たちの目も届かないような遠い場所へ、遠ざけることで二人は見えない脅威から守られると彼は判断したらしい。ルルーシュとナナリーを良く思わない貴族たち、あるいはマリアンヌを殺めた犯人の目から隠すように。
名目上は人質として送られた兄妹であったが、その思惑はシャルルしか知り得ないことだった。日本軍側はブリタニアから送られてきた二人を、人質としての価値を下げぬように、しかし乱雑に扱った。
シャルルがルルーシュとナナリーを人質として扱ったことには、もうひとつの思惑があった。ルルーシュの意思でブリタニア、ひいては宮殿に近寄らせないようにするため、シャルルはわざと実子へ痛烈に接したのだ。祖国に捨てられ、実の親に捨てられたと思い込んだ子供は、国と親を恨んだ。ブリタニア政府に見つかれば、身柄を拘束されるかもしれないと警戒し続け、身を潜ませていた。それらの行動はすべてシャルルの思惑どおりで、ルルーシュとナナリーを守り続ける盾となった。
「終戦後、父上は私だけに話してくれたよ。次に皇帝の座を継ぐのはこの私、シュナイゼルであると予測していたんだろう」
「ですがお兄様。そこまでして此処から遠ざけていたルルーシュとナナリーを迎え入れてしまって、二人に迫る危険性などは……」
ここまで口を閉ざしていたユーフェミアが、思わずといった調子で疑問を投げかけた。これまで秘匿にされていた事実に驚いていたのは、ルルーシュだけでなく彼女も同様だ。
「私がこの座についてから、政府や宮殿内、軍部の配備や人事を変えさせてもらってね。私のやり方に賛同してくれる者たちで守備を固めたつもりだよ。益のない、無用な戦は私も好きじゃない。十年前より、ルルーシュたちにとっても幾分かは息のしやすい環境になったんじゃないかな」
故マリアンヌ妃の死後、ルルーシュとナナリーを同情しつつも嘲笑っていた貴族たちはもうここに居ない。シュナイゼルの言葉はそういった意味を暗に含んでいた。
ああそれに、とシュナイゼルは可笑しそうに一言付け加えた。
「今はルルーシュにも騎士がつくそうだから」
スザクのほうをちらりと見遣った彼は、くすりと微笑んだ。
バケットを齧っていたリヴァルは大層な大声を出したかと思えば、唾を飛ばしながらルルーシュに食って掛かる勢いで問い詰めた。
「ルルーシュがブリタニアの? 皇族? うっそだあ!」
「……リヴァル、汚い」
眉間に皺を寄せたルルーシュは、リヴァルの驚愕っぷりなんてどこ吹く風、という面持ちだ。当事者である彼本人が至って平然とし過ぎているから、質の悪い冗談と受け取られても仕方ない。そういう大事な話は昼休みの教室でするものじゃないだろう。スザクは真っ先にそう思ったが、前触れもなく突然話を切り出したのはルルーシュであったのだ。
「冗談にしては捻りが足りないわよ」
「本当のことをどう捻れっていうんだ」
訝しげに眉を顰めるカレンに、ルルーシュは淡々とそう告げた。
昼休みの教室特有の、生ぬるい空気と程よく賑やかな喧騒が日常なのに非日常みたいな、そんな雰囲気だ。カレンもリヴァルも渋面を張り付けて、お互い顔を見合わせている。とうとうこいつ、頭がおかしくなったんじゃないか。そう言いたげに、無言で会話しているように見える。
「……実は昨日、僕とルルーシュが皇帝陛下に謁見する機会があってね」
「スザクまでルルーシュの悪い冗談に乗んなって!」
ゲラゲラと笑う彼はスザクの背中を思い切り叩いた。カレンはスザクもおかしくなってしまったのかと、どこか深刻そうな表情を浮かべている。
どうやら簡潔に掻い摘んで話を説明しても、一向に理解はされないようだ。当然と言えば当然だが、説明するには話が長くなり過ぎる。しかし急がば回れ、だ。
スザクは自らが軍の技術部に配備されているという話が嘘であったこと、実は前線で今もなお戦い続ける軍人であることから、まずは打ち明けていった。
シュナイゼルの取り計らいにより、学生期間も残り僅かということもあって、学校の方は最後まで通い続けて良いとのことだった。ルルーシュはアッシュフォード学園の高等部に通い始めてから三年目を迎え、季節は秋を過ぎようとしていた。
卒業式は三月に控えているが、三学期の終わりはそれよりも随分早い。学期末の卒業試験も待ち構える中、ルルーシュとスザクは四月から新たに始まる新生活のため、準備や手続きに追われた。慌ただしく過ぎる師走は風のように過ぎ去って、あっという間に年を越す。まともにルルーシュの誕生日を祝ってやれなかったことに、スザクは後悔と申し訳なさでいっぱいだったが、彼は来年の楽しみにしておく、とはにかんだ。
ナナリーは四月から始まる新たな環境での生活を前に、少しでも障害をなくそうと今まで以上に治療に専念した。とくに視力のほうの回復が芳しく、春過ぎには光が見えるようになるのではないか、と担当医から説明を受けた。
「お兄様がスザクさんに託した鍵が道しるべになって、私たちを導いてくれたんだと思います」
「なんだか照れるなあ」
クラブハウス横に間借りしていた屋敷の片付けや引っ越し作業で、咲夜子とルルーシュは年を越した最近でも毎日大慌てだ。何か手伝ってやれることがあればいいが、スザクにできるのはせいぜい運送会社の荷物運びのような労働のみだ。綺麗好きのルルーシュに掃除はほぼ一任され、必要・不必要の選別はおおよそ咲夜子が担当しているという状態らしい。スザクも寮での作業や掃除はあったが、元から荷物はあまり持たないほうだったから大した重労働でもない。
卒業試験も終わり授業もなく、学校に通う必要のなくなったスザクは、咲夜子やルルーシュの代わりにナナリーの通院の手伝いをすることが多くなった。ルルーシュはこれまでに提出滞納していた課題に追われているらしいが、休みがちながらも真面目に取り組んでいたスザクは必修科目の単位も取り零すことなく、卒業認定を貰えた。だからこれといってやることもなく、スザクはナナリーに付き添う機会が大幅に増えたのだ。
白い壁と白い床が続く病棟はどこまでも清潔で、音がなく、無機質だった。スザクも何度かこの病院にはお世話になったことがあったから、この景色をよく知っている。温度のない景観に温もりはなく、むしろ寒気と不気味さすらある。消毒液と包帯のにおいは死すらをも感じさせる。
スザクの押す車椅子に乗る少女は、この景色と温度とにおいを何度も味わってきたのだ。早く良くなるといいね、と月並みな言葉しかかけられない自分に、やるせなさと歯がゆさを感じる。
「幼い頃のお兄様が言っていたんです。鍵をあげた男が俺の騎士になると約束したから、俺たちを守ってくれるよ、って。まさかこんな形で本当に叶うとは、思いもしませんでした」
「そ、それって本当?」
車椅子の持ち手に力が入ってしまって、足取りが早くなる。一人の少女の体を、命を預かっているのだ。これではいけないいけない、とスザクはかぶりを振った。
「不安で眠れなかった私を元気づけるために、お兄様が冗談で言っていたことなんですけれど。それがスザクさんのことだったなんて、今でも信じられないくらい」
どこかスザクをからかうような口調で、ナナリーはくすくすと笑った。とても恥ずかしいところを知られてしまった気がする。これだとまるで、ルルーシュに片想いされていたのでは、とスザクが期待しているみたいだ。
どぎまぎした調子を戻せないまま、スザクはナナリーにところでさ、と話題を振ってみた。
「ナナリーはあの鍵で何を開けられるのか知ってる?」
スザクは八年前、ルルーシュから鍵を託された際、”大切なものを開ける鍵”と説明されていた。彼の言う大切なもの、が何なのかスザクには見当もつかない。秘密基地に繋がる門か、財宝が眠る宝箱、あるいは誰かの部屋かもしれない。
そんな想像を何度もしたことはあったが、結局正解に辿り着けたことはない。そんなスザクの問いに、ナナリーは意外な答えを示した。
「何でも良かったんだと思いますよ」
「何でも?」
まるでいたずらっ子のように微笑みを浮かべた少女は成程、兄譲りの片鱗を垣間見せていた。
「お兄様はスザクさんに自分を探させるために、それっぽいことを言ったんですよ。出任せの出鱈目です」
「そんなの、ナナリーはルルーシュから聞いたの?」
「いいえ、私の想像です。でもあのお兄様のことだから、きっとそう」
呆気なくそう答える少女は、悪戯が成功したみたいな、ほんの少し悪い顔をしていた。
ナナリーとルルーシュは仲は良いが、似ているかと問われたら肯定はできない。そのくらい、二人は似ていない兄妹だと思っていた。がしかし、この瞬間、スザクはその認識を改めねばならないようだった。
「お兄様ならたぶん、”大切なものは目に見えないだろ”なんて言ったりして」
茶目っ気たっぷりの少女に、スザクはすっかり毒気を抜かれていた。