千年騎士 九章
それはひどく性急な手付きで、呼吸することも忘れてしまうほど鮮やかで大胆だった。いつもはじっくり追い立てて退路をなくしていくような、じわりじわりと高みへ登らせようとするのが彼のやり方だ。だが今の彼の荒々しい息遣いや余裕のなさは、まるで別人のよう。
苛立っているような、あるいは何かを急いてるような、そんな余裕のなさだった。顔色を伺おうにも、薄暗い部屋では俯きがちの表情は読み取れない。見上げると久方ぶりに見る彼の部屋の天井と、読めない表情が視界に映った。
「ルルーシュ、怒ってる?」
「……別に」
絶対嘘だ。素っ気ない返事と妙な間、やけに低い声。紫の双眸は、先ほどからちっともスザクの目を見ないのだから。
放課後は久しぶりに生徒会室へ向かって、カレンやミレイたちとも合流した。夏休み前と変わらずみんな元気そうで良かった。
そのあとはルルーシュに誘われて、こうして部屋に招かれて、今に至る。久しぶりだから積もる話もあるだろうと二人きりになったが、お互い下心がなかったとは言い切れない。
だがひとつスザクが気になるのは、こうしてルルーシュと二人きりになってからというもの、彼はろくに言葉を発さない。どうかしたの? と伺い立てても、いいや、別に、としか返ってこないのだ。しばらく会わない間に素っ気なくなってしまった。いや、何やら機嫌が良くないらしい。せっかくこうして久しぶりの合瀬を果たしているというのに、何に腹を立てているのやら。
ルルーシュの腹を探ろうとしていた折、先に仕掛けてきたのは彼のほうだった。軽い衝撃のあとに視界が反転していて、気が付いたら背後には新品同然のベッドシーツが広がっていた。しまった、やられた。また彼に一歩先を越されてしまった。見上げれば煌々と光る室内照明があって、無表情のルルーシュの顔もばっちり見える。こうなればもう、スザクが反撃に出られる余地が残されていないも同然だ。
キスされるのかな、と思ったらそんなことはなくて、唐突に服を脱がされる。その間もルルーシュは言葉もなく、淡々と作業のように、制服を脱がせてゆく。
僕たちってそういう関係だっけ。そう視線で問おうとしたとき、ばちりと目が合った。内臓の奥がぎゅっと絞られるような感覚がした。腹の底が冷えるような、恐ろしい表情をした男の顔がそこにあったのだ。
「……何なんだよ、君は!」
「っ…いたッ!」
スザクが勢いよく腹筋だけで上半身を起き上げると、ちょうど間近にあったルルーシュの額にスザクの額がぶつかった。否、半ばぶつける気で起き上がってやった。ルルーシュは突然の衝撃と痛みに言葉を失っている。ざまあみろと思う。
「嫉妬してたんだろう。今日学校で、リヴァルに体を擽られてる僕を見て」
「なっ……」
今日一日を通して振り返ってみて、ルルーシュの機嫌が悪くなりそうなタイミングはそこしか思い当たらないのだ。そういえばあの時の彼はやけに素っ気ないというか、冷たかったような気がしなくもない。
見事に図星だったのか、ルルーシュは呻き声だけ上げて黙り込んでしまった。
それにしても、たったあれだけでこんなにも臍を曲げてしまうとは、困った男だ。リヴァルはスザクとルルーシュの共通の友人で、悪い奴ではない。たまにああやってじゃれついてくる時があるが、友愛の証、ただのスキンシップだ。
「……それだけじゃない」
「そうなの?」
ルルーシュはようやく堪忍したようで、唇を尖らせながら心中を吐露した。
まるで自分のやったことを反省する子供みたいだなあ、と口には決して出せないことを思う。
「ろくに連絡も入れずに何日も休んで。みんな、何かあったのかと心配してたんだぞ」
「それは、その……ずっと立て続けに仕事が入ってたから」
最初は毎日学園に欠席連絡を入れていたが、ある時からそれもしなくなった。いつまでこの状況が続くか分からないし、毎朝連絡を入れるのも億劫になってしまったのだ。これはスザクの連絡不精が招いたことである。
「学校のほうにもちょっとくらい、顔出してくれたらよかったのに」
「そうしたかったんだけど、忙しくて」
それはスザク自身何度か試みたが、ひっきりなしに訪れる出動要請に足止めを食らった。
「せめて電話くらい」
「ご、ごめん……」
「暫く見ない間に痩せてる。ちゃんと食べてたのか?」
「どうだっただろう…」
首元に顔を埋められ、そのまま抱き寄せられる。彼は自分が居ない間、ずっと寂しかったんだと、スザクはようやくここではっと気づかされた。
「体、細くなってるぞ」
「ちょ、ちょっと、どこ触って……ふふ、はは」
シャツの上から肩甲骨、背筋、脇腹、骨盤のあたりを手のひらでなぞられる。思わず色気のない声を出してしまって、ムードも台無しだ。でもそんなスザクを見て、ルルーシュも釣られるように笑みを零すから、これはこれで良いのかもしれない。
実際のところ、ここひと月、ふた月ほどはろくな食事をしていなかった覚えがある。寝起きにとりあえずゼリー飲料を胃に流して、昼間はカロリーバーと水で空腹を誤魔化し、夜はカップ麺、酷いときは夜ご飯を食べずに疲れて眠ってしまうこともあった。口が裂けてもそんな滅茶苦茶な食生活だった事実は言えるはずもなく、忙しかったから食欲が、と誤魔化した。
「疲れてるなら、今日はこのまま寝てもいいけど」
「い、いい。いいから」
こういったことは、やはりスザクはどうしたらよいか滅法分からず、恥ずかしさも人一倍感じる。好きな人と肌を見せ合うことに躊躇いや羞恥は大いにあるが、しかし嫌悪感は不思議と初めからなかった。だからスザクはルルーシュに触れられたいし、もっと触れたいと思う。
「お願い、ルルーシュ」
震える指先を諫めて、自らのベルトのバックルに手を掛ける。静かに響く金属音がやけに耳に届いて、逃げ出したいほど恥ずかしいのに早く、早く、と心のどこかでその先を急かしてしまう。
下着ごとスラックスを下ろすと、体温より低い外気に触れた皮膚が震えて、栗肌が立つ。反動で飛び出した性器は期待で既に膨らんでいて、先端からははしたなく蜜を零していた。まるで粗相みたいで、それを彼に見られているのも、恥ずかしくて仕方ない。
「おいでスザク」
優しい声だった。
色っぽさも湿り気もない、清らかな声音を、スザクは自らの唇で覆った。
「っは、あ……」
「痛いか?」
「へ、いき……だいじょうぶ、ん」
微かな水音のあと、スザクがはあ、と息をついた。
久しぶりだから、と遠慮するルルーシュに食い下がったのはスザクのほうで、今は指三本、穴に埋め込まれている。最初は指一本ですら泣きじゃくって痛がっていたのに、そう比べれば随分な進歩である。
内臓に直接触れられる感覚は未だに慣れないし、ほんの少し恐怖心も残っている。裂けたらどうしようとか、壁が傷んだらどうしようとか、穴が塞がらなくなったらどうしよう、とか。だがルルーシュがいつも、冷や汗でしっとりとした背中を撫ぜてくれるたびに、心も体も綻んでゆくのだ。彼の指を食い締める穴はきゅうきゅうと蠢き、もっと欲しいと強請るように収縮を繰り返す。
恥ずかしくてはしたない、どうしようもないこの体を、ルルーシュはいつも可愛がって、褒めてくれる。きちんとお尻で感じれたときはキスをしてくれるし、いやらしい声を我慢せずに出せたときは頬や頭を撫でてくれる。可愛いと言われるのは男として不本意だが、嫌な気はしない。
だからスザクは、ルルーシュのためにこの体をもっと開かせて、彼を受け入れられたら良いなと思っていた。今はそのための準備だ。また痛みと羞恥で泣き出してしまったら、優しいこの男はやめてしまうだろう。だから今のうちに慣れておかないといけないのだ。
「ひっう、ア」
「……ん? ここか?」
「うん、そこ、好き」
指の腹が一点を擦ったとき、今までとは違う声色の声が零れた。その部分は今までも何度もなぞられていた部分だったが、なぜかこの瞬間、ひどく体が反応を示した。
「今日はえらく素直だな」
「嬉しい、から」
会えない間、ルルーシュがスザクのことを想っていてくれたこと。分かりやすく嫉妬してくれたこと。心配してくれていたこと。これらはスザクがずっと学校に来ていたら気づけなかったことだ。心配をかけたのは悪いことだが、愛されている証拠をこうして実感できたのは、スザクにとって悪いことばかりではない。口にするときっと怒られるから、こっそり胸に秘めておく。
会えない時間が愛情を育む、なんて言葉もあるが、まさに言葉どおりの結果となった。スザクが思っていたより、自分はルルーシュに愛されていた。そのことに気付けただけでスザクはこれ以上ないほど幸せで、ルルーシュが愛しくて堪らなくなるのだ。
その玉座に君臨するのは新たな皇帝となったシュナイゼル・エル・ブリタニア、その人だった。まだ若いであろう男であったが、既に王としての貫禄が随所に見られる。柔らかい物腰から垣間見える王としての風格、威厳、圧が、スザクの背を伸ばさせる。緊張感に包まれた王の間には張り詰めた糸のような空気が漂っていた。
「ここに君を呼んだのは他でもない」
シュナイゼルは凛とした声で、目の前で膝をつく一人の男に向け端を発した。
「以前にも話したとおり、君をナイトオブラウンズに任命したいんだが、どうかな」
「……」
ナイトオブラウンズ。その名はこの宮殿およびブリタニア軍に在籍する者で、知らない者は居ないであろう。ブリタニア軍に所属する人間の中で最も高潔であり強靭で、ブリタニア国家に最大の忠誠を尽くす者にしか与えられない最高位だ。その位を目指してブリタニア軍への入隊を希望する者もいるほど、ラウンズの名は名誉であった。
かの有名なアーサー王伝説に登場する円卓の騎士をなぞらえて名付けられたその地位は、その名のとおり王直属の騎士を指す。つまりブリタニア帝国皇帝に最も近い場所であり、王からその真価を認められた者しかなれない。皇帝直属の騎士は計十三人で構成され、ブリタニア帝国ひいては皇帝に命と永遠の忠誠を捧ぐ。つまりは選びに選ばれた最強の皇帝専属の護衛部隊なのである。
「私が、ラウンズに……」
以前特派の研究所にシュナイゼルが訪れた際、シャルル前皇帝が崩御した報せと、ラウンズにならないかという誘いを受けた。あの場では言われた内容にひどく混乱してしまって、とてもじゃないがスザクのほうが交渉できる状態でなくなった。シュナイゼルは可笑しいものを見るように笑ったあと、また後日改めて話をしようと仕切り直してくれたのだ。
そして今に至る。宮殿にある王座の間に通されたスザクは、あの日以来シュナイゼルと対面することになる。
慣例であれば純血のブリタニア人から、とくに目覚ましい活躍を見せた者が選抜されるだろう。だがスザクはかつて日本人であり、国籍を捨てて名誉ブリタニア人を名乗っている身分だ。いくら皇帝の目につくような活躍を見せたところで、スザクの出自が大きな足枷となるのは想像に難い。
「君の活躍は私も目にするよ。あのロイドの開発したナイトメアフレームのパフォーマンスを最大限に引き出し、実戦で大いに功績を残してくれた。ブリタニアのために活躍してくれた臣下に、褒美を与えるのは王として当然の役目だ」
どうだい、悪くないだろう? とシュナイゼルは微笑んだ。その表情の下にどのような思惑があるのか、スザクには計り知れない。名誉ブリタニア人にラウンズの位をやることで、差別のないクリーンなイメージでも取りたいという、皇帝のパフォーマンスだろうか。しかしどちらにせよ、スザクにとってのデメリットは何一つない。
「少し、考える時間を頂けませんか」
「ああ、もちろん。私もそのつもりで君を呼んだんだ。また後日、返事を聞かせてくれ。いい返事が貰えることを期待しているよ」
前皇帝のシャルル・ジ・ブリタニアも威厳と貫禄に溢れる支配者然とした男であったが、新皇帝であるシュナイゼル・エル・ブリタニアもおっかない印象だ。常に微笑みを浮かべるその表情から心中を窺うことも、顔色を読ませることも許さない。きっとシャルルとは違った方向でこの国、世界の支配者となる器があるのだろう。
すこぶる頭の切れる男で、外交をとくに得意とすると聞いたことがある。確かにあの雰囲気と巧みな話術に飲み込まれたら、どんな不利なカードを提示されても引いてしまう自信がスザクにはある。
緊張の糸が解けると、途端にどっと疲れが背中に圧し掛かってくる。自分が思っていたより、彼との一対一の面会に気を張っていたらしい。
ロッカーに辿り着いたら、特派から支給されている制服を脱いで、私服に着替える。鏡に映る自分の顔はどこか生気がなく、顔色も悪い。
ちゃんと食べているのか、と先日ルルーシュに指摘されたことがあった。随分痩せ細っている、と言われて怒られた。きちんと何か食べないとな、と頭では分かってはいつつも、今はどうしてもそれどころでなかった。
正真正銘、皇帝直属の騎士になれる。名誉ブリタニア人として軍に入団したスザクからすれば、これ以上ないほどの大出世だ。今より忙しくなるかは分からないが、今よりもっと色んな人と関わる機会が増えるだろう。軍を指揮したり、部下に戦術指導することもあるかもしれない。ブリタニア帝国が危機的状況に陥らない限り一生、安定した生活を約束されたも同然だ。しかしそれだけの好条件を提示されてもなお、スザクはすぐに首を縦に振れなかった。
それは遡ること八年前、鍵の君にスザクが提示した約束事だ。
俺がお前の騎士になって守ってやる、と確かにスザクは誓った。鍵の君は自らを皇子だと名乗り、スザクに誓いのキスをさせたのだ。あの一件以来、スザクは心のどこかで、騎士になって彼を迎えに行きたい、と思っていた。
だがブリタニアのラウンズ制度は就任した瞬間、ブリタニアの皇帝直属の騎士となるのだ。スザクはブリタニア皇帝に仕える騎士でなく、彼の剣であり盾となる騎士になりたかった。淡く我儘な夢を諦められないスザクの心中は、幼い子供が抱いていたプロ野球選手になりたい夢をまだ諦めきれない、そんな心情によく似ている。
心のどこかでは無謀だと分かってはいつつも、無謀な夢を持つことは子供の特権でもある。その夢が絶対に成し遂げられないものと分かった瞬間、子供は子供で居られなくなる。夢を追うことを捨てる代わりに、諦めを知るのだ。
スザクもそうだった。鍵を失って以来、幼い頃から探していた彼の唯一の手掛かりはなく、徐々に彼を見つけ出すという情熱も失われつつあった。もう二度とあの少年に巡り合うことはできないと、心のどこかでは分かっていたのかもしれない。それでも往生際の悪い幼稚な精神が現実を否定したがって、戦地を駆けずり回ってきた。
軍でも活躍を認められ、今では堅い地位も手に入れた。友人もたくさんできて、一番好きな人もいる。彼は少しやきもち焼きなことが先日判明したから、スザクが未だに鍵の君を諦めきれないことを知ったとき、きっとまた嫉妬されるのだろう。
今この現状が、かけがえのないほど美しく尊く、大切にしたいものだった。
だから鍵の君のことはもう忘れて、何のしがらみのない、自分だけの人生を今選ぶべきなのではないか。まだこの手にはない騎士章を胸に抱きながら、スザクは静かに目を瞑った。
今日帰りに映画かゲーセン行かね? と唐突で軽率な誘いを受けた。目の前に居たリヴァルはくるくるとフォークを回して、コンビニで買ったパスタを啜っている。
昼休みの教室はいつも少し騒がしくて、でもそんな喧騒もスザクは嫌いじゃない。少し埃っぽい部屋で弁当を食べるのは、少し抵抗があるけれど。
「ゲーセン?」
「ゲームセンターだって! スザクもしかして行ったことない?」
ああ、ゲームセンターか、なるほど。頭の中でようやく理解して頷いたあと、そういえば行ったことがないことをを思い出す。どんな場所なのだろう、楽しいのかな。想像してみるが、そもそも何があるのかよく分からない。
「うん、行ったことないなあ。面白いのかな」
「面白いって! シャーリーも誘おうぜ、あとルルーシュも!」
突然名前を呼ばれた彼はやれやれといった表情で振り向いた。会話の内容はさっぱり聞こえていなかったようで、一体今度は何なんだ、と言いたげな面持ちである。
「今日の帰り、ゲーセン寄ろうって話! スザク、ゲーセン行ったことないって!」
「俺、今月あんまり金残ってないんだけどな」
ルルーシュの返事を聞いたリヴァルが、スザクの肩を引き寄せて声を上げた。
「ルルーシュの奴、すっげークレーンゲーム上手いんだぜ! 見てみたいよな、スザク?」
「えっと、うん」
クレーンゲームとやらはよく分からないが、きっと楽しいんだろう。スザクは分からないなりに生返事をした。そうすると、ほらな! と笑ったリヴァルが力加減なしにぎゅうぎゅうと引き寄せてくる。くすぐったくて声を上げると、むっとした表情の彼と一瞬目が合った。
「ルルーシュは行かないの?」
我ながらちょっと狡いかもしれないが、今回きりだからどうか許してほしい。
スザクはちらりと上目遣いで、弱々しく伺い立てた。
「せっかくだし、一緒に行きたいな。リヴァルも思うよね」
「おうおう! スザクの言うとおりだぞ、ルルーシュ!」
リヴァルとスザクからの、期待の眼差しがルルーシュに集まる。途端に気まずそうに顔を歪めた彼は、眉間に寄せた皺をさらに深くして、はあ、と溜息をついた。
「……仕方ないな」
「よっしゃー! そうこなくっちゃな!」
スザクが思うより、ルルーシュという男はちょろいようだった。
「枢木くん、ちょっといい?」
三人の盛り上がりに水を差すタイミングで、声が聞こえた。
廊下の向こうから、スザクの名前を呼ぶ人が居た。最初は聞き間違いかと思ったが、周囲の生徒が向ける視線だったり、あれお前じゃない? と声を掛けられて、スザクはようやくその声の主の存在に気が付いた。
「あれ、学年主任じゃないか?」
「えっ僕何かしたかなあ……」
学年主任直々の呼び出しとは、一体何なのだろう。これといった問題行動を行った覚えはないし、出席率は悪いがやるべき最低限のことはこなしていたつもりだ。追加課題だって周囲の手も借りつつ何とか乗り切った。
「単位足りてないんじゃね?」
「そ、そんなあ」
「先生待たせてるんだから、早く行ってこい」
ルルーシュに背を叩かれる形で、スザクは教室を後にした。すぐ戻ってくるよ、とリヴァルとルルーシュの二人に告げながら、手を振った。
しかしスザクがその日、教室へ戻ることはなく、放課後のリヴァルとの約束も反故にする形となるのである。
スザクが学年主任に案内されたのは職員室でも生徒会室でもなく、なぜか来客用の応接室であった。
「枢木くんに用事がある人がいらっしゃってるようでね」
「僕にですか」
わざわざ学園に来てまで会いに来る人とは、一体誰だろう。軍の関係者ならシュナイゼルのように、特派の研究所に直接赴くであろう。だからスザクにはさっぱり見当もつかなかった。
控えめに扉をノックしたあと、中からどうぞ、と返事が聞こえた。スザクをここまで連れてきた先生は一言だけスザクに挨拶して、その場に立ち去ってしまった。ということは、この部屋の先では未知の来訪者と二人きり、というわけである。
ほんの少し緊張した面持ちでドアのノブを捻ると、立派な応接室が見えた。ローテーブルと大きなソファが二つ、それと光がよく入る大きな窓。窓際には大きな花瓶と、そこに生けられた立派な花が咲いていた。
「あなたは……」
扉から向かって右側のソファに座る、一人の男が居る。みすぼらしいぼろぼろの軍服と傷だらけの顔、禿げた頭と、松葉杖。腕や脚には服の上から包帯が雑に巻かれ、右足に至っては膝から下がなかった。
男性は入室したスザクの顔を見るや否や、泣き出しそうな顔を浮かべた。
そうして彼は傍に置いていた松葉杖を掴んで立ち上がり、慣れない足取りでスザクの真正面へ歩み寄った。
見るからに戦争帰りの、重傷を負った兵士という出で立ちであった。幼い頃は少年兵として、野戦病院でいくつもの戦場を間近で見てきた。だから経験としてスザクはよく知っている。膝から下、片足だけ失っているということは地雷で吹き飛んだか、怪我を負った部分にばい菌が入って切断せざるを得なくなったか、二つに一つだ。
「うう、うぅう……」
「あの……」
男性はスザクの真正面に立った矢先、ぼろぼろと大粒の涙を流して嗚咽を漏らし始めた。これまでの戦場で出会ったことのある兵士だろうか。だがスザクとて、ひとつひとつの戦場での出来事どころか、そこで見かけた兵士の顔まで覚えていない。生き残った兵士の顔も、殺した敵の顔も、スザクは忘れるようにしているからだ。
だからその男性の顔に、まるっきり見覚えがなかった。相手はスザクのことをよく知っているらしいから、少し申し訳がない。
「枢木准尉、覚えていらっしゃるでしょうか……」
「……何でしょう」
男性はスザクの階級まで知り得ていた。ここに第三者が居なくて良かったと、スザクは真っ先に思った。周囲には自分の配属が技術部であると伝えていたから、准尉と呼ばれたら察しの良い者は本当のことが分かってしまうだろう。たとえばルルーシュのような、頭の賢い人間には。
「八年前、あなたは憲兵に追われていた少年を、逃してやった」
「……」
「少年がどこに逃げたかと問われた際、准尉は嘘をついた。少年が逃げていった方向とは別の道を、憲兵に指し示した」
「……どうしてそれを?」
それはスザクが唯一犯した罪だった。それが全てのきっかけで、少年――鍵の君と出会うことになる。
思想主義者として追われていた彼の捜索を、攪乱させた。スザクの罪は共謀罪という、れっきとした名前が付けられる。現行の法律が変わらない限り覆すことはできない、スザクの罪だ。
「覚えていらしたか、ああ……!」
「僕の罪を糾弾して、捕まえるつもりですか」
表情と声が、にわかに強張る。スザクが唯一犯した罪状を知っている人間が、今まさに生きてここに居る。
「まさか、そんなことは致しません。いえ、もうあなたの罪は罪ではない。糾弾されるべきはこちら側です」
時効という意味合いだろうか。男は泣きじゃくる顔を拭いもせず、言葉を続けていた。
しかし突然、彼は右手に持っていた松葉杖を手放し、床に突っ伏した。
「ど、どうし」
「申し訳ありませんでした、申し訳ありませんでした……!」
男は床に突っ伏したわけでも倒れ込んだわけでもなく、土下座をしていたのだ。床に額を擦りつけ、その両側に両手を置いている。片足がないせいか下半身の正座は不安定な姿勢だ。
どこか歪だが悲痛で物悲しい姿であった。男の、長年に渡って心のうちに積もり積もった、それは慟哭の集大成だ。
「私は当時、あの少年を追っていた憲兵でございます。ブリタニア国の支配下に置かれた後、私は裁判にかけられ服役をしておりました」
後頭部を金属バットを用いて、フルスイングで殴られたような衝撃が走る。視界が一瞬ぐらりと揺れた気がした。
しかし男の懺悔はそれだけで終わらない。
「今しがた服役期間が終わり、こうして日の目を拝めた次第であります。私は服役中、枢木准尉のお噂を伺いました。だからあなた様に、服役が終わったら真っ先に会ってお話をせねばと、そう思っていたのです」
「……噂?」
スザクは思わず眉を顰めた。男は相変わらず床にしがみつく勢いで平伏し、泣きじゃくっていた。
「鍵の持ち主を探すおかしな軍人がいる、と。そいつは冤罪で収容所送りにされ、ブリタニア軍から熾烈な暴行と尋問を受けてもなお、鍵の主を探し続ける亡霊であると」
鍵の主を探し続ける亡霊。自分の与り知らぬところでそのような二つ名を付けられていたとは、呆れを通り越して笑いが出てくる。
「私にも以前、憲兵として職務を全うしていたときに捕えた一人の少年に、えらく”鍵”に妄執する者が居たのです」
その発言に、視界が揺れた。
「そ、れは」
「恐らくあなた様が再会を願い続けていた少年でしょう。鍵を預けた男は己の騎士で、お前たち憲兵などすぐ蹴散らしてくれると、そう威勢よく仰っておりました」
何てことだと、スザクはその場に崩れ落ちた。様々な感情が胸に渦巻いて、なぜだか涙が止まらなかった。鍵の君はスザクを見捨てて蔵に置いていったわけでなく、騎士として契約した自分の迎えを、ずっと待っていたというのか。
「それで、それで彼は……少年は、どうなったんですか!」
「そのあとすぐにブリタニアと日本の戦争が始まり、私のような下っ端の憲兵もすぐに出兵要請が来ました。なのでその後の彼の処遇は一切、私は知り得ません。しかし……」
男は一拍置いて、言葉を連ねた。
「ブリタニア側が勝利したことで、彼の身柄は安全な場所へ引き渡されたと、後に伺いました」
「ということは、今も、どこかで生きて……」
男のその言葉を聞いて、目頭が熱くなった。嗚咽が止まらない。
生きているか死んでいるかも、もう分からない。どこかで捕えられて、ひどい拷問に遭っているのではないか。劣悪な環境で暮らすことを強いられ、ひどい疫病で苦しんでいるのではないか。そんな悪い想像ばかり働いてしまって、あまり彼が今現在、どこで何をしているかということを、考えていなかった。
「そして、これが鍵の主から預かっていた、あなた様宛ての手紙です」
「て、手紙……?」
男は軍服のほつれたポケットから、ぼろぼろになった一枚の封筒を取り出した。黄ばんですっかり汚れた紙は今にも破れそうなほど脆い。
「彼は監房で一枚の手紙を綴っておりました。そしてこの手紙を、己の騎士に届けるように、と仰っていた。収容者でも手紙を送ることは当時からも権利として許されておりましたから、私はそれを仰せつかったのです」
「そう、そうだったのですね」
「八年もかかってしまいましたが。手掛かりがあなた様の下の名前しかありませんでした故」
封筒の表には日本語で”スザク”と書かれてあった。彼の直筆だろう。
八年の時を超え、今ようやく宛名である自らの手元に手紙が渡った。運命、あるいは奇跡のような瞬間に、スザクは感極まった。八年前の少年はあの時、どんなことを想ってこれを書いていたのだろう。一体、どんな内容が記されているのだろう。
はやる気持ちを抑えていた折、男の口から語られる次の言葉に、スザクはとてつもない衝撃を与えられることになる。
「なんせ彼は、日本が所有していた人質でしたから。日本の敗戦となれば、彼の無事も保障されたようなものです」
「……人質?」
それはスザクも知らない情報だ。不穏な言葉に、思わず眉を顰めて男に詰め寄ってしまう。
「鍵の少年、ルルーシュ・ヴィ・ブリタニア様はブリタニアから引き渡された人質です。妹君であったナナリー・ヴィ・ブリタニア様と共に日本へ渡られ、哀れなことに戦争抑止の材料として利用されておられたのです。……もしや、ご存知でなかったのですか?」
手の中にあった手紙は、強く握り過ぎてぐしゃりと音を立てた。
言葉にならない声はやがて涙になり、整理のつかない感情はやがて嗚咽となって、喉から溢れだすのであった。