千年騎士 六章
全寮制私立アッシュフォード学園はそのスクールカラーと、数々の著名人を輩出してきた輝かしい実績もあり、トウキョウ租界ひいては世界から注目を集める人気の私立校である。
学園を運営するアッシュフォード家といえば、その過去は国政への発言権を持っていたり、軍事費に多額の出資をするなど、国内でも有数の大貴族であった。
しかし、その繁栄は長くは続かなかった。その当時、アッシュフォード家が出資したと言われるナイトメアフレーム第三世代機・ガニメデの開発が突如中止に追い込まれたせいだ。ガニメデのテストパイロットであった故マリアンヌ妃の死去により、開発の続行が不可能になったのだ。多額の資金を回収できなかったアッシュフォード家は財政難に陥り、多岐に及んだ事業を次々と売却せざるを得なくなった。
そのような中で、唯一アッシュフォード家が残した事業が学園運営であった。長年の歴史と多くの卒業生を抱えるこの学園は現代もなお、多くの志願者を集める名門校として君臨している。
「へえ、そんな成り立ちだったんだね」
スザクは売店で購入したサンドイッチを齧りながら、呑気な所感を述べた。
「やっぱアンタって、ちょっとムカつく。その日暮らしでのらりくらりしてる感じが」
スザクの隣に座るカレンは、そうぶつぶつ文句を言いながら、ランチボックスに入っていたウインナーをフォークで串刺しにした。
「悪運が強いってよく言われるよ。あっ、そのおかず美味しそう」
コーン入りのコロッケを頬張る彼女の顔を見て、スザクがそんな感想を発した。アンタにはやらないからね、とそっぽ向かれるのも予想通りの反応である。
「じゃあ、どうしてカレンは紅月姓じゃないんだ?」
そっぽを向いていた顔がこちらを再び見た。普段からきりりと吊り上がった瞳が、今は一段と鋭く眼光を光らせる。
カレンとは別のクラスであったから、彼女が”紅月カレン”と名乗っていないことに気が付いたのはつい先ほどのことだった。ミレイから手渡された生徒会名簿を見たとき、彼女の本名は”カレン・シュタットフェルト”と記載されていたのだ。
「あたし、ハーフなの」
「ハーフ!?」
「声がでかい!」
容赦なく拳骨が飛んできてスザクは顔を伏せた。彼女の最大の欠点を挙げるとするなら、すぐに手や足が出る粗暴の悪さだ。いくら気に食わない奴だからってグーパンはなしだろ、と心中で愚痴った。
「学費を出してくれてるのは父方のシュタットフェルト家だから」
「ああ、そうなんだ」
シュタットフェルトといえば古くからの名家であると、風の噂で聞いたことがある。大きな家に出資してもらえるとなればおおむね将来安泰だろう。聞く分には悪くない話だ。
「でも私は日本人として生きてたい」
寂しそうな瞳がちらりとスザクの顔を映した。七年前、死臭のたちこめるトウキョウのど真ん中で怪我を負っていた彼女と今のカレンは、何一つ変わっていない。日本人であることに誇りを持ち、日本という国を愛していたのだろう。スザクには人種に対する拘りや愛国心はそれほど強くないから、いまひとつ理解できない分野ではある。
「だからアンタを見てると羨ましくてムカつくの」
「ああ、日本人名だからか」
しれっと何食わぬ顔でそう述べたことが、彼女の地雷を盛大に踏むことになる。
カレンはアンタのそういうところが本当に嫌いなの、と臍を曲げてしまったのであった。
一限目の授業の教科書を寮に忘れていたスザクは、隣のクラスに在籍するカレンにどうしても、と頼み込んで拝借したのがつい今朝の出来事だ。午後からその授業があるそうなので、昼休みの時間に返したのが今さっきのこと。何だかんだと教室の前で話しているうちに昼休みの時間も残り僅かとなって、なら一緒にお昼を食べようとスザクが提案し、今に至っている。
アッシュフォード学園で出会う生徒らは全員初対面であったが、カレンだけは例外だ。すでにこれで三回目の再会を果たしている。お互い気心も知れているから、異性とはいえど気が楽だった。
「そういえばさ」
空になったランチボックスを片付ける彼女は、何の気なしに話題を振った。
「あの鍵探し、どうなったの? ここに編入してから探してるところ、見てないけど」
「あー、うん……」
スザクは気まずそうに顔を逸らすと、言葉を濁した。
鍵の落とし主探しについて、事情を知っているのはこの場においてカレンだけだ。スザクが鍵の落とし主にひどく執心していることを、カレンはよく知っている。だからこそ、このことはすごく言い出しづらい。
「何、言いなさいよ」
どこまでも素直で正直な女性である。隠し事や嘘といった類が大嫌いの、真っすぐ過ぎる人だ。そういう点ではスザクも似通った性質だ。
カレンに隠しても無駄だな、と半ば諦めるようにして、スザクは打ち明けた。なぜならスザクも隠し事をされるのが嫌いな質だから、彼女の心理は痛いほどよく分かるのである。
「鍵を失くした!?」
「えっと…うん……」
あれだけ執着して、依存して、何年もかけて探し回っていたのに。たくさんの人を巻き込んでたくせに、こんなあっさり手放してしまうなんて、救いようがないとはこのことである。
「何それ、バッカみたい。呆れた」
「僕も必死に探したんだけど、どうしても見つからなくて」
つい半年と少し前。理不尽な取り調べの末にイレブンの監獄へ収容されたとき、牢屋の中では確かに、首から鍵を提げていたことは覚えている。警官に寄って集って尋問を受けた際も、遠くなる意識の中で鍵だけが心の拠り所であった。手放しそうになる理性を最後まで繋ぎ止めてくれたのは紛れもなく、あの鍵だった。そこまでの記憶はきちんとある。
その後ユーフェミアが現場に乗り込み収容所を摘発、そしてスザクを含む収容者はそれぞれ病院で手当てを受けた。
そこからだ。病院のベッドで再び目を覚ましたとき、首に提げてあった鍵が忽然となくなった。ぼろの軍服から新品の病院服に着せ替えられてて、収容所に押収されていた私物は全て手元に戻っていた。でも、鍵だけがどこにもない。
病院の看護婦や関係者、ひいては摘発にあたった警官たちにも聞き込みを行った。当時、私が首から提げていた鍵を知りませんか、と。だが返ってくる答えはスザクの望むものではなかった。
どこか別の人の荷物に紛れ込んでいるのか、落としてきたか、あるいは処分されてしまったか。どの可能性も考えて学園へ編入するまでの期間必死に探し回ったが、ついぞ見つかることはなかった。
「でも案外、冷静なのね。もっと落ち込むかと思ってた」
「それは僕も不思議なんだよね。なんか吹っ切れちゃったのかな。鍵が手元にあったときはあんなに必死だったのに」
人の心というのは移ろいやすくて、絶対なんてものはない。
桜が散って夏が来れば、スザクは十七の誕生日を迎える。鍵の君との出会いと別れから七年が経っていた。もう声どこか、その顔も記憶が朧げだ。
男性の場合、この年にもなれば変声期が終わる頃合いだろう。身長だって顔つきだって、もう七年前とは似ても似つかない。鍵の君を探す手掛かりは限りなく無に等しいのだ。それは鍵の君だけでなく、スザクにも言えることである。あの雪の日に君と出会った少年はもう居ない。再び会えたとしても、それが鍵の君だと確かめる手段すらないのだ。
「スザクも大人になったんじゃない?」
「そういうことなのかな」
サンドイッチの包装を袋にまとめて、ゴミ箱に捨てた。鍵の君に執心していた頃の自分との別れのようだった。
案外呆気ないものだ。自分の目標も意志も、人の心も。
「何やってるんだ。次の授業、移動だぞスザク」
「えっ、あっ、ルルーシュ!?」
カレンの教室で昼休みを過ごしていたスザクに、彼はそう声を掛けてきた。廊下の向こうからおいスザク! と大声で名前を呼ばれている。少し恥ずかしいから勘弁してほしい。
「ごめんカレン、教科書有難う」
「はいはい」
しっしっと手の甲を払う仕草をした彼女は、そうやってスザクを追い返した。
「どこにも居ないから探したぞ」
「ごめん、迷惑かけちゃって…」
昼休みが明ければ移動だというのに、スザクの姿が教室にも見当たらないからと、わざわざ探しに来てくれたらしい。まだ編入したばかりのスザクは学園のどこに何があるかもあやふやだから、常にだれかと一緒に行動するようにしている。今回も例に漏れず移動先の教室の場所が分からないから、ルルーシュの背中に付いて行く形で先を急いだ。
「お前、カレンと気が合うんだな。なんか意外だ」
「そ、そうかな」
実はこのところ、スザクはルルーシュを密かに避けていた。この昼休みに教室を抜け出し、カレンと会っていたのもそのせいだ。借りた教科書を返しに行ったのは口実に過ぎない。
きっかけは言わずもがな、先日の出来事だ。
ルルーシュの家に招かれ彼の家族と夕食を共にし、そのあとは彼の部屋で色んな話をした。ルルーシュはスザクが来る前の学園のことを話してくれたし、そのお返しにスザクは軍での経験談を話した。
話も何となく盛り上がって、同い年の友達ってこんな感じなんだなって実感していたとき。彼の顔がそっと近づいて、唇同士が触れて、それから。
「スザク、具合でも悪いのか?」
「いや、ううん! 何でもない!」
思い出すとすぐこうなってしまう。頭がぼうっとして、何も考えられなくなって、顔がやけに火照ってしまうのだ。それは彼の顔を見ているだけで思い出されてしまうから、話すことすらままならない。
「ふうん」
ルルーシュはスザクへ接する態度を何一つ変えず、ごく普通のクラスメイト然として話しかけてくる。あの夜をなかったことにしたいのか、まさか覚えていないのか。あるいはスザクのことなんてどうでもいいと思っているのか、ただの興味本位、もしくはからかったつもりだろうか。
どうしてあの時キスしたの、なんて言える勇気はない。
スザクくんってさ、とシャーリーは耳打ちしてきた。
六限目まで終わった帰りのホームルームのあと、生徒らは各々の部活動のためクラブハウスに移動する。中には掃除当番で居残る人や、小テストの追試だったり課題提出で職員室へ向かう人も居る。とくにやらなければいけないこともない生徒らは教室に居残って、雑談に興じたりもする。どちらかといえば今のスザクも、とくに意味もなく教室に残るグループに属するだろうか。
帰り支度を済ませて、これから生徒会室へ向かおうとしたときであった。シャーリーが不意に声を掛けてきたのだ。しかも耳元で声を立てないように、こっそりと。
見るからに内緒話を持ち掛けてくる体勢であったが、わざわざそれを盗み聞こうとする野暮な輩はいないだろう。スザクはシャーリーの話に耳を傾けた。
「ルルと喧嘩してる?」
スザクがルルーシュと喧嘩。まるで身に覚えがない。一方的にスザクがルルーシュを避けているのはあるが、あれは一人相撲だ。
「スザクくんもぎこちないけど、ルルもスザクくんに対して様子がおかしかったから」
「そうなの?」
「私にはそう見えたよ」
これが女の勘というやつだろうか。それとも単に、スザクよりもシャーリーのほうがルルーシュと過ごしてきた期間が長いからか。当事者であるスザクは全く、ルルーシュのそういった様子に気が付きもしなかった。
「ルルは取り繕ってるつもりだけど、なんか変だよ」
彼は彼なりに装っているつもりらしいが、シャーリーの目は欺けなかったようだ。
スザクは別にルルーシュと喧嘩してるわけでも、ルルーシュのことが気に食わないわけでもない。しかし誰にも相談できないモヤモヤを抱えているのは事実だ。洞察力の高い彼女の前で適当に取り繕うとも、嘘の下手なスザクの言葉はすぐ看破されてしまうだろう。
「喧嘩はしてないよ。ただちょっと、色々、あっただけ」
かなりぼやかしたが、嘘はついていないはずだ。
「そうなんだ。良かった」
シャーリーは安心したように微笑んだ。
彼女の視線の先には、未提出の滞納課題に追われているルルーシュの背中があった。必要最低限の努力だけで最大の結果を出そうとする彼は、いつもああして課題や授業出席をサボっているらしい。
「ルルってすっごく警戒心強いんだけどさ。スザクくんにはすぐ心を許してくれたから、私嬉しかったの」
「ルルーシュが?」
「そう。なかなか本音を話してくれなかったりしてさ。外面だけはいいのよ、アイツ。ナナちゃんとか、私たちには何だかんだで優しいんだけどね」
そう語るシャーリーの瞳はひどく優しい。大事なものを見守るような暖かさに満ちていた。
「スザクくんもここに来たばかりで色々大変だと思うけど、何かあったらすぐ相談に乗るからね。生徒会室に行けばみんな居るし」
「……うん、有難う」
シャーリーの長所といえば元気の良さが真っ先に挙げられるが、こうした面もあったとは思いもしなかった。その聡明さに驚きつつも、スザクは温かい気持ちになった。
満開だった桜の花も風雨にさらされてあっという間に散り散りになる。そうして花弁が散ったあとの枝には若葉が茂り、俗にいう葉桜へと大木は姿を変える。
日本人は古来から桜の花を愛して止まなかった。白い綿のような柔らかい花びらが、丸みを帯びるようにして枝に咲く。その可憐さと美しさが小春日和の空色に映えて、何とも言えない趣を生み出す。
しかし桜が現代に渡って愛される理由はそれだけでない。潔く美しい花弁を散らすその姿の儚さ、刹那的な生き様に胸を打たれるのだろう。三百六十五日のうち、あの木が花を咲かすのはたった数日間だ。その数日間が過ぎれば、次に花を咲かすのはまた一年後となる。散り際が最も美しいと言われるその寂しさの中に、日本人は美しさを見出してきたのだ。
ちょうどスザクの暮らす寮の窓からも、葉桜になったソメイヨシノがよく見える。満開の時期は気が付いたら終わっていて、なんだか惜しい気分になった。
儚さや寂しさの中に美を見出せるとするなら、スザクの記憶の中にある鍵の君の存在もまた、その一種なのだろう。遠くにあるからこそ、手に入らないからこそ、それは美しく在り続ける。理想とロマンと空想の中でしかそれは生きられないからだ。
ベッドのマットレスで横になると、途端に眠気が襲ってくる。せっかく金曜日の夜だというのに、とくにこれといった予定もなければ誰かと会う約束もない。掛け時計の秒針が刻む音を耳に入れながら、スザクは寝返りを打った。
かさついた唇を指でなぞると、先日の出来事を鮮明に思い出す。
シャーリーにはルルーシュとぎこちなくなっていることを指摘されたばかりだったが、とくに進展もせず悪化もしていない。スザクは感じなかったが、やはりルルーシュもあれから気まずいと思うところはあったのだろう。肝心の、何を考えているか、までは分からないが。
七年前、鍵の君と一晩過ごした蔵の中でも同じようなことがあった。あの頃はまだ、唇に唇で触れる意味をよく理解していなかった。頬や手の甲みたいに、他所の国では友愛の印だとかそういう謂れがあると思っていたのだ。
だがさすがにこの年になれば、いくら鈍感だ天然だと言われるスザクにだって分かる。唇に唇で触れる意味なんて万国共通だ。ならどうして鍵の君は自分にああしたんだろう。彼も意味なんて分かっていなかったのだろうか。
ルルーシュに触れられたとき、まるで七年前の記憶を上書きされたかのようだった。それは幼少期の自分からの脱却であり、鍵の君との別れでもあった。
初恋とは、”一緒に居るとドキドキするけど、もっと一緒に居たくなって、心臓がぎゅってなる感じ”だと、どこかで人に聞いた。だがスザクのこれは、ドキドキだとかぎゅっとするだとか、そんな生易しいものじゃない。ズキズキと痛いくらい心臓が高鳴って、馬鹿みたいに頭の中が彼のことで埋め尽くされる。顔の火照りも収まらないし、本当に困ったことになった。なんてことをしてくれたんだ、あの男は。半ば当てつけのように思う。
ルルーシュは無責任だ。そういうことをしておいて何事もないように装う。された側のスザクは堪ったものじゃない。まるでそんなことはなかったことのようにされるのも、腹が立つ。
誰にも打ち明けられない感情は日々渦巻いて蓄積されてゆく。人を散々困らせておいて、されど本人はクールぶって過ごしているのだ。憎たらしいったらありゃしない。でも心の底から本気で恨めしく、嫌いになれるかと問われれば、それは少し違う気がした。
一方で、自分ばかり悶々と考えているのもだんだんと阿呆らしくなってくるのも、時間の問題だった。好きとか嫌いとかじゃなく、どうしてあんなことをしたんだ、と正面から真っ向勝負で言ってやりたい、というのが正直なところだ。もとよりスザクはあまり我慢強い性格じゃない。駆け引きや心理戦といった空気を読む類は分かりにくくて嫌いだ。
思い立ったが吉日、とも言う。自明のことだがスザクは考える前に行動を起こす質である。うだうだと考えて計画を立てるのは苦手とした。そうでなければ鍵の持ち主探しで少年兵に入るだの、身寄りがないから国籍を変えるといった極端な選択は普通しないだろう。
だから単身、今から彼に直接会おうと思った。どんな風に話を切り出して、話を運んで、なんてことは鼻から考えちゃいない。言いたいことを言ってやろうと、それだけを考えていた。憎たらしいほど飄々とした男に一泡くらい吹かせてやれたらいい。
「夜分遅くに失礼します」
「えっと、どうぞ……」
今から家に行くから、と一言だけ電話したが、ものの数秒で屋敷に辿り着いてしまった。さすがのルルーシュも困惑した表情を繕えていない。時刻は夜の十時だ。とんだはた迷惑な奴である自覚はあるが、彼の突飛な行動に比べれば可愛いものだろう。
さっそく通された彼の私室で、スザクはルルーシュの隣に座った。テーブルを挟んで向かい同士で座っても良かったが、あまり大きな声で話したい話題でもない。それに、こういうことは出来るだけ短期決戦で片付けるほうがいい。
だから開口一番、スザクはこう言ってみせた。
「なんで僕にあんなことしたの?」
「……は?」
少し藪から棒過ぎた。
何の前振りもなしに切り出された言葉に、ルルーシュも理解が追いついていない。
「だから僕にこないだ、したじゃないか……」
「……」
「その、だから」
「……」
ちらりとルルーシュの顔を盗み見るが、彼はいまだ意図を解していないようだ。困ったような顔をしながら、スザクの言葉の先を無言で待っている。
「えっと……」
「うん?」
「き、キスを……」
「ああ」
はっきりとそれを口にするのがどうしても躊躇われて、情けなく言葉が尻すぼみになる。だがそれでも言いたいことは伝わったようだ。ルルーシュは小さな相槌を打って、しかしまた黙り込んだ。
ルルーシュはきちんと覚えてた。そして自分が何をしでかしたか、いちおうは理解してた。しかし予想以上に薄い反応で、スザクはまたもや不安になる。たかがキスのひとつ、それがどうかしたか? と言われているみたいで、また胃の奥がムカムカとしてくる。自分はこんなに彼の一挙一動に振り回されてたというのに、人の気も知らないのだ、この男は。
「じゃあ俺からも聞いていいか?」
何を、と問う前にルルーシュの手指が頬に触れた。唐突な接触に思わず肩が跳ねたが、彼はそれに関して何も言わない。むしろ反応を面白がるように、黙って観察されているみたいだ。
「何でそんなに、顔が赤いんだ」
「……」
「どうして俺の方を見ない?」
彼はきっと、分かった上でやっている。確信犯だ。輪郭を辿る指がまた、顎に触れる。親指の腹で下唇を押し潰される。早く言え。言ってしまえばいいのに。ルルーシュの指はスザクからの自白を急かしていた。
「……ルルーシュのことが好きって言ったら、君は困る?」
ちらりと視線を上げた先に、ルルーシュの顔が近くにあった。
またされるのだろうか、あれを。
「嬉しいよ」
どくどくと脈打つ心臓の音が、どうか聞こえませんように。そう祈りながら、スザクは静かに目を閉じた。
やっと息が吸えると思ったら、また口を塞がれる。舌の根を吸われると息ができなくなって、またルルーシュの肩を叩いて、顔が離れる。そして、また。
口の周りはどちらかの唾液でべたべたになって、二人分の唾でぬかるんだ口内はすぐに許容量を超えてしまう。気が遠くなるほどそうしているのに、彼はまだ足りないと訴えるかのように求めてくる。求められたら求められた分だけスザクも返そうとしてしまって、結局いつまで経っても口づけは終わらない。
「んっ、う」
馬鹿の一つ覚えみたいにそうしていると、今度は脇腹にひんやりとした感触がした。
「ま、ルル、ん!」
抗議の声を上げようにも唇を食まれて、それも叶わない。すっかり潤んだ瞳から零れた涙が、頬に新たな筋を作る。
「まっ、や」
「嘘つけ。嫌じゃないだろ」
脇腹を撫でる手が胸から臍へ下ってゆく。擽ったいようなむず痒いような、よく分からない感覚がぞわぞわと背筋に抜ける。
嫌じゃないけど、嫌だ。恥ずかしいし何をされるか分からないし、何より心の準備がない。好き合った者同士がこういうことをするのは何となく知っていたけど、それは男同士で出来るのかということ。そもそもルルーシュは自分なんかとして、楽しいのかということ。絶対男の自分より、女の子とするほうが楽しいだろう。
「何言ってんだ、お前」
腹のあたりを撫でていた手がさらに下がって、股座に伸びた。そんなところ触ってどうする、とスザクは絶句した。
「軍人ってそういうの多いと思ったけど、案外スザクはピュアなんだな」
「ピュアってな、あ」
話している途中だというのに、彼のふしだらな手は制服のスラックスの上から股間のそれを鷲掴むようにして揉んでくる。腰が小刻みに跳ねてしまうのをどうにか抑えることが、スザクに出来る精一杯の抵抗だった。
「……触っても、いいか」
「う、うん」
もうとっくに触ってるくせに何を今更、と目の前の男を睨み付けようとした時だ。彼はあろうことかスラックスのジッパーを無遠慮に開けて、そこに手を突っ込んできた。嘘だろ、と文句を言いつける暇もなく、早急過ぎる手はスザクの熱に直接触れた。
「は、ん」
ねっとりとした唇同士の深い交合だけで、とっくにスザクの陰茎は兆しを見せていた。それに彼の綺麗な指が絡まって、撫でられる。にわかに信じ難い光景と状況に混乱する気持ちはとっくに置いてけぼりで、今はただひたすら性感に煽られっ放しだった。
口に手を当てて、ふうふうと荒い息を必死に堪えた。聞くに堪えないくぐもった声も必死に飲み込んで、ひたすらルルーシュが与える快楽に抗う。それでも勝手に震える背中だけはどうしようもない。そんな様子のスザクを、ルルーシュは食い入るように見つめていた。
「声、我慢しなくていい」
「や、いや……」
熱い吐息に混ざって、下腹部からは耳に悪い粘着質な水音が聞こえるようになる。ルルーシュが手を動かすたびにくちゅ、と鳴る音に耳を塞ぎたい。だがそうすると、今度は口を塞ぐための蓋がなくなってしまう。
「いや、いやだ……」
「説得力ない」
とろりと熱に溶けた紫の眼差しが顔を覗き込む。そこに映る自分の表情ははしたなく蕩けきっていて、顔を背けたくなる。
「んっ、ん!」
先端をくるくると撫でられると、もう駄目だった。先走りを全体に伸ばすようにして動く指先に意識が翻弄される。部屋にはひっきりなしに下品な水音が響いて、聴覚まで犯された気分だ。
出していいよ、と耳元で囁かれたのが合図だった。スザクは声を発することなく、背中をびくびくと痙攣させながら、ぬくい手の中に精を放った。
「今度、続きをしてもいいか」
「続き?」
射精後の倦怠感と妙に体がすっきりした感覚、それから後悔と罪悪感を持て余していたスザクに、ルルーシュはそう言った。
「続きって?」
「……何も知らないのか」
いつもは端的に物事を話す彼には珍しく歯切れが悪い。口にすることすら憚られることなのだろうか。
「さっきの、嫌じゃなかったか」
ルルーシュは微かに染まる頬を背けて、そう尋ねた。そういう顔もするんだな、と思うのと同時に、なんで今更照れてるんだ、と食って掛かりたくなる。
「……嫌じゃない」
「…そうか」
口先では嫌だと連呼していた。しかし本気で不快だったら、それこそ腕力を行使してここから抜け出しているところだ。七年も鍛えてきたのは伊達じゃない。そこいらの男子生徒を複数人相手してもお釣りがくるだろう。
恥ずかしかったしびっくりしたし、剥き出しにされた急所を触られるというのは生物の本能的にも、少し恐ろしかった。あまりに非現実的な光景で突拍子もない展開だったから、未だに頭のどこかでこれは夢でも見ているんじゃないかと思えるくらいだ。そもそもどうして手淫を施される流れになったのか、記憶もあやふやだった。
スザクだって自慰くらい知ってる。でもそれを他人、しかも同じ男にされるのは知識にない。唾液を交換するような接吻も、肌を触れ合わせると心地が良いことも、何もかも知らなくて、初めてだった。
とても平凡とは言えない幼少期を過ごして、思春期の頃は同い年の友達はろくに居ないまま、がむしゃらに働き続けた。鍵の君を探すために東奔西走し続けた。とくに、特派への異動後はさらに人間関係は狭まった。ジノやアーニャは居たが彼らは彼らで忙しそうだったし、テロが起こるたびに出動要請が下りて、ナイトメアフレームで駆けつける日々である。一般の兵士たちとは仕事内容も組織も大きく異なる特派では、なかなか他人と関わる機会がなかった。
だから世間知らずの自覚は大いにある。俗っぽいことも、恐らく分からないことはたくさんある。
「また来週も来るか?」
「う、うん」
つい反射的に答えてしまった。これはまた来週、ルルーシュの部屋で”こういうこと”をするということだろうか。それとも、ルルーシュも口にすることを憚るような”続き”とやらをするのか。その意図を計りかねているうちに、もう帰れと促された。
スザクが思い描いていた本来の目的と結果とは、少し異なる着地点に落ち着いてしまった。こんなはずじゃなかったのに、なんだか彼の意のままに事が進んでしまった気がしてならない。あるいは最初から彼の手のひらで踊らされていて、スザクが今日ルルーシュの家に突撃することだって、あらかじめ予測されていた可能性のひとつだったかもしれない。
しかし考えていてもきりがないし、埒は明かないのだ。ならばいっそ、落ち着くところに落ち着いた現状を受け入れようじゃないか。
色んな意味で出すものを出してすっきりしてしまったスザクは、単純な結論を出して考えるのをやめた。
翌週の月曜日の昼休み、スザクは再びカレンと昼食を摂っていた。何だかんだで波長が合う部分があるのだろう。晴れた日はここでご飯を食べると気持ちいいんだよ、と裏庭へ案内すると、そんなの私も知ってるわよ、とつれない返事が返ってきたのは少し悲しかったが。
「そういえば、もう鍵の持ち主探しはやめるの?」
「うーん」
今日の昼食は売店で買った総菜パンだ。そろそろ部屋も片付いたし自炊をしないとな、と頭で分かっていつつ、どうしても億劫になってしまって、結局楽をしてしまう。便利過ぎるのが良くないんだと、半ばやけになりつつ封を開けた。
「子供の頃だったら許されたけど、この年齢でそういうのって引かれない?」
「スザクって自分を客観的に見る目があったんだ」
欲しかった回答を彼女に望んだことが間違いだったかもしれない。
「生徒全員に聞いて回るとかされたら困るけど、仲良い人ならいいんじゃない?」
「そうかなあ」
名前も知らない、顔も声もうろ覚え。手掛かりは古ぼけた鍵ひとつと、当時憲兵に追われていて、怪我をしていたこと。その手掛かりのひとつであった鍵も失くしてしまった。もう生きているか死んでいるかも分からない少年。探し続けても無駄ではないかと、大人になりすぎた理性が諭してくる。
「まずは生徒会のみんなに聞き込み調査ね」
カレンは握っていたフォークをスザクのほうへ差し向けて、歯を見せて笑った。
案外彼女のほうが乗り気なことに、スザクは少しばかり驚いた。だが協力者が居てくれることはこれ以上ないほど心強い。みんなから変なやつ、おかしいやつ、なんて思われなければよいが。
鍵の持ち主? とシャーリーが声を上げる。こういう形の細い鍵だよ、と白い紙に描いた鍵の絵を見せてやると、彼女はうんうんと唸った。
「見覚えないなあ、ごめんね」
「俺も知らねえや」
「私も心当たりないわ」
「……そうだよね、みんな有難う」
やはり有力な情報は掴めず、徒労に終わった。もう七年も時が過ぎれば、さすがに見つからないだろう。
放課後の生徒会室で、机に座るスザクと置かれた紙、それを囲むようにして他の面々が鍵の絵を覗き込んでいる。誰もスザクの行動をからかうことも訝しむこともなく、記憶の引き出しを洗いざらい調べてくれた。
「その人の顔とか、特徴は?」
ルルーシュがそう尋ねた。
「顔もよく覚えてないんだ。租界の外だったんだけど、憲兵に追われてたみたいで」
「てことは指名手配犯? もう捕まってたら、生きてないかも……」
「こら、リヴァル」
シャーリーが彼の発言を咎める。リヴァルは軽率な発言であったと謝ってくれたが、スザクはそうは思わない。普通に考えれば行き着く答えはそうなるだろう。
「でも僕、実は去年の夏頃に、一度会ったんだ」
「会ってんの!?」
「それで、捕まえなかったの? 連絡先とかは?」
口々に質問を投げ飛ばすが、予想外の展開に驚いているのはみな同じだ。
「その時もなんだか追われてて、ろくに話もできなかったし、顔も見れなかった」
「でも、生きていることは確かじゃない」
「……あのあと、捕まっていなかったらね」
「スザクくんが悲観的になってどうするのよ!」
「え?」
シャーリーはそう叫ぶと、スザクの目を見つめた。まるで自分のことかのように鬼気迫る表情をしている。
「絶対会えるよ、大丈夫。それに失くし物って、案外近くにあったりするし。鍵の持ち主も、実は傍に居てたりしてね」
何年もかけて探していた人が、実はずっと身近に存在していて、取り越し苦労に終わる。そんなフィクション作品なら見たことがあるが、現実でも起こりうるのだろうか。
もしスザクがその立場だったら、なんで今まで言ってくれなかったんだ、と相手を責めるだろう。でもそんなやるせなさや苛立ちより、ようやく見つけられたという喜びのほうが圧倒的に強いに決まってる。
「ていうかさ、なんでスザクはそんなに会いたいわけ? 顔も覚えてないのに?」
リヴァルはふと思った疑問を口にした。彼の質問にはみな概ね同意らしく、ああ確かに、と相槌を打った。
それに関してはスザクも考えたことがある。
どうして会いたいのかと問われたら、鍵を返さないといけないから。また話をしたいから。顔をもう一度きちんと見てみたいから。それらの理由にもどうして、と尋ねられると、今度こそどう答えたらいいか分からなくなる。だからスザクはこう考えるようにした。会いたいと思うことに理由が必要なのか、と。
「あれでしょ、初恋!」
ミレイがぽんと手を叩いて声を上げると、周りの者は妙に納得するような、腑に落ちたような顔をする。初恋の相手だから一途に追いかけ続けてるんでしょう、と生ぬるい視線が刺さってくる。
この会話の流れは前にもあったような気がする。確かあれは七年ほど前、少年兵に志願た矢先、野戦病院で勤務していたときだ。病院内で働いていた人に同じことを尋ねて、同じことを言われた。もしかして初恋の人なのかい、とからかわれたのも同じだ。
「別にそういうんじゃないよ」
「えーっ、でもスザクくん顔赤いよ!」
「スザクも隅に置けないなあ」
指摘されればされるほど、意識してしまう。
記憶の中に埋もれていた唇の感触は、つい先日のルルーシュとの接吻でとっくに上書きされていた。はずだったが、薄くてかさついた皮膚の体温を、体はまだ覚えていたらしい。
初恋なんて甘ったるくて可愛すぎる言葉は、自分に縁がないと思っていた。実際それがどんな感じなのか聞いてみても、ぴんとこなかった。だがもし、鍵の君に対する感情に名前を付けるとして、それが恋なのなら、辻褄は合う。また話をしたい理由も、顔をもう一度見たい理由も、七年もの間執着するほど会いたいという気持ちにも、説明がつくのだ。鍵を返したいなんて、会いたい理由をこじつけたに過ぎない。
だとしたら自分は七年間、彼に恋をしている自覚もなく、探し回っていたのだろうか。
口付けの感触も、思い出せば恥ずかしさで叫び出したいくらいだが、何も知らなかったあの頃の自分は友愛の証であろうと思っていた。頬への口付けが感謝や挨拶、手の甲は忠誠を表すように、唇にも何か意味があるんだと考えていたのだ。
会いたい気持ちが積み重なりいつの間にか恋に変容したのか、初めて会ったときから恋に落ちていたのか。卵が先か鶏が先か、確かめる方法はもうなかった。