千年騎士 五章
桜の花が綻ぶ季節、束の間の小春日和が見せた青空はどこまでも青く澄み渡っている。風が吹くたびに花が散って、地面に降り積もってゆく。そのさまが刹那的で、だからこそ美しくもあり、古来から日本人に長く親しまれてきた。ひらりと舞う桜の花弁は何も語らず、ただこの季節を象徴する風景として、そこにあり続けるだけだ。
若い男女の笑い声で溢れる校庭、校長の声が静かに響く体育館、季節の草花が植えられた裏庭。どれもスザクの遠い記憶にあったかなかったかも定かでない”学校”という場所に、今こうして訪れている。
「えー、今日からうちのクラスに編入することになった枢木スザクくんだ。分からないことがあったら教えてあげるように」
「枢木スザクです。宜しくお願いします」
そう名前を述べると、教室中の生徒らはひそひそと顔を見合わせて話をし始めた。簡単な自己紹介だけし終えたスザクが宛がわれた席へ向かうと、周囲の生徒はスザクの顔をちらりと見て、眉を顰めた。
――スザク、学校に行ってみませんか?
ユーフェミアからの予想外の提案を受けたのは、ちょうど半年前だ。収容所から脱出の手引きをしてくれた上、医療施設まで用意してくれた彼女は、スザクにそう持ち掛けた。
「あなたは十六歳でしょう。なら、学校へ行くべきです」
彼女は確固たる口調で、スザクにそう詰め寄った。
提案は有難いが正直、今更学校なんて、と思った。六年間という、子供にとったら膨大な期間、スザクはずっと軍人としてがむしゃらに働き続けてきた。右も左も分からずここまで走り続けてきた自分に、この年齢になって勉強なんて無駄じゃないのか。そう思ったから、彼女の提案は悪いが断ろうとしたのだ。
だがユーフェミアはその見た目とイメージに反して、随分と強かな女性だ。ユーフェミアが強い女性であることはスザクも承知していたが、それを軽く上回る強引さを兼ね備えていたのである。
「もっと見識を広めて、世界を知るべきなんです! 同年代の学友と接することで、スザク自身も今よりもっと成長するはずです。それに……」
そこでおもむろに言葉を切った彼女は、スザクの瞳を覗き込んで、そして訴えかけるように囁いた。
「私は学校に行けないから。だからスザクには行ってほしいんです。あなたには学ぶ権利がある」
そこまで言われてしまえば、断るにも断れなくなった。彼女の言葉と圧に根負けしたスザクは、首を縦に振るしかなかったのである。
彼女の取り計らいにより、編入先選びから入学許可まで手続きがスムーズに行われた。これが皇女の権力かと、滞りなく行われる手続きに思わず感嘆してしまったのは言うまでもない。
学校に通うからと言えど、軍の仕事も平行しながら全うせねばならない。できるだけ平日の日中は学業を優先させるが、それでも学校を休まざるを得ない場合もあるだろう。そういった事情を考慮してくれる寛容な学校がひとつ、候補として浮かび上がった。
私立アッシュフォード学園はトウキョウ租界にある名門の私立高等学校だ。初等部、中等部も併設されているマンモス校で、租界内に住むブリタニア人学生にとっては入学することが憧れでもあったりする。また高等部に上がれば寮制度を利用することもできることから、アッシュフォード学園への門扉を叩く中学生が後を絶たない。
数多くの著名人を輩出したこの学校の校風は、ブリタニア人やイレブンといった人種の隔たりがないことである。租界内にある学校はどこもイレブンの入学は禁じられており、ブリタニア人専用の学校が多い。そんな中で人種による選び抜きがないのは非常に珍しいことであった。入学試験は筆記試験のみで、志願する生徒の出自や親の経歴は一切問わないという。ある意味厳格な実力主義を敷いている、とも言える。
しかしそんなクリーンなスクールカラーが物珍しく、また革新的であるせいか、世界中から多くの注目を集めているのも事実だ。アッシュフォード学園で学びたいという、来る者を拒まない運営方法は多くの支持を集めている。
だがひとつ欠点を挙げるとすれば、入試試験および入学後のカリキュラムはすべてブリタニア人向けのものに偏っている、ということだ。習う歴史はすべてブリタニア史で、国語の授業で扱う教材もすべてブリタニア人著者の作品なのだ。そういった面もあることから、イレブンの在学生は現時点でひとりもおらず、実質的にはブリタニア人学校と相違ないというのが実情である。
だからある程度、覚悟はしていた。
これはブリタニア人の彼らが悪者だからではない。彼らは幼い頃からそういった教育を施されてきた。だから日本人であるスザクに偏見を抱くことは当然であり、ある意味仕方ないことなのだ。そう思って、割り切ることしかスザクにはなす術はない。
ホームルームが終わったあとの休み時間、編入生であるスザクに話しかける者は一人として居ない。物珍しそうに遠巻きにしている者、ひそひそと噂話をする者、まるでスザクを居ない者のように扱う者。その対応は三者三様で、それなりにショックだった。
学校なんて久しぶりで、同い年の人に囲まれて暮らす生活とはどんなものだろうかと、僅かに胸を躍らせたりもした。友達はできるだろうか。どんな人が隣の席なんだろう。勉強というのは難しいのだろうか。自分もついていけるだろうか。
しかし現実はそうもいかない。なぜならスザクは日本人で、ここはブリタニア人の区域だからだ。ただそれだけの理由である。
黙って席に座っているだけで、あちこちからちくちくと刺さるような視線が息苦しく、辛い。目に見えて分かりやすい嫌がらせをしてきたり、暴言を吐く者は居ない。誰も分かりやすく悪いことをしていないからこそ、誰かを責めることもできなくて、余計に辛かった。
どうしても居づらくなった教室を抜け出して、裏庭へ出てみた。息苦しいあの空間ではどうにも気が滅入って情けない。
裏庭には季節の花々が植えられ、舗装された道にはベンチが点在している。学校の裏庭というより豪邸の庭園の様相を呈していた。そんな空間に、新学期のクラスで新たに友人を作ったらしいグループが散見される。和気あいあいとした雰囲気に春の風が流れて、彼らの出会いを祝福しているようだった。
また独りぼっちになってしまった。一度目はブリタニアと日本国との終戦後、父を亡くしもぬけの殻となった実家で、鍵を握り締めていたころ。二度目は、収容所に連行されたときの出来事。当時怪我を負っていた鍵の君を匿ってやった己の行動を、罪だと、間違っていると責められたあの監獄のこと。そして三度目は今だ。
学校に行けば見識も広まり、学ぶことによって自己の成長にも繋がる。皇女殿下は耳障りの良い言葉を連ねていたが、どうやら認識は甘かったらしい。
物言わぬ桜の花びらたちは、スザクの心に落ちる深い影を、ただ憂いていた。
課題の提出事項だったり諸連絡をひととおり終えた帰りのホームルームで、スザクは帰り支度をしていた。午前中はスザクのことを怪しく、物珍しく、好奇の目でみていた生徒たちももう慣れたのか飽きたのか、すっかり存在を忘れたかのように帰ってゆく。相変わらずスザクに話しかける者も居なければ、目を合わせてももらえない。自ら誰かに声を掛けようとしても、誰もがスザクから距離を取ろうとするのだ。避けられている、とはこのことだろう。
「ちょっとやめとけって。お前行動力あり過ぎ」
「あんたはビビり過ぎなのよ。普通の男の子じゃない」
学業と軍の仕事を両立していく上で、重要になってくるのはどこを住居とするか、だろう。平日の日中は学校で過ごすことを中心にするなら、アッシュフォードの寮で生活するほうが合理的ではないか。セシルやロイドの提案により寮の一室を間借りすることに決まった。
まだ引っ越し作業が完全に終わっておらず、主に大量の荷物が所狭しと部屋に置かれている状態だ。元々物は持たない主義であったから荷物は少ないほうであるが、それでも一人暮らしとなれば必要な物は多い。近くのドラッグストアなりスーパーマーケットで買い揃えなければならない物のリストは、一向に項目が減らない状態だ。
まずは家に帰って夕食の準備をしなくてはならない。学校生活が始まったばかりの一か月ほどは、平日の夕方に軍のほうへ行かなくてもいいと言ってもらっている。まずはダブルワークに慣れるためにも、学校生活を優先しなさい、とのことだ。
「話してみればきっといい人だよ」
「ちょっ、おい! シャーリー!?」
今日一日で色んなことがあり過ぎて、夕飯のことをすっかり忘れていた。近くのコンビニで適当に食事を買い揃えてしまおう。健康管理については口酸っぱく言われている身分でこの体たらくは、褒められたものじゃない。
「ねえ、私と友達になろうよ」
「え?」
ぐるぐると考え事をしてたスザクの元へ、一人の女子生徒が声を掛けてきた。彼女はきょとんとするスザクの表情を見て可笑しそうに笑ったあと、言葉を続けた。
「私、シャーリー。シャーリー・フェネットっていうの。スザクくんって呼んでもいい?」
「えっと、あ、はい……」
「やだなあ、同い年なんだから敬語じゃなくてもいいよ!」
私のことは気軽にシャーリーって呼んでね。そう付け加えた彼女はにこやかに微笑んだ。
長い橙色の髪をハーフアップで結わえてあり、はつらつとした語調は彼女の性格を表しているのだろうか。元気の良く素直そうな彼女はくるくると表情を変えながら、あっそうだ! と声を上げた。
「明日、良かったら一緒にお昼食べない?」
「お昼……?」
昼食を友人と食べる、という概念すらすっかり抜け落ちていた。そういえば学校は給食なり弁当なりを食べる時間があるのか、とスザクはシャーリーの発言でようやくそれを思い出した。
「ねえ、ルルも一緒に食べようよー!」
彼女は教室の前方に居る生徒に向かって、大きな声を出した。隣に居たスザクもどきりとするほどの声量に、呼ばれた相手も知らぬ振りはできないだろう。
「……別に、いいけど」
「やった! じゃあ明日は三人でお昼決定ね。お弁当持って来て、裏庭で食べよう!」
ルル、と呼ばれた男子生徒はこちらを振り返って、ゆっくり立ち上がった。机には閉じられた本が置かれているのが見える。きっと読書の最中だったのだろう。
「すまないな、忙しない女の相手をしてもらって」
「ちょっとそれどういうことよ、ルル!」
なんてことないように毒気づく男は、涼しい顔をしてシャーリーを宥めていた。そのやり取りだけで、この二人の関係性が何となく知れた気がする。
長い真っ黒の前髪から見え隠れする紫の瞳が、スザクの顔をふと見据えた。長い睫毛に縁取られたそれは、不思議そうに男を見上げるスザクの間抜けな顔を映していた。
「この小憎たらしい格好つけは、気軽にルルって呼んであげて!」
「……ルルーシュ・ランペルージだ。シャーリーの話は聞かなくてもいいぞ」
「もう、何よそれー!」
二人の漫才のような掛け合いは、それからしばらく続いたのである。スザクはただその滑稽な遣り取りを呆然と見守るしかなかった。
「スザクくんって、軍の仕事もしてるの!? すごっ!」
シャーリーが大層驚いた様子で、スザクの話に食いついた。
「親切な人が、勉強もしたほうがいいって言ってくれて。編入させてくれたんだ」
「へえ。でもそれだと、大変じゃないか?」
翌日の昼休みであった。三人はシャーリーとの昨日の約束どおり、並んで裏庭で昼食を摂っていた。
晴れた日はここでご飯を食べると美味しいんだよ。彼女はここへ訪れる際、そう教えてくれた。彼女の教えどおり、確かに風が心地よく食事も会話も弾む。この時期の昼間は太陽の陽射しもちょうどよく、日向はぽかぽかとして気持ちが良い。色とりどりの花も綺麗で、目も楽しませてくれる。
「ふぉんとふぉんと、んぐ、スザクくんたいへんらよねえ」
「シャーリーは食べるか喋るか、どちらかにした方がいいんじゃないか?」
ベーグルサンドを口いっぱいに頬張りながら、シャーリーはもごもごと何やら話してた。だがその大半は当然聞き取れず、思わず隣に座っていたルルーシュが冷静に声を掛けた。
「っふ、あはは」
スザクは思わず吹き出して笑い声をあげると、シャーリーとルルーシュは共にスザクの顔をじっと見つめていた。笑うのは良くなかっただろうか。それとも、何かおかしかっただろうか。
「……スザクくん、やっと笑ってくれたね」
「ああ」
ふわりと微笑んだ二人の表情は、どこか安堵に満ちていた。
「ごめんね、みんな冷たくって。リヴァルだって、ほんとは悪い奴じゃないんだよ」
「……みんな枢木とどう接したらいいか分からないんだろう。すぐに慣れるさ」
イレブンである自分に真っ先に声を掛けてくれたシャーリーと、付き合ってくれるルルーシュ。彼らはクラスの全員が避けている枢木スザクという生徒に、何の恐怖心も疑念も抱かず、同じ生徒として接してくれる唯一の存在だ。
内心、どうして彼らがこんなにも親身になってくれるのか、スザクには理解できなかった。ただの興味本位か人間観察、好奇心、クラスに馴染めず打ち解けていない己をからかっているのかもしれない。
だがスザクの立てた予想はどれも違っていて、むしろ謝らなければならないのはスザクのほうだった。イレブンだからという理由で浮いてしまっていた自分を純粋に気にかけ、偏見を持たずに接してくれていただけなのだ。むしろ疑念と偏見を持っていたのはスザクのほうであった。
「……ごめん。有難う、二人とも」
昼食に食べていたおにぎりは、いつもよりしょっぱく感じた。
一日六時間、きっちりと管理されたタイムテーブルが終われば、待ちに待った放課後である。生徒らは各々のクラブ活動だったり居残りだったり、あるいは校外へ遊びに行ったりして、それぞれの過ごし方を――
「え? スザクくん知らないの?」
シャーリーはボストンバッグに荷物を纏めながら、不思議そうに尋ねた。
きっかけは、スザクが”シャーリーは何かの部活に入っているの?”と質問したところから始まる。大きな鞄には着替えとバスタオル、水筒、それから水着がスザクの目の前で詰め込まれていた。恐らく水泳部だろうか。
「うちの学校、部活に入るのは必須なんだよ」
「そうだったんだ!?」
初耳だ。
どこかで説明はされていたのだろうが、全く記憶から抜け落ちている。それともみな”知っていて当たり前のこと”だからこそ、敢えて説明を省かれていたのだろうか。
「部活かあ、うーん……」
このさきひと月ほどは放課後の予定は空いている。軍の仕事を敢えて入れないよう、特派の人たちが取り計らってくれているからだ。寮の部屋に溜まっている荷物を片付けるなり、自炊や家事に慣れるなり、時間は必要だろうと見越しての親切な取り計らいである。
だがその先、いずれは放課後も寮には帰らず軍の本部へ赴く生活が始まる。毎日ではないだろうが、確実にそういう日は増えるだろう。あるいは学校を丸一日欠席せざるを得ない日も出てくるはずだ。
そういうことを考えると、自分の勉強はともかく部活動となれば、話は変わってくる。自分ひとりで行う勉強と違って、部活は他の生徒らと協力して何かに取り組む課外活動だ。できるだけ参加はするつもりだが、それでも自分が抜けることによる穴で迷惑をかけてしまうのは避けられない。
「じゃあさ、うち来る?」
「うち?」
放課後うちの寮に遊びに来る? という軽い口調で誘われた事象に、スザクはいまいち意図が読み取れない。
「じゃあこれから行こっか。会長ならきっと、事情を説明すれば認めてもらえるよ」
「会長?」
シャーリーの口からは満足な説明もされず、スザクは半ば引っ張られる形で、その部屋へ案内された。なんだか自分の周囲には強かな女性が集まるような気もしたが、気のせいということにしておいた。
”生徒会室”という札がかかった部屋にまで案内されると、これはいよいよ良くない方向に話が進んでいるのではないか、と身構えてしまう。スザクの中にある生徒会のイメージが、実は学校の先生より権力が強くて、裏で悪巧みをしていたり、生徒たちを支配するヒエラルキーの頂点に立っている、というものだったからだ。何てものを紹介してくれようとしてるんだ、シャーリー。スザクは心の内でひっきりなしにそう叫んでいた。
「会長ー! 新しい部員候補連れて来ましたー!」
シャーリーは部屋に入室するや否や、いつも以上のハイトーンでそう叫んだ。
生徒会会長。裏で教師らを操り手駒にしつつ、生徒らを管理しているボス中のボス。
世間知らずゆえによく分からないイメージと先入観を抱きがちなスザクであったが、現実はもちろんそんなことはなかったりする。恐らく特派配属時代、ジノやアーニャから延々と見せられたアウトロー映画やドラマの悪影響だろうか。
「ほおん、アンタが生徒会入部希望の新人くんね?」
「ええと……」
生徒会会長と呼ばれて出てきたのは、ブロンドヘアーの女性であった。スザクとは初対面であるにも関わらず、随分とフランクな振る舞いをする人だ。
「君、名前は?」
「枢木スザクと申します」
「スザクくんは学校の勉強と軍の仕事を掛け持ちしてるから、ぜひ生徒会に入れてあげてほしいんです」
シャーリーが入部希望の理由を、そう付け足した。
アッシュフォード学園では放課後の課外活動の時間、必ず何かしらの部活に入部している必要がある。だが人によっては様々な事情で部活に時間を拘束されると不都合が出る生徒も居る。そういう生徒は生徒会への加入を勧められることがよくあるそうだ。生徒会活動と部活動は同じものとしてカウントされる上に、前者は活動が不定期で融通が利くという。
だが生徒かいは誰でも加入できるというわけでもなく、こうした紹介制だったり、学校側からの提案があった者しか入れないそうだ。
「貴重な男手ね、でかしたわシャーリー。枢木スザクくん、あなたの生徒会加入を認めちゃいます!」
「やった! 有難う御座いますミレイ会長!」
「いいんですか、こんな即決で……」
まるでお手本のようなウインクをばっちり決めた彼女は、当たり前じゃない! とスザクを捲し立てる。
「来る者拒まずがうちのモットーなのよ。うちはみんな良い子たちばっかりだから、緊張しないで仲良くしてあげて」
スザクの顔を覗き込んだミレイは、優しく語りかけた。まだ慣れない学園生活に、肩の力が抜けていなかったのはお見通しだったようだ。彼女だってお遊びでこの生徒会を運営しているわけでもなく、本当に困っている人を放っておけないのだろう。
「リヴァル、そっちに居るんでしょ! 隠れてないで出て来なさいよ!」
地続きになっている隣の部屋に向かって、シャーリーはそう声を上げた。
「ったく、あーもー! 声がでかいんだよシャーリーは!」
そう言われて出てきたのはクラスでも見かけたことがある、男子生徒だった。リヴァルと呼ばれていた彼は大層不満げな表情を作ると、シャーリーに文句を言い連ねる。あまり自分のことを気に入っていないのだろう。
「スザクくんのこと気になってたくせにね」
「うるさいなあ! お前やルルーシュがコイツに構い倒してるから、どんな面白い奴なのかって……」
そういえば以前、彼女の口からリヴァルの名前が出ていたことを思い出す。悪い奴ではないんだけど、と述べていたが、彼のことだったのだろう。
リヴァルと呼ばれた彼は少し照れくさそうにしながら、どうぞ宜しく、と微笑んだ。ルルーシュが言っていた”スザクとどう接したらいいか分からない”という言葉の意味がなんとなく分かった気がした。仲良くはなってみたい、気にはなるけど、話し掛けてもいいのか分からない。近づきにくい。そんな風に思われていただけなのかもしれない。
全員集合! というミレイの号令によって、隣の部屋で寛いでいたらしい他のメンバーがぞろぞろと広間に集まる。横一列に整列した状態で、ミレイが順番に名前を教えてくれた。体育の授業か、遠足の集合確認のような光景である。
「この子はニーナ。仲良くしてやってね、スザク」
「宜しく、ニーナ」
「……よ、宜しくお願いします」
もじもじと俯きがちに話す少女は、引っ込み思案なのだろうか。それとも、やはりイレブンだからと警戒をされているのか。どちらにせよ、時間が経てばいずれ仲良くなれたらいいなと思う。
「そんでコイツがルルーシュ。こう見えて副生徒会長なのよ」
「会長、背中叩くのやめてください。痛いですから」
シャーリーと一緒に昼食を摂ったことのある彼も生徒会の一員だったらしい。しかも副生徒会長という役職に就いているというのだから驚きだ。そんな風には全く見えなかったし、話題にも出たことがなかったから意外だった。
「あれ? あともう一人はどこ行ったの?」
「カレンなら隣の部屋で寝てました~」
ミレイの問いかけに、リヴァルが間の抜けた声で返事した。生徒会のメンバーはまだもう一人居るらしい。
「カレン! 新メンバーの紹介したいから、出てらっしゃい!」
「ふわぁ~い」
欠伸なのか返事なのか分からない声が部屋の奥から聞こえて、周囲のメンバーは可笑しそうに笑い合った。随分マイペースらしいが、一体どんな人なんだろう。仲良くできるだろうか。
「え!? 新メンバーってもしかしてコイツなの!?」
「カレンって、もしかして、君……」
二度あることは三度ある。そんな言葉を耳にしたことがあるが、成程、ここまでの偶然が三度も起こりうるのだろうか。
部屋の奥から現れたのはアッシュフォード学園の制服を身に着けた、紅月カレンその人であった。野戦病院で初めて出会ったとき、つい半年前に牢屋で思わぬ再会を果たしたとき、そして今に至る。
ユーフェミアの摘発によりあの収容所は閉鎖されたと、後に聞いた話で知った。収容されていた容疑者らは正当な取り調べを受け、大半の者が無罪放免をされ、有罪となった者も寛大な処置で済まされたという。
劣悪な環境で収容されていた者たちはみな感染症を患い、栄養失調に陥っていた。そんな収容者らに医療施設を宛がい、皇女殿下の計らいにより自分を含め彼らは全員、無事に退院したらしい。だから紅月カレンもこの国のどこかで、元気に過ごしているだろう。スザクは勝手にそう信じていた。せめて別れる最後に一言、感謝の気持ちを述べたかった。僅かに残るそういった後悔の念も、彼ら彼女らが元気に元の生活に戻っているのだと思えば、気にする必要もなかった。
「まさか君がここで過ごしていたなんて思いも寄らなかった……あの時は本当にどうなるかと思っ」
「しーっ! 収容所のことは言わないようにしてんの! 体調悪くて休学してたって設定!」
思い切り口を塞がれ、窒息しそうだ。喋らないから大丈夫だよ、とジェスチャーで伝えれば、彼女はその手をようやく離してくれた。
「二人は知り合いなのね」
「偶然ちょっと会ったことがあって……」
「顔見知りなだけです」
カレンがそう言い切ると、スザクは苦笑いを浮かべた。好かれているのか嫌われているのか、よく分からない。女の子って複雑なんだなあと他人事のように考えた。
その翌日の放課後、さっそくスザクは生徒会室に顔を出すようにした。まだ入りたての新人はまず、その場の空気に慣れること、周りの人が何をしているのか観察して、自分にできることを探してみること。少年兵時代から上司に教わられた、集団生活における基本中の基本である。
スザクはこの生徒会でも例外なくそれを実行しようとした。何ならお茶汲みだってごみ捨てだって、些細な雑用であろうと何だってするつもりだ。仲間として認められたからには、それ相応の働きで返すことが大切なのだ。
昨日ミレイに聞いた話によると、生徒会の仕事は主にふたつあるらしい。学園内の部活動の経費管理、学園行事の主催、このふたつだそうだ。他にも学園内の風紀を取り締まるだとか、公共施設の管理だとか、細かいことは多々あるらしい。が、一番面倒でやり甲斐のある仕事が前述したふたつらしい。
新年度になってまず行われるのは部活動や同好会の再編成である。同好会を新設したり、部員が少なければ廃部にしたり、といった取り決めだ。これらは生徒らだけでなく教職員も関わってくるから、生徒会だけで決定はできない。
再編が終わってからがようやく生徒会の仕事だ。前年度の支出からおおまかな予算を決めるのだ。支出の内訳も鑑みて、無駄遣いが多ければ徹底的に追求し、以後改めるように勧告する。まるで会計士のようだ。
新年度になってから、直近で行われる学園行事はこれといってない。今の時期は教職員も多忙を極めていてそれどころでないらしく、開催するのは嫌がられるらしい。
話を聞くだけだと何のことやらさっぱりだった。お金の管理なんて生まれてこの方関わったことがないのだ。軍からの給金はあるがそもそも休日もないし、友達と遊びに出掛けるという考えすら思いつかなかった。
だから分からないなりにも参加しようと、スザクは気を引き締めていた。普段はみんなフランクにやり取りしているが、予算管理とやらの場面では真剣に取り組むのだろう。
担任に生徒会へ入ることを伝えると、入部申請書という紙切れを一枚寄越してくれた。名前と学年、クラス、出席番号、それから所属を希望する部活動の名前を書くものだ。スザクの場合は生徒会執行部と記載すれば良いらしい。
職員室で諸々の手続きを終えると、公私ともにスザクは正式な生徒会員として認められたことになった。これで部活動への入部と同義になるらしい。
昨日ぶりに生徒会室の扉を開く。職員室に寄っていたから少し遅れてしまった。まだ話し合いには間に合うだろうか。
扉の外からそっと耳を澄ませても話し声はこれといって聞こえないから、まだ始まる前なのだろうか。そうっと入室して、広間から奥の部屋へ進むと、会議用の大きなテーブルと人数分の椅子が並べられているのが見えた。
「ああ、枢木か」
「……あれ? 君だけ?」
だだっ広いテーブルには一人の姿しかなく、他のメンバーたちの荷物も見当たらない。まだ時間が早かっただろうか。
テーブルの端の席で静かに本を読んでいたルルーシュは顔を上げ、何てことのないように答えた。
「お前の歓迎会を今週末にするからって、みんな買い出しに行ったぞ」
「歓迎会?」
てっきり粛々と話し合いが行われていると思っていたから、スザクは盛大に肩透かしを食らった。しかも理由が買い出しとは。そんな活動内容が果たして許されるのだろうか。
「君は行かないで良かったの?」
「……俺は留守番だ」
むすっとした表情で分かりやすく不機嫌になった。恐らくみんなと一緒に買い出しへ行きたかったのだろう。
「何笑ってるんだ」
クールそうに見えて、実は分かりやすい。垣間見れた一面は案外可愛らしいものだった。シャーリーが格好つけ、と評していた理由が何となく分かった気がする。
彼が座る向かいの席を陣取るようにして、スザクも座った。とくにすることも、決められたこともない。誰も帰ってこないのなら、今日の放課後はこのままのんびり過ごしてしまおう。そう思って、彼の手元を覗き込む。
規則的に流れる本を捲る音と時計の秒針だけが、部屋を支配していた。二人はとくにこれといった話をするわけでもなく、ただ流れていくだけの時間をのんびりと過ごした。つまり暇を持て余していたのだ。
話すこともないから、ぼんやりと目の前の顔を盗み見た。伏目がちのせいで顔には影がかかり、その表情は窺い知れない。微笑んでいるのか無表情なのか。あるいは居眠りをしているかもしれない。
時折動く睫毛が、男にしてはやけに長いなあとか、毎日きちんと手入れをしているんじゃないかってくらい、唇が艶々としているなあとか、どうでもいいことばかり考えていた。彼はこちらを見向きもしようとせず、黙々と指先を繰っている。
「……何読んでるの?」
そうしているうち、先に痺れを切らしたのはスザクのほうだ。別に沈黙が気まずく思ったわけでもなく、構ってもらえなくて退屈だっただけだ。
「井伏鱒二」
「渋っ!」
その証拠にと、本に掛けてあったカバーを外して背表紙を見せてくれた。そこには確かに、日本人にとっては著名な小説作家の名前が印字されてある。
「山椒魚だっけ。岩から出られなくなった山椒魚が蛙を閉じ込めちゃう話」
「ああ」
岩屋を寝床にしていた山椒魚はある日、自分の体が大きくなりすぎて出られなくなったことに気付く。山椒魚は岩屋の外で自由に動き回る水すましや蛙の姿を見て啜り泣く。やがて悪党になった山椒魚は、岩屋に飛び込んできた蛙を閉じ込めて、二匹は口論を続ける。そうして数年経ったときにはもう、蛙は空腹で動けず、死を待つのみだった。今お前は何を考えているんだと山椒魚が問うと、蛙は、今でも別にお前のことは怒っていないんだと答える。
「どんなに仲が悪くても情が生まれちゃうってことかな」
「蛙は最初から同情していたのかもしれない」
「優しいね」
「山椒魚からすればそのほうが救われる」
ルルーシュはそう言って薄く笑うと、静かに本を閉じた。
山椒魚からすれば救われる。結果的に死を招いてしまった原因が自分であることへの罪悪感が、少しは薄れるということだろうか。岩屋の主に感情移入をして読んだことがないから、スザクにはルルーシュの言わんとすることの意図が掴めない。
「ていうか日本人作家の小説、読むんだね」
だから敢えて話題を変えた。読書感想はスザクの最も苦手とすることのひとつである。
「枢木はブリタニア人作家の小説を読まないのか」
「よ、読むけど」
「ならそれと同じだ」
スザクが言いたいのはそういうことではない。”日本人の作ったものはブリタニア人より劣っている、下品である”。ブリタニア帝国の教育方針はそんなところだ。幼い頃からそう教育されてきた彼らは自然と日本人作家の小説を蔑み、嫌って育つ。その実、このアッシュフォード学園の国語教科書に載っている作品は全てブリタニア人作家のものである。決してブリタニア人たちを批判したいのではなく、そういう偏った教育を施そうとする国の方針こそが諸悪の根源なのである。
「何か難しいことでも考えてただろう」
「な、なんで」
概ね彼の予想は的を得ている。言い訳ができないほど見事に図星を突かれてしまって、思わず声が上擦った。
「何となくそう思っただけだ」
ようやく本から外れた紫の視線は、真っすぐとスザクを見据えた。口元はゆるく弧を描き、まるで悪戯が成功したみたいな、ちょっと悪い顔をしている。
たぶんそれは、先ほどの発言がルルーシュの当てずっぽうで、なのにスザクの意表を突くことができたから楽しいんだろう。案外食えない性格だと思った。
翌日もスザクが生徒会室にやってくると、ルルーシュはまた一人ぼっちで本を読んでいた。彼はこの生徒会における図書委員かと突っ込みたくなる。
ルルーシュいわく、週末に迫る己の歓迎会のために、生徒会のメンバーは準備をしているとのことだった。クラブハウスの講堂を貸し切って大々的に行われるそうで、今日は会場の設営や飾りつけをしているらしい。放課後に生徒会室がもぬけの殻だとサボタージュ認定されるそうで、つまりルルーシュはアリバイ作りのために配置されたのだ。
「君はそれでいいの?」
「話し相手もいるし、俺は別にいい」
この場合の話し相手というのはスザクのことだろう。
そもそもこれから行われる歓迎会のネタバレをルルーシュは率先して行っているが、それでいいのだろうか。
「俺を留守番にして枢木の話し相手にさせた会長が悪い」
物分かりのいい振りをして、やはり留守番させられていることを根に持っているらしかった。
「これか? 太宰だ」
今日は何を読んでるの。そう尋ねると返ってきたルルーシュの回答である。相変わらずチョイスが渋い。学校の教材でもなく、いわゆる文壇作家の小説を率先して読むブリタニア人高校生などそうそう居ないだろう。
「人間失格?」
「いや、斜陽だ」
スザクの記憶が正しければ、それは確か、没落していく上流階級の人々を描いた作品だ。自分だったら、ワクワクするような冒険やファンタジーの文章を読みたいと思う。
「お前は本を読まないのか」
「読む習慣ないなあ。勉強も」
スザクはそう言って苦笑いを浮かべた。小学校は途中で行けなくなって、それから学校というもの自体から無縁の生活を送っていた。今更高等教育の学問を叩き込まれても、右も左も分からない。四則計算もまともにできない人間に因数分解が理解できるはずがないのだ。今は空いた時間で少しずつ中学生向けの計算ドリルを埋める生活をしている。
「君は勉強、得意そうだもんね」
授業毎に行われる小テストで、スザクは半分も点数を取れていないのに、彼は涼しい顔をして満点を取っていたりする。学校ではそういう素振りを見せないが、帰寮してからは自習勉強を怠っていないのだろう。
「いや……教科書を読めば何となく分かるから」
ルルーシュは本当に頭が良いタイプの人だった。スザクにしてみれば教科書なんて書いてあることがちんぷんかんぷんで目が滑りっぱなし、理解しようにも文章自体が難読だ。人間で初めて数字をアルファベットに置き換える計算式を編み出した人に、恨み言のひとつでも送ってやりたい。
「分からないことがあれば、俺で良ければ教える」
「本当!?」
「課題は手伝ってやれないけどな」
そういえば今日も課題未提出のペナルティとして、追加課題が彼には課せられていた気がする。必要最低限の労力で結果を出すのがルルーシュのやり方らしいが、それでは本末転倒のように思う。
ルルーシュは穏やかに微笑みながら、再びページを捲った。桜色の爪をした指先が本の角を撫でるのを、スザクは何の気なしに見つめた。
「そういえばお前、寮の部屋はもう片付けたのか」
思わぬ方向からの質問に、ほんの少し心臓が跳ねた。
無意識のうちに見つめていたのが、バレたのかと思った。
「いいや、それが全然」
「案外だらしない奴なんだな、お前」
どんな風に思われていたんだろう。真面目そうとか几帳面に見えるとは言われたことがあるから、そういう類のイメージを持たれていたのかもしれない。スザクはこれまで幾度となく言われた言葉に、笑って返した。
「自炊や洗濯は?」
「下着とシャツだけは洗ってるけど、自炊はまだ出来る状態じゃないや」
特派から送られてきた通称”一人暮らしセット”には小さな炊飯器や鍋、まな板と包丁といったキッチン用品もある。だがそれらはまだ日の目を見ることなく、段ボールの中で眠らせたままだった。我ながら怠慢である。
「食事はどうしてるんだ」
「コンビニとかで、その……」
「お前なあ」
全くもって情けない話である。まだひと月も経っていないのに、寮暮らし数日目でこの体たらくだ。
本から視線を持ち上げたルルーシュが、剣呑とした表情でじっと見つめる。呆れて物も言えないといった表情だ。ちくちくと刺さる鋭い視線が、スザクの弱い部分を遠慮なく攻撃する。謝るべき相手は彼じゃないのに、心の中で何度もごめんなさい、と謝罪を繰り返したくなった。
「うちに来い。何か食わせてやる」
斜め上の提案に驚く暇もなく、連れて来られたのはルルーシュの暮らす寮――ではなく、クラブハウス横にある屋敷であった。
「ここは……」
「俺と、俺の妹と、使用人が間借りしている。ちょっと訳ありなんだ」
話によると、この学園を運営するアッシュフォード家とルルーシュの家は昔から縁があるそうで、相手方のご厚意によりこの屋敷を借りて住んでいるそうだ。
学生専用の寮は学園とは少し離れた棟にあるが、ここなら学園と目と鼻の先の距離だ。通いやすさや広さでいえば、圧倒的にこの屋敷の方がワンランク上だろう。
ルルーシュに言われるままついてきてしまったが、果たして本当に良かったのだろうか。ルルーシュの背中の後ろで縮こまるスザクに、彼は遠慮しなくていい、と声を掛けてくれた。
一応学園の敷地内にあるが、その景観はごく普通の一戸建てにしか見えない。窓から漏れるオレンジ色の明かりから察して、彼の帰りを待つ人がここには居るのだろう。門に表札こそなかったが、一般的な一戸建てそのものである。学園内にこんな建物があるなんて、なんだか奇妙で不思議だ。
「ただいま咲夜子さん」
「おかえりなさいませ」
彼が玄関のドアを開けると、その先に待ち構えていたのは使用人と思われる女性だ。ルルーシュは学生の御身分にも関わらず、金を払って雇っているのだろうか。それとも、使用人が居るのもアッシュフォード家のご厚意、というやつだろうか。
洋風のメイド服を身に纏っていた彼女は恭しく頭を下げると、ルルーシュの背中に隠れていたスザクの存在にも気が付く。
「彼は友達だよ。俺の家で夕飯を御馳走してやろうと思って」
「ど、どうも、お邪魔します……」
正直なところ、スザクはこうして人の家に上がった経験が殆ど、いや記憶には一度もない。記憶にある幼少期といえば、習い事通いか外で走り回っていたかの二択だ。家に籠って遊んだり勉強をした経験が皆無に近い。他人と食事を摂るときも、家柄のせいか招待されるより招待するほうが多かった。
だから年甲斐もなく、ひどく緊張していたのである。もう十七歳になるというのに、人の家にお邪魔するだけで汗と動悸が止まらない。失礼なことはしていないだろうか。手土産など要らなかっただろうか。
「こんばんは、初めましてご友人様。どうぞお上がりください。すぐに支度致しますので」
咲夜子と呼ばれた使用人は、スザクのそんな心境を知ってか知らずか、丁寧にもてなした。
彼女を先頭にしてルルーシュとスザクが付いて行くと、ほどなくして廊下の先に食卓が見える。テーブルの周りには椅子が四つ置かれ、続くキッチンからは食べ物の匂いが漂っていた。
「本当に良かったの? その、迷惑じゃ……」
「俺が良いと言ってるんだから良いんだ。客は大人しく座って、もてなされていればいい」
ルルーシュはそれだけ言うと、キッチンのほうへ姿を消してしまった。
俺も手伝うよ、と話し声が聞こえる。ややあって流水音が流れて、食器洗いの手伝いをしているんだろうかと察しがつく。クールに見えて分かりやすく、ぶっきぼうに見えて思いやりがある。見た目や所作から伝わるイメージと正反対な中身に、スザクは本日数度目の拍子抜けをした。
「あら、お客様ですか?」
居間から顔を出したのは見知らぬ少女であった。
電動車椅子に乗った彼女は目を伏せたまま、スザクのほうへ近寄ってくる。
「ルルーシュくんの、……クラスメイトです」
「まあ、お兄様のご友人様なのですね」
彼との関係性を何と表現したらよいか分からなかった。が、彼女の発言によって”友人”と書き改められる。そういえば先ほど玄関で咲夜子と出会った際も、ルルーシュは己のことを”友達”と呼んでいた。
「私は妹のナナリーと申します」
「僕は枢木スザクです。宜しく、ナナリー」
スザクはおもむろに、膝に置かれていたナナリーの手の甲に触れた。そのまま手のひらを合わせるようにして握ると、彼女は少し驚いたような表情を見せる。が、ややあってその意図を察したのか、彼女は柔らかく微笑んだ。スザクさんはお優しい方なのですね、と賛辞の言葉を添えながら。
ナナリーはどうやら目が見えないようであったから、スザクは敢えてそうしたのだ。目と目を合わせて挨拶ができない代わりに、握手をした。日本ではよく見られる挨拶の方法であるが、この国ではそういった風習がない。
「二人とも、夕飯の用意ができたよ」
そう声を掛けてきたルルーシュの手には、湯気の立つプレートが乗せられていた。ちょうど四人分の食事を運べば、ようやく夕食の時間である。
薄味で味付けされた魚の身は口に入れた瞬間ほろほろと蕩け、ほのかに甘い。粒の立ったライスも、ちょうどいい塩辛さのコンソメスープも、どれも絶品だ。
「今晩は鱈のムニエルなのですね」
「枢木様のお口に合えばよいのですが……」
「とても美味しいですよ、有難う御座います」
ちょうど四人分の椅子が用意されてあったダイニングに四人分の食事を並べて、みなで顔を合わせながら時を過ごした。こんなふうに誰かと一緒に夕飯を摂るなんて、いつぶりだろう。スザクはどれだけ幼い頃の記憶を遡っても、このような経験は無いに等しかった。
少しゆっくりしていかないかと誘われて連れて来られたのは、ルルーシュの自室であった。
この屋敷は見た目だけでなく、その内装もごく普通の家屋と全く同じ造りをしていた。玄関があって、それに続く廊下、そして台所と居間。階段を上がれば住人の数だけ私室がある。学生専用の寮といえば台所とリビング、そして小さな部屋がひとつという、いわゆる1DKの間取りが普通であった。一般の生徒らが使う寮より圧倒的広い間取りであったが、彼の家庭環境を見ればその理由もおのずと見える。
ルルーシュの妹であるナナリーは幼い頃から目と足を患っていて、車椅子が手放せない生活を余儀なくされていた。一人暮らしはおろか、ごく一般用の寮の間取りでは車椅子での生活はままならないのだ。アッシュフォード家はその事態を鑑みて、ルルーシュたちにあの屋敷を貸し与えているのだろう。
「君の部屋、すっごい綺麗だね……」
「言うほどか?」
ルルーシュに通された私室は掃除が行き届いた、モデルルームかの如く整理整頓されている空間であった。本棚に並べられた書籍は大きさから巻数まできちんと揃えられているし、テレビ台には埃が見当たらない。ここまできちんとされ過ぎていると、かえって息苦しくなってしまいそうになるのは、単に己の性格がずぼらなせいだろうか。
「別に普通の部屋だろう」
決してこの男に今の自室の惨状を説明してはならないと、スザクは心に誓った。下手すれば不潔男と罵られ、嫌われるかもしれない。
それでリヴァルの奴、なんて言ったと思う?
あはは何それ、信じらんないや。
ルルーシュはスザクがアッシュフォード学園へやってくる前の話を、面白おかしく話してくれた。ミレイ会長が主に訳の分からない学園行事を行って、毎回被害を被るのは自分であるのだと彼は主張する。シャーリーやリヴァルは面白い物好きだから大抵ミレイに便乗するし、カレンだって彼らの悪巧みには協力的だ。ニーナはみんなが楽しければ私も楽しい、と日和っているし、結局俺に居場所がなくなる。そんなエピソードを恨めがましくも、どこか大切そうに語る彼の横顔は穏やかであった。
「笑っていられるのも今のうちだぞ。枢木もすぐ、会長のおかしな思い付きに巻き込まれる」
「それは楽しみだな」
ふふふ、と口から漏れる笑い声を抑えることなく、スザクは笑った。
「お前、笑ってるほうがいいよ」
「え?」
「教室で暗い顔してばっかより、枢木は”こういう顔”のほうが似合う」
こういう顔、と言いながらルルーシュはスザクの頬を軽く抓り上げた。
にやりと歪む口元が、まるで悪人のようだ。指先の圧は十分手加減されていたが、それでも痛いものは痛い。
「なにひゅるんらよ」
「あはは、変な顔」
君がそうしてるからだろう。スザクはそう気持ちを込めて、目の前の男を睨んだ。
「ごめんごめん。痛かったか?」
睨まれた男はわざとらしく眉をハの字に下げて、平謝りをした。抓られていた頬は解放されたが、代わりに彼の指先が抓られていた皮膚を労わるように撫でた。
別にあれくらい痛くも痒くもないが、スザクもわざと拗ねたような表情を作ってみせた。このままルルーシュに遊ばれるのはなんだか癪だと思ったからだ。そんな風に優しくされたって、僕はそう簡単に靡かないんだから。そういう気を込めて、そっぽを向いた。すりすりと頬を撫でてくる指先が擽ったくて、じれったい。
「……」
長い指先は耳や米神をまさぐるようにして動いて、擽ったい。スザクがこくりと喉を鳴らしたタイミングで、ルルーシュが口を開いた。束の間二人の間に漂っていた形容しがたい空気が、一気に霧散する。
「スザクって呼んでもいいか?」
「……いいよ、ルルーシュ」
今更どうしてそんなことを、彼はわざわざ伺い立てるのだろう。
不思議に思ったスザクはお返しとして、彼の名前を初めて呼んでやった。
「有難う、スザク」
名前を呼ばれて視線を上げると、紫の双眸がこちらをじっと見つめていた。いつからこちらを見ていたんだろう。
その視線は何とも言えない熱や感情を纏っていた。愛しいものを見つめるような、大切なものを見守るような、手に入れたいものを射抜くような。
「ルルーシュ……?」
頬を撫でていた指先はするりと輪郭をなぞって、顎に辿り着いた。冷たい爪先が何かを伺うように、唇の下へ触れる。意思を持った指の腹は顎の下を擽って、スザクの気を油断させる。
あ、と思う頃には一歩遅かった。接触はあまりに一瞬で儚く、刹那的だった。
ルルーシュの唇が少し触れて、遠ざかる。たったそれだけだった。
「夜遅くまで、お邪魔しました!」
ばくばくと高鳴る心臓がうるさい。鳴り止め、収まれ、落ち着けと念じれば念じるほど、体は本人の意に反して高鳴りを増してゆく。飛び出すようにしてルルーシュの屋敷から抜けて、一目散に自身の寮に戻った。振り返る勇気も度胸もなかったから、ルルーシュが見送りに来てくれていたかどうかさえ分からない。
唯一部屋で組み立てられていたベッドに飛び込むと、全身じっとりとかいた汗が衣服に張り付く感触がした。乱れた息はしばらく落ち着きそうにもなく、ぜえぜえと肩で呼吸を繰り返していた。
ふと冷静になりかけた頭で先ほどの出来事を思い返そうとすると、途端に叫び出しそうになる。もう夜遅くだ。そんなことをしたら近所迷惑も甚だしい。翌日には先生たちに呼び出されてこっぴどく叱られるのが関の山である。
少しでも頭と体の熱を冷ましたくて、窓を開けてみた。まだ春の初めの季節である。昼間はぽかぽかとした気候でも、夜風は肌に当たると少し冷たい。しかし今の火照った体には、その冷たさがちょうどいい。
「ルルーシュ……」
おもむろに名前を呼んでみると、まるで砂糖菓子をどろどろに溶かしたみたいな、甘い囁き声になってしまった。あまりの恥ずかしさで枕に顔を埋めたが、状況はなにひとつ変わらなかった。火を噴くんじゃないかってくらい、顔も耳も首も熱い。どうしようもないくらい、心臓のドキドキが収まらない。
「……ルルーシュ」
もう一度その名を呼んでみると、今度は湿っぽくて生ぬるい声が出た。違う、これはそういうんじゃない、違うんだ。心の中で誰かに向かって全否定してみた。
彼に触れられていた頬はまだ熱を持っていて、あの生々しい指の感触をまだ覚えていた。その動きをなぞるように自らの指で触れると、胸が抉られるほどの高鳴りを感じて、首を振った。
違う、これは違う。
夜風に当たる頬は少し冷たくなっていって、スザクはゆっくり目を閉じた。せめて夢の中にルルーシュが出てきませんように、と切実な願いを唱えながら。
週末であった翌日、スザクの歓迎会が盛大に行われた。飾り付けられた講堂に、全員全力で取り掛かっても食べ切れるのかというほどの料理がずらりと並んでいる。余った料理は持ち帰っていいとのことで、寮生活をしている面子は大喜びだ。
「良かったんですか? こんなに色々してもらって」
少し遅れてやってきたミレイに、スザクは駆け寄ってそう尋ねた。生徒らだけで行われる会だということで、もっとこじんまりとしたものだと思っていたのだ。自分一人にここまでしてもらわなくても、と思わず恐縮してしまうほどには手が込んでいる。
「モラトリアムは今しかないのよスザク!」
「もら……?」
「子供で居られる最後の期間よ。羽目を外してお目こぼしを貰えるのは今だけ。楽しまなきゃ損でしょ?」
「は、はい……」
それはスザクのための会というより、各々が馬鹿騒ぎしたいだけの会とも言える。つまりは歓迎会など名目に過ぎないのだ。これはあくまで歓迎会だから、と言い訳しながら経費に充てがうための請求書を切ったのだろう。何というか、揃いも揃ってちゃっかりしている。
「ほらスザクくん! ぼーっとしてるとケーキなくなっちゃうよ!」
紙皿にカットケーキをひと切れ乗せたシャーリーが、そう話し掛けてくる。生クリームを纏ったスポンジケーキにはふんだんに苺が乗せられ、これ以上ないくらい贅沢な一品だ。
「わ、美味しい。いいお店を知ってるんだね」
「お店? それはルルーシュが作ったんだよ」
「ルルーシュが!?」
無知であったスザクは、そもそもケーキを手作りできるという事実に驚いたし、それをルルーシュがやってのけたということにも驚いた。
「料理とか家事全般はできるらしいよ。ナナちゃん…妹もいるしね」
確かに彼は器用そうに見えるから、そう言われると納得できないこともない。以前彼の部屋で過ごしたときはそういう話は一切出なかったから、スザクは意外な一面を初めて知った。
それを踏まえると、寮の部屋を片付けていないだとか自炊をしていない話をスザクがしたとき、ルルーシュがひどく驚いたことにも頷ける。彼は自分で何でもやってのけてしまうからだろう。そしてそれが当たり前だとも思っているかもしれない。
「意外だけど、でもなんか分かる気がする」
そう言いながら、スザクはルルーシュの居るほうへ視線を向けた。今はリヴァルとミレイに囲まれて、何やら楽しそうに雑談をしているようだ。くしゃりと顔を歪ませて破顔するさまを見て、ルルーシュもそういう顔できるんだ、と他人事のように思った。
「あ……」
スザクの視線に気づいたのだろう。今一瞬、ルルーシュがこちらを見た。
「スザクくん?」
「ううん、何でもない」
シャーリーの不思議そうな目が、スザクの様子をじっと捉えた。何でもないよ、と首を振ると、彼女はそっか、とだけ言い残して、真っ赤な苺にフォークを突き刺した。