千年騎士 四章

 どこからか甘辛い匂いがほのかに漂ってくる。歩き慣れた地下の廊下に流れるそれの源を辿るように、歩を進めた。
 そうすると行き着いたのはやはり、突き当りにある扉──特派の研究所に繋がる扉であった。
 この扉には生体認証のロックがかかっている。だからその先へ入るにはこの研究所の関係者、もしくは誰かの紹介なくしては入室ができない。国家の軍事機密情報が、この奥には無防備に山積みされているからである。
 スザクも最初こそジノとアーニャの紹介で、ここを訪れた。今では指紋と網膜、顔認証の登録は済ませてあるが、呼び鈴を鳴らしてようやく入室を許可されたことは記憶に新しい。
 枢木スザクの配属は一般名誉ブリタニア人兵士から、特派へと完全に移されることになった。配属が変わるということは上司ももちろん、一日のスケジュールから仕事の内容、細かく言えば朝の起床時間から就寝時間までガラリと一変するのだ。
 スケジュールが変わるといえど早寝早起きは当然、食事の時間や休憩の始めと終わりまで、分刻みで統制されるのは変わらないだろう。十歳の頃から兵士として休みなく働き続けてきたスザクにとって、それが当然の認識だった。
 だがこの特派の仕事内容は軍部でもかなり特殊な立ち位置らしい。具体的に言えば、主任のロイドが”今日はこれで仕事おしまい”と宣言すれば、それで解散なのだ。まったくもって型に捉えられない、自由奔放な上司と働き方である。言い方を変えればちゃらんぽらん、ということだ。
 はじめは驚きこそしたが、そういうことは三度、四度あればスザクでも分かってくる。それが一年、二年と続けば、これがこの人のやり方なんだと割り切ることも覚えた。
 そうしてどこか締まりのない、良い言い方をすれば穏やかな特派に配属されて四年目の夏。スザクは十六の誕生日を迎えようとしていた。

 生体認証でロックを解除し研究所内に入ると、どこからか香ばしいような、甘辛い匂いがさらに増していた。やはりこの匂いの源はここだったらしい。
 実のところスザクは、”それ”が自分の与り知らぬ水面下で進んでいたことに、薄々気づいていた。わずか三年半、されど三年半である。それだけの時間、同じ空間で過ごしてきた人たちのことだ。いつもと違う様子だったり挙動に違和感に感じることくらい、すぐに分かる。
 それでもスザクが敢えて知らない振りに徹していたのは、自分のためにこうして動いてくれている人たちの気持ちが嬉しかったからだ。自分を喜ばせようと、驚かせてくれようとしている。そんな気持ちを無碍にはできない。
 ラボの中に人影は見当たらない。しかし相変わらず漂う匂いの根源に鼻を動かしながら歩いていると、部屋の奥からひょっこりとセシルが顔を見せた。
「今日はセシルさんだけですか?」
 薄々察していたが、スザクは何にも気づかない振りをして、それとなく尋ねてみた。もう出勤時間のはずなのに、ラボ内にはセシルの姿しか見当たらない。こういうことは別に今日が初めてでもないから、スザクも特段違和感も覚えない。
「いいえ、そうじゃないの。……みんな、準備はいい?」
 彼女は堪え切れない笑みを口元に湛えながら、そう叫んだ。”みんな”って、どこのみんななんだろう。

「それじゃあ、せーの!」
「スザク、誕生日おめでとう!」
「僕はあんまりこういうの似合わないけど?、おめでと?!」
「……おめでとう」
 セシルが合図を取った瞬間、物陰に隠れていた彼らが顔を出した。ロイドはともかくとして、なぜかジノとアーニャまでいる。ぱんぱんというクラッカーの破裂音のあと、三者三様の言葉で祝われた。スザク、誕生日おめでとう、と。
「……スザク、泣いてる?」
「えっまじで?」
「なっ泣いて、なんか……」
 セシルやロイドが何やら自分に隠して画策していることは、何となく感じていたのだ。スザクにとってそれは予め予測可能だったサプライズパーティーだった。でも、いざこうやって祝われて、温かい言葉を貰えると、不思議と目の奥がツンと熱くなる。人より涙もろい質であることは自覚していた。それでも堪え切れなかったのは、三年半もの年月、ここまでスザクを支えてくれた張本人たちだからではなかろうか。
「私たちじゃそんなに豪華なものは用意できなかったけど、じゃーん!」
 セシルが持ち出してきたのは移動式のワゴンテーブル、に乗せられた豪勢なオードブルとケーキだ。廊下までほのかに漂っていた匂いの原因は恐らく、オードブルの肉やソースの類だろう。
「安心してスザクくん。作ったのはジノくんとアーニャくんで、セシルくんは一切関わっていないから」
 ロイドはスザクにそっと耳打ちすると、引きつった笑みを浮かべた。どうやら、彼女を調理場から遠ざけようと尽力したのは彼であったようだ。影の功労者とも呼べるロイドに、スザクは心の中で賛辞を送った。
 セシルは壊滅的に料理が、否、マッドサイエンティスト的な一面を料理で発揮する。スザクが初めて口にした彼女のジャム入りおにぎり以来、彼女の手料理を密かに敬遠しているのはロイドとの秘密だ。ちなみに、スザクが特派に配属されるずっと前から彼女と共に働いていたロイドは、既に何度も彼女の地雷で満身創痍だそうだ。

「スザク、見てみろ! ケーキもあるぞ、ローソクも十六本!」
 ライターで一本一本に火を灯しながら、ジノははしゃいだ声を上げた。一応これはスザクの誕生日を祝う場であるが、主役以上に大喜びしているのがこの男である。
「僕こういうの初めてなんですけど、ええと」
 ケーキの上でゆらゆらと揺れる灯火とジノの顔を見比べるスザクは、まるで迷子の子供のように視線を惑わせた。他人のホームビデオでよくあるこの光景だが、実のところその作法は知らない。なんせ、他人にこうして誕生日を祝ってもらった記憶がない。
「私たちがスザクにハッピーバースデートゥーユーを歌うから、そのあとにお前が息でローソクの火を消すのさ」
 その後、ジノの合図と同時に四人は声を合わせて歌を贈った。決して上手いとは言い難い歌声だ。個々人の個性が突出し過ぎていて、悪い意味で歌声に協調性がない。だがその歪で不器用な歌声が、自分たちの不思議な縁だったり関係性を表しているようにも思えた。お互い好き勝手、全くもって纏まっていないように見えて、実は相手のことをきちんと見ているのだ。
 歌が終わったあとローソクを消せば、慣例の儀式は終わりだ。ローソクの煙がたゆたう中、各々がささやかな拍手を贈った。
 ホールケーキを切り分け、そしてメインディッシュであるオードブルにありつこう。一同がそんな流れになったとき、遮るようにして声を上げたのはロイドであった。
 彼はいつもの白衣のポケットから、一枚の白い封筒を取り出し、それを高々と掲げた。彼らしからぬ行動はみなは目を見合わせ、首を傾げる。ここにいる誰もが彼の台本を知らないらしい。本当の意味でのサプライズだ。
「枢木スザクくん、僕からの誕生日プレゼントだ。ありがた?く受け取って」
「これは……」
 さっそく手渡された封筒の封を切ると、中には折りたたまれた紙が一枚。他の三人もスザクの手元に興味津々で覗き込んだ。
「枢木”准尉”、昇進おめでとう?!」
「准尉……」
「昇進!? まじで!?」
「すごいじゃない、スザクくん!」
 手元の紙を広げると確かに、そこには准尉へ昇格の報せが記されていた。正真正銘、ブリタニア帝国から公布された命令である。
「スザク、スピード出世だな!私たちが普通列車とすれば、スザクは特急列車だ」
「リニアモーターカーかも」
 何かの間違いじゃないかと、スザクは何度も紙面の文字を読み返した。だが何度文字をなぞっても、書いてある文言は変わらなかった。無階級から、准尉へ昇進。その事実だが無機質に、端的に記されてある。
「すごく嬉しいです。嬉しいんですけど、でも……」
「どうしたの、スザクくん」
 祝福ムードの真ん中で表情を曇らせるスザクへ真っ先に声を掛けたのは、セシルであった。
「これは特派のみなさんが開発してくれたランスロットのおかげであって、僕の実力じゃない感じがして、手放しに喜んでいいのか……」
「スザク、真面目過ぎ」
「あっ、アーニャ…」
 考えすぎなのは重々分かっている。だがどうしても、素直に喜ぶことができなかった。自分より適任のパイロットがいるんじゃないか。人殺しは良くないと言いつつ、前線で戦う矛盾した自分には相応しくないんじゃないか。功績をあげた名誉ブリタニア人といえど、中身はイレブンと相違ない。そんな自分が、どうして。
「スザクくん。初めにも話したと思うんだけどね」
「は、はい」
 セシルはゆっくり慎重に、言葉を選びながら話をしてくれた。いつにない真剣さに、スザクの背中も自然と伸びる。
「ランスロットはサクラダイトを動力源としてる。おかげで従来機より、機動力やパフォーマンスは格段に改善された。でもひとつ大きな欠点があるの」
「パイロットへの、身体的負担…」
「そう。機動力が上がったおかげで、パイロットへの重力、Gの負担が格段に上がった。でも、それだけじゃない」
 セシルはかぶりを振って、スザクの目を見た。
「複雑な操縦技術と身体能力、平衡感覚や動体視力、体を操るセンス……並大抵の兵士が一朝一夕で鍛えられるものじゃない。私たちが求めていたのは即戦力となるパイロットよ。つまり、最初からそれらを併せ持った適合者を見つけなきゃいけなかった」
「僕たちがスザクくんを選んだんじゃなくてねえ、ランスロットが君を選んだんだよねえ。きっとそうだよね、セシルくん?」
 ロイドが間延びした声で、そう語りかけた。
 ランスロットが僕を選んだ?
「きっとそうですね。スザクくんはランスロットに選ばれた。あなたの称号は間違いなく実力で得たものよ。だから胸を張って、誇りに思いなさい」
「ランスロットが、僕を……」
 ラボ内に置かれているスザクの愛機は白い鉄面皮を今日も崩さず、そこに鎮座している。多くの死線激戦をくぐり抜け、時にはパイロットの実力不足で自慢の装甲に傷を負わせたことも、数え切れないほどある。それでもこの白騎士はスザクを主人として認め、スザクの手足になり共に戦ってくれた。
「ありがとう、ランスロット」
 鉄の白兜は何も語らず、荘厳な鈍色の光を反射させるだけだった。



 目を回すほどの乗換案内の掲示板、折り重なりすぎてもはやよく分からない路線図、魚雷のように向かってくる人々の波。息遣い、喧騒、足音、何もかもスザクが経験したことのない情報量であった。
 地下鉄風に煽られ、けたたましい発車ベルに肩を跳ねさせ、出口案内の看板と矢印の方向に惑わされ、ようやく辿り着いた。エリア11の文化・政治・経済の中心である、トウキョウ租界のメインストリートだ。
 人をかき分けようやく地上に出ると、今度は巨大電光掲示板と見渡す限りの人混み、そして行き交う数多の自動車の群れが、スザクを歓迎した。既に地下でコンクリートジャングルのとてつもない洗礼を受け続けてきたから、精神的な疲労感は限界に達していた。慣れない土地に慣れない景観、知らないものに溢れ過ぎている。視覚情報を整理するだけでも一苦労だ。

 十歳で日本軍の少年兵を志願し、十六になった今では数奇な縁もあってブリタニア軍人として、毎日あくせく働いている。この六年もの間、スザクはろくに外の世界を見たことがなかった。
 もちろん仕事柄、とくに特派へ異動が決まってからは要請があれば全国各地を飛び回る生活をしている。先日は四国へ赴いて武器密輸をしているグループの摘発をしたし、その後は武力抗争が根強く残っている京都で、解放軍のアジトのひとつを叩いた。しかし日本解放軍とブリタニア国軍の攻防戦はもはやトカゲのしっぽ切りといった様相だ。叩いても叩いても残党だったり新勢力が現れ、そのたびに出征要請が下る。日本軍のしぶとさだけは世界一だと誰かが揶揄していたが、全くもってそのとおりだ。
 そんなこんなで各地の戦場に赴くことは数あれど、こうした国民の居住空間に足を踏み入れることはまずない。歩兵や車ならまだしも、スザクはナイトメアフレームを操縦している。そういった催しでもない限り、人口密度の高い土地に出征要請が出ることはあり得ない。

 つまりスザクはこの六年間、都会に近寄ったことすらなかった。基本的に休みはなかったし、たまの休暇が与えられても勉強か鍛錬、一日寝て過ごす、うちのいずれかだった。
 映像や写真で目にすることはある。ニュースだって見るから、今トウキョウはこんな風になっているんだ、と知ることもある。だがその空気を実際に吸って、肌で感じたことはなかった。
「なら行ってきたらいいんじゃない?」
 そう軽々しく口にしたのは特派の主任兼スザクの監督官でもあるロイドであった。
 誕生日と昇格祝いに宛がわれた休日に、日にち指定の往復切符。それらをセシルに押し付けられれば、断る術が見つからなかった。一日くらい肩の力を抜いて、リフレッシュしてきなさい。彼女はそう言って、休みを取りたがらないスザクの背中を押した。

 曇り一つないガラスの中には飾り付けられた床や壁があって、その中に衣服を着せられたマネキンが置かれている。どのガラスの中身も凝った展示をしているのに、行き交う人々は興味も示さない。誰に見られることもないのに飾り立てられたマネキンたちが、少し滑稽で、可哀想に見えた。
 見上げれば巨大な電光掲示板が、色とりどりの映像と音声を流している。周囲の人たちは物言わぬマネキンよりもそっちのほうに注目するらしく、たくさんの人が頭上を見上げていた。
 人混みの多い表通りを少し抜けて高架下を歩くと、小さな飲食店が所狭しと立ち並んでいる。全体的に若い人が多い印象だが、スーツを着たサラリーマンらしい人もちらほら見かける。
「君、道に迷ってるの?」
 赤信号の歩道の前で地図を凝視していたスザクに、隣を通りかかった男性が声を掛けた。中年くらいに見えるその男性は無精ひげをたくわえて、ラフな服装で自転車に乗っている。近隣に住む人だろうか。
「地図見せてごらん」
 そう言われて思わず地図を手渡せば、彼はうんうんと唸って紙をくるくる回し始めた。
「君が立っている位置からだと、地図の向きはこう。で、目の前の道を真っすぐ歩くと郵便局があるから、そこを左に曲がって。二十分くらい歩けば着くんじゃないかなあ」
「あ、有難う御座います…」
 初対面だというのにずいぶん親切な人だ。スザクは驚きつつも礼を述べた。
「このへん道に迷う人が多いからね。気を付けていってらっしゃい」
「はい、いってきます」

 スザクがこのトウキョウの地上に降り立ってまず思いついた場所は、ひとつしかなかった。六年前に行われた日本国とブリタニア帝国で行われた本土決戦で、最も被害が甚大であった土地。戦争法に守られた租界の外側の世界、そこはまさに地獄と形容できた。終戦直後にスザクがその地を訪れた際、死体の腐敗臭と血液、膿が濃縮された悪臭と、蠅や蛆にまみれた土が強烈なショック体験をもたらした。ぬかるんだ地面は全て血と肉片で出来上がっていて、歩くたびに嫌な音と臭いが五感を襲った。
 そんな地獄に案内してくれと、一人の少女がせがんできたこともよく覚えている。自らをユフィと名乗った少女は美しい靴と服に身を包み、艶やかな髪の毛を靡かせ、手入れの行き届いた血色のいい頬をしていた。租界の中で戦争を知らずに今日までぬくぬくと暮らしていた、日本国の敵。正真正銘、ブリタニア人だった。
 彼女は日本人の死体の山を見て涙を流すことも、怒り狂うことも、嘲笑うこともしなければ、ただ毅然とした面持ちでその光景を眺めていた。凛とした横顔は憂いとも憐れみとも形容できない、何かの覚悟に満ちていた。
 日本が好きだから、一度見ておきたかった。ユフィはその地に赴きたい理由を尋ねられて、そう答えていた。
 ブリタニア人といえば、日本人を負け犬だ、自分たちより劣っていると見下し、貶し、そして自分たちが優位であると誇張して憚らない。日本軍在籍時代は、軍人学校でそう教わってきた。だがユフィは、ブリタニアに惨敗した日本を笑わなかった。捨て置けばいい猫の命ひとつに、スザクを巻き込んでまで救おうとした。
 優しさは弱さでなく強さであった。彼女は腐敗臭の漂う死地でも毅然とした態度で立ち続け、目前の惨状に目を逸らさなかった。思いやりはただの情けでも偽善でもなく対話だ。恒久的な平和を願う彼女は思いやりと優しさをもってして、人種の壁を超えて、スザクと接した。日本兵であるスザクに怯えるでも差別的なわけでもなく、まるで隣人のように振る舞った。
 だからスザクはブリタニアが悪だと、頭ごなしに否定することがきでなかった。土地と人を焼き尽くされた光景を見てもなお、ブリタニア人を嫌いにならなかった。ブリタニアの国そのものを否定すれば、あの日出会った心優しい少女のことも否定することと同じになってしまう気がして、恨むことができなかった。
「ここが……」
 トウキョウの中心部から少し離れたこの地域が、恐らく六年前、戦火によって地獄と化した場所だ。道も舗装され、新しい建物や住宅が立ち並び、そこはまるで異世界のようであった。戦後急速に近代化したエリア11を象徴するような、壮観な光景だ。
 たった六年で、ここまで人は立ち上がることができる。それを見せつけられた瞬間でもあった。何もない場所からここまでの街並みを作り上げた人たちに、尊敬の念すら感じる。
 てっきり、まだ舗装工事が終わっていないか、土を被せただけの平地が広がっているのかと予想していたのだ。この国の技術力と底力を侮っていたことが恥ずかしい。墓石のひとつでもあれば手を合わせたかったが、それも見つからない。あまりにおびただしい死者が広範囲で出たから、きりがないのだろうか。



 おい待て、追え! その男を逃がすな!
 回り込んで捕らえるぞ、挟み撃ちにしろ!
 こちらA地区、回り込みます!

 不意にどこからか轟く、銃撃戦のような激しく速い会話が耳に入る。
 聞こえた物騒な遣り取りに、職業柄のせいか、思わず臨戦態勢を取ってしまった。神経を研ぎ澄ませて、声の主たちの行方と、恐らく逃走中であろう犯人の行動を予測する。追っているのは恐らく地元の警察だろうか。無線機を使っているかのような遣り取りが目立つ。
 静かな街並みには似合わない、剣呑な雰囲気だ。小さな子供は怯えてしまうだろう。

 おい、どこに行った! どこにも居ないぞ!
 逃げ足の速い、全く器用な男だ!

 荒々しい口調のせいで追っている側が悪人のように思えてくるが、そうとも限らない。人が無意識に抱いてしまう先入観というのは厄介だ。誰が敵で味方なのか、加害者と被害者はどちらなのか。そういった判断さえも鈍らせてしまう。
 自分だって、曲りなりにも軍の人間だ。何か協力できることがあれば接触を試みて、協力を――

「っわ!」
「はっ、くそっ! 誰だ!」

 目立たない細い路地から、突然人が飛び出してきた。真っ黒の影はスザクを突き飛ばすように接触し、二人まとめて地面へ転倒した。

 恐らくスザクにぶつかってきたのであろう人物、恐らく男は、地面に蹲ってぜえぜえと肩で息をしている。一方、日頃の訓練の賜物であろうか。咄嗟に受け身を取れたスザクはとくに外傷も痛みもない。
 この状況から鑑みるに、警察に追われているのはもしや、この人物だろうか。スザクの居る場所からはその背中しか見えない。背後から回り込んで羽交い締めにして、拘束したら警察に突き出してやろう。
 そっと背中から近づいて、覆い被さろうとした。
 その時、目深に被った帽子から垣間見える耳の後ろが、ちらりと動いたのが見えた。

「あ、あれ、君」
 目深に被った帽子、やたらと白い肌、地味な衣服に、華奢な体躯。紫の瞳、長い睫毛、追われているひと。

「ねえ、君、もしかして」

 心臓がばくばくと脈打って、喉が痛いほどからからに乾く。信じられないと頭のどこかが叫んでいるが、目の前に居るのは紛れもなく、スザクの記憶にこびりついて離れない人に、ひどく似ていたのだ。
 震える唇は上手く開かないし、呂律の回らない舌は言うことを聞かない。それでもスザクは懸命に言葉を紡ごうとした。どうしても確かめたかったのだ。
 六年前の夜の答え合わせをしたい。

「すまない、今は立て込んでいるんだ」
 話をしたい。確かめたい。
 そう思った矢先、彼は不意に立ち上がり、振り向くことなくそう告げた。
「待って、僕はスザクだ! 覚えてる? 君が鍵をくれた、僕に託してくれた!」
 懐に入れてある鍵を取り出し、スザクは叫んだ。
 名前だけでもいい、顔を少し見せてくれるだけでも、自分を覚えているかどうかだけでも知りたい。せめて、この鍵を受け取ってほしい。六年間ずっと鍵の君に返すために持ち歩いてきた、もはや体の一部といっても過言ではないそれを。
 だが彼は振り返ることなく、立ち止まることも、声を掛けるでもなく、スザクに背を向けて走り去っていった。細い路地のどこかに身を隠したらしい彼の背中はすぐに見失ってしまって、足音も聞こえない。


「お前、あの男の共犯者か?」
「……え?」
「身分証の提示を要求する。それと、言い訳を言ってみろ」
 鍵の君の姿を見失い、茫然と立ち竦んでいたスザクの元にやってきたのは警察官たちであった。恐らくその警官たちも、まるで雲隠れのように姿を消した男の行方を逃したのだろう。
 腕章にはブリタニア国旗の刺繍が施されている。純血のブリタニア人だろうか。身分証は持ち歩いているが、いくら軍人とはいえスザクは名誉ブリタニア人だ。血統を重んじる本国のブリタニア人たちはとくに、イレブンや名誉ブリタニア人への差別が激しい。
「共謀罪とほう助罪が立証できるな」
「待って、待ってください、僕は!」
 鍵の君が戦前、日本国の憲兵に思想主義者として追われていたことは知っている。だが戦争が終結したのち、日本国が独自で武装したり警察を持つことが禁じられた今、なぜ彼は追われる運命に在らねばならないのか。鍵の君がブリタニア人かどうかは分からないが、少なくとも日本人ではなさそうだった。ならば、ブリタニアが統治するこのエリア11で生きることは、それほど過酷ではないはずだ。トウキョウ租界というブリタニア人専用の居住区域も整備されている。日本人が住むには窮屈だが、ブリタニア人には住みやすい国だろう。
「うるさい、黙れ! ブリタニアの犬め!」
 何やら硬い、金属の棒のようなもので後頭部を殴打される。
 瞬間視界が真っ白になって、真っ黒になる。ぱちぱちと火花が散るように目の前が点滅を繰り返した。


 出自だけでどうして、その人の優劣が決められるのだろう。日本人の間に生まれたから劣っていて、ブリタニア人の間に生まれたから優れている。なんて馬鹿馬鹿しい方式なのだろう。
 死体の山の前で黙祷を捧げ、平和を祈り、日本を愛していると囁いたあの少女は、スザクにとってどんな兵隊や武器よりも強く見えた。それは彼女がブリタニア人だったからではない。あの少女の穢れのない優しさと慈しむ心が、彼女の武器であり強さの由来だったからだ。”大切なものほど目に見えない”という言葉があるがなるほど、それはまさしく彼女のような聖人に向けて作られた金言のように思える。


 鉄の錆びた臭いが漂う独房に放り捨てられる頃には、叫び続けた喉はもう枯れてしまっていたし、抵抗を続けた手足は力が入らなかった。
「そこで頭を冷やして、自供する準備でもしておくんだな」
 乱暴に髪の毛を掴まれて、ひんやりとしたコンクリート造りの一室に体ごと投げ捨てられる。受け身を取る余力もなく、全身を床に打ち付けた。あちこちにできた内出血が悲鳴を上げて、思わずくぐもった声が漏れた。
 キィ、と耳障りな金属音が響いて、鉄格子の扉が閉められたのだと悟った。
 頭を動かすことはできるが、手足は縄で縛られてとても動かせられる状態じゃない。殴られ蹴られ、罵倒を浴びせられを数時間続けたおかげで、力づくで縄を解く気力も湧かない。

 鍵の君はどうやら、ブリタニア政府が行方を追い続けている最重要人物らしい。何の罪に問われて追われているのかまでは聞かされなかったが、それを逃がす手伝いをしたという容疑で、スザクは現場に居た警官らに捕えられた。
 任意同行も事情聴取もない、強制送還だ。後頭部を銃口で思い切り殴ってスザクを気絶させたのち、収容所に連れてこられたという。
 軍の人間、特派の人たちに連絡を取って、この冤罪を説明してもらうことはできないか。スザクは真っ先にそう思いついたが、自供するまで収容所外の人間との連絡は一切禁止、ときたのだ。人権侵害ではないかと反論したが、ここは純血派のブリタニア人警官が管轄する、イレブンの罪人専用の収容所らしい。つまりイレブンにとってここは治外法権と同義なのだ。この収容所には倫理も道徳も人権も通用しない、イレブンが蹂躙されるためだけにある監獄なのである。

 不当な取り調べによる冤罪で捕まってしまったことは、既に特派へ連絡が届いているだろうか。もし届いていなければ行方不明扱いになって、二人をより心配させてしまう。自分の身よりも、自分の帰りを待つ人たちの顔だけが浮かんでは消えていった。
 この監房にはスザクの他にも何人か、取り押さえられた人たちが既に居た。スザクと同様手足の自由を奪われた彼らは、老若男女さまざまであった。壁際で蹲る者、床に寝そべったまま動かない者、独り言をぶつぶつと唱える者、いつも啜り泣く者。みな精神に異常をきたしているのだろうか。それだけ不当で救いのない尋問という名の、虚偽の自供をするまで続けられる地獄を何度も経てきたのか。
 日の光さえ入らず時間も分からない。薄暗い鉄格子の中で唯一の光源である蝋燭の炎がゆらゆらと揺れていた。

 お願い、助けて、許して!
 そう叫ぶ女性の細腕を、看守が掴み上げた。指が食い込むほど強く握られ、女性は監獄内に響き渡るほど大声で泣き叫んだ。
 自分は一体、何を見せられているんだろう。圧倒的な強者が圧倒的な弱者を虐げ、貶め、侮辱する。ブリタニア人だから正しくて、イレブンだから悪い。単純明快な世界の縮図が、目の前で分かりやすく繰り広げられていた。
「……気持ちは分かるけど、手を出しちゃ駄目よ。アンタまで帰ってこれなくなる」
 思わず声を上げそうになったスザクに、傍で蹲っていた――ように見える女が吐息で囁いた。
 薄暗い室内では分かりにくいが、朱色の髪が俯く顔の頬を覆い、その顔は窺い知れない。正直、ここに収容されている者はみな、すでに気をやられていると思っていた。だからまともに口がきける人間が居たことに驚くと同時に、スザクはひどく安堵した。
 いや、助けて! 誰か、誰か!
 連れ去られてゆく女の断末魔が、監房にまでびりびりと響いていた。泣き出したくなるほど悔しく、怒りが収まらない。また自分は無力だから何もできず、人ひとり助けられなかった。
 軍隊に入って、名誉ブリタニア人ながらも、何かの縁でナイトメアフレームのパイロットに選ばれ、いくつもの戦場で武功を上げてきた。少しずつ、ほんの少しずつだがその努力は実を結び、晴れて先日は准尉に昇格を遂げた。ブリタニア人しか断固として認めないこの国が、名誉ブリタニア人である自分の結果を認め、褒美をくれたのだ。あのブリタニアに、血の謂れ関係なく、己の実力を認めさせたのだ。これは下手すれば歴史的な快挙なのではないかと、そんな馬鹿げた錯覚をするほど誇らしい出来事だった。
 だが現実は違った。所詮は井の中の蛙だったのだ。ブリタニアとイレブンとの間にある偏見や差別、階級といった封建的な風潮はまだまだ根深く、暗闇の奥底まで根を張っていた。人ひとりすら救えず、どうして自分の運命を切り開くことができようか。
「シケた顔。まともな奴かと思ったけど、見込み違いだったかしら」
「え……?」
 看守の居なくなった監房に、女の小声が響いた。それは気をやられた人間の、呪詛のような独り言でもなく啜り泣く声でも、呻き声でもない。しっかり芯のある声音はスザクの耳にすんなり届いた。
「君、君は……」
 スザクが声のするほうへ視線を向けると、女も俯いていた顔をゆっくりと上げる。長すぎず短すぎない赤髪が持ち上がって、その顔がよく見えた。日本人にしては肌の白い、しかしブリタニア人にしては童顔に思える、その印象的な顔つきに、スザクはひどく見覚えがあった。

 戦時中、少年兵として戦地に配属されなかったスザクは、当時野戦病院を転々としていた。運ばれてくる現地の民間人や兵士たちの手当て、食糧の配給に追われ、戦争が激化するにつれその仕事は目が回るほど多忙を極めた。
 だが各地を転々とするこの仕事に、スザクは自らを幸運な人間だと思った。鍵の君の行方を探すのにはこれ以上ないほどぴったりだからだ。病院内で働く看護婦から負傷した兵士、水を貰いにきた民間人、あらゆる人間に聞いて回った。”この鍵の持ち主を知りませんか?”と。
 そうして聞き込みをしていく中で、スザクはある一人の、印象的な少女と出会ったことがある。
 致命傷は負っていないものの、全身に切り傷が見られる。懐にはナイフと小型の銃を隠し持っていて、もしやそんな軽装備で戦っていたのかと目を疑ったものだ。
 スザクは例外なく、その少女にも”この鍵の持ち主を知りませんか?”と尋ねてみた。
 すると返ってきた答えは、”どうして友達なのに、顔も名前も知らないの?”という至極単純で当然の言葉であった。そして最後に彼女は、鍵の君のことをこう評したのである。”スザクがこんなにも探しているのに現れないなんて、冷たい人ね”と。

「君は、紅月……紅月カレン?」
 スザクだって多種多様な人間と接してきたが、あれほどはっきり物を言う奴はそうそうお目にかかれないだろう。彼女の悪気ない言葉のナイフは深く突き刺さったまま抜けなくて、六年経った今でも鮮明に浴びせられた言葉を覚えている。まるで喉に刺さったままの魚の小骨みたいに、ちくちくと痛み続けた。
「ほら、野戦病院で会ったことがある……」
「ああ。鍵の持ち主を探してるっていう変人?」
 この言われようである。

 まさか生きているなんてね。そっちこそ。
 二人は六年ぶりの思わぬ再会に驚き、顔を綻ばせた。

「てっきり死んだかと思ってた」
「……ひどい言い方だな」
 カレンはあっけらかんとした調子で、容赦なく言葉を浴びせた。
「だってアンタ、ひ弱そうだったし。あのご時世に落とし主探しなんて、平和ボケの極みじゃない」
「ちょっと言い過ぎない?」
 スザクは思わず苦笑いを零した。建前やオブラートという言葉は彼女の辞書に載っていないようだ。良い言い方をすれば裏表のない、竹を割ったような性格ということである。

 それはそうと、と彼女は唐突に話題を変えた。
「なんでスザク、ここに連れて来られたワケ?」
「あー、うん……」
 いくらイレブンでも普通に日常生活を送っていれば、よっぽど不審な行動でも取らなければ監房に閉じ込められないだろう。無実であることには変わりないが、たとえば犯人の居なくなった殺人現場に居合わせてしまっただとか、そういう運の悪さ、間の悪さがなければ容疑者として疑われることもない。
「鍵の君を見つけたんだけど、彼、追われている身らしくて。そうしたら僕が共謀罪とほう助罪で捕まっちゃって」
「……アンタってほんと、間の悪い男ね」
 説明するのも情けないほどだ。だが本当に捕まってしまって檻に閉じ込められている今はまだ、笑い話で済まされない。
「そういう君は何なのさ」
「……リフレインって知ってる?」
「ああ、聞いたことがある」
 リフレインとは、イレブンの居住地区で今、現在進行形で大流行の兆しを見せている違法薬物の名称である。安価な上に入手ルートもさほど複雑ではないらしく、誰でも比較的簡単に入手できる薬物だそうだ。だがリフレインの恐ろしい点はその購入のし易さではなく、効能にあった。
 その薬物を服用した者は過去の快楽体験を追想し、疑似的に再度体験できるというものだ。自分が一番楽しかった頃の経験を再び経験した”気になれる”この薬物は、イレブンの間でとくに蔓延している。恐らく原因は、ブリタニア帝国からの圧政と差別によるストレスだろう。ブリタニア帝国の植民地になる前の、独立国日本の頃の思い出をみな、忘れられずにいるのだ。現実世界のあまりの苦しさに、薬に手を出して少しでも楽になりたいと思う。そんな弱い人間の心をつけ狙った、悪質極まりない薬物だ。
 後遺症も甚大で、脳の神経を完全にやられた場合、一生言語障害が残ったり、寝たきりになる者もいるという。
 ブリタニアにとってイレブンは差別対象であり、貴重な労働力だ。働ける者が減少すれば生産性は落ち、国が衰える原因となる。だからブリタニアは違法薬物の取り締まりを強化し、リフレイン排除に全力をあげているらしい。そのような話を、特派に居た頃は耳にしていた。
「私のお母さんね、リフレインを常用していたのよ。家からもいっぱい薬が見つかって。私はそんなこと全然知らなかったんだけど、薬物所持でここに連れて来られちゃった」
「そんな……」
 実の母親が薬物乱用者であったという事実でさえショックだろう。なのにそんな彼女を、ブリタニアはろくな取り調べも行わずに検挙した。聞いているだけで胸が痛む話だ。
「アンタも私も、間が悪いのよ」
 そう言われてしまえばそうだ。だが、このまま大人しく捕まって、先の見えない地獄の底で生きていろと言うのか。抗う手段があれば全力で抗いたかった。
「まずは連れて行かれても、絶対”私がやりました”って言わないことね。奴らはそれを言わせるために、ありとあらゆる手を使うんでしょうけど」
「それは、そうだね」
 薄々分かっていたが、現時点ではそれくらいしか抵抗する術がないらしい。外の世界と完全に隔絶されている以上、弁護を頼むこともできない。まさに八方塞がりとはこのことだ。


 お前があの男の逃走経路を用意したんだろう!
 机を叩く音と怒鳴り声が脳の芯に響いて、鼓膜がびりびりと震えた。

 もう何時間続けられたのだろうか。あるいはまだ三十分しか経っていないかもしれない。そのくらい気の遠くなるような時間ずっと、尋問という名の自白強要を受け続けていた。
 正気を保たねばならない。口を割れば楽になるなど、笑わせるな。自供をさせられた、その先にあるのは嬲り殺しの一択であると、誰かが言っていた。気をやってはいけない。冷静に、しかし彼らの言葉に耳を貸してはならない。
「枢木スザク。お前が検挙されたのは今回のことだけではない。六年前、日本軍の憲兵に出会った時のことを覚えているな?」
「え……?」
 目の前に座る一人の警官がそう言うと、数枚の写真を机の上に置いた。その写真はスザクの家の近所の道が写されており、ちょうど鍵の君にぶつかったときの道の写真も混ざっていた。そういえば六年前も、逃走中の彼と出会い頭にぶつかったんだっけ。そんなことを思い起こし、不思議な心地になる。
「この時お前は、男を逃がすために嘘をついた」
「そ、れは」
 小脇に銃を構えた厳つい憲兵二人にその場で取り調べを受けた際、スザクは彼が走り去った道を教えた。その道は彼が逃走に使った道ではなく、スザクが通ってきた道であった。雪の上に点々と散っていた血痕を、そっと足で隠しながら。
「違う、僕は……!」
「やはりお前があの男と共謀していたんだな?」
「違う、違うんです、違っ……!」
 脇に控えていた警官の一人がスザクの脇腹めがけて凄まじい蹴りを入れ、スザクの体はそのまま床へ崩れ落ちた。
「言えば楽になる。”僕が彼を助けました”って」
 前髪を掴まれ、床に伏した顔を持ち上げられる。露わになった耳元に、男はことさら優しく語りかけた。楽になるぞ、と甘い言葉が三半規管を震わせる。滲んだ視界には警官の足元と、首から下げていた鍵が見えた。
 きらりと光ったその金属は、スザクの首元でゆらゆらと揺れていた。僕を探して、見つけ出して、また返しにきて。確かに約束したあの月光の夜を、スザクは何度も反芻した。

 何度も繰り返し再生されたビデオテープが動かなくなったみたいに、スザクの記憶の中の少年もまた、朧げな姿になっていた。人間の記憶というのは、まず音声情報から忘れられるらしい。スザク自身の記憶もまた、すでに鍵の少年の声を思い出せなくなっていた。
 妖しい瞳の色、かさついた唇の感触、冷たいけど優しい指先の触れ合い、そのひとつひとつを忘れないように、宝箱に仕舞っておくように、記憶に鍵をかけた。そしてたまに思い出したいとき、宝箱の鍵を開けては中身を取り出して、思い出を振り返る。
 彼から託された鍵は”大事なものを開ける鍵”だそうだ。彼は”大事なもの”とは何なのか、結局教えてくれなかった。だがスザクにとっての大事なものとは、いうなれば彼との思い出である。この鍵はその思い出を蘇らせてくれるきっかけで、大切なことを思い出させてくれるトリガーなのだ。

「……随分酷い目に遭ったみたいね」
「途中で記憶飛んでたっぽい」
 カレンはぼろぼろになったスザクの姿を見て、心配してくれた。口こそ悪いが情に厚く、心根は優しいのだろう。
「しばらく休むといいわ」
「うん、そうするよ」
 口の中はあちこち切れて、鉄の味が舌に滲む。体を横にしようにも、ちょうど蹴りを入れられた脇腹が痛んでどうにも休めない。
「少し、肩を貸してほしい。横になるとどうにも、体が痛くて」
「……ええ、どうぞ」
 弱った心と体に人肌の温度はひどく心地よいことを、生まれて初めて知った。どんな妙薬よりも効き目がありそうだ。
 世界はこんなにも残酷で厳しいのに、まだ自分のことを見捨てくれないで、心配してくれている人が居る。それだけの事実が、スザクにとって何よりもの心の支えであった。


 誰かの悲痛な叫び声と断末魔が耳に飛び込んで、スザクは体をびくりと揺らした。
 顔を上げると一人の男が看守に連れ出されようとしている最中で、自分は彼の泣き声で目を覚ましたんだとようやく気付く。どうにかして助けてやりたいが、体のあちこちが痛くて、手足に力が入らない。声を出そうにも蚊の鳴くような音しか漏れず、腹もひどく減っていた。
 理性や良心を失いかけた心は感情の波を失い、やがて心が死ぬ。自分もここにずっといてはいずれそうなるだろう。見えない死の足音が、背後から聞こえた気がした。


「おやめなさい!」

 瞬間、腐りかけた思考の中を閃光が一閃、駆け抜けていった。

「おやめなさいと言っているんです!」
「あ、あなた様は……」

 それは閃光でなく、紛れもない人の肉声であった。暗がりの廊下の奥からコツンコツンと、耳慣れない足音が響く。その音はやがてこちらへ向かって大きくなり、暗がりの人影も鮮明になる。
「……ユフィ?」

「その野蛮な手を離しなさいと言っているんです、これはエリア11副総督、ユーフェミア・リ・ブリタニアの命令です!」
「ユーフェミア様、どうしてこちらに…!?」
 慌てふためく看守を前に、彼女の主張は変わらなかった。その手を離しなさいと、強く繰り返したのだ。
「それから、この収容所に居る全ての収容者に正当な取り調べを受けさせなさい。弁護人と検察を用意して、然るべき場所で第三者に判断をさせなさい。いいですね?」
「か、畏まりました……」
「何をしているんです! 今すぐ収容所の責任者にこの通達を伝えなさい!」

 彼女は眩しいほど美しい衣服を身に纏い、艶々に磨かれたヒールを鳴らし、長い桃色の髪を靡かせ、鉄格子へ向かって顔を見せた。この暗闇の、地獄のどん底とも言える場所でも、彼女は気高く美しく、強かであった。六年前に出会ったときと何一つ変わらず、彼女――ユフィは強くあり続けていた。
「ユーフェミアさ、まっ……!」
 背筋を正して立ち上がろうとした折、あばらにに激痛が走り、スザクは呻き声をあげて蹲った。
「無理をなさらないで、安静にしていてください」
「ユーフェミア様……」
 脂汗の浮いた顔を上げると、彼女はどこか憂いを帯びた、寂しそうな表情を浮かべていた。
 今のスザクは六年前の、何も知らないで居られた少年ではなくなっていた。それは彼女も同様だ。身分の違い、皇族と軍人の差というのは大きくて深い。見知らぬ土地で出会った女の子ではなく、エリア11を治める副総督として、彼女と接せねばならないのだ。
「枢木准尉、御無事で良かった。ここに居る方も全員、今すぐ解放して差し上げます。すぐに医療施設へ……」

 偶然が積み重なって生まれた縁は、時として稀有な運命にスザクをいざなう。
 まさかあの日出会った少女がユーフェミア副総督とは、思いも寄らなかった。確かに同年代にしては上品というか、育ちが良い雰囲気はしていた。所作といい言葉といい、明らかに情緒が違っていた。
 だがそんな彼女が、死体の積み上がる敗戦地を見たいと言い出すのも、そう考えれば納得がいく。日本を治めることがあの年齢で既に決定事項であったのかは定かでない。しかし彼女なりに、人の上に立つ者として見ておきたかったのだろう。目を逸らしたくても逸らしてはいけない、人間の業と弱さが招いた惨劇を。



 目が覚めると真っ白の天井と、柔らかい陽射しを受けたカーテンと、ふかふかのマットレス、枕、羽毛布団。喉から手が出るほど欲しくて堪らなかった、切望して止まなかったその感触に、涙が溢れる。あの監獄から自分は無事生還したのだ。生きている心地がまるでしなかったが、今は逆に脱出できた実感がしない。とうとう気をやられてしまった自分が見ている、これは夢幻ではなかろうか。
 首を動かして、部屋の様子を眺めてみる。壁の掛け時計は朝の十時を指し、花瓶に入れられた花はまだ新しそうだ。消毒液の匂いも微かに漂う。廊下の向こうからは微かに人の声が聞こえてくる。ひとまず、五感はどこも異常がないようだ。

 ほどなくして病室の扉が開かれると、会いたくて仕方なかった面々が顔を出した。どのくらいの期間会っていなかったのか思い出せないが、胸が締め付けられるほど懐かしい。
「スザクくん、目が覚めたのね!」
「危機一髪でしたねえ」
 ロイドとセシルが各々声を上げながら、喜々とした表情を繕いもせずベッドへ歩み寄ってきた。恐らく一番心配と迷惑をかけてしまったであろう二人の顔を真っ先に見れて、ひとまず胸を撫で下ろした。
「おっスザク、良かった! 目が覚めてたんだな!」
「……普通に元気そう」
 それに続いてジノとアーニャも、ラウンズの正装姿のまま病室に押し入ってきた。静寂に包まれていた室内はどっと騒がしくなるが、これが何より求めていたスザクにとっての平穏で日常だ。相変わらず個性豊かで騒がしい面々の変わらぬ様子に、また胸が締め付けられる。

 病室内に響く笑い声に混じって、どこか遠くからコツコツと、規則的な足音が聞こえた。それは女性のヒールが鳴らす音か、革靴だろうか。

「……スザク、目が覚めたようですね」
「ユ、ユーフェミ……ッ!」
 ベッドへ寝かせていた上体を勢いで起こそうとした瞬間、また脇腹を激痛が襲った。途中で途切れた言葉はベッドの枕に吸い込まれ、代わりにくぐもった呻き声が響いた。
「安静にしてろって病人! お前、あばら折れてんだぞ!」
 それは初耳の情報である。どおりで内臓に穴が開いたのではないか、というほどの激痛が走るわけだ。もう少し早く教えてほしかった気もするが、言葉を振り絞る気力はもう残っていない。
 枕に埋めた頭を起こして、見舞いに訪れてくれた皇女の姿を見た。いつもは垂らしている髪を頭上でひとまとめにして、気品と清楚感に満ちている。微笑みを湛えた口元はスザク、と優しく己の名を呼んだ。
「六年前にお借りしたものを、ようやく返させて頂けました」
「借り……?」
 まったく身に覚えがない。ユフィは疑問符を顔に浮かべるスザクの表情を見て、くすりと微笑んだ。
「危険な戦場の跡地に、ブリタニア人である私を連れて行ってくれたでしょう。そこで私はスザクに約束したんです。”代わりに鍵の持ち主を探す手伝いをする”って」
「え……? えっ、ええ、ええ!?」
 そういえばそんなやり取りをしていたような気が、しなくもない。しかしそんな幼い頃の口約束を、六年越しに叶えてくれるとは律儀にも程がある。約束を持ちかけられた張本人ですら覚えていないことだ。どうしてそこまでするんだ、とスザクの疑問はさらに深まる。
「スザクだって人のことを言えないでしょう。鍵を持ち主に返すことを約束して、ずっと人探しをしているあなただって同じじゃないですか!」
「そっそれは、そうですけど……」
「皇女殿下のほうがひとつ上手だったなスザク!」
 ジノの突っ込みを契機に、病室内にはどっと笑い声が溢れる。

 その後のユーフェミアの口から語られる一連の説明で、ようやく頭の整理がついた。
 スザクがブリタニアの警官に捕まった際、その連絡はすぐさま特派に届いていたらしい。だが特派がブリタニア本国へ直接抗議を入れても、スザクの身柄が引き渡されることはなかった。イレブン専用の収容所は純血派の管轄であり、純血派はブリタニア本国でも発言力と権力が強い。いくら軍部の特派といえど、捕らえられたのはブリタニア人でなく、元イレブンである名誉ブリタニア人だった。特派の抗議はついに届かず、スザクの救出が遅れてしまったとのことだ。
 その時期、ちょうど動き出したのはエリア11の副総督であるユーフェミア皇女殿下であった。ブリタニアに忠誠を誓う軍人がイレブンの収容所に捕えられ、不当な取り調べを受けている、という旨の話が彼女の耳に届いたのだろう。しかも囚われている軍人が、六年前、自らに恩を売ってくれた人物であったのだ。彼女は即刻収容所の人間たちに正当な取り調べを受ける権利を与えることと、人並みの環境で暮らせるようにすること、そして怪我や栄養失調に陥ってる者には医療措置を取ることを命じた。
 スザクが監房に入れられてから抜け出すまで、おおよそ三か月の時が過ぎていたらしい。季節はとっくに夏から秋に変わっていた。
 他の収容者も別々の病院で措置入院され、みな命に別状はなく回復しているとのことだ。あの監獄で奇跡的に再会を果たした彼女、紅月カレンもどこかで生き延びているだろうか。

「そこでですね、私からひとつ提案があるんです」
 先ほど既に、みなさんにはご説明したんですが、とユーフェミアは付け加えた。ここまで取り計らってくれただけでもお釣りが来るだろうに、彼女はまだ何か考えがあるらしい。
「スザク、学校に行ってみませんか?」
「……へ?」

 六年間軍人を続けてきたスザクには最も無縁な言葉だろう。
 混乱が混乱を呼ぶ最中、ユーフェミアは屈託のない笑顔で”鍵の君探し”の提案をしてみせるのであった。