千年騎士 三章
毎朝五時に起きて、まず顔を洗う。どんなに眠くて体が怠い日でも、冷水を頭から被れば嫌でも頭は覚醒する。それが終われば今度は、歯を磨いて寝癖を適当に直す。元々癖毛が厄介な髪質だったから、毎朝鏡の前で格闘することがしばしばある。
そうして身支度を手短に済ませて、ぐちゃぐちゃになったベッドを整えて、軍服を羽織る。六時から始まる朝礼までにやることを済ませねば、一日の予定を全て終える夜まで部屋に戻ってくることはないからだ。
一見してハードな生活サイクルだが、二年も続けていれば体が勝手に慣れてくる。最初こそ寝坊と遅刻を繰り返して飽きるほど叱られたものだ。
日本国がブリタニアとの戦争に敗れて二年が経った。たった二年か、もう二年も過ぎたのか。どう捉えるかは人それぞれだが、スザクは後者だ。
二年間の間に世界の情勢は大きく移り変わった。まず、地図から日本国という国名が消えた。日本がブリタニアの植民地に属された、という事実が国際的に認められ、”エリア11”という名前に書き換えられた。その国名になぞらえ、旧日本人は”イレブン”と呼ばれるようになる。
スザクは日本人国籍を捨て、名誉ブリタニア人として生きることを二年前、決意した。帰る場所も家族もなくしたスザクに残された選択肢は、元より最初から存在しなかった。
そもそも戦争へ行くということは、二度と生きて帰ってこないのと同義だ。古来より日本には戦争で命を散らすことが立派で美徳であるとされ、日本人男子の使命でもあった。だから此度の大戦で生還したスザクは、一家親族から白い目で見られ、枢木家の恥という烙印を押されかねない。戦争に行って逃げ帰ってきた弱虫だと蔑まれるであろうことは、想像に難かった。
だからもう戻らないことにした。ついでに己の心に影を落とす過去も清算してしまおうと思った。それだけのことだ。
「おお、お前が鍵の持ち主を探してるっていう、噂の変わり者?」
見慣れない出で立ちの軍人が二人現れたのは、朝食の時間帯でごった返す食堂であった。金髪の長身と桃色の髪をした少女はきょろきょろと周囲を見渡すと、なぜかスザクの居るほうへ近寄ってきた。
「……なんか臭い。野良猫みたいな臭いがする」
六時から始まる朝礼を終えれば、次はようやく朝食の時間だ。もう起床してから二時間は経とうとしていたから、すっかり空腹である。
茶碗に盛られた白米にありついていると、やけに目立つ二人の軍人がスザクの座るテーブルの前に立ちはだかった。周囲の兵士たちも何事だと視線をちらちらと寄越してくるから、勘弁してくれと心底思う。
「あの、あなたたちは」
食堂内でどよめき立つ声と視線の中心は、きっと彼らと自分だろう。彼らはそれに気づいているのかいないのか、相変わらず飄々とした態度で声を掛けてくる。
「何、私たちのこと知らない?」
「残念だったね、ジノ」
「えっと……」
色鮮やかなマントを翻す金髪の男は、これに見覚えない? と何やらアピールをしているらしい。だがブリタニア国軍の階級や上下関係にさして関心のないスザクは、それが一体何を意味するのかさっぱり分からない。
彼の羽織るマントに刺繍された紋様は、階級の高いブリタニア人がよく身に着けているものと酷似していた。ということは、軍の上層部の人間だろうか。
しかし、そんなお偉いさんが自分に用事があるとは、スザクはどうも考えられなかった。対人戦闘の成績は中より上、身体能力も平均より上だがとくに秀でた数字もない。座学は尽く悲惨なものだったが、そんなことでお偉いさんとやらが出向くとは思えない。
「何かご用ですか」
「なあ、私たちにも例の鍵とやらを見せてくれないかい」
「人を探してるって、聞いたから。ジノはお人好しだし」
どうやらスザクの起こしていた行動が、どういった経緯か、軍の上層部(らしき人)の耳にまで届いていたらしい。
軍の敷地内で妙なことをするな、と厳重注意でも受けるのかと思われたが、そうでもないようだ。彼らはただ興味本位で、自分にちょっかいをかけているように見える。
彼らに言われたとおり、スザクは鍵を懐から取り出した。いつでも首から下げていたそれは紐に繋がれ、二年前に貰ったばかりのような輝きは失われつつあった。これが彼に繋がる唯一の手掛かりであるから、常に持ち歩いているのだ。
「へえ、本当に鍵ひとつで人探ししてたんだ」
「……ジノ」
先ほどからジノ、と呼ばれる金髪の男は、何が面白いのか、口元に笑みを湛えている。スザクの行動を冷やして面白がっているだけでなく、かといって鍵の持ち主探しに協力的でもない。それは単に、”スザク自身”に興味があるだけだ。
「ああ、すまない。ほらアーニャ、君も写真に残しておこう」
「うん」
桃色の髪の少女、アーニャと呼ばれた女は、どこかのポケットから取り出した携帯端末を翳して、鍵の写真を撮影している。鍵の持ち主探しに協力的なのか、はたまたただの野次馬根性だろうか。
「そういえば聞きそびれていた。君、名前は?」
「……枢木スザクです」
「私はジノ、隣の彼女はアーニャだ。この子はちょっと変わってるけど、悪気はないから安心してほしい」
文字どおり明朗快活な青年、ジノという男はそう纏めると、何やら意味深な微笑みを浮かべた。詐欺師か、あるいは道化師にも見える。胡散臭い表情を取り繕ったまま、男はスザクの耳元に顔を寄せた。
「耳寄りの情報だ。出世の大チャンスなんだけど、興味あるかい」
「ないです」
スザクは彼の言う耳寄りの情報とやらに聞く耳を持たず、その一言で遮断した。
軍人として活躍するため、出世のためにこの職業を選んだわけではない。元はと言えば鍵の君を探すために少年兵の道へ進んだ。戦後は身寄りもなく、日本最後の総理大臣の息子という忌々しい肩書も付き纏った。到底普通の人の暮らしは送ることもできず、唯一の夢といえばやはり、鍵の君を探し求めることくらいだった。
ブリタニアの植民地となったこの国に残されたのはブリタニア国軍だ。日本軍は解散させられ、残党は反政府組織、あるいはテロ集団として扱われる。ブリタニア国軍に入隊するためには日本国籍を捨て、名誉ブリタニア人にならねばならない。だからスザクは国籍を捨て、日本解放を望む人々の前に立ちはだかることを決めた。
朝の訓練と座学を終えればようやく昼休みがやってくる。
自らをジノ、アーニャと名乗る変な人に今朝から絡まれてしまって、おちおち朝食も落ち着いて食べれなかった。今度こそ静かな場所でゆっくりと食事を済ませたい。
「やあ枢木スザク、探したんだぞ!」
嫌というほど見覚えのある顔に名前を呼ばれた。最悪のタイミングだ。
彼は狡賢いのか、人の行き交う廊下のど真ん中でスザクの名を声高に叫んだのだ。これでは無視しようにもできない。周囲の兵士たちはスザクの顔と、件の青年──ジノの顔を見比べて、物珍しそうな、信じられないような表情を揃って浮かべていた。
今朝声を掛けてきたジノとアーニャという人物について、午前中の座学の合間に下調べ済みだ。スザクが見たところ彼らはブリタニア人のようだったが、スザクは軍の人間や構成員についてあまり詳しくない。元より興味がなかったからである。しかし調べてみれば成程、辿り着いた彼らの正体は意外なものだった。
まずあの軟派な青年、本名をジノ・ヴァインベルグというらしい。立派な貴族の息子で、ブリタニア国内でも名家中の名家、皇族であるブリタニア家とも親しい。そんな出自の息子ともあれば、エリート街道まっしぐらだろう。現に彼はブリタニア国軍の最高位のひとつ、ナイトオブラウンズと呼ばれる階位らしい。
もうひとりの少女、名をアーニャ・アールストレイムという。彼女に関しては詳細な出自やプロフィールは不明な点が多い。唯一分かったことは、彼女が幼い頃はブリタニア家に仕えていた給仕だったということくらいだ。アーニャもジノと同じく、ナイトオブラウンズの称号を得ている。
ナイトオブラウンズとは、純血のブリタニア軍人から選りすぐられた最も優秀な人材で、ブリタニア帝国の最高権力者である皇帝が直々に指名した騎士たちのことだ。並大抵の功績だけでその地位に上り詰めることはほぼ不可能だろう。皇帝と直接謁見できる機会など、生きているうちに一度あるだけで普通じゃない。そんな皇帝に実力を認められる一握りの人間だけが、ナイトオブラウンズの座に招かれる。
「何が目的なんですか」
だからスザクは余計に混乱した。
自分は下級の中でも最底辺と言える、一介の兵士だ。ブリタニアからすればこんなゴロツキに与える食事だって、勿体ないかもしれない。そんな人間に一体どんな用があって、自分なんかに構うんだ。
「すっかり警戒されちゃったかな、うーん。これだから地位というのは厄介なんだ」
ジノは何やらぶつぶつと独り言を呟いたのち、再びスザクに話題を持ち掛けた。
「私の同僚がね、君に声を掛けられたことがあったんだって。”この鍵の持ち主を知りませんか?”って」
ジノの言う同僚とは、他のラウンズたちのことらしい。スザクは軍内部の階級や称号といったものに疎いから、無鉄砲な行動を起こせたのだろう。今考えれば肝が冷える話だが、あの時は純粋に馬鹿だった。難癖をつけてくる面倒な貴族に睨まれなくて済んだことが、不幸中の幸いである。
「話を聞けば、鍵の持ち主探しのために軍人になったって言ったんだって? 不忠にも程がある発言だが、この際目を瞑ってやろう」
からからと笑う青年は、茶目っ気たっぷりにそう言ってウインクしてみせた。
「それを聞いた私とアーニャが興味を持ってね。枢木スザク、君をずっと探していたんだ。まあ、理由はそれだけじゃないんだけど」
やけに饒舌な男はそう言った途端、スザクの肩に腕を回して引き寄せた。突然のことに体の重心が傾いて転びそうになったが、彼の腕力がそれを阻止した。
印象こそあまり軍人らしさは感じられないが、その腕力や体躯は明らかに軍人のものだった。ナイトオブラウンズの称号はどうやら本物か分からないが、少なくともただの不審者ではないことは分かった。
「聞きたいことがある。別にお前へ不利な力が働いたり、圧力がかかるようなことはない。この血に誓って約束する」
青い瞳がスザクの顔を映し、問いかける。それは圧力だったり強要ではなく、自由と選択だった。君はどうする? 君が好きなほうを選べ、と。それは誠実な眼差しだった。
「……僕が答えられる範囲でなら」
スザクは静かに頷き、翡翠の瞳で見つめ返した。
案内された部屋はまるで見たことのない造りをしていた。
スザクは二年間、名誉ブリタニア軍人を養成する施設で訓練を受けてきた。時折訓練の一環で他の基地へ出征することもあるが、ホームは変わらずだ。たまにある出征の先で鍵の君の手掛かりを探していたが、信ぴょう性のある情報は未だひとつも掴めていない。
そうやって二年間過ごしてきた施設だったが、ジノとアーニャに招かれた部屋は、その存在自体初めて知った。ただでさえ滅多に立ち入ることはない、地下にある武器庫の奥に、隠し扉が存在したのだ。
隠し扉から繋がる部屋の内部は、決して華美ではないが小綺麗な造りをしている。ブリタニア風のテーブルとソファ、シンプルな装飾をされた照明があり、壁に窓はひとつもない。家具もテーブルとソファが一組、部屋の中央に置かれているだけで、それ以外何も見当たらないのだ。なんだかゲームの隠しマップみたいな怪しさである。
「ここなら誰も入ってこれないし、盗聴器もない。私も写真や動画に残さない。約束する」
スザクの向かいに座る少女、アーニャも静かにそう告げた。
彼らの言動には普通じゃない、どこか浮世離れしているような、奔放な印象を受ける。それは生まれつき軍人あるいは貴族として育てられてきたから、なのかもしれない。悪いものを一切排除した滅菌室で大事にされ過ぎて、普通の感覚が備わっていないのだろう。だがその本質はどこまでも純粋だった。人を欺いたり陥れることを思いつきもしないような、赤子同然の性分だ。
やはりこの場では、喋りが上手いジノが先行して話を進めるらしい。
「枢木スザク、悪いけど君のことを少し調べさせてもらってね。別に悪いことに利用しようとか、そういうんじゃないんだ」
「……興味が沸いたんでしょ」
「ああ、うん。アーニャの言うとおりだ」
そして言葉の足りない箇所をアーニャが補う、という形式で話が続けられる。
「それで単刀直入に尋ねさせてもらうよ。……枢木スザク、君は日本国最後の総理大臣の嫡子なんだって?」
ああやはり、そのことか。薄々感じていた予感は見事に的中した。
「やっぱり、って顔してる」
スザクの表情を見逃さなかったアーニャはすかさず口を挟んだ。
この手の質問を受けたことは、何も今回が初めてではない。
枢木、という日本人の苗字の中では少し珍しい部類に入るうえ、下の名前もゲンブとスザクと、方角を司る四神をなぞらえている。時には冗談だったり、時には本気で、何度も聞かれてきた。お前もしかして、枢木首相の息子か、と。
世間一般には枢木ゲンブが子供を持っていることは伏せられていた。スザクの母はスザクを産んですぐに死に、父であるゲンブは子供にかかりきりにもなれず仕事に集中した。まるで捨て子同然に扱われたスザクを憂いたのは、当時屋敷に務めていた家政婦たちであった。まだ手のかかる赤ん坊を代わる代わる世話して、育ててくれたのは実の親でも何でもない、赤の他人である彼女たちだ。
実の子の面倒も見ず、家にも帰らない父親。そんな事実をもし報じられたら、枢木ゲンブの心証は悪化するだろう。だからスザクがゲンブの嫡子、という事実はなかったことにされた。実際の戸籍では血の繋がった、正真正銘の親子であったが、表向きは養子の子供、と説明していた。スザク自身もゲンブとの血縁関係を問われたとき、親戚だとか、跡取りのいない枢木家にやってきた養子だと答えていた。
「ああ、そうだよ。僕は枢木家の長男、ゲンブの実の息子だ」
生まれて初めて、事実を打ち明けた。
この場でへたに隠して嘘をついたところで、ブリタニアの情報網と彼らの権力を行使すれば、スザクの身元なんて一発ですっぱ抜かれるだろうからだ。
しかしジノもアーニャもさして驚く様子はなく、やっぱりな、という表情を浮かべているだけだった。スザクの一世一代の大告白は呆気なく終わり、呆気なく受け入れられた。
「私は不思議なんだよ。枢木スザク、ならばどうしてブリタニアの軍人になったんだい? 誰よりもブリタニアを憎んでいるであろうお前が、どうしてブリタニアに膝をついて頭を垂れる?」
ジノは顎をさすりながら、さぞ理解のできないものを見るように、スザクの顔を見据えた。
「しかもお前は二年前、日本軍の少年兵だったそうじゃないか。ブリタニアの軍に入るということは同士討ちってわけだ。……枢木スザク、お前は何を考えている?」
剣呑な青い瞳が、スザクを射抜いた。
それはスザクなりに考えた結果の行動であったが、枚挙すれば鞍替えしたということに他ならない。ジノとアーニャはそれを恐れて、わざわざ呼び出したのだろう。いくら下っ端といえど内部でテロでも起こされたら、被る損害は小さくない。ブリタニアでの純血派の発言力も、さらに助長される原因になるだろう。名誉ブリタニア人の中には未だ旧日本国の日の丸に忠誠を誓う者がおり、願える可能性がある。そんな風評も避けられない。
「国とか人種とか、僕はそもそも関係ないと思うんです」
「……というと?」
僅かに見開かれた両者の視線が、珍しそうにスザクの口の動きを追う。
「ブリタニアだから正しいとか、日本だから劣ってるとか、僕は思わない。ブリタニアも日本も正しいし、間違ってる部分はある」
「それは一般論。当たり前」
アーニャが退屈そうに呟いた。
「……日本兵に志願したのは、鍵の君を探すためだった。遠くへ行けるって聞いたから、理由はそれだけなんです。父親は同じ家に住む他人みたいなものだったし、僕が戦争に行くって言っても、父は泣いても褒めてもくれなかった」
「軍人志願の理由って、本当に鍵の持ち主探しが目的だったんだ……」
ジノは驚いて言葉を失っていた様子だが、スザクは構わず続けた。
「父親が死んで、戦争が終わったあと、僕は帰る場所がなかったんです。戦争の生還者は親族から笑いものにされるって聞いたし、実家は家政婦も居なくなってた。僕は本当に身寄りのない、何もない子供だった」
「……だからブリタニアの兵士に?」
「仕事柄、遠くの地へ行くことが多いから、鍵の君の手掛かりを掴めるかもしれない。名誉ブリタニア人は、イレブンより自由がきくから、身動きが取りやすいし。……それに、過去を清算できるでしょう。枢木家の嫡子じゃなく、名誉ブリタニア人の枢木スザクに、僕は生まれ変われる」
懐から取り出した鍵を、スザクはおもむろに手のひらへ収めた。毎日欠かさず磨くようにしているそれは、まるで二年前のときと変わらない光を宿している。月光を浴びて妖しく輝いていた、あの光を。
「日本人を相手に戦うことに抵抗は?」
「戦争が終わった今、武装蜂起している旧日本人たちはただのテロ集団です。日本を取り戻したい気持ちは痛いほど分かりますが、やり方が間違ってる。正しいやり方じゃないと望んだ結果は見えてこない。……徹底抗戦を唱えていた僕の父も同じだ」
「戦うことは良くないって考えてるくせに、自ら前線に出るって、矛盾してないか?」
ジノは苦笑しながらそう指摘した。
「彼らは一般市民を巻き込んでまで武装攻撃しようとする過激派だ。中にはしっかり顔を見合わせて、机上で解決しようと主張する人もいる。僕はその考えに賛同できるけど、テロ集団の行いには反対だから」
「じゃあスザク、最後の質問」
桃色の髪を揺らし、アーニャが静かに口を開いた。まるで人形のように大人しい少女は、並の人間以上の洞察力がある。彼女の着眼点は恐ろしく鋭い。
「鍵の持ち主が見つかったら、軍人を辞める?」
「それは……」
寒い寒い夜の日、彼と共に過ごしたみすぼらしい蔵の中で、スザクは少年に誓った。お前の騎士になってやる、と。
少年は自分のことを皇子だと言っていた。それの真偽は何であれ、もし自分に少年を守れる剣があれば、彼がひとりで逃げ惑うことはなかった。スザクはあの日の自分が無力な子供であったことを、日に日に悔いるようになっていた。
二年の歳月が流れて、あの時より体も大きくなったし力もついた。銃の扱いはからっきしだが、格闘技といった体術はひととおり叩き込まれたし、対人成績だって悪いほうじゃない。
強くなりたいと思っていた。あのか弱い少年を守れるくらい強くなって、迎えに行きたい。少年と再会できたあとも、もっともっと強くなれたらいい。たとえば目の前に座る彼ら、ラウンズのように。
「辞めない。強くなりたいです。鍵の君を守れるくらいに、……騎士になりたい」
スザクの発言に、ジノとアーニャは顔を見合わせた。
一介の、雑魚以下の兵士が大見得を切ったと、心の内で笑われたのだろうか。だとしたら全くもって反論の余地はないが、スザクは本気だ。
俺の騎士になれと命じられ、騎士になると誓ったあの夜の出来事だけが、スザクの行動原理だった。
「及第点だな」
「合格」
顔を見合わせ何かをひそひそと話す二人は、ようやくスザクと顔を見合わせた。
「何がですか?」
「だから、合格」
「会話になってないよ、アーニャ」
ジノはやれやれといった様子で、その場を仕切り直した。やはり話の運びは彼に任せたほうがスムーズにいくようだ。
「さっき廊下で会ったとき、言ったろう? 出世の大チャンスがあるって」
「僕は地位に拘ってません」
「騎士侯の位は欲しくないのか? なりたいんだろう」
「名誉ブリタニア人は除外されるんでしょう」
そもそも神聖ブリタニア帝国とは純血主義、実力主義でここまで成長を遂げてきた国だ。その皇帝の側近ともいえる騎士、ナイトオブラウンズに旧日本人の人間がなれるはずがない。あくまで選ばれるのは純血のブリタニア人の中からで、名誉ブリタニア人という日本国籍を捨てたどっちかずの人間に与えられる高位ではない。
「お前が例外になればいいんだよ」
「……はい?」
ジノは不敵に笑うと、人差し指をひとつ突き立てた。
「ひとつだけ、その可能性を叶える手立てがあるとすれば?」
「……」
「気になる?」
アーニャもにやりと微笑んでスザクへ尋ねた。やはりこの二人は己を鼻からからかっているだけではないか。そんな疑念が脳裏を過る。
「内容によりますけど、」
「そうこなくっちゃな!」
スザクが全てを言い終わる前に、ジノは声を上げた。そうして矢継ぎ早に話を進めようとする彼は、腰のポケットから一枚の紙きれを取り出した。
「これは特派の研究室が載ってる地図だ」
「特派?」
耳慣れない言葉に、思わずスザクは首を傾げた。
「特別派遣嚮導技術部。略して特派」
「ここよりもっと下にある地下で、特派による極秘研究・開発がされている。……新世代ナイトメアフレームの、な」
「ナイトメアフレーム……」
「そのデバイサー、つまり機体のデータを取るためのパイロットを、主任がずっと探してるんだ。なかなか適合者が見つからないらしいよ、その鍵の持ち主みたいにさ」
「ま、待ってください!」
話がとんとん拍子で進むさまを、スザクは声を上げて止めた。
ナイトメアフレームとはそもそも神聖ブリタニア帝国が資金と最先端の技術開発力を総動員して作り上げた、新世代の兵器である。それの搭乗員は純血のブリタニア兵士、騎士侯しか許されない、ブリタニアからすれば高潔な人型装甲兵器、とでも言えようか。
それに名誉ブリタニア人の搭乗が許されることはまずありえない。触れることすらご法度だという風潮すら漂っているのが実の現状である。
「主任は人種とか血統とかそういうの、どうだっていいって思ってる。そういう人なんだ。とにかく適合できるデバイサーが欲しいだけさ」
「変人のプリンだから」
変人? プリン?
ラウンズ同士にしか通じない隠語だろうか。相変わらず首を傾げるスザクをよそに、目前の二人は腕を組んでうんうん、と相槌を打ち合っていた。
「適合できるかどうかはお前の運次第だけど、チャンスには変わりないだろう?」
ジノはにっと歯を見せて笑った。
初対面のときこそ胡散臭さに満ちていたが、そういう表情もできるんだな、と素直に感心した。己を陥れるための罠か、野次馬か、からかいに来ただけか。そのいずれであろうとこの瞬間まで疑っていたが、案外どの予想も外れていたのかもしれない。
「どうして僕にそこまで……」
だから純粋に気になったのだ。軍部のエリートがどうして、一介の兵士相手にここまで構うのかと。
「からかい甲斐のある、面白そうな奴がいるって、ジノが言ってた」
「おい、アーニャ!」
前言撤回だ。どうやらスザクの予想はおおかた的中していたようである。
「頑張れよ、”スザク”。私の未来の後輩!」
特派の位置が書かれた紙切れ――地図をスザクに握らせたジノとアーニャは、それだけ言って立ち去った。
そういえばジノが最後に、己の名を呼んでいた気がした。たったそれだけですっかり毒気を抜かれてしまって、我ながら単純だと自嘲せざるを得ない。
地図に書いてあるとおり、エレベーターに乗って地下五階まで降り、そのあと右側へ直進。いくつかの扉を通り過ぎて突き当りを左、その奥にある扉を見つけた。ここに件のラボがあるらしい。
扉は生体認証でロックされているらしく、力づくで開けようとも扉を破壊しない限り侵入は不可能だろう。もっとも、スザクだってそんな力技で特派の門扉を叩きにきたわけではない。
指紋認証システムの真横に、インターホンを模した機械が壁にはめ込まれている。そのボタンを試しに押せばなるほど、内蔵スピーカーから音が聞こえた。いわゆる呼び出しボタンらしい。スザクは予め教わっていた、こう言えば入れてもらえるぞ! というジノ直伝の言葉を発してみた。
「ジノ・ヴァインベルグ卿とアーニャ・アールストレイム卿の紹介で参りました」
『例のデバイサー候補ね。中へどうぞお入りください』
スピーカーから女性の声が聞こえると同時に、扉が自動で開かれる。あっさりと入室を許され内心おっかなびっくりだが、スザクはその声に従うことにした。
見渡す限り無機質な白いタイルの床とコンクリートの壁、中の様子が丸見えなガラス張りの研究室。まるで無菌室かと見紛うほどの、飾り気のない内装だ。
そしてその手前には、見上げてもてっぺんまで見えないほどの大きな――ナイトメアフレームが一体。一体地下何階分の天井をぶち抜いたんだ、と驚くほどの吹き抜けの天井は果てが見えないほど高い。
入室を許可されたはいいものの、案内係も居なければ指示もない。広々とした室内の奥には人が数人居るように見えるが、仕事中だろうか。話しかけていいものか。
一体どうすればいいんだと立ち往生するスザクの元へ、白衣のようなものを着た男性が一人、声を掛けてきた。
「いらっしゃ~い、ようこそ特派へ~」
「初めまして、えっと……」
丸眼鏡で白髪、間延びした声の持ち主である男性は少し、いやかなりヘンテコな人だ。腰を曲げてスザクの顔を興味津々と覗き込んでいる。あまり顔を直視されるのは慣れていないから、恥ずかしさが勝る。
「君、年齢はいくつ~?」
「十二、です」
「身長体重、血液型、あと最高血圧と最低血圧、過去に大きな病気をした経験は? アレルギーとか持ってる? 50メートル走のタイムと、対人格闘の成績、あと潜水の最高タイムと」
「ええ、ええっと」
「ちょっと、ロイドさん!」
たじろぐスザクに助け舟が差し出された。矢継ぎ早に質問を繰り出す男性の背後から駆け寄ってきた女性が、大きな声を上げて制止させたのだ。
「アンケートはあっちで行いますから、ロイドさんは戻っててください。君もこっちに…ええと、名前は?」
「スザク……枢木スザク、です」
一瞬、フルネームを名乗ることに躊躇った。ナイトメアフレームの神々しさに圧倒されたか、それともまだ燻っている心の弱さだろうか。
「特派へようこそスザクくん。私はセシル・クルーミーです。気軽にセシルって呼んでね」
「はい。宜しくお願いします」
ふわりと微笑んだ女性はそう述べると、さあこちらへ、とラボの内部へと案内してくれた。ロイドと呼ばれていた男性も渋々といった調子で、後へ続いた。
内心、セシルのような話がまともに通じる人間が居て良かったと、胸を撫で下ろした。
さっそくだけど、こちらへ。
そう言われて案内されたのは、研究室内の奥にあるコックピットに模した大きな装置であった。
「新型ナイトメアフレームは従来型と違って、サクラダイトを動力源にしているの。だからパイロットへの負荷が従来型と比べるとかなり大きくなってしまう。操作やコンソールも複雑だし、身体センスも問われてくる。それをテストするために、今からスザクくんにはこのコクーンで擬似戦闘を行ってほしいの」
何やら画面の操作をし始めた彼女は、流れるように説明しつつ手元のパソコンで何やら操作している。初めて見るもの、触るものに溢れていて、正直好奇心が抑えきれない。彼女の説明も右から左に半分聞き逃していたスザクには、一体これから何が始められるのか予想もつかない。
しばらくそうしていると、スザクの見ていたコックピット画面には”セットアップ完了”の文字が浮かび上がっていた。どうやらこの装置をスザクが使えるようにと設定してくれていたらしい。
「そういえばスザクくん、ナイトメアフレームの搭乗経験は?」
疑似コックピットへひょっこりと顔を覗かせたロイドが、何の気なしにそう尋ねた。
「僕は下級兵士なので、ナイトメアフレームなんて触ったことも……」
ナイトメアフレームのパイロットになれるのは純血ブリタニア人兵士の中でも、騎士侯以上でないといけない。そもそも血が違うスザクに、搭乗経験があるはずないのだ。
だがスザクの返事を聞いた直後、ロイドとセシルが驚いたように顔を見合わせる。
「スザクくん君、乗ったことなかったの!?」
「ロイドさん、これではジノくん達から聞いた話と違いますよ……」
「うーんでも、せっかく来てもらったしねえ」
二人はスザク置いてけぼりで、何やら話し込み始めた。それも声のトーンや表情からして、かなり不穏な雰囲気だ。何か失言してしまっただろうか。
「スザクくん、ちょっといいかな?」
「はい、何でしょうロイドさん」
やけに朗らかな満面の笑みに、スザクは怖気づいた。人がやけに機嫌良さそうな振りをしているとき、大抵それは、何か良くないことが起こる。その前兆であると、この短い人生で経験してきた。
「まあ分からないなりに、やってごらん。こういうのって、口で説明されるより体で覚えたほうが早いよね??」
一体何を始める気だ?
スザクの心配をよそに、コックピットのパネルや電源装置にランプが点灯する。実のところ本物は知らないが、まるで本物のようだ。スザクは初めて見るそれらのハイテク機器を前にして、年相応にはしゃいだのは事実だ。
「セシルくん、やっちゃっていいよ?!」
ロイドの間抜けた掛け声のあと、コクーン内にはスザクの叫び声がしばらく響き渡った。
「脈拍は正常値より少し超えていますが、それ以外の身体異常は見当たりません」
「機体稼働率はどれどれ?……98.3%!」
スザクの位置からでは二人が共有しているモニタが頭に隠れてしまって、全く見えない。先ほど行われた”適応テスト”とやらの結果だろう。
すっかり乗り物酔いしてしまってベッドに横たわるスザクを他所に、ロイドとセシルの明るい声が響く。結果はスザクの様子に反して、なかなか良好だったのだろうか。しかし今はそれを確認する術どころか、喜ぶ気力さえ残っていない。
新世代ナイトメアフレームのデバイサー適応テストとやらは、つまるところ、バーチャル空間で疑似戦闘を行う、というものだった。概要を聞くだけだとゲーム感覚のようにも思えるが、これがそう甘くない。
セシルがコンピュータ起動中にさらっと説明していた”サクラダイト動力によるパイロットへの身体的負担”とやらが再現されていた。模擬戦闘中に跳ね飛ばされたり、機体ごと倒れたりしたとき、強烈な重力、Gが加わる仕様になっていたのだ。そのような事前説明なしでテストが始まったものだから、スザクは身構える余裕もなく体をコックピット内で振り回され、呆気なく乗り物酔いで潰れた。
その上、彼らはどうやらスザクが、なぜかナイトメアフレームの搭乗経験があると勘違いしていた。セシルの口からジノの名が出ていたことから恐らく、ジノが適当なことをセシルに伝えていたんだろう。
おかげで機体の操縦方法も分からぬまま、戦闘モードに突入したのだ。よりリアルな戦闘を想定できるよう、頭部にはバーチャル立体映像を可視化できる装置を取り付けて行われる。目前に迫る敵ナイトメアフレームの銃口や弾丸、火炎放射やらよく分からない閃光弾を間一髪で避け、それはもう死闘の中の死闘であった。戦うというより、それは逃げ惑うに近かった。
訳も分からずコントローラーの取っ手を握ってスイッチを連打し、攻撃の手順や方法のこつを掴めたかと思えばまた攻撃を食らって撃沈しかける。以降気が遠くなるほどそれの繰り返しで、最後の方はどうやって模擬戦闘を終えたのかよく覚えていない。
画面に”ミッション完了”の文字が浮き上がった瞬間、スザクは気を失うかのように操縦席で倒れたのである。
「ごめんねスザクくん。体調はどう?」
ぼんやりと滲む視界には、心配そうに顔を覗き込むセシルの不安げな目があった。どうやらあれから時間が少し経って、様子を見に来てくれたようだ。
「すみません、ご心配おかけして。少し寝たんで、もう平気です」
「ほんとお??じゃあスザクくんには特別に?、これをプレゼントしちゃいま?す!」
セシルの背後からやってきたロイドは、相変わらず間延びした独特な口調で、そう話しかけてきた。
はてさて、”特別にプレゼント”とは一体、なんだろうか。先ほどの一件があったせいで、ロイドに対する警戒心がやけに高くなっているのは、きっと気のせいではない。
「じゃ?ん!」
「ロイドさん、それは……!」
彼は白衣のポケットからおもむろに何かを取り出した。照明の光に反射し、それはきらりと光った。
「ランスロットの起動キー、君にあげるよ。大事に持っててね?」
人差し指と親指で摘まれていたそれは、スザクの両手の平にころりと転がって収まった。白と金を基調としたデザインはシンプルで、何かのアクセサリーのようにも見える。
ランスロット、とは件の新世代ナイトメアフレーム、というやつの機体名だろうか。だとしたら自分にこれを託された、その真意は。
「待ってください、ロイドさん!本当に彼で良かったですか!?」
この状況に慌てた様子なのは、意外にもセシルであった。
「だって彼以外に機体の出力も稼働率も数字出せた子、居ないでしょ」
「それはそうですが、そんな即決しなくたって……」
セシルはそこで言葉を切って、スザクの顔をちらりと見遣った。それはスザクがパイロットに選ばれたことを憂いているような、悲しんでいるような表情であった。
「彼はまだ十二歳です。あまりに、その……」
ナイトメアフレームはその機動力と殲滅力が最大の長所だ。だからこそ、敵は歩兵や戦車よりもまず先にナイトメアフレームの破壊を優先する。つまり敵の標的になり易い、という欠点がある。
もちろんその欠点を補うため装甲は特別頑丈に設計されているであろうが、兵器とは日々進化するものだ。強力な弾丸や爆弾を浴びせられれば、いくら装甲に守られているとはいえ、ただじゃ済まない。
そしてもうひとつ、本来ナイトメアフレーム最大の長所とも言える殲滅力が、時としてパイロットに深いトラウマを与えることもある。機体ひとつで多くの人命を蹂躙できるそれは、良心を引き換えにしなければ、とてもじゃないが実戦で乗りこなせない。
それをあんな子供に、少年に背負わせるのはあまりに酷だ。セシルはロイドにそう伝えたいようだった。
「セシルくん。彼だって兵士だ、そのくらいの覚悟はしてるはずだよ。僕達だって共犯者だ」
「それは、そうですが……」
「それじゃあスザクく?ん、あと二時間後に実戦だから、準備しといてね?!」
ロイドはそれだけ言い残して、研究室から出て行った。
スザクは先ほどロイドから受け取ったキーをポケットに仕舞った。
模擬戦闘は散々で、もしあれが実戦だったら即死していただろう。思い返すだけで内臓がひんやりと冷たくなった。
「セシルさん」
「……スザクくん」
セシルは相変わらず浮かない顔をして、大きなモニタ画面と向き合っていた。そこには数多くの数字の羅列と、スザクの顔写真、そしてその隣には”枢木スザク”という文字が浮かんでいる。先ほどの適応テストの結果だろうか。
「セシルさん。僕、ちょっと変なことを聞いていいですか?」
スザクはそう問いかけながら、懐から紐に繋がれたひとつの鍵を取り出してみせた。光沢のあるそれはきらりと光って、まるで買ったばかりの新品のようだ。
そしてその鍵をセシルの目前に翳しながら、お決まりの文句を言う。
「この鍵の持ち主を知りませんか?」
「鍵の持ち主……落とし物?」
予想通りの答えに、スザクは吐息だけで微笑んだあと、緩く首を横に振った。
「いいえ。この鍵を僕に託してくれた人が居たんですが、会えなくなってしまったんです。だからその人を、僕ずっと探してるんです」
「お友達?それともガールフレンド?」
「……僕も分からないんです。でももう一度会いたい。あの人に会わなきゃいけないんです」
空に翳された鍵は何も語らず、ただそこにあるだけ。残されただけだ。
「セシルさん、ここだけの話。誰にも言っちゃ駄目ですよ、とくにロイドさんには」
「それって、本当に……?」
「はい。だから僕は平気ですよ、セシルさん。僕をナイトメアフレームに乗せてください。僕はもっと強くなって、誰にも負けない騎士になって、あの人を迎えに行きたい」
言葉にすると陳腐で馬鹿馬鹿しい。たった十二の子供に、一体何ができる。世界の何を変えられる。何を知っている。
でも、スザクは何も知らないからこそ、恐れることをしなかった。世界を知らなさ過ぎたのだ。戦争を体験したことはあっても、戦地で戦ったことはなかった。だから強く在れた。強い振りをしていられた。
──セシルさん、僕、鍵の持ち主を探すために軍人になったんです。
自ら進んで打ち明けようと思わなかった不純な動機を、スザクはこの時初めて打ち明けられた。それだけでほんの少し、気が楽になった。燻っていた後ろめたさや罪悪感が昇華されて、戦いたい、強くなりたい、という意識にシフトしてゆく。
「くれぐれも無茶はしないようにね」
「……はい」
「ランスロットはきっと、あなたの運命も、人生も変えるわ」
セシルは何か吹っ切れたような表情で、優しく微笑んだ。
『体調はどう?どこも悪くない?』
「はい。もう万全です。発進準備、お願いします」
『……了解。ランスロット、発進準備』
片耳に充てがわれた発信機から、セシルの静かな声が聞こえる。機体操縦時の制御やオペレーターは彼女が担当するらしい。
二時間の僅かな猶予の間に、ナイトメアフレームの操縦マニュアルを隅々まで読み込んで、戦闘方法を頭に叩き込んだ。
だがこのマニュアル、実は第六世代のものらしい。スザクが搭乗するのは新世代の第七機であるから、旧型なのだ。しかし基本の操作方法は似通ったところがあるから、読んでいて損はない、とのことである。
攻撃方法やスイッチ、コマンドやマクロといった操作は実際に搭乗してみて、体で覚えるしかないらしい。しかも戦闘スタイルは搭乗者の身体能力にかなり依存するとのことで、ナイトメアフレームど素人にはあまりに不利な状況だ。
『今回の機体は試作段階でね、脱出ポッドを作ってないから、ヤバそうだったら帰ってきてね?』
『ロイドさん、それ本当ですか!?』
今回出動要請がきたのは、関西方面で起こった中規模テロの鎮圧をしてくれ、とのことらしい。分かりやすく言うなら、スザクの乗る機体で現場を撹乱させ、本国軍が動きやすいようにしろ、ということだ。つまり囮である。
「僕が反乱分子をすべて鎮圧すれば……」
『スザクくん、くれぐれも無茶は駄目よ、無茶だけは……』
「……はい」
説明書どおりにコックピットの起動テストも行った。ロイドから渡されたキーも接続できている。あとは発進するだけだ。コントロールを握る手に力を込める。着慣れないパイロットスーツの違和感も、もう気にならなくなった。精神を目前に居るであろう敵に集中させる。
『ランスロット、発進!』
全身にかかる強烈なGも、目の前を過ぎていく景色の残像も、不思議と怖くなかった。
「いきなりフルスロットルかあ?!あっはっは!」
「もう、無茶しないでって、言ったのに…」
管制室の二人はあっという間に遠ざかる機体の背中を、呆然と見つめていた。