千年騎士 二章

 坊や、ほら、泣かないで。お友達とはきっと、すぐに会えるよ。
 駅員は困り果てた顔ををしながら、未だに改札の前で泣きじゃくるスザクを宥めていた。
「次の租界行きの電車、三十分くらいで来るからね」
 三十分。それは途方もなく長い時間に思えた。
 出来ればこのまま、あの少年を追いかけたい気持ちが強い。しかしそうもいかない理由があった。着の身着のままで家を飛び出したから、お金もご飯も服も連絡手段も、スザクは持っていなかったのだ。

 結局何をすることもなく、何か出来ることも思いつかず、元来た道を引き返して帰路を辿ることにした。何もできないことが歯痒かったし、無力な自分に苛立ちすら湧いた。
 昨夜積もって表面が固まった雪は表面がつるつるとしていて、今にでも転びそうだ。よくこんな不安定な道を、今さっきまで全速力で走れたな。スザクは他人事のように感嘆してしまう。
 明朝も変わらずにちらちらと降り続けていた雪は、もうとっくに止んでいた。空の低い位置で太陽が昇り始めて、日の光が空気を仄かに温めているからか。あんまりにも朝の透き通った空が眩しいから、昨夜の一連の出来事が全部夢なのではないか、と錯覚するほどだ。
 地面に向かって俯くと、首から下げている鍵のついた紐が揺れているのが見える。昨夜の出来事は夢ではなく、紛れもなく現実だった。鍵はそう主張する。
「そっか。これ、返さなきゃいけないのか」
 また会えたとき、鍵を返しに来て。彼はそう告げて、忽然と姿を消した。ろくな手掛かりすら残さず、別れを惜しむ言葉も聞けず、彼はスザクの前から立ち去った。

 冷たい手のひらも、かさかさに乾燥した唇の感触も、ぬるい吐息の湿り気も、いまだ鮮明に記憶している。それほど、幼いスザクにとっては強烈な経験だった。
 あの接触の意味は何だったんだろう。どうして彼は自分に、ああいうことをしたのだろう。それとも彼の住む国では、誰とだってそうするのだろうか。
 唇の生々しい感触を思い出すだけで、心臓がばくばくと騒がしくなる。外気は凍えるほど冷たいのに、顔が熱くて堪らない。


 果てまで続く青白い空を眺めながら帰路を辿る折、電柱に貼られた色鮮やかな一枚のポスターがふと目に入った。
 降り続けた雪と霜で萎れていた紙には、”少年兵募集”という赤文字が踊っていた。迷彩柄の軍服を身に着けた少年らしい人物が銃火器を脇に抱え、凛々しく敬礼をしている。
 ”最初は武器製造の工場から働き始め、ゆくゆくは前線で戦える兵士にあなたもなれます!”という軽々しい文句が連なっている。まるでアルバイト募集の広告みたいだ。
 その隣にも折り重なるようにして、ポスターが貼られている。似たような字体で兵士募集中、と戦争への参加を募る文面が並んでいた。
 戦争への参加、不参加は名目上希望制である。が、戦況次第では全ての成人男性が徴兵されるのでは、という噂も立っているのが実情だ。戦いを起こすのも武器を作るのも、何をしようと結局は人の手によって行われる。人材の確保は戦争を推進する政府にとって即急な課題であり、深刻な人手不足が全国各地で大きな問題となっている。戦争に行った者は死んでゆき、民間人も巻き込まれれば、その問題はさらに深刻化するだろう。
 視線をずらすとそのポスターの下部、比較的小さな文字で書かれたとある文言が視界に入る。”全国各地の戦線で活躍できる少年兵も募集中”という記載に、スザクは不意に目を奪われたのだ。
「全国各地で……」
 首の下で揺れる鍵が雪の光を反射して、ちらちらと輝いている。
「また会えるのかな、お前に」
 物言わぬ唯一の彼への手掛かりは、スザクの問いかけを肯定しているように見えた。



 どこ見て歩いてんだ、新兵!
 喧騒と雑音がひっきりなしに響く工場内に、男の声が轟く。周囲の人間はみな声のするほうへ一瞬振り向くが、それも人が瞬きするのと同じくらいの時間だ。一斉に向けられた意識は刹那のうちに霧散し、各々は割り当てられた作業に没頭していった。
 鋭い怒号が稲妻のように頭のてっぺんから浴びせられ、スザクはただただ縮こまる他なかった。
「すっすみません、すみません」
「お前みたいなガキはすぐ死んじまうかもなあ」
 冗談にしては質の悪い内容に内心どきりとしたが、男はそれだけ言い捨ててどこかへ行ってしまった。しかもすれ違いざま男に、わざわざ肩をぶつけられたから、両手に抱えていた小銃がけたたましい音を立てて床に散乱した。
「何やってんだガキの新兵、早く武器持ってこい!」
「は、はい、すみません! 今行きます!」
 今日だけで人に謝るのは、一体何度目になるのだろう。もはや”すみません”が口癖になった今では、意識せずとも口から発することができるようになった。
 スザクは足を縺れさせながら、己を呼ぶ声へ駆けた。


 師走がつい先ほど通り過ぎたばかりの厳冬、日本はブリタニアとの開戦がもう間近という状況であった。
 来たるブリタニアとの全面戦争を前に、大日本帝国の主義思想を遵守、崇拝する者たちが中心となり、着々と準備を整えている真っ最中である。打倒ブリタニア、勝つのは太陽のいずる極東の島国、我々日本国だ。それが彼ら、ひいては日本国全体のスローガンとされた。
 娯楽や贅沢は一切禁止となり、我慢と忍耐こそが美徳であると喧伝される。スザクの通っていた道場も日に日に門下生は減り、ついには閉鎖されてしまった。剣の師であった藤堂の行方は分からないが、一部の生徒らは徴兵で戦争に行ってしまうらしいと噂している。スザクとさして年齢が変わらない他の門下生らも、家の手伝いや労働力としてこき使われたり、少年兵として出兵を志願する者も居た。
 実家を出入りしていた家政婦らの姿もめっきり減った。賃金稼ぎのために若い娘が時折訪れるくらいで、殆どの女性たちは家の畑仕事や家事にかかりきりになってしまったらしい。

 スザクの生家である屋敷は代々神職に携わってきた先祖が受け継いできたものらしく、資産価値がどうとか、枢木家の末裔だとか、大人たちは難しい話をよくしていた。スザクにはこれっぽちも会話の意味は分からなかったが、自分の家が平凡な家庭ではないことは肌で感じていた。
 屋敷には毎日のように入れ替わりで家政婦が出入りしていたが、父親の姿を見たことは殆どない。しかし、普段は見ることを禁じられているテレビや新聞を盗み見たとき、たまに映っている父親の顔を見かけて、スザクは初めて父親の仕事を知ったのだ。

「……父さん」
 父親は殆ど家に帰ってくることはないが、この日は珍しく戻ってきていた。とは言ってもすぐに出発する準備をしているから、ほんの”寄り道”程度なのだろう。
「話があるんだ」

 スザクが父親の仕事を知ったのは、テレビに映る見覚えのある顔が、難しい言葉を話して、多くの聴衆の面前で何やら主張したり、演説している様子を見たことがきっかけだ。顔の横に表示されていたテロップには内閣総理大臣、とご丁寧に役職名が記されてあった。
 きっちりネクタイを締めて糊のきいたスーツを着込んで、マイクに向かって弁論をしている。その姿が公共の電波に放映されている。少なくともその男が、一般人が全うできるはずのない職務に就いていることは、幼心に察することができた。
 スザクの父親、枢木ゲンブは日本国の首相であったのだ。
 質の悪いワイドショーや週刊誌には、歴代総理大臣の中で最も愚かで我が身大事な売国奴と評されている。そんな父親の評価について、スザクは肯定も否定もする気はない。スザクにとって父親とは、幼い頃からろくに構ってもらえたこともなく、家に居ることも殆どない、他人同然の人間だからだ。好きでもなければ嫌いでもない、あの男に興味すら湧かなかった。
 それとなく話しかけようが、あの男の視界にすら入れてもらえない。もしかすると父親には自分のことが見えていないのでは、と錯覚するほど、スザクの存在は”なかったこと”にされた。それを遠巻きに見守る家政婦たちの憐れむ視線が、何よりもスザクを惨めにさせた。

「俺、兵隊になって、戦争に行こうと思う」
 玄関でぴかぴかの革靴を履く父親の背中に、スザクは語りかけた。
 人を殺し殺される戦争に我が子が行くとなれば、いくら冷たい父親だって涙のひとつくらい見せてくれるかもしれない。あわよくば此度訪れるであろう戦争を、取り止めてくれるかもしれない。スザクは淡い期待を抱いていた。ゲンブにはそれができる地位と権限と発言力が、きっとある。
「そうか」
 ゲンブはそれだけ呟いて、玄関を出て行った。最後の別れとなるかもしれない一人息子を置いて、振り向くこともなく、まるでそれが当然の理であるかのように、静かに家を後にした。
 それがスザクとゲンブの、親子としての最後の会話となった。


 もはや未練も思い出も家族も失った。
 かくして少年兵として入隊したスザクに待ち構えていたのは、厳しい訓練や仲間との出会いと別れ、あるいは軍人学校での忙しない日々でもない。まるで洗脳のように怒号を浴びせられ、何に使うのかも分からない武器を淡々と作っては運ぶだけの単調な毎日であった。
「そこの小僧! この袋、あっちの部に届けてやって」
「はい、分かりました」
 ずっしりとした麻袋は何かの部品か、鉄砲の玉でも入っているのだろうか。
「あんまり雑に扱うと爆発するから気をつけてな」
「えっ、あっ、ええ!?」
「あはは、冗談だよ」
 新兵、とくに子供は上の人間に八つ当たりを受けたり理不尽に叱られることが多い。だが彼らは人間として性根が腐っているわけでもなく、心が荒んでいるわけでもなく、むしろ戦争が目前と迫り、活気に溢れていたのだ。怒鳴りつけられるのと同じくらい冗談を言っては笑い飛ばし、スザクを可愛がってくれた。
 ブリタニアとの戦争に、日本は勝てるはずがない。誰も口では言わないが、みな思っていることは同じだろう。世界は負け戦だと日本を嘲笑う。しかしそんな逆境の中で、廃液と排気ガスにまみれながらも人々は支え合っていた。


 気温も徐々に上昇し、降り積もった雪が溶け出す春の始め。新たな生命の息吹がそこかしこから聞こえてくる季節、日本はブリタニアから宣戦布告を受けた。世界各国の予想では日本国軍が玉砕覚悟でブリタニア本土を襲撃すると思われていたから、ブリタニア軍の唐突な攻撃は世界を震撼させた。
 日本としては、本土決戦が一番避けたかったシナリオだっただろう。ただでさえ小さな島国である日本では他国からの救援も海を渡らねばならないため、物資や食料の不足は免れない。そしてこの国の性質上、領土の半分以上は人の住めない山間部に覆われている。ただでさえ場所の狭い都市部を焼け野原にされては、人の住む場所がうばわれるのだ。
 そしてもうひとつ世界を驚かせたのは、ブリタニアの強大過ぎる戦力である。此度の実戦で初導入されたという有人兵器、ナイトメアフレームの圧倒的な殲滅力により日本はあっという間に窮地に陥った。ナイトメアフレーム一機で戦車云台分もの火力を誇るというから、ブリタニアの資金力と生産量は世界じゅうの国々と比べても、頭ひとつ抜きん出ている。

 スザクも己を実戦で配備してくれと志願したが、まだ年齢の幼い少年兵は重火器を担いで匍匐することもままならない。せいぜい敵の鉄砲玉や爆弾の的になって揺動させることしかできないだろう。そう判断された新兵たちは、戦地にほど近い野戦病院をたらい回しにされ、休むことなく怪我人の応急処置に追われた。
 スザクもそうして、北は奥州、南は四国まで全国各地の野戦病院を転々とするはめとなった。男手はみな戦に駆り出され、どこも圧倒的に労働力が足りないことから、実際のところは幼い新兵といえど立派な人手として重宝されていた。かくして軍人として全国各地に出兵する、という当初の目的は果たされなかったが、どちらにせよ各地を飛び回ることができるため、スザク自身これはこれで都合が良いと楽観的に捉えていた。元より軍人を志願した理由も、お国のため、家族のためでもない。少年に再会できることを夢見ての、不純な動機だった。

 病院内で勤める看護婦や医者、口がきける兵士たちに、スザクは決まってこう尋ねる。
「この鍵の持ち主を知りませんか?」
「鍵?」
 首にぶら下げた紐――の先に結わえてある一本を鍵を空にかざしてみせた。
「僕は持ち主にこれを託されたんです。どうにかして再会できたら、これを返したい」
「連絡先とかは交換してないの? その人の名前とか、顔は?」
「名前も顔も住所も分からないんです。でも、僕は」
「それじゃあ探しようがないよ」
 彼の足跡を辿る手掛かりは鍵ひとつと、外国人のような端正な顔立ちであること、思想主義者として憲兵に追われていた身であったこと。自称皇子であるという情報は裏付ける証拠がないため、当てにならないと判断した。

「この鍵の持ち主を知りませんか?」
「何だいそれは。落とし物?」
「僕はこれを託されたんです。もう一度会えたら、返してほしいと」
「可愛い女の子か? それとも初恋の相手?」
 スザクの真剣な問いかけに、とある野戦病院の婦長は冗談交じりに茶化して答えた。
「ちっ違います! 相手はたぶん男で、俺の友達なんです!」
 顔を真っ赤にしながら、つい大声で反論してしまった。これでは彼女の冗談を肯定しているようで、余計に恥ずかしくなる。

 初恋が一体どんなものかも、スザクはまだ知らない。甘くてふわふわしてて、きらきら輝いていて、でも実体のない、よく分からないもの。それはどんな匂いや味がして、触れるとどんな感触がするのだろう。
 ”好き”にも種類が色々ある、ということを、病院内で働く女の子たちの噂話で聞いたことがある。友達への好き、家族への好き、異性への好き。スザクには元々家族らしい家族は居なかったし、異性のこともよく分からない。あの寒い月夜に語り合った少年――鍵の君は友達に対する好き、なんだろうか。
「……初恋って、どんな感じなんですか?」
 スザクの唐突な質問に、婦長は困ったような、照れたような顔をしながらうんうんと唸った。難しい質問だねえ、と間延びした声で呟いてから、彼女はこう続けた。
「一緒に居るとドキドキするけど、もっと一緒に居たくなって、心臓がぎゅってなる感じ、かなあ? あっはっは恥ずかしいねえ!」
「……俺にはよく分かんないです」
 首から下げた鍵を握りしめて、スザクはぽつりと呟いた。
「坊やはどうしてそんなに、その友達に会いたいの?」
「どうしてって……」
 なぜ会いたいのかという簡単な問いであった。しかしスザクは答えられなかった。会いたい理由を考えたことすらなかったからだ。むしろ会いたい理由なんて最初からなかったのだ。ただひたすら思うことは、話したい、彼のことをもっと知りたい、今度こそきちんと顔を見せてほしい。それは人になら誰でも備わっているであろう原初的で、当たり前の心理のようだった。
「坊や、君は今いくつ?」
「今は十歳です」
「ならあと七年か八年も経てば、きっと分かるさ。初恋ってどんなものか、ってね」
「そんなにかかるんですか?」
「男ってそういうもんなんだよ、あっはっは」
 婦長は快活な笑い声を上げながら、スザクの小さな頭をくしゃくしゃと撫で回した。


 微かな生命の息吹も春一番の嵐の前ではかき消されてしまう。それでも土からは新緑の若芽が顔を出し、枝に生えた柔い蕾は花を綻ばせる。地面の下に眠っていたいのちが暁を覚え目覚めだす頃、ブリタニアからの本土襲撃も苛烈さを増していた。
 当初は病院へ運ばれてくる怪我人も、応急処置の手当てをすれば回復の見込みがある兵士や民間人ばかりであった。しかし日を追うごとに搬送されてくる怪我人の数も、その怪我の深刻さも比例して増加の一途を辿る。野戦病院内で収容できる人数はどこも空きはなく、大怪我を負った人たちが打ち捨てられたゴミのように死んでいった。
 たとえば洞窟だったりテントだったり、使われなくなった建物を病院に宛がっている。いつしかその内部は消毒液と汚物、血液や膿の悪臭で充満していた。最初は耐え難い刺激臭であったが、四六時中そこで働き続けているうち、嗅覚も麻痺して何も感じなくなった。
 スザクが初めて見た大怪我を負った兵士は、爆弾で手足がちぎれている人間だった。それを人間と呼ぶにはあまりに必要な部分が足りておらず、肉塊と呼ぶにはあまりに生命力に満ちていた。兵士はまだ死にたくない、と病院内の職員に嘆願するものだから、みな涙を流しながら処置に当たっていた。
「この鍵の持ち主を知ってますか? 知っていたら瞬きを一回、知らなかったら瞬きを二回してください」
 ベッドで横たわる血だらけの兵士たちに、スザクは毎日のように問い続けた。まるでそれが日課であるかのように、その質問は行われた。そして返ってくる答えはどれも瞬き二回――知らない、とみな口を揃えていた。


 春の報せも通り過ぎた頃、やがてこの国は初夏を迎える。若い枝葉たちは瑞々しい新緑へと成長し、高くなった太陽の日差しを受けてのびのびと成長するのだ。
 しかし病院内の衛生環境は夏に近づくにつれ、ますます悪化の一途を辿った。
 塞がり切らない傷口には蛆が湧き、神経を失った手足の末端は腐食の速度がぐんと早まる。患者たちの糞尿から感染病が蔓延し、病院に従事している職員たちも巻き込まれ、多くの人が亡くなった。幼い女児や働きっぱなしの大人、老人はとくに免疫力が低く、一度感染すると回復することなく死んでいく。毎日怪我人として運ばれてくる人数と同じだけの死体を、病院の外へ運ぶことも珍しくなくなった。

「この鍵の持ち主を探してるんだけど、知りませんか?」
「鍵? 落とし物?」
「いいや、違うんですけど……」
 いくつかの病院を転々とし、スザクがいくつ目かに訪れたのはトウキョウ租界近くの病院であった。日本の旧首都であった東京都内は今回の戦争で最も苛烈さを増しているといい、辺り一面は文字通り焼け野原という惨状だという。もはや民間人で生存者は居ないとも言われている。
 ブリタニアが敷いている戦争条約によれば租界内での交戦は条約違反となり、戦後は戦犯として裁かれるのだという。スザクはこれを初めて聞いたとき、なぜ戦争にルールがあるのか理解できなかった。平和なときに人を一人でも殺せば犯罪なのに、なぜ戦時中は人を多く殺したほうが勝者となれるのだろう。
 東京近辺ではやはり怪我人や死者が毎日のように、おびただしいほど運ばれてくる。しかし他の地域と明らかに違うのは、兵士として戦わされている中に子供が混じっていることであった。
「じゃあなんでその人を探してるのよ」
「また会えたとき、返してほしいって言われたんです。だから俺は会わなきゃいけないんです」
 今日運ばれてきたのは、スザクとさして年齢も変わらないような、一人の少女であった。彼女は小脇に小銃とナイフを忍ばせ、体のあちこちに傷を負っていた。その小さな体躯で、大人の男たちに混ざって戦っていたのだろうか。
「返さなきゃいけないものを、どうしてその人はアンタに渡したの?」
「それは…友達だから……」
「じゃあなんで友達なのに、顔も名前も知らないの?」
 やけに血気盛んで物怖じしない態度の彼女に、男であるほうのスザクが気後れしてしまうほどだ。触れるだけで切れそうな、鋭いナイフのような言葉がスザクの柔らかい部分を容赦なく抉る。
 友達なのに、顔も名前も知らない。どこで誰に鍵の君について尋ねても、誰もがその点に疑問を持ち、理解をされなかった。
 でもスザクは確かにあの瞬間、彼と友達でいられた。過去の思い出が美しく理想的に昇華されて、スザクが勝手に彼とは友達であった、と思い過ごしているのかもしれない。だがスザクと少年との関係性が何であれ、スザクが少年に会いたいと思う気持ちだけは嘘偽りのない事実であった。
「ねえ、アンタ名前は?」
「……スザクです。そういうあなたは?」
「あたしはカレン。紅月カレンっていうの。……ね、名前なんてたったこれだけで知ることができるのよ」
「名前は聞いても、教えてくれなかったんです」
 鍵の君は自身の名前も、出身地も、どうして追われていたのかも、自分のことについては何も話さなかった。スザクは自分の名を名乗ったが、名前以外のことは何も話さなかった。相手が何も話さないから、自分も何も打ち明けなくていい。そんな歪なコミュニケーションが、スザクにとって心地よいと思えていた。
「冷たい人ね。スザクがこんなに探してるのに、姿を見せないなんて」
 自分をカレンと名乗った少女は緋色の髪の毛をかき上げながら、とくに別れの言葉を寄越すこともなく、スザクに背を向けてしまった。怪我を負っていた部分はとくに致命傷でもなかったようで、包帯と絆創膏で応急処置をしてもらって、やることは済んだあとだったらしい。
 消毒はきちんと行わないと、これからの季節はとくに大変だ。ばい菌が入ると化膿して膿が出たり、傷口が塞がらなかったり、腐り落ちたり虫が湧いたりする。小さな傷口が治りきらず、最終的に悪化して命を落とした人をこれまで何人も見てきた。どんなに元気のある人でも、病に侵され血を流し続ければ、誰だって死ぬときは死ぬのだ。
 どうかあの少女も、怪我が快方に向かいますように。スザクは縋るような思いで祈りを捧げた。

 初夏が訪れると、日本ではあっという間に短い雨期が始まる。毎日ぐずついた天気が続いて、日の光はなかなか土地を照らさない。そうした湿気の多い時期になると、衛生環境はますます劣悪の一途を辿るようになった。
 ベッドに乗るのはよっぽどの重傷者のみで、残りの人間たちは地面にそのまま寝転ばされる。もちろん決して綺麗な場所でもないから、すぐさま感染症が広がり、多くの人が死んだ。死んだ人を退けて場所を空け、そこに生きた人を運んでくる。またその人が死んで、生きた人が運ばれてくる。しばらくそんな作業を繰り返す日々が続き、スザクを含め病院で勤務する人たちはみな心が死んでゆくような心地がした。
 だがそんな鬱々とした日々はあっけなく終わる。


 長いようで短い梅雨がまもなく明けるころ、久しぶりに快晴となった青空に突き刺さるような鋭いサイレン音が鳴り響いた。それは日本がブリタニアに敗れたことを報せる、敗戦の合図であった。

 病院内に、ラジオの音声が静かに響く。一台のラジオを真ん中に置いて、それをみなで耳を澄ませて聞くのだ。
 アナウンサーが既に用意されているらしい原稿を、無感情に淡々と読み上げる。それを一言一句漏らさぬよう、聞きかじるように傾聴した。ある意味異様な光景である。
 その臨時放送曰く、ちょうど今朝、日本政府がブリタニアの提案する無条件降伏を受け入れる形で決着が着いたらしい。つい昨日まで打倒ブリタニアをスローガンに掲げ徹底抗戦を示していたのに、一体どういう風の吹き回しであろうか。誰もが当然抱く疑問は、このあと告げられる”訃報”で納得せざるを得なかった。

 ──明朝、徹底抗戦を主張し続けていた枢木ゲンブ首相が亡くなったと、政府から発表がありました。この報せを受け、臨時代表である副首相の決定により、神聖ブリタニア帝国の無条件降伏を……

 首相の訃報は同時に実父の死を知らせるものだった。だがスザクはその報せを聞いても無感情で、まるで見知らぬ他人の死を聞かされている心地になった。
 昨夜まで降り続いていた雨はからりと止み、空はどこまでも晴れ渡る快晴だ。皮肉にもこの終戦を祝福しているかのような、あるいは、抗い続け血に塗れる人々を嘲笑うかのような晴れ空だ。
 

「この鍵の持ち主を知りませんか?」
「さあ、知らないなあ。ここらはもう負傷した兵士ばかりだし、租界の近くに行ってみたらどうだい」
「租界の近く?」
 ラジオの臨時放送を聞きに集まっていた人に、スザクは無差別に聞いて回っていた。”この鍵の持ち主を知りませんか?””会いたい人が居るんです”と。
「租界の内部で交戦は禁じられているだろう。だからその近辺は、シンジュクだとかここらより被害はマシじゃないかなあ」

 ようやく有益かもしれない情報を手に入れたスザクは礼を言い、さっそくトウキョウ租界――ブリタニア人の居住区域の近辺を目指した。スザクが最後に留まっていた病院は租界からそれほど遠すぎる距離でもなかったため、徒歩で移動できると判断したからである。もとより、破壊され尽くした街に電車や車といった交通手段があるはずもないのだが。
 軍に所属している以上、命令外の単独行動は当然ながらご法度だ。生存している者、死んだ者、行方知れずの者を調べるため、やがて招集がかかるなり調査団がやってくるだろう。だが突然の終戦宣言と、多くの人間が散り散りになった現状である。そこらに転がってる死体の身元だって判断つかない。行方不明者は生きているのか死んでいるのか、もう訳が分からない。未だに現場は大きな混乱に見舞われているだろう。そんな中、無名の少年兵がひとりやふたり居なくなったところで、誰も気づきはしないのだ。
 関東平野は見渡す限り焼け野原で、あたりにはごろごろと死体が転がっているような惨状だ。ごみ捨て場かと思えるほどの異臭が立ち込め、猛烈な直射日光を浴び続けた死体は早くも腐食が始まっていた。
 そうして視覚も嗅覚も麻痺し始めた折、街の原型がぽつりぽつりと残る景色が現れ始める。どこが道でどこに建物があったのか、これはゴミなのか土なのか人間の一部なのか。この世の地獄のような景色が一転し、貧しいながらも人々が支え合い、細々と人目に隠れるようにして生活する地域がそこにはあった。
 どんな逆境の中でも、人はこんなにも強かな生き物であり続けられるんだ。スザクはある種の感動すら覚えた。


「そこのあなた、退いてくださーい!」
「えっ?」

 背後から突然甲高い女性の声がスザクの背中を突き刺した。
 退くって、どこに、どのくらい、どの方向に、何から退けばいいんだ?
「危ない、危なーい!」
 半ばパニックになるスザクをよそに、”それ”は突如スザクの足元に襲来した。
「逃げないで猫ちゃん、怪我してるんだから!」
「は、え? え?」

 スザクの脛にぶつかった黒い珍獣――もとい猫は、スザクの両脚をすり抜けてまた駆け出そうとしている。
「その猫ちゃん捕まえてください! 怪我をしているんです!」
「ああ、えっと……」
 見知らぬ女性に言われるまま、スザクは真っ黒の胴体を両手で鷲掴み、逃げ出さないように捕まえてやった。
 これで良いのだろうか。心なしか不安になる中、スザクを呼び止めた女性は顔を覗き込むようにして、スザクの真正面にしゃがみこんだ。
「有難う御座います。この子、前脚を怪我しているんです。歩き方がおかしかったから、多分」
 スザクの両手で動きを制御された猫は、ぐるぐると喉を鳴らして威嚇し始めていた。動物の生存本能としては当たり前の行動だろうが、少し居たたまれなくなる。いくら猫のためとはいえ、無体を強いていることには変わらないのだ。
「ふうん、どこに怪我を……っいて、いてて!」
「あらやだ、駄目でしょ猫ちゃん」
 多少なりとも一般人より応急処置の知識や経験は多いほうだ。人間相手にしか処置をしたことがないが、動物だって、消毒をして包帯を巻くくらいなら要領は同じはずだ。
 怪我をしているという前脚の状態をスザクが見てやろうととしたところ、その珍獣はあろうことか目前にあった指に思い切り噛みついたのだ。もはやスザクのことを天敵と認識しているのか、この動物はなかなか牙を緩めようとしない。
「怖がらないで、ね。今あなたの怪我を治してあげるからね」
 彼女は猫のまんまるとした目を覗き込んで、優しく語りかけた。するとどうだろう。不思議なことに猫は威嚇行動を途端にやめて、大人しくニャア、とひとつだけ鳴いた。

 内ポケットに入れていたボトルの水で傷口を濯いで、残り少ない包帯を巻いてやれば、応急処置は完了だ。鋭い何かで切られたような跡は、傷口こそ浅いものの、やはり痛々しい。ガラスの破片だったり金属の断面で足を切ってしまったのだろうか。
 物言わぬ猫は感謝の言葉ももちろん発しないが、大きな双眸でスザクを見つめて、長い尻尾をくゆらせてみせた。
「お前、意外と可愛いな」
 スザクがそう呟いて猫の額に触れようとした瞬間、その生き物は容赦なく翳された指先にかぶりついたのだった。


 探し物なら交番に届けるといいですよ、と彼女はさも当然のように答える。それは百人中百人が答えるような定型文であった。
 スザクは相変わらず懲りる様子もなく、鍵の持ち主について女性に尋ねている真っ最中だ。
「そうじゃなくて、俺が探して会いに行かなきゃいけないんだ」
「うーん、難しいですね」
 自らをユフィ、と名乗った彼女は顎に手を据えて考え込む仕草をしてみせた。
 日本人では見かけない大きな瞳や色白の肌、そして聞き慣れない人名から察するに、この女性は少なくとも外国人だ。そしてこの近辺──租界の周辺で行動しているあたり、恐らくブリタニア人に間違いない。戦時中を過ごしていたとは思えないほど綺麗な洋服と艷やかな髪の毛をしているから、塀の内側で保護されてきたのだろう。
「じゃあ、私のお願いをひとつ、聞いてくれてもいいですか?」
「ユフィの?」
 予想外の提案におっかなびっくりしつつ、その先を促した。
「はい。あなたの…スザクの探し人を見つけるお手伝いをする代わりに、スザクは私のお願いを聞いてほしいんです」
 協力的なのか非協力的なのか、第一印象は優しそうな女性かと思ったが案外侮れない相手らしい。手伝ってもらえるなんてこちらから願いたいほどだが、お願いとやらの内容によってはきっぱり断らねばならない。願いとはなんだとスザクが続きを催促すると、彼女は意を決した表情でこう言った。
「私を、戦争があった場所へ連れて行ってください」

 死臭と血と膿、火薬と土煙の臭いが立ち上り、頭上にある太陽は死体をじりじりと焦がしていた。むせ返るほどの刺激臭に思わず顔を顰めたが、隣の彼女は凛とした表情を崩すことなく、その地獄絵のような景色を見つめていた。
 租界でぬくぬくと守られている間、外は人が人を殺し殺される世界が広がっていた。彼女の目にはその景色がどのように映っているのだろう。日本人はやはり愚かだと見下すか、なんと憐れで可哀想な人種だと同情の念をスザクへ寄越すか、戦争なんて許せない、と拳を握って怒りに震えるか。どの感情を向けられたところで、スザクはどれも要らないと思えた。
 だが彼女は怒りで声を上げることも、泣き叫ぶことも、死んでいった人々を笑うこともしなかった。何も言わずただ静かに、一面に散らばるそれらを見つめていた。
「それ以上行くと危ない」
 ユフィはそれでもその先へ行こうとするから、スザクは思わず声を上げて制止した。あまり立ち入ってしまうと、不発弾だったり地雷が埋められているかもしれない地面を踏むことになる。
「最後に一度、この目で見ておきたかったんです」
 ぴかぴかに磨かれていたヒールは土で汚れて、見る影はとうにない。それにすら気が付いていない彼女は自分の身が汚れることも厭わず、死体の山に向き合った。
「この国の、良いところも悪いところも、悲しいところも全部」
「どうして?」
「日本が好きだからです」
 灰になった地に突如舞い降りた天使のように、ユフィは屈託のない微笑みを浮かべた。忌々しい太陽の日差しだって、彼女の背中を照らす暁の光にだってなれる。
 ユフィは恐ろしいほどまでにどこまでも素直で、純朴で、清らかな人間であった。



 終戦協定が結ばれ、戦後処理が間もなくして始まった。
 日本国は敗戦国となったのち、ブリタニア帝国の植民地として正式に決定した瞬間でもある。
 まずはじめに、日本は軍隊を有することを禁じられた。統治国――ブリタニア帝国の許可なしに武装することはテロ行為とみなされ、ブリタニアが定めた法で裁かれるのだ。
 そして代わりに、名誉ブリタニア人で結成された軍隊が国家防衛の役を任されることになった。名誉ブリタニア人とは、日本人国籍の者が自己申告で希望すればブリタニア国籍になれる制度で国籍を移した人間――元日本人のことを総称する。名誉ブリタニア人になれば被支配者階級から抜け出すことができ、他の日本人より比較的豊かな暮らしを約束される。行動範囲や自己資産の保有、職業の幅や医療、教育など、あらゆる面で控除や優遇を受けることができるのだ。
 しかしこの名誉ブリタニア人制度は、国家の推測ほど日本人に受け入れられなかった。
 ブリタニアへ国籍を移した者は日本人から売国奴、裏切者、恥晒し、親不孝者と散々な言われ方をして、後ろ指で指される生活を余儀なくされるという。
 血統による優位性を幼い頃から教育され育てられたブリタニア人にとって、そのような名誉ブリタニア人に対する理解はやはり薄い。日本人は野蛮で横暴、知能は猿以下の下等生物だと教えられてきた彼らは、名誉ブリタニア人を腫れ物のように扱い、気味悪がった。

 帰る場所も家族も後ろ盾も失っていたスザクは、”枢木家の嫡子”という過去を捨てるいい機会だと考えていた。
「俺……いや、僕は、名誉ブリタニア人になるよ。それで軍人を続ける。君を見つけるために」
 薄汚れた鍵を握り締めて、スザクは誓った。この先に彼と繋がっているであろう空と、自分たちを引き裂いたちっぽけな世界に向けて。