千年騎士 一章

 夕焼け雲が棚引く時分、暁の空には烏の群れが列を成し、巣へ帰ってゆく。野鳥だけじゃない。野良猫も虫たちも人間も同じように、家族や仲間と暮らす寝床へ帰ってゆくのだ。なにぶんこの時期の夜は寒過ぎる。深夜ともなれば零度あるかないか、というくらいだ。とてもじゃないが生き物が活動するにはあまりに過酷である。
 昼過ぎに降った雪がまだ道路に残っていて、それらをさくさくと踏み締めながら帰路を辿る。無数に残る足跡をなぞるように、そこへ自分の足跡も加えていく。

(今日の藤堂先生、怖かったな)
 先ほどまで行われていた稽古の内容を、何となしに思い返していた。いつも怒鳴られることはままあれど、今日は特に自分にばかり雷が落とされていたように思う。嫌われている自覚はないから”たまたま”だと信じたい。周囲の生徒たちには散々笑われたから、来週は全員まとめて叩きのめしてやる。

 スザクは家の方針で半強制的に剣道とそろばん、習字を習わされている。剣道は体を動かせるから楽しさもあるが、あとの二つはてんで性に合わない。じっと座って一点に神経を研ぎ澄ます、集中する、ということが全般得意ではないらしい。
 道場の師範である藤堂先生は怒るととくに怖いことでもっぱら有名だ。怒っていなくても、素の顔が強面だから余計に怖い。だから、というわけでもないが、どんなに億劫な時でもスザクは剣道の習い事をサボったことがない。他のふたつは言わずもがな、という有様であったが。

(なんか今日の道、へんだ)
 いくら日が短くなったからといえ、まだ夕焼け空が燃えるような明るい時間帯だ。スザクのように習い事を終えて帰宅する子供や、夕飯の買い物帰りの主婦だったり、放課後遊ぶ中学生の集団、いつも見かける人間たちが忽然と姿を消している。いっそ不気味なほどだ。顔見知りのお婆ちゃんも、年上だからって生意気な中学生も、いつも声を掛けてくれるおじさんも、今日は見当たらない。
 後ろを振り返ってみても、人っ子ひとりすら姿がない。まるで正月の朝みたいな静けさだ。
 道を間違えたかと思ったが、そんなはずもない。毎日のように見る、歩き慣れた通い路だ。変わったことといえば塀に立て掛けられた看板に、今朝まではラジオ体操の張り紙がされてあったのが、今は兵隊募集の張り紙に変わっているくらいだ。

 人気のない道路を突き進んでT字路に突き当たり、そこを右に曲がって、細い路地を道なりに進んだところにスザクの家がある。

 今日も昨日と寸分変わらぬ曲がり角を右に進もうとした瞬間だった。不意に、思わぬところから思わぬ形で衝撃を受けた。
「わあっ」
「いっ…!」
 ドン、と不意に左肩に何かがぶつかって、そのまま尻餅をつく形で体が倒れた。
「すまない、えっと……」
「った…! 誰だよ、一体!」
 咄嗟に腕をついたから全身ですっ転ぶというヘマさえしなかったが、それでもお尻は痛いし、手のひらは擦り剥いた気がする。痛みに任せて思わず大声を上げたのはスザクのほうだ。
 突然反転した視界に軽い目眩を覚えつつ、スザクは突然ぶつかってきた何か、の正体を特定した。
 スザクと背丈はそう変わらない、男なのか女なのかは判別がつかない子供だった。骨格は華奢で細く女っぽいが、服装は地味でぼろいズボンを履いているから、男かもしれない。頭には目深に被った帽子があって、顔の半分ほどすっぽり隠れてしまっている。僅かに見える口元だけでは、性別は判断つかない。
「前見て歩けっての!」
 前方不注意なのはスザクとて同じなのだが、頭に血が上っている今じゃ冷静に考えることもままならない。スザクがこうして声を荒げても言葉を発さない相手は何も思ったのか、遂にはそのまま立ち去ろうとしたのだ。
「おい、このっ! んだよ、もう!」
 雪にまみれた袴を手のひらで叩きながら、スザクの帰る方向に走り去っていった失礼なヤツの背中を睨んだ。手のひらは冷た過ぎて痛みすら感じるし、何よりぶつかられて転ぶなんて、かっこ悪すぎる。相手は少しよろめいただけで尻餅なんてついていなかったから、余計に恥ずかしい。

 地面に落とした竹刀を拾い上げたスザクは再び立ち上がり、分かれ道の右側へ足を向けた。今度はぶつかってきそうな奴がいないか、入念に左右確認をしてから。

「ちょっとそこの君、いいかな」
「……はあ」
 今度は背後から聞こえた耳慣れない声が、スザクの帰路を邪魔しようとする。
 一体今度は何なんだ、と向かいにあるT字路の反対側を振り向いた。
「えっと……」
 てっきり道案内でも頼まれるか、宗教の勧誘か、高い壺でも売りつけられるのか、そういう類だと思っていた。だからそこに立つ、やたらと体格の良い男二人の影に、スザクは思わず後退りしかけた。
 男たちの脇にはぴかぴかに磨かれた銃が一丁ずつ抱えられて、腕には日本国旗を模した模様の腕章がつけられている。詰襟の軍服風の衣装に、軍帽、薄汚れた黒の長靴という出で立ちに、ようやく合点がいった。いつもは帰りを急ぐ人で溢れるこの道から、人の気配がまるでなくなったことにも。
「このあたりで不審な子供を見なかったかい。背丈は君と同じくらいの」
「探して、いるんですか」
 夕焼けの太陽に反射してキラリと輝く銃口は鋭く、どうしようもない不安に掻き立てられた。

 剣術はとっくに過ぎ去った過去の遺物、チャンバラ遊びの延長だ。今一番強い武器といえば鉄砲だろう。あれに勝てる武器は、あと百年は出てこないかもしれない。
 学校の歴史の先生が授業でぽつりと零した言葉を、不意に思い出した。剣なんて最早前時代的、あんなものを習うなんてノスタルジーに浸りたいだけの愚か者だ、とも言っていた。
 そんな武器を携帯し、街中をうろつくことが許されるなんて、ごく一部の特権を持つ人間だけだ。
「ああ。あいつは思想主義者なんだ。日本国を貶し、ブリタニアに忠誠を誓うことを良しとする、この国の裏切者だよ」
「このあたりに逃げたはずなんだが。坊や、見かけていないかい」
 この男たちは恐らく、地区の風紀と治安を治めることを目的に配置された憲兵だ。
 スザクも詳しいことはよく知らない。だが、大人たちがよく言うには、それは耳障りのいい名目で、実のところは言論・思想統制を行うお上の犬であるらしい。しかも憲兵に逆らえば拷問部屋に連れてゆかれ、罪があろうとなかろうと自供を強要、どちらにせよなぶり殺しに遭う、なんて噂まで囁かれている。
「俺と同じくらいの背の、子供……」
 悪いことを考えている、国にとって都合の悪い奴は大人だろうと子供だろうと、憲兵たちは見逃さない。それは話だけ聞いていたが、まさか作り話でなく現実とは、思いも寄らなかった。
「そいつ、確か…」
 俺の家の方向に向かって走っていった。
 その方角へ指を向けようとしたときだ。足元には桜の花弁のような、小さな血痕がぽつりと新雪に浮かんでいるのを、スザクは見た。
「……確かあっちに行ったよ」
 スザクは自分の背の方向に指を差して、あっち、と呟いた。紛れもなくその方角は、奴の逃げた方角とは正反対だ。
 血の浮かんだ雪はそっと隠すように、足を微かにずらしながら。



 きっとあの男(女?)はかくれんぼが下手くそなんだろうな。スザクは家の前にある石垣に植えられた草花、その茂みに視線を移した。
 
 先ほど接触した憲兵たちはスザクの証言を信じきって、スザクが元来た道を辿って行ってしまった。誤魔化しのきかない、明らかな嘘である。もしばれてしまったら即刻、噂に聞く拷問部屋とやらに連れて行かれるのだろうか。
 言い知れない不安と恐怖に臓腑がぞっと冷える心地がしつつ、ようやく家の門に辿り着いたスザクは、その向かいにある石垣に人の影を見つけた。
「……お前」
「なんで、僕のことを庇ったんだ」
 そこに身を隠していたのは、先ほど曲がり角で盛大にぶつかってきた張本人だったのだ。やはり彼こそ、憲兵たちが今まさに血眼になって行方を捜しているであろう人物であった。そのわりに隠れているのがばればれな身の潜ませ方をして、本当に自分が指名手配犯である自覚があるのだろうか。
「だってお前、怪我してる」
 新雪に散っていた僅かな血痕が、疑いようのない証拠だった。スザクが転んだとき、地面に手のひらをついた際に擦り傷は負ったものの、流血の跡はない。ということはこいつが怪我を負っているとしか言い様がないのだ。
「鉄砲で撃たれたのか」
「かすり傷だ」
「やっぱり怪我してるんだろ」
 指摘してやれば言い返す言葉も見つからないのか、奴はばつの悪い顔をして黙り込んだ。

 急に大人しくなった彼を見て、スザクは背後にある大きな門にちらりと視線を移した。表札すらかかっていない、古めかしく荘厳な門扉は、今は固く閉じられている。
 スザクの視線に釣られるように、彼も不思議そうに背後にある門に目を移した。どうやらスザクの言わんとすることを今ひとつ得ていないらしい。
「怪我、手当てしてやる」
「……?」
「ここ、俺の家なんだ。ちょうどいい隠れ場所があるから、案内する」
「え、あっ」
 石垣に蹲る男の手を引いて、スザクは無理やり歩かせた。あの大きな門は正門と呼ばれるところで、スザク自身はあまり使用しない。目立って仕方ないし、仰々しすぎるからだ。

 少し進んで曲がったところに、錆びた鉄骨でできた小さい門がある。客人以外で家に用のある者は大抵ここを利用するから、裏門と呼ばれていた。
 音を立てないようにそうと門を手動で開け、今まで腕を引っ張ってきた彼を無理やり家の敷地内に押し込んでやる。彼はそんな世話をしなくていい、放っておいてくれと何度も口にしていたが、スザクがそれに応えることは一度もなかった。
 無理に引きずろうとすると時折痛みで顔を顰めるから、きっとかすり傷程度じゃないはずだ。傷口は放置しておくとばい菌が入って膿んだり、腫れたり、治りが遅くなったり、傷跡が一生残ったりするらしい。学校の保険の先生がいつも口酸っぱく説教をするから、すっかり内容も覚えてしまった。
「裏庭の奥、蔵があるんだ。誰も使わない、近寄らない場所だ」
 正門から見える坪庭は綺麗に手入れされていたが、裏門から入る庭は雑草が生い茂り、鬱蒼としている。ぼうぼうに伸び切った草花を踏みしめてようやく、もはや物置部屋にもならない、家の人間からは存在すら忘れ去られた大きな蔵が見えてくる。
「俺の秘密基地だけど、お前は特別に招待してやる」
 とっくに錆びて使い物にならない蝶番を外し、戸を開いてやる。その瞬間土埃がぶわりと舞って、二人は同時に咳き込んだ。
「俺もここには何年も近付いてなかったから、ちょっと汚いけど」
 蔵の中には小さな覗き窓がひとつだけあって、深い藍色の空を映していた。光源はそこだけで、あとは真っ暗だ。天井には一応蛍光灯はあるが、もう何年も前に使えなくなって、以後交換もされていない。

 このぼろくて小汚い蔵の中なら、人間一人くらい匿っていたってばれやしないだろう。
 そんな安直な考えのもと彼をここへ案内したが、蔵の中はあまりに暗く、空気が冷た過ぎた。こんなところで一晩明かせば、夜明けには彼が凍死体になってしまう。
「中で座って待ってろ。外から鍵はかけられないから、大丈夫だ」
 スザクはそう告げると、外から戸を閉めた。毛布一枚と食べ物、体が温まるもの。それと怪我の応急処置のため、救急箱がまず必要だと感じたからである。



「お前、死んだのかと思った」
「無責任な奴だな」
 スザクが蔵へ戻ると、手負いの少年は壁に背を預け、蹲るようにしていた。細い手足を折り畳んでじっとしていたから、寒さと怪我で死んでしまったのかと本気で思ってしまった。
 外はあっという間に真っ暗で、空には一番星、二番星がちらちらと煌めき始めていた。この季節は本当に日の入りが早く、夜が長すぎる。一日があっという間に終わってしまって惜しい。
「俺、スザクっていうんだ。名前は?」
「ごめん、言えないんだ」
「どこから来た?」
「……言えない」
「なんで憲兵に追われてたんだ」
「…すまない」
 そして、この調子である。
 見ず知らずの人間に売った恩を返してほしいわけじゃない。だが、仮にも憲兵に嘘までついて、家の敷地内に匿って、寒さを凌げる場所まで貸し与えてやったのだ。少しくらい心を許すなり、打ち明けるなりしたらどうだ、と思う。

「帽子?」
「そう」
 彼はここに来るまでずっと、顔の半分が影で隠れるほど大きな帽子を被っていた。
 蝋燭の火さえない闇夜の蔵では、覗き窓から零れる月明りだけが唯一の光源である。暗闇に慣れ始めた双眸をもってしても、彼の輪郭がうすぼんやりと浮かぶくらいしか捉えられない。
 だからスザクは、せめて帽子を取って見せてほしいと頼んだ。
 数度頭を捻るようにして考え込んだようだったが、何度目かの唸り声のあと、ああ分かったよ、と返事が聞こえた。
「あんまり見ないでくれ。その、恥ずかしいから」
「お前がもったいぶるからだろ」
 少年はもじもじとしながら、ゆっくり帽子に両手を伸ばし、ようやく頭から外してみせた。
 闇に溶けそうなほど黒い髪がふわりと舞って、小作りな顔がうっすらと見えた。ふっくらとした頬の輪郭は幼い印象がするが、ふわふわと瞬く長い睫毛はどこか妖しい雰囲気を醸している。目の色はよく見えないが、夜が明ける前の、幻想的な紫色を想起させる不思議な色をしていた。
「ガイジンさん?」
 おおよそ日本人離れした、まるで作り物のような目鼻立ちにスザクは思わずそう尋ねた。間近でその整った顔を観察しようとすると、さすがにそれは嫌がられたが。
「ああ、うん」
「どこの国?」
「さあ、どこだろう」
 彼はスザクをからかうようにそう答えて、のらりくらりと質問を躱していた。スザクはそれがどうしても気に入らないのだが、精神的にひと回り大人なのは彼のほうであったらしい。
「当ててごらん」
「ええー。俺、世界地図見てもブリタニアしか分かんない」
「そうか」
 彼の周りの空気がふと揺らいだ気がした。ああこれはもしかして、彼に笑われているんじゃないか。頭の出来はあまり良くないほうだと自覚していたが、思わぬ形でそれが露呈してしまった。
「お前今ぜったい、笑ったろ」
「そんなこと……っふ、はは」
 暗い蔵の中には少年の笑い声と、スザクの不機嫌な話声が静かに響いていた。

 スザクが見たことのある世界地図は、半分くらいの土地が同じ色で塗りつぶされているばかりだった。そしてその色の上には毎回必ず同じ国名が印刷されている。”神聖ブリタニア帝国”という国名を知らぬ人間はおおよそ、今の日本国には居ないだろう。
 世界の領土をみっつに分けたとき、そのうちのひとつがブリタニア帝国になります。そんな説明を社会の授業で何度も耳にした。そしてブリタニア帝国は今もなお植民地を増やし、領土を拡大し続けている。
 そんな、今最も力をつけてきている大国が次に目をつけようとしているのは、極東の島国・日本であった。海に囲まれ豊かな地下資源が多く眠るこの国は、アジア諸国との距離も近い。さらなる躍進を目指す大国にとって、この日本を我が物にしない理由がないだろう。
 日本国内でもブリタニア帝国と全面戦争を起こし、日本人の底力を見せつけてやろうという派閥があれば、戦争など断固反対で、話し合いもしくは無条件降伏を受け入れてしまおう、という派閥もある。しかし国際的にはいつ戦争が起こってもおかしくない一触即発の状況だ。表向き、国としては中立派を主張しているが、実際国内は様々な世論で渦巻いている。
 世界はブリタニアを中心にして回り、かの帝国に従属するか反逆するかでその国家の命運が分かれる、とまで言われる始末だ。この地球はブリタニアかそれ以外か、なんて言い出す輩もいるくらいである。しかしそれは過言でもない。
 日本がもしブリタニアと戦争することになれば、日本が勝てる要素は何一つない。広大な土地に付随する資源、人口、生産量。日本人が束になったところでどうこうできる相手ではないのだ。

 街中に蔓延る憲兵たちは、そうした日本人という人種に対するネガティブキャンペーンや政府の舵取りに対するヘイト、およびブリタニアを称賛したり敬う思想、学問、文学、芸術、その他もろもろを取り締まり、これを排除した。
 憲兵の奴らに目をつけられるということは、彼はそういった何かの思想活動を行っていたのかもしれない。明らかに日本人とは思えない容姿が、スザクの当てずっぽうな仮説に説得力を持たせた。
「すまない、言えないんだ」
 何か悪いことをしていて憲兵に捕まったのか、と尋ねたところ、案の定返ってきた答えはこれだけだった。
「お前って隠し事ばっかりだ」
「それは……」
 彼を傷つけるような言葉を選んだのもわざとだ。素直に”お前のことがもっと知りたい”と言えない天邪鬼な性格に嫌気が差す。

 スザク、耳貸して。
 紡いでいた会話の流れがぷつりと断ち切れたあと、再び繋ぎ直そうとしたのは彼のほうであった。
 少年はスザクのほうへぐっと距離を詰めて、吐息が頬にかかるくらい至近距離まで近寄ってくる。こんな間近で見ても彼の肌には傷ひとつなく、睫毛がぱさぱさとはためく音まで聞こえてきそうなほどだった。

「僕じつは、とある国の皇子なんだ」
「おうじ? おうじさまあ?」
 突拍子のない少年の告白に、笑いを堪えられなくなるのはスザクの番であった。
「そっ、そんなに笑うことないだろ! ああもう、言わなきゃ良かった!」
 彼は恥ずかしそうに顔をそっぽ向けて、頬を膨らませている。
 スザクの想像する”おうじさま”といえば、毎晩舞踏会で踊って、白い馬で駆けて、気障な言葉を囁いてお姫様とくっついてる、みたいな感じだ。ステレオタイプのイメージしかないことを隣の男に話すと、彼は絶句するような、大層ショックを受けるような分かりやすい反応を示した。
「そんなに遊んでばっかりじゃないよ。政治をしたり軍隊の指揮をしたり、戦争を始めたり、終わらせたり」
「……戦ってばっかだな」
 もっとキラキラしていて、華やかで楽しいことばかりだと思っていた。が、現実は想像よりずいぶん苦く、儚いらしい。
「お前だって戦ってるんじゃないのか?」
 彼は小首を傾げながら、スザクの背後にあるそれを指差した。
「ああ、これは剣道で使う道具だ」
「ケンドー?」
 スザクの背後にあるそれ、壁に立てかけてある竹刀を不思議そうに見遣った男は、なおも疑問符を浮かべていた。剣道を知らないなんて、いよいよこれは本当に彼が異国の箱入り息子、彼いわくとある国の皇子、という説明に辻褄が合う。
「柔道は知ってる?」
「ジュードー…ああ、日本の格闘技か!」
 思い出したかのように彼は声を上げた。
 剣道も柔道も実戦で用いるために習う者はなかなかいないだろう。サッカーや野球と同じ、スポーツの一種だ。
「……でも今時、チャンバラごっこなんて古いって、先生が言ってた」
 鉄砲や爆弾兵器が生み出されている現代でわざわざ剣術を習いたがるなんて、ノスタルジーに浸りたい愚か者の行為だ。以前そんなことを言っていた教師の言葉をふと思い出し、薄暗い気持ちになった。
「そうなのか? 僕の国では騎士が剣を携えていて、格好いいのに」
「……騎士って?」
 耳慣れない言葉に、スザクは思わず鸚鵡返しで尋ねた。
「騎士を知らないのか? 皇子や皇女の代わりに剣を振るったり、護るための盾になるんだ」
 いわゆる警備員やボディガードの類だろうか。彼の言葉選びが仰々しすぎて、逆にイメージしづらかった。
「じゃあお前にも騎士ってやつがいるのか?」
 ここには居ないっぽいけど。
 もし彼を守ってくれる騎士とやらが居たら、彼は鉄砲玉で怪我することも、こうして一人ぼっちの逃避行をする必要もなかっただろう。
 スザクの当たり前と言えば当たり前の疑問に、隣の少年は静かに首を横に振った。
「僕はまだ子供だし、それに…皇族の中でも、もっと階級の高い人じゃないと騎士を選任できない」
 皇族といえば国家の中で最も地位の高い人たちという認識であったが、その中でも階級が存在するということは、スザクにとってもはやカルチャーショックに近い。なんだか複雑そうだな、と他人事ながら少年の境遇に同情した。

「じゃあ俺が、お前の騎士になってやる」
「スザクが? 僕の?」
 スザクはそう言うや否や、壁に立てかけてあった竹刀を構えて、振るってみせた。いつも藤堂先生に稽古をつけてもらうときに行う、基本の型だ。
 道場の中でも最年少のスザクは、周囲の年上の生徒たちからチャンバラごっこか? なんて言われて、いつも小馬鹿にされていた。親に言いつけられて仕方なしに習い始めた剣道だったが、そうも言われると負けん気の強いスザクは引くに引けなくなる。いつかああいう、人を馬鹿にするような弱い奴らを見返せるくらい、強くなりたいと思い始めていた。
 他人を見返すため、自分のほうがお前より強いんだと力を誇示するために強くなりたい。そんなスザクの目標にひとつ新たに、”誰かを守るために強くなる”という項目が増やされようとしていた。
「だってお前、鉄砲玉掠っただけで死にそうな顔してた」
 自称皇子であるという少年の顔を覗き込んで、スザクは嫌味たっぷりにそう言ってやった。こんなに顔を近づけても、少なすぎる光源の前ではやはり、その形はよく見えない。
「あは、頼もしいな」
「思ってもないだろ、声が笑ってる」
「本当だよ、ほんとう」
 彼はそう囁くと、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。吐息が頬や唇に当たって、なんだかむず痒い心地になる。

 ふと少年の影が揺らめいたと思えば、頬に柔らかい感触が触れて、ちゅ、と音を立てて離れていった。
 やけに血色の良くなった彼の頬が、照れくさそうに持ち上がっている。その感触がなんだったのか、白を切る前にスザクは気が付いてしまった。先ほど触れた場所がじわじわと熱を持ったみたいに熱くなって、馬鹿みたいに心臓がばくばくと音を立てた。
「俺、お、男……」
 やっとの思いで口を開いたが、結局言えたのはそんな主張だけだ。問題はそこもあるが、もっとそれ以上に言うことがあるだろ、とスザクは内心頭を抱える。
「そんなの、どうだっていいよ」
 が、少年はどこ吹く風だと言わんばかりに、あっけらかんとそう述べた。
「そうなのか」
「うん」
「そっか」
「うん」
 少年は微笑みながら、スザクの頬に、まぶたに、唇に、その形を確かめるように唇を押し付けた。ふにふにと柔らかい感触が、少し気恥ずかしいがそれ以上に優しく温かかった。
 彼の国では友達同士でもこうして、接吻をするのだろうか。外国のどこかには、挨拶の際に頬へ口づけする文化があるらしいから、あり得ない話でないかもしれない。
 唇の温度は冷たいが、触れられた部分がぽかぽかと温かくなるから、寒い蔵の中でも一晩を過ごせそうだ。もっと触れ合えたら、もっともっと体が温まるのだろうか。
「くちびる、あけて」
 少年に言われるまま、スザクはぴったりと閉じていた唇を薄く開いた。少年もまたスザクを真似るように唇を開いて、そのまま躊躇いなく二人のものを重ね合わせた。へこんでいる部分に膨らんでいる部分がはめ込まれて、隙間を埋めるようにそれは被さった。
「ん、ふ」
 顔の向きを変えると粘膜が擦れ合って、何とも言い難い感覚に襲われる。それは不快感こそないが未知の感覚だった。心臓がとくとくと拍を打ち、何も考えられなくなる。擦り合わせるたびにちゅ、ちゅ、と恥ずかしい音が鳴るのは、どうにも耐え難い。
 さすがのスザクも、友達同士でこんなことをするのは間違っていると、頭のどこかでは理解していた。これは友達同士ですることじゃなく、たとえば男の人と女の人がするようなことだ。テレビや漫画で、男女が顔を寄せ合う場面を何度か見たことがある。これはきっと、そういう類のものだ。
「ん、う…」
 お互いの荒い鼻息がふうふうと頬を掠め始めた頃、ついに呼吸が苦しくなって、スザクは顔を離した。
 ぜえぜえと肩で息をしながら、不足しきった酸素をめいっぱい体に取り入れる。どのくらいの間、彼とそうしていたんだろう。恥ずかしすぎてもう顔を上げられる気はしないし、唇は腫れ上がったみたいにじんじんと熱を持っていた。
 俯き続けるスザクをよそに、先に行動を起こしたのはやはり少年のほうである。

 地面に伸びた影の形が変わって揺らめくのが、潤みきった視界からでもよく見える。思わず身構えてしまうスザクに、彼は出来るだけ優しく声をかけてやった。
「スザク、いいものをあげる」
 吐息が唇にかかる距離で、少年が恍惚としながら囁いた。実際のところ表情はよく見えないが、艶がかった声がそういう印象を持たせる。
 彼は自身の首元を探ったあと、紐にぶらさがった何かを取り出した。ネックレスのようにして首から下げていたらしい。アクセサリーだろうか、とスザクはそれを目で追いかけた。
「大事なものを開ける鍵だ」
 紐の先に括り付けられたそれは僅かな月光を受けてきらりと輝いた。
 装飾も何もないそれは安っぽい玩具みたいで、それはなんの変哲もない金属だ。こんな鍵で開けられる”大事なもの”って何だろう。
「俺が持ってていいのか?」
「スザクに持っててほしい」
 膝を抱えながら、少年は照れくさそうにはにかんだ。
「また会えたら、僕に返して」
「また会える?」
 不穏な雰囲気を纏った言葉に、心臓がどきりとした。また会えたら、ってことは、いつかこの少年は自分の前から居なくなる。しかもそれはそう遠くないうちにだ。
 ずっとここに居てもいいのに。そう言おうとしたとき、スザクの言葉は彼に阻まれた。
「僕を探して、会いに来て」
「お前は会いに来ないのか」
「お前は僕の騎士だろう?」
 皇族ってこんな、やな奴ばっかりなんだろうか。少年は腕を組んで、高慢な態度を取ってみせた。
「騎士、誓いのキスは?」
「きっ……」
 ほら、ここに。そう言いながら差し出されたのは、小さな右手の甲であった。アニメやドラマでよく見るあれを思い出して、スザクはようやくその意図を理解した。
 恭しさも尊敬も覚悟も何もない、それは形だけの儀式であった。これでいい? と気恥ずかしそうに尋ねるスザクに、少年は及第点だと苦笑した。

 その日の夜は毛布を二枚重ねて、二人で身を寄せ合って眠った。いつになく凍えるような夜であったが、これにまでないほど優しい時間だった。
 明くる日の早朝、スザクが目覚めたときには既に、少年の姿が忽然と消えていた。



「俺と同じくらいの背丈で、帽子被ってる奴見ませんでしたか!?」
「さあ、私は見てませんが……」
「ごめんなさい、私も心当たりないです」
 家に出入りする家政婦たちはみな揃って首を横に振った。屋敷の裏門はひとつしかないし、日が昇ってから一時間も経っていないから、誰かひとりくらい目撃証言があってもおかしくはない。
 置き手紙もなければ起こされた覚えもない。せっかく一晩寝床を貸してやって、たくさん話もしたのに、何も言わずに出て行くなんて礼儀知らずにも程がある。そして何より、何も言わずに行ってしまうなんて寂しいじゃないか。

「ああ私、見知らぬ子供に道を聞かれました」
 何人目かの家政婦に聞いて回っていると、ようやく証言を得ることができた。駆け出したい気持ちを抑えて、努めて冷静に事のあらましを尋ねた。
「確か、駅はどちらに行けば、と……あっ、スザクさま! どちらへ行かれるんですか!」
 案の定堪え性のなかった少年は、自分から聞いておいて話の途中で走り出していた。


 ”僕を探して”という言葉を残すわりに、彼に関する手掛かりはあまりに少ない。名前も出身地も、家族構成も血液型も、誕生日も、顔だって闇夜にぼんやり浮かぶ輪郭しか思い出せない。大事なものを開けるための”鍵”だって、これでは忘れ形見みたいなものだ。
 だいたい、何も言わずに姿を消すなんて卑怯だし、あまりに思いやりに欠ける。再会した暁にはあの綺麗な顔に一発くらい、拳をお見舞いしてやりたいくらいだ。人に心配をかけさせるとどうなるか、その身をもって知ってもらわねばならない。

「わっ、危ないよ君」
「どこ見て走ってるんだよ!」
「赤信号だぞ、おい、このクソガキ!」

 背後から聞こえるクラクションと怒号に振り向きもしないで、スザクは前だけ見てひたすら走り続けた。
 昨晩じゅう降っていたらしい雪が凍てついて、まるで氷が張られたみたいにつるつると滑りやすい。何度も右足と左足が縺れて、ぐにゃぐにゃになった膝はもう限界だと悲鳴を上げて、それでも諦めきれなかった。もう無理かもしれない、間に合わないだろう。そんな諦念より、彼にもう一度会わなければいけないという往生際の悪さのほうが、よっぽど強かった。



――まもなくトウキョウ租界行きの特急電車が発車します

 駅の切符売り場にようやく辿り着いた頃、プラットホームのアナウンスが遠くから微かに聞こえた。
 どのくらいの時間走っていたのか、スザク自身も分からない。たった五分かもしれないし、一時間以上かかっていたかもしれない。喉はからからに乾いて、口の中は血の味がした。足はもうとっくに使い物にならない。

 トウキョウ租界といえば、ブリタニアから日本へやってきたブリタニア人が集まる共同居住空間である。居住空間、と言えどその中には各種公共施設から福祉、病院や学校もひととおり揃っており、へたに租界から出て暮らすよりもよっぽど高い水準で生活を送ることができるらしい。それは日本がブリタニア人を無碍に扱えず多額の出資をしているという証拠で、国際的なパワーバランスの縮図とも言える。
 あの少年がブリタニア人であるかどうかは分からない。しかし日本に来た外国人が暮らすとするなら、トウキョウ租界以外の場所は考えられない。
「駅員さん、俺あの電車に乗りたいんです! 少しだけ待って!」
 改札の横にある駅員室へそう叫んだが、返ってくるのは当然、スザクの望まぬ言葉であった。
「ごめんね僕。もう出発するから、次の電車を使ってね」

 この駅から租界行きの特急が停車するのは三十分に一度、という頻度である。スザクが家を飛び出してから三十分は経っているとしたら、この電車に彼が乗っているという確証はない。しかしそれは逆に言えば、この電車に彼が乗っていない確証もない。
「この電車に、会いたい人……会わなきゃいけない人が乗ってるんです! どうしても会わなきゃいけない人が!」

――電車が発車致しますので、白線の内側までお下がりください
 直後、スザクの声をまるで掻き消すかのように、発車を報せるブザー音が鳴り響いた。
 そうして電車は当たり前のように、定時刻どおりに扉を閉めて、発車しようとする。

 まだ君のことを、自分は全然知らない。せめて名前くらい、力づくでも聞き出しておけばよかった。
 朝焼けの太陽に吸い込まれてゆくかのように走り去る電車の最後尾を、スザクはただただ眺めることしかできなかった。