蕾は春を知りたがらない

 意味ありげな視線が至近距離で交錯し、男の手が女の後頭部を捕らえた。
 首にかかる毛を掻き上げ、大動脈が走るうなじに指先を這わされれば、女は途端に色艶めいた吐息を漏らす。真っ赤なラメ入りのルージュが肉厚な唇の上でぎらぎらと光り、男の視線を釘付けにした。
 どちらからともなく顔を寄せ合った男女は、半開きの唇を合わせては離し、また合わせては離しをしばらく繰り返した。肉の弾力で、唇がくっつくたびに潰れたり歪んだりとそこは形を何度も変える。
 いつまでそうしているのかと思われたが、何度目になるか分からないバードキスからそれは一瞬のうちに深いものへと変わった。顔の角度を何度も変え、唇を、口内を擦りつけ合う様はまるで性行為を彷彿とさせる。
 首を動かすたびに生まれる隙間からちらちらと、何か肉厚な物体が蠢いているのが見えた。女の方がン、と卑しい声を発したとき、嗚呼あれは互いの舌なのかとようやく察することができた。
 互いの顎は唾液で滴り、男の方に至っては赤いルージュが色移りして、純粋に汚いなと思った。そう思ってしまった瞬間、もうそれを見てられなくなって、視線を画面から床へと落とした。
 隣の男はこれをどう思って、どんな顔をして見ているんだろう。
 ふと気になってちらりと横目で盗み見たがその横顔は涼し気で、いつも授業中にこっそり覗き見る彼の表情とちっとも変わらない。自分だけがこんな気分になっているのかと思うと、置いていかれた気がして少し寂しく、とても惨めだった。
 画面へ向いていたはずの彼の視線はいつの間にか己に向けられていて、はっとした瞬間にはもう、彼の手は伸びていた。その手つきは先ほど画面の中で繰り広げられた、あの女の後頭部に添わされた男の動きを嫌でも連想させ、腹の底がぞわりとした。
 悪寒がして咄嗟に逃げようとしたが一歩遅く、易々と捕まった手によって頭を固定させられる。
 近寄ってきた唇は口元ととは正反対の、米神へと向かった。そのまま少しずつ位置をずらし、目尻にかさついた皮膚が押し付けられる。顔面にかかる彼の鼻息が、我慢の限界の合図であった。
「……ごめん」
 感情が上手く篭らないその言葉を彼へ投げ、やんわりと肩を押し返した。
 明らかな抵抗の意思表示であるそれは、彼の力をもってすればいくらでも捻じ伏せることは出来、なかったことにすることだって容易いだろう。だが、優しい彼はそんなことをしてくるはずはないのだ。優しい彼の心根を逆手にとった、己の我儘なのだ。
「いいよ」
 もはや何度目になるかも分からない拒否反応に、彼はいつものように許しの言葉を寄越した。
 最初は彼の方からも謝罪をされたが、いつの間にか自分ばかりが謝るようになっていた。そんな現状が、彼を苛立たせているんだとありありと伝えているようで、逃げ出したくなる。
 彼は自分と少し間隔を空けて座り直して、何事もなかったかのようにまた画面へ視線を戻した。先ほどのやり取りを全てなかったことにするかのように。
 それは自分のせいであるはずなのに、どうしてお前は何もなかったように振る舞うんだと縋りたくなる自分がいて反吐が出る。彼と自分の隙間は、目に見える分には大した距離ではないが、どこまでも深く根差しているようだった。
 手を伸ばせば届く彼との距離がこんなにも寂しく、ひたすら己を苦痛にさせた。

「次はどれ観る?」
 いつの間にか終わったらしい映画は、内容なんてちっとも頭に残っていない。気が付いたら真っ黒になっていた画面と彼の言葉で、作品が終わったことを知った。
「少し……目が疲れた」
「ルルーシュ、寝る?」
「ううん……」

 今晩は彼の部屋へ泊まり、夜通し映画鑑賞会でもしようと先週から約束をしていた。
 どういう経緯で映画を観ることになったのかよくは覚えていないが、最近流行のCMソングを知らない、とクラスメイトと話している彼を見たルルーシュ自身から、じゃあ過去の名作映画でも観るかと誘ったような気がする。音楽もテレビも映画もファッションも、流行りにはいまいち疎い彼のためにそう言ったのだ。彼は存外その誘いに大喜びして、目を輝かせながら快諾した。映画を観るくらいでそんな大はしゃぎするとは、そんなに観たい作品でもあるのかと純粋に疑問に思った。だからルルーシュはそれを尋ねたが、彼は少しばつの悪そうな顔をして、そういうんじゃないんだけどねと何か言い含めるような口ぶりで答えていた。

 夜通しの鑑賞会ということで、ならば翌日が休みの日にしようと相談しそれは金曜日の夜に決定された。
 明日は土曜日なので思う存分昼まで寝ていられる。時計の短針は1と2の間を指し、普段それなりに早寝早起きを強いられている学生にとっては既に眠気の限界が兆してもおかしくない。
「もう寝たらどう?僕片付けておくから、ベッド使って寝ていいよ」
 うとうとと船を漕ぎ始めたルルーシュの姿を見咎めたスザクは、寝るように当然催促した。お前は俺の母親かと詰りたくなるような口ぶりに、ルルーシュは少々苛立った。だが重すぎる目蓋では睨み付けることも叶わず、ただでさえ睡眠を欲している体は手も足も出ない。ルルーシュは大人しく彼の言うことに首肯し、よろよろと覚束ない足取りで寝室へ踏み込んだ。
 もう数え切れないほど何度も訪れた、勝手知ったるスザクの部屋だ。その間取りも、電気のスイッチも、部屋の壁時計の分針が実は三分早いことも、ベッドのスプリングが少々悪く寝心地があまり良くないことも、それに引き換え枕は買い替えたばかりだから弾力があって心地よいことだって、ルルーシュはとっくに把握している。電気をつけていない真っ暗闇の部屋でも、どこにベッドがあるのかも当たり前に分かっていた。
 ばふんと音が鳴るほど、柔らかな枕とシーツに遠慮なく顔と体を沈めたルルーシュは、その直後から半分夢の中であった。ひんやりとした寝具が肌に馴染んで、心地よい。肉体も意識も底なし沼のように沈んでいくのを、ベッドが受け止めてくれているようだった。
 開けっ放しにしていた扉から絨毯を踏む足音が、霞みつつある意識の向こうでふと聞こえた。今この部屋に居るのはルルーシュとスザクしか居ないのだから、その足音の主は誰なのか考えなくとも分かる。
 力の抜けきった体を反転させられ、仰向けに寝転ばされた。自分で打った寝返りかと思ったが、それは明らかに彼がルルーシュの肩に加えた力によるものだ。瞳を開けるのも億劫で、いけないと思いつつも意識は覚醒と睡眠のまだらな縁を彷徨っていた。体は確かにそこに存在するのに、意識だけは宙ぶらりんのまま一向に戻ってきやしないのだ。すると不意に、額に柔らかなものが一瞬だけくっついて、離れていった。
「おやすみ」
 その声音はまるで大切な家族に対するもののようで、優しく温かく、どこか懐かしい気分にさせられる。ルルーシュも彼におやすみよい夢を、とどうか一言返してやりたかった。彼の優しい声音を鼓膜に捉えたのを最後に、ルルーシュの望みは叶うことなく、そのまま意識は手放された。

 付き合っている同士の恋人が、週末の金曜日どちらかの部屋のベッドで眠るということは、つまり肉体的な関係が結ばれているか、もしくはこれからそのような関係が始まるのだと示唆されてもおかしくない。だがルルーシュがスザクのベッドで寝転ぼうと安眠を貪ろうと、二人は一度としてそのような行為に及んだことはない。それはスザクが不全であるとか、ルルーシュの身体では興奮しないだとか、彼の心的もしくは肉体的要因では決してない。全てはルルーシュの心の問題であった。







 スザクに好きであると、唐突に告げられたことがある。満開の桜が咲き誇る校庭の裏手で、二人きりだった。
 薄く白い花弁がはらはらと舞い、スザクの制服の肩に乗っかって、そこが己の移住地であると主張しているように見えた。それに見蕩れていると不意にスザクの手がルルーシュの目前へ伸びて、思わず後ずさってしまった。スザクの指先はルルーシュの耳の横に触れたが、肌には一切接触することなく、そのまま離れていった。彼の人差し指と親指の間には一枚の花びらが握られていて、付いていたよと微笑んだ。全く移り気の激しい花であると、ルルーシュは頭上ではらはらと白を散らす樹木を罵った。
 俺も好きだと答えたとき、スザクはもうそれは声を上げて泣きじゃくるんじゃないかと言うほど、ひどい顔をしていた。俯いたスザクは恭しくルルーシュの両手を取り、有難うと涙声で囁いていたのが、やけに目に焼き付いた。
 そのスザクのいつにない様子を見て、ルルーシュはとんでもない勘違いをしてしまったと、のちに気付いた。
 スザクとルルーシュは軽口を叩き合うこともあれば、どんな些細なことから重い内容まで相談し合えたり、幼稚な議論で盛り上がることもできる親友という関係であった。突然そんな彼に好意を伝えられ、ルルーシュは咄嗟に常日頃の感謝の言葉か何かだと、勘違いをしてしまったのだ。心機一転、新学期という新たなスタートの日ということもあり、麗らかな小春日和の春一番のせいで、頭がどうかしていたのかもしれない。
 今思えば大変愚かで恥ずかしいことこの上ないが、青天の霹靂かのごとく訪れたその場面に、ルルーシュははっきり言って混乱していた。だが、表情を取り繕うことに長けたルルーシュの意識が今、困惑と混沌の渦中に存在することなど、第三者が察するのは至難の業であると言えよう。
 その真意を勘違いしきっていたルルーシュの言葉を真に受け、有頂天になるスザクに本当のことを告げるのは大変心苦しく、憚られた。

 ――それが故意であろうとなかろうと、自分が悪いことをしてしまったときは出来るだけ早く、正直に謝りなさい。罪悪感でその不祥事を隠し続けると、余計に話しづらくなって、後に取り返しのつかないことになりますよ。
 いつの日にか見た道徳の教科書に書いてあったその文言に、随分と上から目線だなと文句を垂れたのは、何年生の頃だったか記憶にはない。だがその言葉の重みはルルーシュが成長するにつれて、心の中で増していった。
 人というのは、過ちやミスが些細であるほど迅速に報告や謝罪をすることができるが、事が重大であるほど言いにくくなる。ミスをしたと報告したときにまず相手から、叱られたり幻滅されたり、嫌われたりすることへの恐怖感が由来である。
 早く伝えなければ迷惑を最小限に抑えられるかもしれないが、伝えたところでどのみちこっぴどく泣かされるほど叱られる。だがそれを放置すればするほど、そのダメージは比例して増していってしまう。そのような葛藤や二律背反は誰しも経験するだろうし、そうやって人は身を持って学習していくのだ。

 だからルルーシュも、できるだけ早く己の真意とスザクの意図が剥離しているのだと伝えなければならぬと、そう思っていたし、何度も唇を開きかけた。だがルルーシュの両手を握るスザクの、小麦色をした一回り大きな手のひらがあまりにも優しいものだから、言いたくなかった。それを言うと、彼は自分の手を振りほどき、悲しい顔をしてしまうだろう。その体温を失うことも、スザクの悲しく歪むであろう表情も、ルルーシュは見たくなかった。桜の可憐な花びらが散るこの優しい場所で、彼にそんな顔をさせたくなかった。
 己の言葉ひとつで彼の表情に花を咲かすことができるということに、少し得意な気にもなっていた。あるいは、この世で唯一自分だけが、彼にこのような顔をさせることができるのだという確信と、傲慢さも持ち合わせていたのかもしれない。

 我ながら甚だしいほど身勝手な思惑である。
 そしてこの時から、長い先ずっと、ルルーシュはその誤った行動を自責し続けるのだろうと、既に予感していた。

 春は出会いと別れの季節であった。


 ソメイヨシノの下でスザクに告白されてから一日が経った。
 正直なところ、交際した者同士がどのような手順を踏んで距離を縮めていくのか、そもそも交際というのは具体的に何をするのか、ルルーシュはよく分かっていなかった。だからその翌日から、いつもと変わらぬ朝の挨拶をされ、普通にクラスメイトを交えて昼食を摂り、移動教室で嫌味な教師の愚痴で盛り上がり、スザクが書き忘れていた学級日誌を放課後に手伝ってやるという、昨日までと何ら変わらない接し方や距離感に、ルルーシュは拍子抜けしてしまったのだ。
 もしかすると、恋人関係になってそのような手順を踏むことよりも、己に自分の気持ちを知ってもらうことに、スザクは重きを置いていたのかもしれない。とりあえず今は、ルルーシュに気持ちを告げ、拒まれることなくそれは己に受け入れられ、ルルーシュからも好きだと返され、それだけでスザクは充分満たされているのだろう。
 しかし、あくまでルルーシュからの好きだという言葉は、ルルーシュの盛大な勘違いによるものある。それはスザクの指す”好き”とは少々種類が異なるため、厳密に言えば二人は両想いではない。その事実が昨日からずっと、ルルーシュに罪悪感を募らせ、良心の呵責に苛まされているのだ。しかしこればかりは擁護する余地のないほど、身勝手で意気地のないルルーシュの自業自得だ。そしてこれはルルーシュの心に淀みを作るばかりでなく、何よりも、ルルーシュと想いが通じ合ったと勘違いしているスザクが一番の被害者である。
 スザクのことを思えば早急に昨日のことを取り消して、申し訳なかったと頭を下げるべきだ。しかしルルーシュはスザクから好意を、恋心を寄せられているのだと知って、純粋に嬉しかった。恭しく握りしめられた両手の、春一番のような生温かさが昨日からずっと残って、記憶から離れないのだ。

 そうは言ってもたかが交際開始から一日しか経っていない。
 恋人としての、そういう段階を踏むにしてもまだまだ日が浅すぎるだろうというのがルルーシュの正直な所感である。一般的なそれを心得ているわけではない。シャーリーがよく感想を口にする少女漫画のあらすじや、ミレイが喧伝する恋愛ドラマのストーリーを聞いていても、交際一日目にして大きな展開がある事象は少ない。ドラマや少女漫画の世界を参考にしているわけでは決してないが、それでも世間一般の認識からすれば当たらずとも遠からずというところだろう。
 だからルルーシュは今放課後の教室で、むくれっ面を浮かべながら学級日誌を仕上げるスザクに付き合ってやっていたのだ。
 その日の日直が行う仕事のうちのひとつに、学級日誌の作成がある。一限目から六限目までに行われた科目、担当教諭、その日の授業内容のあらましを記入するのが主である。その他にも、出席人数と欠席者人数の記録、朝や帰りのホームルームでの連絡事項や、教室の生徒の様子など、気になることを適当に書き込む。
 通常、授業間の休み時間にこつこつ進めていれば、放課後になるころにはページの大半が埋まっているはずである。しかし彼は朝からそのことをすっかり失念していたと、血相を変えてルルーシュに泣きついたのがつい先ほどのことだ。与えられた仕事は出来る限りこなす真面目な彼の、常にない抜けっぷりにルルーシュは少し驚いた。途中から書くのを度忘れしていた、という話でなく、今朝から一切日誌に手を付けていない始末なのだ。一体どうしたんだと思わず真顔で問うたら、どうしちゃったんだろうね、と茶化すような口調で返されたのだがら、いよいよ本当にスザクはどうかしてしまったのだろうか。

 芯が紙面と擦れる音と、シャープペンシルのノック音が断続的に響いた。
 これが終わったら生徒会室へ向かおうと話し合っていたものの、今日一日の学校生活を振り返るにあたって、言うが早いが雑談に花を咲かせ過ぎた。今日はそういえばあんなことがあった、こんなこともあったと言い出すとキリがなく、無情にも時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。昨日小耳に挟んだ、駅前に新しいファーストフード店が出店するという噂話から、隣のクラスの美人がうちのクラスの男子と付き合うことになったらしいという下世話な話まで、話題はあちこちに飛んで戻ってくる気配はない。
 気が付いたらもう最終下校時刻の五分前にまで差し迫っていて、スザクは慌てて文房具を仕舞い、帰りの準備をし始めた。結局生徒会室に寄ることは出来そうにもなく、これは明日こっぴどく叱られるだろうとルルーシュは肩をすくめた。新学期直後の今の時期は、新入生の歓迎会を生徒会が主導で催すにあたり、一年間の中でも五本の指に入る程忙しい。教師らへのアポイントメントや備品の調達、そしてそれに伴う出費と予算の清算など、やることは山積みなのだ。しかもルルーシュとスザクは生徒会の中でも数少ない貴重な男手である。それゆえ毎度毎度大いに利用されるのだが、それでいくと今日は申し訳ないことに、リヴァルへ多大なる負担がかかっているに違いないのだ。すまないリヴァル、明日は必ず手伝うと心の中で届くはずのない謝罪を述べたあと、ルルーシュは席から立ち上がった。
「ルルーシュ」
 スザクに呼びかけられ、ルルーシュは反射的に振り返った。とくに警戒心も抱いていなかったその無防備な行動は、スザクにとって大いなるチャンスであり、ルルーシュにとっては大失態であった。
 間近にスザクの顔があって、まずい、と思った瞬間、ルルーシュは顔を背けた。
 二人の唇が重なることはなかった。
「ご、ごめん、俺」
 思わずルルーシュがとった行動は、明らかな拒絶であった。
 自分がとってしまった行動に対する罪の意識もだが、何よりも、スザクが自分と”そういうこと”をしたいのだという意思を、肉欲をありありと見せつけられ、心臓が冷たくなるような心地がした。
「ううん僕こそ、急に驚かせてごめんね」
 スザクは、ルルーシュが驚いて顔を背けてしまったと思っているらしい。否、口先ではそうでも本心ではどう思っているかは計り知れない。既に幻滅されているのかもしれない。

 スザクの表情をちらりと窺うと、ルルーシュが思っていた顔とは正反対の、随分だらしないにやけた面をしていた。てっきり驚いているか、困惑しているか、悲しんでいるか怒っているか、いずれにせよいい表情はされていないと予想していたのだ。その蕩けた、愛しい者を寵愛するかのような瞳の色はきっと、夕日だけのせいではない。
「恥ずかしかった?」
「あ、ああ……」
 ルルーシュが照れ隠しにそんな抵抗を示したのだと、スザクは思っているのだ。その一言でそれを察したルルーシュは、彼の言葉に対し大人しく肯定した。否定したところで、ろくな言い訳は思い浮かばないのだ。
「顔が赤いよ」
 馬鹿を言うなと、罵って噛みついてやりたかった。それは夕日が見せるスザクの幻覚に過ぎないからだ。
 隠そうともしない、その見え透いた性欲をスザクから遠慮なく向けられ、ルルーシュはただひたすら絶望した。冷や汗が背中を伝い、身震いしそうになったが寸で堪えることができた。
 ルルーシュが抱く好きとスザクが抱く好きの種類の違いをまざまざと見せつけられ、ルルーシュは泣きたくてしょうがなかった。己に自覚がないだけでひょっとすると、自分もスザクのことをそのような意味で好きなのかもしれない、とも一瞬思ったが、そんなことは全くなかった。身をもってそれを思い知らされた。

 今はひたすら、ぎらぎらと光る二つの翠がルルーシュにとって、何よりも恐ろしく不愉快で気持ち悪くて、吐き気すら感じさせた。
 スザクの視線でこんなに不快な気分になる自分もまた、醜く哀れだと思った。



 よろよろとした覚束ない足取りで家路に着いたはいいものの、あれからスザクと何を話したのか、ルルーシュは全く記憶になかった。紫がかる空には自己主張の激しい一番星が瞬き始めており、まるであの男のようだと漠然と思った。

「おかえりなさい、お兄様」
「ただいま、ナナリー」
 玄関まで兄を出迎えてくれた愛妹の頬に、触れるだけの接吻をした。そして彼女もまた、親愛なる兄の頬へ唇を寄せた。

 ブリタニア人にとって頬への口付けは、いわば挨拶のようなものである。とくに初対面の者や、大切な家族間ではよく行われることだ。
 このやり取りを初めて見た日本人のスザクは大層驚き顔を赤くしていたこともあったが、どうやら彼の国では、このようなスキンシップを取る文化がそもそもないらしい。それどころか相手に遠慮しへりくだり、謙遜し合うことが美徳とされているのだから、その認識の違いは大変興味深いことだ。
 そのような認識や慣習の相違に、不思議だと思うことはあれど間違っているなどとは思わない。自分の生まれ育った国の風土や慣習、文化に誇りを持つということは、自国以外の全ての国々へ敬意を払い、尊重し合うことと同義なのだ。ブリタニアからすれば日本の礼儀作法や世間、謙遜という概念が摩訶不思議に見えるように、日本からすればブリタニアの多文化、多民族的な面が由来の考え方も摩訶不思議であろう。それに正しさや間違いなどはなく、個人個人が他の考え方を理解するかしないかの問題なのだ。「みんな違って、みんないい」という便利な言葉がまさにそうである。


 ルルーシュは夕飯を断り、先にバスルームへ向かった。先程の出来事から気が動転したままで、食欲が失せたまま戻ってこないのだ。だから、一旦ひとりになって頭を冷やそうと思った。

 蛇口を捻るとシャワーヘッドから放たれた冷水が頭皮を濡らし、思わず盛大に身震いした。
 湯水の温度調節パネルに視線を巡らすと成る程、風呂場の湯沸し器の電源が付いていなかった。
 いまだ断続的に頭上から降り注ぐ冷水を肌に浴びているうちに、むしゃくしゃした感情がすうと腹の底に落ち着くような気がしてきてしまったのが、運の尽きであった。痛みすら伴う冷たさが、痛覚のおかげか思考をクリアにしてゆくのだ。びりびりと稲妻が走るような痛みも、今のルルーシュには特効薬であった。
 湯を沸かしていないため曇ることのない鏡が、憔悴しきったルルーシュの顔を映した。鏡の中の顔は随分とひどい色をしていて、もしかするとナナリーも気付いていたのかもしれないが、敢えて詮索はしなかったのだろうか。唇の色は抜けきっていたが、これは体が感じる寒さゆえか、それとも精神的なものが由来か、ルルーシュは正確な判断がつかなかった。
 ナナリーとルルーシュの挨拶代わりのキスで狼狽していたスザクが、あろうことかルルーシュと唇同士でそうしたいと、行動で示してきたのだ。
 頬へのキスが日常化していようと、唇同士の接吻の意味が大きく異なるのは万国共通なのだろうか。あまつさえ人との距離感や気配り、配慮を重んじる、どこか奥ゆかしいお国柄出身である彼からの、そのような熱烈なアプローチは衝撃が大きすぎるのだ。決してブリタニア人が軟派であるとか、そういう意味ではない。

 スザクの中にもそういう、好きな人と唇を重ねたいだとか、それ以上のことをしたいという願望が当然のように備わっている。ルルーシュはスザクから告白されたときから薄々気付いていたのかもしれないが、まさかそれを自分に向けられるとは、思いも寄らなかった。
 冷たい滴が滴り落ちる己の体を見回しても、欲情できる要素など見当たらないから、ルルーシュは余計に混乱した。女のように柔らかい線も膨らみも存在しない。女の体についていないはずのものもついている。逞しいとは呼べないが、それでもルルーシュはれっきとした男の体だ。
 そもそもスザクのほうこそ、友情と恋愛感情をない交ぜにしているのではないかとも思った。ついこの間まで同性の友人同士として当たり前に付き合ってきて、何の違和感もなかったからだ。しかしあの突飛な行動と獰猛な瞳が、ルルーシュのそんな予想を裏切った。

 また今日のようなことをされると今度こそ心がもたないかもしれないと、淀んだ気持ちを抱えながらルルーシュはようやく浴室を出た。いつまでそうしていたのか、体感では判らなかった。それほどまでに長時間冷水を浴び続けていたのだろうかと思い、ぶるりと身を震わせた。

 いそいそと自室に戻り布団を被ったが、それでも手足の末端は依然として熱が戻らず、体の芯まで冷やしてしまったようだ。
 いくら小春日和といえどそれは昼間の話で、日が沈む時間帯になればそこそこ冷える季節だ。寒暖の差で体調を崩すことがあるから気を付けるように、と天気予報のキャスターが言っていたのを今になって思い出す。日本の風土の特徴ははっきりとした四季が織り成す風景だとよく言うが、実際住んでみれば融通の利かない不便さや鬱陶しさのほうが目立つのだ。
 そういう当たり前にある面倒くささが何よりも愛しくなるのだと、以前誰かに言われたことがある。付き合っていくには手がかかりすぎて率直に言えばただのお荷物だが、しかし手放すには大層惜しいらしい。人はその感情を愛着と呼ぶのだと、ルルーシュは後に知った。

 誰といつ、どこで、そんな話をしたのか、熱っぽくぼうとする頭ではそれ以上のことを思い出すことが出来なかった。意識と夢の狭間で最後にスザクの顔を思い浮かべて、ルルーシュは眠りに落ちた。




 軽い吐き気と頭痛と潤む視界に嫌な予感を覚えた。
 この時期になると必ず列島に居座る前線はどこかへ寄り道したらしく、高気圧が全国を覆い快晴だとラジオが伝える。
 新学期のよく晴れたあの日と今朝の空はそっくりだ。スカイブルーと桜の淡い白がよく映えて、移ろう四季の中でもいっとう好きな色調だ。
 スザクが持つ栗の毛色とエメラルドの瞳の色合いも春を想起させるようで、ルルーシュは密かに気に入っていた。

 体調不良のせいで今度こそ本当に進まない食欲であったが、昨夜は何も口にしていない。さすがに夕食と朝食、続けて抜いてしまうと心配をされるだろう。
 あの放課後からの今日ときて、体調不良で欠席すればスザクから何か思い当たることがあるのかと詰問されかねない。だから今日だけは休みたくなかったし、スザクの出方や動向を確認したかった。またいつもどおり友人同士のような振る舞いをされれば、昨日の彼の行動は何かの間違いであったと、そう自分に言い聞かせることができるからだ。
 体が食べ物を摂ることを明らかに拒んでいて、焼きたてのトーストが喉を通ろうとしない。それでも水で無理やり押し流すと、今度は胃から吐き気がする。にっちもさっちもいかないが、何も食べないというのも、どのみち体には良くない。
「あまり体調が、良くないのですか?」
 同席していたナナリーが気がかりそうに尋ねてきた。全盲であるはずの彼女は、失った視力の代わりに健常者より優れた洞察力や推理力を備えている。見えないものまで見えているようなその口ぶりに、ルルーシュは何度も驚かされてきた。そしてやはり、彼女の”目”は誤魔化せない。
「ああ、少し風邪をひいてしまったようで」
 ナナリーだけには嘘をつけないルルーシュは、曖昧に濁した。食欲不振で頭痛や嘔吐感を伴う時点で少しの風邪、とは言い難いが、間違いではないかもしれない。ものは言いようだ。
「学校、お休みしてはいかがですか?」
「いや大丈夫。生徒会の仕事も忙しいし」
「それは、そうかもしれませんが……」
「無理はしないよ、大丈夫。心配をかけてごめん」
 彼女の手を取ってそう告げたかったが、熱で浮かされたこの手のひらで触れてしまえば、ルルーシュのずる賢い言い訳はすぐに見破られるに違いない。
 無理はするかもしれないが、彼女に心配をかけて申し訳ないという気持ちは嘘偽りない。ルルーシュは眉を下げて、心からそう述べた。




 強度は確かに保障されているはずなのにぐにゃりと歪む視界のせいで、そんな気がしない。
 地に足の付かない感覚を物理的に体感しながら、ルルーシュは自分の教室へ向かった。

「っわ!」
「っ」
 教室から今飛び出そうとしていた者と正面衝突した衝撃で、ルルーシュは後ろに仰け反ってしまった。

 ただでさえ体に力の入らない状況で大きな衝撃を受けて、このままだと良くて尻餅、悪くて後頭部強打だ。これから身に起こるであろう地面にぶつかる衝撃、そして来るべき痛みを想起して、ルルーシュは身構えた。

「大丈夫?」
「えっ、あ……。ああ」
 腕を力強く引かれて、そのまま抱きすくめられたと思ったら、目の前の男はスザクであった。おかげで後ろに転倒することは免れたが、この態勢は少し気まずい。肩と腰を引き寄せられてなんだか怪しい。
「そのマスク、風邪ひいたの?」
「今朝から調子悪くて……」
 肩を引き寄せられながら喋られ、ルルーシュは身動ぎをした。しかもこんな、教室の前である。だが周りの生徒は誰もみなこちらに関心がないようで、視線のひとつも向けられない。
「もう大丈夫だから」
「ああ、ごめん」
 その一言でようやく気づいたのか、スザクはルルーシュの体から手を離した。
 あまり近寄られるとルルーシュの気持ちが動揺してしまうし、スザクに風邪を移させても悪いのだ。
 スザクの朗らかな調子からは昨日の不穏な気配を感じず、ルルーシュはひとり安堵した。あれは衝動的なものか、雰囲気のせいだったのか、何にせよスザクの本意ではないのだろう。それを確かめられただけでも、朝から気だるい体に叱咤し無理を押した甲斐があったものである。
 問題は、今日一日の長い六時間をどう乗りきるかであった。


 昼休憩のあとの五限目は理科室で実験の授業があると、そういえば先週の授業の最後に教師が言っていたことを思い出して、思わず舌打ちした。
 ルルーシュのいる教室から見て、理科の実験室は別棟に存在していた。そのため教室を出て渡り廊下を通り、階段を数階分上り移動しなくてはならないのだ。座学だと一時間座りっぱなしであるから凌げたものの、これだけの距離を移動せねばならないとなると気が重い。
 とにかく教室は施錠されるため動かねばならず、ルルーシュは重い足取りで実験室へ向かった。
 午後になってからますます体調は悪化したようで、廊下の壁伝いになんとか歩けているような状態だ。クラスメイトに伝言を頼んで保健室へ寄ったほうが得策であると、さすがのルルーシュも思い始めた。
 力の入らない手から教科書と筆記用具が滑り、人の居ない廊下にけたたましく音を立てて落ちた。体調不良時によくある、人恋しくて惨めで、誰かに構ってほしいという弱気な感情が渦巻き始めたとき、頭上から声が降り落ちてきた。
「何やってるの、君」
 呆れたような、困ったような声音でそう言われると余計に追い詰められた気がして涙が出そうになる。そもそもこの声の主のせいで己はこんなにもむしゃくしゃした気持ちでいるのに、と不安定な情緒を彼に当て付けた。
 顔を上げなくてもそれが誰なのかが分かる。どうしてよりによってこんなのときにという絶望と、誰よりも今すぐ見たかったのはお前の顔なんだという歓喜が同時に押し寄せてきて、ルルーシュはそれらを持て余した。

 熱のせいで涙腺が弛み、視界は普段より潤みきっていた。それでも見上げれば想像していたとおり、彼の顔が訝しげにこちらを見下ろしているのが分かった。
「マスクしてても分かるくらい、顔赤いけど」
「……」
 スザクの手が頭上に向かって伸びてきた。
 これはまずいとルルーシュは本能で悟ったが、緩慢な動作ではそれを退けることは不可能だった。
 額に添えられた彼の生ぬるい手のひらが、自分の体温がどれだけ熱いかをルルーシュに嫌というほど分からせた。
 そしてそんな体温を感じ取ったらしく、たちまち男の顔は険しくなる。
「あっつい。なんで今日、学校来たの」
「それは……」
 か細いルルーシュの声を聞いて、もういいよとスザクが言葉で遮った。
 お前のほうから聞いてきた癖にとルルーシュはむかっ腹が立つが、ここは大人しく黙っていたほうがいいだろう。そもそも体調が芳しくないことを承知の上で登校してきたルルーシュの自己責任なのだ。
「立てる?保健室行こう。僕が支えるから」
 スザクに肩を掴まれながら廊下を歩くというのは些かルルーシュの羞恥を煽るが、支えられている側の男の顔色を見た生徒たちは、誰ひとりとして好奇な視線など寄越さなかった。


 保健室の扉をノックしたが、物音ひとつすらしない。悪い予感がしつつ、スザクがドアを開け放つとやはり、そこは無人であった。
 とりあえず職員室へ行って聞いてくるよとスザクに言われ、彼が戻ってくるまでの間、ルルーシュは清潔なベッドの上で寝かされた。
 人の使っていない枕はひんやりとして、湯だった頭や首筋に当てると心地よい。ようやく体を安静にできたことによる安堵感で思わずふう、と息が漏れた。溜め息は平常時よりひどく熱くて、それは思いの外体調の悪さが深刻であることを暗喩していた。寝返りを打つだけで頭の芯が揺れて、また吐きそうになる。こんなに調子が悪いのに、よく六限目まで授業を受ける気でいたな、と自分自身の軽率な思考回路に今さら呆れてしまった。
 掛け時計の秒針の刻む音が耳に届いて、そういえば彼は五限目の授業を一体どうするんだろうと気になった。痛む頭を無理に動かすと、本鈴の十分前を分針は指し示していた。

 こんこん、と控えめなノック音が保健室の出入り口から聞こえる。
 何か言わねばと口を開きかけたが、入室の許可を聞くこともなく無遠慮に扉が開かれてしまった。
 職員室へ行って担当教員の所在を尋ねてくると告げていたが、意外なことに、ここへ入ってきたのはスザクひとりだけであった。
 さすがに保健室の担当が丸一日この部屋を空けることはないはずである。学校内での怪我人の応急処置や、ルルーシュのような体調不良者の面倒をみる人間が居ないとなると、色々と都合が悪い。とくに怪我の応急処置なんかになると、素人の教員よりも医療知識のある者によって行われる方が望ましいだろう。

 ルルーシュが横たわる寝台にまで近寄ったスザクは、少し困った顔をしていた。
「保健の先生、お昼休みだから居ないんだって。五限目始まる頃には戻ってくるそうだから、それまで僕が看ておくよ」
「それだと次、遅刻するだろ」
「いいよそんなの。ルルーシュが体調悪くて保健室に居るってことも、先生に伝えておくから。あとは早退するなり授業休むなり、したらいいよ」
 スザクはそう口早く説明しながら、濡らしたタオル数枚と冷感ジェルを準備してきた。意外と手際がよく用意周到な男だ。それこそ発熱患者に行う応急処置などたかが知れてるため、普通は誰だってそうするだろう。だが今のルルーシュに客観的に物事を推し量れる力はとうになく、素直にスザクの行動の手早さに感嘆した。
「手際がいいな」
「そう?」
「ああ。すごいと思う」
「病人にできることなんて、このくらいだろう」
「そんな謙遜するな」
「……なんだか君にそう、真正面から褒められると、やっぱ、相当体調が悪いんだなって再認識する」
 なぜ自分が人を褒めるとそうなるんだと一言物申したかったが、病人は安静にしてなさいというスザクの一喝で、ルルーシュは今度こそ黙り込んだ。
「マスクは苦しいだろうから、横になる間くらい外しなよ。あと、汗拭いてあげるから詰襟も一旦脱いで」
 ルルーシュはスザクの言われたとおりにマスクを外し、上着を脱いでベッドの脇に置いた。マスクを外すと随分呼吸が楽になるのが分かった。
 スザクに言われるまで意識すらしていなかったが、確かに脇の下や背中などに、発汗のせいでインナーが貼り付いている感触がする。一度意識し始めると人間とは面白いもので、それまで気がついていなかったことですらそれに意識を集中させてしまうのだ。今のルルーシュもまさにそのとおりで、首の後ろの汗で貼り付いた毛束すらも不愉快にさせる要因でしかなかった。
 ルルーシュは黙ってカッターシャツの襟元のボタンを外し、その部分を寛げた。途端に、ひんやりした外気へ触れた場所に鳥肌が立つ。それをなぞるようにして濡れタオルが宛がわれ、大変心地よい。ルルーシュはその労るような、慈しむような手付きに身を任せ、素肌を晒した。しっとり濡れたナイロン生地が、べたつく汗を拭いとってゆく。
「ルルーシュはさ、僕のこと好き?」
「……っえ?」

 ルルーシュはすっかり気が緩んでいたせいで、スザクの問いかけに反応できなかった。藪から棒過ぎるその唐突で、核心的な質問ゆえに、ルルーシュは答えあぐねてしまったのだ。
 反応を示さないルルーシュに痺れを切らしたスザクは、手に持っていたタオルをベッドの上に放って、あろうことか片膝を寝台に乗せてきた。そのまま彼はルルーシュの方へ体を傾け、はだけたシャツの裾から無造作に右手を差し入れた。突然何なんだと、そう起き上がろうとするルルーシュの肩を左手で抑え、抵抗までも制してしまった。
 何が何だかという調子で、ルルーシュが現状を把握できていないのを良いことに不埒なスザクの右手は、ルルーシュの火照った素肌の上を這い回った。
「あ、なに、何してるんだ」
「……僕のこと、好き?」
 脇腹を掠めるスザクの手のひらが肌に吸い付くようで、悪寒がした。その艶かしい手の動きの真意を悟った瞬間、瞳に涙が浮かんだ。
「ねえ、本当に好きなの?」
 黙りこくるルルーシュの顔を見下ろしたスザクは、晒け出された首筋にそっと顔を寄せた。玉のように浮かび上がる冷や汗に舌を伸ばしてべろり、と舐め取った。それがルルーシュの本気の抵抗の合図となった。
 ルルーシュはスザクの両肩を懸命に押し返し、両足で胴を思い切り蹴り上げた。必死に暴れたがそれでもびくともしないスザクの体に、ルルーシュは本気で恐怖心を抱いた。ルルーシュの抵抗が一切歯が立たないのは、ただでさえ筋力が少ない体質に加えて優れない体調のせいであろう。これが平常時であればさすがのスザクもよろめくくらいはするだろうに、今のルルーシュには分が悪すぎたのだ。
 皮の薄い敏感な首元を、ざらついた舌が無遠慮に這い回る感触に、身の毛のよだつ思いがする。頭の芯が揺れ動くせいで、脳の内側から金槌で殴られるような激しい痛みがするのも厭わず、ルルーシュはしきりに首を左右に振った。
「嫌だ、嫌だスザク、いや、離してくれ」
「……」
「怖いんだ、気持ち悪いし、吐きそうだ、やめてくれスザク、たのむから」
 黒い毛先と枕がぶつかるたびにぱさぱさと乾いた音が虚しく響く。まるでルルーシュの抵抗も言葉も、スザクには無意味だと嘲笑うかのようだ。
 スザクの目は何かを見定めるかのように、ルルーシュの様子をじっと、それこそ穴が開きそうなほど凝視し続けていた。感情のないその瞳からは元来の彼の色は消え失せ、それが何よりもルルーシュの恐怖心を煽って仕方がない。
 元々、発熱のせいで弛みきっていた涙腺である。激しい恐怖心が積み重なってしまえば瞳から涙が溢れるのは至極当然で、一度それが流れてしまえば堰を切ったように溢れて止まらなくなる。

 しゃくりあげながら拒絶し続けるルルーシュの態度にすっかり気を削いでしまったのか、緩慢とした動作でスザクはようやくルルーシュの体から離れた。スザクの瞳は幾分か色が戻り、先程のような、人間の醜い部分を寄せ集めたような澱みはどこかへ消えてしまっていた。
 ルルーシュはシャツの合わせを両手で手繰り寄せ、体を縮めた。未だに泣き止まないルルーシュの様子に、スザクは項垂れたまま何も答えない。

 そうしているうちに、先に動いたのはスザクの方であった。
 彼は自らベッドに放ったタオルをおもむろに拾い、保健室の中に備え付けられている水道を使ってそれを洗った。室内にはルルーシュの嗚咽と、水が流れる音だけが反響していた。

 スザクはルルーシュの元へ戻ると、つとめて平時の声音で話をし始めた。俯いたスザクの顔には大きな影が伸びていて、その表情を窺い知ることはできない。
「僕は君に、ひどいことを、した」
「…………そうだな」
 ルルーシュは泣き腫らした目元を隠すようにそっぽを向いて、ぶっきらぼうに告げた。卑劣で醜悪で、ルルーシュに対する背信的な行為を”ひどいこと”の一言で表そうとする彼の態度が腑に落ちない。
「また体調が戻ってから、話をしたい」
「…………」
 今度は、ルルーシュは何も答えなかった。
 無言は肯定とみなされることが実生活では多々あるが、この場におけるルルーシュの無言は肯定でも否定でもなく、拒絶と同義であった。
「上着、畳んでここに置いておくね。先生には僕から伝えておくから。……お大事に」
 それだけ告げて、スザクは部屋から出て行ってまった。己にあんな無体を強いる真似をしておいて、どの面下げてお大事にだ馬鹿が、と立ち去る背中に思い付く限りの罵倒を、恨みを込めて投げつけてやった。
 扉を閉めるときの音がどこか名残惜しそうに聞こえて、彼の心象を表しているようにも思えたがルルーシュにはスザクの心情なんて、ちっとも理解できなかった。
 もう考えることも時間を確認するのも億劫で、ルルーシュは脱いだ詰襟を雑に羽織って横になってしまった。

 かちかちと時を正確に刻む秒針を聞き流しながら、ルルーシュは静かに目を瞑る。
 次にルルーシュが目を開ける時には六限目がとっくに終わった時刻で、不在にしていた保険医が申し訳なさそうにルルーシュの顔色を窺うことになるのであった。




 自他共に認めるほど体力には自信がないが、やはり十代の体となるとその治癒力は段違いなようで、己のタフさに驚かされる。数時間寝ただけであれほど悪化していたように見えた体調も、随分と良くなったものだ。しばらく絶対安静にしておくようにと保険医からは口酸っぱく言われたが、それ以外ではとくに私生活に支障はなさそうで、明日起きた段階で熱がなければ登校も可能らしい。入浴も、湯冷えしないようにすれば大丈夫とのことである。
 恐らく家には学校から、ルルーシュが校内で体調を崩し授業を休んだ旨が連絡されているであろう。だからとくに、今朝から自分の体調を心配してくれていたナナリーには大変申し訳なく、会わせる顔もない。
 少し開けづらい、玄関に続く家の扉を開くとそこにはナナリーとあろうことかスザクが待ち構えていた。
「なんでお前、ここに」
「ルルーシュもう体は平気?」
「スザクさん、お兄様が休まれた分の授業のプリントを、わざわざお渡しになるためにいらしたんですよ」
 ね、とナナリーがスザクに視線を合わせて確認を取った。その様子を見て、スザクの真の思惑をすべて察してしまったルルーシュは歯痒い心地になったが、この場ではどうすることもできない。ナナリーの前でできるような話ではないからだ。
「わざわざ有難う。……明日でも良かったのに」
 ちくりと、嫌味を含ませてそう付け足してやれば、スザクは気づいているのかいないのか、あっけらかんと答えた。
「僕が持ってると、無くしちゃったり渡しそびれるかもしれないからさ。明日でもってことは、明日は学校来れるの?」
「朝に熱を計って、下がっていればな。迷惑をかけた」
「ううん、気にしないで。……じゃあまた、明日」
 スザクは朗らかに笑って、ルルーシュとナナリーの元を後にした。ごく普通のお手本のような級友の顔をしたスザクに、ルルーシュは腹の底が冷えるような薄気味悪さを感じた。


 湯を張った浴槽に肩まで浸かりながらほう、と息をついた。入浴は心の洗濯だと比喩されることもあるが、あながち間違いではないかもしれない。一日の疲れは排水溝に流れ、心の澱みやモヤモヤは湯船が温かく溶かしてくれるような、そんな気がする。
 先ほどわざわざプリントを渡すために家までやってきた彼であったが、どう見てもあれはただの建前に過ぎない。真の目的は恐らく、ルルーシュの容態や顔色を窺いに来ただけなのだ。先程の、保健室での出来事のそばからこの行動である。しかもルルーシュがその場から逃げられぬよう、ナナリーまで場に立ち会わせていたのだ。その打算的で高慢な行為にルルーシュは軽い目眩すら覚えた。

 いくら体を冷やすなと忠告されたからと言って、長風呂のせいで逆上せたりでもしたらまたナナリーに心配させないでほしいと泣きつかれる。正直なところ自分のことを想って感情を乱されるのは少し嬉しくもなるが、それ以上に彼女に対して申し訳なさが立つ。
 ルルーシュは手早く脱衣所で着替えとドライヤーを済ませ、自室へ戻った。

 口付けを交わそうと望まれた放課後。
 あの時まではスザクからルルーシュに向けられたであろう性欲は、ルルーシュの見当違いであると希望的観測のような要素を大いに含んで推測していた。なぜなら、スザクからそのような目で見られていると思ったら、ルルーシュはスザクに生理的嫌悪感をどうしても覚えてしまうからだ。ルルーシュがスザクに抱いていた信頼や親愛を性欲という形で返されてしまったと考えれば、ルルーシュからしてみればスザクの行動はある意味背信的である。そしてそれ以上に、自分の体が彼の性対象であるという事実こそが、何よりもスザクに対する悪感情を芽生えさせたのだ。自分はれっきとした男で、顔の作りこそ中性的であるかもしれないが、それ以外に男の性欲を掻き立てるような要素はないように思えた。だからスザクの思考が理解できず、ルルーシュは余計にスザクに忌避感を感じてしまうのだ。

 だがルルーシュは正直、そのような性の部分以外で彼に接されることは何の嫌悪感もなく、それどころか好意的に捉えていた。
 たとえば満開の桜の下で、愛を囁かれた日だ。
 友人だと思っていた同性の相手から告白をされるなど思ってもみなかったし、そのせいで結果的に勘違いまでしてしまったほどである。思い違いこそすれ、ルルーシュはスザクからの好意についてはどのような意味であろうと心の底から嬉しかった。ルルーシュが意味を取り違え発してしまった”俺も好きだ”という返事に大喜びしていたスザクの表情もまた、気恥ずかしいが見ていて嬉しくなった。自分の返答ひとつで歓喜する彼の単純さに得意な気持ちにもなった。
 日本ではまだ理解が進んでいない部分もあるそうだが、ブリタニアでは同性同士のカップルも多く存在し、有名人や著名人も数多く同性で挙式し、二人のファンやメディアはこぞって祝うものだ。そのような性別に拘らない恋愛スタイルに馴染みがあったため、たとえ同性であろうとスザクからの好意に男だから女だからという偏見や差別、悪感情は芽生えなかった。むしろスザクはノーマルだと思っていたからそちらのほうが驚いたが、たまたま好きになった性別がそうであった、というだけの話なのだ。
 つまるところ、ルルーシュはスザクからの好意や恋愛感情そのものについては忌避どころか歓迎していた。ルルーシュ自身、あまりにもスザクからの想いに何の抵抗も感じなかったため、ひょっとすると己もスザクのことを好いているのではないかと推し量ったこともあった。しかしルルーシュはスザクに対して、キスや性行為をしたいだとか、そういう欲求は一切ないのである。だからこれは親友として彼のことが好きなんだと、彼から告げられた恋愛感情とは一線を画するものであると結論付けた。

 そもそも恋とはどのようなものだっただろうかと青臭い思考に移行しそうな脳内の状況は、もう寝かせてくれというシグナルだったのかもしれない。
 ルルーシュは本能に任せて瞳を閉じた。




 入学式の日は満開であった桜は花びらの雨を散らし、すっかり散弾がなくなった枝は若葉を芽吹かせる。
 まだ花びらの残る部分と若々しい柔らかな緑が共存する状態を、葉桜と呼ぶらしい。多くの人はこの葉桜よりも満開の桜を愛でるそうだが、白と緑の織り成す、少しちぐはぐで中途半端な移行期間も時間の経過を象徴しているようで、ルルーシュは嫌いではない。それだけ、愛を告げられたあの日から時間が経ったのだと、ありありと視覚的に伝えられたようで不思議と感慨深くさせられた。

 保健室で強姦まがいのことをされたあの時から、スザクはとくに反応を見せることもなく、ごくごく当たり前にある、普通の級友として振る舞ってきた。その朗らかで人好きのする当たり障りのない態度がむしろ怪しく、彼が何を考えているのかさっぱり読めなくて、ルルーシュは詰んでいた。
 ――「また体調が戻ってから話をしたい」
 確かにスザクはそう言っていたから、近いうちに何か持ち掛けてくるはずなのだ。律儀で忠義深い、嘘を嫌う男である。自分と彼の間に起こったことを彼自身がうやむやにするとは思えない。彼は未だに、ルルーシュに行ったことに対する罪の意識を抱えているに違いないからだ。



 ルルーシュの予想通り、数日後、スザクのほうから声をかけてきた。何とも言えない複雑な面持ちの彼は明らかに昼間見せる友人としてのスザクの顔ではなく、拗れて歪でちぐはぐな恋人としての顔だった。

「本当に、ごめん。僕は君の信頼を踏みにじって、最低なことをした。決して許されないことだ」
 どうしても君に話して、確かめたいことがあるんだと切迫した声音で言われてしまえば、ルルーシュも従うしかない。さすがに外で出来る話題でもないため、スザクの部屋で二人きりで話し合いをしようという運びになったのだ。

 ルルーシュが彼の部屋の座布団を借り、ローテーブルの前に座った途端、スザクが口火を切り頭を下げた。
 握られた拳は爪が食い込むほど指先が白くなり、小刻みに震えていた。スザクが今日このときまでルルーシュに対する行いに罪悪感を募らせていた証拠であろう。
 彼から向けられる性欲や、彼の性対象になることは何物にも耐え難いほど不快であるが、スザクのこと自体はルルーシュ自身、好いている。そのことは何度もルルーシュの中で考え直しても覆ることのない、漠然とした事実であり世界の真実なのだ。
 ふつう友人だと思っていた者からああいうことをされてしまえば、誰だって疑心暗鬼になり、相手を自分から遠ざけてなお気が済まないほど忌避するだろう。それでもルルーシュはそこまで衝動的になれなかった。スザクは人間であるが、ある意味これも”愛着”の一種なのかもしれない。
 スザクの考えていることも当然ながら分からないことだらけだが、ルルーシュも自身の感情の由来について理解が追い付かない部分が多々あるのだ。
「もういい。お前のそんな、情けない顔見て俺も清々した」
「でも」
「いいんだ」
「…………ルルーシュはさ、僕のこと最初から好きじゃなかったんだよね」
 一旦食い下がったように見えたスザクは、本日二つ目の本題であろう”君に確かめたいこと”について触れた。ルルーシュは保健室でとっくに、スザクに向かって気持ち悪いと率直な心境を吐いてしまっていたから、もう今さら詰まらない嘘なぞ効かないだろう。
「そうだ。すまない」
「僕のことをからかったとかじゃなく?」
 スザクが訝しげに問うてきたが無理もない。この理由についてはルルーシュに説明する義務があるが、やはりひどく憚られる。しかし元はと言えば自分で蒔いた種なのだ。あのとき訂正しなかった己の行動から成長した地に張り巡らされた根も充分育った茎も葉も、自分で責任を取らねばならないのである。
「勘違いしていたんだ。……その、好きの意味を、取り違えてて……」
「……えっ」
「だから俺もあの場で好きだと言ってしまって……その、あまりに突然で」
「ああ……」
「訂正しないといけなかったんだが、言い出せずにいて……」
「うっ、うん……」
「本当に冷やかしとか、お前のことを弄ぶような意図はなく、これは事故で、」
「もっ、もういいよ、ルルーシュ、……うん、分かったから……!」

 どこか声が上擦るスザクの様子がどこかおかしいことに、ルルーシュは気づいた。
 不審に思い、その表情に視線を向けると、彼は手を口元に当てて笑いを必死に堪えていた。
「何笑ってるんだお前、俺の話のどこに、笑う要素が……!」
「いや、だって、ふふ、本当におかしいんだもん」
 言葉の合間合間で堪えきれない笑い声が漏れ出ている。よほど彼の笑いのつぼに嵌まってしまったらしい、ルルーシュの真剣な一世一代の大告白こそスザクに茶化されてしまったのだ。
「信じらんないよルルーシュ、まさかそんな、ははは、あー止まらない」
「それは良かった」
「いやほんと、でも、良かった。ルルーシュにフルスイングで顔面殴られて、お前とは遊びのつもりだったのに付け上がるな、とか言われるのかと」
 ひどい言われようである。一体自分をなんだと思っているのだと抗議したい。

 ひとしきり笑いの波が収まったらしいスザクは、ぽつりと寂しげな声で呟いた。
「じゃあ、ルルーシュとのお付き合いも今日で終わりになるのかなあ」
 春先より伸びた前髪が目の上に影を作り、表情を隠してしまった。スザクの表情は顔色や口元より何より、彼の瞳が主義主張をけたたましく語ろうとする。だから口調と本音が食い違っていても、彼の目を見れば大体言いたいことが伝わるのだ。今はそのお喋り好きな瞳が隠れてしまって、真意が掴み取れない。
「僕の好きと君の好きは、ちょっと違ってたみたいだし」
 その声色は寂しさを滲ませるどころか全面に漂わせ、隠そうともしない。

 何となく丸く収まりそうな現状と和やかな雰囲気に後押しされたのか、その場に流されたのか、同情か、後にも先にもこの時の心境だけは自分でもよく分からない。スザクのせいで、己まで随分と感情に振り回され無鉄砲になってしまっていると自覚し、思わず苦笑いした。
 ルルーシュは思わず口をついて出た提案に、自分でも驚くことになる。

「お前が俺のことを好きになってくれたのなら、俺もお前のことを好きに、なれるんだろうか」
「……えっ」
「……お前ができたことなら俺にもできるかと思ったが、いや、今のやっぱり、」
「なれるよ! きっと、なれる!」
 ルルーシュが撤回するのを、いけしゃあしゃあとスザクは阻んだ。こういう時に面の皮をこれでもかと厚くし図々しくなれるのが、スザクなりの世渡り術であり憎むべき点でもある。
「でも、いや……」
「僕のこと、好きになってよルルーシュ。僕の気持ちをなかったことにしないで」
「そんな言い方……ずるいだろ……」
 ルルーシュの中では密かに”お願いモード”と呼んでるスザクの媚びた声や表情にはとっくに免疫があったものの、その言い回しは不意打ちである。
 何がなかったことにしないで、だ。図々しいにも程がある。だが、スザクの想いを受け入れるも遵守するも、はねのけるも砕くも全てルルーシュの返事ひとつでその命運は委ねられているのだ。

 スザクには確かに性欲を感じないし、感じられることについてはひどく怯えと嫌悪を覚えざるを得ない。だがそれでもルルーシュはスザクのことが確かに好きだった。
 そもそもの話だ。もはや、”好き”の種類に拘ることこそが愚かで烏滸がましい行為なのかもしれない。
「分かった」
「ほ、ほんと?」
「努力する」
「有難うルルーシュ、愛してる、誰よりも!」
 スザクは青臭いにも程がある口説き文句を口走ったかと思えば、間髪いれずルルーシュを抱き締めた。

 このあと徐々に分かってきたことであるが、スザクとは手を繋いだりハグをしたり、頬や目元、額などの唇以外の肌への接吻は平気だった。
 それをスザクへ伝えると、まるで家族愛みたいだねと暢気な感想を述べていた。




 それから二人は徐々に距離を縮め、順調に交際を続けた。時折どちらかの部屋に泊まったり、出掛けたり、食事をしたり、贈り物を交換したり、つまりは共に過ごす時間が圧倒的に増えたのである。

 新学期に告白をされてから月日は随分と経ち、季節が一周、巡ろうとしていた。
 交際期間一年弱。正確に言えば十一ヶ月と十五日。

 スザクとルルーシュは一度として、キスもセックスもしたことがない。