クラウディウスの断罪
日本人は国外から渡来した文化や習慣を自国流にアレンジすることが得意な人種らしい。
たとえば日本国内で今も昔も当たり前に使われている平仮名や片仮名だってそうだ。
元は海を挟んだ隣国の中国大陸から伝来された漢字がルーツである。平仮名の前身である草仮名が発明される前は、漢字の持つ意味を全て考慮せず音だけを宛がった”万葉仮名”と呼ばれる技法が用いられていた。”世の中”を”余能奈可”と表記したり、”いよいよますます”を”伊与余麻須万須”と書き表すものがそれである。そのうち仮名の部分が崩し字になり草仮名となり、平安時代には貴族階級やそれに仕える女中たちの間で”平仮名”が成立したのだ。
ちなみに片仮名は同じく中国大陸から伝来した漢詩を解読する際、日本語で言うところの接続語や副詞を補うために開発された文字であるとされている。返り点やレ点もこれと同様であろう。
そのようなアレンジ精神が現代の日本人にも根付いているのかは定かでないが、もしそうであると仮定したとき、加えてこの人種はひどく季節の行事ごとが好きだ。
ここ数年ではハロウィンなんかが随分と形骸化されているが、元はと言えば先祖の霊や悪霊が現世に帰ってくるので悪霊を追い払うための祭りだ。日本で言うところのお盆と同義である。本来この行事は仮装した子供が大人に菓子をせびる行事だそうだがこの国では、仮装して街中を歩いたりお菓子を交換したりとまるでクリスマスのような様相を呈している。製菓会社は当然ながらここぞとばかりに便乗するし、メディアもそのようなイベント事を煽ることを憚らないのだ。
節操がないと形容できるほど目新しい物好きの、案外フットワークの軽い国民性にルルーシュは何度も驚かされている。ついこの間までやれチョコレートだバレンタインだと騒いでいたのにあの賑やかさはどこへやらという調子で、今度はバレンタインのお返しだのホワイトデーだと人々の興味関心はあっという間に目先のほうへ向かっていた。
そもそもバレンタインこそ日本では女性が男性に向けて好意を忍ばせチョコを贈ることが本来の大義名分であったはずなのに、いつの間にやら”チョコを渡す”という行為だけが風習として残り、あげる側や貰う側の性別、立場は無関係になりつつある。
いやむしろ、それだけならいい。チョコへ込める気持ちが異性への特別な感情から、同性間や家族間出も当たり前にある日頃の感謝の思いにシフトしただけなのだ。
大いに結構なことであるし、かくいうルルーシュ自身も愛妹からのバレンタインチョコレートに天にも昇るような気持ちにさせられたのがちょうど先月の出来事だった。普段からナナリーにはできうる限りの愛を伝えていたし、ナナリーからもそれ相応に、むしろそれ以上に返戻されていた。だからわざわざ行事に便乗し改まって物を贈るというほどでもないのかもしれないが、年頃の彼女にはそういったことに敏感であるのも分かっていたし、何より自分のためにこのチョコを用意してくれたことに意義があるのだ。だからルルーシュもナナリーへの想いを、この感謝の気持ちを少しでも返礼してやりたかった。それゆえ来るべきホワイトデーに向け、どうすれば彼女を喜ばせてやれるだろうかとあれこれ試行錯誤していたところだったのだ。
そんな落ち着かない兄の様子を見た妹は、口には出さぬものの件の日を期待しているかのように、ここ最近は心なしか機嫌が良かった。
「もうホワイトデーだって、早いね」
そしてこの男もすこぶる機嫌が良いようで、ルルーシュはそれに反比例するようにうんざりした心地にならざるを得ない。
厳冬の峠もようやく超え、桜の開花予想や花粉飛翔量の話題がニュースに上がりだした弥生の初週である。それでもまだ未明の時分はぐっと冷え込み、日中との寒暖の差は厳しいものが続く。たまに暖かい日が訪れたと思えば翌日には寒の戻りだと取り立たされ、気まぐれな気温の変化に体も追いつかない。
「そうか、早いな」
「うん。楽しみだね」
ね、とこちらへ同意を求めるような言いぶりが甚だしく、苛立ちが募る。それが楽しみなのは少なくともお前だけだろ、と言外に言い含めてルルーシュはスザクを睨んだ。
それを知ってか知らずか彼は巧妙に話題をすり替えてくるのだから、さらにルルーシュの虫の居所を悪くさせるのだ。
「今年もナナリーにお返し作るんだろ? 去年もすごかったもんね」
「当たり前だろう」
去年はホワイトデーにチーズケーキのタルトを手作りして振る舞ったのだ。ナナリー一人では食べきれないからということで生徒会のみなに小分けしたものを配ったのだが、大変好評だったことを覚えている。ルルーシュにとっては、とくにナナリーにはとびきり喜ばれたことが中でも印象に残っていた。
「そうなんだ。……楽しみだなあ」
その言葉の真意を、昨年同様ナナリーからのお零れ目当てか、それとも先ほど言い含めていたことを暗示しているのか、ルルーシュは考えないでおいた。
バレンタインデーもホワイトデーも、何も彼と迎えるのはこれが初めてではない。
幼い頃、ブリタニアから日本へ留学したルルーシュとナナリーの食住の面倒を見てくれたのは枢木家であったし、二人の遊び相手になってくれたのは偶然にもルルーシュと同い年であったスザクだった。以降もたびたび互いの国へ遊びに行ったりして交流を続けたし、ルルーシュとナナリーは本国から離れ、日本に所在地のある世界有数の名門校アッシュフォード学園へ進学する運びとなっても、何かとスザクが二人のことを気に掛けてくれた。
昔からのよしみじゃないかと言う彼は、ルルーシュとナナリーにとっては日本での慣れない生活に何度も力添えしてくれていたのだが、今思えばあれは善意半分下心半分だったのかもしれない。寮を含む学園の敷地内でならまだしも一歩そこから出ればごく普通の日本の街であるから、学園生活が始まったばかりの頃は日用品や衣服の買い出しに何度も付き合ってくれていた。
恥ずかしい話、スザクはなんて優しく気の利いた男なんだとルルーシュは素直に称賛していたのだが、それも彼にとっては計算のうちだったらしい。
そうしたスザクの振る舞いはいつしかルルーシュへのあからさまなアプローチへとすり替わり、ルルーシュ自身季節が一周巡る頃にはいつしかすっかり絆されていた。しかも外堀を埋めるのが上手い男はルルーシュの最も愛するナナリーを味方につけ、ルルーシュから”拒否する”という選択肢を奪ったのだ。普段は耳障りの良い綺麗ごとを言うくせこういうときに限って、枢木スザクという男はなりふり構わず結果を重んじるような突飛のない行動に出たりするのだ。
かくして純然たる交際を始めた二人であったが、何もルルーシュばかりがスザクに絆され翻弄されるばかりでもない。スザクが奇をてらった型破りな戦法でルルーシュの意表を突くのが得意だとしたら、ルルーシュは綿密に練った計画を用いてスザクを追い詰める戦略が得意だった。
たとえば冬の初め、スザクがルルーシュの手袋やマフラーを見て、それあったかそうだねえとなんとなしに呟いたことをルルーシュはしっかりと覚えていた。
元々風邪すらもあまりひかず、その上自分の持ち物にあまり頓着しない彼は、白い息を吐き出す時期になろうと素の首や手のひらを冷たい外気に晒したままで、見ているこっちが身震いしそうなほどであったのだ。それを見かねたルルーシュはクリスマスの日に合わせて、スザクのために見繕ったマフラーをプレゼントしてやったことがある。黄味の布地が、彼の栗毛や翠目によく合っていておあつらえだった。彼はルルーシュのプレゼントひとつで半泣きになるほどひどく大喜びしていたから、マフラーひとつで大袈裟な男だと思った。
布一枚でことさら喜ぶスザクを訝しく感じたルルーシュは所感をそう素直に述べた。
しかし頬を紅潮させた男はだって、と声を震わせる。
「だってルルーシュと恋人になって、初めて一緒に過ごせるクリスマスだったから」
スザクはすぐそうやって迂闊にすらすらと恥ずかしいことを言うものだから、免疫のないルルーシュにとっては、もうたくさんだった。それすらもスザクの計算のうちなのか天然なのかは知りようがなかった。
恋人になってから初めて一緒に過ごせるクリスマス、とか何とか宣うくらいには案外彼はロマンチストなのかと思っていたが、ルルーシュの見当違いだったのかもしれない。
おかげで刻々と件の日が近づくたびに、ルルーシュはクローゼットの奥へ追いやった例の物を思い出しては頭を抱えるはめとなっていたのだ。
ルルーシュにとって忘れもしない、それはある意味この生涯で最も印象的な二月十四日であった。
マフラーを贈ったクリスマス以降、たびたび彼にお返しは何がいい?と尋ねられることがあったから、恐らくそれの返礼なのだろうということは、明らかにチョコとは思えない規格外の大きな箱を前にしたルルーシュ自身、薄々察しがついていた。
当然ながら見返りを求めて彼に贈り物をしたわけじゃあるまいし、ルルーシュはそう尋ねられるたびに何も要らない、とだけ言って断り続けていた。しかしその本心ではどこか、彼からの贈り物を期待する自分が胸のどこかに居たのかもしれない。
だからルルーシュはスザクから、サテンリボンで巻かれ控えめにラッピングされたその箱を受け取ったとき我にもなく緊張して、大層期待したのだ。スザクが自分のために選りすぐってくれたのであろうそれを前にして、正真正銘自分は不覚にもときめいていた。
贈り物を受け取って喜色を隠しもしないルルーシュに向かって、やはり彼もまた満更でもなさそうに早く開けて、と催促までするのだ。だからまさか中身があんなものだとは、ルルーシュだって思わなかったし言葉を失うのも無理はないのだ。挙動不審なルルーシュに対しどうかしたの、と言いたげにきょとんとするスザクの表情と贈り物の正体がどうしても噛み合わず、そんなことがあってはならないとは思うものの、まさか別人に贈る手筈の物と中身を取り違えたのかと本気で疑った。
だが、箱の上蓋を持ったまま蒼白にし硬直するルルーシュの様子を見てどこか満足げなスザクの態度を見る限り、この贈り物は信じられないことに彼の思惑通りだったのだ。
交際期間こそ短いこそすれ、ルルーシュとスザクの交友関係は十年単位で続いていた。だからスザクの好物や誕生日はもちろん、勉強よりも体を動かすことの方が好きだったり、照れた時に後頭部を掻く癖があること、整理整頓はあまり得意でないことなど、彼にまつわる大ざっぱなことならルルーシュはとっくに把握していたし、恐らくスザクにもされている。だがルルーシュの中でスザクにこのようなひどい悪趣味があるとは、この十年の付き合いの中でも未だ記憶になく、ましてやこのようなタイミングでそれを身をもって知らされるとは思いも寄らなかった。
――来月、それを着けて僕の部屋へおいでよ。
――それがホワイトデーのお返しってことで。
ひと月前にクローゼットの奥へ、なかったことにするように押しやった箱を再び取り出した。
前回最後に見た箱と今手元にあるそれは大きさも質量も記憶と寸分変わらず、しかし気持ちとその手つきは以前よりも遥かに重いものだった。恐る恐る上蓋を持ち上げ閉めて、また持ち上げ閉めて、を飽きることなく何度も繰り返してしまう。何かの見間違いであってくれと願いながらその中身を見るたびその願いは裏切られ、ルルーシュは羞恥と怒りで気がどうかしてしまいそうになるのだ。愛しさと憎しみは紙一重、愛しさ余って憎さ百倍、とはよく言ったもので、今のルルーシュにとって脳裏に浮かぶ彼の顔が憎々しくてしょうがなかった。
ルルーシュは今度こそ箱の上蓋を外し、脇に置いた。上質なサテンリボンの梱包と質量のある紙箱は誰の目から見ても、それが一等級の特別な贈り物であることを如実に物語っている。
その中からおずおずと、腫れ物に触るかのような手つきで一枚の布切れを取り出した。白い紐に繋がる心許ない薄っぺらいシルクはレース加工が施されており、とても繊細なつくりだ。おもむろに目の前に持ち上げるとその布は部屋の照明を受け、うっすら透けているように見えた。透けているように、というよりもそれは透けるように縫製されているということは明らかだった。
ぐ、と息を飲んで一瞬怖気づいたものの、ルルーシュはその布切れを一旦箱に戻し、半ば投げやりな気持ちで今度は別の布を手に取った。
肩ひもにもまた細かなレースがあしらわれ、そこからシルク独特のツルツルとした布地がフレア状にふわりと広がっている。胸元は女性の乳房を覆うように刺繍とリボンで飾られていた。
これはいわゆるベビードール、と呼ばれる女性物の下着である。そして先ほどルルーシュが手に取っていた薄ぺっらい布に繋がる紐は恐らくショーツの類だろう。
ルルーシュには気の強い母親と一人の妹、異母であるが二人の姉がいる。ルルーシュに言わせてみれば、彼女らは育ちは良いものの大層お転婆な一面があり、そうした中で女性の際どい部分を末っ子の弟であるルルーシュに彼女らは隠そうともせず、むしろおっぴろげにする傾向にあった。女性とは言えど、家族のそのような部分を見せられてもルルーシュとしては困る一方なのだが、そのようなルルーシュの反応を特に母親や姉たちは揶揄うことが多かったのだ。立派な青年に成長し女性にもすっかり免疫のある兄たちは、母親たちのそういう振る舞いを涼しく躱していたのだがルルーシュは未だに、どこか照れが抜けずにいた。
そういった苦々しい経験もあって、実家に居た頃はこの手の下着も時々目にする、いやさせられることもあり、知識としてだけは知っていたのだ。
ベビードールは下着でもあるが、カジュアルなデザインであればルームウェアとして着用することもできるらしい。それはそうとして、心許ないほど布面積の小さいこれは一体どうして男である己に寄越してきたのか、ルルーシュにはスザクの魂胆がまったく見当つかなかった。
「これを、着けて……だと…?」
床の上へ散らばる生々しい布切れを目の前に、ルルーシュはもはや何度目になるか分からない独り言とため息を吐き出した。
見慣れたドアの前で呼び鈴を鳴らすと、当然ながら扉を開けて現れたのは彼であった。
「なかなか来てくれないから、忘れられちゃったのかと思った」
「……お前が、言ったんだろう」
「何でもいいよ。早く、あがって」
ルルーシュを出迎えたスザクは、いつになく挙動不審なルルーシュを前にしてもどこ吹く風と言わんばかりに涼し気な顔をして、いつもの健全なクラスメイトみたいな素振りで朗らかに微笑んだ。和らいだ目元とふわりと緩む口角は優し気な表情は、変に気取ったり格好つけでもないスザクの心象を反映しているようでルルーシュは嫌いでなかったが、この時だけはどうしようもなく恨めしくて仕方がなかった。
俯いたまま動こうとしないルルーシュの腕を引いて、スザクは力づくで自室へ連れ込んだ。その有無を言わさぬ腕の力に思わず狼狽したが、本気を出したところで力勝負においてルルーシュがスザクに勝つ可能性など無に等しい。これは長年の経験則上、ルルーシュが身をもって何度も体験してきたことであるため、癪ではあるが自信を持って断言できることだった。
二月十四日のバレンタインデーの起源となった聖ウァレンティヌス司教の殉死後、ちょうど一か月後にあたる三月十四日、司教に救われた男女が改めて永遠の愛を誓ったことがホワイトデー制定の由来とされている。日本ではバレンタインデーに贈られたチョコレートの返礼の日として製菓業界が大々的に宣伝し、今日に至るまでに全国的に広く認知されるようになった。返礼の品としてメジャーとされるのはキャンディやマシュマロ、クッキー、ホワイトチョコレートなどであるが、食品だけでなくアクセサリーも男性から女性に贈る品として選ばれることも多い。また菓子類の中でも、キャンディは両想いの意を、クッキーは友達のままでいようという意を表すなどの謂れがあるが、これらは諸説あり由来もはっきりしないことが殆どである。
ルルーシュもまた、バレンタインの返礼に焼き菓子のひとつでも寄越せてやればいいと思っていた。しかしながらスザクの思惑はルルーシュの予想を遥か彼方をいくものであった。バレンタイン当日にあまつさえ女性物の下着を寄越した彼は、ホワイトデーのお返しに下着を身に着け己の家に来いと言いのけたのである。
正真正銘ルルーシュは男であるし、女装趣味もなければ女性の下着を携帯したり眺める趣味もない。即行捨ててやろうかと思ったが、内容がどうであれ曲がりなりにもこれは人からの贈り物で、しかも相手はスザクなのだ。
一体どこで選んでどう購入したのかまでは聞くに聞けなかったが、上等なラッピングにシルクの布とくれば相当値の張る商品であろう。贈り物の価値は値段でなく、当然ながらそれを贈った相手の真心こそが真価であるとルルーシュは重々承知している。しかしそれでも、そう易々と一高校生がこんなものを買える分際でもないのは事実だ。
内容物はほとほと呆れるほど悪趣味ではしたないが、しかしスザクは本気でルルーシュにこれを誂えたのだろうかと物好きな彼の心情を少しでも慮ったのが、最後だった。
それ以降毎日のように学校内外で、来月楽しみにしてるよ、と言い含められ続ければ徐々にルルーシュ自身も、そうするしかないのではないか、と半ば洗脳のような、あるいは調教のように、認識を変えざるを得なくなっていったのだ。スザクの押しに弱いという自覚は、交際する前からルルーシュの中には既に存在していたため、最初からこうなることなど、ルルーシュ自身分かっていたのかもしれない。
しかしそれでも、これは自分の本意ではない。これだけは、ルルーシュが胸を張って断言できることだ。スザクがどうしてもと何度もしつこく言ってくるから、大変不本意であるし出来得る限り避けたい事案ではあったものの、スザクの趣味に付き合うことを自分は余儀なくされているのだ。
そう考えなければ、とても正気じゃいられない。
「服、自分で脱げる?」
「……は?」
スザクに腕を引かれて自室に連れ込まれたと思えば、強引にベッドへ組み敷かれて、もう何度目にしたか分からないほど見慣れた天井が、気づけば視界に広がっていた。
ルルーシュの顔の横に手をついたまま、スザクはルルーシュの顔を覗き込んで再び同じことを問うた。
「脱いでみせてよ」
「なんで……」
その言葉は先ほどと異なって威圧的な強制力があり、ルルーシュは途端に退路を断たれた心地になった。待ちに待った獲物を目の前にした肉食獣のような、どこか剣呑とした鋭い目つきをしたスザクがルルーシュにそう、命令をくだすのだ。
体勢的にも、腕力差でも、この衣服の下に身に着けている爆弾も、もはやこの状況に於ける何もかもがルルーシュを不利にさせる要因でしかない。あまりに迂闊過ぎた自分の行動を責めたところで、今や背水の陣である。
「……ルルーシュ」
切なげ細められた瞳と、スザクの弱々しい声音がルルーシュの鼓膜を震わせた。
カッターシャツのボタンを、たどたどしい手つきでひとつずつ順に外していく。人前で服を脱ぐくらい、学校でも体育の時なんかにごく自然に行っているし、第一男の上半身など見られたところでどうにもなりはしない。しかしこの下に着けている例の物と、相対しているのがスザクであるという現実が、どうしてもルルーシュの脱衣を躊躇わせる。
指先に向けていた目線をふと目の前の彼に向けると、ばちりと視線がかち合った。スザクは何がおかしいのか、吐息だけで笑うと甘く微笑んだ。別にスザクに何かを言われたわけでもないのにルルーシュは無性に腹が立ったのと、もしや今までずっと己の顔を注視されたのだろうかと気恥ずかしくなって、再びボタンを外す自分の指先に目線を戻した。
質の良い、ラメ入りの薄いシルクが部屋の照明に反射して上品に輝く。女性の乳房の型に沿って縁取られたレースは、膨らみのないルルーシュの胸を煌びやかに飾っていた。
これで満足かと、シャツのボタンを外し終えたルルーシュはスザクを睨み上げたが、スザクはそのねめつけるような視線を受けてもなお、当然のようにそれを口にした。
「下も見せて」
「っ、この…っ!」
ルルーシュの制止の声を聞こえない振りをして、スザクはベルトのバックルに手を伸ばしていた。俄かにルルーシュが暴れるのを物ともせず、あっさりループからベルトを引き抜き、床へ放り捨ててしまった。
「腰、浮かせて」
「嫌だ」
「強情だなあ」
スザクはベルトのないズボンのウエスト部分を掴んだまま途方に暮れるような顔を作ったが、最初からスザクの意図が分からずお手上げ状態なのは俺の方だと、ルルーシュは心の中でひとりごちた。下着のラインが見えないよう、敢えてゆったり穿けるボトムスを選んでいたが脱がされるとなるとそれも意味を成さない。
女が着用するにしてもどうかしてると思えるほどの布面積なのに、それを男であるルルーシュが身に着けているのだ。収まりが悪いどころの話でないし、会陰から尾てい骨までは紐ひとつで繋がれているデザインで、これではいっそのこと何も身に着けないほうがマシであると思えるほどだった。
「じゃあ自分で脱いでね」
スザクはそう言うとルルーシュの手を取り、ズボンのウエスト部分に手を掛けさせた。それでもルルーシュはその手を下ろす勇気も度胸も足りず、目の前の男に嘆願した。
「み、見るな」
「……うん」
ルルーシュの”見るな”という要望を存外あっさりと受け入れたスザクは、ルルーシュの顔を至近距離で覗き込んだ。キスをされるのかと思ったルルーシュは思わず目を瞑ったが、彼の意図はそうではないらしい。鼻と鼻がぶつかりそうな距離感のまま、額だけを擦りつけたスザクは、唇の動きだけで”早く”と急かした。吐息が唇に当たって、変な気分になる。スザクの瞳に映る自分の表情は微かに欲情したような、いやらしい顔をしていて、これはスザクの見せる幻覚か何かだと願わずにはいられなかった。
今のスザクの位置からでは見えないと分かりつつも、ルルーシュは出来るだけ体を縮こめ、脚を閉じながらゆっくり、衣を足から外した。
「……脱いだぞ」
ベビードールのフレア状になっている裾を引っ張り、前部分を隠しながらルルーシュはぶっきらぼうに言った。恥ずかしすぎて声が上擦るのを堪えると自然とそういう口調になった、と呼ぶのが正しいが、当然そんなことをスザクに伝える義理はない。
その声に反応して、ぴたりと押し当てていた額をようやく離し視線を下へ向けたスザクだが、まだ何か気に食わないことでもあるのだろう。ルルーシュはある程度予想がついていたが、やはりスザクはルルーシュが隠したがるその部分へ、同じように手を差し伸ばした。
「恥ずかしがってないで」
「こんなの、誰が」
「僕が君に、似合うと思って選んだんだ。見せて」
ルルーシュは歯噛みした。彼はずるい男である。
スザクがルルーシュのために、自分のことを想って、きっと似合うだろうと選んでくれた、曲がりなりにも唯一無二の贈り物なのだ。そんな言い方をされると言うとおりにするしかないと思わせてしまう、ルルーシュの律儀な性格を見越しているのかいないのかは定かでない。惚れた弱みもある。熱っぽい視線に晒され、熱烈な言葉を浴びせられれば、普段は理性の塊のような自分だって、どうかしてしまうのも致し方ないのかもしれない。
心許ないレース生地で辛うじて隠されているそこを見詰めたスザクは、わざわざルルーシュの顔へ視線を移して可愛いね、と感想を述べた。ルルーシュは否定も肯定も文句も言わず、そっぽを向いて黙り込んだ。
熱くなり過ぎた頬には冷たいシーツが心地よい。場にそぐわない、関係のないことを考えて気を紛らわすことがルルーシュにできる精一杯の抵抗であった。
「よい、しょ」
スザクはおもむろにルルーシュの閉じられた太腿を割り開き、片脚を肩に掛けて持ち上げた。途端に外気とスザクの眼下に晒されるルルーシュの下半身の隅々を、彼は憚ることなく注視した。
「はは、すごいや」
「っおい!」
「本当に、紐だ」
「おっお前が選んだんだろ!!」
ルルーシュにしてみれば、誠に遺憾で甚だしく、抗議したい心地である。ルルーシュに似合うと思って、と言いながら実際に身に着けてやれば無邪気に味気ない感想をつらつらと述べるものだから、本当にスザクの考えていることが読めなかった。興奮させるどころか知的好奇心を煽られたようなスザクの言動が余計に、ルルーシュの羞恥を煽って仕方がない。
「引っ張るな!」
「あはは。ほんとに解けちゃうんだ、これ」
スザクはどうやらこの下着の構造すら理解していないらしく、ルルーシュの腰横で揺れるリボンの結び目を指で弄びながらおかしそうに笑った。
「俺に女みたいな格好させて、そんなに面白いか」
相変わらず笑い声をあげるスザクに、ルルーシュの声が釘を刺した。
「俺の体が女じゃないから、こんなふうに女に見立てて。そんなに女の体を抱きたいのか」
「違うよ、違うって」
スザクはようやくルルーシュの言わんとすることを理解し、持ち上げていた脚をシーツへ恭しく下ろした。
ルルーシュとしては、来る三月十四日まで思いつく限りの可能性、推論を立てていた。
交際を始めてからも、出会ったときからも、スザクがこういった男に女物の下着を着けさせるというアブノーマルな趣味を抱えていたとは、ルルーシュは思えなかった。そのような素振りももちろんないし、交際してからも男であるルルーシュを女扱いすることなどなかった。
しかしながら、スザクはルルーシュと交際するまでに女性と交際した経験があるような素振りをすることがあった。今現在付き合っている恋人の前で、いわゆる元カノというやつの話をひけらかすほどスザクも無神経な男ではない。だが、ルルーシュと”恋人らしいこと”に及ぶとき、明らかにルルーシュよりスザクのほうが数段、上手(うわて)だった。だからなんとなく、自分以外にも付き合ったことのある人が居るんだなと漠然と、ルルーシュは思い至った。
ルルーシュは特段それで嫉妬を覚えたりはしなかった。むしろ、こんなプライドの高い意地っ張りのくせ奥手な自分を選んだスザクのほうがよっぽど奇特で、ルルーシュにしてみれば悠長に嫉妬などしてる精神状態ではなかった、と言える。
だが冷静に考えてみれば、今まで女性と付き合ったことのない男がいきなり男性と付き合い始めて、当初はその場の勢いや情で過ごせるものの数か月も経って落ち着いてくると、やはり本能的には女性を求めてしまうのではないか。考えに考え抜いた推論のうち、この可能性が一番現実的であり得ると、ルルーシュはそう結論付けた。
女として見立てられるのも癪だが、ルルーシュの身体が男だからと言われ、心まで離れられるのはもっと辛いことだと思った。スザクの感情が肉欲ありきであるとは言いたくないが、それも確証がなければルルーシュの独りよがりに他ならない。
「そんな顔、しないで」
思考に耽っていたルルーシュは、スザクの呼びかけにようやく意識を外へ向けた。気が付くとまた、スザクの顔が至近距離にあった。
「僕、嬉しかったんだ」
スザクはちらりと視線を部屋の端へとやった。ルルーシュも釣られてそちらへ目を動かすと、そこにはハンガーにかけられた、ルルーシュにはひどく見覚えのあるマフラーが吊るされていた。クリスマスの日、スザクのために選んで彼に贈った、ルルーシュからのプレゼントだ。もう三月の半ばで寒さも和らいだというのに、明日も来週も来月もずっと使われることを望んでいるかのように、その布は部屋の中で存在感を示していた。
「贈ってもらえたことも、似合ってるって言われたことも」
「マフラーの礼だろう。分かってる」
「分かってないよ」
スザクはベビードールの裾を乱雑に掴み上げ、その下にある色のない素肌を撫でた。
「こんなの手段だ」
「手段ってな……ッ、ぁ!」
「僕の話、最後まで聞いて」
脇腹を撫でさすっていた不埒な手がルルーシュの胸元に這い上がり、まだ柔らかい胸の尖りを遠慮なく押し潰した。痛みで言葉を詰まらせたルルーシュはしかし、普段は実力行使を行わないスザクがここまで切羽詰まっているということを悟り、大人しく閉口した。
「お礼、何にしようかなってずっと悩んでたんだけど」
「……っ、……」
「それでね、思いついたんだ。君を驚かせられるもので、僕も楽しめたらいいなあって」
「は、……」
「僕ね、君の困ってる顔や、照れてる顔が大好きなんだ」
「な、に……?」
「下着なんて、どうでもいいんだよ」
スザクはその言葉と同時に、徐々に膨らんでいた乳首を抓った。ルルーシュは息を詰めて、信じられないものを見る目でスザクの顔を見た。
「ルルーシュのそういう顔……、そうそれ、それが見たかった」
スザクは裾を引きちぎる勢いで捲り上げ、天を向いている尖りの先端へ舌を伸ばした。
「な、舐めたら、汚れる……」
彼の舌先が自分の胸元まで届きかけた寸でのところで、ルルーシュはスザクの頭髪を掴んで制止させた。
スザクは目の前の御馳走にありつけずお預けを食らった犬のように、不機嫌な面持ちのまま唇を窄めてルルーシュの顔を見上げた。強請るようなスザクの視線も受け流し、ルルーシュは手に込める力をさらに強めてここから先を続けさせまいと、抵抗をした。
「汚れるだろ」
「捨てちゃえばいいよ」
「捨て……!?」
動揺し一瞬力が怯んだルルーシュの隙を見て、スザクは胸元へ遠慮なく吸い付いた。赤子のように胸をしゃぶるその姿は格好悪く下品ではしたないが、そんなことを指摘する余裕はルルーシュにはない。彼の口内で愛でられるそれは、着実に快感を拾い上げ冷静な思考回路を焼き切ろうとするのだ。
「っ、ま、待て!」
「んー……?」
「捨てるのは、だめだ」
「……まだその話?」
スザクは緩慢な仕草で顔を上げ、再び両手をルルーシュの顔をの横へ置いた。ルルーシュを見下ろす瞳はとっくに情欲にまみれ、彼の余裕のなさが窺える。
ここでなし崩しに体を求め合えれば楽だと、内なる本能がひっきりなしにルルーシュにそう告げる。しかしここで情欲に流されてしまえば、これから自分もスザクも心のどこかに蟠りを抱えたまま共に過ごすことになる。懸念事項はできるだけ早く取り除いておくのが円滑な人間関係を築く上で、また生きていく上での基本中の基本なのだ。そもそもお互いが相手が悪い自分が悪いなどと誤解したままであるというのは、これ以上ないほど哀しいことである。
「俺はお前に、内容が何であれ……貰えるものは何だって嬉しい」
「僕もだよ」
「ならこの気持ちも、スザクにとってはどうでもよくて、捨てられていいのか」
「え、……あ」
スザクが纏っていた剣呑とした空気が途端に霧散し、驚きに見開かれる瞳は何も映さなくなった。
「……に、似合って、るんだろう」
「うん……。うん、似合ってる」
スザクはルルーシュに、マフラーを贈られたこと、それを似合っていると言われたことを大層喜んでいる様子であったが、それはルルーシュとて同じことなのだ。
あの人には何が似合うのだろう、どんな色やデザインが好きなのだろう、もし既に持っていたらどうしようか、そもそも自分が贈って嫌がられることはないだろうか。どんな物であれ、自分のことを想ってくれた時間だけは嘘をつかない。贈り物というのは、物の内容や値段よりも相手を想う時間にこそ価値があるのかもしれない。ルルーシュはそう信じていた。だから、捨ててしまえばいいというスザクの言葉はあまりにも悲しかった。
「ごめん。ごめんね」
「……俺こそ、女のほうがいいのかなんて、ひどいことを」
「僕が説明不足だった。ルルーシュが謝る必要ない」
「そんな……」
スザクは頬を擦り寄せて、潤んだ瞳をルルーシュへ見せた。まるで許しを乞う罪人のような、しおらしいその表情と仕草に、しかしルルーシュはとっくに絆されてしまうことは分かり切っている。特定の誰かを好きになるという事は、きっとこういう事なのだろう。ルルーシュは都合よくそう解釈した。
「その下着捨てないってことはさ」
不意にスザクが口火を切った。その口調は先ほどと打って変わって随分と機嫌が良く、なんとなく嫌な予感すらした。
「ルルーシュの勝負下着? それとも、僕が着てって言ったら、着てくれるの?」
「馬鹿馬鹿しい」
会話の脈絡からしてそういうことだろうとは見当がついていたが、こうも想定どおりだと呆れて反論する気力すら削がれる。もうお前の勝手にしてくれと言わんばかりに、ルルーシュは渋い表情を浮かべた。
基本的にスザクは、自分の問いに対しルルーシュが沈黙した場合は都合よく肯定と受け取るらしく、今回も例に漏れずそう解釈したらしい。
「今度は僕の前でこのパンツ着けて、脱いでよ」
「調子に乗るな」
純潔のシンボルである白色のリボンを弄ぶスザクの指先は純潔とは程遠く、どこまでも不埒で卑猥だった。
完