無知は罪となりうるか
地上の人間を焼き殺さんとばかりにさんさんと輝く太陽は、もうこれ以上でしゃばらずそろそろ休んでくれと叫びたくなるほど相変わらずであった。その代わり人々の活動時間外になる朝と夜はその熱気を大いに孕んだままではあったが、僅かに涼しげな空気を纏い始めた。とくに陽が地平線から顔を覗かせる直前である夜と朝の境には、窓を開くとひんやりとした乾いた風が薫り、それはひたひたと秋の訪れを暗示していた。そして幾分か過ごしやすくなった朝方はとくに登校の時間と重なるため、ゆったりと涼やかに、軽やかに移ろうとする季節に感謝した。それと同時に長かったようで短かったような恨めしい夏と当たり前に横たわる熱気が、今年も過ぎ去ることに微かな寂しさを覚えた。穏やかに残酷に、地に臥せていったあの夏の象徴たちも、この季節の死を惜しむだろうか。
先日二学期へ突入したばかりの此処アッシュフォード学園は、一気にお祭りムードを醸し出し始めていた。学園祭のシーズンが到来していたのである。ルルーシュは自ら所属する生徒会の催し物の準備に追われるわけだが、クラスの出し物にも一応参加せねばならなかった。とはいっても率先して実行委員に立候補するわけでも当日表で仕事をするつもりもさらさらなかった。今年も裏方に回り、周囲の仕事を邪魔するわけでも役立たずのお荷物に成り下がるわけでもなく、つまり適当に立ち回り程々に手を抜こうという算段である。今年のクラスの出し物はどうやらシンデレラを原作にした演劇であるらしい。なら己は舞台設計の仕事にでも回るかと検討しながら、さっそく演者決めが始まっている様子をルルーシュは教室後方である自らの席で眺めた。
「ルルーシュがシンデレラで、枢木が王子様でも合うんじゃねえ?」
ルルーシュの前方の席の男子生徒がこちらを振り向き、くつくつと笑いながら小声でそう話しかけてきた。
「いつにも増して冗談がつまらないな」
至極下らないという調子でルルーシュはそれを切り捨てた。その男は顔を一瞬げんなりと歪めて、だがそれでも食らいつくように話を続けた。
「だってお前ら仲良いし、お前は中性的な顔で、枢木はほら、体育の剣道だっけ?あれすげー強かったじゃん」
体育の授業は男女別2クラス合同で行われ、生徒各々がスポーツの種目を選択できる仕組みとなっていた。その時ルルーシュは一番人気であった球技を、スザクは一番不人気であった武術を選択していた。元々スザクは幼い頃から武道を嗜んでおり、素人だらけの授業内ではある意味その道のプロとも言えた。そのためそれがかえって、授業の上で好成績を得るためのずる賢さ、若しくは目立ちたいかモテたいだけのように見えるかもしれないが、本人は至って真面目に極めて純粋に、武術で体を動かしたかったようである。しかし案の定、その道に精通している唯一であったスザクは大変注目を浴びることとなった。とくに剣道を取り扱った授業では、他の競技を選択していた者が授業をボイコットし、彼の剣道の腕前を見物するほどであったのだ。当然体育教諭はそのボイコットした生徒をこっぴどく叱り、その後彼はその生徒に対し僕のせいで、となぜか的外れな謝罪をしていたことも思い出す。そういうことも確かにあったなと、遠い昔のアルバムのページを繰るような、どこか懐かしい気分にルルーシュは人知れず浸った。
「あーそれなら俺も、なんか分かる気がするわ」
「だろー?」
会話の発端となった男子生徒の真横の男子もまた、会話に混じってきた。どいつもこいつも一体何なんだと呆れつつ、ルルーシュはその話題の渦中の人物であるはずなのに、どこか他人事のように話の着地点を傍観していた。
「ルルーシュとあいつ、なんか仲良いっていうかさ」
そこで不意に言葉を切った男子生徒は、その先を少し言い淀んでいた。言いづらいというよりも、それを指し示すのに相応しい言葉が見つからないというふうに近かった。ルルーシュにとって、枢木スザクという男とは仲のよい幼馴染みで親友であるという認識しかなかったため、端から見ればそのような、彼らから言わせれば当て嵌める言葉が見当たらない、形容しがたい関係性なのかと、首を傾げざるを得なかった。頑固で意固地な彼とは昔から喧嘩は多かったもののそれらも含め、二人は仲が良いお友達なんだねと微笑ましい視線と言葉をよく大人に掛けられた。大人たちや同世代の者たちから呪文かのように、はたまた洗脳かのように何度も何度もしつこくそれを言い聞かされていた。そのせいか今この瞬間まで、自分とスザクのことを”友人”以外の関係性で表現できることを、ルルーシュは知らなかった。だがその関係性を示す名称は客観的な立場で見れるはずの、他者である彼らからでも明確に言葉にできないようであった。
ルルーシュは、いつかのホームルーム前にクラスメイトの女子がルルーシュとスザク、二人の雰囲気を”そういうの”と比喩していたことを思い出した。彼女なら何か、自分達の関係に適切な名称を与えることができる可能性がある。しかしルルーシュは何度考えても、己と彼の間には友人や幼馴染、親友より当てはまる言葉が浮かばなかった。
「仲良いんだけど、近いんだよな」
近い。
近いとは、何がだろう。家は寮だし、席はそこそこ離れていて、ルルーシュの位置からでは彼の耳の裏くらいしか見えない。
「まー、ただ仲良いだけなら、いいんじゃねえの」
ただ、仲良いだけなら、いい。
もし自分達がただならぬ仲の良さだったなら、ルルーシュとスザクの関係は、彼らから言わせれば許されざるものになるのだろうか。そもそもただならぬ仲の良さとは何なのか。それより根本的に、”ただ”仲が良いとはどういうさまを指しているのだろうか、そしてそれはなぜ許すとか許されないことに繋がるのか。ルルーシュには見当もつかなかった。
その日の放課後、スザクは理科の実験室の準備に呼ばれただとかで、ルルーシュとはろくに話もせず走り去ってしまった。一見して普通体型に思われるその体格からは想像できないほど案外丈夫で力のある彼は、たとえば行事ごとだったり授業の準備で重いものを運搬するときの、平たく言えば労働力要員であった。学校側の教師から同級生まで彼の労働力を高く買って重宝していた上、頼まれ事はなかなか断れない男の性格も相まって、このようなことは決して初めてではなかった。時たまそういうことがあるため、今日も頼もしい労働力としてこき使われるのだろうか、と推し量りつつああそうかと相槌を打って、ルルーシュは一人で下校していた。正直な話、先ほどの男子生徒との会話の内容がずっと魚の骨のように引っ掛かり上の空であったため、むしろ一人になれてルルーシュとしてはこちらのほうが都合が良かった。なんとなく一人きりの空間で考え込みたくなくて、敢えて寮とは逆方向の、駅前の繁華街へ向かうバスへ乗った。ほどなくしてルルーシュを乗せたバスはいくつかの停留所を寄り道しながら、目的である駅前へと着いた。
学園を出た頃よりも夕焼けの色は濃くなり、昼間より幾分か冷えた空気が風に乗って揺蕩う。その空気は陽が浮き沈みするたびに温度を下げ続けており、次第に空気を凍らせるほど冷たくなっていくそれは、まだ近くもないが遠くもない先の未来で冬の訪れを知らせる役割を果たすだろう。いまだ青々とした葉を茂らせている人工林の広葉樹は、近いうちに紅や黄に染まり人々の目を魅了させたと思えばそれだけが己の役目であったと言わんばかりに、短いその役をさっさと済ませると呆気なく散ってゆくのである。
駅前の広場の芝生の上、幼い男女の兄弟か双子が、追いかけっこをしたりじゃれあって睦まじく遊んでいるのが見えた。まだ第一次性徴も数年先であろうその子供は顔も手も丸みを帯びており、どちらが男が女かという違いは身体的特徴では測れない。なぜルルーシュが男女の兄弟か双子であると推測できたのかというと、その幼児が身に付けていた服装や髪型に性差が見受けられたからである。その、親から与えられたであろうものを除けば、はっきりと男女の違いを言い当てるのは正直困難だ。そこから少し離れた場所にあるベンチに、ルルーシュと同年代と見受けられる学生らしき男女が肩を寄せて座っていた。性差がはっきりと、成長した骨格や肉付きから窺え判別できる彼らが身を寄せ合うさまは、明らかに交際している男女であるということを如実に語っている。
恐らく、己と彼がこれまでやたらと接触を測りじゃれ合っていたのは前者の、あの幼い子供たちのような意味であり、同時に自分達はそのような微笑ましい純粋無垢な関係性であったのだと、ルルーシュは結論付けた。
スザクとルルーシュの両者にとってその結論はただの事実で当然のことで、何の問題も疑問もない。その証拠に今日まで二人は、互いを唯一無二の親友として認め渡り歩いてきたのだ。
しかし本人らはそれで良くとも、二人のことをよく知らない通りすがりの人々、ひいては世間一般がその二人の関係を推し量るなら、ルルーシュが後者のうら若き男女に抱いたような印象を、スザクとルルーシュにも抱くのだ。第二次性徴もとうに終え成人の手前である自分達の身形では、過度な接触を行い寄り添えば暗にそのような関係であるのだと、嫌でも二人は世界からそう、推測されてしまう。
――「仲良いんだけど、近いよな」
――「なんか分かる気がする、そういうの」
――「カップル割引をご利用なさいますか?」
清い友人と指すにはルルーシュとスザクの二人は些か、あまりにも、距離が近すぎた。
しかし、周りからどう思われようと見られようと本人らがきちんと納得した上で、自分達はれっきとした清い友人関係ですと、そう胸を張ればいいのだ。周囲の人が描く”友人だと言える関係”に対し、ルルーシュの主張する”スザクという友人との関係”というのは、己の物差しで測れば世間のそれよりもっと距離感が近いんだと、そう思えば良いのだ。そもそも、人との距離感なんてはっきり数値化して見えるものでは当然ない。そうなると、どうしても各人それぞれの価値観や感性によってばらつきが生まれるのだ。
だから要するに、よそはよそ、うちはうちと主張すればいいだけなのである。
翌日いつもどおり登校したルルーシュはさっそく、言うが早いがスザクから距離を詰められた。ルルーシュはそれまで全く意識したことがなかったのだが、クラスの男同士、女同士で顔や体を密着させ会話をしたりじゃれあったりする生徒は自分たち以外で誰一人として居なかったことを、初めて自覚した。同性の友人同士で例がないならば異性の友人同士はどうだろうかと記憶を遡るが、己と彼同様にここまで身を寄せ合う異性は恐らくみな、付き合っている者同士であった。つまり、自分達の距離感は世間一般では付き合っている者同士のそれに該当すると、証明されたようなものである。
彼はルルーシュの気なんて知る由もなく、ルルーシュの耳のそばで声を立てて何やら話をしているがよく聞き取れない。何かと近すぎるこの距離感は友人と言い張るにしては異常なのだ、と意識した途端、不思議と居ても立っても居られない心地になっていたからだ。
これまで意識したことすらなかった彼の吐息がやけに耳にかかり、妙な胸騒ぎを感じた。頬に沸騰した血が上りそうになって、口内の頬の内側を噛み締めた。
「ルルーシュ、ねえ聞いてる?」
一度意識してしまうともうルルーシュの目では彼の一挙一動がスローモーションのように見えて、堪らなくなった。これではいけないと、気づいてしまった。
あの駅の広場にいた、幼い男女の兄弟よりも、ベンチで睦まじくしていた男女のように、スザクと寄り添いたいと、純粋にそう思った。
この朝を機に、ルルーシュはスザクから距離を置いた。
突然避けたり無視をするような態度を取るのはスザクに対してあまりにも失礼な上、周囲の者も驚いて不審に思うだろう。だから彼にも周りにも察せられないようさり気なく徐々に、けれど確かにルルーシュは彼との接触の機会を減らしていった。そういう打算的な立ち回りや身の振り方、自分を偽ることに関してルルーシュは昔から得意なほうだった。当初は神経を擦り減らしたが、慣れてしまえばどうとでもなかった。気がつけば、共に下校した最後の日はいつだったか、昼食を共にした最後の日はいつだったか、教室でも挨拶程度でしか言葉を交わさなくなった、というほど彼との時間は希薄になりつつあった。それでいい。ただでさえ頼み事をされたら断れない性質のスザクは、ルルーシュと過ごす時間がなくなった分あちこちに引っ張られ、文化祭の準備やらで毎日忙しそうにしていた。打算や故意でなかったとしても、己は随分と彼の時間を拘束していたのだなと、せわしなく動き回るが充実している様子のスザクを見てルルーシュはそう感じた。他学年や教師との交流の幅も増えた彼は、休憩時間や放課後にどこかの誰かと遊ぶ機会も増えていた。もともと口のよく回る心根の優しい、人間関係を築くことに於いては器用な彼のことだ。多くの友達や先輩、後輩に囲まれひいてはそのうち彼女も作るかもしれない。その可能性に関してルルーシュは不思議と嫉妬心は抱かなかったし、もうこのまま自分のことを忘れてくれても構わないとすら思った。思ったが、せめて自分のことを思い出にしてほしいとは思った。ルルーシュはスザクのことを思い出と呼べるほど綺麗な記憶に昇華できそうにはなかったし、彼と過ごした記憶を過去のものにできなかったから、自分勝手な考えだなと感じた。それは、スザクが向けてくれるものに対して同じものを返してやれないと察して自ら身を引いた、全てを諦めたルルーシュが最後に望んだ我儘だった。
「何してるの、こんなところで」
文化祭本番が間近に迫り、普段はクラブ活動の掛け声があちこちから上がる放課後の校舎内はどこもかしこも下準備も大詰めで騒がしい。ルルーシュはクラスの出し物の係りに適当に参加しつつ抜けつを繰り返し、要は積極的ではなかった。しかしサボりだと非難されても面倒で心外なので、たまには話し合いに参加したり舞台道具作りに精を出した。手が空いた者は準備が追いつかないチームを助け、みなで仕事を分担しているようだったが、ルルーシュは自分の仕事はとりあえず既に済ませていた。
余った時間に小休憩を決め込もうと、誰も居ない屋上でうたた寝をしていた。もうすっかり空気は秋の温度をしていて、長袖のシャツ一枚では少し肌寒い。学校指定であるニットのカーディガンを一枚羽織り、真夏のいつかに比べ随分空の遠くで輝く太陽の日差しを浴びると心地よい。もうこの先ずうっとこのくらいの気候を維持してほしいのが地球に対する率直な気持ちではあるが、そうはいかないらしい。ゆったり流れる薄い雲は、人の気も知らず暢気に秋風に靡いていた。
幾度目になるか分からない欠伸をしていると、背後から耳馴染みのある声が聞こえた。振り向かなくても声の主なんて分かったから、ルルーシュは一瞬引きつった顔をなんとか誤魔化すことができた。
「見てのとおりだ。お前の方こそいいのか、こんなところへサボりに来て」
「やだな、サボりに来たわけじゃないよ」
極力普段通りの声を出すことに力を注いだが、その努力は報われたらしくスザクはそう切り返してきた。やれやれと言った調子でスザクはルルーシュの隣へ腰を下ろそうとした。ルルーシュは気が気ではなかったが、平然とした振りを続けた。どうにかして彼をこの場から立ち去らせるか、己が立ち去る口実を作って話を勧めなければならない。口実も建前も嘘も、ルルーシュにとっては朝飯前だ。相手の言動や考えを一手、二手、いやそれ以上読んで、話を自分にとって都合の良い方向へさり気なく、それとはなしに運び、己に有利な状況を作る。そうやってルルーシュは今日まで過ごしてきたため、これはもうルルーシュの性格云々という次元ではなく、彼の生き方そのものだった。だから、ルルーシュはその明晰すぎる頭脳で綿密に練った未来予測が覆されることにはひどく弱かった。たとえば、この場で突然、何の前触れもなくスザクがルルーシュを抱き寄せてくるなどされると、もうルルーシュは正常な思考も冷静な行動も取れなくなってしまうのだ。
ルルーシュの隣へ座ろうとした彼は、そもそも元からその場へ座る気はなかったらしい、地面にしゃがむや否やルルーシュの体ごと胸に引き寄せ、哀願した。
「君を探しに来たんだよ、ルルーシュ。最近君と話せなかったから、二人きりになりかったんだ」
ルルーシュは心臓が止まるかと思った。しかしその気持ちとは裏腹に、それどころか心臓は早鐘のように鳴り響き彼の声を掻き消す勢いだ。この心音を目の前の彼に聞かれたらどうなるのだろう。ルルーシュはぞっとしなかった。彼にしてみれば親友に対するハグ程度なんだろうが、スザクと視線が合うだけでどきりとしてしまうルルーシュにしてみれば、その行為はもはや暴力だった。苦しく哀しくさせるその優しい暴力はルルーシュの気を狂わせた。息を吸うとスザクのあたたかい匂いがして、涙が溢れそうになった。
「は、離してくれないか、スザク」
「やだよ。離したら君、またどっか行っちゃうんだろう」
「そうだ」
半分冗談のつもりで言ったのであろうその言葉にあっさりと肯定が返って、スザクは一瞬動揺したように体を震わせた。
「もう、俺に近寄らないでくれないか」
「なんで」
「なんでもだ」
「僕、何か、したかな」
「お前は何もしていない」
スザクは何もしていない。ルルーシュが変わっただけだった。変わってしまった己を知られたくなかった。もし知られたらどう思われるか、気持ち悪がられるか、傷つけてしまうか、悲しませるか、いずれにせよルルーシュはどれも嫌だった。嫌われて、スザクの中の綺麗な思い出にすらなれないのはもっと嫌だった。
「離してくれないか」
スザクは優しいし、ルルーシュのことが大好きだった。だから、ルルーシュが本気で嫌がることはしなかったし、ルルーシュが嫌だと言えばごめんね、と謝ってくれた。そんな彼の優しさを逆手に取って、ルルーシュは彼の抱擁から逃れることができた。優しい彼と卑怯な自分はそもそも釣り合わないんだということを痛感させられた。
駆け足で寮へ戻ったルルーシュは、自室へ入るや否や通学鞄を床へ乱雑に放った。いつもはきちんと皺にならぬよう、ハンガーに掛ける上着も適当に脱ぎ捨てた。ルルーシュにしてはあり得ないような行動だが、それすらも意識していなかった。切らした息も整えずベッドへ身を投げ、枕に顔を押し付けてふうふうと熱い息を零した。
「あ……」
スザクの匂いも声も逞しい腕も、すべてが愛しくて堪らなかった。
ルルーシュはうつ伏せのまま、制服のスラックスを下着ごとずり下げ、もたつく手で熱くなったそれを握った。
性には淡泊で、自慰も殆ど自ら進んでやろうと思ったことがなかった。体育で使用する男子更衣室で時たま男子生徒が回し読みする、やけに肌色が多い雑誌にも特段興味が湧かなかったし、見せられても、ああ肌の露出が多いなとか、恥ずかしくはないのだろうかとか、強いて言えば柔らかそうだなとか、そういう感想しか抱かなかった。スザクはそういう色艶ごとには世の男子高校生の平均並みには関心がある様子であったが、大っぴらにするわけでもなかったし、そういうことに関心のないルルーシュの前で話題にすることもなかった。だから、ルルーシュ自身にこういった衝動的な性的欲求が芽生えたのは、生まれて初めてだった。相手を恋愛対象として好きになると、こういった欲求も生じるということをルルーシュはこれまでずっと失念し、自覚していなかったからだ。恋心を知覚してからというもの、スザクに近寄られるたびに妙な胸騒ぎがしたり、やたらと赤い唇を目で追ってしまっていたのも、実は知らなかっただけで全部由来は己のリビドーであると、ルルーシュはここにきてようやっと気づいた。ルルーシュは絶望すると同時に、右手にある熱がさらに頭をもたげ始めた。放っておけば冷めると思いたかった熱は体内で暴れ回って、出口を探していた。
指を幹に這わせ恐る恐る摩ると、腰が震えた。これが気持ち良いということなのだろうかと、熱に浮かされた頭でぼんやり思った。動物の本能のまま、それを摩るとどうしようもないほど良かった。
「……っ、…ふ……ぅ…」
シーツに汗と息と声を染み込ませ、大胆な動きでそれを弄繰り回す。先から溢れる液が指と陰茎の間でくちくちと音を鳴らした。親指を、まろい先端の割れ目に食い込ませるとおかしくなりそうなほど気持ちが良くて、一つ覚えのようにそれを繰り返した。
「アっ、ひぁ、……っ、…ッ!」
全身が強張ったと同時に、手のひらに生暖かい液体が数滴かかった。滑り気と生臭いそれは、今のルルーシュの、スザクへ対する想いを象徴していた。涙は出なかったが、心が静かに死んでいくのを感じた。
真夏のあの日、生命の集う樹木の真下で死骸となっていたのは、スザクへ清らかな親愛の情を抱いていたルルーシュ自身であったのだ。
翌日から、スザクはルルーシュへ話しかけることも視線を寄越すこともなかった。といっても、文化祭本番でそれぞれ当番や係りに手いっぱいでそれどころではなかった。クラスの出し物も生徒会の派手な催し物もなんとか成功を収め、賑やかな後夜祭もつつがなく終わった。文化祭が終わったあともスザクはやはりルルーシュに近寄ろうとはしなかったしルルーシュも同様であった。最近枢木と喧嘩したのかと尋ねて来る者は居たが、友達だからって四六時中一緒に居るわけもないだろうと適当に濁した。スザクも似たようなことを聞かれていたようだが、それに対してもルルーシュと同じようなことを言っていた。妹であるナナリーにも、最近スザクさんはいらっしゃらないのですかと尋ねられ心が痛んだが、奴は忙しいらしいと嘘をついた。嘘も建前も心を偽ることも慣れっこだったが、偽った心が本心になればいいのにと願ったことは生まれて初めてであった。
南の暖かな気団が北からやってくる冷たい気団に押され始め、この国に本格的な冬が訪れようとしていた。嫌というほど澄んでいる空にはまだ太陽も低い位置で、駄々をこねるようになかなか昇ってこない。空の支配者が不在の天空は青白く伸び伸びとしているが、ひどく冷たい風は肌を刺した。青々としていたはずの若かった葉は、今では姿かたちを変え萎びて、地面に落ちて踏まれたり風で飛ばされていったりしていた。行き交う者はみな寒さに体を縮こめ、植物も虫も動物も冷たい風で干からびていくようだった。景色から徐々に色が失われていく。冬は死の季節だった。
文化祭の後は恐怖の定期考査が待ち構えていたが、ルルーシュにとってはなんてこないペーパーテストだった。昔から勉強と言えるほどしっかりした自習学習とくにしたこともなく、ただし知的好奇心だけは旺盛であった。ルルーシュはひたすら自分の知らないことを知ろうとして、何を知らないのかを知りたかった。
知らない物事を、知識を、世界を知りたいと思っていたし、知らねばならないとも思っていた。知らないことがあるというだけで、生きていく上で不利になるとルルーシュは考えていたからだ。知らない分野があるということは、それはその人の弱点になるし、悪い大人は目敏くそれを見つけるとそこへ付け込んで、無知であるのをいいことに利用し搾取する。知るということは自衛にも繋がるし、その人の心も、見る世界も、人生も豊かにする。知るということは生きることであり、生きるためには世界を知らなければいけない。それがルルーシュの持論であった。無知は恥ではないが、無知を知っていながら知ろうとしないことは愚かで罪深いことであるとも、思っていた。
だが、知識や勉学とはまったく異なる、人の感情について知る・知らないはどうだろう。スザクへの想いを知覚することなく、純粋無垢なまま成長した夏の無知な己は愚かだったのだろうか。そう問われると、はっきりそうだとも違うともルルーシュは言えないで居た。
なぜなら、スザクへの恋心を知覚した今の自分が、無垢だった頃と比べても、優れているとは表現できないからだ。
理由はふたつある。
ひとつは、もしも恋心を知覚したルルーシュのほうが優れていると仮定した場合、無垢なスザクは愚かである、ということになるからだ。恋を知った今では何の気もなしに彼が触れようとしてこようものなら、ルルーシュはスザクに対して罪深い男だと心底思うだろうが、スザク自身に罪はない。強いて言うなら、その純真さゆえに起こす無自覚な言動こそが罪なのだろうが、それをスザクに咎めて抗議したところで仕方のないことなのだ。清廉潔白で、己の感情に対して無知であることが罪だと断言したとき、まだ心も体も未発達な男女が仲睦まじく接し、互いを好ましいと思うことも同じく愚かで罪であると言えようか。
ふたつめは、嬉しい、悲しい、楽しい、悔しい、そういった感情に対して人はふつう優劣を判断することはないからだ。正の感情負の感情という言葉はあるが、それはあくまで横に並べて考えたときの関係性であり、縦に並べて考えることはない。だから、ルルーシュがスザクに抱いていた清らかな”好き”も、今抱いている肉欲を含めた恋愛感情としての”好き”も、優劣をつけることなどお門違いなのだ。ルルーシュが己の気持ちに対して後ろめたさを感じるのは、スザクが未だにルルーシュに対して純真な”好き”を向けてくるからだ。ルルーシュにはそれがあまりにも、己の抱く薄暗い気持ちとは正反対の眩しいものであるから、不純な自分が居たたまれず恥ずかしく、申し訳なくなるのだ。
人の感情に於ける無知も既知も罪にはなり得ないし、正負の感情に優劣はないと頭では分かっていた。しかし心の中でルルーシュはただ、こんなはしたない気持ちを抱いてしまってすまないと一言、謝りたい思いでいっぱいだった。
師走も折り返しを過ぎ、とうとう冬休みが目前に迫ってきた。
底冷えする体育館に生徒は押し込まれ、校長や教頭や理事長の長い長い話を聞かされるのは長期休みという褒美への対価だろうか。誰もがそう考えながら寒さで苦痛の終業式をようやっと乗り越えたと思えば、天国と地獄の成績表返却である。冬期休業期間中の注意事項や課題の説明を担任が終え、ホームルームが終わるやいなや、教室は各々の成績に対する歓声と断末魔でいっきに騒がしくなる。ルルーシュはペーパーテストでは優秀な成績を収めるものの平常時の成績がすこぶる悪いため、総合すると可もなく不可もなくという調子であった。
ほどなくして教室の生徒は放課後の部活動のため散り散りになる。ルルーシュは学期末の課題提出を出し渋ったがゆえに追加課題を言い渡されており、それを消化するため教室でひとり居残りをしていた。生徒会室で行っても良かったが、なんせ騒がしいあの空間ではこの手作業をするには些か都合が悪い。要するに気が散るため静かな場所が良かった、というわけである。生徒会の面々にも、スザクと何かあったのかと何度も声を掛けられたがルルーシュは毎回、大喧嘩をしてしまって他人ごっこをしているだけだという嘘の説明を繰り返した。そんなあるとき、いつの間にかその場に居たスザクは肯定することも否定することもなく曖昧に笑っていた。笑っているというより、怒っているような哀しんでいるような感情の読めない顔をしていたような気もしたが、ルルーシュはもう彼の顔色を窺うことさえできなくなっていた。
昨日まで皮肉なほど澄んでいた冬空にはいつの間にやら灰色の雲が立ち込め、唯一の光源もすっかり覆ってしまったらしい。底冷える寒さに追い打ちをかけるように太陽を隠したそれは、どんよりと重苦しく空一面を支配した。今朝見ていた天気予報で、夕方から明け方にかけて雨が降ると言っていたのをふと思い出し、ルルーシュは思わず鞄の中を物色した。どうかありますようにと願いながら中をまさぐるが、希望を裏切るかのようにそれは出てこなかった。最近なんだか地に足がつかないというか、どこか自分は間が抜けていると薄々感じてはいた。何をやっても身に入らないし、致命的ではないが今までになかった些細なミスを日に日に積み重ねていた。いつもは満点である教科のペーパーテストで初めて95点を取るだとか、制服のボタンの掛け違いを指摘されるだとか、天気予報をきちんと見ていたのに折り畳み傘を忘れるだとか、そういうことが最近どうも増えた気がするのだ。それらの原因について、心当たりは一応あるにはある、がそれは関係のないことだと自分に言い聞かせ知らぬふりを続けてきた。それを認めてしまうとなぜだか自分は何かに負けた気がして、それがどうも癪に障るからだ。しかし今は傘を忘れてきた自分を責めるよりも、なんとか雨に遭う前にこれを済ますことが最優先事項だろうと頭を掻き、目前の忌々しいプリントの山に再び手を伸ばした。
それを担当教諭へ届け、職員室の扉を閉めた途端にざあざあと水が建物や地面を叩きつける、いま一番聞きたくない音が無情にも耳に入ってきた。皮膚へ刺すような痛みすら伴う寒さの中、無防備に頭から水を被ってしまえば風邪を引くのはほぼ間違いないだろう。重い足取りの中ルルーシュはそれでも渋々といった調子で下駄箱へ向かった。玄関を出ようとすると思いのほか雨脚は強まっているようで、土砂降りとまではいかないものの、それでもこの降りしきる水の中を無鉄砲に横断するのは些か憚られる。雨と土が混ざった匂いがその先へ進もうとする足をさらに躊躇させた。
思わず足踏みしていたルルーシュの背後から、恐る恐るという調子で声が掛かった。雨水の音も聞きたくなかったが、それを遥かに上回るほどそれは聞きたくない音だった。なんで今このタイミングで、とルルーシュは途方に暮れざるを得なかった。
「傘、忘れたの」
黒い雨傘を手に持った彼が、降りしきる雨を目前に立ちすくむルルーシュの隣へ歩み寄ってきた。
「ああ」
嘘をついたところでどうにもならないと悟ったルルーシュは正直に肯定した。
スザクは良く言えば強い正義感を持っていて困っている人を放っておけない優しさを持ち、言葉を裏返せばお節介で偽善的、世話焼きが過ぎるきらいがあった。かくいうルルーシュも正義感の強い質だと自他共に認めているがスザクのように無制限に平等にそれは振りかざされるものでなく、弱者が強者に虐げられているだとか卑怯な弱い者虐めを働いているだとか、そういう事象に対してとくに発揮される限定的なものだった。もし目の前で困っている赤の他人が己に助けを求めて来れば、その行いをしたとして己に不利益がないと推測できれば人並みに救済の手を差し伸べるだろう。他人の痛みに共感しかねることはあるものの全く理解できないというわけでもない。共感と理解は別物だ。理解は相手の話を聞くとこであり、共感とは言い換えれば同情であるとルルーシュは考えていた。時に過度な同情はそれだけで相手を惨めにし傷つける残酷なものだ。スザクから差し伸べられる裏表のない柔らかい優しさも、今のルルーシュにとっては同じようなものだった。優しさだけじゃ人は救えず、切り捨てることも必要悪なのだ。己は救うべきものでなく今は見過ごされるべきなのだと叫びたかったが声にはならなかった。
「なら、僕の傘に入りなよ」
有無を言わせぬ調子でスザクは傘を開き、ルルーシュがその場を逃れる言い訳を考える暇も与えようとはしなかった。
もしスザクが己に傘を傾け、彼は半身ずぶ濡れの癖に自分だけ雨水一粒濡らさぬようなことがあれば今度こそ本気でぶん殴ってやろうかとも思ったがそれはなかった。スザクもルルーシュも同じくらいの面積分、肩を濡らした。ルルーシュは俯いて微かに湿る靴の爪先をぼんやりと意味もなく見つめていた。
「ルルーシュは僕のこと、どう思ってるの」
「大嫌いだと思ってる」
「そう」
何か言いたげな様子もなくその無慈悲な言葉を静かに受け入れたスザクはそれ以降口を閉ざし、ルルーシュも黙りこくった。やけに長い帰り道だと感じた。
「着いたよ」
そう言われて顔を上げると、そこはスザクの部屋の扉だった。してやられた。
「僕は別に、君を送るなんて一言も言ってないよ。傘に入ってもいいって言っただけ。君がそれに着いてきたんだ」
あまりにも酷いこじつけに頭痛すら覚えたルルーシュは、目前の男を詰るような目付きで睨み上げた。今でこそ彼のその本性は心の奥底に眠ってしまってもう二度と目を覚まさないかのように思えたが、ルルーシュと二人きりになればそれは時たま顔を出すことがある。結果のためなら手段を選ばないという、平時では微塵もそんなことを感じさせないスザクの身勝手で意固地な性が牙を剥いたのだ。普段は結果よりもその過程を重んじる彼であったがかつては正反対で、ルルーシュも比較的考え方が似通っていたもののスザクほど強引で無鉄砲ではなかった。成長する過程でスザクのその悪癖とも言える性格は丸くなり随分と聞き分けのいい振る舞いをしているが、実はその奥底にこんな野蛮さを孕んでいるらしい。この男、まさに俗に言う地雷男だ、とルルーシュはどこか場違いなことを考えていた。
「お前に話すことはもうない」
「僕はある」
「俺には関係ない」
「関係あるよ。僕と君の話なんだから、当事者じゃないか」
「ならここで手短に済ませろ」
「風邪ひいたらどうするの、うちにおいでよ」
「嫌だ」
「僕は良いよ」
「そういう問題じゃない」
「じゃあどういう問題」
そこでルルーシュは押し黙った。どういう問題かって、苦しいほど片想いしてる相手の部屋へ連れ込まれるルルーシュの、うぶ過ぎる心の問題だ。そんなことは口が裂けても言える気がしなかったから、彼へ言い返す言葉が見当たらなくなった。大人しくなったルルーシュを尻目にスザクは扉の鍵を開け、ルルーシュを玄関に押し込めた。先に自室へ向かったスザクはひんやりとした室内に暖房を入れ、ルルーシュに早くおいでよと急かすように声を掛けた。
スザクの部屋はあまり散らかっておらずむしろ整理整頓が行き届いている印象を与えるが、それゆえに丸いローテーブルに散乱するジュースの空き缶やペットボトル、スナック菓子の空き袋だけがやたらと浮いて見えた。今片付けるからと卓上のごみを適当に纏めて彼はどこかへ行ってしまった。どこかへ、と言っても学園寮は寝室以外に小さな台所と風呂、洗面所、トイレなどの水回りくらいしかない。台所の方から物音がしばらく聞こえ、何か温かい飲み物でも用意しているのだろうかと測れた。ルルーシュの予想通り、彼はほどなくしてホットコーヒーがなみなみ注がれたマグを両手に部屋へ戻ってきた。
「何突っ立ってるの、どこでも座りなよ」
スザクに促され、ルルーシュは大人しくクッションの上に腰を下ろした。その場所は、ルルーシュが彼の部屋へ訪れたときは毎回座っていた定位置であった。定位置ができるということは、何度も何度も数えきれないほど、ルルーシュはスザクの部屋へ入り浸っていたという証拠でもあった。そんな現実すらルルーシュを苦しめた。
おもむろにその隣に座したスザクが、ついに口火を切った。その口の動きを見ている間、ルルーシュは人知れず死刑宣告を受ける罪人のような心地になっていた。
「ルルーシュは僕のこと、どう思ってるの」
「さっきも言っただろ、大嫌いだと」
「なら、僕の目を見て言いなよ」
はっと弾かれたように顔を上げたルルーシュは、目の前の、どこか鬼気迫るようなすがるような、はたまた憐れむような祈るような瞳をした男を見た。ルルーシュが嘘つきの王様なら、スザクはその誠実さを武器とする騎士なのかもしれない。
「俺はお前が、」
スザクはルルーシュが肉欲を含む好意を向けているんだと薄々気づいていて、まるで踏み絵のような、試す真似を己にしているのかもしれない。
「スザクが………」
スザクのその、誠実さの象徴である瞳が暗闇で光り、嘘で塗り固められたルルーシュの脆い、保身のための盾をつんざこうとするのだ。
ルルーシュはゆるゆると弱々しく頭を振りながら、自分の膝元に視線をさ迷わせた。きらいなんだ、と空気に消えそうな音量で呟かれたそれに説得力の欠片もないことは、火を見るより明らかであった。
「僕は好きだよ」
何がとは聞かなかった。その”好き”という甘美な響きに脳髄がじりじりと熱くなるのを感じた。
「でも俺とお前の好きは違うんだ、スザク」
あれだけ躊躇して腹の底に重く沈んでいた言葉はあっさりと口から出た。堰が切られたかのように、ぽろぽろと言葉は溢れ出したそれは本人の意思を無視し、思いの丈を告げる唇は動き続けた。
「………はっきり言わせてもらう。俺はお前のことをそういう、恋愛対象として、懸想している。だから、」
「あっ、そうだったんだ」
先ほどの踏み絵はあくまで彼のことを嫌いだと言い張るルルーシュの嘘を暴くためであり、ルルーシュの本当に言いたかったことにまで彼は本気で気がつかなかったらしい。スザクは心底驚いた様子で、しかしそれと同時にこれまでのルルーシュの言動にやっと合点がいったと納得したような、すっきりした表情を浮かべた。そのいまいち空気を弁えていない態度に些か苛立ちを覚えつつも、ルルーシュはもうこれで用は終わりだと事も無げに告げようとした。
「じゃあ僕のこと、好きって言ってよ」
「………は?」
「ルルーシュの口から、僕のこと好きだって言葉を聞きたい」
この男が単なる馬鹿なのかルルーシュに恥をかかせることが趣味なのかとうとう頭が沸いたのか己の耳がおかしいのか、どれかであってほしいがどれも外れているらしい。期待と困惑と疑念と微かな興奮を内包した、雄弁すぎる翡翠がルルーシュに早く言え、言ってしまえ、言えば楽になるぞ、と根拠もへったくれもないことを訴えてきて仕方がない。目は口ほどに物をとはよく言うがこの男のそれは明け透け過ぎて逆にルルーシュがどうかしてしまいそうになるし、現在進行形でそうさせている。さすがはこの己に恋心を抱かせた犯人だ、と馬鹿げた発想をしてしまうほどにはもう振り回され過ぎて、正直てんてこ舞いだった。
「……お前が……スザクが好き、だ」
「うん」
「好きだった、ずっと」
「うん」
「俺ばっかりお前のことが好きなんだ」
「そうなのかなあ」
「そうだ、俺ばっかりお前のことを、っ………?」
気がついたら目前にスザクの顔があって、熱っぽい目で見つめてて、唇に柔らかい感触が掠めたあとだった。一瞬の出来事にルルーシュは目を白黒させ混乱した。何をされたのかよく把握できていない様子に、スザクは吐息だけで笑った。
「もう一回、するね」
目をつむったスザクがルルーシュの唇を啄み、ちゅうと音を鳴らして顔を離した。彼の表情筋はすべての仕事を放棄したらしい、だらしなく締まりのない顔をして頬を軽く上気させていた。
「なんでかな、ルルーシュがすっごく可愛く見えて、僕、どうかしちゃったみたい」
男に対して可愛いと形容するのは、概ね言葉選びを間違っているんじゃないかとは正直思ったが、今はスザクの発言を反芻するよりも、その直前の行動に異議を申し入れなければならないと、冷静になりつつある頭が警鐘を鳴らし始めた。
「次はもっと、やらしいやつするね」
「え?」
勝手にそう宣言したスザクはルルーシュがその言葉の意味を噛み砕く前に行動を仕掛けてきた。開きかけていたルルーシュの唇全体をスザクのそれが覆い、熱い息を吹き込んだ。怖じ気づく唇は彼の唾液でみるみるうちに潤い、柔らかくふやけていく。下唇を甘噛みされると、たいして痛くもないはずなのに噛まれた部分がじんじんと熱を持ち始めた。
ルルーシュには口付けの作法が分からない。とにかく目を瞑って唇を合わせるというのは知っていたが、それ以上でもそれ以下でもない。それしか知らなかったから、ルルーシュは早々にその、スザクによって己の唇を好き勝手弄ばれる行為に音を上げた。
「……ああ、鼻で息をするんだよ」
身に起きている急展開に対し、既に頭がついてこなくなっていたルルーシュはこくりと頷いた。
挨拶をする際、老若男女問わず互いの頬に唇を寄せる文化のある国が存在すると、聞いたことがある。スザクがいま己にしているこれも、そういう類のものなのだろうか。ルルーシュの認識では唇同士を合わせるという行為は愛し合う者がするものだ。だが、己が知らないだけで、たとえば可哀想な友人に同情したとき、唇を合わせる文化や俗習があるのだろうか、とルルーシュは少々飛躍した考えにまで行きついていた。
ぼんやりしていると、スザクはまた顔を寄せてきた。思わず目をぎゅっと瞑ると、唇に柔い感触が乗る。一瞬離れたと思ったらくっ付いて、また離れてくっ付く、というのを何度も繰り返された。先ほどの、唇を食まれて吸われたあの行為に比べると可愛らしいものだとは思うがやはり羞恥だけは抜けきらない。
不意に頬にスザクの鼻息が当たった。ああもしかして、先ほど彼が言ったことをこれで、バードキスで練習しろと言ってるんだとルルーシュはようやく意図を理解した。つい唇に全神経が集中してしまうが、意識して鼻で酸素を吸ったり吐いたりを行うと確かに、些か楽な気がした。いつまでそうしていたのか定かではないが、どちらともなく顔を離した。彼ははにかんだ笑顔を見せ、頬をほんのり赤くしていた。愛しいな、と純粋に心から思える表情だった。
ルルーシュはずっと抱えていた疑問を率直に彼へ投げかけた。この唇同士の戯れは、友人と行うには倫理的に、道徳的に如何なものなのだろうかと疑い始めてしまったからだ。
「これはふつう、友達とするものなのか」
「いや……しないだろうね……」
「俺が惨めで可哀想だから、そうやって反応を見て楽しんでいるのか」
「ち、違うよ!それは断じて違う!」
血相を変えたスザクが、ルルーシュへ食らいつく勢いで否定した。
「さっき、ルルーシュに好きって言ってもらって、そのときの君がすっごく可愛いなあって、思ってて」
それは弁解なのか言い訳のつもりなのかは定かでないが、スザクの言っている意味が頭から何一つルルーシュには理解できず、反論もできず、黙ってそれを聞くしかなかった。
「あんまりにも可愛かったから、キスしたいなって、思って」
その”可愛かったからキスした”という余りにも短絡的すぎる行動の動機や手の早さにルルーシュは愕然としたし、信じられないという面持ちになった。そんな理由でお前は誰彼構わず唇を奪うような真似をするのかと襟首掴んで、その軟派な性質に一発くれてやりたくなった。だがその後に続くスザクの言葉で、一発浴びせられたのはルルーシュのほうであった。
「かなり気づくの遅れちゃったけどさ、これってもしかして、僕も君のことが、好きなのかなあ」
なぜよりによって己に、お前に想いを寄せる当の本人にそれを尋ねるのだろう。これでは己の心を逆手に取った誘導尋問ではないかとルルーシュは心中でスザクを責めた。だがその本音とは裏腹にルルーシュの言葉は弱気なものだった。
「この場の雰囲気や、情に、流されているだけだろう。それがお前の、本心と言える確証はない」
「君がそれを言うのか」
「俺の想いは本心だ。現に幾日もお前のせいで、俺は」
「……時間の長さが、君の想いが本気であることを証明するのなら、僕は、この心臓で証明してみせるよ」
そう言うや否や、スザクはルルーシュの手を取り自らの胸の右側に、その平を乗せた。手の下で、どくどくと暴れ回る心臓の動きがやけに伝わり、ルルーシュは狼狽した。スザクは離れたがるその手を握り込んで、自分の胸に力いっぱい押し当てた。もう顔を真っ赤にして俯く彼の、ルルーシュの表情を想像するだけで彼をどうにかしてしまいそうだとどこか他人事のようにスザクは感じていた。
「もう、分かったから、手を」
「じゃあ今度は、僕の番だ」
俯いていたルルーシュの滑らかな頬に手を這わせ、スザクは思いの丈を素直に吐露した。
「僕は君の気も知らず、君を振り回して何度も混乱させてしまった。こんな無知で愚かな僕を、ルルーシュは許してくれる?」
ルルーシュはスザクに尋ねられる前からその答えについて、もうとっくに自分の中で見出していた。人の感情に優劣を付けるための指標がない限り、まだ幼き純粋な男女が身を寄せ合うことを愚かだと呼べる根拠が存在しない限り、無垢であることが由来の無知な者は罪にならないのだ。この世には知らねばならぬ事が山ほどある。だが、偶に知ってはならないことや知らなくても良いこと、知らない方が良いこともあるらしい。それはたとえば、ルルーシュがスザクに対して知覚した幼い恋心だと言えるかもしれない。
スザクは何も気負う必要も罪もなければ愚かでもない。だが、彼がルルーシュにそのあるはずもない罪を許してほしいと願うのなら、ルルーシュはその願いを叶えてやる必要があった。背負う必要のない彼の罪を許せる者は己しか居ないからだ。
「許す、許すさ、スザク。……だがそうするとお前はもう、何も知らない頃のお前にはもう戻れない」
「君はそうやって人を置いていけぼりにするんだ」
「違う」
「なら僕も道連れにしてよルルーシュ。だって僕は君のことが、そういう意味で、ちゃんと好きだから」
きらりと、目前の翡翠に浮かぶ虹彩が輝きを放った。何も知らなかったはずの瞳は肉欲を自覚し、熱を孕んでいた。
「ねえ、さっきのキスよりもっとすごいの、僕知ってるんだ。やってみようよ」
ちょっとそこの本屋に寄ろうよ、みたいな気軽な誘い文句にルルーシュは思わず首肯していた。顎を無骨な指に掴まれ無理に開かされたと思えば、わずかに開いていた唇に他人の唾液の滑りと、柔い肉厚な何かを感じた。彼の手管によって行われたその行為はキスというよりも、口腔同士による性交渉のようだと、ふやけた頭でそんなことをルルーシュは思った。こんな過激なこともキスという行為のうちに分類されるのかという純粋な驚きと、やはり知らないということは生きる上であまりにも不利であると改めて、身をもって思い知らされた。接吻というのは瞳を閉じ唇を重ね合わせるというだけの認識だったが、ルルーシュのその認識はあまりにも浅はかで甘く、純粋すぎたのだ。
さきほどスザクから教わったとおり鼻で呼吸することを徹底して意識したが、吸われて噛まれて舐めしゃぶられた舌の付け根はじんじんと痺れ始めるし、口内に溜まる彼の唾液をひたすら飲み続けないといけないしで、ルルーシュは二進も三進もいかない。おまけに上顎のざらついた部分を舌で擦られると腰が揺れてしまって、どうしようもなく恥ずかしくなった。
口を離すと、ルルーシュはぜいぜいと苦しげに肩で息をした。対するスザクは多少息は上がっているもののルルーシュほどの苦しさは感じていないようで、けろっとしながら自らの滑った口元を手の甲で拭っていた。これがいわゆる経験の差というものなのだろうかと痛感した。
「ねえ、ちょっと触っても、いい?」
“次はこうしてみよう”だとか、”もうちょっとやってみよう”だとか、スザクのそういう軽い誘い文句に乗せられてはきたものの、各段に要求のハードルは上がってきている。このまま彼に乗せられるがまま続けていると、最終的にどこへ行き着くのだろうかと、ルルーシュはその純粋さゆえの思考を巡らせた。先ほどは自分が彼に対して”雰囲気や情に流されているのだろう”と偉そうな指摘をしたが、今の状況では果たしてどちらに言えることなのだろう。しかし自分は断じてそういう、愛する男からの口付けひとつで黙らされるちょろい人間ではないと、ルルーシュはこの時点ではまだ信じていた。
有無を言わさぬスザクに気圧されつい頷いてしまったルルーシュであったが、一体どこをどう、触られるのだろうか。スザクの一挙一動を欠片も見逃すまいと凝視していると、吐息で笑われた気がした。
「これは一体、なんなんだ」
制服の裾から手を入れられ、脇腹や臍、胸板のあたりをまさぐられた。まるで触診のようだな、とルルーシュはどこか的を得ていない感想を抱くものの、しかし、スザクのその手つきはどこか艶めいていた。擽ったさは拭えないが、彼の手はひんやりとしていて、気持ちがよかった。その手に身を委ねていると、また顔が近づいてきた。今度はされるがままではなく、ルルーシュも唇を開いて卑猥な舌の求愛行動に応えた。その従順な反応に気を良くしたらしい彼は、着ているものを一枚一枚、壊れ物を扱うかのようにことさら丁寧に剥いていった。ひんやりとしていたはずの彼の手はもう、汗ばんで熱くなっていた。
「は、………っ」
「かわいい、」
思わず口をついて出たらしいその感想に抗議しようとするも、米神に優しく口付けされてしまえばうやむやになってしまう。この短時間でルルーシュの扱い方を覚えてしまった彼は心の中でほくそ笑んだ。好きな人の前ではとんでもないほど素直で従順でよくここまで何事もなく生きてこれたなという感嘆と、純粋で無垢なのはどう見ても君の方じゃないかという非難がスザクの中で渦巻いた。
「ここも、触るね」
ここも、と言いながら既に手を伸ばしているあたりルルーシュの可否は鼻から聞く気がなかったらしいスザクは、制服のスラックスの上からやんわりと股間を手のひらで押した。彼の不埒な手を、ルルーシュが咎めた。
「そんなとこ、触ってどうする」
「ルルーシュがどうなっちゃうのか、見てみたい」
そう言うや否やスザクは鮮やかな手業でスラックスのチャックを開け、膨らんだ下着の上から性器を揉みこんだ。は、と熱い悩まし気な吐息が思わず漏れ、それを誤魔化すようにルルーシュはかぶりを振った。そんな初心な反応を返すルルーシュの痴態に見蕩れたスザクは、自然と舌なめずりをしていた。こんなにも清廉で性的なことには興味も関心もなさげな、性の香りが一切しない男の、艶めかしい仕草にぞっとするほど興奮した。
「待て、そんなとこ、直接触るもんじゃ」
スザクはもう声を掛ける余裕もなく、下着の中に手を差し込み、直接それに触れた。ルルーシュのそれは先ほどまでのペッティングとキスだけでゆるく立ち上がっており、スザクとの前戯にきちんと興奮して感じていることを如実に示していた。
「なんで」
「なんでって、う、ァ、…っ、昨日の夜から、風呂入って、ないし…」
「じゃあ僕と一緒」
そういう問題じゃないと言わんばかりの目つきでルルーシュが睨むと、そういうことだよとスザクは雄弁な眼差しで応えた。ルルーシュの身体はどこもかしこも綺麗で、汚い場所などあるわけないとスザクは本気で考えていた。竿を指で包んで上下に扱けば先端のまろい部分からぷつぷつと液がにじみ出ているのを見て、ルルーシュの身体をこの自分が操縦しているのだと実感すると、なぜだか感慨深くなった。
「ルルーシュは自分で、したことある?」
「……っ、え?」
全身で一番弱い男の部分を擦られ扱かれ、もどかしい快楽の波に意識を攫われていたルルーシュは突然の質問に対処できなかった。目前に広がる異常な光景に眩暈がして、正気じゃいられなかったからだ。どこか熱に浮かされた頭で、スザクからの質問を反芻する。自分でしたこと、とスザクが指すのはおそらく自慰のことだろうか。己だって血気盛んな高校生だ、それくらいあるとルルーシュは素直に肯定した。
「してるとき、何考えてた?」
自慰をしたことはあるもののそれほど頻度は多くなかった。裸の女性を見ても、どきりとはするものの情欲を?き立てられたり興奮するといった覚えはないため、とくに自慰をしたいとも思わなかったからだ。しかし不本意ながらも体は至って健康で健全な男子そのものらしく、数日放置していると、朝起きれば下着が汚れていることが稀にあった。だからたまに、精液を抜いてやる必要があったのだ。ルルーシュにとって自慰とはその程度の認識であった。しかし、目の前の男にそう尋ねられたとき、良い意味でも悪い意味でも一番記憶に残っているあの日のことを思い出し、ふやけきった頭で答えた。
「お前のことを」
「え……」
スザクの動きが急に止まった。
ルルーシュは、何かよくないことを言ってしまったのだろうかと不安に想いながら、彼の顔色を窺った。少し覗き込むとそこには耳や首まで赤く肌を染めたスザクの姿があって、今度はルルーシュが驚く番だった。彼は微かに唇を戦慄かせながらそれってほんとう、と半信半疑な様子であった。
「ルルーシュって、僕のこと考えながらオナニー、してたんだ」
いちいちそうやって、わざと明言化されるとどうにも居心地が悪く居たたまれない。やはり言わなければ良かっただろうかと少し後悔した。
先端から零れる蜜を掬って、スザクはそれを竿に塗り広げるように扱いた。ぐちぐちとはしたない音をわざと鳴らし、震える鈴口をそれは愛しそうに慈しむ様に親指で撫でた。ルルーシュは顔を真っ赤にしてはくはくと呼吸をするので精いっぱいだった。痛々しいほどにスザクの視線を集める肉棒は、本人の意に反してこの沸いた状況を喜んでいるようにも見えた。
「これ出したら、続きのことも、やってみよっか」
「……っ、つづき……?」
まだやることがあるのかと、好き合った者同士はやることが多いんだなと、どこか他人事のようにルルーシュは考えた。恋仲である男女間ですることといえばなんとなく想像はつくが、自分たちは男同士だ。男二人でならたぶんそれはできないだろうと、疎い性知識を寄せ集めてそう結論付た。ならばスザクの指す”続きのこと”というのはどういった行為を言っているのだろうか、ルルーシュにはまだ見当もつかなかった。
「もしかして今、エッチなこと考えてた?」
「うぁ、ン……分からない、……知らないんだ、なにも……」
「……なら、今度は僕が無知な君に、教えてあげる番だね」
「んっ、ァ……教えてくれ、スザク……」
ルルーシュにとっては何の気なしに発した言葉なのだろうが、スザクにとってそれは最上級の誘い文句だった。
人差し指を穴へ引っ掛け擦ると、ルルーシュは声も出さず呆気なく白濁を零した。頭の奥がひりひりと痺れ、全速力で駆けたあとのような疲労感と脱力感に苛まれる。ルルーシュのあられもない姿にすっかり興奮しきったスザクは惜しげもなく目前に晒されている、無知で清らかな体に手を伸ばした。
あの夏の日に見た無残に転がる蝉の死骸も、冬の初めに見た役目を終えた落ち葉たちも、長い年月を経れば土に還元され肥やしになり、原生している樹木や土の下で眠る生き物たちの栄養になるのだと、どこかで見聞きした覚えがある。蝉の死骸と共に死んでいった純粋無垢な己の心も、長い目で見ればそうやって今の自分に還元されてゆくのだろうか。春先の雪解け水で植物たちが若芽を成長させるように、今はまだ芽が出たばかりの己の初心な恋心も、いつかは根を張り茎を伸ばし葉を付け、いつかは蕾を綻ばせるに違いないと、ルルーシュは確かにそう感じていた。
完