臆病者の恋文

 拝啓 枢木スザク様
 初夏の候、ますます御健勝のこととお慶び申し上げます。
 日頃は大変お世話になっております。

(……っ違う違う、こんな社外文書みたいな手紙じゃなくって……!)
 書きかけの文書をぐちゃぐちゃに丸め、ルルーシュは何個目になるのか分からない紙ごみを行儀悪くゴミ箱に投げ入れた。机に向き直り、一旦持っていたシャープペンシルを置く。そしてまた何度目になるか分からない溜息を盛大についた。
「溜息をつくと、幸せが逃げるそうだぞ」
 背後で暢気にピザを頬張る女は鮮やかな緑色の髪の毛を掻き上げ、訳知り顔で言った。

 ルルーシュの住む国、エリア11はかつて日本国という名であった。しかし8年前のことである。世界の三分の一の領土を支配する神聖ブリタニア帝国の支配により植民地化し、日本国は名も土地も奪われた。実質的に日本はブリタニアに降伏する形にはなったが、国内の日本独立派の武装集団が一斉蜂起しブリタニア帝国からの一方的な支配に対して連日連夜、今現在も武力抵抗を続けている。しかし世界を総べていると言っても過言ではない超大国・ブリタニア帝国の圧倒的軍事力を前にして、日本国側のレジスタンス軍は不利な戦況を強いられる一方であった。
 日常的にテロリズムが発生する中、先日新宿ゲットーで起こった毒ガス騒ぎにひょんなことから巻き込まれたルルーシュは、訳合ってこの正体不明の女を自室に匿う羽目になっている。
 その日たまたま、新宿ゲットーと呼ばれる地域に赴いていたルルーシュは、たまたま同時刻に、たまたまその付近で軍事物資を陸上輸送するブリタニア統治軍と日本独立軍のテロ行為に巻き込まれた。しかも運悪くその時、ブリタニア軍は輸送用トラックの荷台に毒ガスと呼ばれた大型ボンベを積んでいたのだ。独立軍はその毒ガスを狙って襲撃したのだろう。
 日本独立派の抵抗部隊とブリタニア帝国軍の衝突騒ぎにより、ルルーシュを含む両軍の目前でそれは炸裂した。
 ルルーシュはその瞬間死を覚悟した。短い生涯だった。何も成し遂げられず俺はこんなところで毒ガスなんぞに巻き込まれ死んでいくのか。目を瞑ると、愛する妹・ナナリーの笑顔が走馬灯のように過った。

 が、ルルーシュの悲壮な思いと覚悟とは裏腹に、毒ガスだと騒がれ炸裂したそれから眩い閃光が放たれたものの、ガスが一遍も漏れ出してこなかった。放射能かとも思ったが、体に異変はない。ルルーシュは顔を上げると、毒ガスだなんだと言われていた大きなボンベから一人の美しい女性が姿を現すのを呆気にとられながら目の当たりにした。

 その後、ルルーシュは気が付いたら自分が在籍するアッシュフォード学園の学生寮に戻ってきていた。どうやってここまで辿り着いたのか、まるで狐に化かされたかのように記憶が朧気になっていた。どこからが幻でどこまでが現実だったのか、考えようとすればするほど記憶の波に飲み込まれ窒息しそうになった。今日一日だけであらゆることが身に起こり過ぎて、さすがの自分でも理解の許容範囲を優に超えてしまったのだろう。もう今日は何も考えずに休んだ方が得策だと自分に言い聞かせたルルーシュは自室のドアを開けた。

「おかえり」

 ルルーシュにはナナリーという妹が一人いるが、寝る部屋は別々である。自室に客を招いた記憶もない。では、なぜ自分の帰宅を迎える声がするのだ。

「腹が減ったんだが、何か食べるものはないのか」
「貴様、なぜここにいる」

 それがルルーシュと、この女性――のちにC.C.と名乗る女との、初めて交わした会話であった。
 この正体不明の女はルルーシュの部屋に上がり込んで、まず食と住を彼に求めた。なんでもブリタニア帝国軍側に利用されそうになっているところを、あの爆発事故のおかげで間一髪逃れることが出来たらしい。彼女曰く、あの場において帝国軍とも抵抗軍とも関わりがなさそうであったルルーシュにC.C.は目をつけ、時期がくるまで彼のそばを隠れ蓑にしてもらおうという魂胆だそうだ。ルルーシュは痛む米神を摩りながら、ただでさえ非常事態の連続で疲弊していた脳内をフル回転させ現状を整理しようとした。
「そうだな、私を隠し通してくれたら褒美として”王の力”を授けてやろう」
「王の力?」
 女は不敵に微笑んだ。ルルーシュは冗談じゃない、とかぶりを振った。そんな中学生のごっこ遊びのようなものに付き合ってられるかと。
「ここから出て行け、悪いが他を当たってくれないか」
「こんな寒空の下にか弱い女を放り出すつもりか?夜中じゅうお前の部屋の前でお前の名前を呼びながら泣き叫んでやってもいい」
「お前のような女をか弱いとは呼ばない」
 強かすぎる彼女はその図太さだけで十分一人で生きていけそうな雰囲気すらあった。しかし今はもうとっくに日没の時刻は過ぎている。そんなつもりがなくとも、こんな夜半に男女が言い争っている声を誰かに聞かれてしまえばどんな噂が立つか分からない。
 折れたのはルルーシュのほうであった。
 一歩も外から出ないこと、部屋を散らかさないことを条件にルルーシュは、かくしてC.C.を自室に匿う羽目になったのであった。

 C.C.はルルーシュの敷いた条件を忠実に真面目に守った。しかし、それ以外の部分では自由奔放で、我が物顔でルルーシュのベッドやテレビ、クッションや雑誌を占領していった。食に対しても大概その我儘ぷりを発揮する。最近は宅配ピザがどうもお気に入りらしく、今もチーズを口端から垂らしながら頬張っていた。
 しかしC.C.はブリタニア国軍に利用されているだとか、逃げないといけないだとか不穏なことをいくつか口にしていた。彼女を世話してやっている身であるルルーシュはそれとなく尋ねてみるが、毎回お前にはまだ教えられないの一点張りであった。今頃ブリタニア国軍はこの軍事機密、トップシークレット、つまり極秘事項であろう彼女を探し出すのに躍起になっているのだろうか。なぜならあの場に居たブリタニア軍の者たちはみな、あのボンベの中身を本当に毒ガスだと信じて疑っていなかったからだ。
 そう考えるとルルーシュは途端に、自分はとんでもない犯罪に加担しているのではないかという気持ちになってくるが、その機密事項である対象そのものがルルーシュに対して己を隠せと命令してきたのだ。これは紛れもない、覆りようのない事実である。お前の世間体と引き換えに私を匿えとこの女に命令され仕方なく従っただけである、というのがルルーシュの主張だ。この奇妙な生活にすっかり毒されていたルルーシュは、そう開き直り始めていた。我ながらこの奇妙な同居生活への順応性が高すぎるとも思った。

「あのボウヤ宛の手紙だろう、男らしく思うことを書けばいい」
「黙ってろC.C.」
 そう、今彼にとって最重要課題なのはこの女のことではなく、ルルーシュが密かに想いを寄せている同級生で幼馴染の枢木スザクのことであった。
 ルルーシュにとって、枢木スザクは大切な幼馴染で唯一の親友であった。8年前、日本国とブリタニア帝国の戦争が本格的に始まると同時にルルーシュとスザクは運命の悪戯によって引き離され、もう今生では自分たちは再会できないとお互い思っていた。
 しかしつい最近、ルルーシュが在籍するアッシュフォード学園に枢木スザクが編入してきたのだ。スザク曰く、若いうちに様々な世界を見聞きするのは大切なことだから、その基本として学校くらいは通いなさいと上司に言われたそうだ。上司とはなんだとさらに尋ねると、スザクは現在ブリタニア帝国の軍隊に所属しており学校と軍隊の仕事をこなす日々を送っているそうだ。
 8年経ち、初めて出会った頃とはお互い立場が大きく変わったが、彼を取り巻くものが何であれ枢木スザクは8年前と何一つ変わらなかった。背は大きく伸びルルーシュを既に追い抜いており、顔も端正で声変わりも終わって男性らしくなっていたが、困っている人がいると放っておけないところや、運動神経がずば抜けて良くて体力も人一倍あるところ、良い意味でも悪い意味でも真面目で正義感が強過ぎるところ、頑固で少々我が強いところ、挙げていれば切りがないほどに枢木スザクは8年前の幼い少年と同じだった。物腰が柔らかくとくに女性に対して優しかったり、一人称が俺から僕に変わっていたり、外面は些か穏やかになったように見受けられるが、人間関係を円滑にするためのひとつの手段だろうとルルーシュは踏んでいた。ルルーシュ以外の人間の前では昔のスザクの面影は一切感じないが、ルルーシュを前にすると昔の、我儘なスザクを垣間見ることができたからだ。それがルルーシュにとってはほんの少し、自分が彼に特別扱いされているような心地にさせてくれた。
 8年という長い長い年月は彼らを心まで引き離すほどの年月ではなかった。二人は離れ離れになったあとどのように今まで過ごしてきたのか、日めくりカレンダーを1枚ずつ遡るように語り合った。ルルーシュは自分が居ない間、スザクがどのような日々を過ごしてきたのか知りたかったし、自分はスザクのいない人生をどう送ってきたのか、彼に散々聞かせたかったからだ。そして、スザクも自分と同じ気持ちであろうと、ルルーシュは確信していた。スザクはルルーシュの話を食い入るように聞き、時に笑い涙を滲ませ共感した。そしてまたスザクも自分に、僕の話を聞けと言わんばかりに昔のことを語ってくれた。スザクの話はどれも興味深く愉快で、たまに哀しくて寂しかった。

 そうやって、会えなかった長い月日の埋め合わせをするかのように毎日語り合っていたある日のことである。ルルーシュは抱いていたスザクに対する想いが親愛から恋心へ、いつの間にか変わっていたことを自覚した。
 家庭科の調理実習のとき、やっぱり器用だねと言われながら手元を覗かれたときの、睫毛の長さ。体育のあと、制汗剤と一緒に仄かに香る汗のにおい。落とした消しゴムを拾われたときの、自分とは全然違う無骨で太い骨ばった指。今までいちいち意識したことのなかったスザクの細部にルルーシュは目を奪われ、そのたびに心臓が跳ねるのを抑えられなかった。ルルーシュは気が付いたらスザクのことばかり考えていた。
 前まではこんなことなかったのに急にどうしてだろう、と自室でぼんやり考え事をしていると、背後で眠っていたと思っていたC.C.が突然口を開いた。

「どうした、好きな奴でもできたのか」
 ルルーシュは“好き”という単語が妙にしっくりとくる気がした。そうかなるほど自分はスザクのことが好きだったのかと、宙ぶらりんの感情に名前が存在したことになぜか安堵していた。

「…………」
 C.C.はいつもの冗談のつもりで言ったのであろう、しかし予想していた反論がルルーシュから返ってこず、痺れを切らし早合点した。

「好きなら告白をすればいいんじゃないか」
 ルルーシュの肩が跳ねるのを確認し思わずほくそ笑んだC.C.は、大凡の彼の心情を把握し、しばらく暇つぶしには困らないだろうなと他人事のように思った。



「直接言えないなら手紙はどうだ、ルルーシュ」
 学校から帰宅し入浴や夕飯を済ませ自室に帰ってきたルルーシュは、ネットニュースを眺めながら提出期限がとうに過ぎた生徒向けの追加課題を消化していた。ルルーシュは地頭がすこぶる優秀なためペーパーテストは毎回好成績であるが、いかんせん授業態度や課題提出状況などの平常点は手を抜けるだけ抜いているためすこぶる悪い。そのためほぼ毎回、ひたすら手を動かすだけの単純作業のような追加課題を課されている。
「何の話だ」
「いちいち言わせるな、あのボウヤのことが好きなんだろう?」
 それまでサラサラと静かに響いていたシャープペンシルの芯と紙の摩擦音が、C.C.の発言と同時に途切れた。
「ナナリーとお前とで時々三人で話しているときの男だろう?ルルーシュ、お前がこの家に人を呼ぶのはあの男だけじゃないか」
 C.C.は千里眼の能力を所有しているのかとルルーシュは本気で考え込みそうになったが、自室に居れば聞こえてくるリビングからの話し声で彼女はそう推理したのだろう。プライバシーもへったくれもないが今更それを気にするのはルルーシュにとって癪であった。

 ルルーシュには、自分の想いをスザクに伝えるという選択肢どころか考え自体毛頭なかった。C.C.に言われて告白するという選択肢の存在に初めて気が付いたが、言ってどうするんだと純粋に思った。スザクと8年ぶりに再会できて、大きくなっても相変わらずな彼の隣で友達として今でも居ることができて、自分はスザクのことが好きで。それだけで幸せだとルルーシュは感じていた。

 だからルルーシュはもう納得がいったと言わんばかりに課題に再び取り掛かってしまい、C.C.はつまらなさそうにベッドで寝返りを打った。



「それでね、その時さ…………ねえ、聞いてる?」
「っあ、ああ、それでどうしたんだ」
「今ルルーシュ、僕の話聞いてなかっただろう」
「聞いてる聞いてる」
 スザクの横顔を眺めているうちに彼の話が耳に入ってこなくなっていたルルーシュは、そのことを突っ込まれ適当に誤魔化した。放課後、いつものように割り当てられた掃除場所で箒を動かしながらスザクとルルーシュは駄弁っていた。
 ルルーシュはスザクに話の続きを促し、改めて彼のお喋りに聞き入っているとどうやら話題は女性関係のことだったらしい。ふと、スザクは学園内でも女子生徒に対してはとくに優しく接していたことをルルーシュは思い出し、そのことにこの話題は関係しているのだろうかと考えた。
「食べ物どころか寝るところもろくにない頃、よく色んな女の人にお世話になったよ」
「女の人って、お前」
「うん、なんて言うんだろう……。優しくすれば優しくしてもらえたからさ」
「優しく?」
「僕たちもう高校生だし、そういうのあるでしょ」
 スザクが何となく言わんとすることをルルーシュは察した。
 長かったようで短い、けれどやはり8年という月日はかつて子供であったルルーシュとスザクにとって十分に長かった。ちょうど多感な時期なのだから、互いに好きな女性が居たり恋人が居てもなんら不思議ではない。だがその可能性を、ルルーシュはなぜだか完全に想定していなかった。
「ごめん、こういう話題好きじゃなかった?」
「いや、そういうんじゃない」
「あっもしかして僕にそういう経験があるからって驚いてた」
 そういう経験、という言葉に心臓が跳ねた。
 ルルーシュの与り知らぬところで見知らぬ女をスザクは抱いていたのだろうか。彼の無骨な手指が女の柔肌を這い回って――。
 そう考えるとルルーシュはもう、居ても立っても居られなくなった。そのあとスザクと何を話したのか、ルルーシュは何も覚えていなかった。

 その日から、ルルーシュはスザクに対して肉欲を含めた恋心を抱き始めた。
 不意に近寄られると顔に血が上るのを自覚せざるを得なくなり、見つめられると顔を逸らしたくて堪らなかった。なのに他の女子生徒と仲良さげに会話している光景を見ると胸騒ぎが止まらなくなり、盛り上がっている雰囲気を邪魔しに行きたくてしょうがなかった。ルルーシュが一番辛かった時間は、一緒に過ごす昼休憩の昼食の時であった。スザクの流麗な箸の持ち運び、彼の口からちらりと見える白い歯や真っ赤な舌に見蕩れ、そこに乗せられる食材には嫉妬をした。唇についたハンバーグのソースを舌で舐め取る仕草を目の前で見たときは、その仕草と合わせるようにルルーシュは喉を鳴らした。
 もう勘弁してくれと、ルルーシュは音を上げた。そして今までの自分とスザクとの距離が、異様に近すぎるものであったと初めて自覚した。俺たちは男同士で友達なのだからこんな近い距離感はもう止そう、と突然言うのもなんだか不自然だなとルルーシュは感じたが、それはただスザクの近くに居たいという自分の我儘を正当化するための言い訳に過ぎない。

 だから、スザクに告白しようとルルーシュは決意した。
 己がスザクに対して肉欲を持っているということを知ってもらえる手っ取り早い方法であると、ルルーシュは考えたからだ。ルルーシュが性的な目でスザクを見ていると本人が知れば、幼い子供同士のようにじゃれ合うような距離感で接せられることもなくなるだろうと踏んだからだ。付き合いたいとか気持ちが報われてほしいだとか、希望的観測はルルーシュの中には一切なかった。

 潔く決断したはいいものの、どのようにして本人に気持ちを伝えるのがベターなのだろうか、とルルーシュはまた立ち止まった。スザクがクラスメイトの同性の友人に告白されたなんて噂が広がればあまりにも彼に対して申し訳がなく、できるだけ大っぴらにならない方法で伝えなければならないとルルーシュは思った。

 そうやって堂々巡りの思考を巡らせ自室で何度目になるか分からない溜息をついたとき、以前C.C.が冗談半分で言った文句を、ルルーシュはふと思い出した。
「そうだ、手紙だ」
 ルルーシュはそうひとりごちた。いったん決断してしまえばあとは行動に移すだけである。早速適当なルーズリーフを1枚広げて文をしたためようとペンを動かした。

 そして冒頭に戻る。
 機械の扱い方が分からない時は説明書を読めば分かるし、本を読んでいる時に分からない単語があれば辞書を開けばよい。学校で習うことで分からないことがあれば教科書を開けば殆どのことは解決するのだ。しかし恋文の書き方なんて、どこを探せば載っているのだろうか。手紙の書き方をインターネットの検索エンジンで調べても、出てくるのは社外文書作成時のためのお手本のようなページばかりである。恋文にも敬称や時節は必要なのだろうかと真剣に悩みそうになったところで、ルルーシュは一旦ペンを置いた。
 もう今日は寝てしまって、明日の朝にでも冴えた頭で文章を考えようか。そう考えると、人の体というのは実に上手くできているらしい、眠りのことを考えた途端自然と目蓋が重くなりルルーシュは欠伸をした。

 “お前が好きだ”とだけ、一言したためたルーズリーフがぼやけた視界に入ってきた。
 こんなふうに一言で潔く告白できたら、どれだけ気が楽なんだろうか。ルルーシュはまだ、スザクの親友という立ち位置の暖かさ、優しさに溺れていたかった。たった一言でスザクの親友という居場所を失うことは、ルルーシュにとってあまりにも惜しく、その煮え切らない気持ちがルルーシュの筆を鈍らせていた。
 そのときのルルーシュは、机の上の片付けもこんな青臭いルーズリーフも適当に纏めてもう寝てしまいたかった。追加課題のレポート作成の際に参考文献として参照していた便覧に、そのルーズリーフを挟み込んで、そのまま通学用鞄に突っ込んだ。

 ベッドはC.C.の支配下にあるので、ルルーシュは床の絨毯の上に来客用の敷布団を敷いて眠ることが習慣になった。部屋の明かりを消し、冷たい布団にルルーシュは体を滑り込ませた。
 目を瞑れば、ルルーシュはスザクのことばかり考えてしまってとても寝付けるような状態ではなかった。ずっと隣に居たと思っていた彼は、8年の歳月を経て、ルルーシュも知識でしか知らないようなことをたくさん経験していて、彼はそのことがさも当たり前のように思っていた。ずっと遠い場所に置いて行かれたようで、寂しくて悔しくて、それでもルルーシュは彼のことが好きで好きで堪らなかった。こんな気持ちになるなら恋心を自覚しなければ良かったとすら思えてきて、滲みそうになる涙を堪えているとルルーシュは気づかぬうちに深く哀しい眠りに落ちたのであった。

 翌朝、レポート作成の参考文献である資料や書籍数冊を返却しに図書館へルルーシュは赴いた。アッシュフォード学園の図書館には幅広い年代の文学作品から国内外の歴史や文献、また国内で発行された一般雑誌や新聞のバックナンバーも保管されている。著者の国籍は大半がブリタニア人ではあるが、中にはエリア11――旧日本人が著者である文学作品や手記、伝記も所蔵されており、やはりここでもアッシュフォード学園のオープンな校風が影響しているのだろうか。文学も含め、絵画や音楽などの人間の芸術的創作活動に於いて著者の経歴や貴賤がその作品の評価に影響するということは甚だしいほど見当違いで、この世の全ての芸術に対する愚弄であるとすらルルーシュは思っている。だから、この図書館を含めた学園の来るもの拒まずな体制を彼は好ましく感じていた。
 参考文献である分厚い便覧を、ジャンルごとで規則的に場所を分けてある書架へ戻した。他の書架を見て回ると惹かれる背表紙に巡り合いそうで、朝の予鈴が響く前にルルーシュは図書館を後にした。
 先ほど棚へ返却した便覧の頁の中に、自らの淡い恋心をしたためたルーズリーフが挟んだままであることを、ルルーシュはこの時すっかり忘れながら。

「はい、箒でいいよね」
「ああ」
 放課後、クラスのホームルームが終わったあとは学内清掃の時間が設けられている。私立なのだから清掃員を雇えばいいのではないかと思われそうだが、自分を含めみなで使った場所はみなで掃除をするという情操教育の一環か、生徒らも清掃作業に参加することとなっている。とはいっても廊下で歩き食いをしたり教室に紙ごみをポイ捨てするような生徒はままおらず、雇われの清掃員も学園内を巡回しているおかげで常に清潔感は保たれている。生徒が行うことといえば部屋の隅の塵を掃いたり窓ガラスを拭いたりなどの軽作業のみで、みな喋りながらのんびりと手を動かしていた。
 清掃は各々好きな場所を適当に行うのではなく、クラス内をいくつかの班に分けて、それぞれの班に清掃場所を割り当てる仕組みであった。ルルーシュとスザクはたまたま同じ班で、今月の清掃場所は図書館が割り当てられていた。
 本日二度目の図書館にルルーシュは赴くことになるわけだが、とくに目立って汚れている場所もなく、掃除をさぼって談笑している生徒もちらほら見受けられる。この調子だと自分たちもさぼってしまおうかとルルーシュは誘いたいところだが規律に真面目なスザクの性格がそれを許すはずもなかった。ルルーシュは大人しくスザクから手渡された箒と塵取りを片手に、館内の階段の踊り場で掃き掃除をしていた。他の班のメンバーは階下の読書スペースで拭き掃除をしているようだった。
「ここの図書館、ルルーシュは使ったことある?」
「ああ。課題で使う本を何度か借りたことなら」
「そうなんだ。おすすめあったら教えてよ」
 元々清掃が行き届いた館内ではルルーシュたちにやることがとくに見つけられず、じゃあ本棚の整理でもするかと、書架の間をのんびり歩いた。興味のあるジャンルの書架の前を通る時はついつい歩みが遅くなるルルーシュであったが、その前を歩くスザクはどの書架を行き来してもあまり関心を示す様子はなく、膨大な堅苦しい背表紙を前に目を滑らせているようだった。

「あれ。この本、棚の位置間違ってない?」
 不意にスザクが一冊の、ルルーシュには大変見覚えのある分厚い本を棚から取り出そうとしていた。その棚は生物に関する書籍を所蔵する場所であった。スザクが手にしているのはルルーシュが今朝返却した便覧であった。
 世界史の授業で課題提出の延滞を繰り返していたルルーシュは、追加課題でブリタニア帝国の歴史についての追加レポート提出を言い渡されていた。そこで、実際の写真や図が多く収録されているブリタニア歴史便覧を貸借していた。この手の課題に関してルルーシュは頻繁にこの便覧を参考文献として使用しているが、他の生徒からは書いてあることが難しい・写真も多いが文字も多すぎるなどとあまり良い評判がないらしく、学園内で借りる生徒はあまり居ない様子であった。
 スザクの言う通り、確かにこの書籍は歴史ジャンルに収められるべきであろう。おそらく今朝直接返却したルルーシュが場所を誤ってしまったのだ。
 それは今朝自分が借りたものであったがどうやらぼんやりしていて間違えたらしい、と正直にルルーシュが言おうとしたとき、スザクが手にしていた本の隙間から紙が一枚、ひらりと抜け落ちた。
「何か落ちたね」
 紙の存在などすっかり忘れていたルルーシュは、スザクと一緒に床に落ちた紙に視線向けた。
 そしてその紙面にある短い言葉と雑な癖字を見た瞬間、ルルーシュの思考は止まった。

「”お前が好きだ”?」
「…………」

 ああ、それは昨夜自分が、寝ぼけた頭で半分やけになりながら、こんなふうにストレートに言えたらどれだけ楽なのかと、自暴自棄になりかけた思考で書いた、一世一代の大告白だ。
 それをまさかこんな形で、スザクに読まれてしまうとは。ルルーシュは嫌な汗で背中がじっとり湿るのを感じた。

「これってもしかしてラブレター、の下書き……とか?」
 まったくもって、スザクの言うそのとおりだ。
 スザクの声はどこか楽し気で、昔の我の強い彼が横顔から見え隠れしていた。
 そうだ、と小声でひとりごちたスザクは、自らの懐を探り一本のボールペンを取り出した。カチリと一回ペンの頭をノックすると、書架の柱を床代わりにして、その居たたまれない青い紙に何かをスザクは書き始めた。ルルーシュは目の前で何が行われようとしているのか、その場から逃げ出したい足と顔に上りそうな血を理性で堪えながら、ただただ静観していた。
「くくっ、これどうかなルルーシュ」
 ルルーシュの気なんて知りようがないスザクは、何かを書き足した紙をルルーシュに見せた。昨晩己が書いた告白文のあとに、”僕じゃなくて本人に渡しなよ。がんばって。”と流麗な文字で書き添えられていた。短い告白の返事のようなそれは、スザクにとっては悪戯心からくる発想なのだろう。それを見せられたルルーシュは硬直する表情筋に叱咤して、呆れたような表情を必死に作って誤魔化した。
 ルルーシュはこの上ないほどの羞恥で堪らなかったし、差出人も宛名もないがその告白は確かに今この瞬間、思わぬ形ではあるが想い人に渡されたのだ。しかしその手紙が実はルルーシュがスザク宛てに書いたものであるという事実はスザクは知りようもない。恐らくこの学園のどこかにいる見ず知らずの一生徒が残したラブレターなのだと、見ず知らずの者の残した手紙だからこそスザクはそうやって茶化す素振りをするのだろう。
 この場で、実はその本は昨夜俺が貸借したものであり手紙は俺がお前に宛てたものなんだと、格好はつかないが思い切って言ってしまおうかという思いがルルーシュの脳内を支配し始めたとき、ルルーシュの思考を遮るようにスザクは話し始めた。
「この本を借りた人がもし、このラブレターを本に挟んだままだってことに気付いてさ。またこの本を探しに来たとき、この紙に書かれた僕の返事を読んでくれたら、面白いな」
 スザクはくすくす笑いながら、そのルーズリーフを便覧に挟み、生物の書架にわざと間違えて入れ直した。
「なんだか応援したくなっちゃうな、僕」
 微笑ましいものを見守るように目を細め、背表紙をなぞるスザクの指先を、ルルーシュは何も言えずぼんやりと眺めていた。

 さっそく翌朝、少し早めに登校したルルーシュは教室へ向かわず、例の図書館へ直接足を運んだ。
 昨日のこっ恥ずかしいルーズリーフを自らの手で回収するためである。

 朝の学内図書館は生徒がほぼ居ない。当日が提出期限である課題を速やかに済ませるためか朝の読書習慣なのか各々の事情は知らないが、居てても1人か2人程度である。図書館内を管理する司書がいないので本を借りることはできないが、読書スペースを使用して本を読んだり勉強することは可能であり、学園内の生徒は朝からでも図書館を利用することができる仕組みになっている。
 ルルーシュは早足で目的の生物の書架へ着くと、見慣れた分厚い背表紙に指をかけた。
 周囲に人が居ないことを念入りに確認し、本を静かに開く。例のルーズリーフは表紙を捲って次の頁に挟まれていた。紙面をどれだけ睨んでも文面は当然昨日のままである。
 スザクは幼い頃から武道を習っていたようだが、文字も習っていたのだろうか。日本などアジア諸国には、毛筆を用いて文字そのものの美しさを表現し芸術へと昇華する文化が古くからあるらしく、それが近現代まで「書道」として、ブリタニア帝国の支配が行われるまで根強く残っていた。ブリタニアには文字自体に芸術性を見出す文化はなく、フォントやレタリングなどデザインとして文字を捉える文化はあれど、手書きの文字にそこまでの芸術性を追求する風潮は今も昔もなかった。なので、文字の美しさや形にその人の性格が表れるという概念が日本に存在することもスザクを通してルルーシュは初めて知った。文字はそもそも意思や記憶を他者へ伝達するための媒体である。合理的に考えれば、思っていることを正確に伝えられればどんな文字であろうと文字の本来の役割が果たされれば何だっていいだろう。だからルルーシュは以前スザクに、君のそういうちょっと捻くれたところが文字に出てるよ、なんて言われて大層驚いたことがある。スザクから言わせれば、右斜め上がりの癖のある字が、いたって不本意ではあるがそのようなルルーシュの性格を彷彿とさせるらしい。スザクの言うとおり、文字の形に書き手の性格が表れるのだとしたら、彼の流麗な美しい整った文字はスザクの愚直すぎるほど真面目で正義感の強い性格を反映しているのだろうか。

 書架の柱を机代わりにして、昨日スザクがそうしたようにルルーシュも立ったまま、スザクの返した文言に返答を書いた。静かな館内にペンと紙が擦れる音がさらさらと静かに響いた。
 ルルーシュは途端に自分のやっていることが恥ずかしく感じ居たたまれなくなったが、それを振り払うようにルルーシュは紙を本の中に差し込んだ。そして元の、本来あるべきはずの場所とは間違った『生物』の書架へ本を戻した。そして何事もなかったかのように教室へ向かって、既に着いている級友たちに朝の挨拶をした。スザクはその日、午前中は軍の任務だとかで学校の授業を欠席し、午後の授業から出席した。

 放課後、また掃除のためにルルーシュとスザクの二人を含む清掃班は図書館へ向かった。清掃班と言っても大した作業量はないので、各々班内で仲の良い者と話しながら手を動かすことが殆どだ。もはや持っているだけの箒を手にしながらルルーシュとスザクは館内をゆったり歩いた。
 そうして昨日スザクが見つけた、居場所の間違えた歴史便覧のある書架の前で二人は歩みを止めた。
「本の場所は変わってないけど、挟まってた紙は残ってるのかなあ」
 スザクの横顔は悪戯好きな子供のような、にやにやとしただらしのない顔をしていた。スザクがページを繰ろうとしている本には相変わらず紙が挟まっていることも、その紙に返事が書かれてあることも、ルルーシュは当然知っている。なぜならルルーシュ自身がラブレターの差出人であり、今朝自分で返事を書いたからである。これからスザクの手で読まれる手紙の返事の内容もルルーシュは当然把握しているが、スザクの口でそれを読まれるのかと思うと緊張して落ち着かない。握り込んだ手に汗が滲みそうになった。

「あっ返事、返事書いてあるよルルーシュ、見て!」
 見なくてもルルーシュは分かるが、スザクに言われたとおり紙を覗き込んだ。その紙面に書かれてある文言も、今朝自分が書いたものともちろん全く同じであることも確認する。”告白したいが勇気がないんだ。どうすればいい。”と書かれた返事が。

「これはもしかして、恋愛相談かな?」
 紙面に向かっていた視線をルルーシュのほうへ向けたスザクは、少し照れたような笑みを見せはにかんだ。
「さあ。お前が勝手に返事を書いたんだから、俺は知らない」
「ええ、僕のせい!?」
 スザクはまさかあの悪戯書きに対して返事が来るとは思わなかったのだろう。しかも内容はどうすればいい、とストレートな恋愛相談ときた。スザクはえーとかうーとか言いながら眉を下げ頬を掻いた。
「そんな、人に偉そうにアドバイスできる立場じゃないんだけどなあ」
 スザクはぶつぶつとそう言いながらも、ペンをポケットから取り出して律儀に返事をしたためた。スザクの手元は彼の頭と手で見えず、なんと書いているのかルルーシュからは分からなかった。
 目の前の好きな男に匿名で恋愛相談という滑稽な事態にルルーシュ自身が一番呆れ困惑し情けない気持ちでいっぱいだった。この手紙の差出人は自分であるという言葉が何度も喉から出かかって飲み込んでしまう。
 スザクは比較的思うことを素直に口にするタイプである。昔の彼は良いことも悪いこともすぐ口にするものだから嫌な奴だなと正直思ったところもある。しかし8年経った今ではさすがに多少空気も読め分別もついたのであろう、お世辞を言ったり適当に茶を濁したりする言動も見られるようになった。しかしそれは事象に対してマイナスイメージを持った時の感想に限った話で、スザク自身が良いなと思ったことに対しては素直に良いと感じたことを彼は口にしていた。それは物だけでなく人に対する好意にも同様であった。つまりスザクは人に好意を伝えるということに恥じらいがさしてないのだ。好きだと思う人には好きだと言うし、女子にこれはどう?と尋ねられると可愛いねと答えるのだ。スザクのそれには下心はなく純粋に感じたことを言っているだけだと本人は必死に主張しているが、誰彼構わずそのような態度を取るのでしばしば周囲からはそういうスザクを女たらしだとか天然だと形容される。しかしスザクのそのような言動は彼の素直で真っすぐな性格が由来であり、そういうところもルルーシュは彼の好ましい一面だと思っている。

「書けた」
 スザクは顔をあげて、ボールペンを一回ノックしてペン先を収めた。彼が手にしていた紙はそのまま本に挟まれる。
「ルルーシュは見ちゃだめだよ。これは僕と、手紙の人との内緒なんだから」
 それはきっとスザクの方便だろう。見ず知らずの人間の恋愛相談に律儀に乗る自分が恥ずかしくて、親友であるルルーシュにもその返答を見せたくないだけなのだ。きっと、ルルーシュに見られると鼻で笑われるか小ばかにされるか、どちらにせよ良い反応は返ってこないとスザクは予想して。
 それは薄々ルルーシュもスザクの様子を見て鑑みることが出来た。しかし、その手紙の差出人はもともと、当然ルルーシュである。だからスザクの見るなという言いつけを後に破ることになる。そのことに、ルルーシュは不覚にもちくりと罪悪感と、実質的には文通相手は自分ではあるがスザクが自分に隠し事をして頬を緩ませている様子を見ると少し、ほんの少し嫉妬もした。差出人であるはずの自分に対して嫉妬をした。スザクと文通しているその相手はルルーシュなのにスザクはルルーシュのことなんかちっとも見てくれない、そんな幼稚でうぶな嫉妬を感じてルルーシュは恥じ入った。

 翌朝、再び図書館に一人で赴いたルルーシュは目的の本を取り、ページに挟んである紙を手に取った。今日はスザクは朝から登校してくるはずなので、用を済ませたらできるだけ人とすれ違わぬよう、直ちに教室へ向かって何事もないように取り繕わなければいけない。意識しないと顔に血が集まるのを感じて、ルルーシュはかぶりを振った。

 “その人とは友達同士とか、なのかな。関係が壊れるのを恐れるなら、別に無理して告白する必要もないんじゃないかな。”

 ルルーシュは思いのほかそっけない、突き放したようなその文章に驚いた。スザクのことだから、当たって砕けろとでも書いてあるとルルーシュは勝手に想像していたのだ。だが、スザクの言うことも一理あるし、世の告白を躊躇う者の多くがそれを恐れているだろう、かくいうルルーシュもそのうちの一人である。心のどこかでスザクに背中を押してもらえば、と甘い考えを抱いていたのかもしれない、ルルーシュは先ほどまでどこか浮かれていた自分やスザクに後ろめたさを感じた。
 そうかありがとう、とだけ返事を書こうとして、ルーズリーフの余白が少なくなっていたため紙を裏へ捲った。すると、そこには先ほどの文章の続きらしき文字が記されていて、ルルーシュは何度も何度も、その文面を読み返して震えた。

 “でも僕なら、友達であろうと好きだと言われることは、とっても嬉しいと思う。好きだと言われて嫌な気持ちに、僕はならない。”

 その後、ルルーシュは朝の始業の時刻ぎりぎりに教室へ駆け込む形で登校した。
 スザクの真っすぐな、気持ちの篭った手紙にどう返事を書けばいいのだろうかと悩んでいたせいだ。否、その手紙にスザクの気持ちが篭っているかどうかは書いたスザク当人しか知りえないことだが、彼が以前教えてくれた『文字にはその人の性格が表れる』という話を知っていたから、ルルーシュはそう感じたのだ。少し強めの筆圧で手本のように整頓された文字であったが、よく見ると止めやはらいにいつもにはない力強さがあった。そのスザクの気持ちに、ルルーシュも相応とはいかないものの一生懸命返そうとした。
 その日から、図書館の掃除には一緒に行くもののスザクはルルーシュの居ないところで返事を綴るようになった。スザクにとっては見知らぬ差出人と二人だけの、この図書館で間違った場所に置かれた本の中で行われる秘密の文通だった。その差出人はそもそもルルーシュではあるが、スザクがそうやって律儀に誠実に差出人との文通内容を隠密にしようとすればするほどルルーシュはそれを盗み見しているような気分になり罪悪感を徐々に募らせていくのであった。
 ルーズリーフはもう三枚目の裏に突入し、掃除当番の場所の割り当てもそろそろ変わりそうな時期に差し掛かっていた。

「そういえばまだあの文通、続けているのか」
「ああ、うん」
 ルルーシュは何も知らぬふりしてスザクに尋ねた。『あの文通』などと我ながら白々しい文句だとルルーシュは感じた。

 現在の掃除当番で最後の図書館の掃除が今日で最後の日であったから、思い出したかのような素振りでルルーシュは尋ねたのだ。掃除当番の割り当ては一か月ごとで変わる仕組みになっているため、奇妙な文通もちょうど一か月を迎えたということである。自分もスザクも随分筆まめだなとどうでもよいことをふと思った。
 同じ班員もみな用具を片付け、図書館から去り各々教室へ戻るらしい。ルルーシュとスザクも後に続くように図書館から出て、教室に置いてある荷物を取りに廊下を歩いた。日が傾き始め空は朱を帯び始めていた。雲はなく、地平線の向こうへ沈もうとする太陽が二人の頬を照らした。

「もうそろそろ告白するって。直接はやっぱり恥ずかしいから手紙を渡すんだってさ。」
「へえ」
 ルルーシュは興味なさげに相槌を打つ。
 スザクは言葉を選びながら掻い摘んで文通で進んだ話の現状を話してくれた。何度も言うが、文通相手はルルーシュなのだからもちろんスザクが話さずともすべて筒抜けである。それを一番分かっているルルーシュは、他人事のようにそうなのかと返した。

「ルルーシュならさ、手紙渡されるならどんな風に渡されたい?」
 先を歩いていたスザクはルルーシュのほうへ振り向くなり唐突に尋ねてきて、ルルーシュはどきりと心臓が跳ねた。窓から差し込む傾いた日光が眩しくて、自然と目を細めてしまいそうになる。
「別に、どうでも……。そういうお前はどうなんだ」
「え、僕?」
 ルルーシュが質問に質問で返すと思わなかったのだろう、スザクは少し意外に感じ驚いた顔をした。

 実はというと、ルルーシュはスザクがどういうシチュエーションで告白されたいかを既に知っていた。あの文通の中でそのような話題になり、僕ならこうがいいなあと綴ってあったからだ。我ながら卑怯でずるくて姑息だと思った。少しずつ降り積もった罪悪感で、ルルーシュはもう押し潰されて息ができなくなっていた。だから、この罪悪感と一緒にスザクに抱いた浅ましい恋心も清算してしまおう、と決意していたのだ。

「放課後、二人きりの校舎で、だっけか」
「え?」
 スザクは驚きで目を見張った。それもそのはず、スザクは言おうとしていた言葉を目の前のルルーシュに先に言われてしまったからだ。ルルーシュはいつから人の心まで読めるようになっていたのか、と冷静でない頭では飛躍した発想しか思いつかない。豆鉄砲を食ったような顔をしたまま、スザクは呆気にとられ廊下に立ちすくした。
 ルルーシュはそんなスザクには目もくれず、己の制服のポケットから一枚の折りたたまれた紙を取り出し、スザクの胸へ押し付けた。ルルーシュはそのまま無言で、スザクの横を通り抜けて、ほぼ走っているような速さで早足で教室へ駆けていった。スザクもルルーシュも夕日を言い訳にできないほど頬を真っ赤にしていたが、お互いそれを指摘できるほどの余裕も冷静さも持ち合わせていなかった。



「なんだ玉砕したのか」
 本来の部屋の主のベッドを占領するルルーシュの自室の侵入者であり居候のC.C.は、のんびりとした声で言い放った。ルルーシュの部屋にはピザチーズの匂いが漂う。C.C.は一度好きになった食べ物は飽きるまで食べる嗜好らしくここ一か月はずっと同じものを食べていた。ベッドのシーツにチーズの匂いが移りそうだと思いながらルルーシュは関わるのも面倒だと思い最近では彼女の好きなようにさせていた。
 ルルーシュはその日帰宅し夕飯や入浴を済ませ、いつものように自室に戻ってきたが勉強机の前に座ったままぴくりとも動かない。C.C.の発言を耳にしたルルーシュはようやく、緩慢な動きで脚を組み直した。
「うるさい」
「返事は?」
「知るか」
 恋が実るなどという考えは鼻から存在すらしないルルーシュにとっては想いを告げたの先のことなんてどうでもいいのだろう、一世一代の愛の告白で疲弊した彼にしてみたら、想い人の望むシチュエーションで手紙を渡せただけでも御の字なのだ。ピザの耳を齧りながら青いなあとどこか達観した感想をC.C.は抱いた。

 不意に家の呼び鈴が鳴った。
 時間はもう22時を指そうとしている。こんな夜更けに誰だろうと思ったがルルーシュには心当たりがなかった。

 しばらくするとルルーシュの部屋にノック音が響いた。
 心臓がざわめいた。もしやと思ったがルルーシュはかぶりを振った。
「ルルーシュ様」
「今部屋が散らかっているんだ、口頭で頼めるか」
「はい。ルルーシュ様のご友人のスザク様がいらしておいでですが」
 人とは不思議なもので、こういう時の勘はほぼ的中するらしい。決してスザクに対して不快な感情を抱いているのではなく、放課後のあの出来事があってからの今だ。明日は確か軍の任務か何かで全日欠席すると聞いていたので、ルルーシュはスザクへの告白決行日を今日にしたのだ。なのに向こうから訪れに来るとは。スザクのそういう、少々自由奔放な、頭で考えるよりも先に体が動く性質は昔からちっとも変わらないと改めてルルーシュは思い、頭を抱えた。スザクのそういう性質にルルーシュは幼い頃何度も振り回され、それが原因で喧嘩をすることはしょっちゅうだった。もうそんな彼の扱いにも慣れたとルルーシュは思っていたが、そんなことは全くなかった。スザクはいつも強引でルルーシュの思考も行動も引っ?き回そうとする。だから自分はスザクを好きになってしまったんだ、と何度も全部スザクのせいにした。
 部屋の中にいるルルーシュがなかなか返事をしないので、使用人が何か良くなかったのだろうかと心配し、再び声をかけた。スザクはよくルルーシュの家に遊びに来るので、使用人もいつものことだとあまり警戒せず招き入れたらしい。

「本日はもう、お帰り頂きましょうか」
「いや、いい」
「かしこまりました。スザク様は玄関でお待ち頂いておりますので」
「玄関?」
「はい。スザク様が、玄関で構わないと仰いましたので。私のほうからもお部屋へご案内申し上げたのですが、ご遠慮なさったので」
 もう夜も遅い。こんな時間に突然人の家に上がり込むのは気が引けるということだろうか。ルルーシュは使用人を下げさせ、重い腰を上げた。部屋を出ようとしたルルーシュの背中に、報告待っているぞとどこか朗らかな声音をしたC.C.が投げかけた。ルルーシュはその発言を無言で受け取った。

「スザク、こんな夜遅くにどうした」
「あ、ルルーシュ……。ごめんね、急に」
 玄関でぼうと突っ立っていたスザクは、ルルーシュの姿を見るなりぱっと明るい笑顔を見せた。
 てっきりルルーシュは、文通相手が自分であったこと、それを今まで隠してスザクと文通をしていたこと、そしてその文通で貰ったアドバイスを用いてスザクに告白したこと――諸々をこっぴどく怒られると思っていた。一発くらい殴られてもおかしくはないという覚悟で部屋から出たため、スザクのその表情と声色が予想とは正反対でルルーシュは驚いた。そんなスザクの手には淡い紫色の、折りたたまれた和紙が握られていた。
「これ、僕の気持ち」
 スザクはその和紙を持った手をルルーシュに差し出した。ルルーシュが何も言えず動けずで呆気に取られている様子を見かねて、スザクはルルーシュの手を取って紙を無理やり握らせた。ルルーシュは、困ったような、照れくさいような、微妙な顔をしたスザクと目が合った。ルルーシュはすぐ視線を逸らしてしまった。
「怒ってないよ」
 スザクはルルーシュを宥める様に、できるだけ優しい声で囁いた。スザクは俯くルルーシュの、見えない表情を見透かすように微笑んだ。愛する人を見つめるような、情熱的な目で。
「その手紙、読んでね。僕は明日学校に行けないから、明後日会おう。電話でもよかったんだけど、やっぱり直接会って話をしたいからさ。夜遅くにお邪魔してごめんね。おやすみ、ルルーシュ」
「……ああ、おやすみ」
 和紙の手紙を手渡したスザクは、照れ隠しをするように一方的に話したと思えば、そそくさと玄関から出て行ってしまった。ルルーシュはしばらくの間、玄関の前に突っ立って、スザクが通り過ぎたあとの玄関扉をじっと見つめていた。
 ルルーシュも人のことは言えないが、スザクに無理やり握らされた手紙と思われる和紙をまじまじと見つめた。まさかこの手紙を渡すためにこんな時間に訪ねてきたのだろうか。いや、スザクは帰宅してからルルーシュの手紙の返事を今までずっと書いていて、そして寄越してきたのだ。いくら自らの悪戯書きが発端だからと言って、宛名も差出人も不明の恋文の書き損じ相手に一か月も文通を続けた、律儀で真面目で筆まめな男のことだ。しかも今回は恋文の練習でも、書き損じでも、下書きでもない、本当の本物の恋文に対する返事書きだ。一体どんなことが綴られているのだろう。
 その和紙の淡い紫はどこか自分の瞳を彷彿とさせる色合いだと、ルルーシュはふと思った。