疲れた体の癒し方

 無機質な電子音につかの間の安眠を妨害され些か電子時計に苛立ちを募らせた。昔から寝起きが悪く人に起こされると大抵不機嫌になったり、幼い頃は自分を起こす相手に八つ当たりしていたことも珍しくなかった。もちろん起こしてくれる相手に罪はないしむしろ感謝すべきなのは重々承知しているが、自分の意に反して体は本能的に睡眠の続きを欲している。抗いようのない三大欲求のひとつを前にしてはスザクも思わず頭を抱えてしまうが、これから二度寝すればどんな失態を犯してしまうかずいぶん前に身をもって思い知っていたので、渋々掛け布団を捲り、ここでようやく目覚まし時計のアラーム音を消した。昔から寝覚めの大変悪いという自覚は痛いほどある。これだけは成長した今でもあまり改善されたものではないので、できるだけ周りに迷惑をかけないように努める他なかった。モーニングコールに来たメイドを怖がらせてはみっともないことこの上ないので、スザクは出来るだけ寝起きの状態で他人と接するのを避けていた。


 自分の体温で暖められたベッドに恋しさを覚えつつ、自室に備え付けられた洗面台に立った。
 昨夜は随分と酷いやつれた顔をしていたが、恐る恐る鏡に映る自分と目を合わせると幾分か顔つきがすっきりしているような気がする。やはり睡眠は疲れた人間の特効薬だ、とひとり勝手に納得した。顎からは拭いきれていない水滴が滴り落ち、ぶるりと身を震わせた。


 身支度をある程度終えたところで、部屋にノック音が響いた。
「枢木卿、朝食をお持ち致しました」
「ありがとう、入ってくれ」
 スザクの私室には生体認証──指紋認証と顔認証のシステムが備え付けられており、彼の部屋に直接声を届ける者は、この二つのシステムに認証されたということである。


 メイドから朝食を受け取り、思いの外腹が空いていたことに気づいた。
 ルルーシュの執務室にある応接セットほどの豪華さではないが、部屋の窓際にテーブルとソファが置かれており、食事を摂る際はそこを使用するのが習慣であった。いつものように朝食が乗ったトレイをテーブルに置き、朝食と一緒に運ばれてきた国から発行されている新聞の一面に目を移した。スザクには政治や法律など小難しい話はよく分からない。しかし、皇帝に仕える唯一の騎士としては何一つ分かりませんと言うわけにもいかず、専門用語の羅列に目が滑りそうになりながら形だけでも勉強はしていた。


 朝から予定があるときは、片手間に食べられる食事が運ばれてくる。今朝は表面をオーブンで軽く焼き目をつけたサンドイッチと、スザクの好みに合わせミルクが多めの甘い紅茶、小鉢にパイナップルが数切れ入っていた。それらを10分もかけずに食べ終え、ランスロットのスーツの上から上着を羽織り、駆け足でロイドやセシルの待つ研究室へ向かった。



「枢木スザク、ただ今参上致しました。」
「入れ」


 ランスロットの起動テストを一通り終えた頃には日が傾き始め、冬の乾いた青空は赤みの強い橙色に染まっていた。研究室での仕事が終わったあと皇帝に執務室に寄るように、とセシルを介して連絡があり、スザクはまた皇帝の元に赴いていた。
 昨夜はなかった返事が執務室の中から聞こえ扉を開いた。声の主であるルルーシュは相変わらず山積みにされた机の上で書類を見比べたりサインをしたり印を押したり、忙しなく雑務をこなしていた。
 昨夜ルルーシュが使っていたであろうスザクが贈った万年筆の姿はなかった。代わりに本体が紺色で持ち手部分に金色の模様が入った、自分が贈ったものより幾分か高価そうな万年筆を右手に持ち、そんな派手なものは君には似合わないのに、と心の中でひとりごちた。


「ランスロットの調子はどうだ」
 ルルーシュの方から声を掛けられたのが意外で、即座に返事ができなかった。いまだに昨夜のやりとりを気にしているのが自分だけみたいで歯がゆさを覚えたが、出来るだけ不自然にならないように取り繕いながら声を出した。
「いつもと変わらずコンディションは良好、課題はオールクリアでした」
「そうか」
 さもそれが当然で何でもないことのように流され、沈黙が落ちた。何となく居心地の悪さを感じて今度はスザクから口を開いた。


「ところで、御用というのは?」
「ああ、来週の会議の資料、要点だけざっとまとめたから目を通しておいてくれないか。重要機密事項も含まれているから、管理には気を付けるように」
「かしこまりました」
 ファイリングされた資料をルルーシュから手ずから受け取った。
 昨夜、自分が退出したあと夜を徹してこの作業をしていたのだろうか。ルルーシュは政治が分からないスザクでも理解できるよう、あらかじめ整理しておいた資料を自分に寄越すことがあった。頭の悪い自分のためにルルーシュの時間を割いてしまっているのか、と思うと自分の力不足を痛感せざるを得ない。


「わざわざ呼びつけてすまなかったな、もう戻ってもらっていい」
「はい」
 ルルーシュは優雅な動作で白いティーカップを口元まで運びながら、視線だけ上げてそう言った。もう用はない、というあからさまな態度でまた手元の文書に視線を落としてしまった。
 ふと、彼の散乱したデスクに目を移すと、サランラップをかけてあるサンドイッチの皿が書類の重し代わりに置かれていることに気付いた。手をつけた様子はなく、ルルーシュは涼しい顔でコーヒーを啜っている。
(確か今朝の朝食はサンドイッチだったな)


「陛下」
「……なんだ」
 煩わしそうな返事が返ってきたが、彼と目が合うことはなかった。ルルーシュはスザクを苛立たせるスイッチをすべて把握していて、わざとそう振る舞っているんだと確信した。自分をこの部屋から追い出させるために。
「朝食はお召し上がりになりましたか」
「お前は俺のドクターか?騎士の本分を忘れたのか」
「話をずらさないでください。朝から何も食べていないんでしょう、顔色も良くない」
「私生活に介入するつもりなら越権行為だぞ」
「陛下、」
 ルルーシュが自分の話をろくに聞こうとしないどころか会話もままならない。これは彼が相当疲弊している証拠だろう。いつもの冷静な彼ならありえない問答だ。それほどまでにルルーシュは精神的にも肉体的にも自分を追い詰め、身を削り続けているのだ。本調子じゃない時にどれだけ根を詰めても非効率的だぞスザク、とずいぶん昔にルルーシュ本人に指摘されたことを思い出して、余計に腹が立った。
 ああ言えばこう言う、とルルーシュに口喧嘩では一度も勝てたことがなかったことを今更思い出し途方に暮れそうになったとき、スザクの上着の胸ポケットから着信音が鳴り響いた。許可を取ろうとルルーシュのほうに視線を向けると彼とちょうど目が合って、彼は無言で顎をしゃくった。気にせず出ろ、と言われた気がした。


「はいもしもし、枢木です。……あ、いえ構いませんよ、はい。……はい分かりました。……いえいえ、それでは後で。失礼します」
 電話はセシルからだった。ランスロットの動作確認の際に、チェック項目に抜けがあったから今から研究室に戻ってきてほしいとの連絡であった。しかしタイミングが悪い。思わず舌打ちをしそうになって寸で堪えた。今日もまた皇帝を執務部屋から寝室へ引きずり出すことができなかった。





 その事態をスザクは予見し何度も通告をしたのに、防ぐことができなかった。


 あれから1週間後、ブリタニア帝国国内の新しい政策計画の草案を話し合う会議が行われ、当然帝国の最高責任者であるルルーシュ皇帝陛下の出席はもちろん、彼の護衛役としてナイトオブゼロのスザクも会議に参列することとなった。
 スザクは以前手渡された、ルルーシュがまとめてくれた会議資料に目を通しながら不審な行動を起こす輩はいないか目を光らせ、皇帝の隣に控えていた。新たな政策を打ち出す際、他の政治家や官僚、専門家と意見交換をし取り決めていくのがセオリーではあるが、ルルーシュはこれまで独裁的な方法で政治を執り行ってきた。今回の会議も形だけで、ルルーシュ自身は他の者の意見を聞く気は毛頭ない。そのような姿勢であれば当然、皇帝に対して不信感や反感を持つ者が多数現れる。とくに特権や家柄を失った貴族階級からの反感は凄まじいもので、皇帝が公に姿を現そうものならいつ暗殺されてもおかしくないような状況であり、その反乱分子を枢木スザクが率いる皇帝直属の護衛部隊やジェレミア卿が警護に当たり鎮圧してきた。
 本日もいつもどおり、つつがなくとは言い難いが無事会議を終えた。専門家たちの凶弾や指摘を、ルルーシュは持ち前の饒舌さでのらりくらりと躱し全員を黙り込ませてしまい、反対意見が出ないまま草案は彼の思惑どおり可決された。
 ルルーシュは生まれつき体力は人並み以下で、秀でた武術を習得しているわけでも、ずば抜けたナイトメアフレームの操縦技術も持ち合わせていない。しかし彼には優れた頭脳があった。いかにして相手の弱点を突き自らの外堀を固め優勢に持ち込むか、その最善の策を練ることにおいて彼の右に出る者をスザクは知らない。実際、ルルーシュは今現在、世界の三分の一の領土をせしめる大国・ブリタニア帝国の王座に就き、事実上世界を支配したと言っても過言ではない。
 対してスザクは生まれつき体力も反射神経も運動能力も、ナイトメアフレームの技術も人より大きく秀でていた。圧倒的に戦略的不利な状況下においても、スザク単騎の戦術によって戦況が覆ることも過去にあるほどだ。そう考えると自分とルルーシュの戦い方は正反対で、これほど敵に回すと恐ろしい最悪な存在はいないと断言できる。
 お互い持ち合わせていないものを補い合い、二人が結束したとき成し遂げられなかったことは一度もない。ルルーシュとなら、僕たちが力を合わせれば何でもできると確信していたし、だから差し伸べられた彼の手を取った。ルルーシュの弱みはルルーシュ本人が把握している以上に自分は知っているとも思っていた。


 白い皇帝服に身を包み、午後からの予定をメイドに伝えながらルルーシュは廊下を歩いていた。その後ろに付き従う形で、スザクは話を聞きながら脳内のスケジュール表を確認する。明日は確か、ルルーシュの愛妹であるナナリーがこちらへやって来るから食事の準備をする手筈だ。久しぶりに三人で他愛のない話に花を咲かせ、皇帝や騎士といった堅苦しい肩書から解放されるのかと思うと、廊下を歩む足取りも幾分か軽くなった気がした。


 ――皇帝陛下さま!
 ルルーシュの左隣を歩いていたメイドは悲痛な声を出し、よろめき倒れそうになる皇帝陛下の体を支えようとした。が、その前に反射的に体が動き、ふらつく彼の右側に回って細い四肢を抱きとめた。


「僕が陛下を寝室にお運びします。……悪いけど、このことは他の者に黙っていてほしい」
 メイドは騎士と皇帝の二人に視線を巡らせ、明らかに混乱した様子だった。
「熱や体の痛みは御座いませんでしょうか……。もし悪いことがあるなら、ドクターをお呼びしてお体を診て頂いたり……」
「いや、きっとこれは、そういう類のものじゃないから大丈夫です。僕が責任を持って陛下にお付き添いするから、君は持ち場に戻ってくれて構わない。後は僕に任せてください。」
「は、はい……。かしこまりました」
 ただならぬ雰囲気を感じ取ったのか、そこまで枢木卿がおっしゃるなら、と彼女は折れた。


 メイドは一礼してその場を去った。廊下の曲がり角まで向かっていったのを確認してから、スザクはルルーシュを横抱きにして運んだ。プライドの塊のような彼が、部下の騎士にお姫様抱っこされていた……なんて吹聴されたら憤死ものだろう。
 腕の中の彼は規則的に呼吸をしてはいるものの、顔色は酷いし記憶の中の彼の重さに比べて軽い気がした。心なしか髪の毛の艶もいつもに比べて悪く、唇もかさついている。公務中の彼の顔をこんな風にまじまじと至近距離で観察することはまずないので、彼の調子はスザクが思っていたより悪いのだと気づかされた。


 皇帝の寝室は宮殿の一番奥にあり、使用人も警備も普段はあまりうろつくことがない。ルルーシュは自分のプライベードゾーンが他者に踏み入れられることを好ましく思っておらず、人払いをしていた。そのため彼の寝室はこの宮殿の人間誰一人として入室を認められていないが、例外として枢木スザクだけは認めてもらっていた。寝首をかかれるようなことがあれば、ルルーシュを守ることができなければ自分は何のための騎士なのか、と猛抗議し許可をもぎ取ったのである。しかしここ最近は多忙を極めていた皇帝は殆ど寝室に帰ってきておらず、本当の意味で執務室に篭りっきりになっていたのだ。


 厳重な生体警備システムの認証を終え、長らく主の帰りを待ち続けた寝室へ足を踏み入れた。出入り口から見て右に衝立が置かれており、その奥に大きなベッドが置かれている。ルルーシュの好みに特注されたらしいそれは、程よくスプリングを効かせ彼の体を優しく受け止める。首の下に枕を敷いてやり、身動きし辛そうな豪華絢爛な衣装束を脱がせてやる。ベッドの横に備え付けられた棚の上に、皺にならないように畳んだ衣服を置いた。ついでに自分も正装を解いて、皇帝服の隣に並べて置いた。


 掛け布団を用意してやろうと踵を返したところで、不意に背後からうめき声が聞こえた。
 振り返ると、彼は右手で頭を抱えながらゆっくり上体を起こそうとするので、慌てて声をかけた。
「ルルーシュ、気が付いたんだね。廊下でどうなったか、覚えているかい」
「……っんん、ここは……」
 ルルーシュは目を瞬かせ、擦れた声で周囲を見渡した。棚の上で畳まれている皇帝服を見つけ、あ、と声を出す前にスザクが遮った。
「もう今日は、僕も君もお仕事はおしまい。」
「な、」
「さっき廊下でね、君、突然倒れたんだよ。もしかして、覚えてない?」
「……知らない」
「そっか。……それでね、僕が君をここに運んだんだ。ねえ、なんでルルーシュは倒れちゃったんだと思う?」
「さっきからなんなんだ、貴様は。説教も騎士の仕事か」
 なおも食ってかかろうとするルルーシュに、スザクは極力丁寧に優しく接しようと努めた。それがルルーシュの気に障ることも理解しながら。
 スザクは上半身を起こしたルルーシュと目を合わせて話すために、ベッドに腰かけた。


「僕、言ったよね。頼むから休んでくれ、って。しっかり寝てご飯を食べてって。」
 ルルーシュが間髪入れず反抗しようとするので、彼の細い肩を掴んでにじり寄った。
 できるだけ優しく、小さい子に言い聞かせるように、声も表情も視線も柔らかくすることを心がけた。
「きっと、会議が終わって緊張の糸がぷつんと切れて、体の力も一緒に抜け落ちちゃったんだ。」
 おでこを突き合わせて、彼の瞳を覗き込んだ。
「君が突然目の前で倒れたとき、僕はどれだけ恐ろしかったか……分かるかい?」
 虹彩に自分の目が映り込んでいるのが見えた。ルルーシュの長い睫毛が微かに震える。悪さをしたことがバレてしまって、居心地が悪そうな、子供っぽい顔をしていた。


 つい数分前までは世界を総べる王で、忠誠を誓う自分の主人であった彼に、こんな感情を抱くなんてなんだか可笑しくて、笑ってしまいそうなのを誤魔化すために、ルルーシュの唇に自らを押し付けた。ルルーシュはぱちぱちと目を瞬かせるから、そのたびにスザクの頬に長い睫毛が擦れてくすぐったかった。


 ルルーシュのこの顔に昔から弱かった。なかなか自分の非を認めようとしない彼の、ばつの悪い子供みたいな表情に。きっと彼は頭が良いから、なんで自分が叱られているのかは頭では分かっているはずだろうが、高すぎるプライドが邪魔をして素直に受け入れることができないのだろう。
 彼の拍子抜けした顔を見て、スザクも毒気を抜かれてしまった。きっとルルーシュはこっぴどく目の前の彼に叱られ、くどくど説教を聞かされると予測し身構えていたのだろう。想定外の事態に対して彼が弱いのも、スザクはとっくにお見通しだった。


 でも、これで「もう許してあげるよ、それじゃあバイバイ」と言うつもりは毛頭なかった。何度言っても聞かないのだ、ルルーシュにはどれだけ自分が心配しているのか分からせなきゃいけない。でないとまた、疲労による卒倒を繰り返されては困る。

 今日こそは、きっちり反省してもらおう。