疲れた体の癒し方
「陛下、夜分遅くに失礼致します。枢木スザク、只今任務から帰還致しました。任務のご報告に参上致しました。」
重厚な木製の扉にノックをし、室内に居る人物に入室許可を得るべく、枢木スザクは恭しく口上を述べた。
1.入室する際のノックは2回
2.扉の前で自分の名を名乗ること
3.入室理由を述べること
皇帝が敷いた、入室許可を得る際のルールである。
この建物――宮殿自体へは国からの許可を得た皇帝直属の部下(その部下と言っても大半はギアスで操られた兵士やメイドである)にしか入殿が許されておらず厳重な警備体制が敷かれ、皇帝の執務室に至ってはその選りすぐりの部下の中から数名しか入室が許可されていない。
皇帝自身が定めた入室許可の判断基準は、扉の向こうの人物の肉声であった。宮殿を設計する際、生体認知システムや認証機械を何重にも用いたほうが良いという多数の意見が出たが皇帝は無視し、敢えて皇帝自身が肉声を聞き判断するというアナログな手法が取られている。執務室には日に何度も、任務の報告や情報伝達、書類の受け渡しから食事や日用品の運搬などで人が出入りする。そのため、いちいち厳重な警備システムを敷いては時間がかかり煩わしいし、警備システムをハッキングされる可能性も完全にないとは言い切れない。というのが皇帝の主張であった。その主張の内容自体に関して賛同できる部分はある。が、だからといって、扉の錠は常に内側から開けっ放しだし、扉の素材も分厚めの木であるというだけで、力づくなら斧か何かで破壊できるのではないかと思わせる。一度自分の懐に入れた人間に対しては甘いのか、はたまたそのような謀反を起こそうものならどれだけ信頼している部下であろうと躊躇せず始末するという皇帝の非情な性格を反映しているのか、自分には推し量ることができない。
執務室の廊下に面する扉の向かいには大きなガラス窓が埋め込まれており、手入れの行き届いた人工林を眺望することができる。昼間は木々の隙間から差し込む日光が窓ガラスから差し込み、床に不揃いな光と影を作り出す。今はあと1時間もせずうちに日付を跨ぐであろう時刻だったため、窓の向こうは宵闇に包まれていた。生命の気配も、温度も、月の光も星の瞬きも、一切感じさせない凍てつくような闇夜だったように思う。気のせいかもしれなかったが、ちょうど季節は霜月の下旬であった。
「陛下。枢木スザク、ただ今帰還致しました。」
しんと静まり返った廊下に自分の声だけが間抜けに響く。
謙譲語・尊敬語・丁寧語の使い分けは幼い頃にみっちりと仕込まれているし、軍隊に所属してからは使いこなすことが習慣になっていたから、敬語は慣れているつもりだったのに。きっと、足元に敷かれた高価な絨毯に肉声の反響を吸収されるから、そこそこ大きな声を出しても廊下には大して響かないせいだ。スザクはそう思い込むことにした。
いつもなら許可の声が室内の主から下りるはずなのに、物音ひとつも聞こえてこない。眉頭に皺が寄るのを感じた。再三ノックして、これが最終通告だと言わんばかりに同じ口上を述べた。微かに燻る苛立ちを自覚しながら、許可の声を聞いていない無礼を承知の上で、陛下失礼致します、と述べて扉を開いた。
一体なんのための入室許可システムだ。なにが「俺が声を聞いて判断する」だ。
見た目だけは重厚そうな開き戸を自分の体のスペースより寸分広めに開けて、広々とした執務室内を見渡す。
執務室の扉を開くと、向かって正面に白いローテーブルと皮張りのソファが応接間のように配置されている。しかし、皇帝はそのスペースを仕事の場には用いていない。妹やスザクを部屋に招き、茶を楽しむ際に主に利用されることが殆どであったため客間のような役割を果たしていた。扉の位置からそのまま目線を上げると、細かな装飾を施した銀枠に大きな窓ガラスが嵌め込まれている。窓の向こうには庭師が丹念に手入れした、小作りではあるが端正な庭が眺望できる。庭には四季折々の花が植えられており、季節によって景観が大きく変わる。また、この小さな庭園に樹木や建物の屋根などの障害物が存在しない。昼間はさんさんと太陽の日差しが降り注ぐため、この庭が見渡せる窓際は皇帝の愛妹のお気に入りのスペースであった。(皇帝の愛妹曰く、「室内で日向ぼっこのような気分が味わえるから。」)しかし、普段は眩しすぎると皇帝が苦言を呈したため、妹が居ない間はレースのカーテンで遮光されていた。
執務室の出入り口からちょうど対角線上の部屋の隅を囲むように、2メートル近い本棚が並べられ、その本棚に囲われるように机と椅子が置かれている。その椅子からの位置だと、ちょうど窓の外を眺める愛妹の顔が覗けるのだが、偶然なのか作為的なのかスザクはまだ本人に尋ねられていない。
その机と椅子、そして背後を二方向から囲むように並べている本棚、この場所が皇帝の書類仕事や雑務を行う定位置である。机には3つか4つの紙束が建っていることが常なので、皇帝は本棚と書類によって四方八方囲まれているように思える。
「陛下」
開き戸を両手でしっかり閉じたことを確認し、皇帝が座する位置に歩み寄る。廊下の絨毯とは比べ物にならないほど高価な執務室の絨毯は、スザクの足音の音さえ立たせなかった。
皇帝陛下の表情が伺える距離になったところで、彼の足元に何かが落ちていることに気付いた。拾い上げると、それは新品同然の万年筆であった。なぜそれが新品だとスザクは判断したのかというと、つい先日の遠征先で自分が購入し皇帝に贈った品であったからだ。持ち手もキャップも黒で、持ち手の上部に金の控えめな装飾が拵えてあるだけの簡素なデザインだ。書類の多くはデジタルで入力した文書を印刷したり出力を行うが、重要書類のサインや電話での走り書きのメモなどは手書きで行っている。どうせ贈るなら実用性の高い品が良いと思っていたことと、そろそろ新しい万年筆が欲しいと彼がぼやいていたことを思い出し、汎用的な、言い換えればどこにでもあるような万年筆を何の気なしにプレゼントした。別に記念日でもなんでもない、経費で購入できるような日用品であった。
万年筆が落ちていた足元とは反対側にある屑籠から不要そうな紙を拾い、筆を走らせてみたが買ったばかりであるというのにインクは擦れる。皇帝の一番手元にある書類には「Lelouch vi Britannia」という筆記体のサインが濃いインクで記されている。
右手は膝の上に置かれているが指の形が不自然だった、まるで直前まで筆を握っていたかのように。
首を折り曲げるように俯き、今は横顔が黒髪で覆われていて顔がまったく見えない彼――皇帝の顔を、スザクはなんの躊躇いもなく覗き込んだ。呼吸音はしているが肺が上下する動きが一切ないため、傍から見れば死んでいるようで不気味であった。長い睫毛が目の下に影を作り隈のようにも見え、いわゆる不健康なワーカーホリックを体現しているようであった。
透き通るような暖かみのない白い頬に触れると、ひんやりと冷たかった。そこでスザクは初めて、この室内の暖房のスイッチが切れていることに気付き、また眉間の皺を深くした。
スザクは自らが羽織っていた紺色の外套を、音も立てず健やかに居眠りしている皇帝の肩にそっと掛け、部屋の扉の真横にある空調スイッチの電源を入れた。ピピ、と電子音が鳴り部屋の天井付近から暖かい空気が即座に送られ始めた。
直後、自分が発したものではない布ずれ音が聞こえた。眠りの皇帝陛下が、空調の機動音に反応したのか、ようやくお目覚めのようだ。身じろぎしたせいで、せっかく掛けた外套が床にずり落ちた。重く上等な布で出来ているらしいそれは、完全に彼の肩からは落ちず右肩に留まっている。
スザクは大股で皇帝のもとへ再び歩み寄った。言いたいことは山ほどある。
「あの陛下、」
「任務ご苦労だった。報告を頼む」
足元に落ちた外套を拾い上げ、彼は持ち主のスザクにぶっきらぼうに差し出した。
スザクが言いかけた言葉は遮られ、差し出された外套を受け取ると、彼が振った事務会話の続きを催促されているような気がして、下唇を食んだ。
「……内偵任務は無事成功しました。陛下が目星を付けていた例の地区に反乱分子の本拠地があるかと。幹部のメンバーの情報は現在収集中です。情報が集まり確定次第、報告申し上げます」
「そうか、分かった。その件についてはスザク、お前に任せるぞ」
「イエス、ユアマジェスティ」
「明日も朝からランスロットの起動テストやメンテナンスが控えているんだろう、もう部屋に戻って休め」
「ルル……陛下も、そろそろ休まれてはいかがですか」
皇帝陛下――ルルーシュの目が剣呑な視線でスザクを射抜いた。
スザクの提案を聞いているのかいないのか、無言で緩慢な動作で席に座り直したルルーシュは、右肘を机に付き手の甲に顎を乗せた。スザクの言うことに聞く耳を持たないという意思を態度で全面に出していた。
「来週の政策会議資料に目を通したら休むつもりだが」
先ほどの提案の返答にしては随分と間があったように感じる。今晩はかろうじて会話が“通じる”ようらしい。
「今すぐ休んでくれないか」
「貴様、なんだその口の利き方は」
スザクは皇帝陛下の御前であることはお構いなく、単刀直入に申し入れた。ルルーシュは肘を付いた姿勢から、大仰な動作で両腕を胸の前で組んだ。物理的な位置は立っているスザクより座っているルルーシュのほうが下なのに、それを感じさせないほどねめつける鋭い視線に迫力があった。今すぐにでも人を殺めそうな、否、実際にルルーシュは旧体制の国を作り直すという名目で多くの人々を直接的にも間接的にも殺してきたが、そんな殺人犯のような目つきでスザクを射抜いた。しかしスザクはそんな動作や表情なんぞで寸分たりとも怯んだりはしない。
「……陛下、がご多忙なことは承知の上です。ですが、暖房も付けていない部屋で、しかも警備の手薄な空間で仮眠となると、やはり好ましくない、かと。その仮眠も疲労からくるもの、だと自分は思っています。職務を全うするにもまず体が健康でないと、」
「俺は一日でも早くこの帝国の仕組みを、世界を、優しく平和なものにしたい。そのために今は、少し無理をしてでも頑張らないといけない時期なんだ。お前も分かっているだろう」
「それは、でも……」
「反乱分子は放っておけばあっという間に大規模のものとなり、数も増える。若い芽は早めに摘んでおかねばならない。なに、政権が安定すればもう少しゆとりもできるさ。それまでの辛抱だ」
目を伏せて拳を握り込む。スザク自身もじゅうぶん分かっている。
ルルーシュの長年の夢であった、妹ナナリーに「優しい世界」を見せてやること。それがもう、すぐそこまで実現しようとしている。これまでの封建的な制度を自らの手で打ち壊し、平等で優しい新しい国、世界を作り上げる。言葉にすれば簡単で陳腐な気すらするが、実際問題はままならないことだらけで、理想とは遠いものだからこそ美しく見えるのだ。
国は確かに以前の旧体制で虐げられていた人種は解放され、支配階級は崩壊し、本当に才能や技術のある者が評価され、弱いものが苛められることがない世界へと、ほんの少しずつ生まれ変わりつつある。しかし自らの人生を捧げ理想の世界を築き上げた彼自身は、その世界から弾かれているように感じた。真の功労者とも言える彼だけが、自身が忌み憎んだ仕組みに皮肉にも囚われ続け報われていないかのように。
そんなルルーシュを傍で支え続けてきた自分は、果たして今の彼を憐れんでいるのか同情しているのか、推し量れずにいた。ただ言えることは、スザクはルルーシュの唯一の騎士である、ということだ。つまり彼の剣であり盾である。皇族、王という肩書に囚われる彼に自分を道連れにしてもらうか、彼を縛り付ける因習や圧力から救い出し優しい世界を彼と共有するか。どちらかを選ぶとするなら、当然後者を選ぶだろう。ルルーシュと共に明日を迎えたいという夢の実現のために、スザクは彼の剣となり盾となることを決意したのだから。たとえそれがスザクのエゴだとしても、スザクにとってルルーシュは自分に生きることを認めてくれた唯一の人間だったから、今度は自分がルルーシュを救いたいという思いを、密かに募らせているのであった。
「それに、俺は……以前言っただろう、エアコンの暖房があまり好きじゃない」
思考に耽っていたスザクに、ルルーシュは語り掛ける。
「空調の風に当たると乾燥して喉が痛むし、快適な暖かさより少し肌寒いくらいが仕事に集中しやすいんだよ」
以前にもこの話を聞かされた覚えがある。暖房のぬるい暖かさよりも、日本の蒸し暑いじっとりとした暑さのほうが好き、だとも言っていたような。
「さあ、もうお喋りはこのくらいにしておこう。部屋に帰れ、ナイトオブゼロ」
ああ、もうこれだと、ルルーシュに休んでくれと説得しに来たつもりだったのに自分が説得されている、何度目になるか分からない会話の流れだ。
「夜分遅くに失礼致しました。陛下、よい夢を」
「ああ」
廊下に立って皇帝に向かって一礼し、開き戸を丁寧に閉じた。
自室に戻るため扉に背を向けると、真っ暗の景色を見せる窓ガラスに目を奪われた。
正確に表現するなら、窓ガラスに映る自分の顔と、目が合った。あまりに闇夜が深いものだから、ガラスがモノクロの鏡のようだ。
鏡のような窓に触れると、外の気温がガラス越しに伝わった。指先がじんわり冷えて、ガラスが自分の呼気で白く曇る。
ガラスに映る自分の顔に目が離せずに居た。最後に自分の顔を鏡で見たのはいつだったのか定かでないが、その時より幾分かやつれ、同年代の男性より大きい特徴的な瞳には生気がないように感じられた。自分はこんな表情で、死人のような顔色で、ルルーシュに休めと提言したのか。なるほど、それで自分はルルーシュにあっさり突っぱねられ、お前が休めと言われ今日も部屋から追い出されてしまったのか。
納得のいかない現状に適当な理由を出して、折り合いをつけたふりをした。そうやって自分の思い通りにいかない事象に対して気持ちだけでも上手く対処できるくらいには、スザクも大人になったつもりだった。