夭折した君へ 第七章

 階段を踏み込む足は何度も踏み外して、雨水が濁流のように流れ落ちる段差に何度も縺れて、それでも強い力に引かれるように体は前を向き続けた。背後から誰かが自分の名前を叫んでいるような気がして振り返ろうとしたが、体は言うことを聞かなくて、ただひたすら頂上へ上ることしかできなかった。否、それは自分の行動を正当化するための体の良い言い訳だった。本当は最初から自分の名前を呼ぶ人物のことも、それが誰かを知っていて聞こえないフリをしていたことも、全部気がついていた。
 自分は惨めな奴だと思う。父親に囚われ、あの家に囚われ、今度は遺書なんかに自分を重ねて囚われて、挙句ルルーシュにはひどいことを言った。本当に失いたくないものと引き換えに、いらないものばかり背負い続ける自分が哀れでみっともなくて仕方がない。
 ルルーシュは地に足をきちんと着けて、やるべきことを見据えて、守りたいものを守るために足掻き続けて、自分とは大違いだと思う。一方で自分は身勝手で人に迷惑ばかりかけて、突然軍人になりたいと言い出して家を飛び出した果報者だ。その理由も曖昧で宙ぶらりんで、行き過ぎた正義感の果てのようなものだ。
 けれど異国であった女性だけは、そんな自分を認めてくれて、許してくれた。迷い続けようと動機が不純だろうと貴方の行いは悪いものではないから、まずは自分をもっと好きになりなさいと言ってくれた。
 だからスザクはまず自分の過去と向き合おうと、まもなく取り壊される生家へルルーシュを誘って訪れた。どうしても一人でこの状況を見るには堪えない自分が居たのは事実だが、それを自責するのはもうやめようと決めた。

 なのに、火の手が上がる神社を見た瞬間、誘われるようにスザクは燃え盛る社を目指して走り抜けた。
 遺書に出てくる王と騎士はルルーシュとスザクの前世どころか、あれはまさしく二人と全く同じ、似て非なる存在なのだ。しかしそれを立証できる要素はとくにない。スザクの直感と、そういう思い込みがすべての原因なのだ。

 そう頭では分かっているにも関わらず、火の手が上がる参道の奥を見咎めた瞬間、スザクは弾かれるようにそこへ駆け寄った。
 社は全て木造建築だ。だから雨水や落雷による火事にはひどく弱い。屋根へ落ちた稲光は炎を上げ、拝殿内部の天井へ既に火が燃え移っていた。まだ大きな柱には火がないことだけが幸いで、社全体を支える大黒柱が焼けてしまうと倒壊は免れないだろう。そうなると拝殿ごとスザクは焼かれて共倒れとなる。
 雨水に濡れた畳を踏みしめて、祭壇の前へ駆けつけた。この棚の中に遺書が収納されているのはもうとっくに覚えている。天井からはらはらと散る火の粉が服の裾や髪の毛を炙り、頬を焼いた。室内に充満する煙は煤臭く、少し吸い込むだけでひどく息がし辛い。
 棚から遺書を抱えたスザクは立ち上がろうとして、直後ひどい地震によろめいて畳の上に突っ伏した。見上げるとそれは地震ではなく、拝殿の入り口を支えていた柱のいくつかが焼け落ちた衝撃であった。バランスを崩した社は大きく傾き、外から吹き抜ける強風が炎を煽って、あちこちの壁や畳に飛び火した。
 このままでは本当に死んでしまうと直感し、煙を吸わぬよう地面に這いつくばるようにしてその場から移動を試みた。元来た経路はとっくに塞がれているものだから、この大火事と元々の経年劣化で脆くなった薄壁を蹴破り、なんとか拝殿から脱した。
 体のあちこちが痛くて熱く、もうどこを怪我して火傷したのかも見分けがつかない。外の空気を吸うと気道が焼けるように熱く、痛みが走った。降りしきる冷たい雨が体の熱さを冷ましてくれるようで、少し心地が良い。

 火元である拝殿から遠ざかるようにして後退すると、その奥に見慣れないもうひとつの社があった。柵に囲まれたそれは扉に南京錠が掛かっているが、肝心の鍵は開けられているように見えた。
 こんな建物があっただろうかと首を撚るが、記憶にはない。
 参道を跨ぐようにして灯篭と狛犬があり、絵馬掛けやがある。そして参道を突き進んだ正面に賽銭箱と、神社で一番立派な拝殿が構えてある。スザクの知識にある神社の間取り図はそれだけで、拝殿の裏に小さな社があったことは知らない。

 これ以上遺書が雨に濡れぬよう、スザクは小さな木の下に移動して小休憩を取った。ぜえぜえと肺が破れるような呼吸音はあまり良くない兆候だ。できるだけ火の手と煙から距離を取るようにして、その場に蹲った。
 石階段の下でルルーシュの静止を振り切り、ここまで来てしまった。彼の悲痛な叫び声は雨の中でもよく聞こえて、何度も何度も背中を突き刺された。きっと心配もされてるし怒っていたし、謝ってもそもそも聞き入れられないだろう。ヤケクソになった枢木スザクは大火事に飛び込んで死んだ、と思われるほうがよっぽどマシかもしれない。
 そんなことを延々と考え込んでいたとき、胸に抱えていた遺書の頁の端が風に靡いて、はらはらと捲れた。風の栞のように思えたそれをなんとなく捲ると、その文章はまだスザクが目を通していない頁のものであった。


『━月━日
天気、雨
昨晩から轟々と降り続く雨の止む気配はあらず、窓を叩き割る勢いの雨脚は弱まることを知らぬらしいが、そんな大荒れの夜更けに己は不思議な幻想を、夢をみた。星も雲も月も見えぬ暗闇の夜の帳で、底の見えぬ不気味な沼のような、もしくはどこまでも透き通った底の見えぬ池が其処にあつたから、興味本位で其処を覗き込んでみると鏡のやうに水面は己の顔をぼんやりと映すのみで、やはり其処には星も雲も月も何も見当たらぬ。暫くそうして見詰めているうちに、きらゝと光る何かが水面に映り込むから何事かと思い上空を見上げると無数の星が光り輝き己を見下ろしているので、先ほどは一つも見当たらなかつたはずなのに何時の間にやら無数の星々が輝いているのかと驚嘆した。唖然としながら空に手を伸ばせば不思議なことに星に手が届いてしまい、其れを掴むこともできてしまつたので、まるでお伽噺かと面白く思い、無数に有るうちの幾つかを手に取り眺めたが、其れはどれも眩く美しく、しかし熱くも冷たくもあらず。ちかゝと光り輝く其れは金平糖のやうで愉快に感じて思わず口元へ運べば、何時の間に隣に居た皇帝に腕を捕まれ、それを食らふのは止めておけと仰るから、これもまた不思議なことだ。不躾なのは承知の上、何故食ふてはならぬのだと問へば、星を食へばお前は死ぬからだと仰る。いよゝ皇帝の言ふ意味が分からぬまま星を食ふことを諦めれば朝が来ており、あの暗闇と星と皇帝は夢であつたと漸く此処で己は理解したのだが、もしあの星を食らつていれば己は死んでいたのかと思ふとぞつとするので、皇帝には後に己から礼を述べたが、皇帝は己が頭がおかしくなつたとお思いになるだろうか。』


 星を食べようとする夢なら現に自分も見ていたし、そこにルルーシュが出てきて引き止められる状況も全く同じだ。あの夢にいたルルーシュは星を食べてはいけない理由について言及しなかったが、どうやらあれは食べた人間が死ぬから、だったらしい。身の周りで起こる現象から過去、そしていつの日にかみた夢の内容まで合致するとはいよいよ恐ろしくなってくる。
 そんな言い知れぬ不気味さや恐怖感に煽られていると、上空で漂う暗雲が再び音を轟かせ始めた。またこの付近で落ちて、今度こそ感電でもすればひとたまりもない。

 空模様を警戒していると再び目の前を稲光が遮断し、視界が真っ白に染まる。同時にドン! と大きな爆発音と地鳴りが響いて、思わず両腕で顔を覆った。
 これはあまり良くない予感がする。
 恐る恐る腕を退けて目の前の状況を確認すると、スザクが先ほど見つけた小さな社の屋根が焼け落ち、大きな炎の柱を上げて燃え盛っていた。風向きが変わるとスザクのほうに熱風が吹き付けられ、全身が炙られるように痛い。飛び散る火の粉と火花はあたりの木々にも燃え移り、どこに居ようとどのみち危険だと暗に知らせていた。
 先ほどの衝撃で僅かに開いた社の扉の隙間から、その内部が垣間見えた。床には見慣れない刀か剣のような細長いものと、折り畳まれた紙があった。
 それを見咎めた瞬間、濡れた遺書を砂利の上に置いたまま、スザクは燃え盛る社、本殿へと近寄った。僅かに開かれた扉から屋根、壁も全て木造であり炎がよく燃える燃料であることは確かだ。そんなことも気に留めず、何かに引き寄せられるようにスザクは禁断の扉に手を掛けた。

 この社の本殿は密閉性が高く、頑丈に作られている。神社の御神体を安置させる、いわば神社の要の場所であるからだ。だから扉や窓を開けない限り空気が入れ替わることなく、新鮮な空気はなかなか入ってこない。
 屋根が焼けたところで元来頑丈な作りをしているこの本殿は開放的な拝殿と比べ、天井や壁に炎が移るまで多少の時間を要する。つまりそれだけ火を消し止める時間を稼ぐことができるという寸法だ。
 しかしこの理論はあくまで本殿の扉や窓が開けられず、内部が密閉状態であるというのが前提だ。炎は新鮮な空気、酸素を送ればより盛んに燃えるものである。つまり本殿の扉が開かれ酸素が取り入れられると、たちまち炎が勢いを増し、内部に居る人間へと襲いかかるのだ。

 その扉を開け放った瞬間、強烈な熱風がスザクの全身を包んだ。そうしてまたたく間に天井から壁へと伝った炎は、本殿の柱をすべからく焼き尽くそうとした。
 無数の火の粉と視界を奪う煙の中で見つけた一本の剣は、恐らく西洋のものだ。黄金に輝く持ち手と、鞘には派手な装飾がいくつもあり、とくに持ち手付近の鍔は特徴的な形をしていた。鞘から剣を抜くと静かで凛とした、幅の広い刀身が姿を表し、その先端にはよく見ると血痕のようなものが付着している。実際に戦争か処刑で使用されたのだろうかは判断しかねるが、少なくともこの時のスザクは、その剣を見てひどく悲しい気持ちになった。
 剣を鞘に戻すと同時に、ドン、と派手な爆発音と大きな揺れがスザクを襲った。屋根が崩れ落ちたと同時に、社の扉を塞ぐようにして焼けた瓦と屋根の残骸が降り落ちたのだ。まるで退路を塞ぐように立ち上る炎は、気づけば壁どころか床にまで移っていた。
 呆然としながら足元にあった数枚の紙を拾い上げると、表には何かの文字が書かれてあった。だが既に酸素の薄いこの空気に長く居すぎたのか、視界は白み、頭は朦朧としてきた。

 遺書を書き続けていた騎士は始終、自分のこれまでの行いを責め続け、罪と罰を欲しがっていた。罪滅ぼしのためなら命を投げ出すことも構わないと、むしろ死ぬことこそが本望であり、そのために軍人になることを志望したのだと語っていた。スザクも自分の行動の結果や過去に囚われ、コンプレックスを抱いている自覚はある。しかしその果てに死を望み、罰せられたいと思ったことはついぞなかった。騎士のように皇帝を、ルルーシュを殺したいほど憎んだことだってないし、そもそもルルーシュに仕える気なんてさらさらない。
 今この瞬間だってそうだ。炎に囲まれた空間の中で呆然としながらも漠然と、ただ生きたいと、スザクは願っていた。

「何やってるんだ! 早く逃げるぞ!」

 轟々と炎が燃え盛り壁や柱が崩れる音、爆発音、雨の音、風の音、それらの隙間を縫うように、男の叫び声がした。その一閃はまるで希望だった。

 掴まれた腕に引かれるまま息を止めると、そこは既に社の外だった。振り返ると社の窓に不自然な穴があり、恐らくこの腕を引く男がそれを蹴ったか物をぶつけたかで、窓の柵を破ったのだろう。
 ひゅうひゅうと肺が破れたような呼吸を繰り返しながら拝殿の脇を潜り、足が崩れそうになったところで肩を掴まれて支えられた。彼はこんなにも力があったのだろうかと疑問に思ったが、これが火事場の馬鹿力というやつかと思い至り、なぜだか可笑しい気分になった。
 二人三脚のように体を支えられながら参道まで辿り着くと、スザクは満身創痍になった体を雨水に晒して力が抜けた。もうここまで来れば火の手も追ってこないし煙も吸わない、火の粉も飛んでこない。そう安心しきって思わず脱力してしまった。

「スザク、歯を食いしばれ」

 尻餅をつくようにへたり込んだ自分の胸ぐらを乱暴に掴み上げた彼は、泣き出しそうな顔をしながら思い切り顔面を吹き飛ばした。
 一瞬意識が白んで首が外れたかと思ったが、殴られた衝撃で体が吹き飛んで全身をぶつけたのと、右の頬が燃えるように熱いのと、それから口内と唇を盛大に切っただけだ。首が飛ばされるよりかは命があるだけマシである。
 ただでさえ煙を吸い込んで息がしづらいのと、体のあちこちを打撲して火傷もしていること、肺が焼けるように苦しいのに、それに追い打ちを掛けるようなルルーシュの渾身の一撃は、スザクを再起不能にさせるには余裕だった。

 仰向けになって体を縮こめたまま、とうとう指の一本も動かす体力のなくなった自分を、彼は先ほどの横暴さとは程遠い優しい手つきで抱え起こした。彼の腕の中でぐったりしていると再び、ドン、ドン、と立て続けに何かが爆発するような音と崩れ落ちる音が背後から聞こえて、気が遠くなる。もう少しあの場に長く居てたら、今度こそ焼死体になっていた。
 ルルーシュは夢の中でスザクを助けただけでなく、こうして現実でもスザクの命を救い出した。あるいはあの夢が、この現実を暗喩していたのかもしれない。今となっては分からないが、ひとつ言えることがあるとすれば、この場でルルーシュに何を言われどんな暴言を吐かれようと、それに反論する資格はスザクにはない。

「俺の声が聞こえるか」
 彼が耳元で優しく尋ねた。まだ鼓膜や三半規管はやられていないようで、彼の声はよく聞こえた。しかしその問いに答えるための喉はひりついて、呼吸するだけでも既に苦しい。肯定の意を示すため、ゆっくりと首肯だけした。
「俺の目を見て、俺の言うことを聞け」
 平素のルルーシュは冷静で計算高い男ではあるが、時折どこか横暴で力づくな面もあった。今したが彼が発した言うことを聞け、なんていう発言だって、普通は友人に対して使う文言とは思えないほど暴力的だ。しかも声が出せない相手だと彼は分かっていながら、自分に否定権がないのを承知の上でそんなことを言い出すのだ。その大胆不敵さは驚きや呆れを通り越して、いっそ感嘆するほどだ。

 ぱちぱちと木が燃える音が頭の後ろから聞こえる。ルルーシュと過ごしたひと夏の、思い出の地が消し炭となってゆく。
「ここにいるだろう」
 スザクの心中を察したのか偶然なのかは知りもしないが、ルルーシュは唐突にそう告げた。
 過去を何度も振り返り自責し続ける自分に対する、彼なりの同情と慰めだったのかもしれない。
「あの遺書に出てくる皇帝と騎士は俺たちに瓜二つで、俺たちと同じ人生を歩んでる。人間関係も行動も言葉も性格も、似て非なる存在どころか同一人物みたいだ」
 ルルーシュの、腕や胸元を彷徨わせていた視線はようやく上げられ、そこで初めて彼の顔を見た。怒っていると思っていたら、優しく穏やかな表情を浮かべていたから意外だった。
「俺がブリタニアから日本へ渡ったのも、ナナリーを守りたいのも、アッシュフォードへ入学したのも、生徒会へ入ったのも、俺が自分で決めたんだ。誰かにそう言われたとか、自分の人生を決められたことは一度もない」
 ルルーシュのその言葉は想像どおりすぎて、むしろ安心した。お前ならそう言うと思ったよ、と言ってやりたいが、切れた唇からは血が垂れるし空気を入れた喉は痛むばかりで、一言も声を発せない。
「それに、俺たちはなるべくして友達になったんじゃない。俺がお前を選んだんだよ、スザク」
 ルルーシュのそんな言葉に、思わず目を瞬かせた。意外そうな顔を浮かべているであろう自分の顔を知っているくせに、彼は知らないふりをしてその先を続けた。
「それでお前も俺を選んだんだ。お前が俺を選んだから、今がある」
 がらんがらんと崩れ落ちる木の音も、先ほどより幾分が雨脚の弱まった雨音も、すべて彼の声にかき消されてしまって周囲の喧騒は何も聞こえない。

 ルルーシュの両手がスザクの両頬を包み、上を向かせた。
 いつもは夜明け前のような静かな紫が、今はスザクの背後で燃えている社を反射し、その惨状を映していた。燃え上がる火柱が風に煽られてゆらゆらと揺れ、蝋燭の炎のようだ。
「もう二度と、こんなことはするな」
 赤い炎を映した紫の瞳は燃えていた。
「俺はここにいる」
 ルルーシュの目が赤い。
 真っ赤に染まっている。

 赤い双眸が、スザクを射抜いた。俺の言うことに従えと言わんばかりに。

 声を発せないスザクはそれに同意するように、ルルーシュの体を引き寄せた。炎より熱い血潮が体中を巡り、土砂降りの雨よりうるさい鼓動が響いてくる。背中を撫で擦る手のひらがあんまりにも優しいものだから、スザクは声も出さずに泣いた。雨上がりの乾いた土を再び濡らすように、頬に温かい涙が何度も伝った。ルルーシュはそれに気付かないふりをして、しばらくそうして小刻みに震える背中を撫で続けていた。



 すっごく心配したんだから! と涙目で訴え続けるシャーリーを、カレンはまあまあと宥めていた。その隣で課題のプリントやワークを説明してくれるニーナと、花瓶に入った花を入れ替える際に水を零して大騒ぎするリヴァル、そんなてんやわんやを遠目で可笑しそうに見守るミレイはいつもどおりだ。
「あんたね、慣れないことするからそうなるのよ!」
「間違えて菊の花を買おうとしてたシャーリーにだけは言われたくないって!」
 シャーリーとリヴァルの口論に苦笑したスザクは、いつもと変わらない生徒会の様子に安堵した。
「ちょっと二人共、ここ病院なんだから大人しくしなさいよ」
「カレンが一番声でけえっての」
 売り言葉に買い言葉の応酬はしばらく長引きそうだ。

 あの火災のあと、そこそこ重症だったスザクはすぐさま病院に運ばれあらゆる処置を受けた。全身に渡る打撲傷や火傷、一酸化炭素中毒による障害や呼吸器への影響も懸念され一時は大騒ぎとなった。が、生まれつきのタフさと体力もあってか、とくに後遺症もみられなかった。もう日常生活に支障はないほど回復しているが、数日検査入院が続くらしい。軍の仕事ももちろん休まされているため、復帰すれば多大なる心配をかけさせたことを上司に叱られるだろう。
 何と言っても、今回の火事にスザクが巻き込まれたことの表向きの理由が必要となる。スザク自身あの場でどうしてあんな突飛な行動に出てしまったのか不思議だが、恐らくあの遺書が燃えてなくなることへの不安や恐怖が先立ったのだろう。それくらいあの時のスザクは遺書に囚われていたと言っても過言ではない。
 だがそれらの経緯を知らない人間に説明する際、どうすればよいのかと悩んだ。そうして悩み抜き、ルルーシュとも相談した結果がこれである。

「まさか猫を助けるために燃えた神社に飛び込むなんてねえ」
「自分もあの時は無我夢中だったというか……」
 ちなみにこの下らない、取ってつけたような言い訳はルルーシュの発案である。
 そんな表向きの理由のせいで、余計に人から心配をされてしまっている感は否めない。しかしルルーシュ曰く、それくらいのことをお前はしでかしたんだと釘を刺されてしまえば立つ瀬もない。

 賑やかな病室に控えめなノック音が響き、どうぞとスザクが声をかけると少し遅れて彼が見舞いにやってきた。
「主役は遅れてやってくる、ってやつかー?」
 リヴァルがルルーシュの肩を掴んで腕を掛けた。その反応を見るに、誰よりもルルーシュがここへやってくるのを期待していたのは彼であった、というのは明らかだ。
「いや、それを言うならむしろ主人公は俺じゃないだろう」
 何かを企てるような、怪しい笑みを湛えたルルーシュはリヴァルに微笑んだ。
 彼の意味深な発言の真意を理解しているのは、この場でスザクを除いた全員らしい。自分が入院している間に一体なにが起こったんだろうと少し不安になりながら、どうかしたの、とそれとなく尋ねた。
「まあまあ、患者さんは落ち着いてベッドに寝てなよ」
 一同はスザクに隠し事をするように、示し合わして微笑んだ。
「きっと驚くと思うよ、すっごく!」
 シャーリーが明るい声でそう約束してくれた。誰が宣言するよりも信用ができそうな彼女の言葉に、思わずこの先に起こるであろう何かを期待せざるを得ない。

「入っておいで」
 ルルーシュが病室の扉を僅かに開き、廊下へ向かってそう声を掛けるとはい、と聞き慣れた少女の声が聞こえた。
「お久しぶりです、スザクさん」
 アッシュフォード学園中等部のスカートを身に纏った彼女、ナナリーは病室へ入って、久方ぶりに見るスザクの顔を見た。スカートをひらりと揺らす彼女の足元にはいつもの車椅子はあらず、紺のハイソックスに包まれた華奢な脚は意のままに動いている。
 ナナリーは自分の足で歩いて、スザクのベッドの傍まで歩み寄ったのだ。その足取りは覚束ないものではなく、誰の手も借りずきちんと地に足を着けて歩行している。
「ナナリー、足は……」
「ずっとリハビリを続けていて、やっと回復してきたんです。長い距離はまだ歩けないけど、でも、すぐに良くなるってお医者さんも」
 煤色の長い髪を揺らして、彼女は微笑んだ。
「うわ、スザクの奴、もしかして泣いてる?」
「だ、だって、ナナリーが、足、治って……」
「ちょっとちょっと、辛気臭い雰囲気にしないでよ?」
「スザクさんは優しいですもんね」
 ベッドの掛け布団に置かれたままの右手を掬って、彼女はそう付け足した。
 どこかで聞いたことのあるセリフにはっとしながら、スザクは濡れた頬と目元を乱雑に拭った。ブリタニアへ赴いた際に出会った異国の女性、ユフィにも優しい人だと言われたことがある。どこか重なる彼女らの影に、たとえ血は繋がらずとも同じ家族なんだと再認識させられる。

 一同は暫くの間そうして病室に留まったあと、じゃあまた退院後にと言い残して出て行った。退院祝いにまたパーティーを開かなきゃね、と言うミレイはやはりいつだって気前の良い女性だ。
 ルルーシュにはちょっと話したいことがあるからこのあと少し良い? と尋ねたのはスザクだった。何の気なしにそう尋ねたスザクであったが、周囲はルルーシュを変に囃し立てるように騒ぐし、彼もムキになって慌てるから何だか可笑しい。スザクは天然だもんね、とカレンがしたり顔で言うのが何となく腑に落ちないが、やはり彼らがそんな風にからかう理由が見えなかった。

 二人きりになった途端しんと静かになった病室には夕日の影が伸びて、もう今日一日が終わろうとするのを予告する。
 あの火事から一週間ほどしか経っていないが、既に病院生活も飽きてきたところだ。何もすることなくテレビや雑誌を見て退屈をやり過ごす日々もそれなりに苦痛である。

 ベッドの隣に設置された棚から、スザクは一通の手紙を取り出した。それはあの火事の際、ルルーシュに腕を引っ張られる直前に拾い上げた数枚の手紙である。あれだけ火の手が回った社の内部で、よくここまで焼けずに残っていたものだ。ちなみにスザクが拝殿で救い出そうとした遺書は、飛び散った火の粉や火花によって焼けてしまって、結局行方知れずだ。
「ルルーシュ、これ知ってる?」
 一部は煤が付いているが、それでも文字がきちんと読める程度には状態が良い。三枚重ねて三つ折りにされたうちの外側、一枚目の表には"夭折した君へ"と記されている。
「そ、れは」
 微かに頬に朱が入った表情を見て、スザクは確信した。
 ルルーシュは遺書を最後まで読み終えていたばかりか、本殿と呼ばれる神社の最奥にある社に保管されていた真実の書、この手紙の存在もとっくに知っていた。スザクは遺書を全て読み終えていないどころか、この手紙のことなんて鼻から知らなかった。
 彼ばかり先回りして何でも知っている一方で、自分は何も知らない。それがちょっと狡いと思えて、スザクは意趣返しをしたいと思っただけだ。
「ルルーシュはこれ読んだ?」
 三つ折りにされた紙束の折り目を伸ばして、ぱらぱらと捲る。その動作を見遣った彼は、焦ったように声を上げた。いつもは落ち着いて何事も静観してばかりな彼の、少し珍しい表情である。
「そういうお前は」
「ルルーシュがそれだけ慌てるってことは、読んだんだね」
 う、と言葉を詰まらせる彼は先ほどから顔色を青くしたり赤くしたり忙しい。少し面白くて、なおも言葉を続けてやった。
「僕ももちろん読んだよ。熱烈だったね」
 茶化すようにその内容を揶揄すれば、とうとう彼は何も言わず赤く染まった顔を俯けていた。少し言い過ぎたかもしれないから、その肌は夕日のせいだ、ということにしておこう。
「それで僕に、ちょっと考えがあるんだけど」
 スザクは微笑みを作りながら、ルルーシュにその提案を投げかけた。


 退院してからひと月ほど経ったその日、二人は懲りずに再び件の神社へ訪れていた。
 ほとぼとりが冷めるまでは近寄ることもできずこれだけ期間が空いたが、今では群がっていた野次馬もとっくにこの神社の存在など忘れてしまったらしい。立て続けに起こった二度の落雷によって全焼した拝殿と本殿は既に跡形もなく処分され、更地となっている。本殿の内部でスザクが見た西洋の剣も社の中で燃え尽きてしまったのか、今ではその行方を誰も知らない。
 スザクは制服のポケットから手紙とライターを取り出し、紙へ火をつけた。あの日に見た大火に比べればおもちゃのようなものだが、隣で様子を見つめるルルーシュの表情はどこか不安げだ。
 薄い紙束はあっという間に燃え尽き、灰となった。それらを予め用意していたコンパクトサイズの塵取りと箒で集めて、二人は適当な位置にある木の下に並んだ。
 手紙だった灰を木の根っこの近くに落として、その上にかき集めた土を被せる。まるでダンゴムシの墓みたいだとルルーシュが漏らして、スザクは笑った。
 だがある意味、ルルーシュの冗談は間違いではない。これは遺書に出てきた王と騎士を弔うための行為なのだ。
 騎士の遺志が込められた遺書が神社の大火に巻き込まれ行方知れずとなった今、手元に残っているこの手紙で二人を悼もう、と言い出したのはスザクであった。
 どこの国で、どの時代で、何を成した人物なのかは知らない。少なくともスザクやルルーシュが学校で習う歴史には、あの二人と思しき写真の人物は出てこないし戦争があったのも今から考えればずっと昔の話である。貧困や格差、汚職や飢餓など各国が抱える問題はあれど、人間が人間を殺し争い合うことが許される世界はどこにもない。かつてはこの日本もブリタニアと戦争をした歴史があったそうだが、ブリタニアが勝利したのち日本が植民地となったのはほんの短い期間であって、すぐに日本は独立を遂げた。それ以降、世界各国で大きな戦争が行われた記録はない。平和の均衡は百年以上保たれている。
 歴史の教科書にはない歴史があったのかもしれない。たとえばあの遺書だってそうだ。表には出せなくても、確かに今の世界の礎を築いた者たちが遺した、記録であり想いだ。

 土をこんもりと被せたあと、線香を二本立てた。彼らの宗教は分からないから、とりあえず日本では一番ポピュラーな仏教式での追悼だ。
「桜の木の下には死体が埋まっているんだって」
「オカルトか?」
「言い伝えだよ」

 名も知らぬ過去の勇者たちよ、どうか安らかな眠りにつけますように。スザクとルルーシュは祈りを捧げるように、手を合わせた。


 その翌年の春、無人となった神社の跡地には、満開の桜が一本だけ存在していた。しかしその木はおろか、神社の周辺には人影のひとつも見当たらない。スザクとルルーシュも秋の終わり以後、この土地を訪れることは結局二度となかった。
 誰からも存在を知られることのない一本桜は、囁くように、花びらを散らせ続けていたらしい。