咲けなかった花の数
陶磁器の花瓶に生けられている花は日によって、造形も色も異なる。昨日は黄色だった気がするが、今朝見たときは紫になっていた。花弁の数も、形も、昨日とは違う。まさか一晩で腐ったわけではあるまいに、とすれば誰かの手によって手入れをされているわけだ。物好きな奴がこの宮殿に居るらしい。
格調高い家具と調度品で纏められたこの部屋に、それまで植物の類はなかったはずだった。水をやる手間や枯れた植物を処分する手間、そして定期的に花を生け替え、花瓶を掃除する手間。目の癒やし、保養とするには付随する手間や作業が多過ぎて釣り合わない。そう判断し、ルルーシュは執務室に植物は置かない質だった。
それをまあ、あろうことか毎日毎日飽きもせず。律儀で殊勝なことだ。そう確信して物言わぬ花に目を遣る。凛と開いた花びらは室内照明の明かりに照らされ、薄っすらと透けている。葉っぱは群緑に染まり、深く刻まれた葉脈がその表面に張り巡る。力強く伸ばされた茎や枝の様子から見て、恐らく朝一番に仕入れたばかりなのだろう。生命力に満ち、花冠は天高く仰いでいた。
その日の夜遅く、業務を既に終えていたルルーシュはとある荷物を取りに執務室へ戻ろうとしていた。提出された資料に訂正箇所があるとか何とかで、至急確認をしてほしいとの連絡があったのだ。提出期限は明日の朝であった為、今晩中に訂正と破棄をせねばならない。
照明の落ちた回廊は薄暗く、どこか物々しい雰囲気が漂う。足元にぴったりと着いてくる自身の影は長く伸び、壁に這いつくばっている。唯一の光源である月はちょうど満月で、空がやけに明るく見えた。
いくつかの曲がり角を通って目的の部屋に辿り着こうとした直前、ある異変に気づいた。
「……」
執務室の扉は閉じられていたものの、内側から微かな光が漏れていた。光の筋は暗い廊下へ僅かに伸びていて、よく目立つ。
数時間前に電気を落として、鍵をかけたはずだ。最後の使用者は自分だったから、施錠した記憶は確かに残っている。しかし明かりが漏れているとなれば、この部屋は今誰かが使用中というわけで。恐る恐る扉に耳を寄せて中の様子を窺おうとしたが、物音はよく聞こえなかった。なまじ防音効果の高い壁で囲われていたことが、今だけは仇となったのだ。
「……」
明かりを消し忘れたと仮定し、中には誰も居ないと想定する。それが現状、考えられる中で最も無難で可能性が高い推論だ。室内には誰も居ないからノックをせず、ドアノブを握る。
ガチャリ、とドアノブが動いて蝶番が軋む。扉の鍵はかかっていなかった。施錠のし忘れは有り得ない。鍵をかけて私室に戻った覚えがある。
想定は外れた。ということは、室内には誰かが居る。鍵をかけた扉を解錠し、室内に入り、何かをしている。こんな夜更けに不届き者が? 物盗みか待ち伏せか。
「……誰だ!」
扉を開けて、廊下側から部屋を見渡す。声を張り上げて侵入者の存在を確かめる。
暫くの逡巡ののち、その侵入者は自ら顔を上げて名前を呼んだ。
「……ルルーシュ?」
「なんだお前か……」
ドアノブに添えていた手から力が抜ける。はあ、と息を吐いてルルーシュは頭を抱えた。丸い目を不思議そうに瞬かせる男には緊張感も何も無く、むしろ入室者の様子を訝しげに見つめるのだ。
「スザク。何やってるんだ、こんな夜遅くに」
「さっき任務から戻ったところで」
「それは何となく分かるが……」
壁際で何やら作業しているスザクがこちらの存在に気づいて、漸く声を発した。その手には今朝しがたに見た覚えのある生花が握られており、紫の花びらが心無しか元気なく垂れ下がっている。
「お前が取り替えていたのか?」
「宮殿に毎日出入りしてる花屋の人が居るだろう。教えてもらってさ。部屋に植物があるのとないのとじゃ違うらしいよ」
「そうじゃなくて……」
「ああ、うん。いちおう毎日、僕が取り替えてる」
パイロット用のバイタルスーツのまま、彼は呑気にそう答える。水気を含んだ茎をタオルに包んで、明日からの新しい花は花瓶に移し替える。今度は桃色の花弁が愛らしく揺れていた。
「毎日替える必要もないだろ。生花はふつう数日は保つはずだ」
「あまり日持ちしない、売れ残る花を貰ってるんだ。どこにも飾られず処分されるのも可哀想だから」
スザクの腕の中で揺れる花びらはその役目を終えて、寂しく佇む。紫の花弁が光に透けて空気に溶けそうなのを、視界の端で見届けた。
「ならせめて使用人か清掃員に任せろ。お前が毎日やる仕事じゃない」
「……」
花瓶に生けられた桃の花びらを見つめながら、彼はそれもそうだね、と小さく呟いた。その横顔は前髪に隠れてしまって、表情は窺い知れない。
植物のひとつやふたつに生命の理や神秘性を感じるほど、ルルーシュは繊細でも豊かな感受性を持つわけでもない。そんなことでいちいち気に留めていたら生活に差し支えるし、今の仕事も回らなくなる。
たとえば宮殿の中庭をひとつ取ってもそうだ。聳える木々に蔓薔薇のアーチ、ウッドデッキの花壇、小池に浮かぶ蓮の花。人工的に刈り取られ形作られた庭園では多くの生命が循環を続ける。人の都合で続けさせられる。景観の邪魔だと判断されれば摘まれる。
人間の傲慢とエゴで形成された箱庭の景色に、しかしルルーシュは怒りも悲しみも感じない。なんたって彼ら植物には恐らく痛覚はないし、生命を蹂躙される怒りを外部に発信しないのだ。遺伝子を組み換えられ、無理やり交配をさせられても、人間側の思うままに操られるだけだ。物言わぬ彼らはひたすら受け身であり続け、黙って花を咲かせるのみである。
無抵抗であるのを良い事に、生命の循環を阻害し、あるいは操作し、生き死にに介入する人間の愚かさを、それでも彼らは責めない。それどころか生物の方程式に忠実に則って、決まった周期で花を咲かせ実り、交配を繰り返す。
彼らが人並みの感情を持つなら、もうとっくに人類への逆襲を企てている頃だ。それかもうとっくに、人類は植物に制されている。でもそれがないとすれば、彼らは心を持たないか、人知を超越した高みに位置するかのどちらかだ。
感情が知れない植物に可哀想だとか憐れみの情を抱くのもまた、人間の自己満足の極みだ。勝手に生かしておいてよくも可哀想、なんて言葉が出る。なら初めから育てなきゃ良い。種を撒かねば良い。植物を取り扱う産業を取り締まれば良い。でもそれをしないのは結局、自分の知るに及ばぬ範囲の事象には誰もが無関心で無感情だからだ。誰も彼もが目の前の花にしか感情を乗せない。
透明のビニール袋の中へ、スザクは事も無げに今日の花を放り込んだ。くしゃりと音を立てて折れた茎、枝葉。袋の底で散った花弁と、花粉が付いていない柱頭。それらが袋の中でくしゃくしゃに絡まって纏まり、不可逆的に姿かたちを変えてゆく。最早それは誰がどう見ても可燃ごみだ。ビニール袋の口を結んで縛り、彼は袋を持ち上げる。
「可哀想だと言う割にはあっさりだな」
「飾られる役目は終えたし」
中身を一瞥する男はなんの気無しにそう答える。色のない表情はそれ以上何も言わず、言葉を発しなかった。
「ルルーシュこそこんな夜遅くに、どうしたの」
「ああそうだ。そういえば資料の訂正があって」
言われて漸く思い出す。この部屋に赴いた本来の目的とやらねばならない事。ルルーシュは事務机の傍に歩み寄って、引き出しの中から件の書類を見つけ出した。
右手をペンに持ち替えて、文書の記載を書き換える。文字のそばに名前と日付のメモを添えれば公的な物として承認されるはずだ。念の為に他の書面にも目を通し、誤りがないかを再三目視で確認を入れた。提出してからの訂正は何かと手続きが厄介なのだ。所詮は役場仕事である。
「君の仕事こそ明日で良くない?」
「朝一番に提出なんだ。それにほら、明日は金曜だろう」
卓上カレンダーを左手で引き寄せて、明日の日にちを指差す。隣まで歩み寄っていたスザクにそう示すが、彼はルルーシュの意図するところを汲んでいないようだ。釈然としない面持ちでうん、そうだね、と溢す。
「明日は定時で切り上げる。終わったら俺の部屋でいいか」
「……ああ、そういうこと?」
「そういうこと」
そこまで説明するとスザクは合点がいったようで、こくこくと首を縦に振っていた。何となく浮足立つ面持ちを隠せないのはルルーシュも彼も同じだ。
金曜の晩。翌日は予定のない休日の土曜日。好きな人と過ごすとすれば、やることはひとつである。
おもむろに顔が近づいてきて、それを受け止めた。柔らかい感触を口元に感じて、それからすぐに離れる。目前にあった表情は締まりのない、緩みきった表情筋を隠そうともしない。
「明日だって言ってるだろ。フライングだ」
「今のはおやすみのキス」
「はいはい」
物は言いようだ。物欲しげな緑がちりちりと焦げるような視線を寄越してくるが、見ないふりを決め込む。これに当てられたら最後、明日の朝を迎えられなくなる。
スザクはとうとう諦めたようで、ルルーシュの傍から離れていった。そしておやすみ、と言い残し部屋から出て行こうとする。少しだけ名残惜しそうに振り返る、その背中に目線だけくれてやって、ルルーシュは微笑んだ。
片手にぶら下がる透明の袋には植物のごみが無造作に入れられ、がさがさと音を立てていた。それまでの原型を留めていない花は、元がどんな形だったかも既に思い出せない。生命の残骸はいとも容易く手折られ、醜い容貌に変わり、記憶の一片にも残らない。
だがそれを可哀想とも思わない。もっと丁寧に扱えとも言わない。商品価値のない売り物に与える感情などその時だけで、減価償却が済んだ物にくれてやる価値はないのだ。
翌日の夕方、事務机の上を片付けている最中だった。スザクは花瓶の傍で昨夜と同様、ビニール袋とタオルを手にして花を入れ替えている。ルルーシュはそれを遠目に眺めながら、一週間分の仕事の整理やメールボックスの確認を済ませてゆく。
窓から差す茜色は燃え上がるように熱く、赤々と輝いている。落ち着いた色調の絨毯を染め上げる光に目を細め、長く伸びる黒々とした影を視線で追いかけた。地平線に沈みゆく太陽は西へ向かうほど色褪せ、輝きを失ってゆく。だからこれが残された最後の力だと言わんばかりに、光はいつまでも燃えていた。
スザクは淡々と新しい花に入れ替えて、今日まで飾られた花を処分していた。桃色の花弁は撓んだ袋の中で首を折り、茎はひしゃげている。
緩やかな生命のサイクルを見届けているような気分だ。彼の手によって操作される植物たちの寿命は、彼の気まぐれと優しさにより、一日分だけ伸ばされている。延命を許されている。あるいは延命を強要されている。
「終わったよ。そっちは?」
「ああ俺も終わった。部屋に戻ろう」
「うん」
頷く男は夕日を全身に浴びて、頬を赤らめた。そう見えているだけかもしれない。都合のいい頭ではそう見えてしまう。
「これだけ捨ててくるから、先に戻ってて」
「分かった」
これだけ、と言いながら透明の袋を掲げて見せてくれる。葉と千切れた花弁がぐちゃぐちゃに混じって、おおよそ可燃物としか認識できない。色合いからして植物だろう、ということは判る。
男の真横に置かれてある花瓶には新しい生命が花を綻ばせていた。綿のように真っ白で艶やかな花びらは純真無垢、という言葉を彷彿とさせる。健気に枝葉を伸ばし天井へ顔を向ける植物の姿は可憐だ。残り僅かな寿命を全うすべく、明日も一日ここで咲き続けるのだろう。
そこでふと、ルルーシュはあることに気づく。
明日は休みのはずだ。なのに新しい花が生けられている。誰も部屋を使わない、見もしないのに。
(部屋に戻ってから、念の為伝えておくか)
毎日くり返すうち、それが習慣づいたのだろう。癖で新しい花を用意してしまったに違いない。伝えたところでどうにかなるわけではないが。既に花は切り取られ、そこで花を咲かせてしまっているのだ。