夏の閑話とエトセトラ

 今日の天気は全国的におおむね晴れ。トウキョウは雲ひとつない快晴となり、日中の気温は猛暑日と呼ばれる三十五度を超える見込み。夜になっても気温はあまり下がらず、数十日間連続で続く熱帯夜となると予想される。

 数時間前に聞いた気がする天気予報を思い出して、スザクはふと窓の外を見る。青い空を横切る飛行機雲がうっすらと、果てなく伸びていた。
 クーラーの冷風が頬に当たった。前髪が僅かに揺れて、涼しげな空気が肌を舐めてゆく。テーブルの隅に置いたグラスの氷がカラン、と音を立てた。
 視線を巡らすと、目の前には真剣な面持ちを浮かべる友人が居る。彼は切れ長の瞳を伏せがちにしながら手元の作業に没頭しているようだった。
 何か話題でも振ってみようかと思った矢先、口を開いたのは友人のほうだった。
「その代入式間違ってる」
「え、どこ?」
「関数の計算が間違ってる」
 彼はシャープペンシルの先端で紙面を指す。
「……ああ本当だ。すごい、よく分かったね」
「人の顔をじろじろ見てるから間違えるんだよ」
「みっ見てないし」
 まるきり図星だったスザクは顔を赤くして反論した。そんな分かりやすい反応だから、否定はちっとも意味がないのだが。
「まあ一時間くらいやってたし、休憩するか」
 彼は可笑しそうに笑いながら、そう呟いた。
 天井を仰ぎ、体を伸ばしてみせる。疲れの色が見え始めていた彼は腕を伸ばして、水滴が浮かぶグラスを掴んだ。既に氷が半分ほど溶けていた中身を呷る。こくこくと上下する喉仏と伸びた首筋には、うっすらと汗が浮かんでいる。
「クーラーの温度下げる?」
「扇風機で我慢する」
 首を回す扇風機を引き寄せて風に当たる彼は、汗ばんだ肌を晒していた。首に張り付く襟足の毛を不快そうに払って、前髪を靡かせる。薄く開いた唇の隙間からは赤い舌がちらちらと覗いていた。
 はらはらと舞う毛束と白い肌に、視線が吸い寄せられてしまう。その気がなくとも意識してしまう。あまり、見るのはよくない光景だ。
「何、さっきから見てるんだ」
「いや、その」
 人の視線に敏感な友人は訝しげに尋ねてくる。胸の中で滞留し始めたこの下心も、薄々悟られているのだろうか。
「あー、ほら。せっかく夏休みだし、ルルーシュとどっか出かけたいなって」
「こんな暑いのに、わざわざ?」
「夏っぽいこととかさ」
「夏っぽい、ことか」
 出任せであるが嘘はついていない。それらしい言い分で話題を逸したスザクは肩を竦ませ、ルルーシュの顔色を窺っていた。



 スザクは軍の仕事で出席日数が足りず、ルルーシュはサボタージュで出席日数が足りず。
 一学期の間で欠席が嵩んでいた二人はこの夏休み期間中、特別講習と称した、いわゆる補講の為ほぼ毎日通学を余儀なくされていた。午前中は補講、午後は持ち帰りの課題を済ませ、翌日に提出。そうしたすし詰めのスケジュールを強制的に組まされ、足りない授業日数を補填させられている。担任曰く留年させない為の救済措置であるらしい。
 とはいえクラスはおろか学年を見ても、このような補講をさせられている生徒はこの二人くらいだ。普段の出席状況がいかに悪いかを物語っているわけだが、そんな二人が手を取り合うのは当然のことと言えよう。出される課題の量は容赦ない。一人の力ではとてもじゃないが、毎日こなすのは不可能だった。
 朝の補講が終わった午後からはどちらかの部屋で課題を済ますのが、夏休み以降の日課だ。プリントやワークの分からない箇所を補い合って、それでも空欄になる問題は二人で頭を捻らせて答えを埋める。
 ちょっとした共同作業の連続は幼少期の頃を彷彿とさせて、スザクは少し楽しかった。学校に拘束されるのは億劫だが、ルルーシュと一緒ならむしろ得をした気分だ。夏休み前より顔を合わす時間は圧倒的に増えたし、こうやって二人きりになれるのも、悪い気はしない。



「夏っぽいこと……」

 ルルーシュは、スザクがなんの気無しに発した言葉を口の中で転がしていた。紙面に落ちるぼんやりした瞳はどこか躊躇うように彷徨っている。
「こんな天気が良い日はプールとかさ」
「泳ぎたくないし、日に焼けたくない」
「あー……ルルーシュは肌白いから、焼けたら赤くなりそう」
 テーブルの端に投げ出されていた腕を掬って、皮膚をなぞった。細くて白い腕は血管が透けていて、柔らかい感触が指に伝わる。
「ほ、他に行きたいところはないのか」
「他? 他かぁ」
 ルルーシュは少し声を詰まらせながら尋ねた。
「海に行って花火とか」
「花火か。手持ち花火ならすぐ買えるな」
「あ、キャンプとかどう? 川で魚釣りやバーベキューをして。夜は星も見えるよ」
「じゃあホームセンターでテントと、バーベキューセットと……」
「ああううん、本気じゃないよ。適当に何となく、言ってみてるだけ」
 不思議そうに目を瞬かせて、ルルーシュはそうか、と短い返事を零した。口角はなぜか僅かに上がっていて、その口元を隠すように手が宛てがわれる。
「なんで笑うのさ」
「いや……」
 くすくすと笑い声を漏らす。何がそんなに愉快なのか、スザクにはちっとも分からない。
 おもむろに立ち上がって彼の隣に座り直した。自分の理想の夏休みを披露したら笑われるなんて、理不尽だしバカにされたみたいだ。近くにある紫の瞳を覗き込んで、そんな抗議をするつもりで視線を投げかける。
「涼しい部屋でやりもしない計画を言うだけでも、夏らしくて良いじゃないか」
「なんだか味気ないなあ」
「はは。こういう過ごし方も悪くないと、俺は思うけど……」
 少し赤らんだ耳が見えた。思わず頬の輪郭を手に取ると、ルルーシュはますます顔を赤くして、ついに視線を逸してしまった。
「キスしていい?」
「なんでいちいち聞くんだ、……」
 文句を投げつけられる寸前に唇を塞いで、言葉が途切れた。
 少し湿った唇は柔らかい。夢中になりそうなくらいには。



 この補講期間が始まって、二人きりになる時間が増えて。そうすればおのずとそんな雰囲気にもなるし、彼はとくだん嫌がる素振りは見せないから、ずるずると成り行きに任せて、つまり、会うたびはたいてい(ほぼ毎日だ)、恋人らしいことをするようになった。キスやハグもそうだし、それ以上のことだってする。
 数週間前までは週に一度もなかった粘膜接触は今や毎日、飽きもせず行っている。少なくとも嫌がられてはないはずだから、その優しさにつけこんで、自分は好き勝手しているのだ。夏休み明け、どんなふうに過ごしてたかを級友らに聞かれたとき、どう答えればよいだろうか。そんなことをふと考えながら、今日も自分は彼を組み敷いている。



「あと僕、あれもしたい」
 顔を離すと、スザクは矢継ぎ早に話をし始めた。
「夏祭りに行きたい。久しぶりに射的と金魚すくいをしたいな」
「え、あ……」
「ああ、あと」
 やんわり肩を押すとルルーシュの体は思いの外、すんなり床に倒れた。躊躇わず、目前にあった首筋に唇を寄せる。
「浴衣姿の君も見てみたい」
「ゆ、浴衣……? 着たことないな」
「きっと似合うよ」
 白い肌に黒い髪、すらりと伸びた長い手足と、美しい容貌。ルルーシュは何を着たって似合ってしまうのだ。黒い着流しに薄紫の帯を締めて、襟足の長い髪を後ろで束ねれば、きっと誰もが振り返る美丈夫になるだろう。
「俺は……」
「うん?」
 ルルーシュが蕩けた目で見つめてくる。どこか期待したような、何かを言いたげな目だ。
「……あ、すざ、あう、あ」
 でも言葉の続きを待つより、先に体が動いてしまっていた。
 汗が滲む肌に舌を滑らせて、味とにおいを確かめてゆく。なめらかな肌はうっすら赤く染まり、本人の意思に関わらずその興奮を知らしめてくれる。
「海やプールに行くなら水着も買わないと」
「ん……」
「まだ売ってるかな?」
「は、ぁ」
 耳に息を吹きかけてわざとらしく尋ねると、彼はとうに上の空だった。こてん、と首を傾げて、何の話かとでも言いたげだ。
「そういやまだ今年、スイカもかき氷も食べてない」
「ん、う…」
「ほら、テレビでよく見かける、おっきいかき氷とかさ」
「は、あ、あ」
「ルルーシュは食べたいもの、ある?」
 シャツの裾に手を入れて、汗ばむ腹や脇の下を擽る。ルルーシュは身を捩らせて逃げようとするが、そうはさせまい。布の上からまだ柔らかい乳首を摘んで抓ってやると、強い刺激に体の動きがぴたりと止むのはとっくに知っていたからだ。
「あ、んっ!」
「はは、かわい…」
 赤くなる首筋がやけに艶めかしい。男を惑わす色香だ。彼はどこまでも無垢な表情のまま、唇をかみしめていた。

 うっすら涙が滲む瞳がスザクを見つめた。もう勘弁してくれと言いたいのか。それとも続きを欲しているのか。熱っぽい紫はスザクの顔を映したまま、逸らされる気配がなかった。

「……も、もうおしまいだ」
「え?」
「休憩は十五分間だって、前に決めただろ。もう一分過ぎてる……」
 ルルーシュは壁掛け時計へ視線を遣る。そんなことを気にする余裕がまだ、彼の中にはあるらしい。妙なところで冷静なのが癪だ。

「じゃあ、あと五分延長」
「駄目だ。まだ課題が終わってないし、ん、ちょっと、人の話を聞けってば、あっ」
 ちゅる、と音を立てて耳たぶを舐めしゃぶってやる。びくびくと震える体は幼気で、素直すぎた。
 俄に暴れようとする四肢を押さえて、さらに覆い被さると、彼もいよいよ自覚し始めたのだろう。顔を赤くしたまま恨み言をぶつぶつと呟き始めた。
「言ってることとやってることが、違うだろ」
「こういうのが好きだって、言ってたじゃないか」
「だからってこれは、おかしいって、っ、ア!」
 膝で股座を軽く押さえると、背筋が反って可愛らしい声が転がり落ちる。
「僕さ、音楽フェスとか行ってみたいんだよね」
「そ、それ、もうやめ」
「音楽はあまり詳しくないけど、なんか楽しそうだし」
「あう、う…」
「ルルーシュは興味ない?」
「え、あ」
「やっぱり暑いのは嫌?」
「……」
 はふはふと犬のように息をする男は、視線を巡らせて暫し黙り込んだ。
「……延長の五分も過ぎた」
「え? つれないな」
「終わったら話はいくらでも、聞いてやるから」
 乱れた前髪を手櫛で直して、ルルーシュはゆっくり上体を起こした。相変わらず目は合わせてくれない。でも赤みの引かない顔色が、その満更でもない本心を映していた。

「ルルーシュはないの、夏にやりたいこと」
「……俺は別に、今のままでも…」
「え」
「……」
 蝉の声も届かない涼しい部屋は、夏の気配など微塵もなかった。けれどこの時ばかりは夏という季節に、スザクは心から感謝せずにはいられなかった。