何はともあれ来年も宜しく

 ライムグリーンの梨地布の袋をサテンの白いリボンで結び、袋の口を縛る。ラメ入りのリボン紐は部屋の照明を受けてキラキラと控えめに光り、華やかな色合いを見せた。少し派手な取り合わせかと思われたが、贈り物としては丁度いい塩梅だろう。我ながらラッピングの腕も悪くない。
 鞄の中で擦れて傷がつかないよう透明のビニールバッグに入れてから、鞄にそれを仕舞った。カレンダーを見る。丸印を付けられた日付の、前日の今日。時間は日付を跨ぐ前で、すっかり夜更けである。
 準備に思ったより時間がかかってしまったが何とか間に合って良かった。ルルーシュはそうして息を吐いて、早速就寝の準備に取り掛かった。明日は朝からしっかり登校する心づもりだから、もう寝ておかないと翌朝起きられなくなる。アラームも一限目に間に合う時刻に設定しておいて、それからやっと寝台へ横になった。
 卓上に置いてあるカレンダーを遠目に見つめる。すると俄に、心臓の鼓動が速くなるのが分かってしまう。早く眠ってしまわないといけないのに、じわじわとせり上がってくる焦燥感が表立ってしまって、居ても立っても居られない心地になるのだ。
 明日が待ち遠しいような、まだ来てほしくないような。受け取ってくれたら嬉しいけど、困らせたらどうしよう。早く会いたいけど、どんな顔で会えばいいか分からない。
 とても寝付ける気がしなくて、ルルーシュは壁際に寝返って目をきつく瞑った。深夜に考え事は禁物だ。頭を空にする必要がある。やがて訪れる睡魔に安堵して思わず力が抜けると、あとはもう何も考えられなくなって、意識を手放すだけだった。



 幼馴染の誕生日を祝うことはこれが初めてじゃないし、もはや毎年の恒例となっていて、自分も彼も違和感を覚えたことがなかった。物を贈ったり食事をしたり遊びに出掛けたり、してやれることと言えばささやか過ぎる内容だ。高価な時計とか財布だとか、一見は入店できない高級フレンチ店だとか、そんな物はとてもじゃないか用意できない。学生の財布の中身なんて高が知れている。
 でも年に一度しかない、本人にとって特別であろう日にこの自分と二人で過ごす時間を多く取ってくれることは、何とも言い難い歓びがある。毎年そうしてるからと言い訳があってもいい。曲がりなりにも付き合ってるからと理由付けされてもいい。彼の中で、自分が他より少しでも特別に扱われている事実が心地良かった。
 全く以て短絡的で浅ましい感情だ。好きな人を独り占めできて嬉しいなんて、幼稚だし子供っぽい。自分の中にそんな感情が湧くなんて考えたくもなかった。
 これが良くない心理だと重々承知している。人当たりの良い彼は交友関係も広くて、沢山の人から好かれている。それが彼の美点のひとつだし、だから邪魔したり束縛する気なんて毛頭ない。でも自分を特別にしてもらえるたび、心のどこかで歓喜しているということはつまり、無意識のうちに嫉妬心を抱えているのだろう。気づかない振りに徹するのはそういう自分の嫌な部分を直視したくないだけだ。

 スザクは誰のものでもないし、自分はもっと大人になるべきだろう。ルルーシュは胸のうちにわだかまった感情にひとつの結論を出した。
 そして一晩明けて次に目を覚ました瞬間、翌朝の七月十日を迎えていた。



 教室に着くなり想像していたとおりの光景が目に入って、思わず愛想笑いの仕方も忘れそうになった。
 室内の中央より少し後方の、よくよく見覚えのある場所。自分とはやや離れた位置にある席は彼の所定の座席で、今はそこに人だかりが生じている。それを不思議に思うより、ああやはりこうなるのかと納得のほうが先に来る。
「おはようルルーシュ! なあ知ってた? 今日がスザクの」
「誕生日なんだろう。知ってるよ」
 ドアの前に立とうとした瞬間、廊下へ向かって顔を覗かせたリヴァルが大きな声をかけてくる。対照的にルルーシュは敢えて冷静な声を作って返事をした。扉のへりに手をかけ、前のめりになる彼の横を通り過ぎながら、自分の席へ一直線に向かおうとする。
 が、それさえも阻まれる。背後から肩を掴まれてたたらを踏み、思わず振り返る。不躾で強引なコミュニケーションである。
 渋々振り向いた先でそんな彼と目が合った。
「なんだよ知ってたのかあ。まあそりゃそうか」
「どうかしたのか」
「どうもこうも、誕生日なら俺達が祝ってやらねーと駄目じゃん? 同じ生徒会メンバーとしては」
「ああ、放課後にパーティーでも開こうって話か?」
「しっ、声が大きいって」
 そう言うなりリヴァルは肩を組んできて、体を引き寄せようとする。どうやら人に聞かれては都合が悪い話らしい。ひそひそと声を潜ませれば、この距離なら本人の耳にも届かないだろうか。
「会長が早速今朝からピザとホールケーキの予約をしてくれたんだってさ。もちろん放課後はルルーシュも来るよな」
「まあ、そこまで言うなら」
「なんだよ、えらく冷めてるなあ。幼馴染ならそんなもんなの?」
「どうだろうな。それにしても、この話は本人には」
「当然サプライズだって。だからスザクには内緒な?」
 リヴァルが人垣の中央に居る男を遠巻きに見つめて、得意げにウインクを飛ばしてみせる。楽しいことには目がないこの男は何だかんだで友達想いだ。その心意気だけはルルーシュもよく知っていたし、今だってひしひし伝わってくる。
「分かったよ。必ず行くようにするから」
「そうでなくっちゃな」
 歯を見せて笑う級友に微笑みを投げかけて、ルルーシュも教室の後方に目を遣った。人の真ん中に居るあいつは心底嬉しそうに笑っていて、何やらプレゼントの包みらしい物もその手にある。本人は事前に公言していなかったようだが、既知の生徒がわざわざこの日に合わせて用意したのだろう。
 右手に提げた通学鞄を見下ろして、昨晩仕舞っておいた荷物のことを思い出す。自分もいちおう、準備はしておいたのだが。
 というよりここ数日、彼に何を渡そうかとずっと考えていた。リヴァルに問われた時も気にしない振りを装ったが、あれは白々しいだけの演技だ。昨晩だって意識しすぎて寝付けないくらいだったのに。
「……」
 遠巻きに見ていただけなのに一瞬だけ目が合った気がして、思わず顔を背けてしまった。
 彼を祝福せんとばかりに集まった生徒の輪に入ることも出来たが、ルルーシュは敢えてそうしなかった。僅かばかりに下心を抱えた自分が、あの場に加わるのは相応しくない。一瞬でも視線を向けられたと錯覚するだけで喜んでしまった。勘違いしてはいけない。今の彼はみんなのものだ。
「ルルーシュ、どうかした? 顔赤いけど」
「いや、うん……リヴァルお前、暑苦しいから」
「暑苦しいって、ひでえ言い方!」
 冗談めかして話せば彼も理解したようで、笑い声を上げながら肩を離してくれた。じゃあ放課後に集合な、と口裏を合わせて、首肯をひとつ返す。良き友人とはまさにこの彼のような人のことを言うのだろうと、心底思った。

 自分もスザクにとって、そんな良き友人で在りたい。交際しているという事実はあるが、これまで続けてきた長い交友期間はお互いの信頼関係を確固たるものにしてくれた。だからそれを裏切らないよう振る舞えたらと思うし、そうなりたい。
 順序や優先をつけず誰にでも同じように接せられて、見返りを求めずに居られたらどれだけ楽だろう。なりたい理想像とあまりにかけ離れた場所にある自分の心に、もはやうんざりするどころか諦めさえ芽生えるのだ。



 素知らぬふりをするのは得意だ。恐らく飾り付けが施され、ほんの少し贅沢なご馳走が待っている生徒会室にスザクを誘導するのも、なんら難しいことじゃない。こういう役回りが自分に与えられるのも察してはいたから、別にどうということはなかった。
「プレゼント、いっぱい貰っちゃったな」
 手提げの紙袋の中にはラッピングが施された荷物がいくつか入っていて、それらが揺れるたびにがさがさと音が鳴る。生徒会室までの道中に声をかけてきたのはスザクで、ルルーシュはいつもどおりの顔色でそうか、と相槌を返した。
 廊下の窓から見える校庭では体育会系の部活が各々切磋琢磨しており、掛け声や砂を蹴る足音、ボールが跳ねたり打たれたりする音がひっきりなしに轟く。
「返礼はどうするんだ? そんなにホイホイ受け取って」
「……お返しのこと忘れてた。どうしよう」
「まあ見返り目当てで渡す奴なんて居ないだろうし」
「ううん……」
 律儀で真面目な男だ。今日を境にしばらくは何を返そうかと頭を捻るのだろう。
「会長に聞いてみようかな。あの人、そういう人付き合いとか立ち回りが得意そうだし」
「はは、それはそうかも」
 生徒会室の扉に手をかけようとした彼がこちらを振り返りながら笑う。嬉しいけど困ったなと零された本音に被さって、紙袋の中身が音を立てていた。

 扉の取っ手に指が掛かった。いよいよ開くかと思われた瞬間、しかしスザクは何かを思い出したかのように、唐突に振り返った。
 扉を背にして立つ彼は、何か言いづらそうに唇をまごつかせる。
「……今日終わったらさ、」
「うん」
「その……僕の部屋に寄ってほしいんだけど……」
「ああ、別に良いけど」
「よ、良かった。有難う」
 わざわざ勿体振りながら言うことか?
 内心そう思ったが敢えて口には出さなかった。言いたいことだけを言ったスザクがすぐさま扉に向き直ったからだ。
 その真意を聞くことになるのは実際に彼の部屋に出向いてからになるだろう。
 ルルーシュの予感は奇しくも的中することになるのだが、この時はまだ何も知らないのである。



 扉を開けた途端に、まず鼓膜を叩くクラッカーの破裂音が響いた。その次に、視界の中で舞い飛ぶカラーテープの鮮やかな色彩。そして、見慣れた面々が立ち並ぶ景色が飛び込んでくる。
「おめでとうスザクくん、こっちおいで」
「あは、びっくりして石になってる」
「ピザが冷めるから早く早く」

 彼らに腕を引かれるままに招かれたスザクは、テーブルに並ぶ食材や飾り付けられた室内の様子に目を凝らしていて、声も出ていなかった。その背中を軽く押してやりながら一緒に足を踏み入れると、彼がゆっくりと首を動かしてこちらを見つめてきた。
 その間抜けな表情をからかいながら、そしてルルーシュはこう言ってやるのだ。
「おめでとうスザク。せっかくなんだから、もっとわかり易く喜べよ」
「ルルーシュ……」
 奴は既に涙声で、唇を震わせていた。相変わらず感受性が強いというか、涙脆いというか。周囲の彼らも仕方ないと言いたそうにスザクの肩を叩きつつ、荷物を受け取って腕を引いて、そしてテーブルの中央のあたりに連れて行った。小ぶりのホールケーキには数本の蝋燭が立てられていて、ライターを持ったカレンがひとつずつに点火していくのだ。さすがに十数本も用意はできなかったようだが、それでも誕生日会ではお決まりの展開だ。
「火消して、火」
「あんたの役割だって」
 せっつかれるままに炎を息で消して、依然涙ぐむスザクの周りで笑い声が上がった。誰もが知ってるバースデーソングを唇に乗せながら、ホールケーキを切り分けるのはリヴァルが担当するらしい。ペーパーナイフを生クリームの上に突き立てれば、柔らかいスポンジが圧力で沈み込む。
「ちょっとリヴァル、切るの下手じゃない?」
「一番でっかいのをスザクに食わせてやりてーの!」
「ニーナ、お皿持ってー」
 等分とは言い難いホールケーキを各々の皿に盛るのはニーナの役目らしい。生クリームに塗れたナイフで器用にショートケーキを移して、白い紙皿とフォークを配布してゆく。慌ただしく進む展開を、ルルーシュは輪の少し外れた場所で見つめていた。
「ピザとチキンナゲットもあるから好きなだけ食べてね」
「あ、有り難うございます」
 ミレイが宅配で頼んだらしいパーティーメニューも卓上へ無造作に並べられていた。ラインナップは俗っぽいが、身内で楽しむならこれくらいが丁度いい。たかがファストフードでも、皆でせっつきながら食べるのは一味違う美味しさがあるのだ。

「ねえ写真撮ろうよ、会長から借りたカメラがあるから」
「なら俺が撮ろうか」
「え、ルルーシュも写ろうよ」
「じゃあタイマーにしたらいいんじゃない? シャーリー貸してごらん」

 ミレイが手渡されたデジカメの設定を弄っている間、他の面々は壁際に集まり顔を見合わせた。主役の男は真ん中に立たせるとして、後はどんなふうに並ぶ? ポーズは? とひとしきり話し合いが繰り広げられる。
「俺はスザクの足元にしゃがもうかな」
「じゃあ私はスザクくんの隣」
 わやわやと立ち位置の確認が続く束の間に、ミレイはタイマーの設定を終えたようだ。テーブルの端にデジカメを置いて、あと十秒、と声を上げる。
「会長はこっちに立ってください」
「わ、私はどうしよう」
「ニーナもおいで」
 はち、なな、ろく、と声が揃う。各々は適当に立ったりしゃがんだり列に回り込んだり、写真一枚撮るだけで無駄に忙しないったらありゃしない。列の一番端をキープをしていたルルーシュは面々の言動を静観しつつ、シャッターが切られるのをどこか落ち着かない気持ちで待っていた。
「……あ、ルルーシュ、隣来て! こっちこっち!」
「ちょ、ちょっと、待てって、おい」
 よん、さん、に、いち、とカウントダウンが迫る中で名前を呼ばれた。声の主は列の真ん中に立つ男だった。腕を引かれて立たされたらあとはもう、成るように成れと祈るしかないもしれない。
 ぜろ。
 声が揃った瞬間にフラッシュが焚かれて、シャッター音が鳴り響いた。



 自分がどんな顔をして写っていたのかは、結局確認しなかった。デジカメの小さな画面を覗き込む彼らを視界の端に収めつつ、ジュースの入った紙コップを片手に席に着いた。
 表情筋を意識するより先にフラッシュが光って、シャッターが切られてしまった。きっと間抜けな顔をしているに違いない。オートタイマーにもかかわらず直前になって呼びつけてきたあの男が悪いのだ。掴まれた腕には未だに手の感触が残っているような心地がして、早く気を紛らわせたい。

「これ、君のぶん。貰ってきたよ」
「……え?」
「二番目に大きいピースを選んだよ。美味しかったから食べてみて」
 紙皿に乗ったショートケーキが目前へ、さも当然のように差し出された。ルルーシュは弾かれるように声のする方向へと首を動かした。緑の目が優しく揺れている。
「良いのか、あっちに混ざらなくて」
 隣の空席に何も言わず腰かけるスザクに向けて、その背後で盛り上がる面々を指差した。彼らといえば、この写真を現像して是非アルバムに残そうと話をしている。どうせなら一枚だけじゃなくいくつか撮ろうとか、食物も一緒に撮ろうとか、そんな他愛もない話題も飛び交う。
「ここに居ちゃ駄目?」
「そんなことは」
「なにか考え事でもしてる?」
「別に、何も……」
 合わせようとしてくる視線を掻い潜って目を逸らすと、スザクは困ったような笑い顔を作った。
 わざわざ人の輪を抜けて来るなんて、そこまで望んじゃいない。なんせ自分は彼を待つ友人たちの背景に徹しようとしただけなのだ。スザクを祝いたいのは彼らとて同じで、スザクはみんなのものだから。思い出作りの機会は誰しもが平等でなければならない。自分だけが彼の隣を独占しているようじゃ駄目だ。
「さっきの約束、覚えてる?」
「約束……ああ、お前の部屋に寄るっていう」
「そう。覚えてくれてたなら良いんだ」
 照れくさそうに微笑む顔を見て、やはり疑問に思った。なにを拘ることがあるのだろう。ルルーシュはスザクから言われた台詞を頭の中で再三噛み砕いたが、文脈から察せられる手がかりは見当たらなかった。

「へえ、スザクって先にイチゴ食べる派なんだ?」
 紙皿を両手に持ったリヴァルが、テーブルの傍に立ち寄って話しかけてくる。ルルーシュは内心少しほっとしていた。
 彼はスザクの皿の上を見るや否や少し驚いた顔をして、それから可笑しそうに笑い声を出した。
「好物は残せないタイプかあ」
「言われてみれば確かに、先に食べちゃうかも」
「俺は絶対最後までイチゴを残す!」
 リヴァルがそんな主張を叫びながら対面の席に着いた。その手元では確かに、表面に乗っていた大粒のイチゴだけが皿の端に避けられている。これは大事に食べたいんだ、と熱弁する彼はホイップクリームをまぶしたスポンジケーキを口に入れながら、行儀悪く頬杖をついていた。
 するとリヴァルの真後ろをふと通りかかったミレイが、何事もなかったかのように大粒のイチゴを見事に攫って行ったのだ。悪い笑みを浮かべる彼女の耳には恐らく、一連の会話は聞こえていたはずだ。分かった上での、敢えての犯行である。
「か、会長……まさか俺のイチゴを」
「そんなに大事にしたいならさっさと食べれば良かったのに」
「……リヴァル、俺のぶんやるから。ほら」
「わあルルーシュ優しい」
 相変わらず奔放な奴らである。リヴァルは悔しげに皿の上を見つめながら、にも拘らず差し出してやったケーキをやんわりと断っていた。純粋な同情が動機なのだが本人曰く、それを受け取ってしまったら自分が情けなくなるらしい。その心理は理解しかねる。

 それからは最終下校時刻ぎりぎりまで飲み食いをして、適度に騒いで笑って過ごした。警備員に追い出される寸前に室内のごみを片付けて掃除を済まし、一行は慌てて校舎から飛び出すこととなった。パーティーはあっという間にお開きである。
 寮に直帰する者もあればスーパーまで買い物に行く者、その他用事がある者など、とにかく下校後は散り散りの解散だ。呆気ない別れだが、とはいえ明日になればまた教室で顔を合わすことになる面子だ。だからまた明日、と手を振りながらそれぞれの行き先へと足を向けるだけなのだ。
「ルルーシュ、行こっか」
「ああうん」
 声をかけられて振り向くと、赤ら顔の男が立っていた。夕日のせいだろうか。

 歩き出そうとしたらその瞬間に手を取られて、指が絡まった。おい、と一声出してみるものの手は解けない。
「大丈夫。誰も見てないよ」
 背後を振り返ってみると、先ほど別れを告げた一同はずいぶん遠いところに居た。彼らがこちらを振り向く気配はない。けれどまだ日が沈みきらない時間帯だ。遮蔽物もないし、これでは嫌でも目立つ。
「じゃあ急ごう」
「そういう問題じゃ……」
 ぐ、と力を込められた手を無理に引き剥がす気は起きなかった。だから代わりに前を歩く背中を睨みつけてやった。
 固く結ばれた指と指の境は、なぜだか直視が出来なかった。

[newpage]

 スザクの部屋に着いたは良いものの。

 なぜ視界に天井が広がっているのか。やけに手触りのいいベッドシーツが自分の背中を受け止めているのか。顔を赤くした男に押し倒されているのか。ルルーシュは何ひとつ理解が追いついていなかった。
 記憶を順番に辿ろう。玄関で靴を履き替えて、部屋に上がって、荷物を壁際に置いて、上着をハンガーに掛けた。それから、ラグマットに腰を下ろしたところで彼も隣にやってきて、肩がぶつかって、目が合って。それからは、どうしたんだっけ。
 二人のぶんの呼吸音だけが響く空間で微かに身じろぎをしようとした、その瞬間だ。頬を包む大きな手の温度を感じて、唇を塞がれる。舌蕾から伝わる甘い味は先ほど口にしていたショートケーキだろうか。攫われそうになる意識を繋ぎ止めようと、取り留めのないことばかり考えた。頭を動かすのを止めたら自分を見失う。

「なんで君だけ、祝ってくれなかったの」
「え」
「それが毎年当たり前だったから油断してたけど、でも、楽しくない」

 服の裾から這い寄ろうとする手の動きに気を取られて、彼の言わんとする内容を噛み砕けない。皮膚の上を滑る手のひらは熱くて、擽ったくて、嫌になるくらい体が反応してしまう。心臓が激しく拍動するばかりか、全身から汗が噴き出しそうで、触られるのは嫌だ。
 恐る恐る視線を上げると、寂しそうに目を細める男が間近に見えた。
「だから、これがプレゼントってことにしていい?」
「何言って」
「誘いに乗った君も悪いから」
 何の話だと口を開きかけた瞬間、舌が捩じ込まれる。声は口腔の奥に消えてしまって、じくじくと溢れる唾液にすべてが飲み込まれてゆく。思考が否が応でも肉欲に塗り潰されるのだ。この瞬間が心底恐ろしく、まだ慣れない。
「さ、誘いって……」
「あけすけな言葉は嫌だって、ルルーシュ言ってただろ。だから僕なりにオブラートに包んだつもり」
「な、そんなの分かるかっ、この!」
「じゃあ今からセックスしよう。これでいい?」
 良いも悪いもあるかと、声を荒げたくなった。でも出来なかった。刺々しい台詞とは裏腹に、その顔色はどこか物憂げなのだ。だから怒るにも怒れない。振り上げかけた拳を何度も下ろしてしまう。
「ま、待て、スザク」
「今日くらい我儘言わせてよ」
 首元に顔を埋める男は、そんな持論を振り翳して聞く耳を持たない。誕生日だから無礼講がまかり通るわけがないのだ。彼の蛮行をそうやすやすと許してはならない。
「ぁ、駄目だって、だめ」
「ほんとに?」
「ほ、ほんとにっ、あ、うあ」
 許してはならないのに、抵抗しようとする意思は弱まるばかりだった。
 胸元をまさぐる手指が頂点を掠めて、ついでと言わんばかりに弄ってくる。固くなった部分を執拗に捏ねくり回して、押し潰されるのだ。体内に滞留してゆく熱が膨れ上がって、発露を求めて暴れ回る。もどかしくて苦しくて切ない。どうにかなりそうだ。
「ひっあ、あ、やだ、あ」
「嫌とか言われたら、傷つくよ」
「ちが、あ、すざく、すざ」
 泣きたいのはこっちなのに、スザクは今にも泣き出しそうな顔で見下ろしてくる。なんでそんな顔をして俺を組み敷くのだ。そう聞きたいのに、舌が縺れて喋れない。

「こっちも触ってあげる」
 慈悲のない言葉とともに触れられたのは局部にあたる場所で、意味ありげに動く手が布の上を這い回る。手早く布を寛げ、露出した性器を直接握られたら。先端を指の腹で擦られ、裏筋をなぞられたら。今度こそ駄目だった。
「アっう、うぁ、ん」
「はは」
 ルルーシュ、きもちよさそう。耳元で囁かれた甘ったるい声に腰が震えた。全身からひっきりなしに噴き出す汗も、自分の口から出る変な声も、抑えようがないのだ。自分の体なのに制御が効かない。好き勝手に弄くられて、なのに体はそれを悦んでいる。
 これは良くない兆候だ。彼の手に委ねてされるがままになったら再起不能にされる。

 だからこそ前後不覚になる前に言わねばならないことがある。いま、頭の片隅でぼんやりと浮かんだ文章は謝罪と言い訳だ。この状況を覆すため、正直に打ち明ける以外の方策はなかった。
「スザク、ごめん、俺が、」
「ルルーシュが謝ること無い。僕が勝手に拗ねてるだけだから」
「そうじゃな、…鞄の中、あるから…」
「何が?」
「プレゼント……」

 スザクはぴたりと動きを止めて固まってしまった。ルルーシュはますます居た堪れない気持ちになって、顔を逸した。暫くのあいだ、二人して黙り込んだ。
「……」
「鞄、開けてもいい?」
「……好きにしろ、もう…」
 ルルーシュは消え入る声でそう言い残したのち、うつ伏せになって沈黙を続けた。そんなルルーシュの体から一旦退いたスザクは、壁際に置かれた鞄を拾い上げて中身を探る。がさがさと物音が響いたあと、束の間のうちにぴたりと鳴り止むのだ。
「貰っていいの」
「……うん」
「ルルーシュ」

 名前を呼ばれたと同時に視界が反転して、汗の匂いが鼻をついた。
 突然肩を起こされ、強い力で抱き留められたのである。首筋の擽ったい感触は彼の癖毛のせいで。骨が軋むほどの痛みを覚えるのは、それだけ強く抱き締められているからで。一体今度は何事だと言いたくなったが、先に口火を切ったのは彼だった。
「……なんで今朝にくれなかったんだよ」
「なんでって……他に人が多かったし」
「遠慮したってこと?」
「まあ……」
 自分のつまらない意地や考えのせいで彼には寂しい思いをさせてしまったらしい。申し訳ない気持ちと同時に、しかしそれでもこちらが謝る話ではないだろ、と納得いかない気持ちも芽生えた。
「変な気を遣わせてたのかな、ごめんね」
「……」
 頬を擦り寄せると共に謝罪の言葉が述べられて、溜飲が下がった。自分も大概単純なのだ。たったその一言ですべての蛮行を許せてしまう。
 彼の両手には昨晩用意した包みが握られていた。傷がつかないようにと透明のビニールバッグに入れたが、その甲斐も虚しく、袋もサテンリボンもすっかり縒れてしまっている。これでは肝心の中身も無事ではないだろう。
「中身って何?」
「……お菓子だよ、昨日焼いたやつ。形はもう崩れてるかもしれないけど…」
「朝一番に貰いたかった……」
「なんでそこまで」
「好きな子には祝ってほしいだろ」
 真正面から見据えられて言葉を失った。熱の籠もった瞳はゆらゆらと揺れ、己の火照った顔を映していた。よくもそんな恥ずかしいことを言えたもんだと、思ったが言えるはずもなく。
「い、祝いたい気持ちは誰だって同じだ。俺が独占して良いわけがない」
「それは…僕を独り占めしたかったってことか」
「……」
 完全に墓穴を掘った。最悪だ。

 スザクは顔を赤くしながら、機嫌良さそうに口角を上げる。肩に添えられた手にじわじわと力が込められて、後退りしようとすれば背中が壁にぶつかった。退路がない。言い返す言葉も見当たらない。
「じゃあ続きしよっか。中途半端に触られて、辛いよね」
 形勢逆転を狙ってせっかく打ち明けたのに、このザマである。深層心理を暴かれて恥を晒し、今度こそシーツの海へ組み敷かれる。いつになく上機嫌で笑みを絶やさない態度が憎らしい。調子に乗るなよと言って、蹴り飛ばしてやろうか。
「君の気が済むまで独占していいよ」
「うるさい」
「今はルルーシュ専用の僕だから」
 頭が痛くなるような軽口を吐きながら、スザクは満足げに見下ろしてくる。くよくよ悩んでいた昨晩の自分が馬鹿みたいだ。
 少なくとも来年からは朝一番にプレゼントを届けるべきである。下らない教訓を得たルルーシュは目を閉じ、成り行きに身を委ねる覚悟を決めた。