これをよすがとする

 鼓膜が震えたのはもうとっくに日付を超えていた頃だった。焦点の合わない視界の先で薄ぼんやりと光る何かを捉えてから、ふとそのことに気がついた。
(まだあいつは起きているのか?)
 霞がかった空っぽの脳内で、ひとつの疑念が浮かんだ。感情は伴わない。
 油断すればたちまち下りる瞼をほんの少し押し上げてみた。するとぼやけた景色は徐々にはっきりと像を結んでゆく。壁にまで伸びる影が僅かに動いていた。書き物をするときの、ペン先と紙面の摩擦音も微かに耳へ届く。意識はまだぐにゃぐにゃと揺れたままで境界線があやふやだった。今の自分は起きているのか、眠っているのか。この体は誰の意思で起き上がろうとしているのか。考えても答えは浮かばない。
 柔らかい布団を掴み上げ、まだ温い枕を脇に退かした。外気に晒された体がぶるりと震えたが、名残惜しさは不思議となかった。
 寝台のすぐ下に揃えて置いてある履物に素足を通して、やっと立ち上がる。やはり体にはまだ力が入らなかった。脚を前に踏み出すのはこんなに億劫で疲れるものだったかと思うほど、うまく四肢が動かないのだ。
 毛足の長いカーペットの上で足を引き摺るようにして歩くと、薄暗い視界の中で何かが動いた。一瞬だけ暗くなったと思えばすぐさま明るくなって、それから上半身が何かに包まれる。
「寝ぼけてる?」
 床が揺れているのかと思ったら、自分の足に力が入っていなかったらしい。背に回された腕で支えられてようやく認識できた。あともう少し補助が遅ければ顔面から転倒していただろう。
「なんでお前、起きてるんだ……」
「仕事が少し」
 壁際に目を遣ると、書類や電子機器が散乱した事務机がサイドランプに淡く照らされていた。置き去りのステーショナリーや書きかけの電子文書を見るに、まだ終わらないタスクが残っているらしい。
「明日に回せばいい」
「朝から出張だし……」
「俺の付き添いでな。不満か」
「そんなこと言ってない」
 彼は唇を尖らせてそう言うと、再び事務机に向かって座ってしまった。その背中を追うように、自分は脇机に凭れながら作業を俯瞰する。すぐにキーボードの軽快な打鍵音が聞こえ始めた。
「先に寝ててよ」
「お前が寝るまで見張る」
「……」
 腕を組みながらじっと、その光景を眺めていた。一見すると事務作業は滞りなく進んでいそうだが、よっぽどやることが溜まっていたのだろうか。トレーに重ねられた紙束はなかなかに減らない。

 机の置き時計は着実に、正確に針を刻む。時間は無限ではなく有限だ。それを自覚させるために、秒針は音を立て続ける。規則的な時計の音と、それに被さる彼の微かな呼吸音に耳を傾けていたのは無意識のうちだった。
 時間にすれば数分、数十分程度だろうか。長いような短いような暇の中で、再び瞼が落ちかけていた時だ。
「……あーもう、寝るよ、寝る」
「ん」
「君が風邪ひくだろ」
 肩にブランケットを掛けられて思わず頭を揺らすと、そのまま腕を引かれた。机を照らしていた灯りはもう消えていて、半分眠ってしまっていたことに漸く気づかされる。

 見張ると宣言した手前、何なら朝が来ようと起き続けるつもりだったのに。逆に気を遣わせてしまった。だが夜更かしをしたがる彼を寝台へ向かわせることに成功したのは、思わぬ功名かもしれない。
「部下の面倒を見るのは、当たり前だろ……」
「今のルルーシュに世話を焼いてるのは僕の方だ」
「焼かなくていい、風邪なんかひかない」
「ほら毛布!」
「んー……」
「おやすみ」
「……」
 頭まで毛布を被せられ一方的な挨拶が投げられる。柔らかい布から顔だけ覗かせればしっかり瞼を閉じた横顔が見え、開きかけていた口を噤んだ。温めていた布団の中はとっくに冷たくなっていて、自分の素足を擦り合わせながら軽く寝返りを打つ。
 二人分の重さで沈み込んだマットレスの感触は何だか久しぶりのように思えた。二人でも有り余るくらい、馬鹿みたいに大きな寝台をせっかく見繕ったのに。大きなベッドが良いと言ったのは彼のほうだったのに。そんな遣り取りすら、スザクはもう忘れてしまったのだろうか。
 その時に向けられた優しい瞳の色を胸に抱きながら、ルルーシュは瞼を下ろした。



 日中、ルルーシュは常に自身の騎士であるスザクを連れ従わせているが、プライベートや休暇のタイミングになると途端に顔を合わす機会がなくなる。いや、なくなりつつあった。少し前までは食事を共にしたりどちらかの部屋で時間を共有することもあったのだが、ここ最近はそれがめっきり減ってしまったのだ。少なくともルルーシュの中ではそう感じ取っていた。しかしそのことについて具体的に行動を起こすことはなく、さして深刻にも捉えず、所詮は時期的なものだと考えていた。
 世界情勢は依然不透明で不安定なままだ。誰もが将来に、現状に漠然とした不安を抱え、明確な不満を募らせている。それらの負の感情は大きなうねりとなり、世界各地でクーデターや紛争という形で噴き出している。
 ルルーシュが相対しているのは国家、あるいは世界そのものだ。あまりに巨大過ぎて形を成さない問題を見据え、拾い上げ、解決に導いていく、という途方もない作業の連続である。時間はいくらあっても足りない。自分の肉体と精神が擦り切れるぎりぎりまで我武者羅に、身を粉にして働くしかないのだ。だからそれ以外の、たとえば国益の足しにもならない私的な部分が削られることは必然と言えよう。そしてそれに疑問や不満も抱かず、ルルーシュはその現状を甘んじて受け入れ、献身的であり続けた。あり続けようとした。



 男の肺が膨らむたびに揺れる掛布の動きが、スローモーションみたいに見えた。まだ深くない呼吸音に耳を澄ませながら、微睡み始める頭の中で暫く物思いに耽った。

 スザクをこの世界に引き込んだのは、悪手だったのだろうか。
 彼は少々、いや度が過ぎるくらいに自己犠牲の悪癖を抱えている。きちんと見張っておかねばいつか心身を壊してしまうのでは、と嫌な想像が脳裏に浮かぶ。とくに軍人は肉体が資本だ。替えのきかないその体を、本来であれば当人がもっと労るべきなのだが。心配になってかけてやる言葉も彼の胸には響かないようで、そのことがひどく寂しかった。
 そういう、どこか不安定な心理現象に触れるたび。やっぱり良くないのでは、適任はもっと別にあるのでは、と考えてしまう。
 スザクを騎士に選んだのはルルーシュの頑なな意思だ。だから責任を持って手綱を握り、面倒をみてやらねばならない。将来は皇帝となるやもしれない自分の背中を、手放しで委ねられるくらいには立派な戦士に育ってもらわねばならない。
 なのに弱気になってしまう。自分が与えた仕事のせいでスザクを押し潰してしまうのではないかという不安が過る。彼には資質がなかったと言えばそれで終いなのだが、選任した責務に加えて隣に居てほしいという私情がある限り、口にすることは憚られた。これはルルーシュの甘さでもある。
 公人の自分はスザクを騎士から外すべきだと主張する。ともすれば、次期の騎士はブリタニア貴族出身の軍人が妥当だろうか。彼を選任した際も似たようなことを周囲から言われ、散々反対もされた。
 私人の自分は、志を同じくする彼と共に世界を創ってゆきたいと願っていた。己を理解してくれる人が傍で支えてくれる今の環境は、これ以上ないほど恵まれている。それでいて、こんなにも理解したいと思える相手はそうそう見つからない。
 言い方を変えれば、彼以外に己の騎士が務まる者が果たしてどれだけ居るのか、という猜疑心だ。ついそんなことを思ってしまう程に、ルルーシュの中ではスザクの存在感があまりに大き過ぎた。
 目先の益を考えると罷免するほうが望ましいだろう。有能な人種は探せばいくらでも見つかる。しかし既に築き上げられた厚い信頼関係とそうした合理性を天秤にかけたとき、果たしてどうすることが正解なのか、また分からなくなってしまうのだ。スザクの存在はある意味で、ルルーシュの判断力を鈍らせる最大の弱点なのかもしれない。



 その翌朝。大型飛行艇アヴァロンに乗り込み数時間の航行を経、ルルーシュはスザクと特派を連れて、予定通り外交出張に赴いていた。

「遥々お越し頂き感謝致します、ルルーシュ様」
「こちらこそ礼を申し上げたい。このような場を設けて下さり有難う御座います」
 親交国の外交官から迎えられた場所は国賓専用の海上空港であった。空港と称するが実際は名ばかりで、そこは海軍が使用する巨大空母の甲板である。辺りを見渡せば数多くの訓練用戦闘機が発着を繰り返している。甲板飛行場と呼ぶほうが正しいだろう。

 協定や条約の作成会議、懇親会の類はもっぱら国内の閣議室で行われるのが常だが、今回はそれとは違っていた。
 此度は互いの所持する戦術兵器、およびそれら削減目標の開示、意見交換の為の会談だ。実物を目の当たりにし、かの国はどこと戦っているのか、そもそも何故それが必要なのか、といった視点から今一度兵器の在り方を問い質すことを目的にしている。
 前例がない外交手段ゆえに世界各地で鮮烈に、あるいは批判的に、政治手腕の批評を交えて幾度となくバッシングを受けた。――所詮はガキの外交ごっこ、支持率集めのポーズに過ぎないだろう。――戦術兵器の何たるかをまるで理解しちゃいない。――自国の手の内を晒すのはつまり、丸腰と同義だ。誰がそんな話に乗るんだ。
 紛糾する非難の声は圧倒的と思われたが、しかし世界は存外広く、価値観は多岐多様に渡るらしい。物好きな小国が名乗りを上げると、じゃあうちも、と次に続く国家が現れ始めたのだ。伝播の波は徐々に広がり、最近ではひと月に一度はこうした場を設けている。
「いやはや、しかし驚きました。次代の寵児とも言いますか。停滞した世界情勢を根底から覆そうとする姿勢は尊敬に値します」
「貴国を始め、賛同して下さる声があってこそ実現しています。私がここに立てているのもそのお陰ですよ」
 アヴァロンを警護する軍用ヘリも着陸を始め、甲板には海風が吹き荒ぶ。不規則な暴風は衣服の裾を盛大にはためかせ、ついには手にしていた帽子も吹き飛ばした。
「……どうぞ」
 舞い上がったと思われた布きれは宙に浮かばれず、背後に控えていた男の手によって握られていた。
「ああ、すまない」
 手渡されたそれを握りつつ、ちらりと顔色を窺う。そいつはいつもより少し据わった目つきで、顰め面を浮かべている。寝不足と過労のせいだろう。海風の冷たさも堪えているのかもしれない。
 公人なのだから人相には気を遣えと普段から注意しているのに。これだから早く寝ろと言ったのに。第一印象というのは人が思っているよりも心理に働きかける部分が大きいのだ。
「長居は禁物です。お身体に障りますゆえ」
 始終を見ていた外交官が内部へ案内すると促してくれた。ルルーシュと一行はその後を追うように、巨大要塞へと足を運んだ。



 予定通り会談を終えた頃、到着時は朝日が見えた空も茜色に染まっていた。親睦を深める目的もあったから時間をたっぷり使って話し込んでいた。不思議と話題には困ることなく、今度はこちらがホストとして相手国との会談の場を設ける予定となった。一歩一歩は小さいながらも、積み重ねれば大きな原動力となり得よう。今はその準備段階なのだ。

 アヴァロンに乗り込み、各員はサクラダイトの起動準備にとりかかる。動力源設備の光が明滅し、着陸安全装置が解除され、気圧制御システムが作動する。やがて巨大な機体は浮かび上がった。巡航高度に達するまでは垂直浮上を続ける手筈だ。

 そうやって機体は問題なく動作していた。その瞬間までは。

 ――CAUTION……CAUTION……
 機体の態勢が安定しかけた直後、危険信号を報せる警告音が機内に鳴り響いた。自動音声の無機質な声音が背筋を冷たくする。コックピットモニタに映し出されたのは、復路となる飛行経路上に正体不明の飛行物体を捉えたとの情報であった。

「機影の解析は勿論だが、同時に他の経路を探せ」
「畏まりました」
 ルルーシュは制御装置を操作するセシルに指示を飛ばした。
「こちらに向かってくるにせよ待ち伏せされているにせよ、このアヴァロンの居場所と動きが割れることは一番に避けたい。ステスルモードで今から発進準備はできるか」
「エナジーフィラーは当分持つと思われます。しかしステルス発進の場合、今からシステムの構築し直しとなれば……非常に申し上げにくいのですが、数十時間……」
「そこまでもたついたら一網打尽とは言わずとも、こちらの損害は避けられないな。では緊急用の車両か小型機は内蔵あるか」
「相手国の協力を得られれば陸路でプライベート用空港に向かえます。しかし警備を大勢要するのではっきりした所要時間は分かりません」
「そうか」
「小型機はステルス未搭載のものしか積んでおりません。殿下を先に本国へお送りするなら車両の手配を先行したほうが堅実かと思われます」
「本国側ですぐに動ける軍はあるか」
「ジェレミア卿の率いる部隊が残っています。しかし陸戦用の機体が大半で、航空戦となった場合やや打撃力に欠けるかと。相手の素性が不明な限り、このアヴァロンを向かわせる方が確実です」
「……分かった。少し考える。その間に機影の解析を急げ」

 ルルーシュは司令席に深く腰を下ろし、肘掛けを指で数度叩いた。
 さて、どうしたものか。どの案も今ひとつ決定打に欠けている。予測不能の不安要素を抱えている。しかし、このアヴァロンを撃墜されるわけにはいかない。
「……お前はどう思う、枢木卿」
 ディスプレイモニターの明かりに照らされる横顔を見遣り、皇子は尋ねる。質問を受けた騎士はすぐさま、その問いに淀みなく答えてみせた。
「ランスロットにエナジーウィングを装備させ、飛行状態でわたくしと一旦帰還するのが良いと思います。皇子にはコックピットに同乗して頂きます」
「相手に遭遇したらどうする」
「一掃して強行突破します」
 戦略性の欠片もない返答に、感嘆を通り越して呆れた。この緊迫した状況下でよくも、どうしてそこまで大見得を切れる。こと緊急事態において何か策でもあるのか。
「私の操縦に不安が御座いますか?」
 その口ぶりからして、恐らく策は講じられていないだろう。スザクの頭には正面突破の四文字しか浮かんじゃない。
 彼はその場に言葉を残して、既にナイトメア格納庫へ足を向けていた。その手にはいつの間にか起動の為のマスターキーが握られており、奴はすっかりその気であるらしい。

 そこまで豪語されては、不安どころかむしろ頼もしさしか感じない。負ける気がしないとはまさにこの事である。だから逆に心配になるのだ。こんなにも彼を信用しきっている自分の単純さに。

「やっぱりお前で良かった」
「……光栄です」
 操縦席に座る男に向けて言葉を投げかけるが、彼はこちらに見向きもせず計器類の操作を続けていた。狭いコックピットに体を滑らせ乗り込むと、ハッチは自動で閉じられランスロットの背面に格納される。
「意味、分かってないだろう」
「はあ、まあ……」
 操縦桿を握りながら騎士は力なく答える。力なくというよりも、聞き流されていると表現するべきか。多くの起動準備操作に追われているらしい男は依然黙ったまま、コックピットモニタに映し出される文字列を虹彩に照らしていた。
「もういい。あとで言うから」
「うん」
 カタカタとパネルを操作する指先と入力される数字にふと視線を落とす。するとそこに表示されていた文字列は、ルルーシュの想定を些か凌駕するものであった。
「お前、その計算式はまさか発進速度か? こんな数値、装甲の耐久性を考えると」
「……喋ってると舌噛むよ」

 え、と呆けた瞬間。エンジンがフルスロットルで加速し、機体はアヴァロンの艦橋から射出される。そのはずみで後頭部を座席側へ強かに打ち付けてしまった。
 サクラダイトのけたたましい駆動音が耳を劈く。そして次々と鳴り響く制御装置の警報音を、スザクはあろうことか手動でひとつひとつ切っていたのだ。コックピット内の気圧は乱高下し、とてつもない重力が伸し掛かる。当然ながら体は悲鳴を上げる。
「この、馬鹿が……!」
 やがて安定態勢を保ち始めた機体は、本国に向けて一直線に飛行した。
「機体反応のあった地点を迂回して本国の基地に戻ります! もしこちらの進行を阻害する機体が現れた場合は、」
「一掃して強行突破だっけ?」
「当然です」
「……せいぜい安全運転で頼むぞ」
「イエス、ユアハイネス」
 機体の加速音が動力源を通じてコックピットにまで響く。これのどこか安全運転なのかと、ルルーシュは心の中で苦笑するしかなかった。



 結果として。
 ランスロットは敵機に遭遇することなく、相手国の領空に残してきたアヴァロンが襲撃に遭ったという情報も入ってこなかった。
 ルルーシュは帰国後ブリタニア軍を動員し敵機の捕獲を命じた。その際もし要求に応じずこちらへ危害を加えるのであれば撃墜を、とも付け加えて。そして空路の安全が確保されてからアヴァロンの回収に向かうよう指示を出した。

 出動部隊の調査の結果、謎の機影とその正体は反政府派のテロ活動の一環だったようだ。以前より報じられていた外交会談のニュースを耳にした彼らは帰国途中のアヴァロン襲撃を目論んでいたらしい。しかしステルス戦闘機でもない彼らの機体は当然、レーダーでアンノウンとして察知されたわけだ。
 が、そうした活動家集団の手元に戦闘機などの軍事兵器が渡っていた現実は重く受け止めねばならない。取締の強化を繰り返すも、未だ国家非公認で重火器の売買が横行する闇市場の完全撲滅は成されていない。政府の認識の甘さがツケとなって今回の事態となったのだ。これだけは覆りようのない事実である。



 調査報告や対策案などの会議に奔走したある日の深夜。朝から晩まで会議室にすし詰めにされ、それがもう三日目ときている。肉体的にもそうだが、精神状態は限界ぎりぎりだ。時刻は日付を超えてから三時間は軽く経過しているだろう。
 ルルーシュは披露困憊の体を引き摺りながら私室に戻ると、その奥にある書斎から灯りが漏れているのを見つけた。それと同時に思わず奥歯を噛み締め、僅かな怒りとやるせなさに頭がいっぱいになった。
 この私室を皇子の許可なく自由に出入りできるのは一人しか居ない。真っ直ぐベッドに向かって飛び込みたい欲求をひとまず堪えて、橙色の灯りが漏れる光源へ歩を進めた。

 机上に置かれたランプにスザクの横顔が照らされていた。柔らかい明かりは彼の輪郭を包み、淡い色を揺らしている。
「……こんな夜中に何をしている?」
「ルル、」
「言い訳は聞かない。早く寝ろ」
 呼びかけると彼は焦ったように顔を上げ、何かを弁明しようと口を開けた。しかし異論反論その他抵抗は一切許さない。聞きたくない。何も言わせない。声を出来るだけ低くして、その愚行をまずは責め立てた。
 彼の表情はすっかり疲れ切っていて、窶れているようにも見えた。日中の会議にはこの男も同伴していたから、疲労感を溜め込んでいるのは自分と同様のはずだ。こんな時間にも関わらず書斎の事務机に向かっている彼は、山積みにされていた本を手に取ろうとしたまま動きを止めている。
「一体何をそこまで熱心に……」
「あっ」
 積まれていた書籍のひとつを手に取る。スザクは慌てた声を上げるが気にも留めない。ルルーシュは暗がりの部屋で本の表紙に目を凝らした。
「ブリタニア国史……」
「かっ返してくれ」
「そっちの本は」
「わ、ちょっと、待って」
 制止を振り切って本をいくつか奪うと、それらもまた似たような内容だった。分厚いハードカバーの歴史書に資料集、図版、伝記。
「帝国王家の歴史、こっちは国土分布」
「ルルーシュ……」
 困ったような面持ちを浮かべる男を見下ろして、睨みつけた。
「勉強熱心だと、褒められるとでも思ったか!」
「……」
 頭を垂れる男に目も向けず、ルルーシュはそれらの書籍を本棚の元の位置に仕舞っていく。こうでもしないと彼は朝日が昇る頃まで書斎に籠りっぱなしになるだろう。あるいは朝日が昇っても気づかないか。
「もういい。分かった」
「……」
 トン、と最後の一冊を本棚に収納したルルーシュは唐突に話を切り出した。顔を伏せていたスザクはゆっくりと面を上げる。
「明日、スザクは一日休みだ。休みをやる」
「えっ? 休み?」
「ただしランスロットに触るな。勉強もするな。仕事をするな。いいか、この部屋で昼まで寝てテレビでも見て飯をだらだら食べておけ」
「は?」
「休養しろと言ってるんだ」
「僕は毎日十分な睡眠と食事を」
「とれてない!」
 食い下がるスザクの言葉に、ルルーシュはさらに言葉を重ねて発言さえも遮ってみせる。夜の帳はとうに落ちたはずの室内に怒号が響いた。
「ほらもう寝ろ。俺の命令が聞けないのか」
「あ、明日の君の警護は誰が」
「ジェレミアに、急遽にはなるが任せよう」
「そんな」
「いいから!」
 信じられない、という目で見つめてくる男を無理やり引き摺って、とにかく書斎から追い出した。頑固な性格はこういう時に遺憾なく発揮されるようで、ベッドの傍まで連れてきても納得いかない表情を張り付けていた。

 スザクを布団に押し込んだのは深夜の三時をとうに回っていた頃だ。まるで図体だけが大きい子供を相手にしているような疲労感に襲われる。
 とはいえルルーシュとて朝から公務の予定が入っている。反省会は明日以降に回すとして、今はとにかく寝ることが急務だ。
「……おやすみ」
 既に寝息を立て始めていたスザクに声をかけ、ルルーシュもその隣で眠りについた。



 翌日ルルーシュが部屋に戻ったのは、夕刻の鐘が鳴る午後五時のことだった。

 朝から議会に出席し、マスメディアや国民向けの声明文を発表し、先日の騒動について諸々の説明責任を果たしてきたのだ。まだ年の若いルルーシュが皇子として、あるいは次期皇帝の呼び名が高いことに懐疑的な民衆は大勢居る。彼らは鬼の首を取ったように今件に関して非難し、不信任の決議を執り行うよう訴える署名活動にまで発展しているようだ。宰相の器は必ずしも年功序列によって決められる問題ではないと頭で理解しつつ、しかし抵抗感を覚える市民が多数であることは自覚していた。
 こうしたイレギュラーな事態への対応力こそ有権者からの印象や支持に影響を及ぼす。ピンチはチャンス、とはよく言ったもので、今件の対策や説明次第では次期皇帝論に対する国民の見方は百八十度変化するだろう。
 逆に言えば普段からこつこつと積み重ねる善行は人の目につきにくい分、評価に結びつくまでには時間がかかる。もっと言えば、結びつかないケースのほうが多いだろう。人間というのは普遍的なテーマよりも短期的で刺激の強い事柄のほうが関心を抱き、興味を惹かれる生き物なのだ。
 かと言って国の代表が率先して戦争を起こしたり、このご時世に民族浄化や宗教弾圧を行うのは論外だ。そういった類の刺激ではなく、もっと外側からの、出来れば”外敵”として判りやすいレッテルを貼れる存在に遭遇する……だとかが理想的だ。国民感情の矛先が一点に向かえば、これ以上に遣りやすいことはない。たとえば国家の平和を脅かそうという悪意を持つ外敵との接触、なんてシナリオは丁度いい。
 だからルルーシュにとって今回の事態はある意味で棚からぼた餅、つまり思いがけない幸運があちらから転がり込んできた状況なのである。

 まだ薄明るい部屋を見渡すと、窓際に置かれたベッドの縁に腰掛け、夕方の空を眺める男の背中があった。
 重たい雲が幾層にも重なり、夕日の色はよく見えない。夜が近いと予感させる藍色が様々な濃淡で空を色付け、どこか気怠げで鬱蒼とした雰囲気を醸す。西の方角に目を凝らすと地平線の近くで薄橙色に染まる雲が視界の端に入った。昼と夜の境を漂う雲はその時々の空の色を映すだけで、自分を持たない素直な子供のようだ。
「……仕事はもう終わり?」
「ああ」
 重たいだけの装束を傍にある腰掛けに放り捨て、ルルーシュは窓際に歩み寄った。
「変わったことはなかったか」
「何も。退屈すぎて、どうにかなりそうだった」
「はは」
 目線の下にある頭に手を乗せて、昔から変わらない癖毛を指でかき混ぜた。乾燥してぱさついた毛先が手のひらに当たる。色のない頬や唇がこちらを見上げるように動いた。その様相は不健康のお手本みたいで、心臓の奥がぞっとした。
「食事は摂ったか。あと、風呂には?」
「昼に少し食べたけど、動かないからお腹が空かなくて。お風呂は今日は、まだ……」
「ああ、もう。洗面台に入浴剤を置いていただろ」
「そういえば今日、鏡を見てない」
「……この分からず屋。今から入るぞ」

 腕を引っ掴んで、脱衣所へとスザクを押し込んだ。え? と呆ける男の服を無理やり脱がそうとすれば、今度は先程と打って変わって頬を俄に赤くする。やり辛くて仕方ない。勘違いするな自分で脱げ、と命じれば彼は条件反射のように黙って服を脱ぎ捨ててゆく。これがそういう意味の誘いではないと彼は直感したのだろう。
 自分も身に着けていたものを床に落とし、一日ぶりに浴室へと足を踏み入れた。

 皇子の私室はブリタニア本国に構える宮殿の最奥に存在し、ルルーシュが次期皇帝に選任された時からは好きに使って良いと現皇帝のシュナイゼルに言われた。かつては国賓を招いた際のゲストルームとして時たま利用されていたが、ルルーシュが十七歳の誕生日を迎えた折に改築されたのである。
 寝室とリビングルームは地続きになっており、部屋の奥にある扉は小さいながらも書斎スペースも作られた。脱衣所と浴室も広めの間取りで用意されており、そこで暮らすにも困らないくらいには充実した設備の数々が揃っている。
 当然のようにスザクがルルーシュの私室に入り浸っているが、皇子の専属騎士である彼にもいちおう一人部屋は与えられている。皇子のような豪華さとはいかないが、下級貴族や軍人に比べれば好待遇と言える程度には使い勝手が良い。しかし騎士は皇子の私室に備えられた書斎スペースをいたく気に入っているようで、せっかく与えられた自室を使用することは殆どないのだという。



 そこそこ大きめに形作られた真っ白の浴槽はオーダーメイドで、大の男が悠々と脚を伸ばしても余りあるくらいには広めに設計されている。無論、設計の段階では一人で使用することが前提だ。ゆえに成人男性並みの体躯である二人が同時に脚を伸ばすとなると、物理的に不都合が生じるのは当然だった。
「湯加減はどうだ」
「丁度良いよ」
 手のひらで掬った湯は淡い赤紫色に濁り、芳しい花の香りが鼻孔を擽る。血行促進と疲労緩和に効果があるという入浴剤を用いた湯船は鮮やかに染まり、目にも優しい。
「おい、蹴るな」
「蹴ってないって」
「今のは明らかにわざとだ」
「なわけないだろ」
 浴槽の狭ささえ気にしなければ、入浴自体を満喫することは出来た。
 ルルーシュとスザクは向かい合って、伸ばしきれない脚を軽く折り畳みながら、そんな小競り合いを繰り返していた。なんせ脚を少し組み替えようとしただけで膝がぶつかり、相手の脛を蹴り上げてしまう始末なのだ。
「そもそもルルーシュが二人で入ろうって言い出すから」
「無駄に図体がでかいスザクのせいだ」
「上背は君のほうが大きい」
「足のサイズはお前のほう、が……!?」
 唇を開いた瞬間、生ぬるい液体が顔にかかって、同時に口の中にも入った。瞬きのタイミングが遅かったら目にも入っていたに違いない。目前には意地悪っぽく笑うスザクの顔が見えた。
「やっぱり鈍臭いなルルーシュ……っわ!」
 顔にかけられた湯を腕で拭いながら、空いた片手で水面を思いきり叩いてやる。すると舞い上がった飛沫がスザクの顔や頭に目がけて飛び散り、彼は湯船に居ながらびしょ濡れになっていた。
「出たよ、負けず嫌いの悪い癖」
「お前が人のこと言えるか」
 くつくつと堪えるようなスザクの笑い声が反響して、湯煙越しにくしゃりと破顔する。歯を見せて笑っているのを久々に見た気がして、そういえば彼が最後に笑っていたのはいつだっただろう、と暫く考えてしまった。

 軽口を叩き合うのも怒った顔を見るのも、久しく無かった。毎日のように行動を共にしていたのに、自分の記憶にあるスザクの顔はいつだって唇を引き結んで険しい表情を浮かべていた。
 当たり前だ。彼は常に、いつ何時どこから敵が攻めてこようと銃口を向けられようと、命に代えてでも皇子を守るという職務を背負っている。常に眼光を光らせ警戒心を露わにするのは当然だろう。そして、彼にそんな顔をさせているのは紛れもなく自分だ。

 ちらりと目が合う。長い脚が揺れて水面に波紋が浮かぶ。柔らかく弧を描く唇がゆっくり名前を呼んだ。ルルーシュ、と響く声は空気に溶ける。
「気を遣わせてごめん。有難う」
「なんだ突然改まって」
「いいんだ、もう。僕のせいでルルーシュが気を揉む必要はない」
「うん?」
「テレビ、昼間観たんだ。演説格好良かったよ。でも……」
 声がくぐもり、スザクは俯いた。前髪から垂れる水滴がまるで涙のように流れて、顎の下まで伝い落ちる。
「ジェレミアさんも格好良かったなあ。君の隣に立ってる姿、すっごく頼もしくて。それこそ僕なんか、よりも」
「……うん?」
「ルルーシュの隣にはずっと、僕が立っていたかった。でも僕より騎士に相応しい人はたくさん居て」
「いったい何の話だ」
 話の流れにひどい違和感を覚えた。目の前の男は今にも泣きだしそうな顔をしている。僅かに震える語尾と読めない話の顛末。気まずそうに逸らされる瞳は一体何を映しているのだろう。
「……言われなくても分かってるよ。ルルーシュの騎士を務めるべきなのは僕じゃない」
「誰がいつ、そんなことを言った?」
「言われるというか、薄々、感じてたよ。最近、ルルーシュの目はちょっと怖くて」
「……」
 湯の中で忙しなく動く指先は彼の情緒を知らしめているようだった。不安と後悔と怯えと恐怖、落ち着かない心地は見ているだけで伝わってくる。
「なんであんな学も才もない、卑しい身分の男を騎士にしたんだって言われてたんだろ。もう、僕のせいで君が悪く言われるのは嫌なんだ」
「……言いたいことはそれだけか?」

 ルルーシュが声を低くして再度問うた。
 いけないと思い、湯の中に沈めてあった手のひらを固く握った。でないと今すぐにでもこの男の頬に、拳を一発か二発食らわせかねないのだ。
「ルルーシュの隣に立って恥ずかしくないように、勉強も仕事も頑張った……頑張ろうとしたけど、一朝一夕じゃどうにもならない気がした。それこそジェレミアさんみたいな、教養があって仕事もできる、そんな人のほうが相応しいって……」
「じゃあなんでお前、いま、泣いてるんだ」
「……あ」
 スザクは自分の頬に手を当てて、くしゃりと顔を歪ませた。
「だ、だって」
「……」
「ルルーシュの隣に立つのは僕が……自分じゃないと嫌なんだ。もう自分が嫌になるよ……」
「……誰もスザクに辞めろなんて言ってないだろ」

 広い浴槽の中で膝立ちになって、目の前の体を引き寄せた。ラベンダー色の水面が跳ねて波がうねる。花の香りがふわりと舞って、ルルーシュは息を吸い込んだ。
「殴ってやるのは後だ」
 腕の下にある体がびくりと震えるのを感じたが、構わず言葉を続ける。
「俺がそんな覚悟でお前を選ばない。誰にでも務まるわけないだろ。俺はそこまで自分を安売りしない。それに俺はお前がいい」
「……」
「お前が良いんだよ」
 涙が滲む翡翠がこちらを見上げて瞬く。見開かれた瞳の眦から一筋の水滴が溢れて、それを指で拭ってやった。

 それからスザクは暫く呆けた表情を浮べていたが、緊張の糸が切れたか、あるいはルルーシュの言葉の意味をようやく頭で理解できたのか。彼は自分の中で止まっていた時間が再び動き出すかのように、今度は両方の目から大粒の涙をぼろぼろと流し始めたのだ。
「そ、そっか。そう、だったんだ……」
 今度は何なんだと困惑するルルーシュを他所に、男はどこかすっきりした表情を見せていた。



 いったい何が、どういう原因で、どんな経緯で。スザクはそんな悲しい勘違いをしていたのだろう。

 二人は逆上せそうになる体を一旦浴室の外へ移し、ひとまずゆっくり話し合うべきだという認識で合意した。
 風呂から上がって身支度を整え、空きっ腹に物を詰め込み、そして気がつけば時刻は夜の九時を回っていた。明日の予定を一旦頭の中で整理したルルーシュは、今から話し合いするのは止めておくべきだと主張した。明日は早朝から軍事訓練の視察があり、海岸線にある空軍基地にまで出向かねばならないのだ。スザクはルルーシュの意見を尊重し、時間の合うタイミングを見つけようということで話は纏まった。



 ブリタニア帝国最東端にある埋立地に、帝国軍部が有する空軍基地のうちのひとつがある。その敷地面積は中でも最も広く、戦闘機の離発着は勿論、可翔式ナイトメアフレームの飛行テストが此処で行われることもある。複数の司令塔が建てられ、それぞれに最新鋭のレーダーが備え付けられている。宇宙空間に打ち上げられた帝国所有の人工衛星とも常時通信を行い、いつ何時敵の襲来を受けても情報を傍受できるよう監視体制も万全に取ってある。まさに大陸の最終防衛ラインとして、その機能を果たしているのだ。
 此度の視察は訓練現場の実情の把握もだが、それ以外にも皇子が直接出向かねばならない理由があった。
 基地内の内陸部に建てられた倉庫には緊急時の為の食糧や武器の貯蔵がされてあり、軍用機の格納庫も隣接している。訓練用と実戦用で膨大な数の戦闘機を常に準備しており、ここが基地における戦局の要と言えるだろう。その中のひとつにステルス機能を搭載した最新鋭の無人戦闘機が配備されたと聞きつけ、折角のタイミングなので実物を見分しに来た次第である。

「こちらがブリタニア国内で開発されました最新の無人機です。最大加速度の上昇、耐久力は勿論折り紙付きです。そのうえ機体の発信機から送られてくるGPS情報と実在地の誤差はほぼゼロとなり、とくに繊細な位置調整を必要とする遠隔射撃でも高い有用性を誇るスペックへと進化致しました」
 案内役の基地司令官がその鉄の塊について流暢に説明をする。
 現在の軍需産業において、最もトレンドと言われるのは専ら無人兵器というワードだ。人間と人間が戦地で衝突する戦はもはや前時代的で、近未来では遠隔操作されたロボット兵器が相手の陣地をいかに焼き払い、多大な損害を与えるかが鍵なのだ。飛行ロボットのドローンに爆弾を積むところから始まり、自動運転の戦車が開発され、最近では無人戦闘機の需要が高まっていると聞く。
「ブリタニアはこれまで、そして今現在も、ナイトメアフレームの開発に注力しております。しかしやはりですね、次世代はこういった無人機が戦場の主力になっていくのだと私は確信しています」
「理由を尋ねていいか」
「最たるは軍人の数の確保でしょう。兵士の育成には莫大な税金が投入されている。キャリアを積んだ優秀な兵士は技術もあり重宝する。しかし前時代的戦法では貴重な兵力を使い捨てるばかりです」
「だが兵器の無人化が進むと戦争が長引くことにならないか? 兵士不足という分かりやすい指標がきっかけで終結した例もあったはずだが」
「前線は高火力・高耐久の戦術兵器が必要となります。仰るとおり、全面的な無人化はそれこそ戦争の長期化を招くでしょう」
 どこか納得いかない顔つきを浮かべるルルーシュはそうか、とだけ答え、全長数メートルにもなる件の戦闘機の外周をゆっくり歩いた。

 戦争の無人化というのは現代以前より論じられてきた。集団よりも個を重視する社会理念が世界全体に築かれつつある中、この傾向は非常に合理的だ。自軍の兵士が誰一人死なず勝てるなら、どこの将軍だってそうしたいに決まってる。兵士だって自分の命も大事にしたい。少ない労力、少ない犠牲で済むなら尚のことだ。
「枢木卿はいかがでしょう。ナイトメアフレームのエースパイロットとしてブリタニア軍を率いる貴方の意見を伺いたい」
 案内役の男は皇子の後ろを歩く騎士に問うた。
「時代の流れがそうなのでしたら、ブリタニア軍も変化を受け入れる必要がありそうですね」
「……ええ」
 男は眉を少し動かし、釈然といかない表情を浮かべる。しかし騎士は気にせず話を続ける。
「精神論を唱えるわけでありませんが……戦局を変えることができるのは結局、戦場に立つ生身の人間だけだと思います。戦争に勝つに必要な条件は、決して数的有利に限らないという理由がそこにある」
「随分と曖昧で、抽象的なご意見だ」
 嫌味っぽく所感を述べた案内役の男は、騎士を観察するようにじっと見つめる。今度はその男が口火を切った。
「帝国はナイトメアフレームに頼る戦法で大成した。しかし人型ロボットではどうにもならない場面が、これから出てきてもおかしくない。対立国はナイトメアフレームへの対策を確実に練っているのです」
「サクラダイトの貿易事業に関する世界条約が先日緩和されましたから、軍事バランスはさらに混迷を極めるでしょうね。それでも……」
 騎士は鈍色に光る大きな体躯を見上げて、それからこう話した。
「私は最後の一人になるまでナイトメアフレームのパイロットとして戦場に立ちます。これが私に与えられた使命ですから」

 良くも悪くも彼らしい、直感的な考え方だ。幾度となく死線を掻い潜ってきた者にしか分からないのであろう感覚を、真っすぐ言語化するのは容易でない。その言葉を額面通り受け取っても、恐らく彼の言わんとすることは伝わらない。
 ルルーシュはそう確信した上でスザクの話に耳を傾けていた。司令官の男はスザクの言うことにやはり納得いかない面持ちである。同じ武人として通ずるものがあるのかと思いきや存外、思考パターンが異なれば噛み合わない部分もあるらしい。

 ルルーシュは論理的な思考を持ってして持論を展開するのに対し、スザクは直感で感じたことを言葉に当てはめる割合が多い。彼自身もそれを自覚しているのか、言葉を選ぶのにかなり気を遣っていることが見て取れる。そして主張そもそもの根拠が、有り体に言って薄い。論より証拠を地で行く彼の性質は、具体性のない事柄を言葉で出力するのにあまり向いていないのだ。

 不毛にも思えた会話の行く末に言葉を挟んだのは、やはりルルーシュだった。
「……戦局や場の流れを掌握するのはいつだって生身の人間であるんでしょう。気迫、プレッシャー、恐怖。そうした障壁を超えた者は時として、我々統率者側の予想を遥かに上回る働きを見せる。司令官もそうした経験に心当たりはないか?」
「ああ成程……枢木卿のご主張がようやく腑に落ちました。機運を手にするのは心の宿らないロボットでなく、我々人間側であり……そうした者たちが自軍に勝利をもたらすと。そういう訳で御座いますね」
 理解を示した男は騎士に非礼を詫びた。当の本人は少し困ったような表情を浮かべていたが、彼は彼なりにその立場で出来る役割を果たしたのだ。もっと嬉しそうにすればいいのに、と思わずに居られない。



 一日の仕事を終えて部屋に戻ったのは夕刻を少し過ぎたあたりで、そこから食事と風呂を先に済ませた。今夜は昨晩の仕切り直しで、今度こそ彼の口からその真意を問い質す手筈となっている。まだ夜まで時間はたっぷりある。ルルーシュは時刻を再三確認し、先に彼を待たせているリビングルームへ向かった。

 風呂から上がって身支度もそこそこに、二人はリビングのソファに隣合って座った。
「まず前提として、俺はお前を罷免する気はない」
「……ああ」
「そしてお前も……自ら望んで辞める気はない」
「そうだ」
 ローテーブルに置かれた明かりが薄暗い部屋を照らしていた。毛足の長い絨毯に長い影が伸びて不安げに揺れる。
 スザクはどう説明しようかとしばしば考えながら、ぽつりぽつりと言葉を溢していった。お前のペースでいいよ、と声を掛けると、安心したような面持ちで彼は口を開いた。

 スザクの話を纏めると要は、こういうことだ。

 ルルーシュの騎士として着任してすぐの頃。その時から既に、なぜ皇子はブリタニア貴族出身の人間ではなく、ましてや名誉人を騎士に専任したのか甚だ疑問だ、という声を軍部や宮殿内で耳にしていたらしい。血統や出自を古くから重んじてきたブリタニア人にとって、純血どころか元日本人の彼を神聖な宮殿に招くべきでない、という価値観を持つらしい。それはブリタニア市民にも蔓延る思想だ。しかし国内外問わず数々の反乱やクーデター、紛争にランスロットは駆り出され、そのたびに争いを諫めてきた。数々の武勲を打ち立て、多くの実績を積んだ。今や彼の力なくしてブリタニア帝国の平和維持は成し得ないのだ。
 そうした経歴をもってして、スザクは皇子の専任騎士としての地位、名声を確固たるものにしていく。醜聞など聞く耳を持たなくていい。聞くに値すらしない。
 そして、こういう話は以前から二人の間で何度も交わされていたはずだった。共通認識だった。

「しかし、いくら国民の支持は得られても、宮殿の……とくに俺の皇位継承権を僻む連中の顔色はますます悪くなった」
「ああ。僕をダシにして君をこき下ろそうとする」

 嫉妬と怨嗟が渦巻く貴族階級の間では専ら悪評が付き纏った。皇子が打ち出した政策のひとつである、特権階級撤廃の働きかけは彼らの神経を逆撫でするに十分だった。皇子を批判する材料になるなら、彼らは何だって批判の的にする。
 その頃になると二人の公務量はうんと増え、重要な会議や外交会談に出席する機会も多くなった。就任当時には賛否両論が多かった若き皇子と騎士に対し、宮殿内部では徐々に賛同する人間が増えていた証拠だ。預けられる仕事内容の難易度は上がっていった。
 確かな手ごたえを感じると同時に、スザクはここにきてある問題に直面することになったらしい。
「僕はあまりに知らな過ぎたんだよ、物事を」
「最初は皆そういうもんだ」
「うん。分かってはいたんだ。でも情けなくて」
 膝の上で組まれた指が忙しなく動かされた。その落ち着きない仕草は、言葉の端々からでも伝わる心象そのものだった。
「なんでここに居ることが許されてるのか、分からなくなった」
「俺を守るためだろ」
「本質はそうだ、けど……」
 スザクは続きの言葉を探しあぐねる様子を見せ、口を閉ざした。

 どれだけ末席であろうとブリタニア家に生まれた子供はみな幼い頃から帝王学は必ず学ばされる。ルルーシュもそうだった。それ以外にもいわゆる英才教育とやらを叩き込まれ、どこに出しても恥ずかしくない、皇族としての資質を備えた人間に育てられる。
 そして貴族階級や上級軍人ともなれば皇族と遜色ない、似たような教育方針を取るものだ。誰しも学識を身に着けたうえで武を習得する。軍人としての資質は優れた人間性にしか宿らないという考え方が根底にあるらしい。

 スザクは決して馬鹿でも無知でもない。少々真面目が行き過ぎるだけなのだ。一般的な教養水準を満たす歴史や文化知識、国民性は頭に叩き込んであるし、政への関心もある。世界情勢は流動的なものだから、現時点で丸暗記したところであまり意味はない。現代史の教科書の内容なんて明日には書き変わっているかもしれない。そういう次元の話だ。
 だが彼は自分を無教養だと思い込んでいる節がある。あるいは人一倍に強烈な劣等感を常に抱いている。
 確かに宮殿内に出入りする者はみな、一流の教育を施されている選ばれた人間ばかりだ。有能過ぎる周囲と比較すれば彼の言う結論に達するのは当然とも思われるが、それはあまりに安直な見方だ。大学で教鞭を取れとは言ってないし、そもそもスザクに求めている働きはもっと別のところにある。

「もう自分を貶すのは止めてくれ。なあ、どうしたら分かってくれる」
「ルルーシュ」
「俺にはお前しか居ないのに」
 目前にある緑の虹彩が震えて、じっとり濡れてゆく。少ない部屋の明かりに照らされて浮かび上がる輪郭はこんなに大人びているのに、内面はまだまだ子供っぽい。年相応の幼さに触れるたび弱肉強食の厳しい世界へ連れ込んだことに、僅かでも後悔の念を感じてしまう。

「なあ、セックスしよう」
「……え?」
 ルルーシュは言葉を紡ぎながら、着ていたシャツのボタンを上から順番に外して、自ら薄い胸板を晒して見せた。スザクの翡翠は複雑な色を湛えている。言われた意味を理解できずに居るらしい。困惑と混乱が綯い交ぜになっている。
「触ってくれ」
「なんで」
「いいから」
「良くないだろ……」

 部屋に置かれた大きな古時計がごおん、ごおんと鈍い鐘の音を鳴らした。夜の九時を報せるその音に紛れるくらい小さな声で、早く、と溢す。わざと熱っぽく、誘うような声音を使った。
 すると太い腕が肩に回され、後頭部へ無骨な手のひらが差し込まれた。襟足を擽る指の動きに釣られ、反射的に上を向くと唇が下りてくる。目を瞑ればすぐに生温かい感触が伝わって、とくとくと胸が高鳴った。
「ふ……」
「っん、う」
 柔く食むような接吻を受け止め、鼻から息を漏らしている間。シャツの隙間から器用な指が入り込んで皮膚を撫で上げてゆく。胸の頂きを掠める温度に喉の奥が鳴った。
 熱を煽る不埒な動きに、ルルーシュは胸を突き出すように体を揺らして、もっと、と催促した。決定的な刺激が欲しいと、目の前の体を掻き抱く。彼はその欲求に応えるように、まだやわらかい乳首に爪を立てた。
「……っあ!」
「ルルーシュ」
「ん……」
 輪郭が蕩け始めた瞳を見上げて、緩く頬を綻ばせてみる。徐々に熱を上げ始めるスザクは、ルルーシュの表情の変化にただただ釘付けになっていた。

 もっと触って、教えてほしい。自分はお前にどうされたいか、お前は自分をどうしたいか。
「……俺もスザクに、言わなきゃいけないことがある」
「狡いな。教えてよ」
 耳元に口づけられ、シャツの裾から侵入する手のひらが脇腹や臍のあたりを擽る。分かりやすく色っぽい仕草に情緒がかき乱された。はあ、と熱い吐息が漏れると、湿っぽい空気の匂いがさらに濃くなった。
「最近のスザクを見るたび、騎士に選んだのは間違いだったんじゃないかって、思うことがあった」
「……は」
 蠢いていた指はぴたりと止まった。スザクは浅く呼吸をしている。
「……今ここにナイフがあったら、首を掻き切ってた」
「まだ死ぬなよ」
 ルルーシュはスザクの体にしどけなく凭れ掛かり、首に腕を回した。訝しく顰められた表情を見据えて、ルルーシュは尚も声を発する。
「ずっと考えていたんだ。お前をこの世界に引き込んで、縛り付けているのはこの俺だろう。すべての責任は俺にある」
「そんなことは……」
「……お前ならそう言うと思ってた」
 何か言いかけたスザクの唇を自らのもので塞いでやった。そして構わず話を続ける。
「スザクが得体の知れない悪意に晒されるたび、嫌な気持ちになる。もっと俺がしっかりしなきゃいけないのにな。全部跳ね除けれらるくらい、強い力が欲しい」
「なんでルルーシュが気に病むんだ」
「お前の顔から笑顔がどんどん消えて、自分の心配もできないくらい頓着しなくなっていくんだ。スザク、お前は気づいてたか? 俺はそれがすごく嫌で後悔してた」

 目前に見えるシャツを剥ぎ取って、程よく筋肉のついた腹筋や色の薄い乳首を指でなぞる。乾いた皮膚にそっと舌を這わして舐めると、ぴちゃりと唾液の水音が小さく響いた。
 奉仕することにはあまり慣れていない。これが正しいのか、そもそも彼がどう感じているかは分からない。いつも自分がされて心地よいと思うことを、そっくりそのまま再現してみただけだ。
「元を辿れば俺のせいだ。俺はスザクに枷をかけた。お前がそれを望もうと望むまいと課せられた責任は死んでも付き纏う」
「つまりどっち? ルルーシュは僕に騎士を降りてほしいのか?」
「断じて違う。俺にはお前しか居ない」
「僕もルルーシュ以外に仕えたくないな。帝国に忠誠を誓ってるわけじゃないし」
「だろうな」
 スザクは皇族や皇子といった地位に頓着はなく、ルルーシュ自身に使役されたいと強く願っている。彼の歪んだ忠誠心は普段の言動から滲み出ていた。だからこれは周知の事実だ。そういうことにして問題発言を黙殺したあと、ルルーシュは淀みなく話を続ける。
「こないだ休ませたのはスザクがもっと自分を省みてくれたらと……そういう時間が必要だと思ったからだ。でも逆効果だったらしい」
「とうとうこの時が、ついに来たかってね。断頭台に上がるのを待つ気分だった」
 物騒なワードには自虐の色も含まれていた。ルルーシュはそんな声を耳にしながら、胸から腹部へと唇を動かしてゆく。ちゅ、ちゅ、と音を立てながら肌を愛撫するのはどうにも気恥ずかしさが付き纏う。

 下腹部へ辿り着いた時点で、男の股座に手を宛がう。恐らくこのあたりに存在するであろう膨らみを探るも、手のひらには何の感触も見当たらなかった。
「……勃ってないなんて、失礼な奴だ」
「こんな話をしながらどうしろって言うんだ」
 今度はスザクの腕が伸びて、ルルーシュの体の線をなぞる。胸から腹にかけて形を覚えるみたいに何度も手が往復して、とうとう下半身に届く。股間に当たった指先は一瞬震えたあと、あれ? と驚いた声が聞こえた。
「……ルルーシュは勃ってたんだ」
「その言い方やめろ」
 柔和な笑みを浮かべた男の唇が降ってくる。かさついた皮膚を擦り合わせ、舌で舐めてそこを湿らせる。伸ばされた粘膜を追いかければ唾液が混ざり合う水音が、耳の奥によく響いた。
 触れるか触れないか、絶妙な力加減で肌をなぞられる感触に心は落ち着かなくなる。下着の内側に滑り込んだ指が下生えを撫でて、たったそれだけで期待する体が熱くなる。
 早くどうにかされたいのに。そういう明確な欲望を持っていてもなお、その先を強請る方法がルルーシュには分からない。
「なんで、俺ばっかり……」
「ルルーシュ?」
 スザクの下半身を布の上から弄り、衣類を下ろすように引っ張った。困惑する男の反応を他所に、まだ形の変わらない陰茎が下着からはみ出る。それを徐に手のひらに包んで握ると、少し焦った声が頭上に降り注がれる。
 肘をつきながら上半身を屈ませた。そこでようやく主旨を理解したらしい男は、この期に及んで僅かな抵抗を見せた。でもここまできたら自分も引くに引けない。構わずに露出した陰茎の先端を口に含み、じゅる、と鈴口を吸う。
「は、ちょっと、あ」
 頬にかかる髪の毛を掻き上げられ、顔がよく見えるようにされる。スザクだって満更じゃない。頭を撫でられると羞恥心が渦巻いて、どうにも振り払いたくなる。
「も、もっと、咥えてみて」
 根本を支えてある指までとりあえず、口内に迎え入れる。喉の奥に丸い先端が当たる。奇妙な感触だ。味やにおいはしない。つい先ほど入浴を済ませたからだろうか。

 ルルーシュは根本的に、奉仕的な行為に不慣れだ。勝手がさっぱり分からない。どこをどうすればいいか迷ってしまって、すぐに手が止まる。たどたどしく拙い口淫だった。
「すご」
 大きく息を吐いて、スザクが呟く。ぬちゃぬちゃと粘っこい水音が混ざる音が断続的に流れて、耳を覆いたくなる。舌の上に垂れてくる先走りのようなものは独特のぬめりを伴って、喉奥へと流れてゆく。
 やがて硬く膨らみ始めた肉茎は口腔に収まりきらなくなった。浮き上がる裏筋の血管を舌でなぞりながら、ルルーシュは再び困惑しきっていた。
「もうじゅうぶん、すごく可愛かった、上手だよ、有難う」
 濡れそぼった唇を拭われ、ルルーシュはそうか、とだけ呟いた。上手いも下手もあって堪るかと、内心叫びたかった。
「ベッド、行こうか」
「……ん」

 身に着けていたものをソファに置いて、テーブルの明かりを消して、開いていたカーテンを閉じた。二人の夜は密やかに、誰も知らないところで始まろうとしている。

 もう余すことなく明け渡したこの体を、醜い劣情を、もうこれで何度目になるのかは分からないが再び晒し出す。まだ恥ずかしさは抜けないが、不快感は初めからなかった。
 肌に触れる指の温度へ、この身全てを委ねる覚悟なんてとっくに出来ている。それと同じくらい彼に求められたいと、今は素直に思えた。




 網膜を刺すような激しい光に唸ると、ああごめん、と軽い返事が返ってきた。やけに肌触りの良いシーツに妙な倦怠感と、尻の穴の痛み。昨晩そういえばそういうことをしたからか、と妙な得心を感じつつ、ベッドからゆっくり起き上がる。

「おはよう。元気?」
「……あまり」
 少し早く起きていたらしい男はシャツを羽織りながら、水差しから移したコップを寄越してきた。こういうときだけ甲斐甲斐しい性格だから癪に障る。が、向けられた善意を今だけは素直に受け取ることにした。
「カーテンを閉めてくれ、眩しい」
「相変わらず朝は弱いんだな」
「うるさい。一体誰のせいで、こんな……」
「誘ったのはそっちだろ」
 ぼさぼさの寝癖頭を笑われても、今は何の反論も浮かばない。時計をちらりと確認するが、午前中の公務にはじゅうぶん間に合う。まだしばらく微睡んでいたい気分だから丁度いい。
「なんで昨日は急に誘ったの? そんな雰囲気じゃなかったのに」
「……肌を合わせたほうがお互い素直に、気持ちが伝わるかと思って」
「へえ?」
「変な顔するな」
 にやけるのを必死に堪えている。誤魔化そうったって無駄だ。そう指摘すると、スザクは可笑しそうに笑って破顔する。
「伝わったよ十分。今回のことは、僕らの今後の課題だ」
「ああ」
 顔を覗き込まれ、目を合わせた。そうして恭しく手を取られたと思えば甲に口づけされる。
「この先も俺の隣に立っていてくれるか」
「……イエス、ユアハイネス」
 潤んだ翡翠の双眸は、ルルーシュにとってずっと忘れられない色になった。だからこれを心の拠り所、よすがとする。