神さま、僕は醜い子

 朝の身支度の順番は必ず決まっている。カッターシャツに腕を通して、皺一つないスラックスを身に着ける。サスペンダーを肩から通して腰のベルトに装着したあと、ベストを着る。そのあと剣帯を腰に回して金具で固定し、ジャケットを羽織る。剣帯に通すのはあくまで儀礼刀ではあるが、いちおうは本物の刃が鞘に収まっていた。
 全身鏡を見つめて着崩れがないことを確認する。顔も洗ったし寝癖も直した。最後に白い手袋を両手に嵌めて、自室を後にする。
 殿下は何かと他人の身嗜みに口煩い。彼の騎士として着任した当初はやれネクタイの結び方も知らないのか、と人前で謗られたくらいだ。人目があるにもかかわらず、その場で手ずからネクタイの結び直しをさせられたときは羞恥と情けなさで死にたくなった。
 今となれば笑い話だが、それは毎朝丁寧に順序立てて身支度に時間を割いている自助努力の成果である。あの男はそれを"騎士侯として当然の務めだ"と宣う。そこまで言われると言い返す言葉もとうとう見当たらず、はいそうですね、と言わざるを得なくなるのだ。自分のここ数か月の努力は、彼にとっての些事だった、というわけだ。

 主人の部屋の前に着き、扉をノックした。殿下、まもなくお時間です。毎朝述べられていた口上は意識せずとも勝手に喉から出てくる。物言わぬ扉の向こうは大して間も置かず、ややあって開かれた。

「おはようございます、殿下」
「おはよう」
「これから三十分後に講堂で会議の予定が組まれてます。朝食はいかがしますか」
「コーヒーだけでいい。席に用意しておくよう指示しておいてくれ」
「畏まりました」

 早足気味で歩く男の半歩後ろを付いて歩く。揺れる黒髪の毛先の流れをぼんやりと目で追いながら、指示された内容を脳内に記憶していく。そのあとも矢継ぎ早に今日の予定について、質問や指示が飛ばされる。それについてひとつひとつ整理しながら、短期記憶として保存した。
 朝の廊下は人も少なく静かだ。二人分の足音と声と息遣いしか耳に届かない。床に落ちた朝日と窓枠の影がぼんやりとした境界線を滲ませ揺れていた。窓の外は色の薄い青空が伸びて、柔らかい光に包まれている。足元に伸びる影は付かず離れずを繰り返し、一定の距離感を保っていた。
 清潔な空気と健やかな朝の景色の中に悠然と佇む背中は、とても神聖なもののように見えた。近寄りがたい、畏怖するべき象徴的な何か。触れるのも躊躇われるような清らかさと、信仰心さえ懐きたくなるような神秘性。憧憬だけでは表現し足りないだろう、もっと雄大で底知れぬ畏敬を、自分は抱いていた。
 人の理から少しずれた美しさと才覚に触れるたび、それが少し恐ろしくなった。自分のような人間が傍に居て良いのだろうかと、不安に襲われるのだ。情けないことに彼の騎士として着任してもなお、その意識は心の底で根を張っていた。

 ああそうだ、と呟きながら前を歩く男が不意に立ち止まった。
 一体何でしょう。そう言葉を返そうとした瞬間、手前に伸びてきた手に意識を奪われた。
「寝癖が残ってる」
「え」
「……ふ」
 前髪のあたりをくしゃりと掻き混ぜる指先が頭皮を撫でて、毛先をもて遊ぶ。ふわふわと撫ぜるような仕草が擽ったい。そうして手を離した男はどこか満足そうに微笑んで、ほら行くぞ、と言い残した。
 少し後ろをついて歩きながら、窓ガラスに映る自分の姿を食い入るように見つめた。しかし何度見ても寝癖らしき痕跡は見当たらない。第一、私室を出る前に頭髪は何度も確認している。寝癖で叱られたことは幾度もあったから最も気を遣っているくらいだ。
 触れられた部分に自分の手を当てて、毛束を摘んだ。それから視界の真ん中に映る背中を見遣って、じわじわと浮かび上がる甘ったるい可能性に顔が熱くなった。

 たぶん自分はいま、頭を撫でられたのだ。
 体の脇で手持ち無沙汰になっている白い手のひらを視線で追って、自分に都合のいい結論をつけた。なんの脈絡もなく与えられる愛情表現はとても心臓に悪い。そう気安く触れられると、どうしていいか分からなくなる。
 白く細い指は窓から差す朝日に照らされて、優しく光っていた。艶々した爪は貝殻のように指先に収まり、きめ細やかな皮膚は淡い肌色に染まる。

 どこを取っても綺麗で愛らしくていじらしい人だ。
 それを実感しながら自分は、手袋に包まれた手のひらを無意識のうちに握り締めていた。



 神さま、僕は醜い子



 凛とした表情のまま朗々と発せられる音に、官僚や専門家らの鋭い視線が集まる。ルルーシュは臆面もなく発議された内容について自身の意見を述べ、これを周囲に投げかけた。肘掛けに腕を据えて脚を組み、横柄な態度を隠しもしない青年の突飛な論述に、周りからは当然反対意見が噴出した。
「既得権益の寡占状態を見過ごすわけですか? これを国民が許すとでも?」
「これは権限の適切な行使だ。若輩には分からぬと思うが……」
「なら、この不自然な経費の計上は一体何ですか?」
「何度も言わせるな。予算範囲内の適切な運用だ」
「それなら領収書を見せてください。軍事予算は年寄りの小遣いの為に組んでいるわけじゃない」
「この……お飾りの皇族が……」
「……静粛に。殿下も発言内容には慎みを持って頂けますよう」
 議長の声が講堂に響き、両者は募った溜飲を飲み込んだ。

 ルルーシュは明晰な頭脳とそこから振るわれる弁舌で、時に議会を纏め正しい方向に導き、またある時は紛糾を巻き起こし引っ掻き回す。その振る舞いは傍若無人で無責任であるとする見方がある一方、冷静で的を得た主義主張は評価に値するという声もある。しかし彼本人は周囲の批評など雑音でしかないと切り捨て、私利私欲に塗れた信念なき政治家たちに真っ向から弁論を挑む。襟の捻れ曲がった彼らを国政から追放し、風通しを良くすることが狙いらしい。
 泥臭く無鉄砲な戦法は一見無茶苦茶で無謀に思えるが、ルルーシュは本気だ。
 見栄も虚栄も張らない、ストイックでひたむきな姿勢はスザクにとって、とても好ましかった。賄賂や汚職、献金、コネクションに癒着。嘘と世辞に塗れて飾られたこの世界で、等身大であり続けようとするルルーシュだけがこの世の真実だと思えた。

 決議にまで散々難航した挙げ句、結局最終決定は次週に持ち越された。会議は踊るという言葉もある。まさにこれが言い得て妙で、結論が出るまで散々二転三転したと思えば反対意見がこれをねじ伏せ、事態は混迷を極めた。飛ばされる野次や怒号の内容も行き過ぎたものばかりで、粛々とした話し合いとは程遠い。これが帝国議会の実情である。とても国民には見せられない醜い現実だ。
「ああ、疲れた」
「左様ですか」
「あんな、ふざけた決算書を受け入れるわけにいかないからな。何としてでも取り下げさせてやる」
 なんの気ない口調でぼやく男の横顔を盗み見た。その様子は疲れ切ったというよりも清々した、と表現したほうが適切だろう。今に見てろよ、と不敵に釣り上がる口角が悪役じみていた。
 どこか晴れやかな顔色は気に食わない文官を論破できたからか、彼らの不正を弁論の場に叩き上げることが出来たからか。どちらにせよ、結論が纏まらなかったことは彼としても狙い通りであるらしい。

「もうすぐ昼食のお時間ですが」
「執務室に用意しておいてくれ。枢木卿もどうだ」
「是非ご一緒させて下さい」
 廊下を再び歩きながら道すがらそんな話をした。通りかかる使用人や給仕たちと何人かすれ違いながら、昼から過ごす予定の部屋に向かった。



 皿に乗せられた肉や魚や野菜を口に運び、黙々と食事を済ませる。厨房係が毎回凝ってるらしい盛り付けや飾りにはさして興味も感動も覚えない。機械的に手を動かして、皿の上を平らげていくのみだ。
 対して、スザクの向かいに座るルルーシュは膝に置いた新聞を眺めている。フォークを動かす手はどこか覚束ず、ゆっくりしたペースでそれらを口に運んではのんびり咀嚼していた。
 赤い舌と白い歯が覗いて、銀色のフォークが唇に挟まれる。ソースのついた口の端を舌がなぞって舐め取られる。ほっそりした喉仏が上下し、口内の物を嚥下する。
 口元の些細な仕草がどうにも目について、食べ物の見た目を気にするばかりか味わうことだって禄に出来やしなかった。味はたぶん美味しいはずだが、よく分からなかった。もはや自分はそこから出来るだけ目を逸らし、"食事"という行為を淡々とこなすしかなかったのだ。
「なあスザク」
「うん」
 コップの中身を呷りながら、騎士は気の抜けた相槌を溢した。
「ずっと気になってたことがあって」
「うん」
「……それ」
 フォークを握ったままの手で人差し指を向けられた。
「なんでいつも手袋してるんだ」
「別に深い意味は、ないけど」
「……ふうん」
 なら外せばいいのに。そう言いたげに、紫の双眸がじろり、と睨んでくる。スザクはそれに気づかない振りをして、再び食事を再開した。
 白い布に覆われた手でフォークを握り、ドレッシングのかかったレタスと肉を同時に突き刺し、口に押し込む。スザクのなんてこと無い摂食風景をまじまじと見つめるルルーシュは、不服そうに唇を尖らせた。
「もっと味わって食べろよ」
「ちゃんと美味しいよ」
「お前は嘘が下手なんだから、あまり適当なこと言わないほうがいい」
 ルルーシュは呆れたようにそれだけ言うと、再び新聞紙に視線を落とした。深く追求する気はないらしい。彼のそういう分かりづらい優しさに、今まで何度も救われてきた気がする。

 騎士と皇子は人前に出るとき以外は基本的に、その立場を弁えない。騎士はまるで皇子を親しい友人のように扱うし、皇子は騎士の態度に文句のひとつも零さず、それを当然のように受け入れていた。これは宮廷の誰も知らない、両者の間だけで交わされた約束事だった。
 つまり二人は、誰に知られることもなく人目を盗んで、そういう意味の交際を続けていたのだ。
 前途ある若い青年同士が。しかも一方は国の未来を担う皇子ともあろう者が、もう一方は名誉軍人上がりの卑しい身分の人間が、同性交遊していると知られたら。皆が皆、手放しで応援するとは限らないだろう。惚れた腫れたに現を抜かすとは何事だと言いがかりをつけられたり、二人で居るところを好奇の目で見てくる輩も出てくるかもしれない。
 大っぴらにするより隠しておいたほうが、何かと不便は少ないだろう。両者の間で意見は一致し、人前ではあくまで主従関係を徹底しよう、という運びになったのである。



 昼食を終えてから場所を変え、今度はKMFの技術者や研究員らとの意見交換会を行った。国防は国を運営するうえで重要な課題目標であり、その中でもKMFの運用方法については今の軍事力を維持する為に必要不可欠な要素だ。これなくして現在の神聖ブリタニア帝国は存在しない。
 帝国は軍需産業に多額の予算を宛てがい、これに投資を続けている。優秀な兵士を育成することも当然抜かりなく行われているが、同時に新兵器の開発にも余念はなかった。
「パイロット用の新しいモビルスーツについて、幾つか案が御座いまして……」
「へえ。拝見させて頂いても?」
「資料はこちらです」
 高い伸縮性を備えながら着用者の外部ダメージを軽減し、通気性や体温調節などの機能性に優れた新素材を採用。力学的な根拠に基づいて設計されたスーツはオーダーメイドで、快適な着心地を実現可能。KMF適正を阻害しない特殊繊維を配合し、同業他社の製品とは一線を画する。
 耳障りの良いセールストークが暫く続き、室内の壁に投影されたプロジェクターのスライドが懇切丁寧に製品の紹介文を記していた。
 ルルーシュの手元にはスライドと同じ内容のレジュメが握られており、彼はその紙面を興味深く見つめていた。
「枢木卿は気になるデザインはあるか?」
「私ですか」
 スザク自身も専用機・ランスロットに搭乗する歴戦のパイロットである。新たな兵装や武器の開発事業について、人並みより幾分かは関心があるに違いないし、現場の声というのは貴重だ。ルルーシュは恐らくそういう思惑で、傍に控える騎士に話を振った。
 スザクはスライド上で横並びになった写真をじっと見比べたあと、あの端の製品ですかね、と述べた。
「全身防護型か」
「はい」
「セパレートタイプはどうだろう。そのほうが着替えも楽だし……」
「自分はそういう物だと思ってましたので、何とも」
「それもそうか」
 皇子は視線を持ち上げて騎士の顔を見た。そうして尤もらしい感想に頷くと、彼は再びプロジェクターへ顔を戻した。
 新製品のプレゼンテーションはその後も暫く続いた。パイロットの生存率を一パーセントでも上げるべく、そうした企業努力は日夜問わず行われているらしい。
 そんな熱意の籠もった話をどこか他人事のように聞き流しながら、資料に載っていた写真を視界の中にじっと収めていた。



 再び執務室に戻った頃にはすっかり日が落ち始めていた。西日が容赦なく窓の外から照りつき、机の上を淡いオレンジ色の光で染め上げる。空が赤々と燃え、まだらな雲はその日差しを遮ることなく西へと流れていた。
 暖房のついた室内は少し暑いくらいで、ルルーシュは上着を椅子の背もたれに掛けて首元のスカーフを解いていた。今夜はこれといった用事がないから、今日の業務はこれで終いだと言わんばかりに衣服を着崩してゆく。緊張の糸が解れて千切れたかのように、彼はソファにどっしりと腰を下ろした。

 ふう、と大きな息を吐くルルーシュの真向かいのソファに自分も座った。彼が疲労困憊なのも無理はないだろう。朝から夕方まで人の話を聞いたり考え事をして、たくさん頭を使った。肉体的な疲労より精神的摩耗感のほうが圧倒的に強いはずだ。
「暑くないのか」
「まあ、我慢できなくもないし」
 肩から垂れた外套の裾を払いながら、出来るだけ自然な口調でそう答えた。
「ふうん」
 襟元に皺が寄るのも気にせず、彼はシャツのボタンを上から二つほど開けて、ソファの背もたれに頭を預けた。露出した首元は普段より血色が良く、人工的な照明の下でも艶々と色づいて見える。
 伸ばされた首筋や鎖骨の窪み、うなじに張り付く細い毛束を暫く見据えてから、顔を逸らした。無意識のうちに目で追ってしまう。美しい造形が生み出す影の形や肌色の温度、眼差しの先にある物。触れがたく遠い場所にあるからこそ、憧れや羨望に似た感情が喉元から湧き上がる。

「もう今日の仕事は終わりだ。帰っていい」
「ああ分かった。おやすみ、ルルーシュ」
 両目に嵌め込まれたアメジストが煌めいて、睫毛が震える。
「スザク、こっち」
 長い前髪を顔の半分まで垂らしながら、ルルーシュは名前を呼んだ。おいで、と手をこまねかれ、スザクは大人しく彼の傍に立つ。
「おやすみのキス」
「ああごめん、忘れてた」
「ん」
 唇に触れるだけの挨拶を交わして、スザクは今度こそ部屋を出た。
 背を向ける直前、投げかけられた視線には最後まで気づかない振りをして。



 付き合いを始めたからといって、二人の距離感は急激に縮まったかと言われると、そうでもない。むしろそれ以前と今とでは何も変わらなかった。砕けたやり取りとたまにかち合う視線、趣味の合わない服装に文句を言い合い、下らない冗談で歯を見せる。友達の延長みたいな穏やかさだ。
 一日の別れ際にキスをするのは、これまでの関係と明確な線引きをしたくて、二人で作った決まり事だ。付き合ったからには恋人っぽいことをしてみたいという、気恥ずかしい動機だった。スザクもルルーシュもそんなルールを律儀に守って、これを馬鹿正直に継続している。

 訂正しよう。

 ルルーシュとの距離感は変わらなかったのではない。敢えて変えなかった。自分の意志でそういう雰囲気を作らぬよう、あるいは感じ取ってもそれとなく逃げていた。そしてルルーシュも恐らくその事に気づいていて、でも気づかない振りをしてくれている。怒らずに居てくれる。彼は優しい。
 どうして逃げるかって、怖いからだ。

 騎士に選ばれてからというもの、ルルーシュの隣に居る時間が長くなって、ルルーシュの背中を夢中で追いかけた。覚えることは多かったし、自分には釣り合わない職務だと落ち込んだことだって、もう両手で数え切れない。でもひたむきに我武者羅に、専任騎士という肩書きにしがみついた。
 そうして最近になって漸く、任される仕事が増えてきたのだ。当初は否定的だった声も徐々に聞こえなくなったし、あれだけちらついた視線も今じゃ微塵も感じない。
 それより何より、ルルーシュに褒められることが増えた。彼は部下の扱いを非常に心得ている。よくやってくれた、と微笑まれただけで天にも昇る心地になれる。今の仕事がやっと、少しずつ楽しいと思えるようになった。

 しかし、その過程で知ってしまったのだ。自分はいかに矮小で、卑屈で、惨めったらしい人間なのかと、思い知らされた。

 いくら腕利きとはいえ名誉軍人なんかを騎士にして。
 その手の罵詈雑言は直接耳に届かなくとも、二人に当てられる視線の種類はそうしたものばかりだった。完全には無くならない差別と偏見に晒され、心は知らぬ間に穴だらけになっていた。聞く耳持つ必要ない、と彼は言ってくれたが、その気遣いと優しさですら、浴びるたびにヒリヒリと痛みを伴った。むしろ自分のせいで無駄に気を遣わせているのだと思うと、合わせる顔もないのだ。



 自分の部屋に戻ったものの、何も手につかなかった。暗い部屋の中をゆっくり進む。電気を点ける気力はない。
 クローゼットの横に設置された鏡が視界に入った。すると、鏡の中の自分と目が合った。鏡面に触れる。冷たい温度が指先に溶けてひんやりとした。
 ルルーシュとは違う目の色。肌の色。髪の毛。顔立ち。体つき。自分は何から何まで完璧に日本人の遺伝子を引き継ぎ、これを反映させていた。ブリタニア人とは違う。自分はああはなれない。なりたくても届かない。圧倒的な、絶対的な壁で塞がっている。劣っている。及ばない。負けている。下である。
(なんで僕は日本人なんだろう)
 何百回と自問自答してきた問いを、脳内で反芻した。でも答えは出ないし、そもそも存在しない。そういうふうに生まれた。それだけだ。

「……なあ、居ないのか」

 不意に部屋の扉が開けられて、明るい廊下の向こうから誰かが顔を覗かせていた。ルルーシュだ。逆光になっていて表情はよく見えないが、声で分かる。
「なんで……」
「ノックをしたのに返事がなかったから。……それよりこんな暗い部屋で、どうしたんだ」
 部屋の扉を後手で閉じながら、ルルーシュが当然の質問を振ってくる。
「ちょっと考え事を……君はどうしたの、急に」
「夜這いに来た」
「……は」

 事も無げに話す男はすぐ真横まで歩み寄って、それから着の身着のままのスザクの全身をじっと眺めた。
「半分冗談だ」
 どちらにせよ聞き捨てならない台詞である。
 口から変な声が出そうになった。心臓はやけに騒がしく動き出すし、変な汗も出てきた。なのにこちらの気も知らないで、彼は涼しい表情を張り付けたまましきりに顔色を窺ってくる。
「ど、どうしたの」
「……手を」
「手?」
「見せてほしい」
「……」
 それだけ言ってルルーシュは口籠る。意図が分からぬまま手袋に包まれた手のひらを差し出すと、彼はそうじゃない、と首を横に振った。
「見られたくない怪我でもしてるのか」
「……いや」
「ならこれ、外してもいいか」
 薄い布を引っ張りながら、彼は伺い立ててくる。
 何も言えないまま口を閉ざしていると、返事も聞かずに彼はその布を手から引き抜いて、床に放り捨てた。
「なんだ、普通の手じゃないか」
「普通じゃないよ」
「俺と同じだ」
 素手が重なって指が絡まった。でもそれはどう見ても同じではなかった。
 指の細さ、爪の形、皮膚の色、関節の太さ、骨の大きさ。何から何まで、どれを取っても違う。

「他はどうなんだ。見せてみろ」

 言われるがまま外套のマントをハンガーに掛け、ジャケットを脱いだ。サスペンダーや剣帯は床にそのまま落とし、カッターシャツをベッドに放る。
 シーツが乱れたままの寝台に二人で並んで腰掛けて、目を見合った。恋人同士みたいな、いかにもといった甘さはない。少なくとも自分にはそんな気概も欲もなかった。
 ルルーシュの手が素肌の腕をさらさらと撫でてゆくのを、他人事のように眺めていた。彼の視線は自分の肌に釘付けで、何がそんなに楽しいんだろう、と思う。
「なんでそこまでして隠す必要がある? どこもおかしくないじゃないか」
「おかしいよ、僕は。継ぎ接ぎだらけでぐちゃぐちゃで、汚くて、ぼろぼろの……」
 スザクは未だ這わされていたルルーシュの右手を取り、自分の手を重ねた。よく見てごらん、とでも言うように。
「もう一生治らない傷がたくさんある。ここは火傷の痕で、こっちの手のひらは皮膚の色が違うだろ。曲がった関節は爆弾処理の事故で、こうなっちゃった。この爪は欠けたまま生えてこなくなったんだ」
「うん」
「ルルーシュの手は綺麗だ。温かくてすべすべしてる。僕にはないよ。色も形も違う」
「うん」
 彼は静かにスザクの話に頷いていた。そして恭しくスザクの手を取った。まるで騎士が主人にそうするように指先から掬って、そして手の甲に唇を付けた。
 唇は手の甲を辿って指の関節に触れ、爪の縁をなぞり、指の腹を軽く食んだ。そのまま伝い落ちるように撫でられて、手のひらに舌が伸びる。
 生ぬるい感触が奇妙で擽ったい。自在に動く舌先は指の間に差し込まれ、唾液をまぶすように舐め上げてゆく。
「……猫みたい」
「ん……」
 暫く好きにさせてやると、スザクはあることに気づいた。ルルーシュは唇を使ってただ好き勝手に愛撫しているのではない。手に残った傷跡を、唇や舌でなぞっていたのだ。
「汚いよ」
「そんなことない」
「本当?」
「ああ」
 手のひらから手首、腕を伝う唇の動きを目で追った。なんと健気で献身的な愛情表現なのだろう。顔を覆いたくなるほど純木で無垢で清潔だ。凛とした佇まいに恬然な仕草。何もかもが手の届かない場所にある。ルルーシュは気高く高潔な男だ。
「お前はどこも汚くない。俺は汚いものを口に入れようと思わない」
「ならフェラチオもできる?」
「……で、きる」
 ルルーシュは言葉を詰まらせながら、はっきりと頷いた。



 そういう気はさらさら起きていなかったはずなのに、体の芯は僅かに兆していた。
 布を寛げると現れるそれは、やや頭を擡げた格好で彼の目前に晒される。伏せがちの目元と強く引き結ばれた唇を見るに、緊張しているであろうことは容易に読み取れた。でも助け舟は出してやらない。できると言ったのは彼自身だ。プライドの高い彼のことだから、自分の発言を覆すはずがない。
 脚の間に座り込む形で股ぐらに顔を近づける男は、気まずそうに逡巡を繰り返していた。
 しかし次の瞬間、それを恐る恐る手に取って、ルルーシュはゆっくり口を開けた。

 ややあって、ぬかるんだ感触が粘膜越しに響いた。ほんとうに舐めてるのか。正直言って、興奮よりも先に驚いた。視線を下ろすと陰茎を口に含んだルルーシュと目が合って、今回ばかりは先に逸らされてしまった。
 ぬちぬちとはしたない音を鳴らしながら、下手くそな口淫を施してくる。気持ち良いかというと、はっきり言って微妙だ。わざわざ言いはしないが、自分の手で扱くほうがマシである。
「んう、う……」
 時折鼻にかかった声を漏らして、体液にえずきながら、単調な動きを繰り返していた。
「……っ、う」
 気持ち良くはない。でも視界に広がる景色は現実味がなさ過ぎて、悪い夢をみているみたいだった。馬鹿みたいに心臓が高鳴って、血液が下半身に集まる。息が乱れて、俄に射精感が高まってゆく。
「ルルーシュ」
「う、ん……」
「もういいよ、有難う」
「……」
 彼は視線を上げたが、口は離さなかった。少し傷ついたような、そんな面持ちをしている。
「違うよ、そうじゃなくて」
「……」
「あんまり大きくすると、お尻に入らなくなるだろ」
 わざと言葉を選んで諭すと、漸く口から陰茎を抜いた。ルルーシュは顔を赤くして唇を拭っている。とくに抗議の声は上がらなかったから、合意ということで良いだろうか。口元から伸びた粘液の糸を指で切ってから、再びベッドの上に招いてやった。



 仰向けのまま体を折り畳むように膝を曲げさせ、尻を上に向かせた。恐らく人間として、屈辱な事この上ないに違いない。人としての尊厳やプライドはとっくに捨てていないと、こんなこと、出来るはずがない。耐えれるはずがない。
「っ、あ、う……うう、あ」
 シーツに頭を擦りつけながらうわ言のように声を漏らす。痛々しく腫れ上がった肛門の縁を指でなぞって押し潰すと、はくはくと唇を震わせて泣いていた。赤く色づいた肉体は汗が滲み、しっとりと手のひらに吸い付いてくる。震えて丸まる足の爪先は何度も宙を掻いていた。
「やあ、あ! ん、あ……う」
「……ルルーシュ」
「っひ、う、あ! あん、あ」
 指を内臓の壁に擦りつけて、狭い場所を拡げる動きを何度も繰り返した。そのたびに跳ねる背中は何度もベッドを揺らし、スプリングがきしきしと音を立てる。でもそんな軋音より、ルルーシュの淫らな声のほうがよっぽど大きかった。
「……」
 彼は顔を赤くしながら、顔の横に置かれてあったスザクの手に頬を擦り寄せた。媚びるような、官能的な仕草だ。あるいは猫が飼い主に擦り寄るような。
「うう、ん、ぁ、あ……」
 手の甲に舌を這わせて、浮いた血管をちゅうちゅうと吸っていた。こめかみに張り付いた毛束がはらりと舞って、頬の横に落ちる。しかし彼はそれも気にせず、さらに指を舌先でなぶっていた。
「猫の毛繕い?」
「んっ、う、ひゃう、う」
 指を三本捩じ込んで、穴に出入りさせた。ルルーシュは啜り泣きながら声を漏らし、涙の筋を顔にいくつも作る。体をよじりながら腕も舐めてきた。相変わらず舌先は裂傷を上書きするように何度も何度もなぞる。唾液の筋が皮膚に残ってべたべたした。
 ――俺は汚いものを口に入れようと思わない。そんな発言を体現する為、彼は愛撫を繰り返すのだろう。見上げた根性だ。

「ひぐ、う、うう! っあ、あん、あ」
「あんまり痛くなさそうだね」
 くちゃくちゃと音を立てながら肛門に突き入れた指を掻き回すと、涎を垂らしながら尻を揺らしていた。
「君は発情期の猫かな」
「ひあ、あ、あ! あっん……んっひ、う」
 唾液でべたついた手をおもむろに持ち上げ、凹凸のない滑らかな胸元に這わせた。真ん中より少し上にぽつんと浮かぶ薄茶色の乳首がいやに、スザクの目に映った。

 それを摘むと、ルルーシュは甲高い声を上げて首を振った。
 それで分かったことだが、基本的に彼の体はどこを触っても、何かしらの良い反応が返ってくる。
「……っ、う! ああ、あ、すざ、やっあ」
「オス猫なのにおっぱいが気持ちい?」
「ちが、う、うう、やぁ、あ」
 涙を散らして否定の言葉を繰り返す。その反応の良さはあまり説得力がない。
「お尻もおっぱいも気持ちいんだ?」
「っう、あ! あん、んや、あ、すざく、すざ」
 まるでメス猫みたいだ。そう嘯いてやると、両の目からは壊れたように涙が溢れて流れ落ちた。赤らんだ目元に濡れた唇、唾液にまみれた舌と、湿った長い睫毛。誂えたかの如く美しい泣き顔だった。
「泣いてる顔も綺麗だなんて、狡いよ……」
「んっう、あ! あー、あ、やっ」
「綺麗だね。僕の……」
「……う、やっ、あ、はう、う!」

 僕の神さま。
 音にならない声で、スザクはそう囁いた。

 胸から手を離すと、ルルーシュは肩で息をしながら視線を宙に彷徨わせた。くったりと体の力を抜いて四肢をシーツに投げ出し、それでも目だけはスザクの顔を捉えようとする。暗闇の中で唯一光るアメジストだけが光源だった。

「俺もお前も、同じだ……」
「……」
 ゆるゆると腕が伸び上がった。筋肉の薄いそれはほっそりと柔らかい輪郭を描いていて、眩しいくらい白い。空気を掴むように動く手指を握り返すと、彼は満足げに笑った。太さの違う指が絡まって解けない。いびつな恋人繋ぎだったけど、優しくて温かかった。
「どこもみすぼらしくて、浅ましくて、はしたなくてさ」
「ううん。ルルーシュは綺麗だ」
「同じだよ。俺はお前と同じがいい。どうしたら同じになれる?」
 シーツに寝転がりながら、悲しそうな顔をした彼が尋ねてくる。
 そんなのスザクには分かりっこなかった。なんせスザクはその問いを自分自身に何度も何度も尋ねたことがあって、答えを出だせたことはついぞなかったのだ。いや、答えはない。不可能だ。同じにはなれない。
「じゃあこうしよう。俺の全部をスザクにあげるから、それで手打ちにしよう。俺たちは晴れてひとつだ」
「そんなの……」
「なあ早くしてくれ。恥ずかしくてしょうがないんだ。……なんせセックスは初めてだから」
 ルルーシュは明け透けな文句でスザクの欲を煽った。それだけじゃない。腰を揺らしては濡れた肛門を見せてくるし、脚を開いて招いてくるの始末だ。涎を垂らした陰茎は天を向いて膨らんでいる。恋人がここまで厭らしくて下品だとは思いもしなかった。

 それが演技だとしても、快楽に蕩けた瞳は偽りない本心の証左だ。スザクの神さまは色欲に溺れ、地に墜ち、同じ人のかたちをかたどって、いびつに微笑んでいる。
 スザクはその夜、神さまを人間に失墜させた。