X度目の告白

 教室の向かいにある廊下の窓からは、校庭が見渡せる。二百メートルトラックの線が引かれ、脇にはサッカーゴールとネット、それからバスケットボールのゴールも設置されてある。
 使い古されたそれらの備品は体育の授業に使われることはあまりない。どちらかというと生徒らで自由に使用できるよう、誰のものでもなく置かれている。

 昼の長休みといえば、体を動かしたい男子生徒が校庭で数名集まって、球技に興じていることがままあった。学年もクラスもてんでばらばらなチームは遠目に眺めても顔の知らない生徒ばかりだ。でも彼らは同じスポーツを通じて心を通わせられるようで、ハイタッチをしたり声を掛け合ったり、たまにじゃれついたりしている。
 開いた窓から外の様子をなんの気無しに眺めていたら、その集団の中に見知った人影があった。どおりで教室を見渡しても姿がないと思っていたら。奴はあんなところに居たらしい。
 レイアップシュートが見事に決まり、同じチームの仲間とハイタッチを交わす。こめかみに伝う汗を手の甲で拭い、カッターシャツの袖を肘のあたりまで捲くり上げた。しなやかな腕の筋肉と薄っすら浮かぶ血管が顕になって、陽の光に照らされる。足元に落ちる影はずいぶんと短い。太陽がちょうど彼らの真上に昇ったようだ。あんなに動き回って疲れないのかと他人事のように考えて、空の遠い場所を見つめた。今日は快晴だ。

「あの……ルルーシュ先輩、ですよね」
「ん?」
 意識外からの声に一瞬、反応が遅れた。視線を脇へずらすと、見覚えのない女子生徒が二人、いつの間にか傍に立っていた。気配にすら気づかなかった。
「ああ。そうだけど」
「ええと、ちょっと頼み事が、あるんです」
「頼み事?」
 藪から棒な会話に目を瞬かせると、女子生徒らは何かを言い淀みつつ、両者でしきりに目配せしていた。
 そんなにも言い難い内容なのか。
 僅かに身構えかけたルルーシュの様子にも気づかず、二人のうちの片割れが、ブレザーのポケットから何かを取り出してみせた。
「……これは」
「もし良ければでいいんです。お手数じゃなければこれを、枢木先輩に」
「は、はあ」
「お友達だって聞いたので、あの、ほんとに面倒じゃなければで、良いので」
 控えめな口調とは裏腹に、半ば強制的に押し付けられたそれは一通の小さな封筒だ。ペールピンクの紙面に、黒インクで"枢木先輩へ"と記されてあった。
「面倒とは思わないけど……」
「あのっ、それだけなんです。お昼休み中に、失礼しました!」
「あ、ああ……」

 深くお辞儀をしたあと走り去っていく後ろ姿を遠目に見遣りつつ、受け取らざるを得なかった封筒に再び目を落とす。宛先はしっかり書かれてあるが、封筒の裏に差出人の名前はない。中に封入されているであろう便箋には、きちんと記載があるのだろうか。
 と、ここまで思い至って考えるのを止めた。邪推はよくない。ここまで分かりやすい他人のラブレターは早々、お目にかかれないだろう。
 依然窓の外では呑気にバスケットボールに興じる男の姿があった。いっそこの紙きれを紙飛行機にして投げてやろうかと思ったが、差出人の気持ちに配慮してさすがに止めておいた。

 スザク本人は女子生徒からどう見られてるとか、異性の好き嫌いにあまり頓着しない。学年性別関係なしに誰とでも分け隔てなく仲良くするし、ゆえに交友関係は浅く広い。
 逆に言うと、誰かを贔屓したり特別扱いせず、誰にでもそれなりに優しくしてしまうという罪作りな面もある。とくに彼のそうした本質を知らない生徒が、何かしらの勘違いを起こしてしまう可能性だって、無きにしもあらずだ。
 本人曰く、隣に立つ君が目立つから自分はモテないよ、とのことだ。でもそれとこれとは関係ないだろう。現に、送り主不明のラブレターらしき封筒を預かっている。やけに女の気配がしないと思っていたが、案外隅に置けないらしい。
 どんな言葉で揶揄ってやろうか。ルルーシュは内心ほくそ笑みながら、ペールピンクの恋文を制服のポケットにそっと仕舞った。



 その日の放課後、生徒会の仕事は新年度に向けた年間行事の予定やら、年度予算の編成やらで稀に見る忙しさだった。それこそ猫の手も借りたいくらいだったが、実際に生徒会で飼われている猫はキャットタワーで悠々と遊ぶだけでなんの役にも立たない。来年度から生徒会の人員を増やすべきではという意見も見られたが、年度末以外は基本的に暇なので案は却下された。
 ルルーシュはこの時点で既に、昼休みに受け取った封筒の存在をすっかり忘れていた。午後は体育の授業もなく着替える機会がなかったし、薄っぺらい封筒はポケットにぴったりと収まっていたのだ。

 そんなこんなであっという間に放課後が終わった。一同は最終下校時刻ぎりぎりになってようやく帰宅することができた。とは言えやることはまだ山積みだから、暫くはこの忙わしさが続く見込みではある。今日できなかった作業はすべて明日以降に持ち越しが決定している。
 クラブハウスを出てすぐ傍、目と鼻の先ほどの距離にルルーシュが間借りしている屋敷はある。下校してから帰宅に要する時間はおおよそ五分程度で、帰り道はいつもあっという間だ。スザクと一緒にクラブハウスを出る時もままあるが、すぐに解散となるためあまり意味はない。
「うち寄ってく?」
「課題でも残ってるのか」
「うーん、そうでもないんだけど」
「ふうん。まあいいよ」
 あまり意味はないのだが、こうしてふと気まぐれでどちらかの部屋に寄り道することがある。これは一緒に帰る日にしか提案されないことだから、ある意味、意義はあるのかもしれない。

 スザクの歯切れの悪さに思うところはあるが、深く追求しても時間の無駄だろう。どうせ彼の部屋に着けばその真意は分かるのだから。



 夕日に照らされたフローリングの床の影をぼんやり見下ろして、何度目になるか分からない溜息を吐いた。妙に暑い気がするのは春がもうすぐ近いからだろうか。喉がやけに乾くし、心臓はばくばくと音を立てて騒がしい。なのにこの部屋はやけに静かで、耳に入れたくない音ばかりが響いてしょうがない。
 彼の部屋に着いた時点でなんとなく、こういう展開になるのだろうと想像はついていた。理由もなく呼び出されて、彼がどこか落ち着かない態度を見せるときは大抵、行為に及ぶことになる。それを薄々分かっていつつ、何も気づかない振りをしている自分は、恐らくたちが悪い。
「……ん」
 スラックスをベッドの下に落として、下着の隙間から膨らみかけの性器を取り出される。ぐにぐにと上下に擦られ揉まれると、嫌でもそこに熱が集まる。生理現象である。腹が減れば音が鳴るし、眠いと瞼が重くなる。それと同列に、性器に直接触れられたら心地良くなる。相手が好ましい人間なら尚更だ。
「きもちい?」
「うん……」
 はふ、と息を漏らすと体がまた熱くなる。蒸し風呂みたいな部屋の温度をどうにかしてほしい。体にまとわりつく衣服が邪魔だ。早く熱を放出したい。
「キスしたい」
「いいよ」
「……ん」
 覆い被さってくる体に、控えめに手を這わせた。こういう時、未だにどうするのが正解なのか分からない。性行為に正しいも間違いもないかもしれないが。

 男を喜ばせる仕草、というものが世の中には通説として存在するらしい。髪を耳にかけるとか、唇から舌を覗かせるとか、そういう色っぽい動作を指すようだ。
 無意識的にそうするならまだしも、意図的に、雄を煽る目的で行うことに、何故だか俄に抵抗感がある。この感覚の正体は恐らく、羞恥心と、妙なプライドだ。自分に性的な魅力を見いだされている今この瞬間でさえ腑に落ちないのに、自らそれを売り物にしようなどとは毛ほども思いつかない。
「ん、ん」
 口元を舌がなぞって、唇を開けろと強請ってくる。されるがまま従うと、とたんに分厚い粘膜が口腔を荒らしてきて、ぴちゃぴちゃと聞き難い水音が鳴り始める。
「う、んう、う!」
 同時に性器を激しく擦られて、頭が茹だつ。恥ずかしい。でも気持ちが良い。
 こうした行為は恥ずかしければ恥ずかしいほど、得られる快楽が大きいという厄介な点がある。理性と本能の折り合いのつけ方がまだ分かっていない自分は、どこまでこの波に溺れて良いか、まるで見当がつかないのだ。

「今日の昼休みさ、見てただろ」
「何のことだ?」
「とぼけないでよ。僕が校庭でバスケしてるとこ」
「あー、うん」
 スザクはのんびりした口調で、今日一日の出来事を振り返る。その手元には開封済みのコンドームが握られていて、ちょうど、勃起した性器にそれを被せている最中だった。
「気づいてたのか」
「そりゃあね」
 下がり始めた西日が地平線の近くを照らしているのか、部屋はずいぶんと薄暗くなっていた。電気はなくても視界は困らないが、ベッドシーツに落ちる影の色が妖しい雰囲気を纏っていた。何となく視界に入れたくなくて、天井をぼうと仰ぎ見た。
「好きな子に応援されたら頑張っちゃうよ。僕のシュート見てたろ?」
「別に、応援なんかしてない」
「はは。どんな女の子より熱烈だった気がしたけどなあ」
 そんな訳があるかと吐き捨てようとした瞬間、あることを思い出した。今の今まですっかり忘却の彼方にやっていた、件の。
「お前に預かり物があったんだ」
「えっ何? 今じゃないと駄目?」
「確かブレザーのポケットに……あった」
 床に捨て置かれてあった制服から、一通の封筒を探し当てた。それを宙に翳すようにして見せつけてやりながら、ほらお前宛て、と手渡してやった。とうに存在を忘れていたが、折り目がついていなくて良かった。
「なにこれ」
「ラブレターだよ馬鹿」
「ルルーシュから僕に?」
「なんでそうなる」
 要領を得ない男の為に、昼休みの出来事を掻い摘んで説明した。
 見覚えのない女子生徒が、代わりに渡してくれと手紙を託してきた。恐らく下の学年の彼女は面識こそないが、自分とお前が友人であることを知っていた。小柄で線が細く、茶色の巻き髪を靡かせていた。とても可愛らしい子だったと思う。
「ちゃんと返事してやれよ」
「なんで今言うのさ」
 膝の裏に手のひらが差し込まれて、そのまま脚を広げる格好にさせられる。
 この瞬間だけはどうにも慣れない。慣れたくもないが、恥部をこうまでして曝け出す必要性は果たしてあるのかと問い質したい。でなければこんなの、ただの辱めだ。
 解された穴に切っ先が引っ掛かって、ひくりと唇が震える。あの言い知れない圧迫感と息苦しさと多幸感が綯い交ぜになる瞬間を、体はしっかりと覚えていた。リラックスして、と声を掛けられるがそれどころではない。変な汗が全身に滲む。視界の端に映るサイドテーブルには、先ほど渡したラブレターがきちんと置かれていた。
「なあスザク」
「なあに」
「俺、お前と付き合うとき、ちゃんと好きだって伝えてたっけ」
「え? あー、うん、どうだろう」
 窄まりに膨らんだ亀頭がぬるぬると擦り付けられて、声が上擦りそうになる。彼は早く性器を突っ込みたくて仕方ないらしい。だが構わず話を続ける。
「確かスザクから告白されて」
「そうだね」
「でも俺は……」
 曖昧な言葉で濁して、でも交際することには了承するような、そういう言い回しを選んでしまった気がする。
 今になってそれが、悪い事のように思えた。それに何だか悔しいのだ。見ず知らずの女子生徒はこの男に自身の気持ちをきちんと伝えているのに、あまつさえ自分は彼の好意や優しさに甘えて有耶無耶にしてしまった。
 言葉だけが全てではない。行動や日頃のやり取りで想いは伝わっていると思う。今だっておおよそ心を許した相手としか出来ないことをしている。
 でもやっぱり悔しいじゃないか。自分はこんなにこいつのことが好きで好きで溜まらないのに、その二文字を伝えることにおいては、自分は先を越されてしまったのだ。
「僕に告白してくれるんだ?」
「ああ。だから聞いてくれ」
「分かった」
 言いたいことを頭の中で纏めて、ふ、と唇を開けた。

「……あ、なんで、え?」
 と、同時だ。下半身に甘い刺激が迸って、声が裏返った。ぬちぬちと粘着質な音を鳴らされ、性器を指先で捏ねられていた。せっかく纏まり始めた思考がまたばらばらに散らばりそうになるから、触るな、と言った。でも相手は聞く耳を持たない。乱される理性をかき集めるように、シーツを手繰り寄せてはみるものの、喉から喘ぎ声が鳴る。
「そういえば、君からは告白して貰ってないな。聞かせてよ」
 ならその手を止めろ馬鹿、と文句の一つ、言えたら良かったが。
「ん、んっ、あ」
「その調子じゃ日が暮れる」
「うう、う」
 光源の殆どない部屋は自然光を頼りにする他ないのに、夕日は地平線に向かって沈みかけていた。そして、それが自分に与えられた告白の猶予だと言わんばかりに、スザクはしきりに捲し立ててくるのだ。
 早く聞かせてよ。君の言葉で、暗くなる前に。鼓膜に流れる声音に、ばらばらに千切れた理性がほんの少し繋ぎ止められた。あとは浮かんでいた言葉を並べて、それを懸命に、音にするだけだ。
「何も知らない振りしてるけど、今日みたいな日は、セックスすることになるんだって、俺は……最初から、分かってた」
「うん」
「好きな人としかできないこと、お前とできて、嬉しくて」
「うん」
「……お前と付き合えたのが俺で、良かった」
「うん……」
 尻たぶのあわいに性器を宛てがわれた。熱い感触に鳥肌が立つ。
 今度こそ本当に、気をやってしまう。それを受け入れるのは苦しい反面、頭が馬鹿になるくらい気持ち良いことも知ってる。だから本当に、きちんと言葉を交わせるのはこれが最後だ。
「ごめん、全部知ってた。きちんと伝わってる」
 耳に届いた声に思わず笑みが溢れた。
 汗が滲む背中を撫でられて、それを合図に目を瞑った。あとはもう形振り構っていられない。瞬間と永遠を繰り返すだけなのだ。



 翌日の昼間、廊下の窓に凭れ掛かりながらふと視線を下げると、何人かの男子生徒が校庭の隅に集って、あたりを走り回っていた。
 走る速さを競っているようにも見えたが、よく見ると彼らの足元にはボールがひとつ転がっていた。爪先や足の甲、膝や頭でボールの受け渡しがしきりに行われている。
 今日の種目はサッカーだ。活発な彼らは毎日のように外へ出て何かしらの遊びに興じている。昼休み明けはすぐ座学が始まるというのに、その体力は底知れない。
「……あの、ルルーシュ先輩」
「……ん?」
 声をかけられて振り返ると、どこかで見たような見たことないような、ひとりの女子生徒が隣に立っていた。彼女は気まずそうに目線を下げながら、何かを伝えようとしていた。
「枢木先輩に手紙を渡して下さって、有難う御座いました。それで、謝りたいことがあって……」
「え?」
 手紙を、というキーワードで漸く思い出した。昨日、ラブレターを預けてきた女子生徒張本人だ。
「謝ることって?」
「枢木先輩に、好意は直接伝えてくれるほうが嬉しいよって言われちゃって」
「……え」
「当たり前ですよね。人づてなんて狡いこと、ルルーシュ先輩にお願いしてしまって、ごめんなさい」
「いや、気にしないでいいから」
「本当にごめんなさい。それだけ、お伝えしたくて……失礼しました」
 矢継ぎ早に謝罪の言葉を述べた彼女は、一目散に廊下の先へ走り去ってしまった。
 昨日の今日でスザクが返事を出したこともそうだが、その内容も考え物だ。文脈から察するに振ったんだろうが、なかなか手厳しいことを言う。
 直接伝える勇気が出なくて、彼女もやっとの思いでその手紙をしたためたのだろう。その心情は想像の範疇を超えないが、ひとつ言えるのは、物凄い勇気と気合がないとできないということだ。その気持ちは嫌というほど分かる。

 目下の光景を再び視界に入れて、ふうと溜息を吐いた。先程の女子生徒の発言を脳内で反芻しているうち、顔に熱が集まるからどうにかしたい。春先の生ぬるい風ですら今は心地よいのだ。
 ナイスシュート、と声が上がって、釣られて音のするほうを覗いた。何人かの生徒に囲まれ、歯を見せて笑うスザクの姿があった。
「……」
 緩みそうになる頬に力を入れて、あくまでポーカーフェイスを保つ。別に応援をしているわけでも、見つめたいわけでもない。たまたま視界に入ったから、ちょっと目で追っていただけなのだ。深い意味はない。

 もしスザクが告白してくるより先に女子生徒が彼に想いを告げていたら、二人は交際していたかもしれない。彼と毎日一緒に下校して、たまにどちらかの部屋に赴いて、昨日のようなことをするのは、自分ではない誰かだったかもしれない。自分じゃない誰かが、昼休みのあいつに視線を送っていたかもしれない。
 それは推測でしかない。でも、あながち間違いじゃない気がする。スザクはあまり関心がないだけで、女子は案外彼を見ているし、活発だから交友関係も広いぶん出会いは多い。そんな彼と自分がこうして、唯一無二の関係に至れているのは単に、タイミングと巡り合わせだけなのかもしれない。

 だから、スザクと付き合えたのが自分で嬉しいと思う。そしてそれを言葉にできて良かった。
 彼は全部知ってたと口にしていたが、一瞬だけ泣きそうな顔をしていた。それはたぶん初めて知ったことだからで。悟らせないように取り繕ったのは、彼の優しさだ。
 外に吹く生ぬるい風を頬に受けながら、昼休みの間じゅうずっと、ルルーシュは階下の景色に見惚れていた。