向日葵咲く未来にて

 左右対称に設計された緑豊かな庭、白塗りの石造りの荘厳な校舎、日の差し込むピロティー、多くの生徒が行き交う広大な敷地。
 此処は言わずと知れた、全寮制私立アッシュフォード学園である。

 神聖ブリタニア帝国の侵略を受けた旧日本国、現エリア11に門を構えるその学園は、入学を希望する者であれば人種や血統、出自を問わない。ブリタニア人が運営している学校にしては珍しい、表向きはオープンな校風が魅力のひとつであった。
 学園のオーナーであるアッシュフォード家はかつて中央政権や軍事開発に携わるほどの有力な貴族名家であったが、時代が進むごとにつれ次第に没落してゆき、現在ではこのアッシュフォード学園だけが資産価値のある公共事業であるという。
 ブリタニア国内では残念ながら、未だ血統主義が蔓延り、封建的な風潮がそこかしこに存在する。このエリア11だってそうだ。植民地支配を受けた領地はブリタニア帝国皇帝の直轄には及ばず、その子孫である皇位継承権を所有する他の皇族が総督となり治めることになっている。
 このエリア11が皇帝直轄領でないからか、アッシュフォード家が過去にブリタニア家と深い結びつきがあったせいかは定かでない。しかしアッシュフォード学園の刷新的な方針はとくに咎められることもなく、むしろ個人の尊厳を重んじる革新的なスクールカラーが世界中から注目を浴びている。アッシュフォード家にしてみれば学園事業は存外安定しており、かつての輝かしい栄華からはひどく遠退いているものの、とりあえず今しばらくは安泰というところだろうか。

 ルルーシュ・ランペルージも学園に在籍する一生徒である。
 足を患う妹と家政婦と共に学園寮――の傍にあるクラブハウス横の屋敷を間借りし三人暮らしを送っている。当然この措置は異例の特別対応だ。
 車椅子が手放せない妹を全寮制学園へ通わせるために、通常の寮部屋よりうんと広い屋敷を貸してもらっているというのも勿論理由のひとつだ。しかしルルーシュにはそれよりもっと大きな事情がある。
 ルルーシュのランペルージ姓は偽名であり、実名はルルーシュ・ヴィ・ブリタニアという。正真正銘のブリタニア姓なのだ。
 ということはつまり、ブリタニア帝国の皇子なのである。そこいらの有力貴族など視界の端にも入らない、皇位継承権争いに参加するような御身分だ。
 皇帝の嫡男である尊い身分ともあろう者が、なぜ本国から遠く離れた寮制学園に通っているのか。ただの語学留学でも国際交流でもない。全てのきっかけはルルーシュとその妹であるナナリーが幼少期に実母を亡くしたことから始まる。

 まだ幼かった二人の兄妹は、生みの親であるマリアンヌが亡くなったことにより宮廷内での後ろ楯を失っていた。いくら皇帝陛下の子供であるといえ、腹違いである兄や姉を多く持つ二人の立場はそもそも低く、発言力も無に等しい。母親は農村の生まれであったことから、家柄や血統重視の中枢部では鼻から疎まれる存在であった。
 じきにブリタニア帝国と日本国間の戦争に対する緊張感が高まってくると、ルルーシュとナナリーは外交手段として利用され、開戦間際とされていた日本国へ人質として身柄を送られた。
 重要な交渉材料として扱われた二人であったが、不運なことに祖国のブリタニアは無情にも日本国へ宣戦布告を行ったのだ。ブリタニアは最初から二人の兄妹を見捨てる算段であったということだ。幼い兄妹はこの瞬間、尊厳も過去も名前も失った。
 圧倒的な資源と人口、技術力の差を見せつけられた日本国側は戦況悪化の一途を辿る中、戦争賛成派の舵を取っていた首相・枢木ゲンブが急逝。先導者を失いもはや烏合の衆となった軍上層部はとうとう帝国から突き付けられた無条件降伏に承諾し、多大な犠牲を払った戦は呆気なく終結した。
 戦後、二人の身柄はアッシュフォード家に保護され、以降”ランペルージ”という姓を名乗り、ブリタニアの目から逃れるために身を潜めた。本国に二人の素性が発覚したりすれば、今度こそどんな目に遭わされるか知れたことではないからだ。

 このようにおおよそ一般的でない経歴を持つルルーシュは、高等部に進学してから極力目立つことを避け、出来うる限り”ごく普通の一般的な”男子高校生であり続けた。
 俗っぽい話し言葉、粗雑な振る舞い、世俗にまつわる流行、食事、音楽、教養。何もかもが煌びやかな宮廷生活とは一転した、屈辱的な亡命生活である。帝国に足を向けて寝ることも許されず、国民放送のたびに頭を垂れることを習慣づけられた。
 自分たちを捨てた国に、親に、どうして敬い畏れなければならないのか。街の選挙ポスター、街頭演説、国民放送、歴史の教科書、生活のそこかしこに父親の偶像は存在していた。ルルーシュは幾度となくそれら権力の象徴に疑念と恨みを向け、やがてそれは叛心の出現へと繋がっていくことはあまりに容易かった。

 だがルルーシュが具体的に、たとえばクーデターやデモ、ヘイトスピーチといった行動を起こしたことは一度もない。小心者だったからでも己の保身のためでもない。祖国に対する怒りと憎しみで拳を震わせるたび、いつも脳裏を過るのは愛する妹だったからだ。
 母親は居ない。幼い頃よく面倒を見てくれた親戚親類、腹違いの兄弟たちは当然帝国側の人間で、諸悪の根源である父親はそもそもの敵である。つまりナナリーの味方になってやれる身内はルルーシュ自身ただ一人だった。
 自分の身ひとつが犠牲となるなら何だってやるつもりだった。
 しかし万一、ルルーシュ唯一の血縁である彼女に危険が及ぶとなれば話は別だ。相手は我が子を敵国に売り渡し命すら見限った非道である。子供だろうと何であろうと容赦はしないだろう。

 ゆえにルルーシュは自身の経歴が間違っても他人に漏れることがないよう、周囲とは一定の距離を保って立ち回っていた。今日の友は明日の敵、なんて言葉もあるがルルーシュにとっては昨日も今日も明日も、隣人は皆例外なく敵だ。いつどこで襲撃に遭うか、はたまたどこにスパイが紛れ込んでいるか分かりやしない。
 しかしその実、それはルルーシュの建前であり、本音のところは、自身の生まれや家族どころか名前までもを失った壮絶な過去が原因の人間不信、すなわち他者に対する極度な警戒心からくる防衛反応によるのかもしれない。

 ルルーシュはやがて寄ってくる者を遠ざけ、誰からの助けも借りない孤高な姿勢を貫くようになった。孤独を選んだ精神的根幹の形成の背景にはルルーシュが幼き日に失ったもの、裏切られた者の多さがある。戦争が終わったあの日から、ルルーシュは誰の手も借りずたった一人で修羅の道を突き進むことを迫られたのだ。


 失ったものは数え切れないが、それにより得たものも僅かだが確かにある。

 大人はずる賢く打算的であること。人を信用すればするほど裏切られたときのリスクが大きいこと。自分と相手の立場を顧みて上手く立ち回ることが、どの場面においても大切であること。嘘をついたときの罪悪感は足枷にしかならないこと。常に相手が何を考えているか予測してこちらが有利になるように事を運ぶことの重要性。
 そして何より、無知は愚かであるということ。知らないことが一つ多いだけで、自分の戦況は途端に不利になる。だからルルーシュは勉強に割く時間を惜しまなかったし、本もたくさん読んだし、様々な観点から物事を知って考えるということを貪欲に続けた。
 そのおかげか、高等部に進学する頃には頭脳明晰な秀才として周囲からは持て囃された。元から勉強自体は苦痛と感じることは少なかったし、宮廷時代のほうがよっぽどスパルタ教育を施されていた。それに比べれば所詮一般庶民の学生の勉強ノルマは達成するに易いのだ。
 だがルルーシュは自分の評判や評価にはさして興味がなかった。自分の本当の顔を知らない、嘘にまみれた上っ面のステータスだけで評価をしてくる者たちの意見など、聞く耳を持つ気にすらなれない。自分の価値は自分自身で決めるものだと、ルルーシュは信じて疑っていなかった。





 難なく二年生に進級した新学期、四月といえばクラス替えが行われる。そのせいか優秀な学生が全国からあつまる学園といえど、学級内ひいては学園全体が浮き足立っていた。なんせ学生にとっては全員に等しく訪れる年に一度きりの大イベントであるのだ。
 各クラスの生徒の割り振りから担任の名前までが記された紙が校庭の掲示板に一斉に貼り出されると、みなの視線や意識がそちらに向いた。ほぼ同時に沸き立つ悲鳴と歓喜の嵐に、鼓膜が劈かれる。

 あまり周囲の環境に拘らないルルーシュは、誰が誰と同じクラスだろうと一年生時によくつるんでいた者と離れようと、さしてどうでも良かった。面識のない者に囲まれようと、適当に愛想笑いを浮かべてそれらしい相槌を打っておけばクラス内のコミュニティから弾かれることはない。集団に溶け込めずに浮くことなく、かといって注目を集め過ぎない立ち位置で漂ってさえいればいいのだ。
 ルルーシュは特段人見知りでもなく、むしろそのような場に立たされれば社交的に振る舞うこともできた。しかし過度な馴れ合いを避け、敢えてそう人と距離を置くことで一般生徒の”ルルーシュ・ランペルージ”を演じきっていたのだ。それは同時に心の弱い部分を守るに徹することでもあった。
 貼り出された一覧表の中から自分の名前を見つけ、クラスと担任名だけさっさと確認したルルーシュは、生徒らが喜んだり悲しんだりして騒がしいだけの校庭を後にした。



 新たな顔ぶれと一年時から移り変わった教室、そして見知らぬ担任を前にして、新学期最初のホームルームはどこか緊張感すら漂っていた。掲示物もなく教室後方のロッカーも空の教室は新品同然で、どこか慣れ親しめない。誰もがそう感じている中で、新担任はまず自己紹介を行い、そして今年一年の抱負などを語る。
 冗談交じりの雑談を経て教室内の雰囲気が和らいだところを見計らったのか、唐突に担任は話を切り替えた。

「こんな初っぱなからだが、実はこのクラスに編入生がやって来ている」

 途端にざわめき始める教室内で、あらゆる質問が担任に向かって飛び交った。
「男? 女?」
「女の子だったら絶対可愛い子がいい!」
「かっこいい系男子ならルルーシュくんがいるし、可愛い系男子がいいなー」
「それなら俺がいるだろ、可愛い系男子」
「鏡見てこいよバーカ!」
 話題はあちこちに飛び回り、これ以上は収拾がつかない。今しがたまで妙な緊張感に包まれていたのが嘘のような賑やかさである。
 担任はお喋り好きな騒がしい生徒らに顔を顰めながら、静かに! と一喝した。緩いときは緩いが、きっちりするときは随分締めてくる指導方法らしい。そのメリハリのある対応に、教室がしんと水を打ったように静まり返る。担任はその様子を一瞥したのち、一旦教壇を降りてから廊下へ向かって声を掛けた。
 このホームルームが始まる前からその編入生とやらには廊下で待機してもらっていたのだろうか。そんな長時間待ちぼうけさせるなら最初から編入生の紹介をしてやればいいのに。ルルーシュは頬杖をつきながら半ば呆れていた。
 ルルーシュの座っている窓際席の、ちょうど右側。太陽光が直接差し込んで机上が眩しくならず、かつ外の空気を吸いやすいポジション。ルルーシュが密かに狙っていた座席は、今のところどの生徒のものでもない空席であった。新学期早々体調不良という不運に見舞われたか、あるいはサボタージュを決め込んだ図太い奴がいたのか。てっきりそう当たりをつけていたが恐らく、無人の席は件の編入生のものとなるのだろう。



 失礼します、と律儀に礼を言ってから入室したそいつは教壇の隣に立ち、担任からの紹介を受けた。
「彼の名前は枢木スザクくんだ。慣れないこともたくさんあるだろうから、みんな意地悪せず教えてあげるように」
 小学校の先生のような語りに教室からはくすくすと笑い声が響いた。

 しかし彼がこの教室に入ってきてから明らかに、この空間の雰囲気が一変していた。

 枢木スザクという生徒の顔はどう見ても東洋人、そしてアッシュフォード学園の立地を加味すると彼は恐らく日本人であろうか。
 確かにこの学園は人種も血統も出自も問わない校風が売り文句であるし、実際にルルーシュのような複雑な出自の者も、実名や経歴はひた隠しにしているもののこうして在籍はしている。
 しかしそうは言っても、アッシュフォード学園に在籍する生徒の大半がブリタニア系の純血なのが実情だ。この点こそがアッシュフォード学園のスクールカラーが”表向きの売り文句”と呼ばれる由縁である。理由は簡単だ。入試試験から入学後のカリキュラムまでブリタニアに関する知識や歴史的要素が大半を占めるうえ、私立の名門校とあってそんじょそこらの一般常識のような知識で入学はまず不可能だったためである。
 そのため学校側は”入学に際して人種は条件とならない”と示してはいるものの、実質的にはブリタニア人の生徒による学園であったのだ。中には旧日本人や現イレブンを嫌う純血派と呼ばれる思想を持つ者もおり、他人種の話題は暗黙の了解でタブー視されていた。
 そんな事情もあり、どこからどう見ても日本人の顔立ちをした生徒が編入してきたことでクラス中が驚いたのだ。

 編入生も自分達も同じ人間で、同じ年代の学生である。
 人種や血統による差別を少しでも減らそうという校風に惹かれて入学を希望した生徒は数多存在する。かの編入生に好奇の目や警戒心、忌避感を持って接することは彼に対する侮辱だ。それを生徒らは頭では分かっている。
 それでもいざその状況になれば誰もが不思議と、理性でなく本能で行動してしまう。無意識の恐怖心によって対象を避けることは生物学的に見て正常な反応だ。しかしそれは普段、平等や平和といった高尚事を唱えつつ実のところは、心の奥底にある醜い差別意識が根差していたにも拘わらず、そこから目を背けていた証拠でもある。

 不運にも編入生は入学早々痛烈な洗礼を受けることとなったが、それでも彼の表情は憂いを知らない。
「枢木は後ろの空いてる席に座ってくれ」
「はい。分かりました」

 編入生が教壇の傍から離れて通路を歩くとき、生徒の誰もが横目でちらちらと彼の顔を窺った。自分たちとは違う日本人であるという点以外、何の変哲もなく人畜無害そうな普通の男子生徒である。
 しかしブリタニアという国において”生まれが全て”という方針が採られている。そういった選民思想を感受性豊かである幼少期から説かれていた生粋のブリタニア人は、とくに植民地支配を受け虐げられているイレブンに、良くない印象を持っている。
 イレブンは野蛮で乱暴者、血の気が盛んでいて、危険な人種だ――。根も葉もない風評であったが、それが教科書に載るくらいには一般的な認識としてまかり通っていた。ブリタニアの植民地支配を受けている此処、エリア11に在住するブリタニア人でもその影響は少なからず受けており、やはりイレブンに対する風当たりは強いままだった。

 そんな風評被害など痛くも痒くないと、威風堂々とした面持ちとでも言えようか。編入生は好奇の視線も見えていないのか全く気にしたふうもなく、宛がわれた席のもとへ歩み寄った。
 荷物を机の横にある金具にかけて、木とパイプで作られた椅子を引いて、席に着く。たったそれだけの動作であるにも拘わらず、その所作や姿勢がお手本のように美しい。背筋は張り詰めたようにぴんと伸びていた。
 しかし彼が纏う空気はどこか異質だ。緊張とは違う、どこか警戒心と危機感に焦らされているかのようだった。あるいは戦場で命を狙われている兵士か。どちらにせよ不穏であることに変わりない。それともよっぽど緊張していて、新しい生活に過剰な不安を抱いているだけなのかもしれない。
 編入生が席に着いたのを確認した担任は、これからの予定や行事ごとの予告伝達、クラスの役員決めなどを順々に進めていく。次第にルルーシュも右隣の男から視線も意識も外していくのだが、そう時間はかからなかった。

 担任の退屈な話さえもぼんやり聞き流し始めていた頃、ふと右隣から自分を呼びかける声に気づかず、ルルーシュは一瞬反応が遅れた。
「ねえ」
「……うん?」
「名前、なんていうの?」
 ひそひそと声を潜めていたので、彼に則ってルルーシュも声量を抑えた。
「……ルルーシュ・ランペルージだ」
「そっか……。じゃあ、ルルーシュって呼ぶね。僕のことはスザクでいいよ。よろしく」
「あ、ああ。よろしく」
 ルルーシュは随分社交的な編入生に微笑みを浮かべ、社交辞令のような決まり文句を述べた。それを伺った彼は数秒間、目を瞬かせ表情を固めていた。
(――何かおかしなことを言っただろうか?)
 ルルーシュは自分の発言を反芻したが、心当たりはない。訝しげな表情を浮かべつつ編入生を見遣れば、はっとしたようにはにかんだ彼は、よろしくねと吐息だけで囁く。
 弓なりに細められた彼の瞳の中で深緑の虹彩が浮かんでいることに、ルルーシュはこの時ようやく気がついた。


 初めて言葉を交わしたときの、枢木スザクに対するルルーシュの印象は間違っていなかった。
 人当たりのいい笑顔を浮かべて、彼は積極的にクラスメイトに話しかけて交流を持とうとしていた。当初こそ彼に話しかけられた者たちは警戒心が拭えずやはりぎこちない様子であったものの、真面目で正直な受け答えや嫌味のない表情に感化されたのか絆されたのか、周囲も気を許し少しずつ歩み寄っていったようだ。
 数日も経てば彼の周りには常に人が居るような状態で、随分とクラスに馴染んでいるように見えた。昼休みになれば他所のクラスからも名前を呼ばれ、裏庭や食堂で昼食を共にしているようだった。いったいこの短期間でどうやってそこまで人脈を広げたのか不思議なほどだが、恐らくうちのクラスの知り合いの知り合い、という風に紹介され繋がっているのだろう。編入生という話題性だけでも名前は知れ渡るだろう。
 とくべつ彼は前に立って仕切るタイプでも、場を盛り上げるお茶らけたタイプでもなく、ただその場でニコニコと愛想を振り撒き、ちょっとばかし冗談を言ったり揶揄われたりする、普通な奴だった。
 ただほんの少し、いやかなり、人をおだてたり褒めたりするのが達者であった。というよりも、人の長所を見出だすことが得意で、打算ではなく無意識のうちにそれを称賛したり口に出す癖があるように思えた。思えた、というのはこの短期間のうちにルルーシュから見た枢木スザクの客観的な印象であるためだ。隣の席になったものの、例えば授業中の際、真面目な彼はとくにこれといって喋りかけてこないし、休み時間になればどこかへ連れ回されたり教室内のグループの輪に引き込まれたりしている。だから新学期のファーストコンタクト以来、名前を呼び捨てにしてもらって構わないと言われたものの、結局、彼の名前を呼ぶような機会はなかった。

 彼は日本人なのに、実質的にはブリタニア人学校と化したアッシュフォードをわざわざ選ぶなんておかしな奴だと思った。しかしアッシュフォード学園はこのエリア11内で権威や歴史が最もある高等学校のひとつで、かつ(対外的には)人種を問わない校風でもあるのだから、住む場所さえ選べないイレブンが編入を決意するのもやむ無しなのだろうか。
 どんな経歴や事情があるにせよ、そんなものは無関係で全員が等しく学生として扱われるのがこの学園の特徴である。それはルルーシュのような生い立ちを持つ生徒が在籍する事実が明確に証明している。そもそも我々は勉学を学びに来ているのだから、各々の事情など詮索不要なのだ。




「ルルーシュ、一緒にお昼食べよう」
「え?」

 四限目は環境保護の作文コンクールに団体応募するからといって、国語の教師は生徒らに授業内で作文を書かせた。
 立派な美辞麗句を並べ立て思ってもないことを書き連ねることに関してはルルーシュにとって特段苦でもないが、二百字詰めの真っ白な原稿用紙数枚をひたすら埋める作業はなかなかに骨が折れる。”書き終わらなかった分は家に持ち帰り、来週までに仕上げてこい”とのことだったので生徒らは課題を減らすために必死でシャーペンを動かした。心にもない美文で飾り立て、それらしく形にすることはむしろルルーシュの得意分野であったから、なんとか授業内でそれを完成させることはできたものの神経はかなりすり減らした。

 シャーペンの跡がくっきりついた自らの手のひらを労わりつつ、ようやく訪れた束の間の休息にひと息つく。見慣れた弁当袋を解いて、今朝自分で詰めた弁当箱の蓋を開けたところだった。
 意外な人物から、声を掛けられたのだ。
「……俺と?」
「もちろん」

 スザクはパンとジュースを持ったまま自身の座席から椅子を引っ張り、ルルーシュの机に合わせるようにして置いた。
 彼の手にあるのは購買に売ってある安価なジャムパンと、見るからに甘ったるそうな牛乳パックの飲料だ。それらをルルーシュの机に置いたかと思えば、彼は律儀に手を合わせていただきます、と言うのだ。
「いいのか、俺で」
「何が?」
 スザクは早速パンの袋を開け、大きなひと口でそれを齧った。大して噛んでもないのにストローでジュースを吸って、パンと一緒にごくごく飲み込んでいる。その昼食のラインナップもそうだが、食べ方も大層体に悪そうだなと純粋に思った。

 誰かしらから声を掛けられどこかの輪に入ったり、教室の外からその名を呼ぶ声に引かれているのが常日頃の光景である。だからそんな男がわざわざ自分なんかの机をテーブル代わりにして昼食を摂っている状況に、何かの冗談かと勘ぐってしまう。新学期初日からろくに喋ったこともない奴と昼食を共にしたがるとは、この男は相当な変人か悪趣味なのだろうか。
「いつも他の連中と食べてるだろ」
 ルルーシュがそう付け足すと、スザクはやっと得心がいったという面持ちで頷いた。
「……今日は君とお昼食べたくて、その、断ってたんだ」

 どこか恥じらう素振りを見せつつ告げる男は、落ち着きなく視線を机の上に彷徨わせた。そにはルルーシュの弁当箱とペットボトル、それと彼が今しがた置いた牛乳パックの飲料しか存在しない。
 スザクの口から紡がれる内容と落ち着きない態度の真意について、他者からの好意に関してはどこまでも鈍感なルルーシュは何一つ察することができなかった。
「ふうん」
 事も無げにそう相槌を打つと、ルルーシュは弁当に入れていた卵焼きを口に運んだ。甘めに焼いたそれはナナリー好みの味付けである。今朝は時間がなく味見ができなかったが、出来は悪くない。
 存外涼しい顔をして弁当を食べ続けるルルーシュの横顔を、スザクは目を瞬かせながら見つめた。
 スザクは駄目押しと言わんばかりに、再度口を開いた。
「ずっと君と、こうやって喋りたくて……」
「そうだったのか?」
 ルルーシュは心底驚き、意外な表情を浮かべてスザクの顔を見つめた。

 クラス内外で随分と交友関係を広げ構築していた男であったから、自分のことなど眼中にすらない。集団の中では目立ちたがり屋でないルルーシュはてっきりそう思っていたのだ。新学期のあのやり取りですら隣近所の者に対する最初の挨拶、機嫌取りの類だと解釈していた。引っ越しして来たときに行う近隣住人への顔合わせのようなものだ。
 こうやって喋りたくて……、などと告白するわりにそのような素振りはまったく感じなかったものだから、ルルーシュは素直に彼の言葉に驚かされた。あるいはその言葉さえも、おべんちゃらのうちなのだろうか。
「そんな風には見えなかった」
「そ、そっか……」
 彼は何だか煮え切らない表情でそう返答をした。もごもごと萎む言葉尻は上手く聞き取れない。
 何か言いづらいことでもあるのだろうかと、ルルーシュは訝しげにその表情を覗き込む。するとほんの僅かに血色の良くなった頬がやけに目についた。

「あ、えっと、ルルーシュってお弁当、作ってもらってるの?」
 ばちりと目が合うや否やどもりながら突然話題を変えられるから、ルルーシュも目をぱちぱちと瞬かせた。先ほどから表情も話題も忙しない奴だ。心の中でスザクをそう評価した上で、仕方がないから彼の質問に答えてやる。
「自分で昨晩の残り物を詰めたり、ちょっと作ったりしてるだけだ」
「え、それって君の手作りだったんだ!」
 ルルーシュの手にある弁当箱のおかずの中身を見て、彼は目を瞠った。そこにはブロッコリーやトマトなどの色鮮やかな野菜で彩を添えつつ、肉類から炭水化物、野菜類などが偏りなく詰められている。
 朝昼晩の食事は基本的に使用人が用意しているが、ナナリーと自分の弁当は自らの手で準備するのが習慣であった。使用人には毎朝ナナリーの着替えやらの世話をやってもらっているので、それくらいは自分でやると言い張るルルーシュが自ら台所に立っているのだ。

 料理はどちらかと言えば得意なほうであったし、夕飯の残り物も含んでいるとはいえ、自身の手料理を愛妹に食べてもらえるというのは兄として純粋に嬉しい。勿論好物だけを詰め込んで好き勝手に作っているわけじゃない。自分だけならまだしも、彼女の口にも入るのだ。当然おかずの内容も偏りがないよう、ルルーシュなりに栄養面や見栄えなどには少し拘っていた。
「料理、好きなんだね」
「どうだろうな。たぶん、得意な部類だとは思うけど」

 好きでやっているというより、ルルーシュは身の回りのことはできるだけ自分でやりたい性分だ。料理も洗濯も掃除も必要に迫られたから身に着けた。ただそれだけだ。
 これはルルーシュの心に根差している”誰の手も借りず一人で生きる”という信念がそうさせているのだろう。しかしそれが結果として、ルルーシュが大抵の料理や家事をこなすことができるようになった要因なのだから、決して悪いことばかりではないのだ。
「スザクはあまり、弁当を作ったりはしないんだな」
 不摂生の極みのような昼食のラインナップを見遣ったルルーシュは、くすりと笑った。
「…………あーうん、めんどくさくって」
 妙な間を置いたスザクはばつが悪そうに頬を指で掻いた。
 食生活に無頓着らしい男はもう食べられたらなんでもいいというふうで、残りのパンも平らげジュースと一緒に飲み込んでしまった。
「昼、それだけなのか」
 パン一個とジュースだけというのは男子高校生が昼に食べる量にしては少なすぎる。その食べっぷりから彼は小食そうにも見えず、ルルーシュは不思議に思って首を傾げた。

「いや、あるよ」

 そう言うなり彼は自身の席に掛けてある通学鞄から何かを探って取り出した。
 何かをを両手に抱えた彼は、それらを机の上にバラバラと置き始めた。小さく個包装されたそれはカラフルなパッケージと可愛らしいフォントに彩られ、しかし昼食と呼ぶにはあまりに場違い過ぎていたのだ。
「……駄菓子じゃないか」
「うん。カルパスいる?」
「いや……」
 そっか、と頷いた彼は駄菓子の袋を開け、他のスナック菓子やドライソーセージ、乾物のようなものを平然と口に運んでいた。彼の目の前でご飯、肉、野菜類をきちんと摂取していることすら申し訳なくなるほど、その食事内容は酷いものであった。見ているこっちが病気になりそうで、こいつは本当に大丈夫なのかとハラハラした気持ちにならざるを得なかった。
 元々健康志向というほどでもないが、朝食はきちんと食べないと頭が働かず作業能率は落ちるし、昼食の弁当は自分だけでなくナナリーの口にも入るものであるため、それなりに見た目もおかずの偏りもないように工夫していた。何より、どうせ口にするのならより美味なものを食べたいと思うのは人間誰しも当然備わっている欲求である。勿論ルルーシュも例外ではない、というだけの話だ。
 ファストフードのほうがよっぽどましだと表現できるくらいには、あまりにもスザクの食習慣は粗末なものである。それを目の当たりにしたルルーシュは、だからつい、こう言ってしまったのだ。

「弁当、作ってこようか」
「へ?」
「だからお前の、スザクの分の」
 ルルーシュの言葉を耳に入れた途端、スザクは食べている途中であったフライ?のスナック菓子を盛大に喉に詰まらせた。

 特別親しい間柄でもなく、その上同級生の男が男に弁当を作ってくるなんて、やはりどうかしていただろうかと自らの軽率な発言を恥じた。突然ルルーシュの口からそのような提案がなされるとは思ってもみなかったのだろう、だからこのように大袈裟過ぎるほど彼を驚かせてしまうのも、無理はないのだ。
「い、いいの!? それ本当?」
「え、あ、ああ……」
 スザクは椅子から身を乗り出し、表情を爛々と輝かせてルルーシュへ詰め寄った。その有無を言わさぬ期待に満ちた瞳と強い語気に、ルルーシュは黙って首肯する他なかったのである。
 日本人は謙虚で遠慮しがちで、節度ある振る舞いと控えめな自己主張こそが美徳であり礼儀正しいとされている。そんな話をどこかで聞いたことがあった。だがこの男はルルーシュが見聞きした日本人像とはかけ離れた図々しさだ。血統がその人の性格を百パーセント定めるものだとは思ってはいなかったが、それでも、あまりにかけ離れたイメージに少し可笑しくなった。
「……何、自分から言っておいて笑ってるの」
 スザクは唇を尖らせて、始終怪訝な顔を浮かべていた。
 目まぐるしく変化する表情も、案外だらしない一面も、ルルーシュを飽きさせようとしない。いまいち自覚のない彼をくすくすと笑いながら、じゃあ明日持ってくるよ、と明るい返事をした。
 即物的な反応が面白かったから、と正直に打ち明ける度胸は、ルルーシュにはまだないのだ。



 翌日ルルーシュは約束通り、市松模様の布に包まれた弁当箱をスザクに差し出した。
 手作りの弁当とは言っても前述したとおり、昨晩の残り物も含まれている。全てをいちからルルーシュが調理したわけではないから余程のことがない限り、全部のおかずが口に合わないだとか傷んでいるだとかの心配は、恐らくないはずだ。ナナリーにも毎朝同じ具材を弁当に入れているから、そもそもそのようなことはあり得ないのだが。
「……有難う」
 スザクは何とも言えない面持ちでその弁当箱を両手で受け取り、ふわりと花が綻ぶように微笑んだ。

「スザクー、裏庭で食べようぜー!」

 スザクが弁当箱を受け取ったその瞬間、彼の名を叫ぶ大声が背後から聞こえた。
(誰だ?)
 音のするほうへ首を向けると、廊下の外で大手を振る一人の男子生徒が居る。他学級の生徒だろうか。随分と上背のある、軟派な印象を与える金髪の青年であった。ルルーシュには見覚えがなかったから、もしかすると学年が違うのかもしれない。一体どのようにしてスザクがコミュニティを広げているのかはまったくの謎である。
 その生徒の発言に”何を”食べるのかは示されなかったものの、この時間帯から予測するにそれが昼食の誘いであることは明白だ。

 スザクは声の主と目の前のルルーシュの顔を交互に見遣って、それからルルーシュに向かって詫びるような表情をした。
「ごめんね、今日は……」
「待たせているんだから早く行けばいい」
「う、うん……。お弁当食べたら、あとで洗って返すよ」
 洗わなくてもいい、とルルーシュから返事されることを見越してか、スザクはそう言うと同時に駆け出してしまった。彼の両手で大事そうに抱えられた弁当箱はすっかり馴染んでいて、もうスザクは目の前にいないのに不思議と面映ゆい心地にさせられる。
 やっぱり日本人の彼の口に合わなかったらどうしよう。そう思うと、そわそわして落ち着かない。あるいは、弁当を作って持ってくるなんて出過ぎた真似をしてしまっただろうかと、少し心配にもなる。
 しかしルルーシュの憂いはその後、杞憂へと終わることになる。


 渡したときよりも随分軽くなったどころか、綺麗に水洗いされた弁当箱がルルーシュの手元に返ってきたのは昼休みの終わりの頃であった。
 すっごく美味しかったよ、とはにかみながら感想を寄越してくれたから思わず、じゃあ明日も持ってくると言ってしまった。おだてられるままに自分の心が彼に絆されつつあることに気づいてはいたものの、彼の生暖かい言葉に心を動かされるのがどうしても心地よい。
 昨日はスザクのことを心の中でなんて即物的な男だと揶揄ったが、かくいう自分の行動こそが短絡的である。だが純粋な好意を向けられれば、自然と明るい気持ちになってしまうのは誰しもが持つ心の決まりだ。人間誰だって、自分のことを好きだと言ってくれる人が好きなのだから。

 踵を返したスザクが直後、別の男のクラスメイトに肩を組まれ、何やらひそひそと声を潜ませて話していた。その男子はちらりとルルーシュの顔を窺ったかと思うと、にやにやと厭らしい笑みを口元にたたえながら何かをスザクに耳打ちしている。男子の唇の動きをよく見てみたがルルーシュが読唇術など心得ているはずもなく、やっぱりその内容は読み取れない。
「しーっ! 絶対言わないでったら!」
「分かってるって! アハハ枢木、顔真っ赤!」
 その男子生徒が指摘したとおり、スザクの顔は耳まで赤く染まっていた。その男子生徒以外には知られたくない、スザクの恥ずかしい秘密事なのだろうか。



 大きく歯を見せて笑うことも同級生や友人と体を密着させたりすることもルルーシュはあまり好まなかったし、そういう騒がしいやんちゃな系統の人間とは関わろうとしなかった。ああいうタイプの人間は自分のパーソナリティスペースにずかずかと土足で入ってきて、ルルーシュが露わにしている警戒心にも気づかず距離を詰めようとしてくる。もちろんこれまでの人生でそのような人間とも関わる機会は何度も訪れた。だが元から器用な性分であったルルーシュはのらりくらりとそれらを躱し、曖昧に笑って言葉を濁し続けてきた。
 だからルルーシュに対する印象としてよくあるのが”悪い奴ではないがどこか掴みどころのない男”というものである。良いように言えばミステリアスで謎の多い不思議な奴、悪く言えば何を考えているのか分かりづらくて情に薄い、冷たい男といったところだ。他人からどう見られどう言われようとさして気にも留めないが、それでも、後ろめたい秘密を全て打ち明けた上で本音で語り合えるような友達が、ルルーシュは欲しかった。
 ルルーシュっていつも何か隠し事してるよね。どうして本音を言ってくれないの。どうせそれも嘘なんだろう。そんなことを言われたことは数知れないし、もう言われ慣れてしまった。彼らの言葉は全くもってそのとおりで、隠し事をして嘘をつき続ける自分がそそもそも悪いのだ。
 しかし祖国に捨てられた皇子として亡命生活を強いられる運命にある中で、この程度の支障にいちいち文句を言ってられるほどの余裕はない。命あっての物種だ。妹ともに生きていられるだけでも奇跡に近いこの現実で、腹を割って全てを話せる本当の友達が欲しかったなんて口が裂けても言えやしない。



「今日のお弁当は何?」
「昨晩の余り物のオムレツと、今朝焼いたウインナーだ」
「僕の好物ばっかりだ」
 弁当箱の蓋を開けると、彼は殊更嬉しそうに言葉を漏らした。子供の遠足みたいな中身だと我ながら思ったが、幸いにも彼は気にも留めていないようだ。
「味も美味しいし、見た目も綺麗だし、君って凄いよね」
「大袈裟だ」
「でも本当だよ」
 ちらりと顔を上げると真摯な瞳と視線が合って、ルルーシュは思わずそこから目を逸らした。嘘偽りも飾り気もお世辞もない、真っ直ぐ過ぎる褒め言葉はくすぐったかった。社交辞令ならいくらでも吐けるし言われたって愛想笑いで流せるはずなのに、と悔しい気分になる。
「ほらそんなに急いで食べるな……口に付いてるぞ」
「え、あ」
「じっとしてろ、……」
 スラックスのポケットから取り出したハンカチをスザクの顔へ向けたところで、同じ分の距離だけ彼も顔を逸らした。
「じっ自分で綺麗にするから、大丈夫」
「す、すまない」
 ティッシュで口元を雑に拭う彼の頬には微かに朱が差していて、あれ、とルルーシュは疑問に思う。また自分は何か間違ったことを言ってしまっただろうか。
 スザクの気まずそうな表情を見つめているうち、ようやくその意図が読み取れたのは彼がすっかり口元を拭い終え、再び弁当の中身を口に運び始めてからのことだった。
「……妹が居るんだ。その癖が出てしまったのかもしれない」
「ルルーシュに? そうなんだ」
 話の切り口が唐突で一瞬何のことかとスザクは目を瞬かせたが、ああと合点いったらしい。
「別に嫌とかじゃないよ。ただちょっと、驚いたというか」
「そうか」
「意外と距離近いんだなって」
「距離?」
 ルルーシュが何のことかと首を傾げたが、スザクは慌てたように何でもない、と言い張り、残りのウインナーを全部口に詰め込んでしまった。その言葉の真意は分からず仕舞いになったが、不快に思われてはいないようだ。
 言われてみれば確かに、高校生にもなって男同士、口に付いた汚れを手づから取ってやるなんて滅多にない。というかあってはならないはずだ。教室のど真ん中でやっていたら、今度こそ好奇の目で注目されかねない。それはルルーシュが今最も避けるべきことだ。
「じゃあルルーシュはお兄ちゃんなんだね」
「その呼び方やめろ、気色悪い」
「あはは、ちょっと酷くない?」
 わざとらしく唇を尖らせると、スザクは可笑しそうに笑い声を漏らし肩を揺らした。その至極楽しそうな様子を見ているだけで、つい先ほどまでの些細で気まずい遣り取りも、ルルーシュはすっかり忘れてしまったのである。

 昼休みの終わりを報せるチャイムが鳴る間際、スザクはクラスメイトの男子に肩を掴まれて、なぜか教室内の隅へ連れ出された。
「めちゃくちゃ仲良くなれてんじゃん」
「あんまりからかわないでったら!」
 そんな言い合いをしながら席を離れた二人は何やらこそこそと耳打ちを立てて話をしている。しかも時折ちらちらとルルーシュの顔を窺っては、スザクはなぜか顔を赤くし慌てふためくし、片方の男はにやにやと笑みを深めるのだ。
 正直言って、あまり良い気はしない。人気者の彼と目立たない自分を比較され、後ろ指を差されているような気さえする。言いたいことがあるならはっきり言えと、胸倉を掴んで叫んでやろうかとすら思うのだ。
 自分もああやって人と秘密を打ち明けあって共有できたらいいのに、と思わずには居られなかった。



 先日の手作りの弁当を渡してやったことが契機となり、ルルーシュとスザクはほんの少しだけ仲良くなった。たまに弁当を作ってやったり、共に昼休憩の時間を過ごしたり、付かず離れずといった調子ではあるが浅い交友関係を続けている。
 付かず離れず、というのはおおよそルルーシュの、他者との距離感の取り方が原因であろう。他人に全幅の信頼を寄せる行為はスザクに対してでもまだできなかった。一から全てを不信に思っているわけではないが、なぜ友人の多い彼がわざわざ自分に興味を示しているのかがルルーシュには理解し難かったのだ。


「このグラタン美味しいよ」
「昨晩初めて作ってみたんだ。口に合うようで良かった」
 弁当に詰められた具材をフォークで掬いながらスザクは思わずといった調子で感想を漏らした。それはルルーシュが生まれて初めて手作りした料理で、ナナリーから好評だったため翌日の弁当にも入れてみたのだ。
「何でも作れるんだ……」
「何でもは言い過ぎだ」
「でも凄いや。僕はこんなふうに作れない」
「まあ少なくとも、お前よりかは料理に自信はあるな」
 けらけらと冗談めかして笑うと、スザクは何とも言えない表情を浮かべた。悔しいというより、図星を突かれて気恥ずかしいのだろうか。ほんのり血色の良くなった頬から彼の心情をそう推察した。
「そろそろ簡単な料理くらいやってみたらどうだ」
「あーうん、時間がなくて」
 ばつが悪そうに頬を掻く男の表情をじっと見つめた。
「バイトとかか?」
「バイトじゃないけど、うーん、土日もなかなか帰れないというか」
「へえ」
 四六時中遊び呆けているようには見えないが、人脈の広い彼のことだから分からない。中途半端な返答に釈然とはしないもののルルーシュは適当な相槌を打った。

「なあ枢木?」
「な、なに」
「いや?」
「うっうるさいな」
「まあまあ」
 通りかかった男子生徒が彼の肩を叩きながら唐突に話しかけてきた。主語も述語もない内容にルルーシュはさっぱりついていけないが、二人は共通の話題があるらしい。
「うまくいってるみたいで、なあ?」
 なあ? と上がる語調と同時に男子生徒はこちらの顔をちらりと見た。その瞳に悪意は感じられないが、なんとなく良い気はしない。自分の与り知らぬところでからかわれているようだ。
「か、関係ないだろ」
「はいはい」
 どちらかと言えばルルーシュよりスザクのことをからかいたいらしい男子はそれだけ言うと踵を返して席から離れた。

「何の話だったんだ?」
 スザクが何を面白がられているのか、今の二人の内容ではルルーシュはさっぱり分からない。だからそれとなく尋ねてみるが、返ってきたのはそっけない返事とひどく動揺した態度だけだった。
「何でもないから」
「……ふうん」
 そんな反応をされるとますます懐疑的にならざるを得ない。ルルーシュは下がらない溜飲に気づかない振りをした。


 明らかにスザクはルルーシュに隠し事をしている。これが彼に対する疑問と不信感に拍車をかけた。
 自分といるとき以外の彼は時たま、クラスメイトと耳そばを立てて何やら噂話をしている。その話をするときの彼は必ず頬を赤く染め、何かを捲し立てたり焦ったりと、顔色を忙しなくころころ変え、いつにない様子なのである。
 ルルーシュが知っているスザクの表情などあくまでほんの一部だった。なぜなら彼はクラスメイトの前では惜しげもなく、ルルーシュも見たことのないたくさんの表情を見せていた。
 慌てふためいたり大きな声を出したり、顔色を青くしたり赤くしたり、といった表情を頑なに見せない。ルルーシュと仲良くなりたいと言うくせに隠し事をして上っ面しか見せないスザクは不思議な奴だったし、なぜかもどかしくも感じた。



 一度、ルルーシュはスザクに問うたことがある。
 いつも級友とあんなに大騒ぎして何を話しているんだ。努めて何気ない様子を装ってはみたものの、これではまるで嫉妬のようだろう。しかし見えないガラス越しに彼と心を通わせようとする現状よりはよっぽどマシだと判断した。
 ルルーシュとてスザクに限らずクラスメイト全員に重大な隠し事――たとえば名前すら偽って過ごしているわけだが、それはそれだ。この場合、相手に悟らせないことが重要であるのだと、自分のことは棚に上げた。

『さっきもだが、お前いつも何の話をしてるんだ?』
 男子生徒数人に囲まれてようやく解放されたらしい彼にルルーシュは何となしに問いかけた。
 スザクは驚いたように目を瞠った。やはり図星たったのだろう。数秒ほど固まったあと、申し訳なさそうな表情を作って、彼はこう嘆願したのだ。
『いつか絶対伝えるから、それまで待っていてほしいんだ』
 その縋るような声音は思いの外切羽詰まった深刻な色を滲ませていて、ルルーシュは力なく頷いた。頷くほかなかった。今はまだ教えられない、という内容に落胆してしまったからだ。隠し事をしていたことは否定されなかった挙句、まだ言えないと告げられた。彼にとって自分は秘密を知るには取るに足らない人間だったのかもしれない。
 自分だけは知らないスザクの秘密は、ルルーシュ以外の人はみんな知っている。その事実が魚の小骨のような棘になって、心の奥底で刺さったまま取れなかった。




 そうした澱みを日々積み重ねていた折、ルルーシュはスザクから声を掛けられた。青天の霹靂はいつだって、思わぬところで形を表すのだ。

 その日、帰りのホームルームが終わったあとの教室の中央付近はいつにも増して賑やかだった。渦中には件の男が居て、周りの人間は何やら彼を囲って野次を飛ばしたり励ましたり背を叩いている様子だ。一体どうしてそこまで盛り上がって彼を囃し立てているのか想像もつかないが、それさえいつものことだ。ルルーシュはその喧騒にさして興味も関心もなく、いつもどおり放課後の生徒会室へ赴こうと席を立った。

「ルルーシュ、ちょっといいかな」
「……スザク」
 席をはずそうとしたルルーシュを呼びかけたのは、喧騒の真ん中に居たはずの男だった。教室の中央にある人垣はちらちらとこちらの様子を伺っている。なんだか居心地が悪い。
「なんだ。短く済む話か?」
 この男のせいで生徒らの注目を集めているとすれば勘弁被りたい。

 いつものルルーシュがよく知る、涼しい顔をしたスザクが目前に居た。だからルルーシュはつい、少し棘のある口調で問い質してしまった。

 自分にだけ隠し事をし、級友たちとは楽しそうに過ごすスザクにも、スザクの秘密をとうに知っていて共有できる級友たちにも、ルルーシュは徐々に嫌気が差していた。
 仲間はずれにされて拗ねているだけだ。子供じみていると重々承知している。それでも、その渦中に存在するスザクに声をかけられるのは輪に入れない時分が揶揄われているような、馬鹿にされているとすら思われて、どうしようもなく惨めな気分になってしまうのだ。

 そんなルルーシュの胸中はいざ知らず、スザクはルルーシュの嫌味にすら気づいていないのか、場にそぐわないような表情を浮かべていた。
「クラスの子に、貰ったんだ」
 おずおずとルルーシュに差し出されたのは、何かのチケットだ。
「一緒に、い、行きませんか」
 手に持たされたその紙には、”水族館フリーパス”と印字されていた。

 再び視線を上げると、今度は気まずそうに視線を彷徨わせるスザクが立っていた。
「他にも仲いい奴らが、」
「君と行きたいんだ!」
 駄々を捏ねる子供みたいにルルーシュの言葉尻を遮るスザクは、もうそれしか言おうとしない。宙をうろつく緑の眼差しはもう意を決したのか、ルルーシュの瞳を射抜いていた。

 自分にばかり隠し事をして揶揄うくせに、こうやって好かれたがるスザクの言動がちっとも理解できなかった。振り回されるのはいつも自分ばかりなのだ。そう思うとルルーシュは癪に触る。
「そうやって俺を馬鹿にするのは、楽しいか」
 だから意趣返しにわざと傷つける言葉を選んでぶつけた。こうやって日々欺かれている分、このくらいの仕返しは正当だし彼には相応だろう。
「……全部言う。約束する。僕の秘密、全部君に伝える」
 それだけ言ったスザクはみるみるうちに頬を赤く染めるものだから、ルルーシュは困惑した。てっきり呆れられるか諦めてくれると思っていたのに。その返答内容もスザクの表情の真意も、ルルーシュには分からないことばかりだ。

 スザクはルルーシュにチケットを無理やり握らせ、今週末十時に駅前で、と口早に告げその場から逃げるように教室を後にしてしまった。
 先ほどまで騒がしかった放課後の教室さえ今は水を打ったように静まり返り、チケットを握ったまま茫然と立っているルルーシュのほうへ生徒たちの視線は釘付けであった。これではなんだか自分がスザクに悪いことをしたようで、ルルーシュは再び鞄を抱えて今度こそ教室を出た。
 なぜクラス中が自分のほうへ注目していたのか。そもそもルルーシュとスザクの一連の会話を聞かれていたのだとしたら、どうして生徒らは自分らとの会話なんかを聞く必要があったのか。ルルーシュは何も分からないまま、手渡されたチケットを鞄の中へ詰め込んだ。





 青白い光を放つ水槽に面した彼の横顔は涼やかで、しかし幼い子供のような無邪気さや溢れんばかりの好奇心を窺わせる表情は変わらない。
 普段は緑色の虹彩は浅葱色に反射していた。その瞳が指すほうへ、ルルーシュも同じように視線を移すと色鮮やかな稚魚が豊かな珊瑚礁の合間を縫って、忙しなく泳いでいた。
「あの魚、なんだっけ。ほら、映画であった……」
「カクレクマノミ、だろ」
 合点がいったと言わんばかりに表情を明るくした彼は、涼しげな水槽から視線を動かすことなく下らない話を続けていた。

 案外、彼は子供っぽいのだろうか。

 スザクは水族館に着く前、電車に乗ったときからずっとルルーシュに絶え間なく話題を持ち掛け、朝から随分とはしゃいだ様子であった。遅刻するといけないから早寝したら存外寝付けなかった話、朝食の味噌汁で舌を焼いた話、水族館は小学生以来だという話。雪崩のように捲し立てられる話題に、ルルーシュは引き気味で相槌を打つほかなかった。そんなルルーシュの頼りない相槌ひとつでもスザクは笑顔になるのだから、よっぽど今日の水族館が楽しみだったのだろうかと訝しく思う。

 あの日の放課後、鞄の中へ無理やり突っ込んだせいで少し皺の寄ったチケットは、今では財布の中へきっちり収まっているのだからルルーシュだって大概、単純なのだ。あの場では冷たくスザクをあしらうような言動をしたものの、待ち合わせ場所と時刻だけ言い逃げたスザクに”君と行きたい”とストレートに告げられ、正直満更でもない自分がいたのは紛れもない事実だった。

 大人たちも含め周りの人間の言葉はそう易々と信用してはならないと、幼い頃の経験からそれは己の心に刻み付いていた。そう誓った手前、簡単に甘言に乗せられ着いて行く詰めの甘さはルルーシュにとって致命的である。それだけスザクに心を許している自分の迂闊さとは反対に、彼の腕にこのまま身を任せて、いっそのこと見知らぬどこか遠い地へ連れて行ってくれてもいいと、漠然と投げやりなことも考えた。
 そんなルルーシュの捨て身な願いは裏切られ、スザクは行程どおり水族館へとルルーシュを連れ出した。

 隣の少し大きめな水槽には随分と人だかりが形成されており、スマートフォンで水槽の主を写真に収めようと躍起になる客が大勢居た。
「あっ見て、イルカだよ」
 スザクがそちらへ指を指すと猛スピードで水の中を泳ぎ切る巨体が、人々の目前を通り過ぎた。一瞬の出来事にルルーシュは目を瞬かせたがなるほど、確かにこの速さではシャッターチャンスを掴むどころか画面内に収めることもままならないだろう。
 大きいものから小さいものまで、個体差はあるがやはりどれも泳ぎは一流で、それらは目で追うので精いっぱいだった。
 イルカと言えば海に住まう獰猛な肉食獣の代表である。勇猛とも言える特性とは裏腹にどこか愛らしい見た目は水族館の定番で、人気も高い。
 その俊敏な泳ぎで獲物を捕らえる姿は海中のハンターそのものであるが、それも野生の中ではという話だ。人の手によって懐柔された彼らは本能を見失い、自力で餌を捕獲することも難しいのかもしれない。

 ――ただ今からイルカの水槽で、餌やりを行います。興味のある方はぜひご覧ください。

 水槽の向こう側から現れた飼育員と思しき女性が、ガラス越しの客たちに向かって声をかけ始めた。女性の両手には大きなバケツがいくつも握られており、恐らくその中にはイルカたちの餌となる魚が入れられているのだろう。
 飼育員が現れた途端、水面下で悠々と泳いでいた勇ましいイルカたちが、合図も声も掛かっていないのに次々と水面から顔を上げて集まってきた。それらは飼育員の足元へ、ぞろぞろと集まり輪を形成していた。人間であれば列のひとつでも作るだろうが、彼らは海に住む哺乳類動物である。野性的本能を失ったイルカたちは飼育員からの給餌を今か今かと待ち構え、もう我慢ならないと鳴き声を上げる個体も居た。
 女性がバケツの中から魚を数匹掴み、腹を空かせた彼らに次々と手渡しで餌を与え始める。するとイルカたちは水面から大きく身を乗り出し、女性の手中にある魚を奪い合う勢いで食べ尽くしていったのだ。先ほどの獰猛な印象すら与える動物とは似ても似つかないほど、人懐っこい印象を与える。
「お前みたいだ」
「……え?」
 ルルーシュはガラスの向こう、女性からの給餌を受けるイルカたちへ指差して、先ほどよりも分かりやすく言ってやった。
「人からの昼食を喜んで食べる姿が、お前みたいだと言ってるんだ」
 きょとんとした表情がみるみるうちに赤くなっていくのを途中まで見届けて、ルルーシュは浴びせられるであろう抗議を予感して背を向けた。人波を掻き分けて隣の水槽へ足を運ぼうとするルルーシュを追いかけるスザクはやはり、何やら上擦った声で反論しているらしい。その内容にはさして気にもかけず、ルルーシュは既にイルカの水槽からは目を移していた。



 館内を一通り見て回ったあと、スザクは手にしていたパンフレットを広げてルルーシュへ話しかけた。
「もうすぐ屋外で、ペンギンのパレードがあるみたい」
「パレード?」
「あと五分だよ、行こう」
 ルルーシュの意見も疑問も耳に入れず、スザクは有無を言わさず腕を引いてしまった。今朝からずっとこの調子である。彼は熱があるのかと心配になるほどはしゃいでいる様子であった。
 それともこの子供じみた態度が彼のありのままの姿なのだろうかと、ルルーシュは目前の背中を見詰めた。自分より幾分か広い背中はルルーシュの問いに答えてくれるはずはない。しかしどうにも嫌いになれないのだ。今度は自分をどこへ連れ出してくれるのだろうと思うと、むしろ手を伸ばしたくなった。



 既に形成されていた人垣の間から、危なっかしくふらふら歩くペンギンの姿が見えた。パレードとやらはとっくに始まっていたが、まだ終わってはいなかったようだ。
 レッドカーペット上で列を成しながら左右によたよたと歩く姿は確かに愛らしいと形容できる。周囲の人々も口々に同じような感想を漏らし、和やかな雰囲気に包まれていた。
「歩くの、あんまり上手じゃないね」
 それは嫌味や悪口でなく、歩行を覚えたての赤子に対する感想のような、庇護欲を煽られた者の口調であった。その証拠に目元も口元もすっかり緩みきりだらしない表情をしている。
「でも、泳ぐのは上手なんだって」
「そうだな」
「君みたい」
 思いも寄らない言葉だった。
 ルルーシュは隣の男の顔を見遣って目を瞬かせる。発言の真意を理解できていないそんな様子に、スザクは微笑んで付け足した。

「泳ぎ上手なのを隠して、歩くことが下手な振りをしてる」

 スザクの言わんとすることを、ルルーシュは図りかねた。
 クラス内では誰とも深い交友関係を築くことを恐れ、自然と一定の距離を置こうとする孤独な自分を器用貧乏と隠喩しているのだろうか。

 ペンギンという動物はそもそも本来海に住む哺乳類でなく、進化の過程で飛ぶことをやめた鳥類だ。自分は、本来王族であったが大戦の過程で不幸にも巻き込まれ、今は一般人の振りをして暮らしている。
 少々こじつけかもしれないが、照らし合わすことも出来なくはない。空で生きることを捨てて地上を住処とした彼らと、継承権を剥奪され名を失いアッシュフォード学園の学生として日々を送る自分、という意味だ。
 しかしスザクは、ルルーシュの本来の姓が”ランペルージ”でなく”ブリタニア”であることは知らないはずだ。だから単純に彼の言葉どおり、”お前は平凡で少し孤独な振りをしているが、本当は口も達者で賢い男なんだ”と暗に言われているだけなのだろう。
 それを見抜かれたところで、ルルーシュにしてみれば勝手に言わせておけばいいだけの話だ。むしろ歩くことが下手な振りをしていれば人々の同情を集められ、生きやすくもなる。

「……なんだか難しいことを考えてるね」
「別に」
 パレードと言うわりには全長数十メートルほどしかない短い道をペンギンたちは歩き終えたようで、周囲からは拍手が送られていた。
 人混みの中に流れる和やかな雰囲気とは反対に、二人の間にはひんやりとした空気がどことなく流れていた。スザクが意味深なことを呟いたことが発端ではあったが、何でも難しく考え過ぎて勘ぐってしまうルルーシュの悪癖も、この空気を作った要因である。
「館内に戻って、休憩しよっか」
 スザクは再びルルーシュの腕を引いた。先ほどの有無を言わさぬような力強さはそこになく、抵抗すればスザクはすぐその手を解いてくれるのだろうと直感した。
 それは彼なりの不器用な気遣いか思いやりか、あるいは優しさかは定かでないが、ルルーシュにとっては甘い毒でしかなかった。
 人に優しくされるというのはこんなにも心を乱されることだっただろうかと、ルルーシュは目の前の背中に問い質したい気持ちでいっぱいだった。ぬくい素肌の温度は手放し難かった。



 正午をとうに過ぎた館内は小さなカフェテラスや土産物屋の前に人が集まっていた。
「ちょっとトイレ行ってくるから、ここで待ってて」
 スザクはそう告げて、人混みの中へと消えていった。

 家族連れや友達、恋人同士の客層に目を配りつつ、ルルーシュは人のいない壁に背を凭れ掛けさせ、憎んでも憎みきれない男の姿を思い描いた。
 そもそもこんな、高校生にもなって男友達と二人で休日に水族館などどうかしているのだ。そんな誘いを人の多い放課後の教室で一方的に取り付け、いざ当日になればルルーシュを引っ張り回しておかしなことばかり言う。全くもって奇特な男であると、ルルーシュは結論付けた。そしてあんな男に好かれて満更でもない自分も相当な変わり者だ。
 なぜ自分に対しこれだけ執着するのだろうかという疑問と、先日スザクが己に約束した、秘密を打ち明けるという話は何か関係があるのかもしれない、とようやくここでそれに思い至った。

「ルルーシュ」
 背後から肩を叩かれるのと、耳馴染みのある声に名を呼ばれるのは同時であった。
「お待たせ」
「……ん?」
「奪っちゃった……なんてね」
 ルルーシュが声の主へと顔を向けると、口元に柔らかい何かが押し当てられた。
「これはイルカのぬいぐるみ」
 それは何だとルルーシュが問う前に、スザクは物の正体を答えた。
 スザクの手には土産物屋の店名が印字されたビニールバッグが提げられ、どうやらトイレに行くというのは彼の方便だったらしい。
「ルルーシュが、僕に似てるって言ってたから買っちゃった」
 手のひらより一回り大きいくらいのぬいぐるみを、スザクはルルーシュの顔へ向けた。実物の勇猛な姿とは打って変わって、デフォルメされたその丸いフォルムは先ほど水槽の中に居た彼らとはこれっぽちも似ていやしない。
「間抜けな顔だな」
 ルルーシュはばっさりとそう言い捨てると、スザクの手から柔らかいぬいぐるみを奪い取った。
「今のお前にそっくりだ。奪い返してやる」
 イルカの口ばしをスザクの唇に押し当てて、ルルーシュは告げた。先ほどスザクにされたことを、そっくりそのままお返ししてやったのだ。
「……」
 硬直しているスザクを鼻で笑い、ぬいぐるみを彼の胸へと押し付けた。

「る、るーしゅ……?」
「…………」
 次第にルルーシュは居ても立っても居られなくなり、スザクを置いてけぼりにしたまま早足でその場を去ってしまった。




 気が付いたらとっくに追いついていたらしいスザクは息のひとつも乱さず、ルルーシュの隣を歩いていた。
 二人は無言のまま、何か示し合わせたわけでもなく駅へと足を向かわせていた。
 ルルーシュは俯かず、真っすぐ前を向いて歩いていた。否、前しか向けなかった。赤くなった耳や頬は髪の毛で隠れているだろうかという心配だけが、心を埋め尽くしていた。


 改札を通るとちょうどプラットホームに電車が到着していた。乗車率の少ない普通列車であった。
 往路は時間短縮のため大きな主要駅しか停まらない準急列車を使用したが、二人は黙って各駅に停まる普通列車に乗車した。時間は往路の倍ほどはかかるが、それでも人の少ない場所は今の状況では有難かった。それはルルーシュもスザクも同じことだったのだろう。

 人のまばらな車内の隅っこの座席を選んで、二人は肩を並べた。
 スザクは土産物屋で購入したイルカのぬいぐるみではなく、先ほどは見せていなかったが同時に購入していたらしいペンギンのぬいぐるみを、手のひらで弄っていた。大の男が電車内で動物のぬいぐるみを握って遊んでいる光景など傍から見れば滑稽だろう。だがそんなことにも今のスザクは気が回らないらしく、丸い腹や黒々とした羽を指先で撫でていた。
「……スザクの秘密って、なんだ」
 沈黙を先に破ったのはルルーシュであった。
そんなルルーシュの問いかけに、スザクの指の動きはぴたりと止まった。
「それは……」
 ぬいぐるみの胴に回っていたスザクの指が、ペンギンの口ばしや頭を撫でさすった。愛しそうなものに触れるような指先の動きに釣られて、ルルーシュもくすぐったい気持ちになる。

「……あ」

 スザクは不意に手元から顔を上げた。ルルーシュも釣られて視線を動かす。ちょうど目の前にある車窓から見える景色に、二人は揃って弾かれたように瞠った。

「向日葵畑だ」

 だがそこには誰もが想像する背の高い茎も大きな葉も、大輪の花びらも見当たらなかった。何かの畑のようだったが、随分と背の低い葉が一面に植えられているだけであった。
「育つと向日葵になるんだ」
「詳しいんだな」
「うん。実家の近くに、向日葵畑があったから」
 スザクの口から実家という言葉が出てきて、ルルーシュは目を瞬かせた。
 そういえばルルーシュはスザクが日本人であるということ以外、スザクの身辺情報は何一つ知らずにいた。今までそんな会話の流れにすらなったことがなかった。
 ルルーシュがスザクのことを何も知らないのと同じように、スザクもルルーシュのことを何も知らない。
 何者なのか、どんな血が流れていて、どこで生まれてどんな親に育てられ、アッシュフォードへ入学するまで何をしていたか、お互いが何一つ知らないまま、自分たちは随分と遠いところまで来ていたらしい。

 大人になるにつれ、出自や経歴、血統が人間関係を築く上でも生きる上でも、絶対条件となる。人々はそれを区別と言い、ブリタニア皇帝は差別であると正々堂々言い張った。人は差別させるために生まれ、差別されることによって人は、国は、強くなるのだ。国民の前で声高らかに唯一王は説いた。

 だがルルーシュはそう思っていなかった。
 人種や血統、地位や家柄がその人間の全てを決定させる要因となることは断じてあり得ず、志や信念を同じくし、思いやりや愛情をもってすれば全ての人々は分かり合えるものだと信じて疑っていない。そうして分かり合えた先に、貧困や争いのない平和な世界があるのだと願っていた。
 その証拠に、ルルーシュの隣に今居るスザクとはお互い何も知らないままで心を通わせることができたのだ。この事実はルルーシュの持論の正しさを証明する材料であろう。

「ルルーシュ。僕は君にいくつか、秘密にしていることがあるんだ」
「へえ。ひとつじゃないのか」
「うん。クラスメイトにも言ってない、僕だけの一生の秘密」
「一生の秘密……」

 ルルーシュにも当然、思い当たる節がある。
 目立つことを極力避け、他者と距離を取り、平凡な生徒を演じ続けた。名前すら偽るどころか、ルルーシュ・ランペルージという存在こそが全てが偽りなのだ。ルルーシュが生きているという事実自体がトップシークレットで、もし素性が本国に見つかればただ事では済まない。
 足枷にしては重すぎるルルーシュの抱える秘密とスザクの言う秘密が、果たして釣り合うかどうかは定かでない。それでもルルーシュはそれを口にすることを抑えられなかった。
「俺にもあるんだ。誰にも言えない、一生ものの秘密」
「やっぱり、そうなんだ」
 ルルーシュがそれを口にする前から当然ながら、スザクはとっくに気づいていたようだ。スザクだけでなく、クラスのみなが”ルルーシュは何か、誰にも言えないことを隠しているんだろう”と薄々勘付いていてもおかしくない。だがスザクを含めて誰も、それをルルーシュへ問い質す不届き者は一人として今日まで現れなかった。

「それで、今日教えてくれるスザクの秘密は何なんだ?」
 例の放課後、スザクは秘密を打ち明けると堂々と約束してきたのだ。至極愉快だと言わんばかりに、ルルーシュは言葉の続きを待った。
 先ほどの恥ずかしい遣り取りでとっくに分かっていたが、敢えてそんなことを意地悪に尋ねてやる。ようやく自分は本調子に戻ったようだった。

「編入してきたその日から、君に一目惚れだった」
「ひ、ひとめぼれ……くく、はは」
 ルルーシュは堪え切れない笑いを零し、とうとう腹を抱えて声を出した。
「あはは、そうか、ひとめぼれ、ははは!」
「僕、真剣なんだけど……」
 スザクは自分の一世一代の告白を茶化されたと思って、実に不服そうな表情を浮かべていた。
 いまどき高校生にもなって、しかも男が男に一目惚れなどあるものかとルルーシュは問い詰めたかったが、スザクの真剣そのものな目に圧倒され、ルルーシュは思わず黙り込んだ。何時どのタイミングで己に惚れたのか、そのへんを根掘り葉掘り尋ねるのはまたの機会となりそうだ。


「そういえば俺も小さい頃、向日葵畑に行ったことがある。今思い出した」
「ルルーシュも?」
「ああ。日本の和服……袴がよく似合う男と一緒に、駆け回って遊んだんだ」
「それは、……」
「もうそいつはどこで何してるか分からない。名前も知らない奴だけど」
「……そっか。そうなんだ」
 スザクは何か言いかけたようだったが、ルルーシュがその素振りに気が付くことはなかった。

 ルルーシュが、本当は王位継承者で、ブリタニア帝国に外交手段として見捨てられた子供であること、今はアッシュフォード家の元で素性を隠しているということ。
 そして己と妹を見捨てたブリタニア帝国をひどく憎み、いつかは国家転覆をさせるほど、この世界を変えたいと強く望んでいるということは誰にも言えない、言ってこなかった禁断の秘密である。

 しかしスザクも同じように誰にも言えない爆弾を抱えていた。
 父親が日本国最後の首相であり、その父親を殺害し戦争を終結させたこと。幼い頃にブリタニア国からの人質として送られてきた子供二人と、束の間交友関係があったこと。
 そして、ブリタニア国を内側から変えたいという希望を胸に、同時に父親を殺害した罪を人名救済の名の元で殉死して償いたいという身勝手な願いをひた隠しにし、ブリタニア国の軍隊に属していること。ナイトメアフレームを扱い戦場の最前線で戦っていること。その功績が認められユーフェミア皇女殿下の騎士に選ばれ、間もなく叙任式が行われるということ。
 ルルーシュへ告げられていない禁断の秘密を、スザクもまた抱えていた。

「いつかルルーシュに僕のこと、話せたらいいな」
「……待ってる」
「夏になったら向日葵畑に行こう。その頃には僕も、君のことを知っていたい」
「それはどうだろうな」
 ルルーシュが微笑みを湛えながら言うと、スザクはあからさまに嫌そうな顔をした。
「ずるいよ。僕だって、君のことを知りたい」
「……知ったら後悔するかもしれない」
「しないし、させない」
 どこから湧いてくる自信なのかは知ったことではないが、根拠ない力強い言葉だけがルルーシュにとっての道しるべであった。

 二人はいつか訪れるであろう満開の向日葵畑を夢見て、未来を語り合った。
 行き着くその先は破滅か共存か。車窓から覗く咲かない向日葵は、列車の行く末を憂いていた。