気持ちが良いということ
霧がかかったように白む空の色は朝なのか昼なのかも区別がつかないが、夜の気配を引きずる冷たい空気が頬に触れると嗚呼、まだ早朝だったのかと判別できる。日中がいくら蒸し暑かろうと日が沈めば随分涼しくなる気候は、夏と呼ぶには些か早い。からりと乾いた風は春とも夏ともつかない色を纏って、カーテンの隙間からそよそよと靡いていた。
音はない。視界の先には皺くちゃになった白が広がっている。口の中はなんだか気持ち悪い。形容しがたい臭いも鼻につく。
湿ったシーツが皮膚に張り付く感触と、体の気だるさ、節々の妙な痛み、それと”あらぬ所”に感じる違和感で目が覚めた。どうせなら昼まで眠り続けたほうがよいと思えるくらい、一番最悪の部類の寝覚めである。
皮膚からダイレクトに伝わるつるつるした布の感触に、服を着ていないどころか下着も身に着けていない、一糸纏わぬ姿でベッドに横たわっていたことが分かる。なんてだらしないんだ、と自虐的になる一方で体に感じるとある違和感に嫌な予感がした。なぜならその違和感には散々、嫌というほど身に覚えがあるからだ。
壁に向かって横寝していた体、とくに腰のあたりに這い回る熱の感触は手であろうか。腰骨、尾てい骨、背骨の付け根、そして臀部を順繰りに舐めるような仕草で熱が行き交う。触れるだけだったり撫でたり擦ったり、ときには揉んだり、動きは好き勝手だ。
普段の覚醒状態であれば自分の置かれている状況をすぐさま判断できるであろうが、今は完全に寝起きだ。本能も理性も、ここはまだ眠っておくべきだと叫んでいる。記憶はあやふやだがどうやら自分はひどく疲れ切っていて、何もする気が起きないほど体力も気力も底を尽きているらしい。
ルルーシュは自分の状況をそう楽観的に捉えていた。自分の体を繭のように包むシーツと羽毛布団のぬくさにすっかり気を緩めていた。疲れた体に布団はよく効く。冷静な判断力でさえ、この心地よさを手放すのは惜しいと主張するのだ。
「ルルーシュ、寝てる?」
不意に耳に入った声にルルーシュはゆっくり瞬いた。揺れる視界はほんの少しクリアになったが、それでもまだ此処がどこなのか、何となく考えるのも億劫だった。
自分は壁に向かって横向きに体を横たえていて、声は背後から聞こえた。ということはこのベッドにもう一人、誰か居る。
「寝てる……なら、いいよね」
声ははっきり聞こえる。しかし声が出せなかった。首一つ動かす気にもなれない。だから声の主は自分がまだ入眠中であると判断した。
寝てるから、何が良いのか。どうして起きていたら都合が悪いのか。それを考える体力ももうなかった。
「ん、入る、かな……」
ごそごそと下半身をまさぐられる感触がして、ようやく違和感の正体に徐々に感づき始めた。まだ何かが挟まったような感覚が抜けない肛門のあたりを何かで撫でつけられ、入口を拡げるようにぐりぐりとそれを押し付けられる。時折くぐもった水音がぐちゅ、と鳴るのも聞こえた。
「あ、やば、きもち」
「……ッ、っ!?」
一瞬身を切り裂くような鋭い痛みと内臓を押し上げる圧迫感、そして同程度の甘い刺激が体に走った。
脚を俄かにばたつかせシーツを両手で掴んだが、背後の男はとくに気に掛けるふうもなく、はあはあと荒い息を零すだけだった。一体なんてことをしてくれたんだと、寝起きの無の感情からふつふつと怒りが沸き上がる。
クリアになりかけていた視界は涙で滲み、乾いた口からひりついた声が漏れかけた。が、悲鳴は音にならず空気を吐き出すのみに終わった。声がうまく出せない。もっと言えば、喉が痛くて声が出ない。
「ふふ、まだ、柔らかい」
「っ、……ッ、っ!」
「あ、すごい、うねってる」
「ぁ、っ…!」
「…………あれ?」
閉じられかけていた奥を再び抉じ開けるような動きに思わず息が詰まる。息苦しい痛みと再び覚醒し始めた微かな快楽に翻弄され、思うように喋ることも抵抗することもままならない。
ようやく喉からひり出した声は蚊の鳴くような小さな小さな悲鳴だった。しかし背後の男はその音も耳に拾ったらしい。今さら至極不思議そうな声で、ああ起きてたの? とのんびり問うてくる。自分の行いに反省も後悔も罪悪感もない様子である。
「お、お前、何、して!」
「なんで狸寝入りしてたのさ。もしかして期待してた?」
「馬鹿、かっ、このっ……!」
なんて罵ってやろうかと口を開いた瞬間、奥まで一息で貫かれた。ひゅ、と声にならなかった息が喉から漏れて、同時に自分のものじゃないみたいな甘い声が飛び出す。
「……かわいい」
「っ、あ、やっ、あ!」
耳に注がれた低い声にぞわりと肌が栗立つ。冷や汗以外の、湿った熱い汗が全身の毛穴から吹き出すような心地になった。波風すら立たない穏やかな感情が一気にかき乱され、本能のままに欲求を追いそうになる。
からからのはずの喉奥から女みたいな嬌声がぽろぽろと零れ、その旋律を聞かせるたびに体内に埋まる怒張は質量を増してゆく。近くにあった枕を手繰り寄せて声を抑えようとしたが、伸ばしかけた腕は絡め取られた。
「もっと聞きたい」
「いっいや、あ! ひゃ、…あ!」
こちらの主張も我儘も、情事中は何一つ聞いてくれないのがこの男の厄介なところだ。むしろそれを生業にしていると言っても過言ではない。ベッドの上ではルルーシュの意見など腕力と快楽で封殺されるのだ。
「肘ついて、腰上げて」
「や、いやだ、いやだ……」
「なんで?」
「は、恥ず、かしい……」
要求されたのはいわゆる四つん這いという姿勢で、臀部を持ち上げてこちらに向けろと命じてくる。性交においてはポピュラーな体位であろうが、ルルーシュはそれがどうにも苦手だ。そもそもこういったことに得手不得手もあるものか、というのが本音だが。
「煽るのが上手だね、君は」
「へ、なんで」
「ううんいいんだ。……ほら入れるよ」
下から持ち上げるようにして腰を思い切り掴まれると、痛みと少しの恐怖心で腰が自然と逃げた。しかしそれさえ許さないと言わんばかりの力で上から押され、今度こそ二進も三進もいかない。
彼の腕から逃げ惑うように伸ばされた手は皺になったシーツの海をみっともなく掻いていた。押し寄せる羞恥心をどうにかしようと目を瞑り俯くが、失われた視界を補おうとその分体内の感覚はより鋭利になってしまう。文字通り八方塞がりだ。
この場においてルルーシュは被支配者側だ。
いつもは物事を客観的に、冷静に分析しその口上手さを利用して器用に立ち回ることを得意としている。ときには人の心を操作し状況を有利に運ぶことだって厭わない。
能ある鷹は爪を隠すと言うが、ルルーシュは自分のパフォーマンスを百パーセント発揮することは滅多にしない。人より秀でている人間はそれだけで目立つからだ。目立つというのは良い意味でも悪い意味でも様々な機会に遭遇するだろう。ルルーシュはそれを避けるため敢えて正攻法は取らず二番手、三番手を選んできた。そしてのらりくらりと危険を回避し今日まで平穏無事に暮らしてきた。
しかし今はどうだろう。一方的に捻じ伏せられ欲をちらつかされ、恐怖と痛みに悶えながらそれを悦ぶ体がここにある。これはルルーシュの本意でない。はずなのだが、体は幾度となく心を裏切り、それどころか堕ちてしまえば楽になると耳元で悪魔が囁いてくる始末なのだ。
「あ、ン、ふぁ、あ」
「昨日あんだけしたのに、もう気持ち良さそう」
「ちがっ、あ! や、アっ」
腰を掴まれずくずくになった奥を突かれると、それまで抱いていた不安も葛藤も恐怖も有耶無耶にされる。
人の心を掌握する側だった自分がこんないとも簡単に、この男に好き勝手されることがどうにも腹立たしい。全くもって不本意だ。しかし体はそれが本望であると叫んでいる。
「違う、こんなっ、あ…ッ、なんで、ン、う」
「それだけ僕のことが、好きってことで、いいんじゃない、かな」
知ったような口調でそう説いてくる。ざらついた声は欲に塗れていて、鼓膜を震わせるたびに腰が重くなった。ままならない理性が悔しい、こんなはずじゃ、と泣き叫ぶ。
「ルルーシュ」
「あっ、はあ、すざく、も、すざく」
「うん」
「なんで、こんっな、あ! やめ、ア、ん、あ…」
「気持ちいね」
振り乱す頭をそっと撫でて、気持ちいね、好きだよ、好きだ、と砂糖菓子のような言葉ばかりを彼は囁いた。
「ルルーシュがきもちいと、僕もきもちいよ」
「んっ、う、あ…あ、ん」
背中から覆い被さられ、何度も甘ったるい言葉を投げかけてくる。それはルルーシュを狂わせようとする悪魔の甘言だった。
体ごと心も掌握されることは恐ろしい。しかもそれが本能に直接訴えかけるような、抗いようのない支配だと余計に恐怖感を覚える。自分が自分じゃなくなるような気がして、手放しかけた理性を再び手繰り寄せた。
「また中、締まった、僕の声好き?」
「ちが、そうじゃ、な」
「そこはそうって、言ってよ」
低い声が三半規管に触れるたび、腰がびくびくと震える。とっくに涙で霞んだ視界は白くぼやけ始め、もう境界線だってあやふやだ。ふやけきった脳内はまともな思考もできず、ただ気持ちが良いことばかりを考えてしまう。
もうとっくに体も心も支配され尽くしていた。自分の意に反する声が出て無意識のうちに彼を求めてしまう時点で完敗だったのだ。しかしそれを唯一認めようとしないのはルルーシュの中にあるプライドだった。
「なかなか手強いなあ」
「なに、あ、何の話、…んっ」
「ううん、こっちの話」
ルルーシュの赤くなった顔を背後から覗き込みながら、スザクは少し歯がゆそうに笑っていた。
完