三夜物語

 白い薄手のカーテンが夜風に当てられてはたはたと裾が揺らめいた。半分ほどしか開けていない窓からは涼しく乾いた風が入り込んできて、ほんの少し蒸し暑い室内の空気がようやく循環する。息を吸うと澄んだ夜の匂いがした。
 外を見遣れば闇色の雲間から煌々と輝く月が、本来の形より半分ほどの大きさで天空に浮かんでいる。しかしそれだけの大きさでも十分明るいだけあって、夜間の唯一の光源として勤めを果たしていると言えよう。
 こんな夜はふと、外に出かけたくなる。昼間はあんなに煩わしいと感じる虫の声も太陽の日差しも喧騒も、今は寝静まる時間だ。生の音がしない外は静寂に包まれていてどこか非現実的である。通い慣れた道ですら自分の知らない世界に様変わりしたようで、それはほんの少しの不安と大いなる魅力に満ちているのだ。
 しかし、普通の学生ならよっぽどの事情でもない限り夜中に出歩いたりしない。宿題をしてさっさと寝ろと言われるのが常である。そもそも全寮制であるこのアッシュフォード学園に所属している以上、敷地外に出ることさえ許されないのだ。
 ゆえに夜は退屈だ。あんなに忙しかった昼間から一変、夜の帳が下りれば時間の流れ方すら変化するらしい。テレビをつけてもいまひとつ興味をそそられないし、インターネットに張り付く習慣も持っていない。妹は少し長めの入浴を終えるとすぐに眠ってしまう。宿題は済ませてしまった。かといって寝るにはまだ早すぎる。
 ルルーシュは暇を持て余していた。何もすることがない暇が最高の贅沢だという意見もあるが、ただ無意味に過ぎてゆく時間はただただ無駄だ。
 手のひらに収まる携帯端末の画面をぼんやりと眺めていたルルーシュは、数ある夜のうちのとある晩にあることを思いついた。何となく視界に入った電話マークのアイコンで閃いたのだ。
 緑色の正方形に受話器が描かれてあるアイコンをタップし、見知った人たちの名前が登録されてある電話帳を開く。とはいえ連絡先を交換するほどの親しい間柄の人間はそう多くない。
 電話帳の同じページを二、三周ほど捲ったところで、ルルーシュの指先はふと止まる。そこに記されていた名前はルルーシュの中で最も親しく、相手もルルーシュと最も親しくしている旧知の人物であった。
 ほんの少し、時間にすれば三秒ほど押そうか押すまいか迷った。いくら親しいといえどこんな平日の夜中に、とくに何の用もないのに電話をかけても迷惑でないだろうか。テレビに夢中か風呂にでも入っていればそもそも気づいてすらもらえない。たった今布団に入ったところだったら、それこそ面倒だと思われそうだ。
「……もしもし、俺だ」
『ルルーシュ? どうしたの』
 二、三のコール音のあと、ルルーシュが思っていたよりはきはきした口調が電話越しに聞こえた。この時間は彼もまだ就寝していなかったらしい。
「実は、とくにこれといった用事はないんだ。ただ……」
『ただ?』
「何となく暇で、電話帳を眺めてたらお前の名前があったから」
『ふふ』
 ひどい言い訳だ。しかし嘘はついていない。そこに名前があったから指を翳して触れてみた。すると意外にも電話は繋がってしまった。ただそれだけだ。
『僕も今ちょうど、ルルーシュと喋りたいなあって思ってたところなんだ』
「俺は別にお前と喋りたくて電話したわけじゃない」
『じゃあなんで電話してきたのさ』
「言っただろう。何となくだ」
『ということは君の気分次第だったってこと?』
「そうだな」
『なら僕は運が良かったんだな』
 どうしてそれで運が良いことになるのかルルーシュは一瞬分からなかった。彼も自分と同じように時間を無駄に消費し、夜を持て余していたのだろうか。
『今、何してる?』
「何もしてない」
『ああ僕もだ。ベッドに寝転がってぼーっとして、君と電話してる』
「俺も」
 生ぬるくなったシーツが不快に感じてごろりと寝返りを打つ。耳に当てた端末はそのままに体を横向きに倒すと、枕カバーから柔軟剤の清潔な香りがほのかに感じられた。
 テレビもラジオもついていない。パソコンはもう電源を消した。窓の外はすっかり闇に包まれ不気味なほど静かだ。だからだろうか、やけに自分の声が部屋に響いて落ち着かない。耳元から聞こえる声はルルーシュにとって聞き馴染みがある優しいトーンで、カーテンから流れ込む少し冷えた夜風と相まって心地よい。
『眠たい?』
「いいや」
『僕も、君から電話がかかってきたのが嬉しくて眠気覚めちゃった』
「そうか」
 ルルーシュが短く相槌を打つとほんの僅かの間、沈黙が二人の間に流れた。風の音も呼吸音も聞こえないしんと静まった空間の中で、焦ったように彼が声を上げた。
『……ごめん、やっぱりさっきの無し』
「さっきってどれだ」
『今言ったことだよ』
「そうか、分かった」
 男に二言はない、とかいつも言うくせに前言撤回なんて彼にしては珍しいことだ。とはいえ撤回されたところでルルーシュにはなんの損も得もないから好きにすればいいと思うが、肝心の発言内容については全くと言っていいほど覚えていなかった。話半分で適当に相槌を打っていたからだ。
『やっぱり眠いんじゃないのか』
「そんな、こと……」
 指摘されて否定しかけた折、口からふぁ、と欠伸が漏れた。誤魔化す暇もなく自然と出た眠気の合図にルルーシュも驚いた。
『眠いならもう寝なよ』
「うーん……」
 再びごろりと寝返りを打ち、今度はうつ伏せの体勢で顔の下に枕を敷く。ふかふかの枕と自身の体温が移ってほんのり温まった布団の中は絶妙な快適ぶりで、つまり就寝にはもってこいの環境だ。
 もう寝てしまうか我慢するか悩んでいると、さらに小さな欠伸が出てしまった。電話越しの男にもこの音声は聞こえているに違いなく、その証拠に小さな笑い声が聞こえる。
「……やっぱり寝る。急に電話してすまなかった」
『ううん。たまにはこういうのも楽しいよ。おやすみ』
「ああ、おやすみスザク」
 普段は日中しか顔を合わさず声も聞かない人物からおやすみと言われるのは少し奇妙だ。たった四文字の音色が少しくすぐったいのはどうしてだろう。

 音のしなくなった端末を枕元に置いて、ルルーシュは今度こそ目を瞑った。
 自分から電話をかけておいて、大して話もせず切ることになったのは少し悪いことをしたな、と思う。通話時間は結局五分にも満たなかった。寝る前に友人と長電話をしてつい夜更かしを、なんて話はよく耳にするが、結局自分には向かなかったらしい。
 ルルーシュはそれから大した間も置かず眠りについた。いつにも増して深く熟睡できた夜だった。





 昨日の今日だが退屈なものは退屈だ。
 眠気がくるまでの時間潰しにアプリのゲームを起動してみるが体感時間の早さはさして変わらない。目を瞑ってみるがまだまだ頭は覚醒しきって眠れそうにない。つけっ放しのテレビは退屈過ぎてなんら内容が頭に入ってこない始末だ。こうなったら試しにラジオをかけて、夜にぴったりな静かな音楽でも流してみようか。
 そう思い立ち、学習机の椅子から立ち上がったときである。
「……あ」
 着信を告げるアラーム音が唐突に鳴り、液晶画面が点灯した。そこに表示されていたのは"枢木スザク"の名前だった。
「……」
 受話器ボタンを押して端末を耳元に当てるが、声がしない。
「……もしもし?」
『ああ、ルルーシュ。……その、夜遅くに突然ごめん』
「どうかしたか?」
 何てことないように話しかけると、少し驚いたような口調の声が聞こえた。ルルーシュが着信に出ること自体、スザクは期待していなかったのかもしれない。
『君の声を聞……じゃなくて、えっと……なんだっけ』
「電話してきたくせに用件を忘れたのか」
『いや、用はないんだ。ただ、その』
「暇だったから?」
『ああ、うん。それだ。すごく暇だったから』
「そうか。俺も今同じことを考えていた」
 時計の針を見遣るとまだ九時前を指していて、寝るには少し早い。しかし夕食も入浴も済ませてしまっているからこれといってやることが思いつかない。昨日の記憶をなぞるようにルルーシュはベッドへ横になって、スザクと会話にならない会話をぽつぽつ続けた。
『いつもこの時間は何をしてるの』
「宿題をしたり、テレビを見たり」
 とくに捻りも面白味もないありきたりな答えだ。再び短い沈黙が落ちる。
 はて、彼とは普段どんな話をしていただろう。ルルーシュはふとそんなことを考えた。
 学校で会うスザクとは日中よく話す機会がある。休み時間だったり授業の実習で同じ班だったり、放課後の生徒会活動だったり。寮までの短い距離を一緒に歩いて帰ることもある。
 そこで自分たちは、たとえば何気ない一言から話が膨らんで冗談を言い合い、ひとしきり笑って、それで何の話をしていたっけ、という一連の流れの会話をする。こうして文章にすれば単純だが、二人の会話のキャッチボールはなかなか終わりが見えず、時間を忘れて延々と喋ってしまう。
 しかもこういった会話は時間が限定されているときに限って大層盛り上がるのだ。体育のあとの更衣室、昼休みの最後の五分、教室が施錠される放課後の下校時間。主旨も目的もなく終着地点の見えない雑談は心底下らなく果てしないほど時間の無駄であるが、ルルーシュはこの時間が嫌いじゃない。
『テレビは僕も見てるけど、今はコマーシャルかニュースしかやってないな』
「中途半端な時間だしな」
 八時四十五分ごろから九時までの十五分間はどの放送局も大抵、コマーシャルや短時間のニュースを放映している。この間にトイレを済ませたり歯を磨いたりと休憩には丁度いいが、退屈過ぎて娯楽に飢えている今にとっては不要なインターバルである。
「……」
『……』
 再び沈黙が二人を包む。
 いつもはどうやって話をしていたっけ。どうしてあんなに話が続けられるのだろう。
 当たり前過ぎて気にしたこともなかったが、こういう状況はなんせ初めてだからルルーシュは少し戸惑った。別に沈黙が気まずいとは思わないものの、黙り込むのも奇妙だ。
 あるいは声だけ、だからかもしれない。相手の表情や身振り手振りが見えない電話は少し話のテンポが取りづらい気がする。
『あ、ルルーシュ。ニュース見て』
「うん?」
 ふと端末からそう声がして、言われたとおりルルーシュはチャンネルを切り替えた。そこには女性のリポーターが映っており、真新しい婦人服店舗のウィンドウの前で何やら取材をしている。
「リニューアルオープン?」
『そうそう。ずっと改装工事してた新宿のモール。来週から始まるんだって』
「へえ」
『映画館も出来るらしいよ。アミューズメント施設も広くなって、ご飯屋さんも増えるって』
「なんだ、行きたいのか?」
 えらく捲し立てるものだから、ルルーシュは揶揄うようにくすりと笑った。指摘されたスザクは言葉を詰まらせ何やら言いづらそうにもごもごと呟いている。どうやら図星らしい。
「いいよ、行こう。ナナリーも連れて行きたいな」
『あ、ああ、うん』
 どこか上擦ったぎこちない返事に、ルルーシュはもしや、とひとつの推測を立てた。それは外れていたら自意識過剰だと責められかねない内容であったが、これだけに関しては根拠のない謎の確信を持っていた。
「俺と二人で行きたかったのか」
『えっ、いや、えっと、そういうんじゃ』
「まあそうだな。開店したてだと人も混んでそうだし、ナナリーを連れて行くのは少し危ないか」
 ルルーシュは自分でそう言いながら納得した。
「じゃあ二人で行こう。来週からだろ? 週末なら行ける」
『い、いいの?』
「他に呼びたい奴が居るなら呼ぶけど、」
『いや、いい、二人がいい。……ほら、混んでると大人数で移動すると大変だし』
「ああ」
 言い訳がましくそれを繰り返す男は、やけに張り切った様子で行こう行こうと誘ってくる。そんなに興味があるなら最初から二人で行こうと言ってくれたらいいのに、どうして彼は回りくどい言い方しかできないのか。ルルーシュはそれが不思議でしょうがなかった。しかし電話越しでも伝わるほどの朗らかな声を耳にすると、そんな些細な疑問も忘れてしまう。
『ブリタニアで有名なご飯屋さんが出店するみたいなんだ。予約ができたらそこで食べたいな』
「なんだ、お前が拘るなんて珍しいな」
『だって僕がリード、じゃなくてえっと、行きたいところが色々あって』
「スザクのセンスに頼りきりになるのは少し不安だが」
 一日の行先や使用する交通機関から、各場所での滞在・所要時間までも計画立てるルルーシュに対し、スザクはその日その時の気分で行先や食事といった行程を決めるタイプだ。ゆえに幾度となく、上映間際の映画館に駆け込んだり数十分に一度しか来ない電車を逃したりと、散々な目に遭うことも少なくない。
『そっそれはそれだよ!』
「冗談だ。スザクの好きにすればいいよ」
 半分は本気だ。
 しかし声の様子からして相当楽しみにしていたようだから、水を差さないに越したことはない。来週末はスザクに全力で振り回される覚悟で挑むことが懸命だろう。
『楽しみだな。来週、ルルーシュと二人で』
「むしろ俺で良かったのか」
『君じゃなきゃ駄目なんだよ』
「そうなのか?」
 言葉の真意は分からない。だがそこまで断言されたからには、とことん付き合ってやろう。
『待ち合わせとかは明日決めよう』
「ああ。おやすみ」
『おやすみ、ルルーシュ』
 通話を終了する手前で聞こえた最後の声は殊更優しく温かかった。
 ほんの少し、顔が見えないことが惜しいと思った。




 その日は翌日が課題の提出日で、どうしてもプリントとワークを終わらさねばならなかった。提出期限に遅れると追加課題が大量に課せられるという無限地獄が待っているのだ。現にルルーシュはその地獄を過去に経験したことがある。だからこそ、もう二度と同じ轍を踏むわけにはいかなかった。
 向かっていた学習机の端に、九時前の時刻を画面に表示した携帯端末を置いている。はまっているゲームもついつい更新が気になるSNSも登録していないから気が削がれることはない。しかし今だけは少し状況が違う。
「……」
 今日は電話の着信がこないのかな、と思う。
 手元から視線を逸らしてちらちらと確認するが、バイブレーションは作動しないし着信音も鳴る気配は依然ない。
 初日は自分から、次の日はスザクから。だから三日目の今日は自分からかける番なのかと、ルルーシュは勝手に想像していた。もしかするとお行儀よく電話着信を待つスザクがどこかに居るのかもしれない。
 そう考えると何となくかけてみたくなる。もし本当にルルーシュからの電話を待っていたとしたら、それはそれで笑い種だ。着信履歴を開くと一番上に表示されていた名前をタップする。発信することに、今日は躊躇はなかった。
『もしもし』
「ああ、俺だ」
『やっぱり来た』
 あはは、と笑い声がしてルルーシュはほっと胸を撫で下ろした。読み通り彼は待っていた。
『ルルーシュの声、聞きたいって思ってた』
「俺もだ」
『……それ、本当?』
「はは、どうだろう」
 ルルーシュは適当に笑ってはぐらかした。
 しかし声が聞きたい、という表現は妙にしっくりきた気がする。とくに昨日の、おやすみと告げるときの声なんかはまた聞いてみたい。なぜ聞いてみたいと思うのかは、自分でも理由は分からないけれど。
『でも声を聞くと顔も見たくなるから困るんだ』
「ビデオ通話にするか?」
『いや、そうじゃなくって、直接会って話がしたいってこと』
「そうか」
『うん。君に会いたい』
「……」
『ご、ごめん。今のやっぱり、なしにして』
 恥ずかしい奴め、と揶揄ってやろうと思ったがうまく声が出せなかった。それを沈黙、無視と勘違いされたらしい。
 顔が見えなくて良かったと、初めて思った。鏡がないから分からないが、顔が火照っている気がしたからだ。
「……別に撤回しなくたっていい。俺もなんか、その気持ち分かるよ」
『そう?』
「会いたいって言われると、俺も会いたくなる」
『それはごめん。明日学校で会えるよ』
「待ちくたびれそうだ」
『あはは、僕もだ』
 スザクの言うことはルルーシュも何となく共感できた。顔を見て話がしたい。電話越しなんかじゃなく、直接会って話がしたい。しかしこの、なぜだか赤くなった顔を見られるのは避けたい。そんな相反する感情に苛まれようとしたところで、もう寝るよ、という声が端末から聞こえた。
「おやすみ」
『おやすみ、ルルーシュ』
 優しい、慈しむような声音だった。もっと聞きたい。もう少し話をしていたかった。

 一昨日や昨日となんら変わらない夜なのに、ルルーシュはそわそわと浮足立つ心持ちで就寝の準備をした。学校で会える彼の顔を早く見たくて、明日が待ち遠しくて仕方ないのだ。”恥ずかしい奴”などと人のことを言えるわけがなかった。